神の救ひ

ページ名:神の救ひ

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神の救ひ
(神の救い)


原題:Deliverance


[2]

天地全宇宙の創造主に在す

全能の神エホバ
の聖名の為の証言として
此の書を捧げ奉る

『汝等は我が証し人なり』

(イザヤ書四十三章十節)

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序言[]

本書は天地全宇宙の創造者にして支配者に在し所有主に在す神エホバがいかにして全人類を悪魔とその悪しき制度の下より救い出して、永遠の生命、幸福、自由、平和、繁栄、健康の祝福に導き行かれるかを語る神の御計画の詳細を聖書に基きて最も平易に解明したる最良の書である。全人類の過去、現在、未来は本書一巻の中に悉く包含さる。基督教信者たると否とを問わず一般各位の熟読を勧告す。

西暦一九二七年九月

須磨一ノ谷にて 訳者誌す

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天地全宇宙の創造主に在す全能の神エホバの聖名の為として此の書を捧げ奉る

「汝等は我が証し人なり」(イザヤ43:10)

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目次(省略)

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第一章 創造者と作られし万物[]

 現在の世は何故に斯く患難と困惑が満つるか、何故に各国は争って軍備に熱中するか、何故に人々は斯くの如く我利私欲に走るか、何故に民衆の日常必要品に対して暴利を貪る者が増加するか、何故に政治家と基督教教職階級は私欲を燃やして民衆を誤導するか、何故に民衆は斯くの如く圧迫されるか、何故に人々は飢饉や各種悪疫の為に苦しむか、何故に人々は病気、悲哀、苦悩と死の犠牲たらざるべからずか、何故に人は斯くも悪と禍の中に囚はれてゐるか、此の不幸な状態に陥れた責任者は何者か、我等は人々が此の悲痛の状態より救ひ出されて平和と繁栄、健康、生命、自由の喜びに入る事あるを期待し得るべきか、人間とは何ぞや、我とは何ぞや、我は如何にして発生せりや、我は如何にして他の人々を援助し得べきか、我等人間の将来はどうなるのか。

 今是等多数の疑問がある青年の念頭に充満したと仮定する。彼は唯に己のみならず他の人人の幸福ならん事を願ふて出来得るなれば是等の疑問に対する解決を得んと欲して哲学者や博士達、宗教家や其の外、此の世の学者や物識りと呼ばるる人々を歴訪し、彼等の意見を叩いて見るが其の答へが悉く人間智の初産であつて其れ等の何れもが絶対の不満足に終る。

不完全なる人間智の所産に何の価値かある。是等の人々の悉くは矢張り他の大衆と等しく同じ不幸な路を旅する者に非ずや。何か是等の外に我等の理智が安心して頼り得る権威が何処かに存在しなければならぬ・・・・・・と此の青年は獨語す。此の青年はやがて白髪の一老人の所に来る。此の老人の顔には親しみありて其の口には愉快なる言が満つ。老人は青年の質問に対して己が答へを自己の意見の上には築かない。老人は云ふ、「人間の口から発する根底のない意見や説に何等の価値を見出す事は出来ぬと云ふ君の結論に同意する。唯永遠に亘る唯一位の神が実在される。そして全ての善き賜物は唯此の活ける神のみより出で来るのである。又常に此の神の敵となりて人間を圧迫して苦しめる所の一個の偉大なる悪しき霊者(肉眼に見いざる霊を備ふる者)がある。此の「敵」は長らくに亘って死の権威を有してゐた。義(ただ)しき神は此の悪しき者が悪を欲しひまゝに行使するのを放任して置かれた許(はか)りではく、却って之を逆に利用して神に依って造られし者を試練する上に用ひられたのである。悪は何時迄も存続せぬ、やがて予定の時に達するに及びて此の悪しき者[7]と彼の有する力は滅ぼされる事となる、そして人類は確実に彼の勢力の下から救ひ出されるのである。

 私が今お話ししてゐる是等の眞理は我等が聖書と呼んでゐる不思議な本の中に記されてある此の本の中に不完全なる人間智の意見が記されてあるのではなくして天地全宇宙の創造者なる全能の神の御言葉がしるされてゐる。此の本は古(いにしえ)の聖き(きよ)預言者達が神エホバの力に感謝されて記述したのである。即ち言(ことば)を換えて云へば、神よりの霊感を受けて記述したのである。此の本は人間の由来を説き顕はし、何故に人類は苦しみ悩むかと云ふ理由と、又何時人類は彼等の「敵」と其の圧迫下から救ひだされるかと云ふ事を示してゐる。聖書中に記述されある是等の眞理は数千年間に亘り秘密にされてゐて、神の予定の時来る迄諒解する事が出来なかつた。そして今、其等の秘密を諒解し得る予定の時に到達したのである。

 我等は既に第二十世紀に居て地上に知識の大増進と交通の大発達を見るが神はこうなる時こそ、神の秘して封じ置かれたる所の聖書が開かれて、其中の秘密が解明される兆(しるし)だと豫(あらかじ)め教へられてゐる。無論全能の神には最初から一つの御計画が確定してゐてすべては聖旨(みむね)のままに実行されるのであつた。そして今、神の御計画が如何に運行されるかを人間が諒解する時が到来したのである。私は君が神の此の偉大なる宝庫を詳(つまびら)かに調べて見らるゝ事を[8]お勧めする。其の中には君の有する疑問の全部に対する完全なる回答が見出される筈だ」

斯く勧告された眞理の探究者なる其の青年は早速聖書を一冊買ひ求めて先ず是等の諸聖句を発見す、曰く「エホバを畏るゝ智慧の始めなり」(詩篇百十一編十節)。又曰く「エホバの親愛はエホバを畏るゝ者と偕(とも)に在り。エホバはその契約を彼等に示し給はん」(詩篇一十五編十四節)。神を畏るゝ心と、直しき願ひを以って以上の幾多疑問に対する答へを知識の宝庫なる聖書の中に探し求むる時に以下の如くに説き示されるのである。

創造者[]

エホバとは大造物主の名であつて、自力存在者、永遠の者、不朽不滅者と云ふ事を意味し「エホバてふ名を有(も)ち給ふ汝・・・」(詩篇八十三編十八節)と記さる。不朽不滅者とは死を超越したる生命の泉の所有者と云ふを意味す。偉大なる神エホバに就て聖書は教ふ「ただ一位死なざるもの、近づく事を得ざる光に在して人未だ見し事なく、又見る事能はざる者なり」(テモテ第一六章十六節)。神はエホバと云ふご自身の名を最初にモーセに示された(出エジプト記六章三節)。神は天地の大創造者である(イザヤ四十章十八節。四十二章五節)。完全なる善き賜物の全部は皆神より出で来る。(ヤコブ一章十七節)。神は熱心に神を求むる者に対し必ず賞を以って報はれる(へブル書十一章六節)。神は永遠により永遠に在す(詩篇九十編二節。九十三編[9]二節)。『主エホバはとこしへの嵐なり』(イザヤ書十六章四節)

ロゴス[]

或る必要上エホバ神御獨りのみがゐられた時がある。此の時こそ何物の創造も始まらざる以前の事である。そして聖書は創造の始まりを教へ示す。使徒ヨハネは神よりの霊感に導かれて斯う記述した「太初(はじめ)にロゴス(訳者注-ロゴスは固有名詞なるを以て道とするは誤り)あり、ロゴスはエホバ神と偕にあり。ロゴスは一つの神(大能者)なり、萬づの物ロゴスに由りて造らる、造られたるものに一つとしてロゴスに由らで造られしはなし、ロゴスに生命あり、此生命は人の光なり(ヨハネ一章一~四節)。

ロゴスと云ふ名は神の創造の最初の者に興(あた)へられし名称である(黙示録三章十四節)。ロゴスに就て聖書は斯く記す『彼は人の見る事を得ざる神の状にして萬の造られしものゝ先きに生まれし物なり、そは彼に由りて萬物は造られたり、天に在るもの、地の上に在るもの、人の見る事を得ざる者、見る事を得ざるもの、或ひは位ある者、或ひは主たる者、或ひは政事を執る者、或ひは権威ある者、萬べての者彼に由りて造られたり、且つその造られたるは彼が爲なり。彼は萬ての物より先に在り、萬ての物彼に由りて存つ事を得るなり』(コロサイ一章十五-十七節)

[10]之に依って見るもロゴスは神が直接に創造された唯一の者である事が判るのであつて爾後ロゴスはエホバの代理実行者として萬物を創造するに至つたのである。

 預言者ソロモン王はロゴスを代表して斯う語る『エホバ古へ其の御業をなし初め給へる前に其の道の初めとして我を造り給ひき。永遠より、元始(はじめ)より、地の有らざりし前より我は立てられ、未だ海洋あらず、未だ大いなる水の泉あらざりし時、我すでに生まれ、山未だ定められず、陸未だ有らざりし前に我既に生まれたり。即ち神未だ地をも野をも地の塵の根元をも造り給はざりし時なり、彼れ天を造り、海の面に穹蒼を張り給ひし時我かしこに在りき。彼れ上に雲氣をかたく定め淵の泉を強くならしめ、海に其の限界を立て、水をして其の岸をこえざらしめ、又地の基を定め給へる時、我はその傍らに在りて創造者となり日々に喜び恒にその前に楽しみ、その地にて楽しみ、又世の人を喜べり』(箴言八章廿二~十一節)

 聖書は此のロゴス(代弁者)が神エホバの光栄ある使者として時々地上に遣わされた事を明瞭に記録してゐる。彼れロゴスはエホバの特別全権大使として遣られた(出埃及記三章二、十五節。創世記十八章一節。出埃及記廿三章廿節。ヨシュア記五章十四節)。神の創造の始めとして、又神の特別なる使者としてのロゴスは其の名の字義が明示する如く神エホバより重大なる信任を賜ってゐたのである。そして神が創造の仕事に関してロゴスと話し合われた事ありと思考す[11]るは当然である。

 聖書は人間の肉眼に見えざる天界の霊者なる天使等の創造の順序に就ては記述してゐないが、然しケルビム、セラピムや天使其他の霊者を総称して「神の子たち」と呼んでゐる。

ケルビムとは霊者であつて神の御目的を遂行する重要なる役目を帯びてゐる者である。(創世記三章廿四節。エゼキエル書十章十三~十五節)

セラピムも矢張り天界の霊者であって神の御計画を遂行する上に重要なる役目を帯びてゐる者である(イザヤ書六章二~六節)

天使は神の天廷より発せられる命令を傳へ(つたえ)、或ひは其の命令を遂行するの信任を興(あた)へられ居れる使者であり大使である(創世記十九章一、十節。廿八章十二節。詩篇九十一編十一節)

神に依って創造されて神より生命を受くる者に皆神の子と名称さる。神の御用ある時、彼等は召しに応じて神エホバの御前に参向するのである(ヨブ一章六節。二章一節)

ルシファー[]

神に依って創造されし大能者の中に最初ルシファーの名で呼ばれし霊者がある。ルシファーの名は「光を保つ者」或ひは「明日の星」なる事を意味す(訳者注-日本語聖書イザヤ書十四章十[12]二節に明星と**(字がつぶれていて読めず)しあるは即ち此のルシファーの事にて之は固有名詞なれば明星と**せるは誤りなし)。神の預言者はルシファーを「明日の子」と呼ぶが此の名称以上に彼の美を形容するは困難である。彼は天界に属して神の聖き國の一員たり、彼の名が示す如く其の天の榮えと輝きの國に於いて彼は他の者等より勝して輝き亘る霊者であつた。彼に就いて聖書は斯く記す『諸々の宝石赤玉、黄玉、金剛石、黄緑玉、葱珩、碧玉、青玉、紅玉、瑪瑙(めのう)及び黄金汝を覆へり、汝の立てらるゝ日に手鼓と笛汝の爲に備へらる。汝は膏(あぶら)そゝがれしケルビムにして掩ふ事をなせり、我れ汝を斯くなせしなり。汝神の聖き山(王国の事)に在り、又火の石の間に歩めり。汝はその立てられし日より終に汝の中に悪の見ゆるに至る迄は其の行ひ完全かりき(エゼキエル書廿八章十三~十五節)

我等が夜、天空を仰ぐ時に其処に無数の星あるを肉眼で見る、そして更に強力なる望遠鏡で天界を仰ぎ望めば是等無数の火の塊は偉大なる創造者エホバの栄光を反映するのである。疑ひもなく彼ルシファーは美しく榮えある大能者として是等の榮輝く諸天の星群の間を歩み、創造者エホバに依りて造られし絶妙なる創造を心ゆく限り鑑賞してゐた事であらう。

ルシファーが萬物創造に於ける神エホバの代理実行者なるロゴスの手に依りて造られたるは無論である。此のルシファーとロゴスの二大霊者は聖書の中で「明日の星」(訳者注-英語に[13]てはMorning Starsの複数となり居れり、ヨブ記廿八章七節を見よ)と呼ばれてゐる。ロゴスは常に其の忠信の故を以て全能者エホバ神に嘉みされてゐた。聖書が神の御業の悉くが完全であると教へてゐる(申命記廿二章四節)以上、天界に於ける之れ等の萬物は美と榮えに輝き平和と絶対調和の裡に住みて、物皆が神エホバに榮光と賛美を捧げて居た事であらう。

