「国守」を含むwiki一覧 - 1ページ

岩手氏_(甲斐国) - 日本通信百科事典

とする。甲斐国山梨郡岩手郷[1]を拠点とした。目次1 概要2 その後3 歴代当主3.1 和信系3.2 信政系4 脚注5 関連項目概要[]甲斐国守護の武田信縄(信玄の祖父)は、生来病弱であったことから、父の信昌に疎まれて、次子の油川信恵を後継者にする動向が見られた。さらに信縄の生母

殺戮のディープブルー(金田一少年の事件簿) - アニヲタWiki(仮) 非公式避難所wiki

ていることに。どうしてだ。どうして……三井文也(アニメ版:遠藤由明)この事件の真犯人「キング・シーサー」。「ディープブルー」の真の発見者・那国守彦に出資していた事業家の息子であった。しかし遺跡の発掘という夢を叶えかけた父親は、その功績を藍沢グループ横取りされた上に経営していた会社

尾張源氏 - 日本通信百科事典

経の玄孫の義建の代で嗣子がなく、義建の族弟で斯波氏一門の越前大野氏の嗣子の義敏を養子に迎え、以降は血筋的には大野斯波家となった。越前国・遠江国守護も兼ねた義敏の子の義寛(大野義良)の代に尾張国守護になったことではじまる。その後裔に中で尾張国守護になった者がいた。しかし、尾張国守護

世良田義政_(伊予守) - 日本通信百科事典

(下野源氏)の惣領家の足利尊氏(高氏)に従い北朝方として、弟の義周とともに功績を残して、伊予守を拝命した。1364年(貞治3年)夏4月に上総国守護になり、鎌倉足利家(鎌倉公方)の足利基氏(尊氏の末子)に仕えた。しかし、同年秋7月27日ごろに、義政が新田氏惣領家と称して南朝と通じる

武田信守 - 日本通信百科事典

去した。武田信守 (安芸武田氏) : 安芸武田氏の初代当主の武田氏信(信頼)の孫、信在の子、信繁・蠣崎季繁[3]室の兄。但馬国・因幡国・伯耆国守護の山名氏[4]が長門国・周防国・安芸国・備後国・石見国守護の大内義弘を討ち取った将軍の足利義満より、安芸国守護に任命された。大内氏から

武衛氏 - 日本通信百科事典

経の玄孫の義建の代で嗣子がなく、義建の族弟で斯波氏一門の越前大野氏の嗣子の義敏を養子に迎え、以降は血筋的には大野斯波家となった。越前国・遠江国守護も兼ねた義敏の子の義寛(大野義良)の代に尾張国守護になったことではじまる。しかし、尾張国守護代の織田氏(藤原北家利仁流)の勃興によって

新田義貞_(左近衛中将) - 日本通信百科事典

奉じて、それを補佐した中将・二条為冬[40]とともに12月に相模国の箱根・竹ノ下に向かった。しかし、豊後国の豪族である大友貞載[41]と近江国守護で、宇多源氏(近江源氏)の当主である佐々木道誉(高氏)とその一族の塩冶高貞らの裏切りで大敗し、二条為冬は戦死し、義貞は親王らを護衛しな

松浪の新左衛門 - 日本通信百科事典

ないのに、実に惜しいことだ」と言われたという[4]。さらにその様子を見たかつての常在寺の住職である日運(日護房/南陽房)[5]は一族で、美濃国守護の土岐氏(美濃源氏)の家老で、小守護代でもある長井長弘(利道/政利/長広)[6]に頼み込んで、足軽として召し抱えるように運動した。それ

大島義政 - 日本通信百科事典

に同族の足利尊氏(高氏)が後醍醐天皇から離反した後に相模国箱根での『竹ノ下の戦い』に義貞に従っていた。その後は義貞の命で、尊氏に帰順して周防国守護代となり、長門国守護の大内長弘(鷲頭長弘)とともに、南朝方の軍勢と防衛線を繰り返していた。1338年に義貞が、越後国藤島の灯明寺畷で戦

里見氏_(源氏) - 日本通信百科事典

あたる義胤は、惣領家の新田義貞に従って、『鎌倉攻め』に義貞の左腕として活躍して、北条得宗家を滅ぼした功で、後醍醐天皇から伊賀守に、さらに越後国守護にも任命された。1338年に義貞が越前国藤島の灯明寺畷で戦死を遂げると、義胤は同族の足利尊氏(高氏)に徹底的に抗戦するも、義胤の族弟で

