聖書はほんとうに神の言葉ですか

ページ名:聖書はほんとうに神の言葉ですか

すべての国の人の

誠実な人々が求める

真理のために

1969年英文発行

1969年日本文発行

WATCHTOWER BIBLE AND TRACT SOCIETY

OF NEW YORK, INC.

International Bible Students Association

Brooklyn, N.Y., U.S.A.

英文初版3,000,000部

Is the Bible Really the Word of God?

Japanese

Made in the United States of America

アメリカ合衆国にて印刷・製本

以上[2]………………

[11]第二章

創造に関する創世記の記述--真実ですか、作り事ですか

[14]

………………

これは本当ですか。科学者は宇宙の起源について何らかの概念を抱いているのではありませんか。確かにそうです。事実、三つの異なった説があります。それは一般に、「爆発説」、「定常説」「振動説」と呼ばれています。*

________


 * 爆発説」:宇宙は物質の塊が爆発してできた者であり、絶えず拡大しているとするもの。「定常説」:宇宙の構成は常に今日と同じであり、物質は絶えず形成されているとされるもの。「振動説」:宇宙は数十億年の周期で拡大と収縮を絶えずくり返しているとするもの。

[15]

創世記の記述がこれらの現代の学説の一つ、例えば「定常説」と合致したものとすれば、あなたは創世記に対する確信を深めますか。もしそうであるとすれば、「サイエンス・ダイジェスト」誌一九六五年十二月号の伝えた次のニュースは、その確信にどんな影響を与えるでしょう。

「宇宙定常説の支持者の筆頭ともいえる英国の天文学者フレッド・ホイルは、宇宙の起源に関する自分の過去二十年間の見解が誤りであったかもしれないことを認めた」。

では、残りの二つの学説のうちのどちらかが最も信頼出来るでしょうか。科学者R・M・ハーベックとL・K・ジョンソンは、「地球と宇宙科学」という本の中で、これら三つの学説すべてについて次のように述べています。そのことばの意味を考えてください。

「どれを取っても、他より特にすぐれているというわけではない。読者はどれでも自分の好む学説を選んでよい。あるいは、そのすべてを退けてもさしつかえない」--一九六五年版、二二四頁。

創世記の記述は、実際には、二十世紀の科学が提出する混乱した学説よりも先の事柄を述べているのです。どうしてそう言えますか。これらの学説は、宇宙を構成する物質もしくは物質を造り出すエネルギーがそもそもどこから来たか、という根本的な問題を扱っていません。しかし聖書はこの問題に答えているからです。

エネルギーと物質の根源

ストックホルムのスウェーデン工学会に所属する物理学者ハンス・アルフベンは、爆発説を支持する人々についてこう述べました。「爆発の前にどうなっていたかと問われると、この人々の説明

[16]

は全くあいまいになる。前期的な宇宙が存在したと唱える場合もある。……しかし、それ以前には何も存在しなかったという意味の説明を受けることも少なくない」。

「我々は宇宙がどのようにして生じたかを知らない。この点を正確に知ることはいつまでもできないであろう」ーー「世界と反世界」、一九六六年版、三、一七、一八ページ。

では、今日の学説のいずれかを奉ずるのは科学的なことであるが、神による宇宙の創造を創世記の記述どおりに信ずるのは愚かであると言えますか。科学者アラン・ブロムスが「出現する宇宙」という本の中で述べることに注意してください。ブロムスは定常説の主唱者についてこう述べます。

「彼はこの物質がどうして存在するようになったかを説明しない。ただ(少なくとも当面のあいだは)その物質の漸進的な生成に対

[17]

する信仰(つまり、科学上の信仰)を求めている。もとよりこれは、なんらかの明白な事実によって少しでも理由が得られるなら、直ちにその信仰を取り消すという意味である。……そして、余りにも多くのことをただ信仰によって受け入れねばならないという不審に対しては、わたしたち自身も、物質が存在するようになったいきさつについてはそれ以外に言いようがないこと……そしてわたしたちが爆発説に従うのもほとんど信仰に基づいているという点を指摘する」ーー一九六一年版、一八ページ。

つまりこれは、時代に応じて書き改める必要のなかった聖書の記録を信ずるか、あるいは、変わりやすい人間の理論に盲従するかの問題です。

現代の科学者の多くが認めている興味ぶかい事柄が一つあります。つまり、今日の科学者は、アインシュタインの関係式に従い、物質をエネルギーに変えることができるのと同じように、エネルギーを物質に変えることができると考えています。もしそうであるとすれば、膨大なエネルギーの根源であり、理知を持つ者にとって、物質宇宙の産出は決して不可能ではありません。聖書はそうした根源者について述べているのです。

「なんじら眼(め)をあげて高(たかき)をみよ たれかこれらのものを創造せしやをおもへ 主は数をしらべてその万象(ばんざう)をひきいだしおのおのの名をよびたまふ 主のいきほひ[新世界訳の字義訳では、エネルギー]大(おほい)なり その力のつよきがゆえに一(いつ)も欠(かく)ることなし」ーーイザヤ書四〇ノ二六。

