「位下」を含むwiki一覧 - 1ページ

承元御鞠記 - いにしえwiki

御幸。御車同じき所によす。暫有て上皇出御。次相國。烏帽子直衣。公卿の座につく。次上七人。參議從三位行右近衞權中將兼美濃權守藤原朝臣忠信。正四位下行右近衞權中將源朝臣有雅。前陸奧守從四位上藤原朝臣宗長。雖為重服勘先例奉別勅着吉服。從四位下行左近衞權少將藤原朝臣雅經。小紀。紀内所行景

村岡藩 - なんでもある Wiki

、華族制度の発足に伴って男爵に叙せられ、後に貴族院議員にも選出されている。歴代当主[編集]山名家交代寄合6700石→1万1000石豊国〔従四位下、中務大輔〕豊政矩豊〔従五位下、伊豆守〕隆豊〔従五位、弾正忠〕豊就〔従五位下、因幡守、大番頭、寺社奉行〕豊暄〔従五位上、中務少輔〕義徳〔

高家_(江戸時代) - なんでもある Wiki

たのが、役職としての高家の起源である。ただし、当初は役職として「高家」の名称はなかった。慶長13年(1608年)12月24日、吉良義弥が従五位下侍従・左兵衛督に叙任され、大沢基宿とともに典礼の職務に加わった。のちに高家職就任時に従五位下侍従に叙せられる慣行ができたため、さかのぼっ

平良兼 - 日本通信百科事典

ら の よしかね/よしむね、? - 939年7月(天慶2年6月))は、平安時代中期の武将。通称は上総太郎あるいは、上総次郎[1]。官位は従六位下・上総権少掾。丹姓平氏の棟梁である平直良の庶長子あるいは次男で、生母は家女房である[1][2]。同母弟に良広、異母弟に良将・良文らがいる

上位互換/下位互換(TCG) - アニヲタWiki(仮) 非公式避難所wiki

」という特徴があり、どちらを優先するかはデッキや環境との相談になる。相互互換のうちカード名しか違わないものは特に完全相互互換と呼ぶ……が、上位下位互換と比べると余り使われていない言葉であり、多くのTCGでは後述の同型再版と呼ぶ事が多い。単体で見た場合、完全相互互換のカードは能力的

悪魔の下目使い (KI) - P(ピー)のスマブラCPUトナメ実況@wiki

神の鉄槌」によって悪は裁かれた。第4回とは逆に、第5回では出場選手決めの投票に敗れた(1位幼き弟のソーセージ・2位世界のrekuiemu・3位下目使い)。第6回では紅きポイゾネサスくんを破るなど、高い実力を発揮。他のカービィ勢が全員敗退した中、最後のカービィ勢として躍動。準々決勝

深浦康市 - アニヲタWiki(仮) 非公式避難所wiki

んだ一人、三浦弘行は1994年の時も同点だったりする)2004年度、A級順位戦で最終局で羽生に敗れ、4勝5敗。5人が並んでいたが昇級直後で順位下位だった深浦が降級。2006年度、またもA級順位戦で4勝5敗。6人が並んでいたが昇級直後で順位下位だった深浦が降級。(2年ぶり2回目)2

安賀両家 - アニヲタWiki(仮) 非公式避難所wiki

暦を輸入、宿曜道(密教の一分野の占星術)と連携、暦道における地位を確立。陰陽頭にまで出世し、さらに天文博士にも就任。陰陽師としては異例の従四位下に叙され、陰陽、暦、天文を究め「三道博士」と称された。晴明は970年頃保憲の後任の天文博士となり、977年に保憲が没して以降急速に陰陽師

ダズ・ボーネス - アニヲタWiki(仮) 非公式避難所wiki

が見えない。まあこの2つは攻撃力より応用の幅の関係っぽいけど。 -- 名無しさん (2019-10-02 20:56:43) まあ実の上位下位が必ずしも使い手の強さの差にはならないとも言われてるしな -- 名無しさん (2019-12-16 21:22:39) 賞金稼ぎ時

牧野忠成_(越後長岡藩初代) - なんでもある Wiki

月16日(1655年1月23日)改名一法師(幼名)、新次郎(仮名)、忠成戒名宝性院殿前四品仙譽月卦正心大居士墓所新潟県長岡市の普済寺官位従五位下・駿河守、右馬允、従四位下侍従幕府江戸幕府主君徳川秀忠藩上野大胡藩主→越後長峰藩主→越後長岡藩主氏族牧野氏父母父:牧野康成、母:酒井忠次

