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[40][41]
もしアダムがこの道をとり、またエバが己の悪事を悔悟して神エホバの手に罪の許しを懇願したならば神は何かの方法で彼女の罪を清められたかもしれない。なぜなれば、この律法を直接に受けたのはアダムだけで、エバはアダムから間接に伝えられたからである。アダムはエバの頭として重大なる責任を有し、己の一部に属するエバの行為に対する責任はアダムが負わなければならなかった。そしてもし彼がエバを矯正するためにその最善を処したならば、その結果はまったく別のものであったに相違ない。…ある人々はアダムが罪を犯したのはその妻に対する深い愛のためであるから、その罪はある程度まで情状を酌量して許すべきであると主張した。しかしアダムは己が妻を愛したか。否! 彼はエバを愛してはいなかった。もし人がだれかを愛するならばその最善と安全とをはからなければならぬはずである。もしアダムがその妻を真に愛していたならば、彼はその場合、こう言わなければならぬはずであった。「エバ、汝は大きな間違いをしたものだ。さあ、一緒に父のみ前に行ってこの大きな罪から免れさせてもらうように父に哀願しよう」と。その神と己が妻に対する愛の欠乏はアダムをして己が我欲を満足させるために神の律法を破らしむるに至ったのである。
[43][44]
その日、神は彼らをみ前に呼び出された。彼らには悔悟と改心の兆候がまったくなかった。彼らは己が行為を擁護しはじめた。女エバは悪事の責任を蛇に帰した。男アダムは悪事の責任を神エホバと妻エバに帰した。もしアダムがエバを愛していたならば、彼はその責任を愛する妻の上に帰さなかったはずである。もし彼が創造者エホバを愛していたならば、神が彼女を彼に与えたと言うことによって神を謗らなかったはずである。(創世記3章12節)このアダムの言を敷衍すると、もし神がエバのごとき女をアダムに与えずに、アダムを園の中に独りで置かれたならばこんな悪事は発生しないはずであるから、この悪事に対する責任のある部分は、当然神にも帰さなければならないというのである。
[45]
彼らが放逐されると共にエデンの入口には番をする者が置かれて、彼がエデンに帰って生命の木の果実を食べることを防止することとなった。
[46][47]
彼らが己が悪事に対して悔悟し悲嘆した形跡は少しも聖書に記録されていない。聖書にこの記録がないことはすなわちアダムが自分の悪い行為に対して無関心の態度を持っていたことを立証している。彼はまったく神を忘れ果て、何の希望もなく神から離れていったようである。エバがなお少し許しの信仰を持っていた形跡はあるにしても、そこには悔悟の証跡はまったくない。カインが生まれた時に彼女は言った。「わたしはエホバの助けでひとりの男子を産み出した」。(創世記4章1節)神は人間に向かって宣告を与えられた時に蛇に向かってこう宣言された。「そしてわたしは、お前と女との間、またお前の胤と女の胤との間に敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕くであろう」。(創世記3章15節)これがすなわちエバが希望を有していたからであって、彼女は彼らを堕落せしめたる悪しき者に対する刑罰が与えられて、他日、何らかの利益をもたらす結果となるという微かな希望を抱いていたためである。エデンに回復されて神と和解する望みを抱いていたとは聖書のどこにも記されていない。聖書の言うところに慎重なる注意を払う者は、アダムとエバは無邪気で無経験なために、その犯した罪がいかに重大であったかを知らなかったと主張する。こう考えることが正当であるとするならば、彼らをエデンの園から放逐して死刑に処すというのはあまりに残酷すぎる結果となり、そしてこれは神の律法の威厳をまったく踏みつけた結果となる。
[48][49]
エバは夫アダムに対してもう少し尊敬を払ってしかるべきはずであった。アダムがその意識的な罪に対する責任を女に帰している以上、女も夫に対する信頼を維持することはできなかったはずである。さらにまたエバが神の律法を犯して果実を食べるという重大事件を決行するにあたり、夫に何の相談もしなかったということは、夫からすると、妻に対する彼の信頼と愛を失ないはじめたことになる。彼らが貧窮者としてエデンを出で去ったとき、彼らはその心の中に互いに不快の念を宿していたはずである。エデンの外にて彼らの困難が増し加わるにしたがって、彼らは焦燥し、口喧嘩や陰口、そして時には殴打沙汰の発生も見たことであろう。夫婦の関係を正当に理解し得る者はきわめて少数である。かくしてどこの夫婦間にも常に不愉快な争いが絶えないことは、すなわちこのためである。アダムとエバが子らをもうけたのは、すなわちこの逆境の時代であった。子孫繁殖の機能は完全な人間へ与えられた。しかし彼はエデンにいる間はそれを行使しなかった。彼の上に死の宣告が下り、彼の生存権が没収されたその後に生まれた彼の子孫は当然生存権を有せざる者であった。これに加えてエデン放逐後その両親がなめた逆境は、未だに生まれるその子らの上にも十分影響していたのである。かくしてこれは彼らの最初の子であるカインの持った悪しき気性に見えるのも明らかである。懐妊当時における両親の精神状態がその胎児に甚大な影響を与えるのは一般周知の事実である。これにみるも、カインが苦き心を抱いていた両親から生まれ出たことを明らかに立証している。アベルが生まれる当時の両親は、多分以前よりは少し投合していたことであろう。