予定の時に至るに及びて神は人間が住むべき場所を準備さるゝ事となり其れが創造に着手された。聖書の記録は云ふ「元始に神天地を創造(つく)り給へり」そして神は「雲をもて之が衣服となし黒暗をもて之が襁褓(むつき)となり」給ふたのである。天界に於ける萬物は神の生き写しの如く創造されんとする人間の住所として地球が創造されることを學び知つて大いなる歓喜にふたされたことであらう。聖書は神が人間の住所としての地球の基を据ゑられた時に明日の二大星と神の子等が共に喜び歌つたと記録してゐる。(ヨブ記廿八章四~九節)

聖書は此の「あしたの星」と名付けられたる二大霊者はロゴスとルシファーである。と明瞭に教ふ。地球創造の初めに富つて榮ある天界霊者の総招集あり、彼等は神が人間の住所を創造して其の上に人間を創造されると云ふ事を告げ知らされたときに、明日の二大星は全能者エホバを賛美し、神の子等の全部は何れも大歓声と共に喜び踊つた事であらう。人間に興へられある知識の範囲内にては他に生物の住める星は未だ無い事となつてゐる。人間の住所としての[14]地球の創造は天界萬軍の霊者に甚大なる今日を興へた事であらう。

人間の創造[]

地球が創造されて其の上、草木、花、果物、爬虫類、鳥類等が備えられた。然し地球と其の産物を鑑賞する人間は未だ居なかった。神は人間の創造に関して何者かに話しかけられる。そして神より話しかけられた者こそ即ちロゴスであらう。聖書は云ふ『神言ひ給ひける我等に象りて我等の如くに我等人を造り之に海の魚と天空の鳥と家畜と全地と地に匍ふ所の全ての昆蟲(はうもの)を治めしめんと。神其の像(訳者注ー日本語聖書の像は誤訳にして原語にては「生き写し」なるを意味す、英語はImageとなり居れり)の如くに人を創造り給へり。即ち神の像(生き写し)の如くに之を創造り之を男と女に創造り給へり。神彼等を祝し神彼等に言ひ給ひけるは生めよ繁殖(ふえ)よ、地に満てよ、之を服従はせよ、又海の魚と天空の鳥と地に動く所の諸ての生物を治めよ』(創世記一章廿六~十八節)

此処に示されたる「像」とは身体の組織や形その物を意味してゐない事は明瞭である。神エホバは智と義と愛と力の四属性を有し給ふ。理智を有する者として創造された完全なる此の人間は是等の四属性を奥へられ、丁度神が全宇宙を支配し給ふ如く、此の人間も全地の萬象を支配する権威を奥へられたと共に彼の子孫を繁殖して全地上に満たす力を賦奥されたの[15]である。

神に多数の人々を誤信してゐる如く人間を創造してそれに不滅の霊魂(Soul)を與へられたので断じてない。此の霊魂と翻譯されてゐる原字は生物と云ふを意味し人間と云ふ事と同じ意味である。人間とは即ち一個の霊魂と云ふ事であつて人間が霊魂を有してゐると云ふ譯ではない。人間の創造に関して聖書は斯く明示する『エホバ神土の塵(土壌中に含まれある必要な主成分)を以って人を造り生気を其の鼻に吹き入れ給へり(即ち呼吸する力を與ふる事)人即ち生ける物(訳者注ー日本語の生霊は絶対の誤譯にして活物或は生物と譯すが至誉。英譯にa living soulとあり)となれり』(創世記二章七節)

斯くして後神は全ての獣類や鳥類をしてアダムの前を通らしめ給ひてアダムは是等に名を其れぞれ與へた。獣にも鳥にもそれぞれ、配偶者があつた『然どアダムには之に適ふ助者見えざりき』『エホバ神言ひ給ひけるは人獨りなるは善からず。我れ彼に適ふ助者を彼の為に造らんと』(創世記二章八~廿節)。然る後女が造られてアダムの傍に連れられて来たのである。

人間が初めて光に接したる地上の此の部分は特に優れて美しき場所であった。エデンとは楽園と云ふ事を意味す。神はエデンの東の方に一つの園を設けて其処に人間を置かれた。其の処こそ人間が土から取りて創造されたる処であつて此の園がアダムと其の妻の住所となつ[16]たのである。

神の導きに依って記述されたる聖書の明示する此の記録の概要に基づいて我等は今、暫く想像を働かして見る事とする。天界には強くして勇ましく美に満ちたる天使のの無数衆群あり。其中に神の信任を得て重要なる位置を占むるケルビムあり。セラビムあり。他の衆群に勝れて光輝くルシファーあり。神エホバの右腕として神を代理し万物を想像せる偉大なるロゴスあり。神は是等の万軍を嘉し、特に忠信なるロゴスを愛し給ふ。此の時迄は全部の物皆が神の御前に忠信であつた。

又地上には、強くして美しき完全なる人間あり。其の双眼は鋭くして暗きを見る事なく、拳の如く利く鋭し。アダムと共に彼の妻あり、彼女は完全なる女として想像にも及ばざる程の美と端麗を●●(字がつぶれてて読めず)す。そして此の時には天界と地上の完全なる生物との間には交通連絡が保たれてゐた事であらう。

此の男女は子孫を造つて地上に満たす機能が奥へられてゐて、一方天界の萬象は最もは最も深い興味と歓喜とを以て地上を注視してゐた事であらう。天界に属する者の何れにも其の子孫を繁殖する権能を奥へられてゐる證跡は絶無である。故に地上に於ける人間の繁殖と云ふ事は天界の万軍にとつては全く珍奇の至れりであり、彼等は地上に幸福なる人類が満ちて偉大なる創造者なる神エホバの御前に賛美と崇拝とを捧げる其の時の到来するを最も熱心に注視し期待してゐたのである。天と地とには幸福が満ちてゐた。四園の環境物音が美しく眼には喜ばしく、心に歓喜を奥へて天界地上の萬象は何れも永遠に在す神エホバ即ち此の大創造者の御前に賛美を捧げたのである。

第二章 反逆[]

全て完全に造られし者には何れも自由意志に依る選擇の力が與へられてある。故に何れもは善にもあれ、又悪にもあれ己が欲する儘に己の力を行使する自由を有してゐるのである。之を除いては其の者が試験される云ふ方法がない。無論神は万物をして悪をなさしめざる属性を自由に行使するの自由を失って了ふと共に神ご自身にしても御自身の創造されし者を試験する事が不可能となるのである。

心とは情と意の出発点であつて其の者の行為を誘発する能力の基礎である。故に若し心の中に不純なる憎悪が発生すれば続いて其の者の行為も不純になるは確実である。聖書は斯く教ふ『すべての保守るべき物よりまさりて汝の心を守れ、そは生命の流れ之れより出づればなり』(箴言四章廿三節)

愛は神の属性一つである。愛とは絶対無私を完全に表現する方法である。私欲は愛の正反対であつて心の中の秘かなる欲望に芽を出す。私欲愛を駆逐す。愛が離れ去る時に心は邪悪となる。心に邪悪を抱く者は極端迄に私欲を行ふ者となる。私欲は愛を駆逐す。愛が離れ去る時には心は邪悪となる。心に邪悪を抱く者は極端迄に私欲を行ふ者となる。そして其者は他に対する責任と義務を考慮する事なくしてほかに如何なる害を興ふるも尚ほ己が目的を貫徹せしめんと全力を尽くすのである。

天界万軍の栄光と美と、地上絵伝の住所に於ける人間男女の完全性と、そして人間の興へられある地上類人繁殖に対する権能は今彼等の全部に対して彼等が私欲か愛かの何れかを自由に行使し得る機会を興へられたのである。斯くして試験が到来した、そして此の試験の下に天界の大能なる霊者の或るものは堕落した。天と地の歓喜は忽ち絶大の悲嘆と変じたのである。

エデンの悲劇は他に比類なきものであった。事実に於いて他の全部の犯罪と悲劇とは何れも原因を此のエデンの園に発生したる罪に見出し得るのである。その犯罪者が理智に富みたる偉大なる者で、創造者なる神エホバの御親任を深く得てゐた者である丈けそれ丈其の罪の重さと深さも増し加はつたのである。此の恐るべき犯罪は人間と天使の希望を挫折せしめて地に悲しみを満たし諸天を泣かしむるに至つたのである。斯くして悪と禍ひを到来せしめ無数の人間の生ける血を流さしむるに至つたのである。

大反逆者の狡猾なる欺瞞は餘に力強く行使されて、人類の感受性は麻痺され、人[30]人は数千年間の長きに亘つて此の原因と影響の事実を知る事能はず、全く無知の状態に封じ込められてゐたのである。然し今、神の御予定の時が遂に来て長夜の暗き幕を開いて人々に明るき光を興へ、恐るべき大反逆者と彼の犯罪の何たるやを諒解せしめられると共に人々をして此の悪しき者の支配下から逃れて大救世主の御腕の中に己が逃げ場所を見出さしむる事となつたのである。

エホバは人間にとつて保護者であり友である。神はアダムを創造して彼に妻を興へ、美しき住所を備へて地上萬物の上に君となし、全地に完全なる人類を繁殖し全地を服従せしめて之を支配するの権能を與へ給ふた。アダムが神を愛するは常然である、のみならず彼は己に対する保護者であり友である者を本能的に崇拝する様に創造されたのである。

神の聖意は即ち神の律法である。神の聖意が人間に対して発表された時に、それは即ち人間が支配を受く可(べ)き神の律法である。神の律法に服従するを拒絶する場合に其者は不忠の者とされる。律法なくしては人間の忠誠の有無を試験する事は出来ぬ。其処には善とは何であるかを教へ又悪を禁ずるの律法の活用がなければならぬ。神は人間に対して律法を興へられた。そして其の律法とは即ちアダムの食物に関して神はその聖意即ちご命令を表示されたのである。食物其の物が禍ひを到来せしめたのではない。何故なれば全部の食物は皆完全であつたからである。悪と禍ひは神の律法に反する行為その物から来たのである。人間にとつて生命を失ふ事は全部を失ふ事である。神は不法の者に永久の生命を許して置かれぬ。神は人間の為に食物を備へて斯ふ云はれた『エホバ神その人に命じて云ひ給ひけるは園の各種の樹の果は汝意のまゝに食ふ事を得。然れど善悪を知るの樹は汝その果を食ふべからず、汝之を食ふ日には必ず死ぬべければなり』(創世記二章十六~十七節)

人間に対して援助者を與へて其の者を監督者となり保護者となり人間をして悪を為さしめず、神の律法を犯す事に依つて常然来る刑罰を蒙らしめざる様に其の者に監督せしむる事は人間を愛せらるゝ神の有り難き聖旨であつた。神は栄に輝くルシファーを選んでエデンの園に置き人間の上に監督者となし保護者とならしめ給ふた。此の重要なる役目にルシファーを任命された事に就いて神は斯く云はれる『汝は膏そゝがれしケルビムにして掩ふ事をなせり、我なんぢを斯くなせしなり』(エゼキエル書廿八章十四節)。膏を注ぐとはルシファーと呼ぶ此ケルビムに神の名にて依って或る特殊の役目と権能が與へられたと云ふ事を意味してゐるのであつて之に依って彼ルシファーはエデンの園にあつて人間の監督者となり人間を義(ただ)しき道に保つ役目と権威を與へられたのである。ケルビムとは天界に於いて或る種の権能と役目を與へられて神を代表する代理者と云ふを意味す。「掩ふ」とは蔽ふ、防御する或ひは保護すると云ふ事を意味す。斯くしてルシファーは人間に対する監督者となり、人間を蔽ひ保護して人間が神の律法を破って悪に陥らざる様に防御する権能と役目を神より賜はつたのである。ルシファーの役目は神と人間との何れに対しても厳粛なる役目であつて彼は人間を導いて義しき道を歩ましめ神を尊び敬ひて地上に永久の生命を楽ましむる役目を與へられたのである。

神は又ルシファーに死の権威を與へられた(ヘブル書二章十四節)。故にルシファーは若し人間が神の律法を犯した場合には人間に対して死刑を執行するの役目を有してゐたのである。此の理由に依ってルシファーは神と人間との間に在つて最も信任を受くる位置を占めてゐた。此理由に依てルシファーは神徒人間との間に在つて最も信任を受くる位置を占めてゐた。彼には今、神が地上に新たに建設されんとする政府をして純潔と正規の状態を保たしむる處の神聖なる任務が與へられたのである。神の計画されしエデンの政府制度を転覆する爲に此の信頼されたる任務を裏切ると云ふ事は之反逆の行為である。斯かる状態に於ける反逆行為の犯罪者は絶対の不信不忠不義者であつて極悪、卑劣漢たると共に各種犯罪者中に於ける最悪者たらしむのである。全宇宙に於いてはロゴスを除いて最も光栄ある位置を與へられて、然かもロゴスと異なり一の國(政府制度)の監督者たり保護者たる重大なる役目を無視して其の尊い信任を裏切る彼ルシファーの行為は人間の言語を以っては到底形容し難き最悪のものである。我等の想像にも及び難き美しき環境に包まれたる完全なる男女の美と純潔と無邪気さを破壊して彼等を堕落せしむるに至つた虜の即ち後段で説明せんとるする彼の罪悪は実に許し難きものである。

