「織田氏」を含むwiki一覧 - 1ページ

上杉謙信 - なんでもある Wiki

桃院(長尾政景室)、謙信義兄弟:上杉憲藤、上杉憲重、上杉憲景子養子:畠山義春、山浦景国、上杉景虎、景勝養女:山浦国清室(朝倉義景の娘)猶子:織田氏テンプレートを表示上杉 謙信(うえすぎ けんしん) / 上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)は、戦国時代に越後国(現在の新潟県)など北陸地

藤原信昌 - 日本通信百科事典

藤原 信昌(ふじわら の のぶまさ)とは、藤原北家利仁流[1]の武将。約数名ほど存在する。藤原信昌 (常竹入道) : 織田信昌とも呼ばれる。織田氏の実質な祖[2]。法号は常竹入道。藤原道意、あるいは織田道意(みちおき)[3][4]の曾孫、行広(三郎右衛門/常行入道)の孫、季広(末

武田信勝_(惣領家) - 日本通信百科事典

織田信長と縁の深い彼も元服の準備が進められた。天正7年(1579年)の11月16日に元服し、「武田信勝」と名乗る。皮肉にも彼が元服した頃から織田氏との関係は悪化している。天正10年(1582月)の3月に、義理の伯父である藤姓木曾氏の当主の木曾義昌(勝頼の妹婿)と武田氏一門の穴山信

織田信友 - 日本通信百科事典

織田 信友(おだ のぶとも)とは、藤原北家利仁流織田氏一門の武将。約2名ほど存在する。織田信友 (大和守) : 通称は彦五郎。織田氏惣領家である清洲織田家一門の織田道広の子とされ、広信・信豊の父、信恵(のぶしげ、信豊の子)の祖父。族父の織田達勝の婿養子となったという。同時に織田信

梁田政綱 - 日本通信百科事典

、同族の尾張国守護である斯波氏(奥州源氏)こと尾張武衛氏(尾張源氏)の当主である斯波義統に仕えていた。後に義統が守護代でもある藤原北家利仁流織田氏本家の織田信友(彦五郎)[2]に弑されると、その分家である勝幡織田家の当主の織田信長のもとに奔ってそのまま仕え、尾張国春日井郡九之坪郷

織田信昌 - 日本通信百科事典

織田 信昌(おだ のぶまさ)とは、藤原北家利仁流織田氏一門の武将。約3名ほど存在する。織田信昌 (四郎三郎) : 通称は四郎三郎。織田信光の次子、信成の弟、長良の父。於市の方の異母兄、信長の従弟にあたる。天正2年(1574年)8月2日に伊勢国長島一向一揆の戦いで、戦死を遂げた。織

石山城 - 御城プロジェクト:RE Wiki

は浦上氏の家臣だが、謀略を駆使してライバルを次々と抹殺。毒殺、暗殺なんでもありで、最後は主君さえ追放して一代で戦国大名へとのし上がった男だ。織田氏が中国地方に進出してきた際も外交戦略を駆使して、毛利氏と織田氏という二大勢力の狭間を巧みに生き抜いた。別所氏や小寺氏といった中国地方の

藤原信長 - 日本通信百科事典

流九条流の藤原道長の孫、教通の子、静円[1](僧侶)・信家・通基の弟、静覚(僧侶)の兄、澄仁(すみひと/きよひと)の父。織田信長 : 利仁流織田氏の当主の織田信定の孫、信秀の子、信広・信時(秀俊/秀利/安房守)の弟、信行(信勝/達成)・信包(信兼)・信治・信与(信興)・秀孝・秀成

徳川家康 - 日本通信百科事典

いった。非業の死を遂げた祖父の清康の後を継いだ家康の父・広忠が家督を継いだ。さらに水野氏を亡父・忠政から継いだ水野信元(於大の方の異母兄)が織田氏に臣属したため、父・広忠は妻の於大の方と離縁して、家康は生母と生き別れた。しかし、松平氏は衰退しており、命脈を保つには近隣の大勢力に依