聖書はその方をヱホバ神と呼んでいます。ーーヱレミヤ記一〇ノ一〇ー一二。

六日間

では、宇宙の年齢についてはどうですか。「サイエンスイヤー」一九六八年版は、「元素の誕生」について述べ、それを「今から七十億ないし百五十億年前」としています。しかし創世期は、宇宙の創造を約六千年前、しかもわずか六日間でそれがなされたと述べているのではありませんか。

[18]

そうではありません。創世記は「六日」間のことを述べていますが、それは一個の惑星としての地球に関して述べているのであり、宇宙全体について述べているのではありません。聖書は、地球を構成する物質がいつ存在するようになったかについては述べていません。「六日」という表現は、すでに存在していた地球を整えて人類のすみかとすることに関してだけ用いられているのです。一節の述べる物質宇宙の創造の「はじめ」から、三、四節の述べる「第一日」の開始までに、どれだけの時間が経過したかは示されていません。それで、「はじめ」の時がいつであるかについて沈黙している聖書は、宇宙の年齢に関する今日の推定と相いれないわけではなく、またそうした推定が将来修正される余地をも与えています。

「それでも、『定型がなく、荒涼としていた』とされる地球が、二十四時間を一日とするわずか六日のうちに、陸地と森林と植物があり、動物や人間のいる今日の姿に変わったとはやはり考えられない」と言う人がいます。しかし創世記はどこで、六日間の各一日が二十四時間であると述べていますか。創世記が言う六日間の各一日は二十四時間であると教える宗教グループがありますが、創世記そのものはそのようには教えていません。「わたしのおじいさんの日には」と言う場合のように、あなたご自身も、「日」ということばを広い意味で使うことがあるでしょう。同じように聖書も、「日」ということばを広い意味で使うことがあるのです。--創世記二ノ四。

創世記の第一章に述べられている作業は神のものであって、人間のものではありません。この点を忘れないでください。人間が存在するようになったのは、ここで論じられている期間の最後です。それで、ここで述べられている時間の幅が、人間の用いるものではなく、神の観点に立つものであっても不合理ではないでしょう。神の作業の「一日」は地球の自転によって支配されるでしょうか。明らかにそうではありません。神について、聖書はこう述べています。「ヱホバにとって、

[19]

一日は千年のようであり、千年は一日のようである」。(ペテロ後書三ノ八、新)そして神にとっても、「日」ということばには幾つかの意味があります。そのことは右の聖句と次にあげる詩篇九十篇四節とを比較すればわかります。「あなたの目には、一千年も……[一日ではなく]夜の間のひと時のようです」--新。

ここで明らかなように、「日」ということばは、二十四時間の一日だけでなく、人の生涯七十歳から八十歳(詩篇90篇10節)一千年間、アダムの一生涯。930歳で沒したと考えられます。

地球の初期の歴史

創世記は地球の歴史のごく初期の段階について述べていますが、わたしたちは今日の科学によってこれが実証されることを期待すべきですか。そうではありません。そして、それには十分な理由があります。今日の科学はこうした問題に対する自らの説明をまだ模索しているのです。地球物理学者アーサー・ペイサーはこう語ります。

「地球の大きさと形に関する知識は、古代ギリシアの幾何学に始まり、[ケープケネディから発射される]今日のロケットにまで発達しているが、地球の起源、および地球の正確な構成に関する理解は不明確なことでむしろ知られている。……大陸がどのようにして出現したか……これは地球に関する難問の一つである。……今日提出されている仮説は地上にある大陸の数よりはるかに多い-地質学者の数と同じだけの仮説が提出されていると言ってもよいだろう」5[1]

J・H・F・アングローブ教授はこうした理解の不明確さをさらに率直に認めています。

「我々に加わって、地球の幼児期という未知の領域へ、ほとんど詩的とも言うべき探求に同行しようと

[20]

する者はみな、その最初から、しっかりした足場は一つも得られないことを警告されている。しかしそれは、我々がこの分野にはいってはならないということではない」。6[2]

宇宙の起源に関する問題と同じように、地球の初期の歴史についても、ニ十世紀の科学はまだ暗やみを手さぐりしているのです。であるとすれば、創世記の記述の正確さをはかる基準として、どうして今日の学説に頼ることができますか。

創造に関する創世記の記述がきわめて簡潔であることは確かです。ではそのゆえに、創世記の記述はあなたにとって「非科学的」なものに見えますか。そのように考えてはなりません。何故ですか。簡潔さに含まれる価値と説得力を、現代の科学者も否定できないからです。「変動する地殻」という本は、アインシュタインの科学思想において「簡潔さはおもに考慮された点の一つであった」と述べています。創世記は簡潔な記述の中で、人類が持つ主要な疑問に答えており、その点で注目に値するのです。

「科学は実証に基づく学問であるが、人間の幻想、気まぐれ、考え違いなどの影響を受けないわけではない。……科学は確かさではなく、確からしさに出発し、またそこに終わるものである。……科学上の推論に決定的なものはない。科学者は、『現段階において、事実はしかじかである』と言うにすぎない」。7[3]