「晨(あした)の二大星」の一星として人間と其の完全なる住所なる地球の想像を目撃し、人間に対する監督者たるの重任と信頼を與へられたる彼ルシファーは神が人間に向かつて其の子孫を繁殖せしめられ、予定の時至るに及びて全地上に完全なる人類が満つるに至るべきを知つてゐた事は勿論である。ルシファーは人間が其の保護者として崇拝してゐる心を先づ破壊して了はなければならぬ事を知つてゐた。ルシファーは斯くて常然神エホバに向かつて捧げられるべき人間よりの崇拝を自分が横領して人類を己が心のまゝに支配せんとする野望を抱くに至つたのである。

ルシファーは彼自身の美と権能に幻惑して創造者たる神エホバに対する己が責任と義務を忘却した。私欲が彼の心に入ったのである。其の意志が邪道に入り、而して其の心は凶悪となつた。彼は其の悪しき意志の命ずるがまゝにアダムに対する己が野望を遂行するべく行動を開始するに至つたのである。ルシファーの悪しき野望に関して神の預言者は斯く記述す「汝さきに心の中に思へらく、我天に昇り、我が位を神の星の上に上げ、北の極(はて)なる集会の山に座し、高き雲漢にのぼり、至上者の如くなるべしと」(イザヤ書十四章十三、十四節)。聖書はルシファーの心理に就いて斯う説明してゐる、

「自分はエデンに於いて人間の監督者である。自分は人間に死刑を執行する権威を有してゐるが仮に人間が神の律法を破つたとしても自分は人間に死刑を執行しないとする。自分は人間に向かつて神は人間の保護者でない許りでなく、事実は人間を欺く者であると云う風に誤信せしめたり、神は人間を死せしめたり、又同時に己が言の実行を主張する事が出来ないこととなつてゐる。何故なれば神はエデンの園の中央に在る樹と宣言してゐるが之即ち此の樹の果を食らふ者は何者と雖も永久に生きると云ふ事である。だから自分は人間を欺いて「善悪の樹」果を喰はしめて後早速生命の樹に連れて行つて其の樹の果を喰はしめる。さすれば人間は永久に生き得る事となる。

然しそれをする前に先づアダムを誘惑して神は人間を無知の状態に封じ込めて置いて人間が常然受くべき正常の権利を受けしめざる様にしてゐるのだと誤信せしむる事としやう。其れに就いてはアダムは妻を愛してゐる、自分は先づ妻のエバを誘惑して後に彼女を通じてアダムを自由に支配する事としやう。四圍の事情を甘く拵へてアダムも又禁ぜられある樹の実を食はなければならぬやうになし、然る後自分は彼等二人に対して死刑を執行する事を拒絶する。そして早速彼等を生命の樹に連れて行つて其の果を食はす、さすれば彼らは永久に生きて死なない事となる。斯くして自分は彼等を自由に支配して永久に生存せしむる。詰り神を負かすのだ。そして神が天界万軍に依つて崇拝されてゐる如く自分も至上者神エホバの如くになつて神が受けると同様の崇拝を受ける事が出来るのである」

聖書は斯様にしてルシファーが反逆を企てたことを教へてゐる。ルシファーの陰謀は斯くの如く狡猾なるものであり彼も亦(また)それを賢明な謀計だと考へてゐたのである。神は無論此の陰謀の抑々の発端から知悉されてゐた。然し神はルシファーが人間を誘つて罪を犯さしむるの陰謀を遂行する迄その悪手段に干渉を與へられなかつた。之に就いて神は斯く云はれる「汝その美麗の為に心に高ぶり、其の栄輝の為に汝の知恵を怪我したり」(エゼキエル書廿八章十七節)

ルシファーの心中に於ける此の私欲の念の懐抱は即ち彼自身に於ける悪の始まりである。その時迄の彼は完全であつた。故に彼に就いて神は斯く云はれる「汝はその立てられし日より終に汝の中に悪の見ゆるに至る迄は其の行ひ完全かりき」(エゼキエル書廿八章十五節)。シルファーが不完全なる者となつた時は即ち此の時からである。之れ反逆の発端である。彼の心中に懐抱された私欲の念は遂に反逆の大罪を構成せしむると共に爾後に於ける全部の害毒の結果を誘発するに至つたのである。

犯罪[]

ルシファーは慎重に彼の陰謀を計画して後愈々其の実行に着手した。其の手段は無論幾許と欺瞞と虚偽の方法である。ロゴスが此の地上に在る時にルシファーに就いて斯う云はれた。『彼は偽り者、また偽りの父なり』(ヨハネ八章四十四節)。之に依るもルシファーは嘘言(うそつき)の元祖であると云ふ事が判る。そして其の虚言とは即ち「汝必ず死ぬる事あらじ」の一言であつて彼ルシファーの配下は爾来何れも此の虚言を人に傳へてゐるのである。

ルシファーは彼の陰謀を実行する為に蛇を使つた。何故なれば蛇は神が創造された野の生き物の中で最も陰険狡猾であつたからである。斯くしてルシファーは蛇を通じて斯う云つた、『神眞に汝等園の諸ての樹の果は食らふべからずと云ひ給ひしや、婦蛇に云ひけるは我等園の樹の果を食ふ事を得、然ど園の中央に在る樹の果実をば神汝等之をを食らふべからず、又之に触るべからず、恐らくは汝等死なんと云ひ給へり、蛇婦に云ひけるは汝等必ず死ぬる事あらじ、神汝等が之を食ふに善く、目に美麗はしく且つ知恵からんが為に慕わしき樹なるによりて遂に其の果実取りて食ひ、亦之を己と智なる夫に與へければ彼食へり』(創世記三章一~六節)

神は此の樹の果を食ふた者は知恵を得ると宣言されてゐる。此の禁ぜられる樹の果を食らふたアダムとエバの知恵は其の結果として神が発表された律法の如くに増し加わった、彼等は己が行つた悪を認識してエデンの園の樹の間に己が身体を隠して神の御前より避けたのである。彼等は神の御前に召喚された。彼等は悪をなした事を自白した。其処で神は彼等に対して左の如く宣言を與へられたのである、

『婦(をんな)に言い給ひけるは我大に汝の懐妊の苦しみを増すべし、汝は苦しみて子を産まん、又汝は夫を慕ひ、彼は汝を治めん。又アダムに言ひ給ひけるは汝その妻の言を聴きて我が汝に命じて食ふ可からずと云ひたる樹の果を食ひしに因りて土は汝の為に呪はる。汝は一生の間労苦(くるし)みて其より食を得ん。土は茨と薊とを汝の為に生ずべし、また汝の野の草木を食ふべし。汝は面に汗して食物を食ひ、終に土に還らん。其は其の中より汝は取られたればなり。汝は塵なれば塵に還るべきなり』(創世記三章十六~十九節)

聖書はエデンの園に於ける果樹の三種を説明して、第一は『観るに美麗しく食ふによき諸々の樹』と、第二は『園の中央に在る生命の樹』と、第三は『善悪を知るの樹』と区別してゐる(創世記二章九節)。神はアダムに向つて益になる樹の果は皆食ふてもよいと告げられた『エホバ神その人を取りて彼をエデンの園に置き、之を埋め之を守らしめ給へり、エホバ神其の人に命じて言ひ給ひけるは園の各種(すべて)の樹の果は汝意のまゝに食ふ事を得、然ど善悪を知るの樹は汝その果を食ふべからず。汝之を食ふ日には必ず死ぬべければなり』(創世記二章十五~十七節)

アダムが園の中央に在る生命の樹に就て何事かを知つてゐたと云ふ証拠は皆無であつて却つて彼は其の樹に就ては全然無智であつた、何故なれば其の樹に関しては何等特別の命令がアダムに與へられてゐなかつたからである。ルシファーは死の権威を與へられある者として又人間に対する監督の重任を與へられ居れる者として無論此の生命の樹に就ては命令を與へられたが生命の樹に就ては何事も云はれなかつた、之に見るもアダムが生命の樹に就ては何も知らなかつた事は明瞭である。善悪を知るの樹の果を食ふ事は頓(やが)て生命の樹に関する知識をアダムに與ふる事となる。然し此処にはアダムがエデンの園より追放さるゝ以前に於いて此の生命の樹に関しては何をも知らず、又其れを食ふ機會を有してゐなかつたと云ふ最も明瞭なる証拠がある。

神は犯罪者一同を御前へ召喚して事実を聴取したる後、男女二人と、そしてエバを欺く為にサタンに使はれた蛇に対してそれぞれ宣告を下された。ルシファー即ちサタンに対する最後の宣告を下された。ルシファー即ちサタンに対する最後の宣告は預言者エゼキエルの預言の中に記述されてあるが其の預言ではサタンは予定の時に破却されて二度と現はれない事となつてゐる。アダムに対して宣告をくだされた後に神は直ぐ御傍に在る者こそ神より忠信なる者として信頼を受けてゐる愛子ロゴスである事は確実である。聖書は斯く云ふ『エホバ神云ひ給ひけるは、視よかの人(アダム)我等の一の如くなりて善悪を知る、然ば恐らくは彼其の手をのべ生命の樹の果実をも取りて食ひ無限生きんと』(創世記三章廿二節)。エホバが云はれたる「我らの一の如くなりて善悪を知る」の一句に注意すべきである。

四囲の事情が頗る急を要する様になつたのを看取された神は人間が生命の樹に行つて其果を食ふ機会を有せざる前、即ちルシファーが生命の樹の所在を人間に告げざる前に早速行動を開始された。ロゴスに対する神の御言は急に中絶してゐる様である。そして神が執られた行動は次の節で斯ふ記述されてある『エホバ神彼をエデンの園より出だし、其の取りて造られたる處の土を耕させしめ給へり。神斯く其の人を逐い出し、エデンの園の東にケルビムと自ら旋轉る焔の剣を置いて生命の樹の途を保守り給ふ』(創世記三章廿三~廿四節)

神は人間が神の試験の下に神に対して忠誠である事を立證した時に其賞として何時かは其生命の樹の果を人間に食はしめて永久に生存する事を許される御目的であつたに相違ない。

ルシファーは斯くして人間の此の試験下に落第せしめ、生命を得るに失敗せしめて、惹いて人間と其の子孫全部の上に絶大の悲痛と患難を到来せしめて爾後幾千年間を通じて全人類を苦悩せしむるに至つたのである。

神に対する背信と反意を暴露したルシファーは直ちに人間を生命の樹に導いて出来得る限り早く其の果を食はさうと考へてゐたに相違ない。ルシファーは神が其の樹の果を生命の果と宣言された事を知つてゐたので同時に人間が其れを食ふ場合に人間は死する事なくして永久に生きる事を知つてゐた。斯くして神は人間を意識的に欺いて無知の中に封じ込め人間に生命を得るの機会を與へない様にしてゐられたと云ふ事をアダムとエバの前に確実に立證しそれと共にルシファー彼れ自身は人間の真実の事を告げて彼等に祝福を與ふる者であつて、人間と其の子孫全部よりの崇拝尊敬はルシファーに帰するに相違ないとルシファーは考へたのである。

若しアダムが其時直ちに生命の樹の果を食ふたなればエホバ御自身と雖も彼を死なしむる事が出来なかつた。何故なれば神には絶対に矛盾がないからである。神は其の樹を生命の樹であると宣言されてゐる。そして人間に其の樹の果を食ふ事を許して後、人間を死せしむる事は神御自身で御自身の言を裏切る事となる。斯くの如きは神エホバに絶対に不可能事である(詩編百廿八編二節。イザヤ書四十六章十一節。五十五章十一節)、故に神は御自身の御言葉を守りて破らざる爲めアダムに與へられし宣告を励行して彼をエデンの園から追ひ出して八方に回転する焔の剣を持つ一個の大能なケルビムをして人間をエデンの園に入れざる様になさしめて生命の樹の途を守らしめられたのである。

何故神は此の時、ルシファーを殺して了(しま)はれなかつたか。聖書は神は理知を備ふる被造者達により罪より来る悪しき結果を観、又学ばしむるを目的とされたと教へてゐる。そしてルシファーと彼の罪は此の試験を行ふに利用されるのである。神の預定の時至るに及び手神は全人類に最も公平なる機会を與へて人々がルシファーの執つた道歩んで其の結果を得るか、それとも神の義しき戒めに服従して生命の樹の果に與るを許されて永久に生くるか何れかを選択せられるのである。

何故に神はアダムを即座に殺さなかつたか、聖書はアダムが此の時に未だ子供を産む力を行使しなかつたと教へてゐる。未だ子供が産まれなかつたのである。更に聖書は神は全人類をしてアダムの経験に基づいて学ぶ所あらしむる様にご計画されたと教へてゐる。爾後九百三十年を生存するを許されたアダムは其の間に子供を繁殖した。即ちアダムは彼の子孫を地上に於いて後日に十分繁殖するに要する期間を生存するを許されたのである。彼の子孫全部は罪の結果に成る害毒に苦しみ死の運命下に封じ込まれた。然し神の預定の時至るに及び彼等は再び此の地上に出で来たりて真理の知識に導かれ、何故に斯くも苦しんだかを理解する事となる。そして彼等は以前罪を苦痛にあつて永久の破滅に帰するか、それとも神の義しき戒めに服従して永久に生存するかを決定するに必要なる一つの機会を與へられるのである。即ち言を換へて云へば神の御目的は全人類に対し経験を以て教へられると云ふ事である。