青山宗俊 - なんでもある Wiki

宝7年2月15日(1679年3月26日)改名伊勢千代(幼名)、宗俊戒名幡竜院殿義辺寸忠大居士墓所京都府京都市北区紫野大徳寺町の大徳寺官位従五位下、従四位下、因幡守幕府江戸幕府 書院番頭、大番頭、大坂城代主君徳川家光、家綱藩信濃小諸藩主、摂津国・河内国内、遠江浜松藩主氏族青山氏父母

堀江藩 - なんでもある Wiki

家と堀江領[編集]第10代・基宿は、藤原氏の血脈に連なる名門であるとともに、母が皇族木寺宮の血を引くことから、天正16年(1588年)に従五位下・侍従に叙任された。関ヶ原の戦い後は敷知郡堀江村など6か村で1550石を安堵されている。江戸幕府と朝廷との折衝に当たり、吉良義弥とともに

織田信正_(大隅守) - 日本通信百科事典

応えて近江国の観音寺城で籠城する六角義賢を撃破して戦功を挙げた(『観音寺城の戦い』)。そのために、将軍の義昭から感状と太刀一振りを賜り、従五位下・大隅守・帯刀先生に叙任された。天正2年(1574年)6月に、従五位上・主膳正・侍従に昇任して、正親町天皇から菊桐紋と珍器を拝領した。翌

温泉 - Gravity Wiki

録貞観2年(860年)2月8日:進肥前国温泉神並従五位上 (長崎県雲仙温泉)貞観5年(863年)10月7日:授下野国従五位上勳五等温泉神従四位下 (栃木県那須湯本温泉)貞観9年(867年)2月26日:大宰府言 従五位上火男神従五位下火売神二社在豊後国速見郡鶴見山嶺 山頂有三池 一

真蹟遺文で使われている漢字の名詞ランキング_3文字以上編 - あなごクンのうぃき

円頓義斉1切守屋立四十九院1分別功徳品十九行1出釈氏宮始得菩提1出生三世諸如来種1出来別時意趣法門1処々開廃名無量義1凡有心者是正因種1円教位下真実之説1内有弟子解甚深義1兼為我修種種功徳1典籍風謡実無連類1具足正信能修習道1具足成就第五悪字1具足千万光相如来1其雨普等四方倶下1

新撰武家百人一首 - いにしえwiki

知れ 岩切りたつる 宮柱 動かぬ国は 神のまに/\ (主殿頭源忠綱朝臣)019.水上の 清き流を 堰き入れて 末も涼しき 滝の白糸 (贈従四位下藤原宗矩朝臣)020.悼さして ゆく手や寒き 川の瀬に 初雪積る 舟ぞいさよふ (源正利)021.入る方の 山な恨みそ 武蔵野の 草にも

平維叙 - 日本通信百科事典

の変』で暗躍した平維叙平 維叙・維敍(たいら の これのぶ、生没年不詳)は、平安時代中期の武将で、武家貴族(軍事貴族)でもあった。官位は従四位下・前兵衛尉・右衛門少尉・陸奥守・常陸介・検非違使・上野介。桓武平氏の棟梁である平貞盛の嫡長子[1]で、生母は関口貞信の娘[2]。弟に維将

平善棟 - 日本通信百科事典

たいら の よしむね/よしむねおう、804年(延暦23年)? - 829年7月26日(天長6年6月22日)は、平安時代前期の皇族。官位は従四位下・正親正。桓武平氏(公家平氏)の祖のひとり。父は葛原親王(かずはるしんのう、桓武天皇の第5皇子)、生母は藤原道雄(藤原北家)の娘。同母兄

新田義貞_(左近衛中将) - 日本通信百科事典

延元3年/建武5年閏7月2日))は、鎌倉時代末期~南北朝時代にかけての新田氏(上野源氏)の棟梁・御家人・武将である。通称は小太郎。官職は正四位下・左馬助・上野介・越後守・播磨守・左衛門佐・左兵衛督・左近衛中将[2]。義貞自身は新田氏代々の宗教である浄土門(浄土教)を信仰していた。

