崇侯虎 - 日本通信百科事典
義』『武王伐紂平話』では鄂順。↑ 殷墟から発掘された『卜辞』より。↑ 太子聴の父(西周の『后母戊鼎』より)。↑ 伯父の微子啓の養子となるが、嗣子がなく従兄の微子稽がその後を継いだ。↑ 24.024.1 呂不韋の『呂氏春秋』によると、紂王の同母兄。↑唐の帝堯の後裔という。↑ 古代チ
義』『武王伐紂平話』では鄂順。↑ 殷墟から発掘された『卜辞』より。↑ 太子聴の父(西周の『后母戊鼎』より)。↑ 伯父の微子啓の養子となるが、嗣子がなく従兄の微子稽がその後を継いだ。↑ 24.024.1 呂不韋の『呂氏春秋』によると、紂王の同母兄。↑唐の帝堯の後裔という。↑ 古代チ
(恒望/経望)が後を継いだ。常望が亡くなると、その子の長望(永望)が後を継いだ。長望が亡くなると、その子の兼望が後を継いだ。しかし、兼望には嗣子がなく、ついに善棟流の公家平氏は断絶した。脚注[]↑ 双子の兄の説もある。↑ 菅原道真著『類聚国史』より。↑ 『尊卑分脈』では、武蔵守
(辰王丸/瑶甫恵瓊)は光広の子である。小早川氏 : 信濃平賀氏(信濃源氏)の当主の平賀義信の末子の小早川景平を祖とする。戦国時代の興景の代に嗣子がなく、毛利氏から隆景(毛利元就の三男)を養子に迎えて、このため源姓小早川氏は断絶した。庶家に赤川氏・備後杉原氏・草井氏・椋梨氏・梨羽氏
歴代当主3 脚注4 関連項目概要[]岩松泰家(満親)の子の満泰が上野国碓氷郡後閑郷[2]を拠点としたことから始まる。しかし、満泰の子の満家に嗣子がなく、後閑氏はいったん断絶したが、満家の従兄の岩松満純の曾孫の後閑顕純が、後閑氏と称して復した。顕純の子の憲純を経て、憲純の子の景純(
、武王によって魏に封じられて、太公と諡された。微子郊 : 微子洪とも呼ばれる。帝辛の次子、太子禄父[1]の弟。伯父の微子啓の養子となったが、嗣子がなく従兄の微子稽(微子衍の子)が後を継いだ。微子稽→宋の太公稽脚注[]↑ 太子聴の父(西周の『后母戊鼎』より)。この記事は 『微子』
叙爵の手続きをした。彼が、曾祖父・祖父・父同様に高齢で亡くなると、子の貞叙が後を継いで、貞叙が亡くなるとその子の信盛が継いだ。だが、信盛には嗣子がないために維叙流の系統は断絶して、信盛の族弟である貞方(直方)[10]が、武家平氏の棟梁となった。官歴[]973年(天延元年)以前 :
の たねとみ)とは、丹姓平氏一門。約2名ほど存在する。篠田胤富 : 将門流篠田氏(常陸平氏)の当主の篠田師国の子。父に先立って早世しために、嗣子がなく族弟の相馬師常(師胤)[1]が、婿養子としてその後を継いだ。ただし、師常は「篠田氏」と称さなかったので、ここで篠田氏は断絶した。千
利氏(相模平氏/尾張平氏)の祖となった[10]。平良広 : 安房三郎あるいは安房四郎。別名は良弘。多くの息子がいたが、良広にとって孫にあたる嗣子がなく断絶したという。脚注[]↑ 1.01.11.2 『古代氏族系譜集成』(宝賀寿男/古代氏族研究会/1986年)による。↑ 現在の和歌
なかったと伝わる。『前九年の役』で戦没したと伝わり、将常の子の常時(常辰)・常基・常宗を経て、将常の孫の常邦・常家兄弟(ともに常時の子)には嗣子がなく、将常の系統は断絶したという。後世の武蔵七党の筆頭格に属する秩父氏[4](畠山氏)は、将常の末裔と仮冒した[5]。脚注[]↑房総平
