とこしえの命に導く真理

ページ名:とこしえの命に導く真理

とこしえの命に導く真理
以上[1]

    命を得させる真理を
   求める者すべてに対して
  深いいつくしみを持たれる神にささぐ

1968年英文発行

1969年日本文発行

出版者

  WATCHTOWER BIBLE AND TRACT SOCIETY
     OF NEW YORK, INC.

   International Bible Students Association
      Brooklyn, N.Y.,U.S.A.

   The Truth That Leads to Eternal Life
        Japanese

    アメリカ合衆国にて印刷・製本
以上[2]

[3]

第1章神からのすばらしい祝福は近い!・・・・・・・・・・・・・・・・・・5

第2章なぜ自分の宗教を調べてみるべきですか・・・・・・・・・・・・・・11

第3章神とはだれですか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・17

第4章わたしたちが年老いて死ぬ理由・・・・・・・・・・・・・・・・・・27

第5章死んだ人はどこにいますか。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・34

第 6 章 イエス・キリスト--人類を祝福するために
       神が用いられるかた・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・46

第7章邪悪な霊者が存在しますか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・55

第8章神はなぜ今日まで悪を許してこられましたか・・・・・・・・・・・・65

第9章「小さな群れ」が天に行く理由・・・・・・・・・・・・・・・・・・・75

第10章神の国は敵のただ中で権力を執る・・・・・・・・・・・・・・・・・82

第11章今の邪悪な体制の終わりの日・・・・・・・・・・・・・・・・・・・94

第12章正義の支配は地球を楽園にする・・・・・・・・・・・・・・・・・・102

第13章真の教会とその土台・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・114

第14章真の宗教をどのように見分けるか・・・・・・・・・・・・・・・・・122

第15章『彼らの中から出なさい』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・131

第16章一般的な風習で神の不興を招くもの・・・・・・・・・・・・・・・・140

第17章どうすれば神に祈りを聞いていただけますか・・・・・・・・・・・・151

第18章法に対するクリスチャンの服従・・・・・・・・・・・・・・・・・・157

第19章神にしたがって命と血を尊重する・・・・・・・・・・・・・・・・・163

第20章幸福な家庭生活を築く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・170

第21章神に仕えるためのあなたの決定・・・・・・・・・・・・・・・・・・181

第22章真の崇拝--生活の道・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・187



[4]
[挿絵:新体制パラダイスに於ける人間の最高の幸福]

「神は人の目からすべての涙をぬぐい去られる。もはや死はなく、悲しみも、叫びも、苦痛もない」--黙示、21:4。

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第 一 章

神からのすばらしい祝福は近い!

平安で、幸福な生活をしたいと思われますか、あなたご自身と、あなたの愛するかたがたに、健康と長寿とを望まれますか、悪と苦しみがなくなるのを見たいと思われますか。正直な人なら、だれでもこうしたことを望むでしょう。しかし今日、地上のいたる所で暴力と犯罪がふえ、上と病気が広がっています。世界がこれほどの苦難をかかえているのはなぜですか。このことにはどんな意味があるのですか。わたしたちの生きているうちに、状態がほんとうに良くなるという見込みがありますか。

 2 こうした期待には根拠があるのです。しかも、それは世界で一番多くの言語で出版されている本の中にはっきりと示されています。その本は聖書です。聖書は、神の目的、つまり人類のために、神が全く新しい事物の体制を建てようとしておられることを明らかにしています。もしあなたにその力があれば、多くの悲しみをもたらしている今日の状態を終らせようとするのではありませんか。もとよりそうされるでしょう。では、人類の創造者はそのようにされないと考えるべきですか。聖書は、「神は愛である」と述べています(ヨハネ第一書 四ノ八)この、愛のある天の
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1 悪化する世界の状態を見て、どんな疑問が起きますか。
2 (イ)希望を与えているのは、どの本ですか。(ロ)なぜ、愛のある創造者は悲しみの原因となっている状態を終らせてくださると考えられますか。