男塾死天王 - アニヲタWiki(仮) 非公式避難所wiki

用。鋭い手刀による突き。烈舞硬殺指はこの技の強化版であり、前述の二作品では未だ体得できていないという理由でこちらを使用する。センクウCV:村国守平(アニメ)・置鮎龍太郎(PS3ゲーム)魍魎拳と勢力を二分した暗黒拳「戮家殺人拳」の使い手。死天王の中でも最も俊敏で多彩な技を持つ。真上

源成頼 - 日本通信百科事典

(頼継)・六角頼真[3]・大桑定頼(貞頼)・佐良木尚頼[4]・景頼(上坂五郎)・長山元頼(小里基頼)・万喜頼房(萱津六郎)の父。生母は、三河国守護の足利氏(下野源氏)一門の一色義遠(義政/義枚(よしひら)/饗庭元明)の娘である。美濃国守護代の斎藤利永[5]らに擁立されて、土岐氏惣

鹿児島県 - アニヲタWiki(仮) 非公式避難所wiki

薩摩・日向三国の守護職や近衛家領荘園島津荘の管理者の地位などを得る。その後、鎌倉の権力闘争に巻き込まれて一度は失脚するも、すぐに復権して薩摩国守護家として鎌倉時代を過ごす。南北朝時代には足利氏に与して大隅国守護職を取り戻す。戦国時代のはじめ頃には分裂しそれぞれが台頭。島津家もこの

肥田氏_(美濃国) - 日本通信百科事典

世したために、光忠系も途絶えたが、詮長は族祖父の土岐頼清(頼宗)の孫の詮直(あきただ)[3]を婿養子に迎えて、「肥田詮直」と名乗り、彼は尾張国守護となった。後に詮直は、惣領家で従弟でもある美濃国守護の土岐頼益(頼忠の子)の軍勢と戦い、戦死を遂げて、嗣子がなく断絶した。江戸時代に、

織田信友 - 日本通信百科事典

田道広の子とされ、広信・信豊の父、信恵(のぶしげ、信豊の子)の祖父。族父の織田達勝の婿養子となったという。同時に織田信長の族父にあたる。尾張国守護代をつとめて、家老の坂井大膳とともに政務を執り仕切った。これを不快感とする尾張国守護の斯波義統は、信友らを粛清すべく信長と図ったが、事

里見氏 - 日本通信百科事典

衛門と称して、遠縁筋で常陸国水戸藩主の水戸徳川家に仕えて、その家老となった(常陸源氏)。里見氏 (周防国) : 周防里見氏とも呼ばれる。周防国守護であった上記の源姓里見氏一門の上野大島氏の当主の大島義政の系統と仮冒した氏族。本貫は不詳で、『系図纂要』の著者の飯田忠彦の父の生田兼門

西郷氏_(三河国) - 日本通信百科事典

門の美濃長屋氏[2]の庶家。西郷稠頼(つぐより/ちかより/しげより、清海入道)[3]を祖とする。父の盛頼の代から足利氏(下野源氏)一門で三河国守護の仁木義長に仕えて、三河国守護代をつとめ、三河国額田郡岡崎郷[4]にある岡崎城(龍燈山城)を拠点としていたが、奥三河から進出した三河松

諏訪頼重 - 日本通信百科事典

: 初名は盛継/盛高、法名は照雲入道。諏訪盛重あるいは、宗経(直性入道)の子、時継の父。南北朝時代に後醍醐天皇の『建武の新政』によって信濃国守護となった小笠原貞宗(信濃源氏)と対決して、滅びた北条氏の当主である北条時行(高時の子)を擁立した(『中先代の乱』)。しかし、足利尊氏配

真蹟遺文で使われている漢字の名詞ランキング_3文字以上編 - あなごクンのうぃき

気1日蓮又復是1日蓮今度命1日秀等彼等1日比日本国1日本第十六1日本秋津嶋1日本国最初1日本国数年1日本国当世1日本国建立1日本国安房1日本国守護1日本国大体1日本国北海1日本国先代1日本国亦云1日本国亡国1日本国中為1日本国三分1日本国一時1日本国一同1日本三箇国1日本七百年1