織田信正 - 日本通信百科事典

織田 信正(おだ のぶまさ)とは、藤原北家利仁流の織田氏一門の武将。約2名ほど存在する。織田信正 (掃部頭) : 通称は嶋三郎、官職は掃部頭。織田信定[1]の子、信秀[1]・信康の弟、信光・信実・信次・於艶の方[2](秋山信友室)の兄、信重・一正の父。織田信正 (大隅守) : 織

織田長政 - 日本通信百科事典

織田 長政(おだ ながまさ)とは、藤原北家利仁流織田氏一門の武将。約4名ほど存在する。織田長政 (大名) : 通称は荘蔵、法号は卜斎。織田信秀の孫、長益(有楽斎)の子、長孝・頼長(左門)・俊長の弟、尚長・宥諌(僧侶)の兄、長定(長貞)・政時の父。織田長政 (織部) : 上記の織田

織田信正_(大隅守) - 日本通信百科事典

家成を果たしている。同年9月に伊勢国長島に、本願寺の一向宗と戦うために、父に従軍した。しかし、翌10月に伯父で岳父でもある信広をはじめ、他の織田氏一門とともに戦死を遂げた。享年21(『伊勢長島の戦い』)。法名は見性寺正誉英厳了盛。そのために、異母弟の信忠が後継者に定められたという

織田信秀 - 日本通信百科事典

織田 信秀(おだ のぶひで)とは、藤原北家利仁流織田氏一門の武将。約2名ほど存在する。織田信秀 (弾正忠) : 織田信定の子、信康・信正・信光・信実・信次・於艶の方[1](秋山信友室)の兄、信広・信時(秀俊/秀利/安房守)・信長・信行(信勝/達成)・信包(信兼)・信治・信与(信興

織田信勝 - 日本通信百科事典

織田 信勝(おだ のぶかつ)とは、藤原北家利仁流織田氏一門の武将。約3名ほど存在する。織田信行 : 別名は信勝/達成、通称は勘十郎。織田信秀の子、信広・信時(秀俊/秀利/安房守)・信長の弟、信包(信兼)・信治・信与(信興)・秀孝・秀成・信照(信輝)・長益(有楽斎)・長利(長俊)の

織田信定 - 日本通信百科事典

織田 信定(おだ のぶさだ)とは、藤原北家利仁流織田氏一門の武将。約2名ほど存在する。織田信定 (弾正忠) : 別名は信貞。法名は月巌入道。織田良信(敏定)の子、敏信・敏宗の弟、秀敏の兄、信秀・信康・信正・信光・信実・信次・於艶の方[1](秋山信友室)の父、同時に信長の祖父でもあ

尾張源氏 - 日本通信百科事典

護も兼ねた義敏の子の義寛(大野義良)の代に尾張国守護になったことではじまる。その後裔に中で尾張国守護になった者がいた。しかし、尾張国守護代の織田氏(藤原北家利仁流)の勃興によって、義統の代に衰退して、その子の義銀(義親)・義康父子の代で没落した。義康の甥で、義銀の孫の親光(親元)

中村の弥右衛門 - 日本通信百科事典

田哲男著『豊臣秀吉』より。↑ 『京都瑞竜寺過去帳』『木下家系図』↑ 信長の祖父である信定の一字を肖(あやか)ったという。関連項目[]豊臣秀吉織田氏蜂須賀氏特に記載のない限り、コミュニティのコンテンツはCC BY-SAライセンスの下で利用可能です。

武田勝頼 - 日本通信百科事典

一門の原氏の当主の原胤元(昌俊/国房)の子。↑ 仁科盛信・葛山信貞・真理姫(真竜院)・信松尼(新館御料人/信松尼)の同母妹。↑ 信勝とともに織田氏の武将で、後に福島正則の家老となる伊藤永光(伊右衛門)に討ち取られた説もある(『津田小平次日記』)。↑ 『武田勝頼 千人万首』先代:武