イビルジョー(MHW) - モンスターハンター攻略Wiki

- ?%素材名 - ?%部位剥ぎ取り回数?回下位素材素材名 - ?%素材名 - ?%上位素材素材名 - ?%素材名 - ?%部位破壊[]部位下位素材素材名 - ?%素材名 - ?%上位素材素材名 - ?%素材名 - ?%部位下位素材素材名 - ?%上位素材素材名 - ?%落し物

石河氏 - 日本通信百科事典

。『新撰志』の厚見郡鏡島村条に「古城跡は市場にあり。城主は石河駿河守光清(法名・三関入道)はじめてここに住す。それ、多田満仲の子の大和守従四位下・頼親の末孫にて世々当国の住人也…」と記されている。前述の『新撰志』によれば、光清の子の家光(光信/光延/江雲入道)は織田信長に仕えた。

源満仲 - 日本通信百科事典

みなもと の みつなか/みつあき/みつな、?[1] - 長徳3年8月27日(997年10月6日))は、平安時代中期の皇族・武将。官職は、従四位下・中務少輔侍従・左馬助を経て、正四位下・鎮守府将軍・上総介・常陸介・武蔵守・摂津守・越後守・越前守・下野守・美濃守・信濃守・伊予守・陸奥

七宝(犬夜叉) - アニヲタWiki(仮) 非公式避難所wiki

ずの犬夜叉なのは一体なぜなのか……七宝も終盤まで知らなかったが、狐妖怪の中には実力を位で測る『狐妖怪位』というものがある。狐妖怪位とは『小初位下』から始まり『正一位』に終わる全30位。これは年に一度の『妖術昇級試験』をクリアすることで昇級するもので、試験の難易度は非常に高いという

新田義興_(左近衛将監) - 日本通信百科事典

(にった よしおき、1330年(元徳2年) - 1358年11月11日(正平13年/延文3年10月10日))は、南北朝時代の武将。官位は従五位下・左兵衛佐・左近衛将監。幼名は徳寿丸。新田氏(上野源氏)の当主の新田義貞の次子、生母は上野国一宮抜鉾神社の神主の天野時宣の娘、義顕の異母

徳川秀忠 - 日本通信百科事典

(くだんのひと)宜しく征夷大将軍に為すべし者(てへり)慶長10年(1605年)4月16日 中務大輔兼右大史算博士小槻宿禰孝亮(壬生孝亮、従五位下)奉(うけたまは)る将軍・秀忠は江戸城に居住し、駿河国駿府城に住む大御所・家康との間のいわゆる「二元政治」体制となるが、秀忠は本多正信ら

新田義重_(大炊介) - 日本通信百科事典

年)[1] - 1202年2月8日(建仁2年正月14日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。通称は新田太郎。法名は上西入道。官職は従五位下・大炊介・木工介・左衛門尉・鎮守府将軍[2]。ちなみに義重自身は浄土門(浄土教)を信仰していた。陽成源氏(河内源氏)流の新田氏(上野源氏

平貞盛 - 日本通信百科事典

。同時に武家貴族(軍事貴族)であった。『平将門の乱』で外従弟(叔母の子)の平将門を討ち取ったことで著名である。通称は「常平太郎」。官位は従四位下・左馬允・鎮守府将軍・常陸大掾・陸奥守・丹波守。平高望(高視王)の孫で、平良望(国香王)と下野大掾・藤原村雄(藤原北家流秀郷の父)の娘[

松平與嗣 - 日本通信百科事典

田宗光室らの兄、松平貞嗣(貞副入道)・貞治(貞谷入道)・忠治(張副入道)らの父。 目次1 概要2 脚注3 関連項目4 関連サイト概要[]従五位下佐渡守に叙任され、三河国宝飯郡形原郷[6]を拠点として、750貫を領した。永正年間(1504年 - 1521年)の12月21日に死去した

平高望 - 日本通信百科事典

家平氏)を賜り、「平高望」と改名した。または「高茂」、あるいは「高繁」とも呼ばれる[4]。そのために武家貴族(軍事貴族)となった。官位は従四位下・上総介・大宰府権帥。父は葛原親王(かずはるしんのう、桓武天皇の第5皇子)、生母は橘春成(または仲野親王・藤原是雄)の娘で、その末子であ

平良文 - 日本通信百科事典

29日(仁和2年3月18日)[1] - 953年1月11日(天暦6年12月18日)[1])は、平安時代中期の武将。通称は村岡五郎。官位は従六位下・奥州少目(目代)。父は丹姓平氏の平直良、生母は高望王の末妹で、その5男(末子)である。異母兄は良兼と良広、同母兄は良将がいる。甥の将門