、常平の祖父)らを儲けた。坂東八氏(坂東平氏)の祖となる。↑ 平安時代末期に成立した『二中歴』より。↑ 良名の父。↑ 6.06.1 為次には嗣子がなく、村岡氏は断絶した。後世の御浦氏(三浦氏)・鎌倉氏・土肥氏(相模中村氏)はこの系統と自称(仮冒)した(実際は、相武国造(武相国造)
。臣籍降下して賜姓され「平忠望」[2]になったと伝わる。蔵人右少弁と内膳正や神祇伯などを歴任し、961年(応和元年)に伊勢神宮祈祷使となる。嗣子がなく、同族の仲興(平高棟[3]の孫、季長の子)を養子に迎えた。脚注[]↑ 『尊卑分脈』では、武蔵守・忠望は蔵人右少弁・平公雅(良兼の長
路・良恭の祖父。↑ 衡盛・明盛・盛広の父、明広(衡盛の子)の祖父。↑ 清盛の異母兄。↑ 忠重の弟、維俊・忠清の兄。↑ 忠行の弟。↑ 忠澄には嗣子がなく、女婿の江見氏光(横尾氏の祖)が後を継ぎ、忠澄の娘との間に氏信が生まれた。この記事は 『平忠正』 のための曖昧さ回避ページです。下
と)室の弟。概要[]高家旗本の宮原義真の子として生まれるが、元来から病弱であり、また酒毒に溺れてしまったために、22歳の若さで没した。実義は嗣子がなく、父・義真は外甥で、直参旗本の杉浦政令(まさのり、政忠)[2]の五男である一之を外従兄の実義の養子として迎えて、氏義と改称させた後
らせた!!」と叫んだという。司馬倫の子の司馬荂・司馬馥・司馬虔・司馬詡も廷尉に引き渡され、処刑された。脚注[]↑ 字は文度。39歳で逝去し、嗣子はなかったという。↑孫権の孫。↑ 現在の山東省臨沂市この記事は 『孫秀』 のための曖昧さ回避ページです。下記は同じタイトルを共有している
](半兵衛重治(重虎)の従子)を長崎奉行に抜擢して、苛烈なキリシタン弾圧などを実施した重義の跋扈による専制政治を許した。これを苦々しく思った嗣子の家光と松平信綱(伊豆守)は、秀忠が逝去すると、重義を売国による不正貿易をした廉で、改易にしてその嫡子の重就(源三郎)とともに浅草の海禅
)に清相は『崎陽群談』を編纂したが、翌享保2年(1717年)の4月11日に40歳で没し、子の清祥が後を継いだ。江戸時代後期の清繁[2]の代で嗣子がなく、ついに越後大岡氏は断絶した。歴代当主[]大岡経重 : 大井田経景の弟。大岡重宗大岡重辰大岡助辰大岡助忠大岡助義大岡助宗大岡助次大
戸高良と蒲田忠武の裏切りによって、ともに騙し討ちにされた。義高の子の義世は足利義持(義満の子)に仕えたが、室町時代中期に義世の子の義量の代で嗣子がなく、義量は美濃国国人である大嶋光俊(光春)[5]を婿養子に迎え、その間に儲けたのが光泰であり、その子が光宗(光時)であり、さらにその
の家老となった。晴泰の子の泰秀(細萱太郎)は遠縁筋の徳川家康に仕えて、高家旗本となり、鷲宮神社を建立した。泰秀は1602年に52歳で逝去し、嗣子がなかったために、大内足利家は断絶した。このために泰秀の母方の武蔵大内氏一門が泰秀の娘を娶って、その祭祀を受け継いで、鷲宮神社の神官とな
勢家が秀吉によって滅ぼされると、晴清は豪農になったようである。しかし、江戸時代初期に、晴清は遠縁筋の徳川家康によって直参旗本になるも、彼には嗣子がなくついに大和氏は断絶した。歴代当主[]大和宗平[7] : 杉原光平[8]の兄。大和行平 : 俊平・政平[9]の弟、宗綱[10]の兄。