梁田義長 - 日本通信百科事典

ると同族の斯波氏(奥州源氏)に従い、その一部が尾張国守護となった斯波氏嫡流の尾張武衛氏(尾張源氏)の守護代となり、尾張簗田氏は藤原北家利仁流織田氏と張り合う仲となったという。その後裔には戦国時代に、織田信長に従った梁田政綱(簗田正綱)・広政(広正)父子と斯波氏一門の高水寺氏の家老

武衛氏 - 日本通信百科事典

的には大野斯波家となった。越前国・遠江国守護も兼ねた義敏の子の義寛(大野義良)の代に尾張国守護になったことではじまる。しかし、尾張国守護代の織田氏(藤原北家利仁流)の勃興によって、義統の代に衰退して、その子の義銀(義親)・義康父子の代で没落した。義康の甥で、義銀の孫の親光(親元)

織田信孝 - 日本通信百科事典

織田 信孝(おだ のぶたか)とは、藤原北家利仁流織田氏一門の武将。約2名ほど存在する。織田信秀 (神戸三七郎) : 幼名は勘八丸、通称は三七郎。織田信長の子、信正・信忠の弟、信雄(信意/常真斎)[1]・羽柴秀勝(羽柴秀吉の養子)・津田勝長(信房)・信秀・信高・信吉・信貞・信好・長

藤原頼房 - 日本通信百科事典

門家の当主の大炊御門頼定の子、資頼[4]の兄、頼行・頼俊の父、行忠・頼時・時経の祖父。堀河家の祖となった。津田頼房 : 官職は内蔵助。利仁流織田氏の織田信長の曾孫、信雄の孫、高長(信友)の子、津田雄広(勝広斎)・長頼・長政・信久の弟、頼城・宗訓(僧侶)の父。脚注[]↑ 佐里(すけ

織田信与 - 日本通信百科事典

織田 信与(おだ のぶとも)とは、藤原北家利仁流織田氏一門の武将。約2名ほど存在する。織田信與とも呼ばれる。織田信興 : 別称は信与、通称は彦七郎。織田信秀の子、信広・信時(秀俊/秀利/安房守)・信長・信行(信勝/達成)・信包(信兼)・信治の弟、秀孝・秀成・信照(信輝)・長益(有

藤原助宗 - 日本通信百科事典

斎藤家・吉原斎藤家・河合斎藤家)・美濃斎藤氏(河合斎藤家の庶家)・武蔵斎藤氏(河合斎藤家の庶家)に分かれた。↑ 吉信(忠頼の父、吉宗の祖父。織田氏の祖)・重光の弟、英随(ひでみち/ひでゆき/ひでより)の兄。↑ 公則(公員・兼則・忠念(ただむね)の父)・為延(為輔の父)・為頼(頼基

備中高松城 - 御城プロジェクト:RE Wiki

雨音を聞いているうちに、あの時の記憶が蘇ってきたのですぅ……。「備中高松城水攻め」って知ってますか?毛利氏の拠点だった御城に攻め寄せてきた、織田氏の武将といえば……。「羽柴秀吉」だな。「柴田勝家」だろ。その名前……苦手だけど合ってるのです。むしろ、そっちだったら、よかったのですが

足利義統 - 日本通信百科事典

た。享年43。脚注[]↑ 読みは「のりむね」。義総(よしふさ)の父、義繁・義続の祖父、義綱・義春兄弟(義続の子)の曾祖父。↑藤原北家利仁流の織田氏本家で、織田信長の族父にあたる。広信・信豊の父、信恵(のぶしげ、信豊の子)の祖父。後に族子の信長と『安食の戦い』で近侍の坂井大膳が信長

改易 - アニヲタWiki(仮) 非公式避難所wiki

して残った有楽斎の家*29が断絶の危機になった時には、信雄の子孫が養子入りしたことで改易の危機を免れており、結果として明治維新まで生き残った織田氏の大名家は全て信雄の系統で残ることになった。一方の秀雄はどこにも出仕することなく閉居し、信雄に先んじて死去している。木下勝俊領地:若狭