[6]
父は、人類が何を必要としているかを確かにご存知です。そして、それに答えるだけの力をもたれる神は、かならず人類の必要に答えてことを行なわれるに違いありません。詩篇百四十五篇十六節は神についてこう述べているからです。「あなたは御手(みて)を開き、すべての生ける者の願いを満たされます」。--申命記 三二ノ四もごらんください。

 3 ほんとうの平安と幸福、またいつまでも続く命と健康、人間のこうした願いを、神はいつ満たされるのですか。人類はまだ何千年も待たねばならないのですか。そうではありません!むしろ悪化しているではありませんか。確かに悪化しています。しかし、聖書がずっと以前からはっきり示していたとおり、こうした状態そのものは、今が、現存する邪悪な体制の「終わりの日」であるしるしなのです。(テモテ後書 三ノ一-五)まもなく、愛に満ちた創造者は、悪と悪を引き起こす者たちとに終わりをもたらされます。同時に神は、正しいことを行なおうとする正直な人々を豊かに祝福されるでしょう。こう約束しておられるからです。「世は過ぎ行きつつあり、その欲も同じである。しかし、神の御心を行なう者は永遠にとどまる」--ヨハネ第一書 二ノ一七。
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3 (イ)神が平安と幸福を求める人間の願いを充たしてくださるのは、遠い先のことですか。(ロ)神は平和の約束をどのように果たされますか。

…………………………

[11]
第 二 章

なぜ自分の宗教を調べてみるべきですか

わたしたちは自分と神との関係をまじめに考えてみるべきです。なぜですか、なぜなら、実際の証拠も示すとおり、神はまもなく邪悪な者を滅ぼし、正義の新しい体制を建てられるからです。それでわたしたちは、「自分は神の是認を受けるようなしかたで神を崇拝しているだろうか」と自問すべきです。何が神の御旨(みむね)にかなうかを決めるにのは、人間ではなく、神ご自身です。神の見方を知るには、聖書をひもとかねばなりません。神は聖書の中で、とこしえの命を求める者が取るべき道を明確に示しておられます。(箴言三ノ一、二)神の言われる事がらを心に刻み、それに従って生活してゆくなら、現在、また将来いつまでも、すばらしい祝福を受けることになるでしょう。

 2 この問題について聖書はなんと述べていますか、幾億人もの人々がさまざまなしかたで宗教を奉じていますが、聖書はそのすべてが神の御旨にかなうと教えていますか。宗教はすべて良いものであると教えていますか。この点をどう見るかを示すため、神はご自分のみことばの中に次の簡明
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1 (イ)神が現存する事物の体制をまもなく滅ぼされることを考え、わたしたちは自分の崇拝について何を自問すべきですか。(ロ)神に是認される道を歩もうと思うなら、どんな本をよりどころとするべきですか。
2 すべての宗教が神の御旨にかなっているわけではありません。聖書のどんなことばがそのことを示していますか。

[12]
なことばを記録させられました。「滅びに至る道は大きくて広く、そこを通って行くものが多い・・・・・・他方、命に至る門は狭く、その道は通りにくい。そして、それを見いだしている者は少ない」。(マタイ伝、七ノ一三、一四)このことばはわたしたちの疑問に明瞭に答えているではありませんか。これは御旨にそわないしかたで神を崇拝している人が多いことを示しています。命に至る道を行く人は少ないのです。

3 あなたは、神の是認を受けていない宗教が多いということに、容易に同意されるでしょう。宗教の名の下に行なわれていても、あなたの是認しない事柄が数多くあるに違いありません。たとえば教会を見て、不道徳な生活をしながら義を装っている人々がいるのを知れば、どこかがまちがっていることに気づかれるでしょう。(テモテ後書三ノ四、五)そして、新聞などで、結婚関係外の性交を公然と是認し、事情によっては同性愛行為も全く許される、と唱える牧師もいますが、あなたはこれが神のお考えでないことを知っておられるでしょう。神が昔、ソドムとゴモラの町を滅ぼされたことを覚えていますか。それはなぜでしたか。それらの町の人々がこうした不道徳な行為にふけっていたからです。それで、このような行為を許す宗教が神の是認を受けないことを忘れてはなりません。--ユダ書七。