この点を心にとめて、創世記の記述に対する批判の幾つかを取り上げましょう。


………………

_______

  1. 5 .「地球」、一九六三年版、三五、三八、八七ページ。
  2. 6 .「変動する地殻」一九五八年版、一三三ページ。
  3. 7 . 「拡大する宇宙に神の存在する証拠」、一九五八年版、三四ページ。

[29]

アダムとエバ

創世記の中で最も攻撃の対象とされてきたのは、エデンの園における最初の男と女の創造に関する記述でしょう。

「神そのかたちのごとくに人を創造(つくり)たまへり すなはち神のかたちのごとくにこれを創造(つくり)これを男と女に創造(つくり)たまへり」--創世記一ノ二七。二ノ八。

アダムとエバに関する記述の真実性を得心するのに何が必要ですか。紀元前四〇二六年の「エデン・タイムズ」を見、創造の様子を写真で見なければ納得できませんか。もとより、そのような新聞はありません。しかし、理性的に考える場合、聖書のこの記述に対してどんな反論を上げることができますか。人間の最初に対してどんな根拠で疑えますか。最初の夫婦が存在したという考えは「非科学的」ですか。

その答えとして、パリで発行された国連教育科学文化機構の一出版物にある次のことばに注意してください。

[30]

「ずっと昔まで何百世代もさかのぼるならば、我々すべては同じ所に達するであろう。それは人類の系統樹の根元に位置する最初のホモ・サピエンスである。……我々人類の共通の先祖をアダムと呼んでもよいであろう。アダムとはヘブル語で人間と言う意味であり、アダムに関する聖書のなじみ深い物語は、現代人が共通の先祖から来たという科学上の発見をあらかじめ示していたからである』。11[1]

そして別の科学書「人種と人類」はこう述べています。

「全人類の父母とされるアダムとエバに関する聖書の物語は、今日の科学が発見した真理を幾世紀も前から言い表わしていた。すなわち、地上のすべての人々は一つの大きな家族であり、共通の源から出ている五のである」--一九五一年版、三、四ページ。

科学者がこのような結論に達したのはなぜですか。人類学者M・F・アシュレー・モンターギュはこう説明します。

「人間の仲間にはいろいろな変異があっても、そのすべては同一の種(しゅ)に属し、遠い時代の同一の先祖から出ている。これは比較解剖学、古生物学、遺伝学などの明白な証拠に基づく結論である。遺伝学的な点だけから見ても、さまざまな人種が個別的に発生したとはとうてい考えられない」。12[2]

あらゆる人種の人間はみな同じ体制を整え、異人種間でも結婚して子供を産み出すことができます。この事実は、わたしたち人間すべてが初めの一組の男女から派生して来たことを示しています。ではなぜこの最初の先祖をアダムおよびエバと呼んではならないでしょうか。

最初の女の創造について創世記にしるされている事柄を嘲笑する人がいます。創世記によると、アダムが眠っている時、神はそのあばら骨の一つを取り、『アダムから取った肋骨(あばらぼね)をもって女をつ

[31]

くり、これをアダムの所につれて』きました、(創世紀二ノ二一、二ニ)このことを信じられない人がいるかもしれません。しかしそうした人々でも「ライフ」誌一九六五年九月十日号に載ったような記事をまじめに読

[32]

み、またそれに深い興味を覚えるでしょう。その記事は植物の細胞に関する生物学者の実験を扱ったものでしたが、その一部は次のように述べていました。

「彼ら[生物学者]は動物の細胞についても同様な成果を期待している。それで、世界最大の天才の皮膚から細胞一つを取り、それをもとにして、あらゆる点で同一の特性を備えた別の人間を作り上げる日の到来を夢見ても、それは決してばかげたことではない」--七二ページ。

それで、科学者が一個の細胞から男や女を作り出すと言う話をまじめに聞きながら、神が一本のあばら骨から女を造り出したということを受け入れにくいとする人がいるのです。そうした人々は、「神」ということばのかわりに「科学者」ということばが使ってあったなら、創世記をより「受け入れやすい」ものと見るでしょう。

___________

  1. 11.「人種とは何か」、一九五七年版、一一、一二頁。
  2. 12.「最も危険な神話、人類に関する誤謬」、一九六四年版、八三ページ。

第十三章

キリスト教国の諸教会は聖書を正しく代表していますか

多くの人の心の中で、聖書とキリスト教国とは密接に結びついています。キリスト教国とは、キリスト教を自任する宗教が広く行き渡っている土地や国をさします。キリスト教国に住んでおられるかたなら、他の国の非常に多くの人々が、キリスト教国の過去の歩みのゆえに、聖書に対する関心を持たなくなっていることを知って驚くかもしれません。キリスト教国以外の土地に住んでいるかたなら、このことの意味を理解されるでしょう。

たいていの人々が、戦争、圧制、不一致、犯罪などを望んでいないことは確かです。ところが、神を代表すると唱えるキリスト教国において、憎悪と利己心に由来する激しい争いが繰り返され、その頂点をなすものとして、殺りくをほしいまゝにした二度の世界大戦が起きました。そして二度目の大戦の時、キリスト教国の一つは、敵対する非キリスト教国民の上に原子爆弾を投下し、原子力戦争を世に紹介しました。