武田信季 - 日本通信百科事典

夭折した武田信季武田 信季(たけだ のぶすえ、生没年不詳)は、安芸武田氏の第4代当主の武田信繁の孫、若狭国守護で若狭武田氏の初代当主の信栄の子。概要[]父が、遠縁筋の足利将軍家の足利義教の命で、足利氏(下野源氏)一門の源姓一色氏(三河源氏)の当主の若狭国守護の一色義貫(義範)を謀

因幡源氏 - 日本通信百科事典

氏の祖)を祖とする。上野国新田荘世良田郷(現在の群馬県太田市世良田町)を拠点とする。曾孫の義政が同族の足利氏を中心とする北朝方に従いて、上総国守護となった。この系統は上記の同族の山名氏が因幡国守護として赴任すると家老として同伴して、因幡得川氏(因幡森本氏)の祖となり、同国邑美郡(

土岐持益 - 日本通信百科事典

氏(摂津源氏)流土岐氏(美濃源氏)一門の人物で、約3名ほど存在する。土岐持益 (池田次郎) : 通称は池田太郎、官職は美濃守/左京大夫。美濃国守護の土岐頼忠の孫、頼益の子、持兼・氏慶(植村次郎)[1]の父、教益(幼名は亀寿丸、持兼の子)の祖父。子の持兼・氏慶が相次いで早世し、孫の

伊勢源氏 - 日本通信百科事典

る。同族に能登吉見氏(能登源氏)・石見吉見氏(石見源氏)[1]があった。世保氏 : 伊勢土岐氏とも呼ばれる。土岐氏(美濃源氏)の庶家で、美濃国守護の土岐康行の子の世保康政を祖とする。上記の北畠家とは抗争を繰り返した。康政の子の持頼は遠縁筋の足利将軍家の足利義教の密命を受けた足利氏

大島氏_(上野国) - 日本通信百科事典

は後醍醐天皇から兵庫頭に任じられ、武者所に属した。その後の義政は、義貞の命で同族の足利氏(下野源氏)の棟梁の足利尊氏(高氏)に帰順して、周防国守護代となった。1338年に越前国藤島の灯明寺畷で義貞が戦死を遂げると、義政はその訃報に悲嘆しつつ、そのまま尊氏に仕えて1344年に40歳

京極秀綱 - 日本通信百科事典

京極 秀綱(きょうごく ひでつな)とは、宇多源氏流佐々木氏(近江源氏)一門の六角氏の系統の武将。約2名ほど存在する。京極秀綱 (上総国守護) : 佐々木秀綱とも呼ばれる。京極高氏(道誉入道)の子、秀宗・高秀の兄、秀詮・氏詮の父。上総国守護となった。京極高清 : 別名は秀綱/高秀、

大井田氏 - 日本通信百科事典

ある義和(義興の子)を支えて、同族である鎌倉足利家(鎌倉公方)の足利氏満(基氏の子)の支援を受けたという。後に新田氏惣領家が没落すると、越後国守護の上杉氏[3]麾下の小豪族として存続し、室町時代から戦国時代にかけては越後国守護代の越後長尾氏[4]と代々、姻戚関係をもった。戦国時代

大島義高 - 日本通信百科事典

大島 義高(おおしま よしたか)とは、新田氏(上野源氏)流源姓里見氏の庶家の上野大島氏一門の武将。約2名ほど存在する。大島義高 (三河国守護代) : 大島義政(義昌)の子、義世・守義・義之・守之の父、義量(義世の子)の祖父。父の死後に同族の足利尊氏(高氏)に帰順して、三河国守護代

松平信光_(惣領家) - 日本通信百科事典

親に仕えたと言われる。1461年(寛正元年)に、三河国の保久城の山下庄左衛門を滅ぼした。 1465年4月(寛正6年5月)に、足利氏一門の三河国守護の細川成之[16]の要請によって、信光は貞親の被官として室町幕府の第8代将軍の足利義政の命により同国額田郡一揆を鎮定した[17]。さら

平賀氏 - 日本通信百科事典

の御家人らとともに西国に下向した。そのまま所領の安芸国高屋保(現在の広島県東広島市高屋町)に御薗宇城を築いて居城とした。戦国時代になると出雲国守護の尼子氏(出雲源氏)と長門国・周防国守護の大内氏と戦いながら、土師姓大江氏流の毛利氏の傘下に入り、明治時代まで在続した。なお、著名な平