 4 「道徳的に生活し、つとめて人に親切にしていれば、何を信じてもよい」と言う人がいます。あなたもそのようなことばを聞いたことがあるでしょう。しかしこれだけで神に受け入れられる崇拝をしていることになりますか。これらは確かに必要なことですが、神はさらに多くを要求しておられるのです。教理に関連した点もあるからです。聖書は、「真の崇拝者(は)霊と真理とをもっ
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3 宗教の名の下に行なわれていても、あなたの是認しないことがありますか。
4 ヨハネ伝四章二十三節のイエスのことばに従い、親切で道徳的であることのほかに、自分の宗教についてどんな点を考えるべきですか。(ロ)なぜ自分が教えられた教理を調べてみるべきですか。

[12]
て父を崇拝する」と述べています。(ヨハネ伝 四ノ二三)それで、神に受け入れられる崇拝は、真理つまり神のみことばに基づくものでなければなりません。イエスは、神に仕えることを公言しながら、神のみことばより人間の言伝えに頼っていた人々をとがめられました。イエスはイザヤ書二十九章十三節を引用し、「彼らがわたしを拝み続けてもむだである。人間のいましめを教理として教えているからである」という、神ご自身のことばをその人々にあてはめました。(マタイ伝 一五ノ九)わたしたちは自分の崇拝がむだに終わることを望みません。それで大切なのは、わたしたち自身が自分の宗教を調べてみることです。

5 わたしたちは、自分自身が信じている事柄だけでなく、どんな組織であれ、自分の関係している宗教組織の教える事柄をも調べてみるべきです。その教えは神のみことばと完全に一致していますが。それとも、人間の言伝えに基づいていますか。真理を愛しているなら、こうして調べてみることを恐れてはなりません。わたしたちに対する神の御心を学び、それを行なうことは、わたしたちすべての誠実な願いであるべきです。--ヨハネ伝八ノ三二。

 6 信徒が聖書をもち、説教壇から時おり聖書が読まれるからといって、そこで教えられることのすべてが聖書に一致しているとはかぎりません。聖書をもつのは良いことです。そして、人はみな聖書をもつべきです。しかし同時に、聖書の述べることを理解し、それを信ずることも必要です。聖書を神のみことばとして真実に受け入れる宗教であれば、聖書のある部分を用い、ある部分を退けるということをしません。「聖書はすべて神の霊感によるものである、教え、戒め、物事を正(す)
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5 自分が信じていることだけでなく、自分が関係している宗教組織の教えも調べてみるべきなのはなぜですか。
6 (イ)時おり聖書が使われていることから、教会の教えはすべて聖書に基づいていると言えますか。(ロ)神の是認を受ける宗教はあらゆる点で聖書と一致していなければなりません。それはなぜですか。

[14]
…………のに有益である」。(テモテ後書 三ノ一六)それで、神の是認を受ける宗教は、あらゆる点で聖書と一致していなければなりません。

7 神に喜ばれようとする人は誠実でなければなりません。しかし、誠実でさえあれば、その人の宗教は神に受け入れられるという意味ではありません。使徒パウロは神の霊に動かされつつ、自分の時代のある人々についてこう書きました。「彼らが神に対して熱心であることを、わたしはあかしするが、その熱心は正確な知識に基づいていない・・・・・・というのは、神の義を知らず、自分の義を立てようとしているので、彼らは神の義に従わなかったからである」。(ロマ書一〇ノ二、三)結果として、この人々の誠実さは誤った方向に向けられました。まちがった所に導きを求めたことが彼らの問題となったのです。彼らは、神の御子(みこ)を退け、それがゆえに神に退けられたユダヤ教制度から離れませんでした。--使徒行伝二ノ三六、四〇。箴言一四ノ一二。