山形新幹線 - アニヲタWiki(仮) 非公式避難所wiki

仙山線とそれぞれ分岐する。天童天童市の代表駅。将棋の駒と温泉で有名な町だが、最近は山形市のベッドタウン化しつつある。因みに江戸時代は現存する織田氏の中で一番直系に当たる天童藩織田家が治めていた。さくらんぼ東根 東根市の中心街にある。東根温泉へは隣の東根駅が近い。因みに2009年

新幹線変形ロボ シンカリオン THE ANIMATIONの登場人物 - アニヲタWiki(仮) 非公式避難所wiki

ロウのジャンパーを羽織っている。本人の項目も参照。2013年2月8日は、N700Aが営業運転を開始した日である。名字の由来は、愛知県にあった織田氏の居城「清洲城」と思われる。家族の由来は、それぞれ名古屋鉄道の中部空港へのアクセス特急「ミュースカイ」・かつて運行されていた臨時急行→

福井県 - アニヲタWiki(仮) 非公式避難所wiki

の玄関口として重要視されていた。戦国時代には朝倉氏がここを拠点としていたが、織田信長によって滅ぼされた。ちなみに朝倉氏の発祥地は兵庫県但馬、織田氏の発祥地は越前(丹生郡越前町)である。県知事も自認(自虐?)するほど地味な県で、都道府県知名度ランキングでも下位にいることが殆ど。……

天使(ドラゴンボール) - アニヲタWiki(仮) 非公式避難所wiki

余談】大神官役の高塚正也氏は当初織田優成氏と共に全王の付き人役を演じていたが、『未来トランクス編』にて大神官の声を担当してから全王の付き人は織田氏のみとなり、役割が分担された。追記・修正は身勝手の極意を身に付けてからお願いします。この項目が面白かったなら……\ポチッと/#vote

豊臣秀吉(戦国武将) - アニヲタWiki(仮) 非公式避難所wiki

し秀吉が長生きできていれば結果は違っただろう」「信長・秀吉には出遅れたものの、家康の最大の武器は長寿であった事」という声も古くからある。なお織田氏も一代で勢力を失ったが、これは信長の後継者である信忠が本能寺の変で討ち死にしたことが最も大きい。信長は後継者に指名した信忠に天下人とな

清洲三奉行とはなんですか? - クイズwiki

A. 清洲三奉行とは、戦国時代の尾張国守護代、清洲織田氏(大和守家)に仕える奉行三家のことを指します。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B4%B2%E4%B8%89%E5%A5%89%E8%A1%8C

天正壬午の乱とはなんですか? - クイズwiki

A. 天正壬午の乱とは、天正10年(1582年)に山梨県(甲斐国)など武田氏の旧領だった織田氏の領地で起きた一連の争乱のことです。具体的には同年2-3月の織田信長の武田攻め(武田征伐)と、同年6月の本能寺の変後の争乱(特に8-10月の若御子対陣)を本項目にて取り扱います。参考UR

雪夜叉伝説殺人事件(金田一少年の事件簿) - アニヲタWiki(仮) 非公式避難所wiki

を与えることに…。そしてドラマ版では更に…。草野仁飯星景子織田無道ドラマ版のみ。草野氏と飯星氏はニュース番組「ザ・ワイド」*3のキャスター、織田氏は同番組のコメンテーターとして登場。加納殺害のニュースを報道していた。小倉淳ドラマ版のみ。芸能レポーターとしてエピローグに登場。不破耕

本人役(配役) - アニヲタWiki(仮) 非公式避難所wiki

な量。 -- 名無しさん (2021-05-29 02:18:22) ユーリ!!! on ICEの織田信成と、ステファン・ランビエール 織田氏はまだしも、ランビエールが日本のアニメに出演することなんてもう無いだろうな… -- 名無しさん (2021-05-29 03:02