アダムは死刑を宣告された。此の宣告に基きて彼は未完成の土地から得た果実を食らふべき事を命令された之れ即ち彼を次第に死に導く事となつたのである。此の九百三十年間にアダムから子供達が生まれた。是等子供等は公式には死の宣告を受けてゐないとは云へ何れも罪人として生まれたのである。死刑の宣告下に置かれたアダムは完全なる子供を生む事は出来ぬ聖書は斯く書く『観よ、われ邪曲(よこしま)の中に生れ、罪にありて我が我をはらみたりき』(詩編五十一編五節)。之に対して使徒を又斯く教ふ『然れば是一人より罪の世に入り、罪より死の来たり、人皆罪を犯せば死の全ての人に及びたるが如し』(羅馬書五章十二節)、之ぞ反逆が齎したる最も恐るべき結果である。此の反逆が爾後人間の間に悲嘆、病気、死、戦争、飢饉、疫病を到来せしめて過去六千年間を苦悩せしめたのである。最初の人アダムの子は殺人者であつた。ルシファー即ち悪魔がその子を誘つて殺人者たらしめたのである。爾後此の地上に発生した全部の殺人事件に対する責任者は彼ルシファーである。

神はルシファーに之れ以上榮に輝く事を意味する其名を使用する事をゆるされなかつた。彼のルシファーと云ふ名は変更されて爾来彼は四つの名で呼ばれるやうになつた。即ち敵或ひは反抗者と云ふ事を意味する「サタン」と、讒謗者(ざんほうしゃ)と云ふ事を意味する「悪魔」と、欺く者と云ふ事を意味する「老蛇」と呑み食ふ者と云ふを意味する「龍」の四名姓である。彼はエデンの園以後常に神に反抗する傲慢なる挑戦者であつた。彼は爾来常に神の聖名を讒謗し又主の御旨を行はんとする者を讒謗した。又彼は爾来あらゆる方法を以て人々を欺き彼等の心を神エホバから離反せしむるに努力した。そして彼は爾来忠実に神の御旨に従はんとする者を皆呑み食つて破却し去らうと努めたのである。此の大敵は地上に多数の輩下を有してゐるのが是等の輩下は神の御名を偽り用ひて地上を練り歩いてゐる。是等悪魔の輩下共の中にイエスの常時に居た教役者があるが彼等に就てイエスは斯く云はれてゐる『汝ら己が父なる悪魔より出づ、又父の欲を行ふ事を好む、彼は始めより人を殺す者なり、又真理に居らず蓋彼の衷に真理なければなり、彼が偽りを言ふ時は己より出して言ふなり。蓋彼は偽り者また偽り者の父なればなり』(ヨハネ八章四十四節)

反逆は唯にルシファーと人間のみ止まらなかつた。天に於いては天使の一軍があつた。彼等の多数も其後に反逆したのである。地上にアダムの子孫が繁殖した。其の女達は見るに美しき容姿を備へてゐた。天使達は人間の男女が同棲して子供が生まれるのを眺めた。神の御心に従へば天使が霊界を離れて己が本位を忘れ、人類と交じつたり、人間の女と同棲したりする事を欲せられなかつたのである。然の多数の天使はサタン即ち悪魔に誘はれて神に対する反逆に参加したのである。聖書は即ち云ふ『神の子達人の女子の美しきを見て其好む所の者を取りて妻となせり、其常時にネピリム(訳者注-巨人の事)ありき。亦其後神の子輩人の女の所に入りて女子を生ましめたりしが其等も勇士にして古昔の名聲(な)ある人なりき。エホバ人の悪の地に大なると其の心の思念の都て図維る所の恒に唯悪きのみなるを見給へり』(創世記六章二、四、五節)。神の預定の時に是等本分を忘れたる反逆者は監禁された(ユダヤ書六節。ペテロ後書二章四節)。此の外多数の天使はサタンと彼の反逆に参加し爾来数千年間彼等はサタンの悪しき道に従ひて歩み、神を謗り人類を圧迫苦悩せしめたのである(エペソ書六章十二節。列王紀略上廿二章四節)。神の聖書は明瞭に告げて是等の悪しき天使達は神の預定の時至るに及びてサタンと共に破却し去られると教へてゐる。

反逆が齎したる結果の如何に恐ろしき事よ、美と知恵の極みなりし偉大なる霊者ルシファーは今堕落して不忠背信の醜き衣を以て被はれ、悪の権化その物となつたのである。天に在る聖き純潔の天使達は、前に絶大の神エホバの優しき御笑に歓喜し、忠信なるロゴスと相交わりし者が悪と変じて獄屋に繋がれて最後の破滅を待つ事となつた。前には純潔にして聖く完全にして強く、壮んなりしアダムは完全なるエデンより未完成の地に追ひ出された。爾来彼の全子孫は顔に汗して食物を得るを余儀なくせられ種々の病気に悩まされつゝ、悲しみの中に、遂に墓に這入つて行くのであつた。人間は永遠に在す全治全能の神エホバとの御交りより断ち切られ、此の数千年間を通じて死と罪の下に拘禁され、其の重荷に喘ぎ苦しみつゝ何時か何かの方法に依て救ひ出されん事を願ひ求め祈つてゐたのべある。

神は次に其の絶妙なる御計画を運用されて人間を救ひ、人間は元の状態に復興してやらうと実行に着手された。神は義と智と愛と力の絶対調和を保ちつゝ御計画を進行されて来たのである。今神の御予定の時遂に至りて人々は人類救済の御計画を明らかに知り、何時如何にして神が全人類の休載を完成させるゝやを學ぶ事を許される事となつたのである。

第三章偽善と忠誠[]

聖書の大部分は表象的隠語を以て記述されてゐて神の御計画が預定の時に成就する時迄は諒解する事が出来ぬ様になつてゐる。

蛇はサタンを表象するに使用されてゐる。そして悪魔の力を自ら進んで受け容れて悪魔を援助する者を「蛇の裔」と聖書中に呼ばれてゐる。又女は神エホバに依て組織さるゝ義しき団体を表象するに使用されてゐる。そして義を愛して不信不義を憎み、義しき道に歩む者を「婦の裔」と呼ばれてゐる。エデンの園での反逆事件に対する宣告が下された時に神は蛇即ち悪魔に向つて斯う告げられてゐる、『我汝と婦の間及び汝の苗裔の間に怨恨を置かん、彼は汝の頭を砕き、汝は彼の踵を砕かん』(創世記三章十五節)。此の日より後サタンなる悪魔は引続いて神に反抗し来り、又熱心に神エホバに奉仕せんとする者に戦ひを挑んで来たのである。サタンはあらゆる方法を尽くして神を嘲弄するを喜んでゐた。無論神は悪魔を監禁し破却し去られる事が出来る。然し聖書が明示する如く神の御目的は此の悪しき者に最後の破滅の来る以前に先づ極端迄に彼の悪を発揮せしめられるのにあつた。

アダムがエデンの園から追放された後二百五十年程経過した時、アダムの孫に当るエノスが生れた。聖書の教ふる處に依ると此の時代迄人類は益々悪に進み入つたとある。そして其の中でアベルとエノクのみが神を愛する直しき者であつたが此の人類の悪化は之れ人類がサタンの支配下にあつた事を立證するものである。事実に於いてサタンは此の時、人間を神から反かしめて、自分が人間よりの崇拝を横領するに成功したものと考へてゐた、そして嘲弄と偽善をもて益々神を讒謗しなければならぬと考へた。エノスの時代に偽善が初めて芽を出したのである、そして此の偽善は宗教的崇拝に密接な関係を有してゐた。即ち云ふ『此の時人々は彼等自身を主の名に依りて呼ぶ事を始めたり』(創世記四章廿六節。訳者在-日本語聖書は誤解、英語と共にmarginの注意を参照せよ)。之れ瞭らかにサタンは人間同士の間で主の名を濫用せしめて何處迄も主なる神エホバに反抗しエホバを嘲弄して其の聖名を嘲笑せんとの手段であつた。是等の人々はサタンなる悪魔の道具である處の偽善者であつた。

爾来サタンが執つた方法は斯うである。即ち、彼の有する政府組織の中に一つの宗教制度を樹立して人々を欺き、又神エホバを嘲弄する事である。彼が用ふる欺瞞と偽りの方法中に其の重要なる一部として宗教を利用する事は彼サタンの確立せる政策である。彼人間が他の何物かを崇拝する本能を有してゐるを知つて此の方法を採用したのであつて、若し彼自身が直接に人間よりの崇拝を得る事が出来ないとすれば、如何なる手段を盡すも神を嘲弄するに必要なる他の何等かの方法を執らなければならぬ。彼は斯くして今、地上に此種の幾多方法を採用して人々をして活ける神エホバを除く他の有らゆる事物を崇拝せしむる手段を尽くしてゐるのである。

之から数代後にエノクが生まれた。彼はアダムより七代目に当たる。無論アダムは悪しき者であつた。何故なれば彼は神の律法を破つて後引き続き悪の道を歩んだからである。アダムよりエノク迄は唯アベルを除く外皆悪しき者であつた。斯くして人類は破滅と悪の道を歩んだのである。但しエノク丈けは此の中より除かれる。彼はエホバ神を信じてゐた。彼は神が神に服従する者に対して何日かは賞を以て報つて下さる事を信じてゐた。此の時代サタンなる悪魔は益々活動し、地上の人々は神エホバの実在すらも疑つてゐたのである。神が実在されるを信じる可くエノクには信仰がひつようでつた。神の聖意(みこころ)を喜ばし奉るには信仰が必要である『信仰なくば神を悦ばす事能はず、蓋神に来る者は神あるを信じ、且つ神は必ず己を求むる者に報償を賜ふ者なるを信ずべければなり』(ヘブル書十一章六節)。次の聖句は即ちエノクが神を悦ばし奉つた事を語る『エノク神と共に歩みしが、神彼を取り給ひければ居らずなりき』(創世記五章廿四節)、之に関して死とは教ふ『信仰に由てエノクは死なざるやうに移されたり、神之を移しゝ因て人見出す事を得ざりき、彼未だ移されざる前に神に悦ばるゝ者と證しせられしなり』ヘブル書十一章五節)

神を信じた事に於てエノクは地上人類に比類なき者であつた。彼は地上に於いて神に対する證し人であつた。彼は当時の全人類が神に反した時に神を信じ、神に奉仕した事に於て最も有名なる者である。斯かる逆境にあつて示した彼の信仰は神の嘉し給ふ所となつて、神は其れに対する報償として彼エノクを移されたのである。当時の人々はあ普通八百歳頃迄生存してゐた。然るにエノクは三百六十五歳になつた時に神は彼を取り去られたのである。誰も彼の行く先を知る者なく、又誰も彼を葬つた者もない。死の権威を有するサタンなる悪魔は若し神が干渉されなかつたなれば或ひはエノクを殺したかも知れぬ。無論神は死の権威を有し給ふ。然し神はエノクに悪行為ありとの理由に基づいて彼を死せしめられなかった。エノクは祖父アダムの罪の遺伝になる病気の爲に死んだのでもなかつた。悪魔はエノクの死に関しては絶対に無関係であつた。エノクは当時の人間に比すれば未だ若者であつた。元気に満ちた若者であり、神と共に歩み喜んで神の義しき律法に服従した。エノクに対して神は其れを嘉し給ふて突然彼を悪の地上から取り去り、苦しき死の悩みを通る事なくして平和の裡に彼を眠らしめ給ふたのである。

エノクは何者の死をも見なかつた、何故なれば使徒パウロは明らかにエノクは死を見なかつたと説明してゐる。此の使徒は多数忠信の輩の事績を列挙して後、エノクをも含む其れ等の忠信の人々に就て『是等は皆信仰を懐きて死ねり』(ヘブル書十一章十三節)と教へてゐる。エノクが此の地球から他の星に移されて永久に生きて居ると云ふ訳ではなくして神が静かに然も突然に彼を眠らしめて恐るべき死の苦悩と恐怖から逃れしめられたと云ふ事である。此処に即ち神は後日、何時かは死と云ふ事を破却し、神に信仰ある者を死と其の他全ての敵より救ひ出される事実を預示されたのである。(コリント第一十五章廿五、廿六節)

エノクは後日主が聖徒の強力な軍を率いて来たり、不信不虔の者共に審判を行われると預言してゐる(ユダ書十四、十五節)。無論彼は此れを他の人々の前に於いて預言したのであるが、その時の人々は却つて彼を嘲弄愚弄侮辱し、又悪魔は全力を盡してエノクを破滅せんと務めた。此の聖書に見るも神はエノクに告げるか或るひは何か他の方法に依り彼の心に黙示を與へて何時かの未来に於いて神が大能の代表者を遣り、神に敵する者全部に審判を行ひ、それと共に人類を束縛から解放される事を教示されたのである。神の霊はエノクの心の上に働いて此の預言をなさしめた。何故なればエノクの心は常に服従してゐたからである。之れ大救世主の来るを告ぐる最初の預言である。

