塔1960_12/15

ページ名:塔1960_12/15

神の目的とエホバの証者[]

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第七章

反対の根本を暴露する

トム:ジョンさん、先週あなたは宗教指導者たちが教義の点でラッセルに応答しようとした、と仰言いましたね。それは、どう行われたのですか。

ジョン:それは限られた努力で、実際のところ彼らの目的は失敗に帰しました。幾十万、幾百万という聖書の冊子やパンフレットが(ペンシルバニア州の)ピッツバーグ本部から遠い所にまで配布されるに

つれて、牧師の反対はますますはっきりした形をとるようになりました。牧師の反対はますますはっきりした形をとるようになりました。これらの著名な指導者たちは、なんらかの手を打たねばならないと感じたのです。彼らは、福音伝道同盟の認可しない者が聖書のことを権威をもって語ることに反対しました。ラッセルは、この同盟に属している大きな宗派の経営した神学校を卒業した者ではありません。それで、牧師たちはものみの塔協会の会長であったラッセルを嘲笑し、特に彼が「パストー」(牧者)と呼ばれることに反対しました。彼らは無節操な新聞を自分たちの道具として、ラッセル個人について、また彼の妻との間の不和について偽りの醜聞をつくりあげて、ひろめました。(イ)[:マリア・ラッセル婦人は精神的の虐待(ものみの塔誌に女性の寄稿:指導は載せられないこと!!セヴ…・アドヴェンチスト派のエレン・ホワイトの前例??!虐待みたいなもの、啓示の書のかの女イゼベルにならないようにラッセル兄弟によって止められた!!事実は?!も?!立派な聖書の宗教の木であるので、腐った実は産み出されない?!)姦淫生活は??!だったと弁護士の裁判所の記録員は述べている、それも、その事件の後でも、それについて言及しなかったと所見を述べている。共同被告はいなかったと!!ふれ告げる人/646頁。]

それから、一九〇三年の三月十日、牧師たちの同盟は、高い教育を身に着けて弁論に巧みな人を選んで、ラッセルの聖書解明に返答しようとつとめました。彼らは、六日間の公開討論会を開いてラッセルに挑戦しようとしました。実際には、これはラッセルの信用をなくして、ラッセルを「無知で無学の人」とばくろするための別の試みでした。ラッセルの討論相手は、ピッツバーグ、ノース・アベニュー・メソジスト監督教会の牧師イー・エル・イートン博士でした。申し込みをうけてから二日以内にラッセルは、誠実な気持ちをもって、この申し込みをうけ入れ、討論は記録破りの聴衆の前でピッツバーグのカーネギー・ホールでその年の秋に行われました。

最初の討論は十月十八日の日曜日の午後に討論されました。イートンは、救いをはかる神のめぐみは人類の堕落の時から始められ、死後には裁きがないと聖書が教えていると肯定の論を提出しました。ラッセル

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………

(イ)(一九一五年)ジェー・エフ・ルサフォード「教会上の天における大きな戦い」(英文)七ー一〇頁、「神聖ならざる同盟」

[476]

は、聖書的に否定しました。

第二番目は、十月二〇日、火曜日の夜、ラッセルは死者の魂が無意識でその体は墓の中にあることを聖書は明白に教えていると肯定の論を提出しました。イートンは否定しました。

第三番目は、十月二二日の木曜日の夜、救われる者はみな霊者になり、大審判の後に天に入る、と聖書は教えているとイートンは肯定の論を提出しました。ラッセルは否定しました。

第四番目は、十月二七日の火曜日の夜、ラッセルは、福音時代の「聖徒」だけが「第一に復活」に参加する、と聖書が教えていると肯定の論を提出しました。また大ぜいの群衆は、その後の復活によって救われると論じました。イートンは否定しました。

第五番目は、十月二九日の木曜日、ラッセルは、キリストの再臨と千年統治の両方の目的は、地上の全家族を祝福することである、と聖書が教えている、とラッセルは肯定の論を出し、イートンは否定しました。

第六番目の最後の討論は、十一月一日の日曜日でした。罪に対する神罰はついには矯正不能なものに加えられるもので、永久につづく、想像を絶する大きなくるしみであると聖書は教えている、とイートンは論じました。ラッセルは、この地獄の教理を強く否定しました。(ロ)

マリア:その討論に出席していたある人々は、興味深い物語を話しています。もちろん、幾千人というメソジスト派の教会員およびピッツバーグの地方の他の宗派の者だけでなく、兄弟たちはみな出席しました。最初の夜、ラッセルが会場に着いた時、びっくりしたことにイートン博士だけでなく数人の著名な新教徒の牧師が演壇の後ろにいて、委員会のような形式で坐っていました。イートンは討論の間中これ等の牧師からノートを幾度も手渡され、討論の際の指導も受けたのです。一方、ラッセルは全く一人だけで立ちました。幾年かの後、出版物に出たこっけいな漫画には、パストー・ラッセルを獅子の穴にいたダニエルとして表わされていました。

