松平氏 - 日本通信百科事典
松平氏(まつだいらし/まつだいらうじ)とは、陽成源氏(河内源氏)流で、約2系統がある。高柿氏 : 別称は「常陸松平氏」。源姓佐竹氏(常陸源氏)一門の山入氏の庶家。常陸国久慈郡松平(高柿)郷(現在の茨城県常陸太田市松平(高柿)大字)を本拠地とした。惣領家の山入氏が滅亡すると、同族の
松平氏(まつだいらし/まつだいらうじ)とは、陽成源氏(河内源氏)流で、約2系統がある。高柿氏 : 別称は「常陸松平氏」。源姓佐竹氏(常陸源氏)一門の山入氏の庶家。常陸国久慈郡松平(高柿)郷(現在の茨城県常陸太田市松平(高柿)大字)を本拠地とした。惣領家の山入氏が滅亡すると、同族の
A. 江戸時代前期の武士で、大野知房は、1615年(元和元年)に、旗本・松平信綱(まつだいらのぶつな)の家臣となり、1629年(寛永6年)に信綱が死去すると、その遺領を相続した松平信綱の異母弟・松平信興(まつだいらのぶおき)に仕え、1634年(寛永11年)に信興が死去すると、信興
新百人一首の全首一覧001.天津空 曇りなきまで 照る月の うつれる水の 底もにごらじ (後水尾院)002.春はただ 花をあらしに なしはてて とはれぬうきも 身には恨まじ (後花園院女﨟)003.空よりや 天の河原に 吹く風の 声をもおとす 峯のたぎつせ (称名院入道前左大臣)
歳。「聖なる魔女」の異名を持つ北欧の歌姫。星戦ヨーロッパ大会の覇者であり、アキラ打倒のために来桜。主要人物の中では若干空気気味。松平 勇姫(マツダイラ ユウキ)金髪碧眼の格闘美少女。二つ名は「紅蓮の勇姫」大戦の英雄 松平 金時(キンジ)を父に持つ期待の新人。自信家でにぎやかなキャ
Lafcadio Hearn『Kwaidan』、他)■ぼくのお父さんとぼくのお父さんの娘の話(「お父さんの娘」)■〈ゲンジ物語〉の作者、〈マツダイラ・サダノブ〉の話(「〈ゲンジ物語〉の作者、〈マツダイラ・サダノブ〉」)■縦籠家と横箱家が交差する話(「バベル・タワー」)など単行本
よ!」高校卒業後は大学で野球を続け、主人公とはプロで再び戦うことを誓う。●裏サクセスにおいてポケ13、14ともに登場。どちらもフルネームは「マツダイラ・ユウキ」となっている。ポケ13では仲間の一人として登場しヒノモト国のショーグン家の12男。小舟にふざけて乗っていたら流されそのま
登録日: 2017/01/04 Wed 21:24:04更新日:2024/02/01 Thu 13:58:11NEW!所要時間:約 27分で読めます▽タグ一覧『ザ・モノポリーゲーム2』とは、1995年3月31日にスーパーファミコン用に発売されたソフトである。発売元はトミー(現タカ
登録日:2015/01/17 (土) 17:32:26更新日:2024/01/12 Fri 10:21:33NEW!所要時間:約 5 分で読めます▽タグ一覧ぼく、千足さんのお手伝いします「悪魔のリドル」の登場人物。読み方は「きりがや ひつぎ」◇プロフィールCV:内田愛美身長:15
魔【ま】[名](スマップ、ジャニーズ、Jr)ジャニーズJr内グループ「MA(Musical Academy)」のこと。まあ御大だし【まあおんたいだし】[成句](少年漫画)松山せいじ氏の連載漫画「エイケン」のイキすぎな作品内容や、オタク丸出 しの作者コメントを評するとき、エイケニス
松平家勝の肖像、右側は正室松平 家勝(まつだいら いえかつ、生没年不詳)は、室町時代後期~戦国時代初期の武将。通称は源八郎。官職は美作守。松平信光の子[1]、親直(昌龍斎)・守家(全長/全祐)[2]・親忠・與嗣(与嗣)・光重(栄金入道)[3]・光英(光央入道)・元芳[4](忠景/
松平 家次(まつだいら らいえつぐ)とは、三河松平氏(徳川氏/三河源氏)一門の人物。約2名ほど存在する。松平家忠 (東条松平家) : 別名は家次。東条松平家(東條松平家)の祖である松平義春の孫、忠茂(甚太郎)[1]の子。松平広忠(家康の父)の又従弟でもある。嗣子がなく、族子でもあ
松平 家忠(まつだいら いえただ)とは、三河松平氏(徳川氏/三河源氏)一門の人物。約3名ほど存在する。松平家忠 (深溝松平家) : 深溝松平家の当主の松平伊忠(これただ)の子、忠勝・伊長(これなが)・玄成(はるなり)・末意(まつおき)の兄、忠利・忠貞・忠和・忠重・忠隆の父。著書に