 8 では、キリストの名をにない、キリストを自分たちの主としていることを公言する、いろいろな宗教についてはどうですか。キリストの名によって伝道している者はみな神の御旨にかなっていますか。これまでに取り上げた聖句から、あなたはすでに否定の答えをしておられるでしょう。もしそうなら、あなたはこの点で、天の審判者として神に任命されたイエス・キリストに同意されるでしょう。なぜなら、イエスはこう警告しておられるからです。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者すべてが天の御国にはいるのではない。天におられるわたしの父の御心を行なう者がはいるのである。その日には、多くの者がわたしにむかって、『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言し・・・・・・たではありませんか』と言うであろう。その時、わたしは彼らに告げる。わた
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7 誠実でさえあれば、その人の宗教は神の是認をうけますか。使徒パウロはこの点をどう示しましたか。
8 キリストに従うと唱える宗教のすべてが神の是認を受けるのではないことを、イエス・キリストはどう示されましたか。

[15]
しは決してあなたがたを知らない、不法を働く者どもよ、わたしから離れ去れ、と」--マタイ伝 七ノ二一-二三。

9 神の是認を受けるには、聖霊と神の御心とについて知ることが必要です。しかしイエスがここで言われたごとく、真に重要なのは、その御心を行なうことです。人は自分が学んだことに従って行動しなければならないのです。(ヤコブ書二ノ二六)それで、神の御旨にかなう宗教は、聖書と完全に一致し、かつ人の全生活で実践されるものでなければなりません。--ルカ伝六ノ四六-四九。

10 イエスは、人が真の宗教を実践しているかどうかは、「実」つまりその人の行なう事柄によって判断できると言われました。(マタイ伝七ノ二〇)同じように、個々の宗教は、それがどんな人々を生み出しているかによって見分けられることができます。真の宗教は正直な人々、つまり良い夫と良い父親、また善い妻と良い母親を生み出すはずです。真の宗教は正直な人々、正しいことを行なうがゆえに他と異なる人々を生み出すはずです。人を本当に神に近づかせる宗教なら、当然そうあるべきであるではありませんか。神はこうした事柄も求めておられ、またこれが、神の是認を受ける宗教であるかどうかを決めるものとなるのです。

 11 もとよりあなたは、神のみこころを行なわないために御国にはいれない人と同じになりたくはないでしょう。それで、聖書についてよく知ることはあなた自身の益になるのです。あなたがいま読んでおられる本は、この点であなたを助けることを目的としています。神のみことばは、「このうえなく熱心な態度でみことばを受け入れ、これらのことがそのとおりであるかどうかと、聖書を日ご
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9 神の御旨にかなうためには、聖書について知る以外に何が必要ですか。
10 真の宗教は、それを実践する人の生活にどんな実を生み出しますか。
11 昔のベレヤの人々にならい、わたしたちはどんな態度をとるべきですか。

[16]
とに注意深く調べた」として、昔のベレヤの人々をほめています。あなたもこれと同じ態度をとってください。--使徒行伝 一七ノ一一。

12 神のみことばを調べるにつれ、神に対するあなたの愛は試みられるでしょう。あなたが聖書を調べることを快く思わない人々が、あなたの親しい友人や親族の中にさえいるかもしれません。(ペテロ前書四ノ四。マタイ伝一〇ノ三六、三七)そうした人々はあなたの心をくじこうとするでしょう。しかも、聖書にあるすばらしい真理を知らないため、その人々自身は全く誠実な気持ちでそうするかもしれません。あなたはそのような人々を助けることができるでしょう。また、神を少しも愛さない人々からの反対に面する場合もあります。そのときには、人間の是認を得るより、神の是認を得る方がはるかに大切であることを忘れないでください。あなたが他のいかなる者、また他のいかなる事柄にもまさって神を愛するとき、そのあなたにとこしえの命を与えるのは、人間ではなく、神だからです。--マタイ伝二二ノ三七-三九。