斯くの如くエノクとエノスの雨人に依つて、偽善即ち神の御前に憎まるゝ事と、快誠即ち神の御前に喜ばるゝ二つの事が示されたのである。偽善は悪の結晶であつて悪魔より来る。信仰は神より来る賜物である。斯く神は当初より其の御方則を示されて爾来変更を見る事なく、神を信じ神の義しき道に歩み、神の戒めに服従する者には常に報償を與へて其者を敵の毒牙より救ひ出し生命の祝福を與へられる事となつてゐる。神の誠実と憐みは永遠に絶ゆる事なし。神は全ての御業に於て常に愛に満ち給ふ。

第四章 「世」破却さる[]

聖書の中に記されある「世」と云ふ字は人間の君主或ひは超人間の権威者の支配下に民族或ひは国家政府に組織されたる地上の人間社会と云ふを意味するのである。肉眼に見えざる超人間の権力を「天」と呼ばれ、又肉眼で見ゆる此の地上の組織制度を「地」と呼ばれてゐる。然して此の「天」と「地」により一つの「世」が形作られるのである。

エデンの悲劇より千六百年後の人間界は悲しむべき状態となつた。地上の人々は何れも家族的に又民族的に生活した。彼等を支配する主脳の権威者はサタンにして其の輩下に悪天使の一軍ありて彼等悪天使達は一致団結してサタンの統治下に在つたのである。之れ即ち其の「世」の肉眼に見えざる部属するのである。人間の形態に有形化する力を有してゐる是等悪天使達の或る者はそれを実行して人間の女と同棲し、其の結果として巨人の種族を造つた『常時地にネピリムありき、亦其後神の子たち人の女の所に入りて子女を生ましめたりしが其等も勇士にして古昔の名ある人なりきー時に世神の前に乱れて暴虐世に満ちたりき。神世を観たまひけるに、観よ、乱れたり、そは世の人皆其の道に乱したればなり』(創世記六章十一、十二節)

人間の形態を有して地上を歩む人々は其の世の肉眼に見ゆる部分を編成してゐた。其の世に属する此の部分こそ最も汚れに満ちてゐたのであつて、此の悪の状態に陥れたのは即ち其の世の肉眼に見えざる部分に属する者である。神に対する大敵サタンは此の悪化に対する真の責任者である。自分の偉大さに自惚れ切つた彼サタンは私欲を燃やして彼が神の御目的を破壊し神を負かしたものと信じ、彼の目的を最後迄貫徹せしむるに必要なる工夫を凝らしたのである。彼は人類が死んで行くのを見た。そして若し天使を有形化せしめて人間の女子と同棲せしめ優良な人種を造つたならば彼の王国をして益々強固ならしむる所以であると考へたのである。此の理由に基きてサタンは天使と女子の同棲と云ふ魔道の邪淫行為を誘発したのである。ノアと其一家を除く人々は皆其の支配に来なければならぬ程彼サタンの勢力は強かつた。ノアは其の世の完全なる者であつたと聖書は記録す。之に依て見るもノアと其の一家は有形化した天使達に汚される事なく、ノアと彼の一家の体内を流るゝ血は全然人間の地であつた事が判明する『されどノアはエホバの目の前に恩を得たり。ノアの傳は之なり、ノアは義しき人にして其の世の完全き者なりき。ノア神と共に歩めり』創世記六章八、九節

神はノアに向つて、天から雨を降らして地に大洪水を来らしめ全地の人間と獣とを滅却し去るらんと告げられた『神ノアに言ひ給ひけるは全ての人の末期我が前に近づけり。其は彼等の為に暴虐世に満つればなり。観よ、我彼等を世と共に滅ぼさん』(創世記六章十三節)

之は地球その物を滅ぼし去ると云はれたのではなくして其世の肉眼に見ゆる部分、即ち地上に於ける悪魔の組織制度を滅却すると云はれたのである。『観よ、我洪水を地に起して全て生命の気息ある肉なる者を天下より剪滅ぼし絶たん、地に居る者は皆死ぬべし。然ど汝とは我わが契約を立てん。汝は汝の子等と汝の妻及び汝の子等と共に其の方舟に入るべし』(創世記六章十七、十八節)

ノアは神を信じた。彼は神に服従した、そして彼の信仰は神に嘉みされたのである。『信仰に由りてノアは未だ見ざる事の示しを蒙り、敬みて其の家族を救はん為に船を設けたり。之に因りて世の人の罪を定め又信仰に由れる義を受くべき嗣子となれり』(ヘブル書十一章七節)

ノアの歩める義しき道は肉眼に見ゆる部分と見えざる部分の別ちなく悪魔の組織制度の両面に対する證となり、神の刑罰を立證する示しとなつたのである。ノアは神の證し人であつた。此の故にサタンなる悪魔は他の人々をしてノアと神に反抗せしめたのである。無論悪魔はその有する権力を行使してノアを滅ぼす事は十分出来た筈であるが然し唯ノアの上に神エホバの保護があつた故それをなす事ができなかつたのである。人間と天使の混合人種は其処に巨人の人種を産出したのであつて彼等の暴状は言語に絶したるものであつた。神は此の混合人種を地球の面から滅却するの必要を認められた。ノアと其の家族の死は此の地上に神の證し人が絶ゆる事となる。故に神は悪の種族を滅却すると共にノアと其の一家を洪水の中から救ふて再び新たに人間の種族を繁殖せしめねばならなかつた。そして神はそれを実行し給ふたのである。

洪水[]

ノアは人々に向つて正に来たらんとする地上の悪に対する神の審判を告げて彼等の警戒を促した。彼等は何れも此の警告に耳を傾けなかった。其の時迄は未だ地上に雨が降らなかつた(創世記二章五、六節)。そしてサタンにとつては此の事実に基づき雨が降るなどの事は絶対に有り得ないと人々に信ぜしむるは極めて容易であつた。誰も真面目にノアの警告に相手になる者がなかつたのみならず彼等の前に此の預言をなしてゐるノアに向つて嘲笑し又彼の預言を愚弄したのである。ノアは神に服従して方舟を造つた。方舟は長年月の後に竣成したが其の間も引き続き人々に向つて警告を與へてゐたのである。

神の命ぜられた時至るに及びてノアと其の家族と各種の動物類が方舟の中に入つた。而して後神は天の窓を開いて全地の極から極迄大洪水を来たらしめ全地上に動く全生物を滅却せしめられたのである。此の中に女子と天使の混血種族も含まれてゐるは無論の事であるが、但し己が本位を守らずして與へられたる最初の位置を離れたる天使達は此の時に滅ぼされなかつた。聖書は是等悪しき天使が獄屋に繋がれて審判の日迄其処に拘禁されてゐると告げてゐる(ユダ書六節。ペテロ後書二章四、五節)

然らば何故に神は地上に洪水を来たらしめられたか。唯単に悪の種族を根絶する爲ののみであつたか。聖書は之が全部の理由でなく最も重要な原因ではないと教へてゐる。今も昔も変らずに人間の心の中にある疑問は「全能の神とは誰か」と云ふ点である。サタンは此の問題に就いて妨害を試み、大部分の人々や、天使の一軍を誘ひ惑はしてサタン自身が神エホバよりも勝れてゐるかの様に誤信せしめてゐる。彼は極端までに高慢になつて彼自身の偉大さと権勢を誇り、そしてそれを振り廻はして示してゐる。神は全ての善き事と完全な物は皆神より出で来る事を教へられ、又サタンの途に歩む者の最後は必ず患難である事を萬づの造られし者に教へ示されるのである。神は全て理知を備う諸生物に教へてエホバが永遠の大神であり、生命と自由と永遠の幸福はエホバのみより出で来る事を示されるのである。此の本義に就て後日イエスは斯う云はれてゐる『永生(かぎりないいのち)とは唯独の眞の遣しゝイエス・キリストを知る之なり』(ヨハネ傳十七章三節)

大洪水は今日にても尚ほ地上の各所に痕跡が残つてゐる程に恐ろしいものであつた。全人類は神を信ずると信ぜざるとに関はらず、何れかの過去に於て地上に大洪水があつたとの伝説を教へられてゐる。神の御予定の時来たるに及びて彼等に何故に大洪水が地上に遣られたかの理由を知るに至るであらう。神の善き事と恩は此の教訓に依て人間と天使に示されたのである。

ノアの時代の事を知り、特に大洪水以前の「世」の事を知つて置く事は非常に重要なる事である。此の洪水は此の地上の世界に来る處の更に恐ろしき大患難の模型であつて、神エホバは其れに依てエホバが全知全能最高至上の神である事を万物に示されたのである。神の霊はノアの心を感動さして洪水の来る事を教へたが、更に又使徒パウロの言は此の洪水が今の時代の終末期に到来する處の更に大なる何事かの前影である事を示してゐる(ヘブル書十一章七節)

洪水から数千年後にイエスは斯う云はれた『ノアの時の如く人の子の来るも亦然らん』(マタイ傳廿四章七節)。ノアの家族を除く以外の人々は皆口を揃へてノアを嘲弄した、何故なればノアは悪しき世に大患難が来ると告げたからである。其時ノアと其の一家を除く他の人々は皆悪魔の造る宗教制度に参加して付属し崇拝するか、或いは彼の輩下の何者かを崇拝してゐたのである。今、此の現代に於いても全ての宗教制度に挙つて、眞の福音を説きサタンの制度の陥落する時が到来し、それに引き続いて神の義しき王国が建設きれるとの宣べ傅ふる者を嘲弄するのである。ノアの時にも神の證し人たりし者は極めて小数であつた。其の如く今日に於いても神エホバを愛して其れに奉仕する純なる心の持ち主のみが眞に朱成る神の側にあるのである。此の忠信なる級の者に向つてエホバは斯く云はれる「汝らは我が證し人なり、唯我のみ、我はエホバなり」と。

ノアの時代の問題は「神とは誰か」であつた、その如く今日の問題も矢張り「神とは誰か」である。サタンの支配した悪の世は神が悪と悪しき者に対する神の憤怒の表示として破壊して了はれた。そしてそれは又、理知を備えて造られし者皆に向つて神エホバは全能の力の唯一所有者であつて此の神の力は神の智と義と愛と完全に一致調和して働き、虐げられし人類は神が服従者に対し永久の祝福を與へられるべく準備される處の全人類救済の御計画に頼る以外には頼るものがないと云ふ事を示す教訓となつたのである。

第五章 「敵」の組織制度[]

洪水の時に救はれたのは僅か八人のみであつて彼等は破滅に帰した古き世より移し出されたのである。之は即ち前影となつてゐるものであつて、洪水以後から始まつた此の世も過ぎ行きて、此の世のから新しき世即ち大救世主の支配下に建設される次の世に救ひ移されるを示す模型であつて其の世に於いて永久の生命の途を學ぶのである。ノアと其の家族は神を信頼する者を神が救済されるを示される神の力の活ける模型である。ノアは神を愛し神に忠信であつた。神は洪水と云ふ経験に依って理知を備へて造られし者に向つて悪しき者は榮へ輝く事なくして神の預定の時に皆破滅されて了ふが、唯神に忠信なる者のみ永久の生命を以て祝福されると云ふ事を教へ示されたのである。之に就いて預言者は斯う斯く『エホバはエホバを愛しむ者を全て護り給へど、悪しき者を悉く滅ぼし給はん』(詩編百四十五編廿節)

神は洪水後地上に再び人間繁殖のお仕事を始められた『神ノアと其の子等を祝して之に言ひ給ひけるは生めよ、増殖よ、地に満てよ-汝ら生めよ、増殖よ、地に多くなりて其の中に増殖よ』(創世記九章一、七節)

ノアは洪水後三百五十年間生きて彼の子や孫が増加した。神を愛して之に奉仕するノアは無論其の子や孫に唯一の活ける神を愛して之に奉仕する様に教へた事であらう。神の子なる天使達をして神の律法に背かしめ、其の本位を離れて遂ひに神の怒りを招かしめたる責任者は即ちサタンである。今彼サタンは彼の悪しき道が齎す結果を見て悟つた。地上の悪しき者が滅ぼし去られ、又己が本位を忘れたる天使達が獄屋に繋がれたる此の事実はサタンをして到底神に抵抗するの不可能なるを悟らしむるに十分なる教訓であつた。然し彼は此の教訓に依って学ばなかった。彼は以前、我欲の態度を持続した。然しノアが尚生存してゐて其の子や孫たちに眞の神を愛し之に奉仕すべき事を教へてゐる間はサタンも其の悪の誘惑を盛んにする事が出来なかった。

頓て野獣を狩る名人のニムロデが生まれ出てきた(創世記十章八、九節)。其処で悪魔は此のニムロデを崇拝するやうに誘惑した。サタンの目的は如何なる方法に関せず、兎に角人々の心を神エホバより離反せしむれば良いのである。大能の霊者としての彼サタンは彼の霊力を使つて人々の心を感動して悪しき思ひを彼等の心の中に注入したのである。そして斯くして再び自由に支配して神エホバより離反せしむる事が彼の願ひであつたのである。