源兼氏 - 日本通信百科事典

の8世の孫、清長の7世の孫、俊長の6世の孫、季兼の玄孫、季広の曾孫、長俊の孫、有長の子、兼賢の弟、兼康の兄、法印長舜(僧侶)の父。官職は正四位下・左衛門尉・日向守。弘安元年(1278年)に没したという。『千人万首』で、その名を連ねている。足利兼氏 : 足利氏(下野源氏)一門の武将

平直良 - 日本通信百科事典

国入間郡・秩父郡・児玉郡西部(旧賀美郡)にわたって繁栄した豪族・丹姓(丹治/丹治比)と言われる。父母の名および、旧名も不詳である。官位は従六位下・武蔵権少掾。目次1 概要2 家族3 脚注4 関連項目5 関連リンク概要[]京に上京して、皇族の上総介・高望王(高視王/高見王)に仕えた

平永盛 - 日本通信百科事典

平氏流の武将・公家。約2名ほど存在する。平永盛 (鎮守府将軍) : 平貞盛の孫、維叙(維敍)の子、貞叙(貞敍)の弟、維輔の兄、頼良の父。従五位下・鎮守府将軍に任じられた。生島永盛 : 公家平氏の祖である高棟王(平高棟)の後裔で、江戸時代中期の公卿。昇殿を許されない地下家である生島

平繁盛 - 日本通信百科事典

平繁盛像平 繁盛(たいら の しげもり、生没年未詳)は、平安時代中期の武将。官位は従五位下・陸奥守・秋田城介・常陸大掾。そのために、大掾繁盛とも呼ばれる。桓武平氏の惣領家である平良望(国香王)の常陸大掾・源護(嵯峨源氏/仁明源氏)の娘との間の次男[1]。異母兄は貞盛、同母弟は良正

平致時 - 日本通信百科事典

詳)は、平安時代中期の武将。丹姓平良兼の次子、致兼(公雅)の弟、致基(公元)の兄、致孝の父、致良の祖父。後に出家して公連と号した。官職は従六位下・下総権少掾。尾張毛利氏(相模平氏/尾張平氏)の祖。概要[]父の良兼らが従弟の平将門と激しく争い、勝利して姉である将門の妻とその子を捕ら

平致兼 - 日本通信百科事典

元)の兄、致利・致成[2]・長田致頼[3]・致光[4]・致遠・入禅(僧侶)・平忠常[5]室の父。概要[]はじめは蔵人右少弁であった。後に従六位下・安房守・武蔵守・右衛門少尉となった。父の良兼らが従弟の平将門と激しく争い、そのたびに勝利して致兼の姉である将門の妻とその子を捕らえて、

源光貞 - 日本通信百科事典

: 福原氏の第8代目の当主。第7代目の当主の広季の子、光季・光康の兄、光長(第9代目の当主)・光英・長貞らの父。幼名は千勝丸。元服後に、従五位下駿河守に任じられ、執権の北条泰時の娘を娶る。1263年4月(弘長3年3月)に、鎌倉で征夷大将軍の宗尊親王に拝謁した。執権の北条時頼(泰時

源師任 - 日本通信百科事典

源氏(陽成源氏・村上源氏)の武将・人物。約3名ほど存在する。福原有光 : 別称は師任。通称は三郎、/柳津源太郎/物津冠者と称した。官位は従五位下・右馬之允・安芸守。大和源氏一門の福原氏の第2代目の当主。源頼親(源満仲の第2子)の孫、頼遠の子、仲重[1]の弟、家弘・光有・光頼・屋葺

大島義政 - 日本通信百科事典

口貞満とともに鎌倉の巨福呂坂を攻略して、執権であった北条得宗家一門の赤橋守時が率いる軍を敗走させた。その功績で、建武政権で後醍醐天皇から従五位下に任じられ、讃岐守・兵庫頭を歴任し、武者所に属してその名を連ねていた。1335年に同族の足利尊氏(高氏)が後醍醐天皇から離反した後に相模

藤原経衡 - 日本通信百科事典

流) : 真夏流の藤原公業の子、実仲の兄、業綱・基国・経寛・厳禅(僧侶)の父。同族の資房と権力争いをして、大和守・筑前守などを歴任して、正五位下に至った。脚注[]↑ 同時に火爪経衡/日詰経衡とも呼ばれる。↑ 有遠の弟。↑経光の弟、刈田経元(白石刈田家の祖)の兄。↑藤原維経(家清)