 13 常に神の助けと導きを求めてください。「おゝエホバよ、わたしの祈りを聞き・・・・・・御心を行なうことをわたしに教えてください。あなたはわたしの神だからです」と祈った詩篇作者のごとく、神に祈り続けてください(詩篇 一四三ノ一、一〇)神の是認される宗教を知り、それを実践しようと誠実に願うなら、神は必ずあなたの祈りに答えられるでしょう。そして神は、ほんとうに「霊と真理とをもって父を崇拝する」人々との交わりに、あなたを導き入れてくださるでしょう。--ヨハネ伝 四ノ二三、マタイ伝 七ノ七、八もごらんください。
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12 (イ)神に対するわたしたちの愛は、友人や親族により、どのように試みられるかもしれませんか。(ロ)わたしたちはいつも、だれの是認を求めるべきですか。
13 神の御心を行ないたいと願うなら、何を祈り求めるべきですか。

[17]
第 三 章

神とはだれですか

人間はいま、神と神の助をかつてないほど必要としています。わたしたちの命は神を知るかどうかにかかっているからです。ところが奇妙なことに、神はだれかと言う問題は非常に混乱しています。今日、そして昔も同じですが、多くの土地でさまざまな神が崇拝されているからです。しかし聖書は、まことの神がただおひとりだけ存在されることを明らかにしています。---コリント前書八ノ五、六。

 2 数多くの偽りの神々とご自分とを区別するため、まことの神は自ら固有の名前をおもちです。それによって、まことの神と他のすべてのものとを区別できるのです。「『神』ということばそのものが名前ではないか」と言われるかたがあるかもしれません。しかし、そうではありません。「神」は「大統領」「王」「判事」などと同じく、一つの称号にすぎないからです。神の固有のお名前は、そのみことばである聖書を通してわたしたちに示されており、それは「エホバ」です。聖書の多くの翻訳の中で、この名は詩篇八十三篇十八節に次のように出てきます。「然(さ)ればかれらはエホバてふ名をもち給(たま)ふ汝(なんぢ)のみ全知をしろしめす至上者(いとたかきもの)なることを知るべし」。(文)そしてほとんどすべての翻訳の黙示六十九章一-六節にある「ハレルヤ」ということばにもこの名前が表われています。このことばは、「ヤハ(エホバの短縮形)をほめよ」という意味です。「カトリック百科事典」
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1 神とはだれかについて多くの混乱があるのはなぜですか。
2 (イ)「神」ということばはまことの神の固有のお名前ですか。(ロ)まことの神の固有のお名前はなんですか。

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(一九一〇年版、第八巻、三二九ページ)は、この神のお名前についてこう述べています。「エホバ、旧約聖書中における神の固有名詞」。しかし、最近のカトリック訳である「エルサレム聖書」は終始「ヤーウェ」という呼び方を使っており、同様なほんやくはほかにもたくさんあります。それはなぜですか。

3 聖書(文語)の初めの三十九冊はヘブル語で書かれました。その中で神のお名前は四つのヘブル文字、つまりヘブル語のYHWHで何千回も書き表わされました。古代のヘブル語は母音を使わずに書かれました。読む者は母語を補いながら読んだのです。それで今日の問題は、子音字YHWHを読むのに、ヘブル人がどんな母音を使ったかがはっきりしないことです。多くの学者は、この名が「ヤーウェ」と発音されたものと見ています。しかし「エホバ」という形はこれまで何世紀も使われてきたものであり、最も広く知られています。

 4 神の固有のお名前の正確な発音が不明なことから、牧師の中にはこの名前をいっさい使わず、ただ「神」とか「主」とか呼ぶべきだという者がいます。しかしそうした牧師は、「イエス」や「ヱレミヤ」の名も使わないように、とは言いません。ところが、これら一般に使われている発音は、ヘブル語の発音、つまり「ヱーシューア」および「イルムヤー[1]」とは大いにかけ離れています。大切な点は、神のお名前として、「ヤーウェ」、「ヱホバ」、その他一般に使われている発音のいずれを採用するかということではありません。神のお名前を使わないということが誤りまのです。なぜ?なぜなら、神のお名前を使わなければ、「御名のための民」として神が取り出される民になれないからです。(使徒行伝 一五ノ一四)わたしたちは神のお名前を知るだけでなく、地上におられた時、
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3 (イ)神のお名前はヘブル語聖書の中でどのように書き表わされていますか。(ロ)神のお名前の古代ヘブル語における発音がはっきり分からないのはなぜですか。
4 (イ)神のお名前は、正確な発音がわからないから使うべきではないと唱える牧師は、どんな点で不統一ですか。(ロ)神のお名前をどう発音するかということより大切なのはなんですか。(ハ)使徒行伝十五章十四節から見て、神のお名前を使うことはなぜ大切ですか。