聖書の記録に従るサタンが執る次の方法は人々を団結して国家政府を組織せしめて一段容易に全人類を支配して彼の我欲を逞しくせんとするにあつた。之に就いて聖書は云ふ『全地は一つの言語一つの音のみなりき。滋に人衆東に移りてシナルの地に平野を得て其処に居住り。彼等互ひに云ひけるは、いざ我等瓦を作り之を善くやかんと、遂に石の代わりに瓦を得、灰沙の代わりに石漆を得たり、又日ひけるは、いざ邑と塔とを建て其の頂上を天に至らしめん、斯くして我等名を揚げて全地の表面に散る事を免れん』と(創世記十一章一、四節)。

之が即ち洪水後に人々を世界的国家政府に統一せんとしたる悪魔の最初の企てであつた。邑(訳者注-英語はCity日本語聖書には城とも訳してマチと振り仮名する等、訳語が混乱せり。改訳聖書黙示録廿一章十節の如く都とるすが至富なり)とは政府と云ふ事を表象す。そして右の場合に於てサタンは人々を誘惑して一つの都と一つの塔を建設するの決心をなさしめたのである。彼等は其の実行に着手した。サタンの誘惑に依って人々が建立したるバベルの塔は全能の神エホバに対するサタンの挑戦であつた。人々の心を誘惑して此の事をなさしめたサタンの目的は、即ち人々をして彼等自身の努力に依って彼等の崇拝すべきものを勝手に制定し、又彼等自身の向上を実行することが出来ると共に必要ある場合には彼等自身の能力に依って彼等自身を救ひ出すことが出来ると自負せしむるにあつて是れ又人々を神から離反せしむる爲のサタンの狡猾なる陰謀であつた。そして悪魔は此の方法を今日迄も以前継続してゐるのである。

バベルの塔の建設は丁度今日の基督教界の根本派や現代派の遣り方と酷似併行してゐる。彼等は云ふ「我等は神も救ひ主も要しない。我等は聖書も要しない。我等の智識は過去の全人類のそれに比して遥かに勝る。我等は我等自身の知識と能力に信頼して我等の向上を計らねばならぬ」と。斯くして悪魔は學者達や自称博士を使つて人々の心を眞との活ける神エホバより離反せしむるのである。

バベルの当時より今日迄引続いて悪魔は同様の方法を用ひて地上の人々を世界的國家政府に統一し、その政府機関を通じて全民衆を統括せんと企てたのである。彼は人々の心を神の全人類救済の大計画に無智たらしめ、生命に至る唯一の道より離反せしむるに成功したのである。サタンは全地諸強國の統治機関を形成する者の心の中に貪婪と我欲の念を植え付け、強力なる軍備に依て我意を遂行し、其悪しき統治機関の威厳を助長する各種僞物の宗教制度を用ひて人々を恐怖せしめつゝあるのである。

神はシナルの平野の人々が極端迄その愚行を逞しくするを放任して置かれた。彼等は自分等の名を高く掲げん爲に此の塔を築いた。悪魔は人々の心に斯うすれば全地上に人々が分散するを免れるとの観念を囁いたのである。無論彼は斯くして人々を其の都と其の塔を中心に集合せしめ、其処を地上全人類が望んで崇拝し指揮を仰ぐ中心たらしめ、此の機関を通じて全人類を容易に支配する事が出来ると考へたのである。彼は人々の心を神から離反せしめ、最早神を信ぜしめざる處まで導くに成功した。サタンは此の時彼が神エホバを再び負かして人々を己に隷属せしめ、其の崇拝を横領し得たと考へたのである。

此の時神は全人類の利益の爲に行動を開始された。神はサタンが人々の心を神から離反せしめた今、人類が霊的なるサタンの掌中に全然陥る事を看取されて、人々にサタンは眞の神に非ずしてエホバのみが眞の神で又人々を救ふ神なる事を知らしむる教訓を與へられる事となつたのである。そして此の時神が降臨されて彼等人間の組織制度と力を観られて、人々の利益の爲に彼等の言語を変更されて了つたと云ふ記録がある。其の時迄全人類は唯ヘブル語のみを使用してゐた。(創世記十一章一節)

神は之より執らんとする行動に依つて人々に教訓を與へんとされたのである『エホバ降臨(くだ)りて彼人衆の建つる邑と塔を見給へり。エホバ云ひ給いけるは、観よ、民は一にして皆一の言語を用ふ、今既に之を爲し始めたり、然ば全て其の爲さんと計る事は禁止め得られざるべし、いざ我等降り、彼処にて彼等の言語を乱し、互ひに言語を通づる事を得ざらしめんと。エホバ遂に彼等を彼処より全地の表面に散らしめ給ひければ彼等邑を建つる事を罷めたり。此の故に其の名はバベル(乱れ)と呼ばる。是はエホバ彼処に全地の言語を乱し給ひしによりてなり。彼処よりエホバ彼等を全地の表面に散らしめ給へり(創世記十一章五~九節)

此の経験により人々の或る者は其処に偉大なる神が実在して他の何物にも勝れたる全能者である事を悟り始めたのである。が然らば彼等は此の時に悪魔には全然信頼し得ずとの教訓を得たらうか。彼等は偉大なる神エホバのみが永久の祝福を與ふる神であるとの教訓を得たであらうか。之に関し我等は更に人類の歴史に基づいて事実を調べて見る事とする。

第六章 最初の世界的強国[]

バベルの塔の崩壊後全地に散つた人々は其の支族々々に従つて地上の各所に群居した。是等多数は埃及の地に住所を得たが、サタンは其処で地上に於ける最初の世界的強国を建設した。歴史に従ふと埃及の最初の支配者をメネスと呼んだ。彼等は神よりの干渉を受くる事なく、即ち換言すれば神の黙認を得て、偉大なる世界的強国を建設したのである。此の國は強烈なる武力政策を以て民衆を圧迫し、富と知識と宗教を以て盛え是等の三要素が合同して民衆を支配し、民衆に堪え難き重荷を負はしむるに至つたのである。

一方、神はアブラハム、イサク及びヤコブを恵まれ、最初から決定してゐた偉大なる御計画の実行を進行中であつた。神の預定の時に至るに及びて、ヤコブの愛子なるヨセフは己が兄弟達の手で漂泊の除商に賣り飛ばされて埃及に連れて行かれた。ヨセフにしても又彼の父ヤコブにしても常に神に奉仕してゐた者で、神はヨセフが賣られた此の事件を変じて却て彼等の爲に善き事となる様に利用された。間もなくヨセフは冤罪を蒙つて、無期限の状態で牢獄に繋がれるに至つた。其の時埃及の王は一つの夢を見たが、彼自身は元より誰も其の夢を解説する者がなかつた。王は魔術の博士即ち地上に於ける悪魔の代表者を召して其の夢の解釈を命じたが魔術の博士には解釈ができなかつた。王は牢獄に在るヨセフの事を聴きて早速彼を王の許に召し寄せた。斯くして神エホバは其の忠実なる僕に報賞されたのである。神の智からに依てヨセフは王の夢を解き明かし、埃及の地に七年の豊作と七年の凶作が到来する事を予告した。ヨセフは此の時此処で唯一の眞なる神エホバに対する忠実なる證し人なり、神は彼の忠誠を嘉みして其れに報はれたのである。神は神に忠実なる者に報賞を賜ふ事を決して忘れられない方である。

埃及王はヨセフを王に次ぐの最高位に昇したが、爾後ヨセフは埃及の地を支配する事実上の支配者となつたのである『是に於いてバロ其の臣僕に云ふ、我等神の霊のやどれる是の如き人を看出すを得んやと、而してバロ、ヨセフに云ひけるは、神之を悉く汝に示し給ひたれば汝の如く賢き者なかるべし。汝我が家を司るべし。我が民みな汝の口に従はん、唯位に於いてのみ我は汝より大なるべし』(創世記四十一章卅八、四十一節)

ヨセフは埃及の人々に対して偉大にして善き證し人であつた。彼は人々に対して神エホバが其の偉大なる御計画に基づきて如何にして人々を贖い、救い出し、祝福されるかと云ふ概要を示したのである。無論人々は其の時之れを諒解する事が出来なかつた、然し之れが記述されあるは即ち今、神の御計画を諒解し得る事を許される此の予定の時に居合す人々に理解せしむる爲である。

七年間の豊作中にヨセフは全権を行使して穀物を貯蔵した。飢饉が到来した年に人々は苦しんだ。ヨセフは全部の穀物を王の手に買ひ取つた。翌年人々はヨセフに来て斯う云つた。「我等には最早売るべき穀物なし」と。ヨセフは斯う云った「然らば汝等の家畜を売れ」と。そしてヨセフは全部の家畜を王の手に買ひ取つた。其の翌年も飢饉は続いて人々はヨセフに来て斯う云つた「我等は最早売るべき穀物も家畜も有せず」と。ヨセフは斯う云つた「然らば汝等の田地を売れ」と。そしてヨセフは全部の田地を王の手に買ひ取つた。飢饉は尚ほ続いた。人々は其の翌年もヨセフに来て斯う云つた『我等には最早売るべき穀物も家畜も田地も無くなりし故、今は我等自身をバロ王の僕として売らん』(創世記四十七章十四、二十三節)と。斯うして人々はヨセフの手からパンを得る爲に全部の物を見捨てたのである。

之は神の豫定の時至るに及びて人類が自ら進んでヨセフの実態即ち正義の君なるイエス・キリストの僕となり、主イエスの御手から生命のパンを受けて生きて行く事を図示した前影となつてゐるのである。ヨセフは埃及の地を整理して人々を満足さした。此の様に神は人々に対し、如何にして忠誠なる者は平和と祝福を以って報はれるかと云ふ事を図示されたのである。故にヨセフは埃及の地に於いて神エホバの爲の偉大なる證し人となつた。

ヨセフの死後、埃及には新しい王が位に就いたが彼は容易に悪魔の奇計に陥つた『玆にヨセフの事を知らざる新しき王埃及に起こりたり』(出埃及記一章八節)。此のサタンの道具なる暴戻なる王の治下に於いて人々は神の忠実なる僕ヨセフを通じて受けたる神エホバの恩と恵みを忘れて了つた。此の時埃及は力と富に勝れた偉大なる世界的強国となつて空前の盛観を呈したのである。悪魔は今、埃及の人々を虜にした。彼らは神を忘れて四足の獣や地上を匍い廻はる動物を崇拝した。そして人々は政府と名付くる好餌の下に悪魔の奇計に容易に陥つたのである。

富豪は武力政治を生むの父となり、知識ある者は政治の立案者となり、悪魔の宗教の祭司等は人々を導いて悪魔と其の造りし偽物に対して盲信を捧げしむるに至る。此の金権と政権と教権の三要素はサタンに依て組織されて一つの形式の下に働いて世界的強国を形成し人々を支配するのである。此の種世界的強国を聖書は「獣」と呼ぶ。政府は支配の権を握りて暴戻を逞しくし、神に反逆して民衆に対する圧迫の毒手を振ふ。埃及王パロの映像は今日至るも尚ほ実在し彼等の面には暴戻と傲慢と侮蔑の色が鮮やかである。サタンは人々の間に幾多の偶像や偽の神々を作つて人々に崇拝せしめた。之れ彼の常套手段であつて彼はあらゆる方法を盡して人々を眞の神エホバより離反せしめて、其の御計画を學ばしむる事を妨害せんとするのである。

此の期間を通じて神は地上に神の證し人を常に有してゐられた。ヨセフは彼の父と兄弟達を埃及に連れて来てゐた。彼等の子孫は繁殖して埃及の地に有力なる一群を成してゐた。此の人々こそ眞の活ける神エホバを崇拝する神の民であつた。ヤコブの死去以来彼等は地上に於ける神の選民として認められてゐた。此の故に悪魔は一段激しく此の民を圧迫した。そして若し神の保護がなければ此の民は悪魔の迫害と圧迫の下に滅亡する位であつた。神が其の民を埃及の地に住む事を許して置かれた事は即ち、神は理解力を有する被造者に必要なる教訓を與へて、預定の時に至るに及びて彼等にそれを了解するを得せしめられたのである。

ヤコブは臨終に際し預言してユダの支派から大能者が生まれて来て人類に対する大救ひ主となり、人類は其の救世主に服従するに至らんと告げた(創世記四十九章十節)。悪魔は無論此の預言を知ってゐた。そして彼は早速方法を講じて此の約束の者を滅ぼさんと考へた。イスラエル(訳者注-ヤコブの事)の子孫は以前埃及の地に住み、彼等の繁殖率は埃及人のそれを凌駕した。故に王は産婆に命じてヘブル人(訳者注-ユダヤ人、イスラエル人の別名称)の婦人が出産した時、男児なれば早速殺し、女児なれば生かし置く様にした。之が明らかに悪魔の執つた方法である。即ち悪魔は生まれた男児を皆殺す事に依つてユダの支派から出で来ると約束されてゐる其の約束の者を殺し去る事が出来ると考へたのである。悪魔は此の大能者の出現を妨害する爲に全力を傾注した。然し假令如何に努力するとも彼には神エホバの御目的を妨ぐるの能力がなかつた。

