内藤氏_(松平氏)

ページ名:内藤氏_(松平氏)
曖昧さ回避この項目では、松平氏(徳川氏)の庶家の家系について記述しています。藤原北家秀郷流については「内藤氏」をご覧ください。

内藤松平家の家紋(下り藤に三つ葵)

内藤松平家(ないとうまつだいらけ)とは、戦国時代に三河国の松平氏(徳川氏)の庶家である。すなわち松平広忠の庶子で、徳川家康の異母弟・内藤信成を祖とする家系のこと。幕末の信親(信思)の代に嗣子の信任(信佐)が早世したため、養子を迎えたのでここで信成の系統は断絶した。

この家系は準々親藩あるいは譜代に属する。しかし、『寛永諸家系図伝』・『寛政重修諸家譜』ともにこの説を採らず、信成の養父で母方の大叔父でもある内藤清長とその子である家長によって継承された内藤氏と同じく「藤原北家秀郷流」として扱っている[1]

目次

家祖・内藤信成[]

1563年(永禄6年)の三河一向一揆との戦いの功績により、信成は異母兄の家康から三河国中島の600石を与えられる。養父・清長からの内藤氏の家督は、養弟の家長がこれを継ぎ、信成は松平氏庶家として「内藤松平家」を興した[2]。1590年(天正18年)に信成は異母兄の家康の関東入国の際に伊豆国1万石を与えられて韮山城を居城とし、さらに1601年(慶長6年)には4万石に加増されて駿府城主となる。1603年(慶長8年)に従五位下豊前守に叙任された後、1606年(慶長11年)に采地を改められ、近江国4万石を領して長浜城主となった。

棚倉藩時代[]

1612年(慶長17年)に信成が68歳で逝去し、その子の信正が家督を継いで長浜藩の藩主となる。1615年(慶長20年)、摂津国高槻藩に移封され、高槻城を居城とした。1617年(元和3年)に伏見城の城代となり、1619年(元和5年)秋7月には大坂城の城代となる。1626年(寛永3年)の信正の逝去で、その嗣子の信照が後を継ぎ、翌1627年(寛永4年)に陸奥国棚倉藩5万石に移封となった[3]

棚倉城に移った信照は自藩の検地を行なって[4]藩の基礎を固め、また子の信良(のぶなが)の代には領内を流れる久慈川を利用した水運計画が建議された[5]。しかし、1672年(寛文12年)の大火や、1661年(万治4年)などの数度にわたる飢饉などから、藩は「御家中無尽金を御借りなられ」といった状況となる[6]。棚倉藩の第3代目の藩主・弌信は1689年(元禄2年)から松波良利(勘十郎)を登用して藩政の改革を目指し、農地からの収益拡大をはかった[7]。しかし、松波良利の苛酷な政策のために領民からは松波の更迭を求める訴えが起こった[8]。その後、勘十郎良利は水戸藩での一揆の責を問われて、ふたりの息子とともに処刑されたと伝えられている(『赤沼の獄』[9])。

1705年(宝永2年)に駿河国田中藩へ移封され、後に所領の一部を備中国・摂津国・河内国に分散させられたが、1720年(享保5年)に、越後国村上藩に転封され、1725年(享保10年)に、信良の子・信輝がその家督を継承した。

幕末の村上藩時代[]

幕末に入り、村上藩の第7代目の藩主の信親(信思)は京都所司代、西丸老中を経て、1851年(嘉永4年)より本丸付老中を務めた[10]。1864年(元治元年)に、信親は嗣子の信任(信佐)が父よりも先立たれたこともあり[11]、遠祖の信成の縁戚関係にあたる信濃国岩村田藩の内藤氏から養子として迎えられた信民(内藤正民)[12]に家督を譲るが[13]、信民は明治元年(1868年)夏5月、新政府軍に抗して出兵[14]、同年7月に死亡した[15]。8月11日新政府軍による攻撃を受けて村上城は落城した[16]。藤翁と号した信親は謹慎となり[17]、1869年(明治2年)冬2月、養子の信民に嗣子がなかったので、和泉国岸和田藩の岡部氏[18]からの養子・信美(岡部長美)[19]が家督を相続し、村上藩知事を経て、1871年(明治4年)の廃藩置県を迎えた。

  • 参考:「越後村上 内藤家譜」:「内藤信美」の名がある「系譜」「家譜抜書」および「藩翰譜書継」から成る文書で、東京堂出版『内閣文庫蔵 諸侯年表』に「家譜」として記されているものはこれであると考えられる(「序」および「村上内藤家」の項参照)。国立公文書館所蔵の「内藤家譜」(汲古書院刊『朝野旧聞裒藁』1巻659項の「内藤家譜」、『大日本資料』12編ノ9、1011から1015項に採録されている「別本 内藤家譜」)とは別物である。『新潟県史 資料編8』16から21項および『村上市史 資料編2』690~695項に抄録されている。

歴代当主[]

  1. 内藤信成
  2. 内藤信正信広[20]の兄。
  3. 内藤信照 : 信武・信之信直[21]の兄。
  4. 内藤信良(のぶなが) : 信貞・信輝の父。
  5. 内藤弌信 : 信光(信広の子)の子、信清・信之の兄、信盛[22]・中坊秀孝・京極高長・信庸[23]の父。
  6. 内藤信輝 : 信良の子、信積・信興の父。
  7. 内藤信興 : 信旭・信凭・頼尚[24]の父。
  8. 内藤信旭
  9. 内藤信凭 : 信敦の父。
  10. 内藤信敦 : 信方・信親の父。
  11. 内藤信親 : 信任(信佐)の父。
  12. 内藤信任(断絶)