曖昧さ回避この項目では、三河松平氏一門について記述しています。徳川氏惣領家の当主については「徳川家正」をご覧ください。松平 家正(まつだいら いえまさ)とは、三河松平氏(徳川氏/三河源氏)一門の人物。約2名ほど存在する。松平家正 (形原松平家) : 官職は左近。形原松平家の祖の松
松平 宗勝(まつだいら むねかつ)とは、三河松平氏(徳川氏/三河源氏)一門の人物。約2名ほど存在する。松平宗勝 (丸根松平家) : 丸根松平家の祖の松平家勝の後裔で、家定[1]の父、康元(乗信) の祖父、康定(大弐松平家の祖)の曾祖父。三河国の伊保城主であった。徳川宗勝 : 初名
松平 吉忠(まつだいら とみただ)とは、三河松平氏(徳川氏/三河源氏)一門の人物。約2名ほど存在する。小栗吉忠 : 通称は又市/仁右衛門、法名は宗善入道。岩津松平家の当主の松平親長の曾孫、忠勝の孫、小栗忠吉(ただとみ)[1][2]の子、忠重の兄、忠政・吉次(とみつぐ)の父。松平清
松平 家広(まつだいら いえひろ)とは、三河松平氏(徳川氏/三河源氏)一門の人物。約2名ほど存在する。松平家広 (形原松平家) : 形原松平家の当主の松平親忠の子、家忠・家正(左近)の父。松平家広 (桜井松平家) : 桜井松平家の当主の松平忠正の子。嗣子がなく、従弟で異父弟でもあ
曖昧さ回避この項目では、牧内松平氏の祖について記述しています。族祖父にあたる出雲守については「松平家久」をご覧ください。松平家久(張忠)の肖像松平 家久(まつだいら いえひさ、生没年不詳)は、室町時代後期から戦国時代初期の武将。通称は助十郎、別名は張忠(ひらただ)、官職は右京亮。
松平 康俊(まつだいら やすとし)とは、三河松平氏(徳川氏/三河源氏)一門と松平姓を与えられた人物。約2名ほど存在する。松平康俊 (松平久松家) : 初名は久松勝俊。源姓久松氏の当主の久松俊勝(定俊/長家)の子、久松信俊[1]・松平康元(久松勝元)[2]の弟、松平康勝(久松定勝)
松平 家久(まつだいら いえひさ)とは、三河松平氏(徳川氏/三河源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。松平家久 (出雲守) : 世良田有親の孫、松平泰親(政親/義英/益氏)の子、益親[1]・守久の弟、家弘・久親[2]・教念(僧侶)の兄。下記の家久(張忠)は、族孫にあたる。松平家久
松平 定信(まつだいら さだのぶ)とは、陽成源氏(河内源氏)流の人物で、約2名ほど存在する。高柿久高 : 別称は「松平定信」。佐竹氏(常陸源氏)一門の山入氏の庶家である高柿氏(常陸松平氏)の当主。山入与義(ともよし)の曾孫、高柿義郷の孫、義信の子、康信・信横の父、信広(康信の子)
曖昧さ回避この項目では、挙母松平家の祖について記述しています。その他の人物については「松平信広」をご覧ください。松平広親(信広)の肖像(右側の馬上の人物)松平 広親[1][2](まつだいら ひろちか、生没年不詳)は、室町時代後期から戦国時代初期の武将。初名は信広[2]、幼名は竹若
A. 徳川氏は、日本の氏族で、松平氏(まつだいらうじ)とも称しました。徳川家康が有名で、江戸幕府を開き、260年あまり続きました。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%B0%8F%20%28%E6%9B
松平 康信(まつだいら やすのぶ)とは、三河松平氏(徳川氏/三河源氏)一門の人物。約2名ほど存在する。松平康信 (大草松平家) : 大草松平家の当主の松平正光の曾孫、正親の孫、康安[1]の子、正朝・重成・成次の弟。松平康信 (形原松平家) : 形原松平家の当主の松平家信の子、重信
松平 忠政(まつだいら ただまさ)とは、日本の戦国時代から江戸時代初期にかけての松平氏(徳川氏/三河源氏)一門および、松平姓を与えられた人物。約6名ほど存在する。松平清成 : 別名は忠政・正直、通称は勘六郎。桑谷松平家の祖という。大給松平家の当主の松平乗勝の子、親乗の弟。当時40
松平 忠吉(まつだいら ただとみ)とは、松平氏(徳川氏)一門の人物で、約4名ほど存在する。小栗忠吉 : 岩津松平家の当主の松平親長の孫、忠勝の子、親足(ちかたり)の弟、吉忠(とみただ)・忠重の父。常陸国から三河国に逃れた桓武平氏繁盛流大掾氏(常陸源氏)一門の小栗氏(常陸小栗氏)の