神はヘブル人の婦人を助け、引続き子供を生ましめられた。遂にモーセが生まれて来て彼は神の奇跡的加護に依て殺される事から免れた。そして彼は王の家に引取られ、王族の一人としての特権の全部を有して得たのである(出埃及紀二章一、十節)。斯くして神はモーセを保護し、モーセを以つて後に来たらんとする大救世主の模型とされたのであつて、我等は悪魔がモーセの時と同様の方法を以て救ひ主イエスを滅ぼさんとした毒手段に就いては改めて後段に説く事とする。

モーセは神に信仰を有した(ヘブル書十一章廿四、廿五節)。モーセは悪魔と其の支配する世が與へる愉楽や光栄の全てを有するよりも、寧ろ己が民イスラエルの人々共に眞の活ける神に奉仕せんことを願つた。神は引続いて全ての事を御旨のまゝに利用して選民の爲に都合よく萬事を運ばれ、其の御予定の時に、神の善き事と親切が人々に證しせらるゝ様に準備をされた。

モーセは己が境遇上他の地方に行つて住まなければならなくなつた。イスラエル民族に対する埃及の王バロの圧迫の手は益々悪化する。苦悩する同民族の悲痛なる叫びは神の御許に達した『エホバ云ひ給ひけるは我れ眞に埃及に居る我が民の苦患を観、また、我等が其の驅使者の故を以て叫ぶ所の聲を聞けり。我れ彼等の憂苦を知るなり。我れ降りて彼等を埃及人の手より救ひ出し、之を彼の地より導きのぼりて善き廣き地、乳と蜜の流るゝ地、即ちカナン人、ヘテ人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の居る所にいたらしめんとす。今イスラエルの子孫の叫呼(さけび)われに達(いた)る。我また埃及人が彼等を苦しむる其の暴虐を見たり。然れば来たれ。我れ汝をバロに遣はし、汝をして我が民イスラエルの子孫を埃及より導き出さしめん』(出埃及紀三章七~十節)

モーセは神の命を奉じてイスラエルの人々を救ひ出すべく、又彼の兄弟アロンはモーセの助手として共に出発した。両人は神の命に従つてバロの前に出でて斯う述べた『イスラエルの神エホバ斯く言ひ給ふ、我が民を去らしめ彼等をして荒野に於いて我を祭る事を得せしめよと』(出埃及紀五章一節)。肉眼に見えざる支配者悪魔の手に立てられし埃及は此の世の兄弟なる國であつた。我欲と悪に絶した彼サタンは彼が地上に有する肉眼に見ゆる代表者なる埃及王バロをして全能の神に対して傲慢無礼最大の侮辱を加へしめたのである。モーセの要求に対して悪魔の代表者なる埃及王は斯う行つた『エホバは誰なれば我れ其の聲に従ひてイスラエルを去らしむべき。我れエホバを知らず、亦イスラエルを去らしめじ(出埃及記五章二節)

イスラエルの民に対する圧迫の重荷は甚大に増し加へられた。神はモーセに斯う云はれた『今汝わがバロに爲さん所の事を見るべし』(出埃及記六章一節)。埃及の地にあるイスラエルの民の上に不義の圧迫が積み重なる時に神は、エホバが全能永遠の神にして義と智と愛と力の神に在ます事を人間に表示するの機会を有せられたのである。人々は神を忘れた、故に神は降りて埃及に行き、肉眼に見ゆる神の代表者を通じて神御自身の名を成される時が遂に到来したのである。預言者は後日、此の事件に就て斯う書いた『地の何れの國か汝の民イスラエルの如くなる。其は神行きて彼等を贖ひ、己の民となして大ひなる名を得給ひ、また彼らの爲に大ひなる畏るべき事を爲し給へばなり。即ち汝が埃及より贖ひ取り給ひし民の前より國々の人と其の神々を逐ひ拂ひ給へり』(サムエル後書七章廿三節)。其処で此の時神はモーセに斯う告げられた『我れ我が手を埃及の上に伸べてイスラエルの子孫を埃及人の中より出す時、彼等我のエホバなるを知らん』(出埃及記七章五節)

神は其の御計画を実行するに際しして再びモーセとアロンを埃及王の許に遣はし、イスラエルの民を埃及より去らしめん事を要求された。此の要求は拒絶された。其処で神は埃及の上に禍難(わざわひ)を送られた。河水は血に変じた。蛙と蚤と虻の禍難(わざわひ)が来た。バロは悔いてイスラエルの民を埃及から去らしむるを許す約束をしたが、直ぐ又、傲慢に還つて去らしむる事を拒絶した。

其時神はモーセに言はれた『我今一つの災ひをバロ及び埃及に下さん、然る後、彼汝らを此処より去らしむべし、彼汝らを全く去らしむるには必ず汝らを此処より逐ひ拂はん』(出埃及記十一章一節)斯くして神は神が全能の大神エホバなるを理智ある全部の被造者に教へ知らしむる爲に準備されたのである。神はモーセをしてイスラエルの民の長老たちを召し、ニサンの月(猶太教歴第一月)の十日に全家族をして各一頭宛の疵なき當歳の牡なる羔を取らしめ、其の月の十四日迄之を守り置きて、十四日に之を殺して其の血を門口の柱と鴨居に塗らしむる様に命ぜられた。此の律法を服従する事は即ちイスラエルの民に対する保護となるのである『是の夜、我れ埃及の地に巡りて人と畜とを論はず、埃及の國の中の長子たる者を、悉く撃ち殺し、又埃及の諸々の神に罰を蒙らせん。我はエホバなり。其の血汝らが居る所の家にありて汝等の爲に記號とならん。我れ血を見る時汝らを過ぎ越すべし。又我が埃及の國を撃つ時、災ひ汝らに降りて滅ぼす事なかるべし』出埃及記十二章十二、十三節)

モーセは民に命じて其の夜に対する諸般の準備を整へた。羔を殺して其の血を門口に塗つた各家族は何れも家の中に在つて待ち受けてゐた。其の夜、悪しき神に依り頼む悪魔の民なる埃及人は傲慢なる其の王より下人々に至るまで、心を安んじて眠つてゐた。全宇宙の神エホバは、其の天使を遣つて埃及全地を過ぎ行かしめて埃及の長子を悉く殺して彼等の仕ふる偽の神々を粉砕された。此の夜、神の命に従つて門口に羔の血を塗り居たるイスラエルの民の家の長子を除きて他の全部の長子は皆悉く殺されたのである。此の殺戮は人間は元より獣に迄及び、又上は王より下は最も賤しき民の長子に迄臨んだのである。埃及全地には驚愕と大なる悲しみの叫びがあつた。何故なれば埃及の全家族の何れも皆それぞれ死人があつたからである。

王は早速モーセとアロンを呼び寄せて早速イスラエルの全家族が埃及を去るべき様に命じた『亦汝らが云へる如く汝らの羊と牛をひきて去れ、汝らまた我を祝せよ。と此処に於いて埃及人は我等皆死ねると云ひて民をせきたて速やかに國を去らしめんとせり』(出埃及記十二章廿二、廿三節)。

[269]

……………

西暦一八七四年以降眞のクリスチャンがバビロン制度の中から逃れ出で始めた時、即ち聖書を探し求めて研究し始めた時、そして是等不思議なる豫(予、預)言が成就実現しつゝある諸実証を諒解し始めた時に、彼等真の追随者は「異邦人の時」と呼ばれるこの二千五百二十年の期間が西暦一九一四年(大正三年)に終結するという結論に達したのである。故に彼等は一九一四年の年に大事件の発生するを期待して進んだのである。そして神は神の預言(よげん)の成就を熱心に注意している真の追随者の期待に充分に報賞(むく)はれたのである。


[270]

第十一章 国の誕生[]

此処に示す国の誕生とはすなわち支配権を保有する正当なる権威が其の統治を開始したと云うことであって、即ち神の国の統治が開始されたと云う事である。

人間の歴史に見ても諸国は国家の名称で呼ばれている。正式に制立されたる権威が組織されたる民衆を支配する場合に其れを国、民族若くは国家政府と呼ぶ。是等の諸国語は同一の意味であって何れを使用するも差支えないのである。国家政府と帝国は同一の意味である。そして若し其処に何等かの相違がありとすれば、帝国なる意義は単なる国家、政府若しくは民族よりは更に広範であると云うのみである。故に之を正式に云えば国家或いは民族は小規模より出発し、之が多数の民衆を抱合して最高絶対の統治権を行使する場合には即ち帝国の名称で呼ばれるのである。

聖書は「基督」即ち主イエスを首にして教会をその体とする一団を「聖き民」(ペテロ前書二章九節)と呼んでいる。誕生とは生れると云う事で、即ち有形的に作用を開始したと云う事である。此処に表象的辞句を用いて国の誕生と云ったのは神の国の政府即ち神の国家が権威を行使し始めたと云う事である。之を生む者は婦人である『シオンは産のなやみを知らざる先

[271]

其の劬労の来らざる前に男子を産み出せり』(イザヤ書六十六章七節‐英訳参照)。神の組織制度なるシオンは象徴的に婦人と呼ばれている。

統治支配の権は正式に制立したる権威者の手に保有される。メシアに就て聖書は斯う記す『政事は其の肩に在り』(イザヤ書九章六節)。『国はエホバのものなればなり、エホバは諸々の国人を統べ治め給う』(詩篇廿二篇廿八節)。イエスは地上に居られた時にご自身の事を「国」と呼ばれている。何故なればイエスはその主権者として神から任命されたからである(マタイ伝十章七節)。預言者は神の国に就て預言し、国その物と、其れを形成する個々の人間とを区別して説明して曰く『而して国と権と天下の国々の勢力とは皆至高者の聖徒たる民に帰せん至高者の国は永遠の国なり、諸国の者皆彼に事え[1]、且つ順わん』(ダニエル書七章廿七節)。神の国を運用する者は聖書の示す如く、主イエスと而して彼と共にありて彼の体となる者達である。

神は其の模型的王国即ちイスラエル民族を転覆されし時に、確定したる期間を示して其の予定のときが来たなれば「権威を有つべき者[2]」が現われて、同時に其の王者は己に属する王権を行使し統治を開始する事を示されている(エゼキエル書廿一章廿七節)。其の統治権を保有して神の予定の時に全地の支配を行う者は即ちメシアである(創世記四十九章十節)。故に其の正

[272]

當の王者が其の王権を行使して統治を開始する時には、其の王者の統治開始と共に敵なるサタンの保有していた全地の支配権は当然終結する訳である。神が猶太人に与えられたる無数の預言に基きて忠信なる猶太人はメシアの来る時に此の世が終結して、それと同時にメシア王国の運用が開始され彼ら猶太人が望んでいた祝福が与えらるる事を諒解して確認していた。イエスに最後迄忠信であった使徒十一人はイエスがメシアである事を信じていた。ペテロはイエスがメシア即ちキリストである事を明言してイエスより誉められたが、他の使徒達もペテロの此の言を聞いて同じ様に信じていたに相違ない(マタイ伝十六章十六節)

脚注[]

  1. 編集者注:「事え」、つかえ。
  2. 編集者注:もつべきもの


是等の弟子達は「此の世の主」即ちサタンの支配下にある此の世が終結すると共にメシア王国が続いて権威を行使するを信じて期待し、或る時秘かにイエスの傍に行って斯う尋ねた『爾(なんぢ)の來(きた)る兆(しるし)(:原括弧:実証)と世の末(をはり)の兆(しるし)(:原括弧:実証)は如何(いか)なるぞや、我等(われら)に告(つ)げ給(たま)へ』(マタイ傳廿四章三節)

此の質問中の『世』とは何を意味するかと言えば「世」とは即ち、肉眼に見えざる君主の支配下に於いて、国家政府の形式に組織されたる人類を意味するのである。聖書はこれを表象的に説明して天と地と呼んでゐる(ペテロ後書三章七節)天とは世の肉眼に見えざる部分であって肉眼に見ゆると見えざるの別なく、是等を運用し、指揮する部分を云う。地とは其の組

[273]

織制度中の肉眼に見ゆる部分を表象したる者である。弟子達が上記の質問を発した当時には、サタンが此の世の神であり、君であり、主であり、支配者であった(コリント後書四章三、四節。ヨハネ伝十四章卅節)

イエスは明瞭(めいれう)に斯う声明(せいめい)されてゐる『我が国は此の世の国に非(あら)ず』(ヨハネ伝十八章卅六節)。故にイエスの国即ち国家は此の世でなかった事は明瞭である。何故ならば此の世はサタンの支配下にあったからである。そして神の預定(よてい)の時至るに及びてイエスが其の統治権を把握(はあく)されるのである。弟子達はサタンの世が終結(しうけつ)して、メシアの世が未来に何時かに開始されなければならぬと諒解してゐた。此の故に彼等はイエスに上記の質問を発(はっ)したのである。

此の質問に対して与えられたイエスの答えは預言(よげん)であった。故に此の答へは其の預言が成就する時迄(ときまで)は諒解し得ないのであって、其の成就した時に始めて、各種の実証は豫言の成就を立証し、それを諒解せしむるのである。イエスに依(よっ)て答へられたる預言が成就すべき時に到来した時に、之を注意して待ち受けてゐた者は発生(はっせい)する諸実証と預言とを比較研究する事に依て預言の真意を悟り知る事が出来るのである。