騎西城の戦い』で戦功を挙げた。同時に義理の甥(姉妹の夫の甥)の上杉景勝(長尾顕景)を養育したが、翌1565年前後に父よりも先立って早世した。嗣子がなかったために、大井田氏の家督は叔父の義房が継いだ。脚注[]↑ 大井田景国/自能入道、長尾房長の子、政景(能景・上杉景勝の父)の弟、通
たので、晴忠の子である治部大輔の信氏(大草公正室の弟)は姪の縁故で秀忠によって、高家旗本となった。しかし、信氏の子である刑部大輔の信政の代に嗣子がなく、ついに大舘氏は断絶した。歴代当主[]大舘家氏 : 政氏の弟・堀口家貞(家員)[6]・谷嶋信氏・経光・助義の兄。大舘宗貞(宗員)大
代に男系がなく、同族の頼弘流源姓摂津氏一門の高山重利(頼重流)の子の重清(清秀の父)を婿養子に迎えた。↑ もともと山県氏の庶家で、頼親の代に嗣子がないために同族の光定(光貞)の次子の定親(貞親)を婿養子を迎えて、土岐氏一門となった。↑ 美濃福島氏の庶家で、美濃国池田郡(現在の岐阜
・国頼の兄。父が『承久の乱』で北条得宗家に敗れて、後鳥羽上皇の裏切りで、処刑されるとまだ幼少の身のために、弟たちとともに美濃国に流罪された。嗣子がなく、末弟の国頼が後を継いだ。能勢頼明 : 能瀬頼明とも呼ばれる。能勢頼勝[2]の子、頼之の弟、頼幸の父、頼道・頼郡(よりとも)・頼次
(現在の岐阜県揖斐郡揖斐川町小島大字)を拠点とした。↑ 美濃国方県郡(稲葉郡)彦坂郷(現在の岐阜県岐阜市彦坂大字)を拠点とした。↑ 頼親には嗣子がなく、同族の土岐光貞(光定)の次子の蜂屋貞親(定親)を養子に迎えた。関連項目[]源頼経この記事は 『多田頼経』 のための曖昧さ回避ペー
氏(越後源氏)の当主の大井田義房[1]玄孫、義能(よしむね/よしたか)[2]の曾孫、義維(よしつな)[3]の孫、義記(よしふみ)[4]の子。嗣子がなく、ついに鎌倉時代から続いた大井田氏は断絶した[5]。脚注[]↑氏景(義景こと景能(かげむね/かげたか)の父)の弟。↑ 房仲(自仲の
に尾張津川氏・高水寺氏[4]・末野氏・今立氏・越前五条氏(越前五條氏)・千福氏・越前奥田氏・越後堀氏などがあった。義延・義信(義延)の代で、嗣子がなく従兄の斯波義寛(義良)[5]が大野義良として、その後を継いで、越前大野氏の当主も兼ねることになった。脚注[]↑ 現在の岐阜県揖斐郡
の内吏である謝輶が孫泰の反乱を東晋の皇族である会稽王の司馬道子に告げたので、彼は捕えられて処刑された。脚注[]↑ 字は文度。39歳で逝去し、嗣子はなかったという。この記事は 『孫泰』 のための曖昧さ回避ページです。下記は同じタイトルを共有しているページへのリンク一覧です。下記の曖
頼)[1]の8世の孫、幸広[2]7世の孫、光広の6世の孫、頼豊の玄孫、頼広の曾孫、頼興の孫、頼幸の子、頼功(よりとし/よりかつ)[3]の兄。嗣子がなく、甥の頼黄(よりなか)が後を継いだ。妻木頼徳 (下郷妻木家) : 妻木重慶(しげのり、頼通)[4]の8世の孫、重直(頼熊(よりかげ
) : 常陸国の常陸妻木氏の第9代目の当主。頼秀の孫、頼矩の子。脚注[]↑ 妻木定徳(貞徳)の子、頼忠の弟、重慶(しげのり、頼通)の兄。↑ 嗣子がなく、妻木幸広(上記の頼忠の孫、頼利(家頼)の子)の系統である美濃国の上郷妻木氏の当主の頼幸の子の頼功(よりとし。頼徳の弟、頼黄(より
後城氏とともに越後平氏と呼ばれた。繁清(繁貞の子)・維貞(繁清の子)・繁賢(維貞の子)・実繁(繁賢の子)・度繁(実繁の子)と続いたが、度繁に嗣子がなく断絶した。奥山氏 (遠江国) : 遠江国の氏族で、約2系統ほど存在する。奥山氏 (陸奥国) : 「奥州奥山氏」とも呼ばれる。相馬氏