  1. :正確な発音は、「イルメヤー」、「יִרְמְיָה」ストロング-コンコーダンス-ナンバー3414、יִרְמְיָה、yirmᵉyā (1985年版参照脚注付き新世訳、附録、3ィ「ヘブライ語とギリシャ語の翻字」頁-1762。半母音に関して:語中でシェワーが二つ続くとき、最初のシェワーは無音(רְに当たる)、二番目のシェワーは有音(מְに当たる)となります)

[19]
神の御子がなされたように、他の人々の前で神のお名前をたたえ、これを賛美しなければなりません。---マタイ伝 六ノ九。ヨハネ伝 一七ノ六、二六。

神の属性、また神だけを崇拝しなければならない理由

5 聖書そのものは神をどのように説明していますか。聖書は「神は霊者であられる」と述べています。(ヨハネ伝 四ノ二四)霊者は肉と血、その他、人間が見たり、触れたりできる物質ではできていません。(コリント前書 一五ノ四四、五〇)それで、人間の目は決して神を見ることができないのです。(ヨハネ伝 一ノ一八)神はわたしたちが肉眼で見るいかなるものをもはるかに超越した存在です。山の壮大さ、太陽の輝き、そして星空の威光さえ、神に比べれば無に等しいのです。--イザヤ書 四〇ノ二五、二六。6 したがって、天で次の歌がうたわれていても不思議ではありません。「全能者なるエホバ神よ、あなたのみわざは偉大であり、驚嘆すべきものです。永遠の王よ、あなたの道は正しく、かつ真実です。エホバよ、だれかあなたをほんとうに恐れないでしょうか。あなたの御名をたたえないでしょうか。あなたこそ忠節なかただからです」。(黙示録 一五ノ三、四)「永遠の王」なるエホバ神は、万物の創造者として、他のいかなるものよりも前からおられます。神は「永遠(とこしへ)よりとこしへまで」存在しておられるのです。つまり、初めがなく、終わりもありません。--テモテ前書 一ノ一七。詩篇九〇ノ二、文。7 それゆえ、神だけを崇拝しなければならないというのは、いかにも当然なことではありませんか。神の創造のみわざを考えるとき、わたしたちも次のように言えるでしょう。「エホバ、わたした

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5 神を見た人がいないのはなぜですか。
6 (イ)聖書は黙示録十五章三、四節で神の属性をどのように述べていますか。(ロ)神に初めがありますか。
7 (イ)黙示録四章十一節は、エホバだけを崇拝しなければならない理由をどのように述べていますか。(ロ)神は万物の創造にあたり、何を用いられましたか。

[20]
ちの神よ、あなたは栄光と誉れと力とを受けるべきおかたです。あなたは万物を創造され、万物はあなたの御心(みこころ)にしたがって存在し、創造されたからです」。(黙示録 四ノ一一)神は創造のわざのために、人間が使うような道具を用いられませんでした。神が用いられたのは、ご自身の見えない活動力である聖霊です。(創世記 一ノ二、詩篇 一〇四ノ三〇)のちに神が、地上の人間に対する御心(みこころ)とお目的をわたしたちに理解させるため、聖書を書かせられた時、その記述者を導いたのもこの聖霊でした。--ペテロ後書 一ノ二一。