「地獄の火」は消された

​ロイス:この討論の結果は何でしたか。

​ジョン:全体としてラッセルは六つの討論の一つ一つに勝利を収めました。特に、最後の地獄についての討論に勝ちました。出席していた牧師の一人は、その勝利を認めて、最後の討議が終わった後にラッセルのところに来て「あなたが地獄にホースを向けて、あの火を消すのを見てうれしく思った」と告げたそうです。(ハ)さらに、それからあとはイートンの会衆に属していた大勢の人々はエホバの証者になりました。全くのところ、今でも生存しているある年老いた兄弟たちは、かつてイートンの会衆の会員でした。これは、背教の偽りの教理に対する真理の力を強力に表すものでした。

​トム:「地獄の火」の教理を信ずる人がいるなど、ちょっと考えられませんね。愛の権化と考えられる神が、そんな場所をつくるなどということを信ずるのは、理に合いません。

​ロイス:私もとうてい信じられません。しかし、私たちの教会は、地獄の火については多く教えていません。子供の頃から、教会で地獄についての話を聞いた覚えはありません。

ジョン:ロイスさん、多分その通りでしょう。教会の教えがこのよう変化したのは、科学の知識が進歩したからではありません。そのわけは、あの牧師がパストー・ラッセルに告げた言葉どおりです。初期の聖書研究生たちは、聖書の教えを大々的に伝える仕事を行ない、象徴的に言って地獄の火を消しました。このことは、著名な宗教指導者や福音伝道者の怒りを引き起こしたため、これらの初期の証者たちはしばしば、「地獄否定者」と嘲笑的に呼ばれました。もちろん、その仇名のつけ方は正しくありません。エホバの証者は、「地獄」と訳されている聖書の「ショオール」をたしかに信じているからです。地獄はくるしみの場所ではありません。聖書中の地獄は、人類の共通の墓である、と聖書は明白に示しております。死人は、復活の時までその場所にいます。

​パストー・ラッセルは、この地獄についての論題をひろく用いました。そして彼の最も人気のあった講演の一つは、「地獄へ行って帰って来る[:戻る]」でした。一九〇五年から一九〇七年までのあいだ、ラッセ

ルは特別な汽車か自動車に乗って、アメリカ合衆国とカナダ中を旅行し、一日間の大会を開きました。この大会のときに、この公開講演が中心になりました。両方の国のほとんどの大都市では、会場は聴衆でいっぱいでした。(ニ)このすばらしい講演の中で、パストー・ラッセルは、聴衆を機智に富んだ、こっけいな想像上の旅行に誘い、地獄へ行って戻ってきました。この講演の中でラッセルの提出した反論不能の論議と、この全期間中聖書研究生の提出した論議は多数の人々に永久の印象を与えました。

​ラッセルの「大会自動車」や「大会列車」時代については、たくさんの興味深い物語が伝えられています。たとえば、カリフォルニア州のオークランド市では、兄弟たちは推定した数の聴衆を収容できるだけの大きな会堂を借りることができませんでした。それで、代表者は日曜日午後の公開講演のために、オークランド市内にあるいちばん大きなメソジスト教会を借りることにしました。その契約に著名した教会側の人は、講演の題を知っていなかったのです。講演の日より一週間か二週間前になって、いつもの通りビラがまき始められ、幾千人もの人を講演に招待しました。そして、新聞や掲示板には、有料の広告が大きく出され、「オークランド・メソジスト教会で行なわれるシー・ティー・ラッセルの講演『地獄へ行って戻る』に出席しなさい」と発表されました。

教会の長老たちは、たいへん怒って、その契約をすぐに破ろうと欲しました。弁護士からの忠告で、長老は契約を破ることができるが、しかしラッセルが訴訟を起こすなら、ラッセルの言う通りの金を支払わねばならぬと知りました。それで、その弁護士はなし得る最善のことは、集会の時が来たとき、門番を居らせないようにすることだ、と教えました。

__________

(ロ)一九〇三年の「ものみの塔」(英文)三九一頁。この六つの討論の内容全部については、一九〇三年十一月二日のピッツバーグ「官報[ガゼット誌]」を見なさい。

(ハ)ジェー・エフ・ルサフォード著「教会の天での大いなる戦い」(英文)一〇頁。

(ニ)一九〇五年の「ものみの塔」(英文)二二四ページ。一九〇七年の「ものみの塔」(英文)一一二頁。

[477]
 パストー・ラッセルは、いつもの通り、予定されていた講演の時より一時間早く会場に到着しました。おどろいたことに、大ぜいの人々は教会の外に立っていたのです。ラッセルは、いったいどうしたわけかとたずねました。責任を取っていた兄弟たちは、門番がいないので教会に入れないと告げました。「契約をしてあるのでしょう。そして、いくらかの前払いもしてあるのでしょう?」とラッセルは聞きました。兄弟たちが、「そうです」と答えるのを聞いたラッセルは、「それでは、この場所は法律的に言って次の数時間は我々のものである。もし正面から入れないなら、兄弟のひとりを地下室へもぐりこませ、人々のために戸を開けなさい」と彼は告げました。兄弟たちはその通り行なって、その大きな集会はオークランド・メソジスト教会で成功裡に行なわれました。

