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清和源氏の祖の六孫王(源経基)
源経基(『本朝百将伝』(所蔵:国立国会図書館蔵))
源 経基・六孫王(みなもと の つねもと/りくそんおう、生没年不詳[1])は、日本の皇族。清和天皇の孫、貞純親王の子、生母は源能有(文徳源氏)の娘、経生(つねなり)[2]の兄、経忠(経義/経明)の父[3]、経高の祖父。清和源氏の実質的な祖となる[4][5]。妻は橘繁古の娘と藤原敏有の娘など。
はじめは六孫王と称して、六宮および、八条御所を居邸とした。
938年(承平8年)に同母弟の経生とともに臣籍降下して、太政大臣・藤原忠平(藤原北家)の命で、武蔵介として武蔵国に赴任した。同時に赴任した同族の興世王[6]が武蔵権守として、ともに早々に検注[7]を実施すると、土豪である足立郡司で判代官の武蔵武芝が正式国司の赴任以前には検注が行なわれない慣例になっていたことから、両人の皇族の検注を拒否したために、激怒した経基らは兵を率いて武芝の郡家を襲い、略奪を行なった[8]。
この話を聞いた下総国の土豪である丹姓平氏の平将門[9]が軍勢を率いて武芝の許を訪れると、経基らは妻子を伴って、武装して比企郡の狭服山へ立て籠った。その後、興世王は下山をして武蔵国府にて将門・武芝らを引見したが、経基はこの行為に不服であるとしてなお山に留まった。府中では双方の和解が成立して酒宴が行なわれていたが、その最中に武芝の配下たちが勝手に経基の営所を包囲した。仰天した経基は将門らに殺害されるものと思い込んで、あわてて京へ逃げ帰って[10]、将門・興世王・武芝が謀反を共謀していると朝廷に告訴した。しかし、将門らが翌939年6月12日(承平9年5月2日)付で常陸国・下総国・下野国・武蔵国・上野国など5ヶ国の国府の「謀反は事実無根」との証明書を藤原忠平へ送ると、将門らはその申し開きが認められ、逆に経基は讒言の罪によって、咎められて左衛門府に軟禁された。
しかし、939年12月(天慶2年11月)に、将門は藤原玄明(藤原南家)とともに外従兄の平貞盛と抗争を起こしたために反乱を起こして常陸国府を占領し、その後も次々と国府を襲撃・占領した。、翌年正月(同年12月)に、上野国府にて将門は「新皇」を僭称して勝手に坂東諸国の政務を行なうと、以前の告訴が現実となった事によって経基は晴れて放免されるばかりか、それを功と見なされて従五位下に叙せられた[11]。その後、経基は征東大将軍・藤原忠文(藤原式家)の副将の一人に任命され、将門の反乱の平定に向かうが既に将門が追討された事を知り帰京した。
941年(天慶4年)に追捕凶賊使となり、小野好古とともに元伊予国の国司の藤原純友(藤原北家)の反乱の鎮圧に向かうが、ここでも既に好古によって乱は鎮圧されており、経基は純友の家来の桑原生行を捕らえるのが精一杯だった。後に経基は、武蔵国・信濃国・筑前国・但馬国・伊予国の国司を歴任し、最終的には鎮守府将軍まで累進した。
経基は文人としてもすぐれた勅撰歌人であり、『拾遺和歌集』などに2首が採録されている[12]。45歳で病没したという。その後は、子の経忠が後を継いだ[13][14]。
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