松平 忠明(まつだいら ただあき)とは、日本の戦国時代から江戸時代初期にかけての松平氏(徳川氏/三河源氏)一門および、松平姓を与えられた人物。約6名ほど存在する。松平忠明 (松平奥平家) : 加納藩初代藩主・奥平信昌(貞昌)の子、家昌・松平家治・松平忠政の弟、忠弘・清道・牟利(僧
松平 康忠(まつだいら やすただ)とは、三河松平氏(徳川氏/三河源氏)一門の人物。約2名ほど存在する。松平康忠 (牧内松平家) : 通称は甚六郎。牧内松平家の祖の松平家久(張忠)[1]の子、忠高の父。天文9年(1540年)の『安祥の戦い』で戦死を遂げた。松平康忠 (長沢松平家)
松平 忠勝(まつだいら ただかつ)とは、松平氏(徳川氏/三河源氏)一門の人物。約5名ほど存在する。松平忠勝 (丸根松平家) : 松平信光の曾孫、家勝の孫、忠次の子。三河国賀茂郡丸根郷[1]の丸根松平家の当主で、父同様に大学頭と称した。後裔に康元(乗信)・康定[2]父子がいるという
松平 康定(まつだいら やすさだ)とは、三河松平氏(徳川氏/三河源氏)一門、および松平姓を与えられた人物。約4名ほど存在する。松平康定 (深溝松平家) : 深溝松平家の祖の松平忠定の子、好景(すみかげ/たかかげ)・定正・定清の弟、好之(すみゆき/たかゆき)・景行・正親の兄。松平康
松平 康元(まつだいら やすもと)とは、三河松平氏(徳川氏/三河源氏)一門および、松平姓を与えられた人物。約2名ほど存在する。松平康元 (丸根松平家) : 別名は乗信。丸根松平家の祖の松平家勝の後裔とされ、宗勝の孫、家定[1]の子、康定(大弐松平家の祖)の父。三河国の伊保城主であ
松平 康元(まつだいら やすかつ)とは、三河松平氏(徳川氏/三河源氏)一門と松平姓を与えられた人物。約3名ほど存在する。松平康勝 (福釜松平家) : 福釜松平家の当主の松平親次の曾孫、親俊[1]の孫、康親の子、康盛[2]・盛重[3]の弟。松平康勝 (松平久松家) : 初名は久松定
松平 信重(まつだいら のぶしげ)とは、日本の戦国時代から江戸時代にかけての松平氏(徳川氏)の一族の人物。約4名ほど存在する。松平信重 (松平信光の子) : 松平本宗家の第3代目当主の松平信光の末子、親直(昌龍斎)・守家(全長/全祐)[1]・親忠・與嗣(与嗣)・光重(栄金入道)[
松平 康孝(まつだいら やすたか)とは、三河松平氏(徳川氏/三河源氏)一門および、松平姓を与えられた人物。約2名ほど存在する。松平康孝 (鵜殿松平家) : 松平長親(忠次/長忠)の孫、信忠の子、清康・信孝の弟、康定(八郎三郎)・清吉(きとよみ)の父。徳川家康の大叔父でもある。鵜殿
松平元芳(忠景)の肖像(左側)、右側は嫡子の元心松平 元芳(まつだいら もとふさ/もとみち、? - 文明17年7月14日(1485年8月24日))は、室町時代後期~戦国時代初期の武将。別名は忠景/正則とも呼ばれる。松平信光の子、親直(昌龍斎)・守家(全長/全祐)[1]・親忠・與嗣
松平 信次(まつだいら のぶつぐ)とは、三河松平氏(徳川氏/三河源氏)一門および、松平姓を賜った人物。約2名ほど存在する。松平信次 (長沢松平家) : 松平信光の6世の孫、親則[1]の玄孫、親益の曾孫、親清の孫、信重[2]の子、長次の兄、信宗・信則(甚五兵衛)の父。松平信次 (御
松平 信義(まつだいら のぶよし)とは、松平氏(徳川氏)一門の人物。約5名ほど存在する。松平信吉 (武田松平家) : 幼名は万千代、初めは「武田信義」、後に「信吉(のぶとみ)」と改称した。徳川家康の子、内藤信成の甥、徳川信康・松平秀康(結城秀朝)・徳川秀忠・松平忠吉(忠康)の異母
曖昧さ回避この項目では、徳川家康の嫡長子の松平信康(岡崎三郎)について記述しています。家康の叔父で、松平広忠の異母弟の松平信康(源次郎)については「松平信家」をご覧ください。徳川信康像(勝蓮寺所蔵)徳川 信康・松平 信康(とくがわ のぶやす/まつだいら のぶやす、1559年4月1