真田幸頼兄弟(重直の子)の祖父、頼隆(頼保の子)の曾祖父、頼直の高祖父、頼栄の6世の祖、頼篤の7世の祖、頼徳の8世の祖、頼欽の9世の祖。↑ 嗣子がなく、甥の幸広の系統である上郷妻木家当主の頼幸の次子の頼功(よりとし/よりかつ。頼徳の弟、頼黄(よりなか)の父)を婿養子に迎えた。関連
の系統である頼遠がその後を継いだが、頼遠の子の頼資、頼資の子の頼基[5]・頼康・頼兼兄弟の代を経て、義員(頼康の子)・義資(頼兼の子)の代に嗣子がなく、鎌倉時代初期に大和源氏流太田氏はついに断絶した。太田氏 (河内源氏) : 上野太田氏とも呼ばれる。河内源氏の新田氏(上野源氏)の
氏)に帰順して、室町幕府の政所奉行人に就いた。江戸時代初期の信氏の代に、遠縁筋の徳川秀忠によって高家旗本に取り立てられたが、信氏の子の信政に嗣子がなく、断絶した。庶家に綿打氏・金谷氏・関岡氏があった。大館氏 (陸奥国) : 奥州大館氏とも呼ばれる。約2系統が存在する。脚注[]関連
太仲(たいちゅう)とは、古代中国の都市国家の諸侯の称号。太仲 (泰) : 姓は姫、諱は不詳。太伯の子。嗣子がなかったために従子の伯邑(従弟の周(岐)の文王の長子)を養子に迎えた。その伯邑も早世し、その子が叔父の武王によって「泰」を封じられると、養曾祖父を「泰太伯」、養祖父を「泰太
(宋) : 姓は好、諱は稽(微子稽)。殷(商)の皇族の微子衍(仲衍)の子、丁公申の父。従弟の微子郊こと微子洪(紂王の次子、微子啓の養子)に嗣子がなく、その後を継いで、宋の祖となった。太公 (魏) : 姓は好、諱は堅(微子堅)。殷の皇族の微子比干の子、紂王の従弟、上記の宋の太公稽
茨木城に籠城して、弟の貞隆に命じて家康に援軍を要請した。これを聞いた家康は大坂城を討伐すべく軍隊を動員した。しかし、圧倒的な兵力にかかわらず嗣子の秀忠の信繁が総指揮する真田丸攻略の敗戦やその他豊臣方の武将に苦戦が相次いで、大坂城が陥落しないこともあって、ついに且元に命じて、三浦按
・秀忠・忠吉(忠康)・信吉(信義)・忠輝・松千代の異母弟、仙千代の同母弟、頼宣(頼将/頼信)・頼房の異母兄、光友(光義)の父。異母兄の忠吉が嗣子なく逝去したため、名古屋藩を相続して、名古屋徳川家(尾張源氏)の藩祖となった。徳川義知 (名古屋徳川家) : 幼名は五郎太丸。福井松平家
上坂五郎)・長山元頼(小里基頼)の弟。頼定の父、為頼の祖父、頼春(頼成)・為実(頼実)の曾祖父。同族の上総土岐家(万喜氏)の当主の万喜頼元に嗣子がないために、上記の同族の原頼元の手立てにより、頼元の養子として迎えられた。江戸崎朝房 : 別名は頼房。江戸崎氏(常陸源氏)の当主の江戸
玄孫、元芳(忠景)[3]の曾孫、元心(もとむね/もときよ/もとさね/もとなか)[4]の孫、信長の子、忠次[5]の弟。鵜殿松平家の祖となるが、嗣子がなく甥の正幸(忠次の子)を婿養子に迎えた。上記の長沢松平家(長澤松平家)一門の信次の族父でもある。脚注[]↑ 長沢松平家(長澤松平家)
(形原松平家) : 形原松平家の当主の松平親忠の子、家忠・家正(左近)の父。松平家広 (桜井松平家) : 桜井松平家の当主の松平忠正の子。嗣子がなく、従弟で異父弟でもある忠頼(叔父の忠吉(ただとみ)の子)が後を継いだ。この記事は 『松平家広』 のための曖昧さ回避ページです。下記