反対は進歩を止めることに失敗

……………………

…………この頃には、真理の種子は遠い地の南アフリカ、(ト)日本(チ)そして英領西インド諸島の良い地に落ち始めました。ジャマイカのキングストンで大会が開かれ、四〇〇人が出席し、公開講演には六〇〇人が出

席しました。(リ)アメリカ合衆国内でも拡大はつづき、一九〇八年までには、オハイオ州ブットーイン・ベイで八月二九日から九月七日まで大会を開き、四、八〇〇人という推定最高数の人々が出席しました。(ヌ)

幾百万冊という文書は配布され、この時までには三〇、〇〇〇人がものみの塔の予約者でした。そして、そのうちの幾千人という人々は、神の御言葉を知りたいと切実に願っていた他の人々に、聖書の真理を伝えることに参加しました。さらに、聖書の真理にたいするこの大きな要求にこたえるため、またキリスト教国の牧師の反対にうちかつため、そしてこれら誠実な聖書研究生たちに順次啓示される真理の洪水に歩調をそろえるため、新しい文書がたえず出版されました。そして、最初は一部分しか理解できなかった真理は、はっきりと分かるようになり、洗練されました。

トム:ラッセルが行なった討論は、イートンが相手の時の一回だけでしたか。

ジョン:そうではありません。一九〇八年、新教徒たちは、キリストの弟子派に属する長老エル・エス・ホワイトを挑戦者にしました。この派は、アメリカ南部でいちばん大きな新教徒の群れの一つです。この群れは、ラッセルの大きな人気と、大聴衆を講演に呼び集め得るラッセルの能力を巧く利用して、この公開討論会をキリストの弟子派の宗教復興会に変えようと希望しました。しかし、パストー・ラッセルは、彼らの動機をあやしみ、討論の行われるオハイオ州シンシナティ市で、この期間中に八日間の大会をひそかに取りきめました。もしこのことがなされなかったら、シンシナティ市の小さな会衆は、そこに出席を予定されていたキリストの弟子派の者たちの数で圧倒されてしまったでしょう。一九〇八年、二月二三ー二八日までに予定されていた六つの討論は予定通りに行なわれて、幾千人という人はラッセルの楽勝を目撃しました。ラッセルは、この時までには討論がたいへん上手になっていました。(ル)討論の全文とラッセルおよびエルダー・ホワイト両人の写真は、シンシナティ市の「エンクァイアラー」(英文)に掲載されました。(オ)たぶんこの一連の討論で得られた成功は、エルダー・ホワイトの提唱した討論会後の宗教復興運動の結果から判断する

ことができます。三月一日、日曜日午後の聖書研究生の大会最後の集会には、二、一〇〇人が出席しました。しかし、同じ日にエルダー・ホワイトが始めた宗教復興運動に出席した人の数は、彼を含めてわずか三一人だけでした。他の人々も挑戦を申し込み、それらの挑戦はうけ入れられました。が、最後の瞬間になると、挑戦者たちが申し込みを取り消すのが常でした。(ワ)

敵は内部から攻撃を加えた

ロイス:パストー・ラッセルと制度内の者とのあいだに問題がありましたか。

ジョン:ありました。いつでも、利己主義、ほこり、あるいは野心のために、物事がはっきり見えない人がいました。しかし、これらの反対者たちは、神が用いている経路の質、力そして忠実をためすのに役立ちました。はじめのころ、バーバーとのあいだに生じたあがないの教理についての問題をおぼえておられるでしょう。それからすこし経ってのち、その試験を通った者のひとりは、高等批評のわなに陥り、自分に従う弟子たちをひこうと努めました。(カ)

次のふるい分けは、それからすぐ後に起こりました。そして、たとえ意図が良いものであっても、主の径路と競争し合うことは、必ず失敗することを表わしました。その件について、ラッセルは次のように報じています。すなわち、仲間のひとりは、

「ものみの塔」と同じ形式に従い、別の新聞を開始して、神の計画の簡単な特色のいくらかを出版しようと図った。彼はある種の宣教者、第一人者の教師になろうと望んだ。彼はあがないの点で正しい側に立っ

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(ト)一九〇七年の「ものみの塔」(英文)五四ー五六頁。

(チ)一九〇七年「ものみの塔」(英文)二一五、二一六頁。

(リ)一九〇五年「ものみの塔」(英文)三二六頁。

(ヌ)一九〇八年「ものみの塔」(英文)二七五頁。

(ル)一九〇八年「ものみの塔」(英文)一九、七〇頁。

(オ)シンシナティ「エンクアイアラ」一九〇八年の八月十五日。(ワ)一九〇八年の「ものみの塔」(英文)八と一八頁。(カ)一九一六年の「ものみの塔」(英文)一七三と一七四頁。

[478]
た、と私は知っていたので、 彼の成功を祈り、彼の新聞、「シオンのデイスター[明けの明星:出版物:ふれ告げる人の本、28章ー621頁。]」(いまでは長年のあいだ印刷が中断されている)の見本一枚を一万人の我々の読者に紹介した。…………しかし、一年足らずのうちにそれは厚かましくも不誠実の道に走った。(ヨ)



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