もとより、犯罪は世界のどこの土地にも見られます。しかし、神のことばに従うはずのキリスト教国に、他の土地より犯罪が少ないことを期待するのは当然でしょう。ところが、キリスト教国における犯罪の発生は驚くべき比率に達しており、その度合いはほかの土地に類例を見ません。こうした状態は多くの人を聖書から引き離しています。これは当然なことですか。この点を調べましょう。

ここで答えるべき大切な問題があります。つまり、キリスト教国の諸教会は聖書を正しく代表していますか。聖書の諸原則を実践してきましたか。ほんとうにキリストを代表し、周囲の諸国民に真にキリスト教的な影響を与えてきましたか。これらの問いの答えが、「否(いな)」であるとするならば、キリスト教国の諸教会は、人々に対し大きな詐欺行為をして来たことになります。正直な態度で事実を検討しなければなりません。

聖書に対するキリスト教国の態度

聖書はキリスト教国において最も広く頒布(はんぷ)されています。キリスト教国内の諸教会に属する人は、たいてい自分の聖書を持っています。しかし、本を持っていれば、それを読んだことになりますか。たとえ読んだとしても、それを信じていることに自分は信じていると唱えても、その本の教えを実践していることになりますか。むしろその本は、その人の行為を非としているかもしれないのです。

キリスト教国の人々は聖書をどれほど読んでいますか。一九六一年、東京の「読売新聞」は、聖書協会連盟事務総長のことばを次のとおり引用しました。

「今日でも、幾百万もの人々が聖書を手に入れている。しかし非キリスト教徒による以外に、聖書はほとんど読まれていない」---一九六一年六月一一日付。

著名な宗教雑誌「クリスチャン・センチュリー」の一九六二年九月五日号は、この点をさらに率直に述べました。

「ほんとうに正直に言うならば、閉じた聖書、しかもほこりがたまり、色あせた死亡告知書のいっぱいはさまった聖書こそ、新教の現状の良いシンボルであろう」。

聖書を読んだり調べたりしない人々を、聖書の代表者とみなすことができますか。

[164]

しかし、聖書に対してこのように無関心なのはなぜですか。宗教指導者、つまりキリスト教国諸教会の会員を教える牧師たちについてはどうですか。そうした人々は聖書に対して深い関心、また深い認識をいだいていると考えがれるかもしれません。しかし、実際にそうですか。

カトリック系の新聞「ルクセンブルガー・ワート」は、その一九六五年一月十六日付の紙上で、ルクセンブルグにおける実情を伝えました。

「司祭をも含む我々カトリック教徒の大多数が、聖書の全体はおろか、新約聖書をさえ全部読んでいないことは……いかにも悲しい現状ではないか」。

キリスト教国に見られる聖書に対するこうした関心の欠如は、教会員およびそれを導く牧師たちの単なる怠慢の結果ですか。そうではありません。問題はさらに深いところにあります。それは単なる関心の問題ではありません。それは信仰の問題なのです。次にあげるようなことばを、あなたご自身もお読みになったことがあるでしょう。新聞や雑誌に幾たびも報道されているからです。

オーストラリア、メルボルンの「エイジ」紙は一九六七年二月十八日付の紙上に、英国教会の一教区牧師のことばを引用しました。その牧師は、「旧約聖書にある事柄の八割は博物館に収めるべきものである」と語ったのです。

ドイツのニュース雑誌「デル・シュピーゲル」はこう伝えました。

「[神学]教授の中には……聖書について『批判的な解釈』をし、聖書を神話、象徴、おとぎ話、詩、写実などの集成にすぎないと見ている者が多い」----一九六一年八月一六日。

 アメリカでは、長老派の主要な教会が、聖書を「誤りのないもの」とは考えないとの見解を発表しました。52[1] そして「タイム」誌の一記事53[2] によると、メソジスト派の保守的な一神学者は、

[165]

ミシガン州の大学生に対し、「聖書は西欧文明史上の神話を集大成したものである」と教えています。*

 このすべては最近始まった傾向ではありません。一九二九年、バプテスト、組合教会、聖公会、福音教会、ルーテル派、メソジスト派、長老派などの神学生五百人に対し、「聖書に神話や伝説は全くないと思うか」との問いがなされました。しかし、答えた者の九五パーセントは、「そうは思わない」54 [3]と述べたのです。この答えは、これらの神学生を教えた年長の宗教指導者の考えを反映していました。今日見られる大きな相違といえば、キリスト教国の牧師が、聖書を霊感による神のことばと考えていないという態度を、いよいよあからさまに表明していることです。

聖書の神に対する態度はどうか

聖書が霊感の下にしるされた神のことばであることを否定するこれらの宗教指導者は、実際には、神を口のきけないおし、人類に意志を伝えることのできない者としているのです。さらに、神が地球と地上の人間に対して処置を取り、ご自分の至上の力と意志を表明されることに関する聖書の記述に対して、人々の信仰を弱めようとさえしています。これらの人々は人間的な考えで説明できる部分だけを受け入れ、実際には、神を、人事について無力な者としているのです。