今川館 - 御城プロジェクト:RE Wiki

子、氏政に。氏康の娘は今川義元の子、氏真(うじざね)に。それぞれ輿入れして、姻戚関係を築き上げたのじゃ。これにより後顧の憂いを絶った義元は、織田氏攻略に全力を注げるようになった。1560年、大軍を率いて進発した義元じゃったが、尾張国桶狭間で織田信長の奇襲を受けると、そのまま首を打

坂本城 - 御城プロジェクト:RE Wiki

すイベント2[]坂本城城主の明智光秀様は、土岐氏の支流明智氏のお生まれです。将軍家に仕えていたのですが、十五代将軍義昭が信長公に追放されると織田氏の直臣となりました。光秀公は茶の湯や和歌に秀でた文化人でありました。茶湯の天下三宗匠と称せられた津田宗及との茶会や、里村紹巴(さとむら

岩櫃城 - 御城プロジェクト:RE Wiki

害。武田氏は滅亡するんですけど、もしかしたら、運命が変わっていたかもしれないんです。当時、岩櫃城は真田幸隆の三男、昌幸が治めてたんですけど、織田氏が攻め込んでくると、勝頼に岩櫃城への避難を勧めてるんですよ。昌幸は、勝頼のために仮御殿の建設を始めていたらしいです。ですが、勝頼は岩櫃

岐阜城 - 御城プロジェクト:RE Wiki

奮戦したんだな。あっけなかったんだな。できる限りのことはしたつもりだ。天が味方しなかったのだ。ほどなく、秀信は亡くなった。享年26。こうして織田氏の直系は絶え、信長の「天下布武」の野望は岐阜城と共に消え去ったのだ……。イベント3を表示する/隠す特に記載のない限り、コミュニティのコ

鳥取城 - 御城プロジェクト:RE Wiki

きょうを食べる手が止まらないのです……。それと言うのも、1580年……羽柴秀吉が鳥取城に攻めてきたことが事の発端です……。当時、鳥取城は……織田氏に敵対する毛利氏の御城でした……。この時……秀吉は力攻めをせず……兵糧攻めに持ち込みました。事前に御城周辺の商人から米を高値で買い取っ

四天王ポジション - アニヲタWiki(仮) 非公式避難所wiki

西美濃地域における国人領主クラスの家臣たちで構成された西美濃十八将も存在する。○山名四天王垣屋続成、田結庄是義、八木豊信、太田垣輝延毛利氏、織田氏が台頭すると、2派に分かれ抗争を繰り広げ、山名氏の衰退をさらに加速させた。○浅井の四翼磯野員昌 大野木国重 野村定元 三田村秀俊浅井長

交代寄合 - なんでもある Wiki

500石津軽家陸奥国黒石4,000石陸奥弘前藩分家 後に本藩より6,000石分与され10,000石となり諸侯に列する津田家美濃3,011石余織田氏一族 寄合妻木家美濃妻木7,500石妻木頼忠-頼利-頼次(無嗣断絶)無嗣断絶後、頼次の弟・幸広が土岐郡大富500石から妻木上郷500石

三河国 - なんでもある Wiki

年:矢作川の戦い、南朝方(新田義貞・脇屋義助) x 北朝方(足利直義・高師泰)1540年 - 1549年 : 安城合戦、松平氏・今川氏 x 織田氏1542年:第一次小豆坂の戦い、織田信秀 x 今川義元1548年:第二次小豆坂の戦い、今川・松平連合軍(松平広忠、太原雪斎、朝比奈泰能

徳川太平記 - いにしえwiki

著者は小宮山綏介。第一編東照宮家康公*1家康公の略伝大高城に兵糧を入る幷大高城の退口織田氏と講和一向宗の乱姉川の戦三方原の敗軍長篠の戦堺の危難長湫の戦豊臣氏と講和小田原陣幷江戸入城秀吉公の薨去伏見の騒動諸将三成を憎む家康公会津を征す三成兵を挙く幷伏見の落城諸将岐阜城を攻む秀忠公上

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