8 万物は『神の御心に従って』創造されたのですから、万物は神のお目的に従うべきです。エホバは最初の男女アダムとエバに、両人に対するご自分の目的を伝え、それに従って行動することを求められました。わたしたちも神に対して責任を負っていますか。そうです。なぜなら、神はわたしたちの命の源であられるからです。わたしたちは、神が命を与えた最初の人間夫婦から生れてきただけでなく、日ごとの命をささえるため、太陽、雨、空気、食物など、神がいつも備えてくださるものに頼らねばならないのです。(詩篇 三六ノ九[三六ノ一〇、バ]。マタイ伝 五ノ四五)ではわたしたちは、人間に対する神のお目的にどこまで従った生活をすべきですか。これはまじめに考えるべき事柄です。それによってとこしえの命を受けるかどうかが左右されるからです。9 わたしたちはほんとうに神を恐れねばなりませんか。そうです。しかしそれは神の御心に逆らうことを恐れる健全な恐れです。神の御心は常に正しいからです。普通の事がらにおいてさえ、けがをしたり命を失ったりする危険があれば、人は恐れを感ずるのではありませんか。では「全能者なるエホバ神」の不興を受けることをいよいよ恐れるべきです。しかしわたしたちは神が全能であら

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8 (イ)なぜわたしたちは神に対して責任を負っていますか。(ロ)それで、どんな事柄をまじめに考えるべきですか。
9 (イ)どんな意味でわたしたちは神を恐れるべきですか。(ロ)わたしたちはエホバが全能であられることをなぜ喜べますか。

[21]
れることを喜べるのです。というのは、「エホバについて言えば、その目は全地をあまねく見わたされ、神に対して心の全き者のために、その力を示される」からです。(歴代志略下 一六ノ九。イザヤ書 四〇ノ二九--三一もごらんください)そしてエホバはご自分の力を正しい目的にそい、また正しいことを愛する者のために用いられます。「神は愛である」からです。--ヨハネ第一書四ノ八。

10 したがって、エホバは過酷な神ではありません。「その道はみな正義」です。(申命記三二ノ四)たしかにエホバは「専心の献身を求める神」であられますが、同時に、「あわれみとなさけとに富み、怒ることを遅く、いつくしみと真理との豊かな神」であられます。(出エジプト記二〇ノ五。三四ノ六)「彼みずからわたしたちの造りをよく知られ、わたしたちが塵であることを覚えておられる」のです。(詩篇一〇三ノ一四)至上の審判者、立法者、また王として、このような正義とあわれみの神をいただいているのは、ほんとうに幸いなことではありませんか。--イザヤ書三三ノ二二。

 11 「[エホバ]には知恵と力があり、彼は助言と悟りを備えておられる」。(ヨブ記 一二ノ一三)エホバの知恵のしるしは天と地の創造のみわざすべての中に見ることができます。それでわたしたちはむしろ、「どうして神の知恵を疑う人がいるのか」というべきでしょう。聖書に示されるとおり、神がわたしたちに何かを求められるのは、わたしたち自身のためであり、わたしたちの永遠の益を図っておられるからです。かぎられた知識と経験しかない人間として、神の律法のあるものがなぜ重要か、それがどのようにわたしたちのためになるかが十分にわからない場合もあります。それでも、神がわたしたちよりはるかに多くのことを知り、はるかに豊かな経験を持たれ、その行われる事柄がわたしたちの永遠の益のためであることを確信しているなら、心からすすんで神に従うことができるでしょう。--詩篇 一九ノ七-一一[一九ノ八-一二、バ]。ミカ書 六ノ八。
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10 エホバのどんな属性のゆえに、エホバを自分の神としていただくのは幸いなことですか。
11 神の律法の理由を十分に理解できない場合でさえ、それに従おうとするのはなぜですか。