斯波勝義 - 日本通信百科事典

勝義(しば かつよし、生没年不詳)は、斯波氏(奥州源氏)流尾張武衛氏(尾張源氏)一門の武将。官職は土佐守・修理亮。武衛勝義とも呼ばれる。越前国守護の斯波高経[1]の曾孫の義勝(修理大夫/武衛義勝)[2]の末裔で、久義(孫左衛門)の子[3]、柴田勝家室[4]の父。概要[]仔細は定か

岩松頼宥 - 日本通信百科事典

直義(高国)が東進した際には、弟の直国とともに直義に従って『坂本の戦い』などで活躍していった。1338年には伊予国の南朝方討伐に向かい、伊予国守護を一時的につとめた。やがて、後任である同族の細川氏(三河源氏)一門の細川頼有と変わると、頼宥は『観応の擾乱』では、尊氏派についたため、

大舘氏 - 日本通信百科事典

り、越智姓河野氏一門の土居氏・得能氏と連携するなど南朝方として奔走し、その功績を称賛した後村上天皇(後醍醐天皇の皇太子)によって、氏明は伊予国守護に任命され、伊予国司の四条有資(藤原北家魚名流の四条家一門)らと共闘した。しかし、脇屋義助の病没後、南朝方は劣勢となり、1340年9月

群書類従(補任部) - いにしえwiki

鎌倉幕府 048 足利家官位記 あしかがけかんいき 049 関東評定伝 かんとうひょうじょうでん 050 若狭国守護職次第 わかさのくにしゅごしきしだい 050 若狭国税所今富名領主代々次第 わかさのくにさいしょいまとみみょうりょうしゅ

長氏とはなんですか? - クイズwiki

国(現在の広島県)に所領を与えられたことから始まる。その後、長田氏は安芸国を中心に勢力を拡大し、室町時代に入ると、長田頼次(よりつぐ)が安芸国守護となり、戦国大名としての地位を確立した。長田氏は、安芸国を中心に勢力を拡大し、戦国大名としての地位を確立した。参考URL:https:

島田満基 - 日本通信百科事典

1](五郎)[2]の孫、満清(小五郎)の子。概要[]美濃島田氏(美濃嶋田氏)は美濃国多芸郡島田(嶋田)郷[3]を拠点とした。父の満清は、伊勢国守護でもあった又従兄の世保持頼(持量/持数)[4]に従って、遠縁筋の足利将軍家の足利義教と対立しつつも、1440年夏に、義教の命で足利氏(

平盛康 - 日本通信百科事典

の兄。↑ 現在の福岡県北九州市小倉南区長野大字↑ 『兵範記』↑ 北条義時の曾孫、金沢実泰(実義)の孫、実時の子。↑ 政顕の孫、規矩高政(肥後国守護)の子。↑ 『鎮西要略』↑盛良・盛重の父。この記事は 『平盛康』 のための曖昧さ回避ページです。下記は同じタイトルを共有しているページ

平将門 - 日本通信百科事典

廷は将門を叙位任官して役立たせようと建議していたようである。将門の反乱[]この頃、武蔵権守となった興世王は、新たに受領として赴任してきた武蔵国守・百済貞連と不和となり、興世王は任地を離れて将門を頼るようになる。また、常陸国で不動倉を破ったために追捕令が出ていた土豪の藤原玄明[22

平維基 - 日本通信百科事典

孫、維将の子、維時の弟。↑盛忠・宗盛・貞度の弟。↑ 文永4年(1267年)に、北条得宗家の命で、阿波小笠原氏(信濃源氏)の初代当主である阿波国守護の小笠原長房によって、討ち取られた。この記事は 『平維基』 のための曖昧さ回避ページです。下記は同じタイトルを共有しているページへのリ

山名氏 - 日本通信百科事典

(義節)の系統。上野国多胡郡山名郷(現在の群馬県高崎市北部)を拠点とした。後に惣領家の足利氏に従い、四職となり時氏の代に因幡国・伯耆国・但馬国守護として赴任した。上野源氏・因幡源氏とも呼ばれる。庶家に因幡清水氏・因幡海老名氏・因幡宮田氏・因幡南条氏・因幡渡辺氏・因幡志賀氏・因幡三