曖昧さ回避この項目では、松平氏(徳川氏)の庶家の家系について記述しています。藤原北家秀郷流については「内藤氏」をご覧ください。内藤松平家の家紋(下り藤に三つ葵)内藤松平家(ないとうまつだいらけ)とは、戦国時代に三河国の松平氏(徳川氏)の庶家である。すなわち松平広忠の庶子で、徳川家
松平 信之(まつだいら のぶゆき)とは、義光流世良田氏(上野源氏)流松平氏(徳川氏・三河源氏)一門の武将。約数名ほど存在する。松平信之 (藤井松平家) : 通称は彦四郎、法号は道高入道。藤井松平家の第4代目の当主の松平忠国の子、信久の弟、信重・忠栄の兄、忠之・信通の父。内藤信之
西山百人一首の全首一覧001.八雲たつ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣つくる その八重垣を (須佐之男命)002.いかるがの 富のを川の 絶えばこそ わが大君の 御名忘らえめ (巨勢三杖)003.ひむがしの 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ (柿本人麻呂)0
愛國民権 演説家百詠選の全首一覧001.ことやまの 紅葉をたづね ゆかんより あふぐ高根の あけの玉垣 (板垣退助)002. (忍峡稜威兄)003. (後藤象次郎)004. (由利公正)005. (成島柳北)006. (田島象二)007. (福地源一郎)008. (五代友厚)00
竹柏園百人一首の全首一覧001.緋の房の 襖はかたく とざされて けふもさびしく 物おもへとや (九条武子)002.うごかざる 動物園の 展望車 白く光れり 秋空の下 (朝場重三)003.賤たまき いやしき身にも かしこさの 身にしみとほる 神の大前 (芦沢松子)004.晩稲刈り
曖昧さ回避この項目では、松平氏の祖について記述しています。その後裔については「松平信光」をご覧ください。松平信光(次郎三郎)像(萬松寺所蔵)松平 信光(まつだいら のぶみつ、生没年不詳[1])は、日本の室町時代後期の武将。通称は次郎三郎、幼名は竹千代(竹松)、法号は光信斎(こうし
近世百人一首の全首一覧001.さし出る この日の本の 光より こまもろこしも 春を知るらん (本居宣長)002.春風は 吹そめにけり つくばねの しづくの田井や 氷とくらん (弓屋倭文子)003.もしほやく 難波の浦の 八重霞 一重は海士の しわざなりけり (桑門契沖)004.木
日本魂百人一首の全首一覧001.海ならす 漂ふ水の 底まても きよき心は 月そてらさん (菅原道實)002.かすむ夜の 月を見るにも 曇らしと 思ふ心を なをみかきつゝ (權大納言守房)003.ものゝふの 取りつたへたる 梓弓 ひかては人の かへすものかは (梶原景高)004.山
国体百首の全首一覧001.大君は 神にしませば 天雲の 雷の上に いほりせるかも (柿本人麻呂)002.田子の浦ゆ うち出て見れは 真白にぞ 富士の高根に 雪は降りける (山部赤人)003.をのこやも 空しかるへき 万代に かたりつくへき 名はたゝすして (山上憶良)004.千萬
松平 信光(まつだいら のぶみつ)とは、新田氏(上野源氏)義光流世良田氏流松平氏(徳川氏・三河源氏)一門と松平姓を与えられた人物。約3名ほど存在する。松平信光 (惣領家) : 世良田信光とも呼ばれる。通称は次郎三郎、幼名は竹千代(竹松)。松平親氏(親季/家氏/信氏)の子[1]、信
松平 信吉(まつだいら のぶとみ)とは、松平氏(徳川氏)一門の人物で、約3名ほど存在する。松平信吉 (挙母松平家) : 官職は隼人佐。挙母松平家の祖の松平広親(信広)の曾孫、長勝の孫、勝茂の子、信茂の弟、勝吉(かつとみ、伝十郎)・親長・重正・親信の父。今川義元[1]の旗下で、族孫
松平 信直(まつだいら のぶなお)とは、義光流世良田氏(上野源氏)流松平氏(徳川氏・三河源氏)一門の武将。約数名ほど存在する。松平信直 (双峰入道) : 形原松平家の第6代目の当主の松平庸倫の子、信道・信愛(のぶちか)・戸田光弘・巨勢利和・牧野成傑・直温・彦坂重教・直義・大掾貞幹
松平 忠正(まつだいら ただまさ)とは、三河松平氏(徳川氏/三河源氏)一門および、松平姓を与えられた人物。約4名ほど存在する。松平忠正 (桜井松平家) : 通称は与一郎、法号は道春入道。桜井松平家の当主の松平家次の子、忠吉(ただとみ)の兄、家広の父。松平忠正 (三木松平家) :