したがって、聖書の真実さを否定するにとどまらず、それをはるかに超えた事柄をさえ行う宗教指導者がいても不思議ではありません。それは、「神は死んでいる」、または『神は現代史に不在である』と唱える神学者たちです。このような考えは、聖書が霊感によってしるされた神のことばであることを否定した当然の帰結です。「神は死んでいる」と唱えているのはどんな人々ですか。

________

* ついでながら、聖書は「西欧文明」の態度ではありません、聖書は主として中東地方で書かれました。

[166]

カナダの牧師E・ハリソンは、「神のいない教会」という本の中でこう書いています。

「『神はもはやいない』という本を著わしたワーナー・ベルズは英国教会の教区牧師である。……『神が存在するとしても、我々はそれを至上者と見ることはできない』と唱えているのは、大学礼拝堂の司祭ジャクソン神父である。また、『無神論的なクリスチャンの福音』という本を書いたトロントの一教区の指導者である。わたしは自分がクリスチャンであり、聖公会の一員であると唱えている。しかしわたしはまったくまじめに、5555.神はいないと言うことができる」----一九六六年版、三九ページ。

これらはキリスト教国牧師の中の少数の例外ではありません。「ナショナル・オブザーバー」紙は次のように伝えました。「『神は死んでいる』というう風潮は、四十歳以下のプロテスタント神学者の九割に浸透している」。これらの牧師は自ら「クリスチャン」と唱えているのです。

牧師は聖書の道徳律に対してどんな態度をとっているか

キリスト教国の諸教会は長年のあいだ、道徳の看守者と自任してきました。しかし宗教指導者は、社会で聖書の原則が実践されることにほんとうに関心をもっていますか。社会秩序の崩壊、離婚、飛行、暴力、犯罪などが増大する今の時代にあって、教区指導者自身はなんと述べていますか。

聖書の道徳基準にあいまいなところはありません。この点をまず心にとめてください。たとえば、使徒パウロはこう書きました。

「なんぢら知らぬか、正しからぬ者の神の国をつぐことなきを、自ら欺くな、淫行の者、偶像を拝むもの、姦淫をなすもの、男娼となるもの、男色を行ふ者、盗(ぬすみ)するもの、貪欲のもの、酒に酔ふもの、ののしるもの、奪ふ者などは、みな神の国をつぐことなきなり」---コリント前書六ノ九、一〇。

[167]

聖書は、性交を結婚関係にある者だけに限っています。この点はきわめて明確です。聖書は、「淫行を避けよ」、「淫行をつゝし(め)」、また「結婚の床を汚してはならない。神は淫行を行なう者や姦淫を行なう者をさばかれるからである」と率直に述べているのです。(コリント前書六ノ一八。テサロニケ前書四ノ三。ヘブル書一三ノ四、新)キリスト教国の教会指導者は、この点において、聖書の原則をどこまで忠実に教えていますか。

[嘆かわしいが、同性愛なども教会の教えに於いて容認する傾向にもあることなど、同性愛者の教会での結婚式など]

[171]

その動機は何か

わたしたちはキリスト教国諸教会およびその指導者の行為のゆえに、聖書が神のことばであることを疑うべきですか。決してそうではありません。むしろ、そのゆえに聖書のたいする確信を強くするべきです。なぜ?なぜなら聖書はそうした偽善的な行為を非としているだけでなく、こうした偽善的な人々の出現をも予告していたからです。また聖書は、そうした人々が聖書及びキリストの教えに反して行動する動機をも明確に指摘しています。

千九百年前、使徒パウロはこうした背教について次のように予告しました。

「人々健全たる教(をしへ)にたヘず、耳かゆくして私欲のまにまに己(おの)がために教師をまし加へ……るとききたらん」ーーテモテ後書四ノ三、四。

キリスト教国の牧師はただ、聴く者の耳を喜ばせることに努めてきました。それは自分の群れを大きくし、財政面でより大きな支持を得るためでした。人気を求めた牧師は、しだいに聖書の原則をゆるめ、聖書の正しい規準を退けました。昔、ぶどう酒を売り歩いた者の中には、水を加えてぶどう酒を薄めた者がいましたが、キリスト教国の牧師もこれと同じように、神の言葉を「水割り」しているのです。(コリント後書二ノ一七)そうした牧師、また宗教組織は、自らの意図通り、人々のさゝえとなっていますか。そうした人々が聖書を批判する場合、そのことばに何か権威を認めるべきですか。むしろその歩みは、道徳上の勇気、および聖書の高い規準をかたく守ろうとする意欲や力の欠けていることを示しているのです。

この点に関し、アメリカ、デンバーの第一不変救済教会の牧師が、キリスト教国牧師について述べた次のことばに注意してください。

[172]