平貞基 - 日本通信百科事典

名ほど存在する。脚注[]↑盛忠・宗盛・貞度の弟。↑ 文永4年(1267年)に、北条得宗家の命で、阿波小笠原氏(信濃源氏)の初代当主である阿波国守護の小笠原長房によって、討ち取られた。この記事は 『平貞基』 のための曖昧さ回避ページです。下記は同じタイトルを共有しているページへのリ

岡田氏_(美濃国) - 日本通信百科事典

た。重賢の子の重篤は通称は岡田与七郎(与次郎)であり、彼の代に尾張国に移住した。その重篤は、はじめ足利一門の斯波義廉に属していたが、後に尾張国守護代の織田敏信(左馬助)に仕えた。重篤の孫が重善(しげただ、重頼の子)で、織田信秀(敏信の甥)に仕えて、天文11年(1542年)の8月に

小栗氏 - 日本通信百科事典

の義光流世良田氏の系統である三河松平氏(徳川氏/三河源氏)の岩津松平家の庶家。15世紀ごろ『上杉禅秀の乱』・『享徳の乱』の影響によって、常陸国守護の源姓佐竹氏(常陸源氏)、あるいは藤姓佐竹氏(常陸藤原氏)の圧迫を受けて、前述のように三河国に逃れた上記の大掾氏流の小栗正繁(又市)の

後閑氏 - 日本通信百科事典

2年(1556年)に寺領若干を寄進したという[5]。永禄10年(1567年)の景純の子の信純(信継[6]/宗重(宗繁)[7])のときに、越後国守護であり関東管領の上杉憲政を奉じて、関東に出兵した上杉謙信(長尾景虎/政虎/輝虎)の侵略を受けて、その幕下にくだった[8]。信純には三人

坂東八氏 - 日本通信百科事典

の外甥で、家氏の外従弟にあたるため、源姓里見氏の後継者と称した説もある。↑ 1193年9月(建久4年8月)に里見氏の祖である里見義俊が、安房国守護となり、以降から里見氏は同国平郡(平群郡)を拠点としたことを肖(あやか)ったともいわれている(『姓氏』(著者:丹羽基二・監修:樋口清之

大友氏 - 日本通信百科事典

能直(古庄冠者)を祖とする。能直は藤原北家秀郷流の近藤能成の婿養子となった。相模国足柄郡(足柄上郡)大友郷[3]を拠点とした。鎌倉時代に豊後国守護となり、豊前国・筑後国などを支配して、多くの庶家を輩出した。脚注[]↑ 『和名抄』↑ 現在の滋賀県大津市穴太大字/南滋賀大字/滋賀里大

大井田氏経 - 日本通信百科事典

ず氏経は越後国へと帰っていった。その後、氏経は義貞の子の義宗を擁立し、城砦を築きあくまでも南朝方を貫こうとした。これに対して、室町幕府は信濃国守護の小笠原貞宗(信濃源氏)に軍令を発し、同じころに関東管領上杉憲顕も坂東八ヶ国の麾下に出撃の下知を下し、みずからも大軍を率いて鎌倉を発し

大嶋光俊 - 日本通信百科事典

大嶋氏(美濃大島氏)[2]一門の武将。約2名ほど存在する。大嶋光春 : 別称は光俊。光泰の父、光宗(光時)の祖父、光義(光吉)の曾祖父。三河国守護代である源姓大島氏の最後の当主の大島義量の婿養子となり、その後を継いだ。大嶋光定 : 別称は光俊。上記の大嶋光義の子、光成・光政(光重

小山田信有 - 日本通信百科事典

田信有 (出羽守) : 通称は玄三郎。上記の信有(越中守)の子、信親(虎親)の弟、信能の兄、信有(弥三郎)・信茂(のぶもち)の父。生母は甲斐国守護の武田信縄の娘で、信虎(信直)の外従弟、晴信(信玄)の外従父にあたる[2]。小山田信有 (弥三郎) : 通称は弥三郎。上記の信有(出羽

宇野氏 - 日本通信百科事典

夫」と称したことがはじまりという。庶家に小寺氏[8]・播磨黒田氏[9]があった。宇野氏 (周防国) : 周防宇野氏とも呼ばれる。長門国・周防国守護の大内氏[10]の当主の大内貞長の次男の清致が周防国吉敷郡宇野庄(現在の山口県山口市上宇野令)を拠点として、宇野氏と称した。脚注[]↑