織田信昌 - 日本通信百科事典

の従弟にあたる。天正2年(1574年)8月2日に伊勢国長島一向一揆の戦いで、戦死を遂げた。織田信昌 (小幡藩主) : 幼名は百介。官位は従四位下・因幡守・兵部大輔。上野国小幡藩主の織田信良(信長の孫、信雄の子)の子、良信の弟、信久(従弟)の養父。織田信昌 (旗本)関連項目[]藤原

足利義兼_(上総介) - 日本通信百科事典

)? - 1199年4月5日(正治元年3月8日))とは、平安時代末期~鎌倉時代初期の武将。はじめは義包、通称は足利三郎/又太郎。官位は、従四位下・上総介・八条院蔵人・兵衛尉。後に出家して義称入道(ぎしょうにゅうどう)と号した。陽成源氏(河内源氏)流足利氏(下野源氏)の初代棟梁の足

福原基光 - 日本通信百科事典

らの兄、松田重勝[2]・福原広季(第7代目の当主)・季光・光家・光泰らの父。1179年(治承3年)に、一族の光治と兼雅を従えて上洛して、従五位下大和守に任じられた。1181年(治承5年)11月に、第2代目の当主の有光の遺骨を岩峯寺に改葬して、三重塔を建てた。同年に出家して、了全入

足利義康_(陸奥守) - 日本通信百科事典

久5年)? - 1157年7月7日(保元2年5月29日))とは、平安時代末期の武将。はじめは義保/義泰、通称は足利次郎/又太郎。官位は、従五位下後・陸奥守・大夫尉。足利陸奥判官とも称した。後に出家して道達入道と号した。陽成源氏(河内源氏)流足利氏(下野源氏)の初代当主で、河内源氏

福原義基 - 日本通信百科事典

氏一門の武将。約2名ほど存在する。福原義基 (平安時代) : 福原氏の第3代目の当主の福原元光の子、光忠・光義・季康・政光・忠重の末弟。従五位下・左衛門佐に任じられた。福原義基 (鎌倉時代) : 福原氏の第15代目で最後の当主。福原氏一門の福原義光の子、光春・光俊・光時・光定(光

源頼政 - 日本通信百科事典

綱[7]・教尊(僧侶)・散尊(僧侶)の父。1159年の『平治の乱』では、族子の義朝(義頼)[8]と対立して、平清盛に従いた。その功績で、従四位下を経て従三位に累進した。後に出家して、真蓮入道・三品禅門と号した。1180年、長男の仲綱が清盛の嫡子(3男)である宗盛から侮辱を受けたこ

源有光 - 日本通信百科事典

、法印応仁(僧侶)の父。臣籍降下をして、「源有光」と改称した。福原有光 : 別称は師任。通称は三郎/柳津源太郎/物津冠者と称した。官位は従五位下・右馬之允・安芸守。福原氏の第2代目の当主。源頼親(源満仲の第2子)の孫、頼遠の子、仲重[1]の弟、家弘・光有・光頼・屋葺有遠の兄、大寺

源経基 - 日本通信百科事典

「新皇」を僭称して勝手に坂東諸国の政務を行なうと、以前の告訴が現実となった事によって経基は晴れて放免されるばかりか、それを功と見なされて従五位下に叙せられた[11]。その後、経基は征東大将軍・藤原忠文(藤原式家)の副将の一人に任命され、将門の反乱の平定に向かうが既に将門が追討され

源満頼 - 日本通信百科事典

)・満季・満実・満生(みつなり)・満重(満成)[1]・満快(満扶)(満国[2]・行満(行頼)・行季の父)の弟、昭子女王[3]の兄。官職は従五位下・右馬充・但馬介・上野中掾・下野守・筑前守。異説としては、兄の満季の子ともいわれ、祖父の元平親王の猶子になったともいう。岩手満頼 : 初

源義仲 - 日本通信百科事典

物。約数名ほど存在する。太田義仲 : 源頼親の末子の太田頼基(摂津太田氏の祖)の子、仲親・義守・仲房・仲遠・仲光・仲重・忠光・範仲の父。従五位下、二条院判官代。源義仲 (石橋冠者) : 源義綱(賀茂次郎)の子、義弘(義重)・義俊・義明の弟、義範・義君(よしただ)・義直の兄、盛宗の