「我々は、自分の所属する宗派から、自分の集める数字、つまり信徒数や伝道区の数、また資金や教会上部組織への財政支持などによって評価されている。「現代の牧師は多くの点で、身を売り物にする売春婦と異ならない。我々は容易に『組織人』と化する組織に自分を合わせることによって、自分に生涯の職を保証できるからである。そして、自分のふるまいに注目するなら、より大きな教会、より高い給料へと昇進できることを知っているからである。……結果として、我々は人の人格を築くよりも、教会を盛りたてることに心を奪われがちである。……我々は人々が聞きたいと思う事柄をいちはやくつかみ、それを与えるようになる」。60[4]

聖書は、「終わりの日に対処しにくい苦難の時が来る」こと、そして人々が「敬虔の形をとりながら、その力に於いて偽りな者となる」ことを予告していました。今日の、キリスト教国の諸教会およびその指導者はただ「形」だけを保っています。しかし、神のことばおよびそれが持つ音信の「力」は欠けているのです。聖書は、「これらの者から離れ」ることを勧めています。

背教はどのように始まったか

聖書の定める基準及び教えからのこうした離反は、紀元後数世紀の早い時代にすでに始まっています。キリスト教の基となられたイエス・キリストはこうした背教を予見され、あるたとえ話の中でそのことをあらかじめに語られました。イエスは、真のクリスチャンつまり「御国の子ら」を、畑にまかれた善い麦の種にたとえられました。畑とは「世界」のことです。ついでイエスは、神の敵である悪魔サタンが同じ畑に「雑草」つまり「邪悪な者の子ら」をまくであろうと言われました。神は「麦」と「雑草」の両方を「収穫」の時まで成長させておかれるのです。その収穫の時、神は「麦」

[173]

と「雑草」の区別をはっきりさせ、ご自分の収穫人に「麦」を集めさせ、「雑草」を焼かせるのです。ーーマタイ伝一三ノニ四ー三〇、三六ー四三。新。

イエスの弟子たちも背教の到来について同様の予告をしました。使徒パウロは小アジアのクリスチャンたちにこう警告したのです。

「我知る、わが出で去るのちあらきおほかみなんぢらの中(うち)に入りきたりて群れを惜しまず、またなんぢらの中(うち)よりも、弟子たちを己がかたに引き入れんとて、曲がれることを語るもの起こらん」ーー使徒行伝二〇ノ二九、三〇。

歴史の証拠は、こゝに予告されたおゝかみのようなものが出現し、多くの人々を聖書の規準から引き離して、世の標準に至らせたことを示しています。キリスト・イエスは、「わが国はこの世のものならず」とハッキリ言われました、また弟子ヤコブは、この世との友交を求める者たちを姦婦と呼んでとがめ、さらに「世の友になろうとする者はみな、自らを神の敵とするのである」と語りました。(ヨハネ伝一八ノ三六。ヤコブ書四ノ四、新)背教したクリスチャンはこうした聖書の教えを無視しました。西暦四世紀、ローマのコンスタンチヌス帝は形式上の「改宗」をしました。*これはキリスト教から背教した者たちが世俗的な恩典を得るきっかけとなりました。マクリントクとストロングの「百科事典」はこう述べています。

「福音の簡潔さは今やそこなわれた。ぎょうぎょうしい儀式や式典が導入された。キリスト教の教師に対しては、世俗的な名誉や報酬が与えられ、キリストの国はおゝむねこの世の国に変えられた」ー第二巻、四八ページ。

[174]

これは聖書に基づいたキリスト教ではありません。それはにせのキリスト教であり、人を欺くものにすぎません。聖書は、神の敵であるサタンが、イエス・キリストに対して、この世の国々の支配権を提供したことをしるしています。イエスはそれを退けられたのです。(マタイ伝四ノ八-一一)しかし、五世紀の法王レオ一世はこれと全く反対の態度を取り、次のように宣言しました。

「わたしはこの地上にもう一度支配を回復する。それはカイザルたちを連れもどすことではなく、わたし自身がキリストの代理支配者となり、新しい神権政治を布告することによってである。……わたしは普通の王冠ではなく、三重冠を着ける。それは宇宙主権の象徴であり其の前に異教の野蛮は逃げ去り、幸福が取り戻されるであろう」。61[5]

このことの結果は決して幸福ではありません。逆に、堕落と迷信的な慣習と流血の事態がもたらされました。西ヨーロッパには暗黒時代が到来したのです。聖書は一般の人々の言語からはほとんど完全に姿を消しました。これは聖書が最も読まれた時代ではなく、いちばん読まれない時代でした。これはキリスト教国が最大の権力と富と支配力とを得た時代です。こうして聖書の規準から離れたことが人々に何をもたらしたかを、定評のあるどの百科事典からでも読んでごらんなさい。十一世紀に始まった十字軍について読んでください。教会指導者は、東方世界に対し、破壊と略奪の徒を次から次に送り出したのです。十字軍のヱルサレム占領についてはどうですか。回教徒とユダヤ教徒が無慈悲に殺され、ヱルサレムは血の海となりました。現代の一歴史家による「文明の話」という本は、この「聖戦」なるものを的確に要約しています。