[51]
なぜアダムがエデンに帰ることができなかったかという諸々の理由の中には、以下のことが含まれている。すなわち、(1)彼の上に下された神の宣告は最終的なものであって、もはや哀願は許されず、放逐は必ず遂行されなければならないこと。(2)彼には神に対する感謝の念とその悪い行為に対する悔悟の精神が欠如していたこと。(3)罪を求める彼の願望は義を求める願望よりさらに強いこと。仮に宣告を彼の上から除去することが可能であったとしても不感恩と罪を求める願望はなおその道に横たわっているのである。これぞすなわち、人間が神に和解し得る唯一の道は、その人の心に感恩と正義に対する願望が生じたときにおいてのみ可能であることを立証する有力な証拠である。
[242]
(詩編50:5)アブラハム契約と律法契約に関連して無知の獣類が犠牲の供物としてささげられたが、これらはこの偉大なる「犠牲…の契約」の中に含まれている犠牲の供物の単なる前影にすぎないのである。上記の詩編50編5節の聖句にある「犠牲」とは、特に「血の供物」を意味しているのであって、すなわち契約と共に血を流すことがこれに伴うのは必然のこととされているからである。ここに「犠牲」と訳されているヘブライ語の原語はZebach(ゼバク)であって、動詞のZabach(ザバク)より変化してきたものであり、その意義は「屠る」ということである。以下の諸聖句はこの事実を示す。(申命記12:21…屠ると同意義。列王第二23:20。サムエル第一28:24。サムエル第一15:22)以上、これらの諸聖句中に「犠牲」と訳されているのはいづれもヘブライ語原語の「屠る」という語である。
[318][319]
(ヨハネ1:3)祭司とは主役としての位において他の者のために奉仕する者をいう。聖書の示すところによると、祭司が人間の間から取られるときには、その任務は必ず犠牲の供物をささげるときのみであるとなっている。創造の最初以来、ロゴスは至高の神エホバの祭司であった。なぜならばロゴスはエホバを代表する者の長であったからである」。~260ページ「サラはアブラハム契約を代表し、ハガルは律法契約を代表すると使徒パウロは宣べ教えた。(ガラテア4:24)サラの死後、アブラハムはハガルとの関係を復活しなかったのみならず、彼はかえってケトラと名づけた新しい妻を娶った。ケトラによってアブラハムは6人の男子を得た。ハガルがエジプトにおける律法の契約を表象しているごとく、ケトラが新約を表象していることは明瞭である。このひな型は、すなわち新約が旧約、つまり新約が律法の契約を反復したものではなく、まったく別の新しい契約であるであることを明示している。(創世記25:1,2)
[387]
この祭司の衣装の図示する模型を見ると、エフォドの前方は「アブラハム契約」を表象し、十二の支族の名をくくり付ける十二の宝石を有する審判の胸当ては供え物によって完成されるところの「供物の契約」を表象し、エフォドの後部、すなわち祭司長の肩の上に掛けられて前部に結わき付けられているところのそれは「新約」を表象している。ゆえに至高の神の祭司イエスはこれら諸契約によって掛けられている枢軸である。
[388][389]
イサクが生まれた時にアブラハムは約百歳、その妻サラは九十歳であった。聖書は示して彼らは既に「死んだも等しい者」であったと教えている。このゆえにイサクは信仰による約束の子であった。その後アブラハムは七十五年、サラは三十七年生存した。サラの死後アブラハムはケトラを妻に娶った。このときアブラハムは百四十歳であった。アブラハムはケトラによって六人の子を得た。(創世記25:1-4)もしイサクが生まれたときにおいてアブラハムが既に死んだも等しい者であったとすれば、このことはそれより四十年後の彼の上にも依然として適用されるべきであった。このゆえにそこにもし神の力の働きがなかったならば、これら六人の子供はケトラから決して生まれなかったはずである。ケトラが新約を表象するものであることから見て、新約の子である地上の人類は既に死んだも等しい者ではあったが、キリストを通して示される神の力の働きによって彼らは生ける者とされるのである。アブラハムはハガルによって一人の子を得たが、この子とケトラの六人の子とを合計して七人になるのであって、この七という数は全部を表象する。アブラハムはこれら七人の子に物を与えて彼らをカナンの地より東の国に出で去らしめ、イサクを己が全権の世継ぎとした。(創世記25:1-6)ハガルの子イシュマエルはイスラエル人、すなわちユダヤ人以外の異邦人すべてを代表している。ゆえに七人の子がアブラハムより祝福を受けるということは新約の条件に基づいて祝福を受けるところの地上の全人類をよく表象しているのである。七人の子にこのことをなして、後にアブラハムは死んだ。このことはすなわち新約に基づく祝福の業が完成したときにアブラハム契約が終結するのであって、そのとき以後、この契約は過ぎ去った歴史となってしまうのである。
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公式訳[]灯台1930_7 「我はエホバなり」特に記載のない限り、コミュニティのコンテンツはCC BY-SAライセンスの下で利用可能です。...
公式訳[]灯台1930_1 「ハルマゲドン」特に記載のない限り、コミュニティのコンテンツはCC BY-SAライセンスの下で利用可能です。...
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