脚注[]

  1. 『藩翰譜』はその按文で広忠の庶子説を紹介しているが、信成を家長の養子とする説(『寛永諸家系図伝』はこれを採る)への批判が述べられるにとどまり、広忠庶子説について「従うべし」とはしていない(『新編 藩翰譜』2巻101項の按文)。
  2. 『寛政譜』新訂185項
  3. このうち信照の3男・信全が常陸国多賀郡5千石を与えられて分家している。
  4. 1647年(正保4年)の検地帳が残されている(『棚倉町史』1巻339項/344~345項)。
  5. 1658年(明暦4年)に家臣の井上市右衛門らによる17ヶ条の献言書があったとしている(『棚倉町史』1巻。348~349項)。
  6. 『棚倉町史』1巻。寛文の大火に付き354~355項に採録の「沙汰治帳」、飢饉につき360項の記述を参照した。引用文は同項にある「沙汰治帳」の文言に拠る。
  7. 『福島県史』8巻953~957項所載、松波良利(勘十郎)の名がある「元禄14年6月村改めにつき布令」。松波の登用を元禄2年とするのは『棚倉町史』1巻361項である。同年に彼が藩に提出した「覚書」があることからの推定。
  8. 「松波殿御支配之儀ハ御赦免を奉願候」とする『古殿町史』640項所収の「元禄15年南郷竹貫63ヶ村訴願」。賦役を赦免するかわりに「借替」や「免合」を認めずに賦課を行なうこと、また法事や酒食を制限・禁止することへの不満が述べられている。
  9. 「勘十郎百姓に下され鋸挽き(鋸引)にいたし」とする「奥州岩代百姓一揆聞覚」の所伝が掲載されている(『棚倉町史』1巻375項)。
  10. 『柳営補任』1巻15項。
  11. この時点で、信成の血統は断絶した。
  12. 内藤正縄の5男。
  13. 『続徳川実紀』4篇643項。
  14. 『復古記』12冊79項「若松記」によるとしているがその内容は収録されていない。一小隊を「地蔵堂」(現在の新潟県燕市分水町)に派遣した、というもの。
  15. 『村上市史 通史編3』は彼の死を「自殺」とし(22~24項)、また『同 資料編6』近現代行政資料編上巻は、新政府軍への対応を巡り「激しい議論が闘わされた」と推測した上で、信民の自決を両派の対立相克に苦悶した結果とみている(59項)。しかし藩論が二分されていたことの典拠が不明であり、また彼の自害についてこれを直接に記す当時の記録も存在しない。ただ東京堂出版『幕末明治日誌集成』2巻「北征日誌」第13所載の鈴木乙五郎の嘆願文書に「去月十七日致自傷候様子ニ相聞」とあり(94項)、藩士の間でそのように認識されていたことがうかがえる。東大史料編纂所所蔵「越後村上 内藤家譜」はその死因を「病死」と記している。
    また、信民の享年および没年月日に関しては「越後村上 内藤家譜」が20歳で明治元年7月16日としているのに対し、これを基に編纂されたと考えられる『諸侯年表』および1931年(昭和6年)の『村上郷土史』(村上本町教育会編)では享年19、7月11日卒と記されている。前者は単なる誤記とも考えられるが、後者は女性の名や戒名が記されており、信民の墓所である村上市・光徳寺の過去帳に拠ったとも考えられる。
  16. 『復古記』14冊44項。「酒井忠宝家記」に曰くとして、鳥居三十郎ら将兵が城に火をかけ、庄内地方に逃れたとしている。『新潟県史 通史編6』74~75項の記述はこれによるものであろう。なお、『藩史大辞典』(雄山閣出版)3巻16項は、鳥居らの降伏を9月27日としているが、『復古記』12冊287項の「戊辰事情概旨節略」からの記事として9月23日に庄内藩主・酒井忠篤の降伏文書を受け、26日には鳥居らが新政府軍に同行していたことが記されている。
  17. 『復古記』7冊757より759項。信親の謹慎を記して家督の継承を訴える村上藩士からの書状が収録されている。また『我が郷土村上を語る』(山口重松/村上郷土研究グループ/1978年、昭和11年刊行本の復刻)には信親自身による「懇願書」が採録されている(209~210項)。しかし、どのような経緯でこの文書を入手し得たのか不詳である。
  18. 藤原南家の工藤氏一門。
  19. 岡部長寛の長男。
  20. 信光・松平乗真・信雪・信直・信通(信久の父、信常の祖父、信治の曾祖父)の父
  21. 信有(信朋(信邦の父、信智の祖父、信義の曾祖父)・諏訪頼均・信安(族父の信治の養子、信就の父、信幅の祖父、信敏の曾祖父)・戸田氏尹の父)の父。
  22. 叔父の信之の養子となる。
  23. 族兄の信朋(信有の子)の養子となる。
  24. 藤姓内藤氏の当主の内藤頼由の婿養子となる。

関連項目[]



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