「簡単に言うならば、十字軍は、非道かつ無制御、またきえわめて放らつな蛮行の展覧であった。しかも、それがキリストの名を借りて行われたのである」ー五七ページ。

[175]

どうかご自分で判断してください。これらキリスト教国の人々は聖書のイザヤ書二章四節にある預言を成就していましたか。その部分はこう述べています。

「かれらはその剣をうちかへてすきとなし、そのやりをうちかへて鎌(かま)となし、国は国にむかひて剣をあげず戦闘(たゝかひ)のことを再びまなばざるべし」。

また彼らは使徒たちが教えたとおりのキリスト教に従っていましたか。使徒パウロはこう書きました。

「わたしたちは肉の形で歩んでいても、自分の肉の様に従って戦うことはしないからである。というのは、わたしたちの戦いの武器は肉のものではないが、堅固に守りかためたものをくつがえすために、神によって強力だからである」ーーコリント後書一〇ノ三、四、新。

そして、聖書のこの教えを心にとめながら、ローマ・カトリックの権威者が、「宗教裁判所の真相」と題する小冊子の中で述べることを読んでください。

「教会は拷問の採用および人々を杭につけて火あぶりにしたことに対するとがめを免れない。……我々は、拷問を採用し、幾千の異端者を刑柱上で火あぶりしたことに対する教皇の責任を率直に認める。教皇がこうした残酷で野蛮な手段を認可したことは、教理聖省の歴史の上で最大の汚点の一つであり、教皇権の汚名としていつまでも残るであろう」ー四七、四九ページ。

十六世紀に始まったプロテスタントの宗教改革は、暫くの間、聖書に対する関心を高めさせました。これは教育および立法措置という面で多くの進歩をもたらし、正義と寛容のわくを広げさせました。しかし、プロテスタント諸教会の宗教指導者は、聖書の勧め、つまりコリント前書一章十ー十三節(新)にある使徒パウロの次のことばに従いませんでした。

[176]

「さて兄弟たちよ、わたしたちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたに勧める。あなたがたはみな、語ることを一つにし、互いのあいだで争わず、同じ心、同じ思いになって、しっかりと結び合っているように。……キリストは分かれて存在しておられるのか」。

彼らは互いどうしのあいだで争っただけでなく、聖書と一致しない教えの多くを保ち続けました。その一つは、本質や永遠性において同等であるとされる三位一体の神に関する教えです。しかしイエスは「父は我よりも大(おほい)な(り)」と言われました。(ヨハネ伝一四ノ二八。五ノ一九、三〇)また彼らは、実際の火が燃え、神が邪悪な人間を責め苦しめる所とされる地獄の教理を捨てませんでした。しかし聖書は、死んだ者は「何事をも知らず」、また「罪の払ふ価は死」であり、永遠の責め苦ではないことをはっきり述べているのです。(伝道之書九ノ五、一〇。ロマ書六ノ二三)そしてプロテスタントの宗教指導者は法王の独裁的な権威を否定しましたが、牧師と平信徒の区別は改めませんでした。しかしイエスは、「なんぢらはみな兄弟なり」、また「おほよそおのれを高うする者はひくうせられ(ん)」と述べて、ご自分の弟子たちが称号で呼ばれるような地位に就くことを戒められたのです。--マタイ伝二三ノ八-一二。

プロテスタントの教会指導者はまた、国家との結びつきをも解きませんでした。彼らは、侵略的な戦争に携わり、帝国の建設を目指した国家政府の努力を支持し、祝福さえしたのです。キリスト教国の宣教師は諸外国で反感を買う場合が少なくありません。それはキリスト教国の諸教会と植民地主義との結びつきのためです。

十九世紀の半ば、キリスト教国が中国に対して行った「アヘン戦争」について知って居られますか。一九六六年九月二十三日付「ライフ」誌の次の記述をお読みください。

[177]

「一連の交戦において、彼ら[英国人]は、良い市場が存在するならどんな所にでも麻薬その他の貿易品を売り込むことが出来、[中国の]帝国政府はもとより、何者もそれを妨げ得ないことを実証した。………「一八五〇年代には、一年に四千トン[のアヘン]が中国に持ち込まれていた。……「アヘン戦争の主要な結果は、それによって五つの条約港が開かれたことである。そこでは外国の商人が自国の領事の下で生活し、商売をすることができた。また、宣教師の入国も許された。……「ヨーロッパ人はさらに譲歩を求めた。……そこでフランスとイギリスは連合して遠征隊を送り、一八六〇年に[中国の]首都にまで進撃した。………結局、中国はさらに港を開き、遠征隊の費用を払い、西欧側の使節を迎え入れることを余儀なくされた。また宣教師に対しては内陸地方全域にはいることが許された。こうして、四十年後の義和団事件の種がまかれた。それはきわめて反キリスト教的な性格を帯びたものであった」。

メソジスト派牧師ガブリエル・セロチアネが、一九六三年にウガンダで開かれた前アフリカ教会会議で語った事柄にも注意してくだ教会の進出は、し、探検家、植民者そして帝国主義者とさえ結びついていた。さい。彼はこう述べました。