イエスは此の質問に答えらるゝに際し、まず其の劈頭(へきとう[意味、まっさき])に於いて弟子達に対し何者からも欺かれざるやう注意せよと警告された。然るに後続(のちつづ)いて終結(をはり)の来る前に戦争やその噂が盛んに伝へ

[274]

られるが是等に恐るゝ勿れ、何故ならば終結(をはり)は未だに来ないからである、と告げられた。而して後に悪の世が終結する最初の実証として左の如く語られた『民起こりて民を攻め、国は国を攻め、餓饉、疫病、地震ところどころに有(あ)るならん、是れ皆禍(みなわざは)ひの始(はじ)めなり』(マタイ傳廿四章七、八節)今、我等は有形的の諸事実を調べて是等諸事実が如何にイエスの預言に一致符号してゐるかを見る事とする。イエスは「禍の始め」即ちこの悪の世の最後を告ぐる悩みの時は「民起こりて民を攻め、国は国を攻むる」事を始むると云はれた。イエスの此の言葉は無論大戦争を意味してゐるのである、何故なれば其の前の所で戦争の事を語られてゐたからである。西暦一九一四年以前の戦争は同じ戦争にしても一国対一国、数国対数国の戦争に過ぎなかった。しかし一九一四年より一九一八年迄の世界的大戦争の如きは人文至上未曽有の出来事であって全地を挙げての大動乱であった。各国の戦闘に堪ふる者全部は武装し、男女ともに戦線に送られ、後方に残る男女は政府の強制的命令に依って金品と労力の提供するの義務を負はされた。…

[275]
……此(こ)の大戦争に続いて露西亜(ロシア)、墺太利(オーストリア)、独逸(ドイツ)及び東洋の各処に大餓饉があり、大戦の戰死者よりも多数の人々が饑餓の為に死亡した。其れに続いて西班牙(スペイン)インフルエンザは突如発生し来たり、寒帯熱帯の別(わか)ちなく全地上を席捲(せっけん)して数千万の人命を奪ったが、一年間に此の悪疫が倒した人命は大戦四年間の戦死者数よりも遥(はる)かに多数である。

……………

[277]

……………
故に神は大戦を突如中止してマタイ伝廿四章十四節の預言を成就せしめられたのである、即ち『御国のこの福音は諸々(もろもろ)の国人に証しをなさん為全世界に宣(の)べ伝へられん、而して後、終わりは至るべし』一九一八年より今日(一九二七年)に至るまで此のクリスチャンの小さき一団は主イエスの臨在と、旧(ふる)き世の終結と、メシア王国の開始の福音をキリストの御名の伝へられある地上の諸国に宣(の)べ伝へたのであるが、之れ叉、現在地上に住む者の為に与えらるゝ主イエスの預言の明瞭(めいれう)に成就したことを示す実証の証言(せうげん)である。

 主イエスに依って与えられたる旧(ふる)き世の終結(しうけつ)とメシアの王国の到来に関する他の預言に見るにイエスは『ヱルサレムは異邦人の時満つる迄、異邦人に蹂躙(ふみあら)さるべし』(ルカ伝廿一章廿四節)と云はれてゐる。此(こ)のヱルサレムとは即ちユダヤ民族を指示するのである、何故(なにゆゑ)なればヱルサレムと異邦人との間に明瞭なる区別を置かれてあるからである。過去二千年間に亘(わた)って猶太人(ユダヤびと)が懐(いだ)いている衷心の願ひは彼等が故郷パレスチナに復帰せんことである。大戦終結に近き頃英帝国(ころえいていこく)はパレスチナ地方の保護権を確保し、英帝国(えいていこく)の代表者であるバルフォア卿を通(つう)じて、英帝国は猶太人(ユダヤびと)をして彼等の故郷パレスチナに復帰せしめて再建せしむる意嚮(ゐこう)ある旨を宣言せしめた。この結果に来たる迄には種々の準備があったことは事実であるが、しかし猶太人(ユダヤびと)

[278]

の故郷再建に関し公式の手続きが執(と)られたのは之(これ)が最初である。

神の豫定の時なる一九一八年の春チェイム・ワイズマン博士は一個の猶太人団体の首脳者としてヱルサレムに事務所を開設し、猶太民族の国制組織に着手した。爾後パレスチナにおける猶太人の人口は漸次健全なる膨張を示して来たのであって、諸々の預言を成就して、土地を購入し、…………

[279]

………………

預言者ダニエルは此の世の諸国即ちネブカデネザルの時代から「異邦人の時」の終結迄の事を預言した。そして彼は、神が其の国を建設される時には、この世に属する諸国が未(ま)だ地上に現存してゐると預言した『此の王たちの日に、天の神は一つの国を建て給はん。是は何時迄も滅ぶること無からん。この国は他(ほか)の民に帰せず、却(かへっ)てこの諸々の國を打ち破りて之を滅せん。是は立ちて永遠に至らん』(ダニエル二章四十四節)。此の神の国は預言中に『人手に依

[280]
らずして鑿(き)り出(いだ)されし石』(ダニエル二章卅四、卅五節)と説明されてゐる。此の国こそ新(あら)たに誕生したる国家である。故は聖書は明瞭にサタンの形成せる悪の世は終結し、諸国諸民が戦争を始める時に、主イエスが臨在してゐて、神に属する新しき義の国が誕生する事を示している。

       母なるシオン

神ヱホバは神の国即ち帝国に対しては「父」即ち生命を与へたものである。何故なれば神は其の統治の王権を保有する支配階級を造り、亦此(またこ)の個々に生命を与へたのは神ヱホバであるからである。「神の都(みやこ)」シオンはヱホバの組織制度であって、叉(また)ヱルサレムとも呼ばれ、新政府と其れを形成する個々の聖徒を生んだ母である。聖書は云う『上(うへ)に在る所の母は自主にして、是(こ)れ我等の母なり』(ガラテヤ書四章廿六節)

神の預言者は象徴的辞句を用ひて男子を以って表象されたるメシア政府、即ちメシアの国若(くにも)しくはメシアの王国が、婦を以(も)って表象されあるシオンより誕生されある事を叙述し、そして未だ陣痛の来ない前、即ち換言すれば陣痛を感ずる事なくして生れて来たと説明してゐる『シオンは産みのなやみを知らざる先に産み、その劬苦来(くるしみきた)らざる前(さき)に男子(なんし)を産み出(いだ)せり。誰(たれ)か斯かる事を聞きしや、誰か斯かる類(たぐひ)を見しや、一つの国は惟一日(ただひとひ)の苦しみにて成るべけんや、一つの

[281]
国民(くにびと)が一時に生るべけんや、然(され)どシオンは苦しむ間もなく、直ちにその子輩(こら)を生めり』(イザヤ六十六章七、八節)

………イエスは云われた『神の国は顕はれて来(きた)るものに非ず』(ルカ傳十七章廿節)『主の日の来(きた)る事盗人の夜來るが如くならん』(ペテロ後書三章十節)シオンは唯静かに、目立たぬように、そして何等の痛み無くして神の国を生んだのである。………神は其の予定の時の到来すると共に愛子(あいし)イエス・キリストを神の宝座(みくら)に挙げられるのである(詩篇二篇六節)…………

[289]

………………

      捨てられたる石が首石となる

預言者ダニエルはメシア王国即ち新政府の誕生を説明して「人手によらずして鑿(き)り出(いだ)された石」と云う。一九一八年、世界大戦の終結した時に、各宗各派の教会制度、中でも特にキリスト・イエスを信じて之に追随してゐる教役者や彼らの所謂「群(むれ)」の有力者たちは聖書の預言と其等の実現成就したる各種の実証を与えられ、主イエスが約束通りすでに臨在されてゐる事と、旧き世が終結したる事と、神の国の開始さるる時が到来したる事実を示されたのである。連合軍側の遠征軍によってヱルサレムが占領されたる時に、英国の有名なる教役者十名は倫敦(ロンドン)に会合して以下の如き声明書を発表した。

第一、現下の危機は「異邦人の時」の終結に近づけるを支持しつゝあり。第二、主の黙示は刻下の問題にしてあたかも主が復活のその夜、彼の弟子達に示されし如く示さるべし。第三、完成されたる教会は「永久に主と共に在るべく」移さるべし。第四、イスラエルの人々(原括弧:猶太(ユダヤ)人)は不信の裡(うち)に彼らの郷土に復帰せしめらるべく後、キリストの出現によりて彼等は主を信仰するに至るべし。第五、全人類再建復興の事業は彼らの主イエスの再臨下に属せしめらるべく、如何(いかん)となれ

[290]

ば全人類は主の御支配下に置かるべきが故なり。第六、キリストの御支配下に於いて、聖霊の働きは全人類の上に一段盛んとなるべし。第七、本声明中に包括されたる諸真理はキリスト教徒の態度を決し、同時に刻下の諸問題に対する參考として最も実際的の価値を有す。

此の注意すべき声明書はエー・シー・デキソン及びエフ・ビー・ミーヤー(以上浸礼派)。ジョージ・キャンベル・モルガン及びアルフレッド・ビルド(以上組合派)。ウヰリアム・フーラー・ゴーチ(長老派)。エッチ・ビーロー及びジェー・スタート・ホルデン(以上聖公会派)。ダンスデール・テー・ヤング(メソジスト派)の有名な教役者十名に依って署名されたのである。

是等の牧師たちは世界的に最大名声を得ている教役者である。是等有名なる各派の牧師達はこの声明書を発表しなければならぬ程に時局の急なるものあるを看取したのである。此の声明書は世界の教役者に向って発送されたが、彼等は之(これ)を拒絶した。

而(しか)して最も注意すべき事は此の声明書に署名した著名なる牧師達自身が自身の声明書を否定して、彼等が今旧(いまふる)き世の終結したる時に在(あ)り、主イエスの再臨在されてゐる時にある事を立証(りっせう)する確実なる諸実証(しょじっせう)を拒絶したのである。

[291]

神の聖書は此の時、即ちメシア王国が誕生して、自称(じせう)の偽「工師」等(にせいへつくりら)が隅の首石(おやいし)を拒絶する時の事に就(つい)て斯う記(しる)す『工師(いへつくり)の捨てたる石は隅の首石となれり。是(これ)ヱホバの成し給へる事にして、我等の目に奇(あや)しとする処(ところ)なり。之(こ)れヱホバの設(もう)け給へる日なり、我等(われら)は此の日に歓(よろこ)び楽(たの)しまん』(詩篇百十八篇廿二-廿四節)

教役者は此の時、神の真理に服従して其れを人々に宣(の)べ伝(つた)へ、キリストの統治の開始されたることを告ぐ可(べ)き筈(はづ)なるに拘(かゝは)らず、彼等教役者はキリストとその王国を拒絶し、神がシオンに据え給ひし隅の首石(おやいし)を排斥(はいせき)して捨て去り、一方キリストの王国(わうこく)の代用として悪魔が提供したる国際連盟(こくさいれんめい)を公然と擁護して、不敬、不埒(ふらち)にも国際連盟は地上における神の国の顕現(けんげん)なりと宣言したのである。之(こ)の言[:葉](ことば)を換へて云へば即ち、彼等教役者(かれらけうえきしゃ)は神の御計画(ごけいかく)と、メシアの王国建設の方則を無視して、故意(こゐ)に悪魔の悪に参与(さんよ)し「獣の像」を崇拝擁護(すうはいようご)したのである。

猶太人(ユダヤびと)の教役者(けうえきしゃ)は彼等の時にキリスト即ち隅の首石を拒絶排棄(きょぜつはいき)した。現代の教役者も皆其れと同じ事をなしてゐるのである。彼等教役者はその「群れ」の有力者達(いうりょくしゃたち)と共に神の言葉に服従せずして、石即(いしすなは)ち今生れしメシアの新政府の上に躓き倒れたのである。使徒ペテロの預言的宣言が如何にして的中したるかを注意してみよ『此の石信ずる爾曹(なんぢら)には貴(たふと)き物となり、信ぜざる者には工師(いへつくり)に棄(す)てられて、隅の首石となれる石となれり、また躓(つまづ)く石、礙(さまた)ぐる岩となる

[292]

なり。彼等は言(ことば)を信ぜざるに因りて之に躓(つまづ)く、此(こ)は彼等かく定められたるなり』(ペテロ前書二章七、八節。詩篇百十八篇廿二節。イザヤ書八章十四節)。斯くして神の国は彼等、即はち自称神(じせうかみ)の代表者(だいへうしゃ)なる彼等教役者等より没収剝奪(ばっしうはくだつ)され、主の預言を美事(みごと)に成就したのである(マタイ傳廿一章四十三、四十四節)。此(こ)の隅の首石を拒絶したる者等は其の上に墜落して破壊(はくわい)して了(しま)った。

義の国家(こくか)は誕生した。神の国の運用(うんよう)は既に開始(かいし)された。主イエスは既(すで)に其の聖(きよ)き「殿(みや)」に在(いま)す。全地の民よ、今之(いまこれ)に聴(き)け(詩篇十一篇四-七節。ハバクゝ書二章廿節)。『ヱホバは列国(くにぐに)(原括弧、悪魔に服従する)と争(あらそ)い給はん』(ヱレミヤ記廿五章卅一節)。『ヱホバの大ひなる恐るべき日』(ヨエル書二章卅一節)は今全地(いまぜんち)の上に近づきつゝあるのである。



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