一門の人物。約3名ほど存在する。松平信和 (藤井松平家) : 通称は勘四郎、法号は信壱入道。松平長親(忠次/長忠)の孫、利長の子、久清の父。嗣子の久清が父に先立ったために、桜井松平家から久清の族孫の信吉(のぶとみ)を婿養子に迎えた。松平信和 (挙母松平家) : 読みは「のぶふさ」
原松平家の当主の松平典信(すけのぶ)の子、信利・信庸(のぶつね)の兄、戸田重秀室の父。族父である滝脇松平家の当主の松平重信の婿養子となった。嗣子がなく、甥の信嵩(のぶたか)[4]が後を継いだ。脚注[]↑ 忠利の子。↑松平(深津)忠政の岳父。↑ 旗本の大野元継の婿養子となる。↑ 信
)の名跡を継いだ。父の関東移封にともなって1590年に下総国小金城3万石に封じられた。1603年秋9月11日に、湿瘡[4]が要因で、22歳で嗣子がなく没した。信吉の死後に、その遺臣は武田氏の発祥地でもある常陸国の水戸徳川家[5]の藩祖となった末弟の頼房の家臣団に加えられた。松平信
条松平家) : 別名は家次。東条松平家(東條松平家)の祖である松平義春の孫、忠茂(甚太郎)[1]の子。松平広忠(家康の父)の又従弟でもある。嗣子がなく、族子でもある惣領家の家康の子で族孫の忠吉(ただとみ)を婿養子に迎えた。松平家次 (桜井松平家) : 桜井松平家の祖である松平信定
・蒋王の李惲・越王の李貞・晋王の李治(高宗)・紀王の李慎・江殤王の李囂の弟、趙王の李福・曹王の李明の兄。631年に代王に封じられたが、同年に嗣子なくして没して、「殤王」と諡された。李簡 (五代十国) : 呉の烈祖景帝の楊渥の部将。青州鎮守の王師範に呼応した潤州団練使・宣州観察使の
平氏良文流の系統で、良文の末子である平忠光を祖とする。忠光の子の忠通・忠高・常高、忠通の子の村岡為通・孝輔、為通の子の為次と続いたが、為次に嗣子がなく、村岡氏はついに断絶した。村岡氏 (相模国) : 「相模村岡氏」とも呼ばれる。本貫は相模国高座郡あるいは鎌倉郡村岡郷[3]。大田部
えた同族の山本佐竹家の名跡を継いだことからはじまるという(近江源氏)。遠縁筋の上記の佐々木氏流六角氏一門の京極氏の被官となったが、貞綱自身に嗣子がなく、近江国の国人衆の何某を婿養子に迎えて、彼が近江松山氏の祖となったという。この系統から、近江桜井氏・井江田氏などの庶家があった。戦
条松平家) : 別名は家次。東条松平家(東條松平家)の祖である松平義春の孫、忠茂(甚太郎)[2]の子。松平広忠(家康の父)の又従弟でもある。嗣子がなく、族子でもある家康の子で族孫の忠吉(ただとみ)を婿養子に迎えた。脚注[]↑ 忠治の兄。↑ 忠吉(甚次郎)の弟。この記事は 『松平家
頼将/頼信)・徳川頼房らの異母兄。妻は徳川四天王のひとりの井伊直政の娘。族祖父である東条松平家の当主の家忠こと家次(上記の甚次郎忠吉の甥)が嗣子なくして逝去すると、その養子として後を継いだ。1600年秋9月の『関ヶ原の戦い』で岳父の井伊直政の進言で、豊臣氏(羽柴氏)の武将の福島正
鎌倉氏(源家/相模源氏)の庶家。旭(朝日)将軍・木曾義仲(帯刀先生・義賢の次男)を祖とする信濃源氏であったが、子の義隆・義宗(夭逝)の代で、嗣子がなく断絶した。下野源氏の下野堀江氏(摂津堀江氏)・源姓吉見氏(武蔵源氏/能登源氏/石見源氏)・阿野鎌倉家(駿河源氏)・下野中村氏(下野