「アフリカにおける教教会の進出は、投機師、探検家、植民者そして帝国主義者とさえ結びついていた。、探検家、植民者そして帝国主義者とさえ結びついていた。この大陸に……十字架を立てたのは、司祭や使徒的な伝道者ではなかった。それは血にまみれた兵士たちであった。………今世紀に至るまで、この大陸におけるキリスト教会は、与えられた教訓に反し、カイザルの衣のひもから自由になれないのである」。

したがって、キリスト教国の歴史と教えと慣行に基づいて聖書を評価するのは大きな誤りです。そのことは、著名な教会人であるハリー・エマソン・フォスディックのことばによく示されています。彼はこう自認しました。

[178]

「我々西欧世界の歴史は戦争に告ぎ戦争の歴史であった。………「我々は我々は自分の口の一端で平和の君をほめたゝえ、他端で戦争を栄化してきたのである。我々はキリストと殺りく、福音と組織的な殺害行為とを巧みに混ぜ合わせてきた。それで、東洋のある国に言った宣教師がクリスチャンの善意について説教をした時、土地の住民の一人が彼を呼んでこう言った。『この国の知識人は、キリスト教を戦争と流血の宗教と見ている。あなたはこのことを忘れてはならない』」。62 .[6]

多くの人々が聖書について偏見を抱いているのは、聖書に基づく真のキリスト教のためではなく、幾つもの教会に分裂したキリスト教国のためです。しかし、聖書そのものは、キリスト教国の歩みに対する神からのとがめのことばをのせ、キリスト教国がキリスト教の名を借りた全くの欺瞞であることを明らかにしています。次のことばは、キリスト教国及びキリスト教国の諸教会にあてはまるからです。

「(彼らは)みづから神を知ると言いひあらはせど、その行為(おこない)にては神を否(いな)む」ーテトス書一ノ一六。

キリスト教国は自分のまいたものを刈り取る

聖書の予告された「収穫」の時は今や到来しています。神の敵がまいた「雑草」であるにせのクリスチャンと、「麦」である真のクリスチャンとの相違は今や明瞭になっています。キリスト教国は、神の聖霊の実を生み出す霊的な楽園ではなく、分裂と不信仰と放らつな行ないとがはびこる雑草畑であることを明らかにしました。キリスト教国が世界の多くの場所に生み出したのは、「米をもらうためのクリスチャン」にすぎません。それは、物質的な利益のために教会員となった人々です。

聖書の教えはいかにも真実ではありませんか。

「神はあなどるべきかたではない。何ごとでも、人は自分がまいているものを刈り取るからである」---ガラテヤ書六ノ七、新。

[179]

神のことばである聖書に反するものをまいてきたキリスト教国は、今やその実を刈り取っています。それは、深刻な内部抗争、神学校入学志望者のはなはだしい不足、教会員の減少、教会の感化力の減退、政治への介入に対する批判、そして広範囲に及ぶ非行と不道徳行為です。政治に対する影響力を得ようとして政治権力に身を売ったキリスト教国諸教会は、「地の王たちを支配する国を持つ」象徴的な都、すなわち淫婦のような「大いなるバビロン」の一部です。(黙示録一七ノ一ー六、一八、新)次のことばは、異教国のみならず、キリスト教国にもあてはまるのです。

「わたしの民よ、彼女の罪にあずかることを望まず、彼女の災いをともに受けることを望まないなら、彼女から出なさい。彼女の罪は積もりつもって天に達し、神は彼女の不義の行為を思い出されたからである」ーー黙示録一八ノ四、五、新。

神が「わたしの民よ」と呼ぶ人々のひとりでありたいなら、あなたは、神のことばに関する導き、またその教えや原則に基づく行為の手本を、キリスト教国にあおぐことはできません。しかし今日、真のクリスチャンが存在します。それは聖書が神のことばであることを信じ、聖書の定める規準や原則の正しさを確信している人々、そしてその原則に従って生活することに力をつくし、それを守るために自分の命をさえ惜しまない人々です。その人々は地上のいたる所に住んでおり、また多くの国の多くの人種の人々から成っています。それでもその人々は平和であり、互いに対する愛を持ち、神と神のことばに関する真理を知ろうとする人々を愛の心で助けるわざにおいて全く一致しています。その人々を一致させ、その人々があなたに差し伸べているのはどんな希望ですか。この本の最後の章はその点を扱います。

______

  1. 52 .一九六六年五月二五日付、「ニューヨーク・タイムズ」。
  2. 53.「タイム」誌、一九五七年一二月号二一二ページ。
  3. 54 .「アメリカの宗教」一九五五年版、二三六ページ。
  4. 60 .コロラド州の「デンバーポスト」「週刊宗教ニュース」一九六六年一二月一〇日号。
  5. 61 .ジョン・ロード著「歴史のあけぼの」一八八四年版、第三巻、ニ四四、ニ四五ページ。
  6. 62.「現代における聖書の効用」、一九五一年版、二〇四ページ。

[あとの所はエホバの証人の宣教している事柄など、最新の理解に付いて行くべきことなど]



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