[22]
       神は三位一体ですか

12 キリスト教国の諸宗派は、神は「三位一体」であると教えています。しかし、「三位一体」ということばそのものは聖書の中には出ていません。世界教会協議会は最近、同協議会に加盟する宗派すべては、「一つの神なる父と子と聖霊」がいる、つまり一つの神のなかに三つの位格があるという信条を奉ずるべきだ、との見解を表わしました。この教理を説く人々は、これは「奥義」であると言います。八世紀ごろに出来たアタナシウス信経は、父、子、聖霊の三者は本質において同一であり、ともに永遠の存在であり(したがって三者ともにはじまりがなく)、三者はいずれも全能であると述べています。それでアタナシウス信経は、「三位一体の三者に区別はなく、上下の差はない」。となっています。これは道理に適った考え方ですか。そしてさらに大切なこととして、これは聖書と一致していますか。

13 ヘブル人の預言者とキリストの使徒たちはこの教理を知りませんでした。「新カトリック百科事典」(一九六七年版、第一四巻、三〇六ページ)は、「聖三位一体の教理が旧約[旧約聖書]に教えられていない」ことを認めています。同百科事典はまた、この教理がイエス・キリストから死後三百五十年ほどして生まれたことを認めています。それで、イエス・キリストから直接に教えを受けた初期のクリスチャンは、神が「三位一体」であることは信じてませんでした。

 14 地上におられたイエスは決して父と同等ではありませんでした。イエスは、自分も天使も知らず、ただ神のみ知っておられることがあると言われたからです。(マルコ伝 一三ノ三二)さらに、
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*J・マクリントク・J・ストロング共編「聖書、神学、教会関係文書の百科事典」第二巻、五六ページ。
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12 (イ)アタナシウス信経を始め、教会の教理は神についてどんなことを教えていますか。(ロ)この教えについて、わたしたちはどんな点を考えるべきですか。
13 「新カトリック百科事典」によると、ヘブル人の預言者と初期クリスチャンは「三位一体」を信じていましたか。
14 イエスは自分が父と同等でないことをどのように示されましたか。

[23]
試練に会ったイエスは、助けを求めてご自分の父に祈りました。(ルカ伝 二二ノ四一、四二)また、「父はわたしより偉大(である)」とも言われました。(ヨハネ伝 一四ノ二八)それでイエスはご自分の父を、「わたしの神」また「唯一のまことの神」と呼びました。--ヨハネ伝 二〇ノ一七。一七ノ三。

15 イエスの死後、神はイエスをよみがえらせ、イエスが以前にもっていた以上の栄光を与えられました。それでもなお、イエスはご自分の父と同等にはなりませんでした。なぜそう言えますか。なぜなら、その後、霊感の下にしるされた聖書は依然として、「キリストのかしら」は神である、とのべたからです(コリント前書一一ノ三)聖書はまた、神がすべての敵をイエスの足の下に置く時まで、イエスが神の任命を受けた王として治めることを述べ、さらに、その時「御子自身も、すべてのものを自分に従わせられたかたに従うのである。それは神がだれに対しても、すべてのものとなるためである」と述べています。(コリント前書一五ノ二八)ここで明らかなように、復活した後でさえ、イエス・キリストはご自分の父と同等ではありませんでした。

 16 しかし、イエスはある時、「わたしと父とは一つである」と言われませんでしたか。(ヨハネ伝 一〇ノ三〇)たしかに言われました。しかしこのことばは「三位一体」を暗示することさえしていません。イエスは、二つのものが一つになっていると言われたのであり、三つのものが一つになっていると言われたのではないからです。イエスは、わたしたちがすでに読んだ聖句と矛盾する事柄を語られたのではありません。イエスはのちに、このことばの意味をご自身で明らかにされました。ご自分に従う者たちに関する祈りの中で、「わたしたちが一つであるごとく、彼らも一つになる」と言われたからです。(ヨハネ伝 一七ノ二二)イエスが父と全く一致しているという意味で、イエスと
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15 死からよみがえったあとでさえ、イエスは神と同等ではありませんでした。なぜそう言えますか。
16 (イ)「わたしと父とは一つである」というイエスのことばは「三位一体」を教えていますか。(ロ)イエスのことばはどういう意味ですか。

[24]
父とは「一つ」です。そしてイエスは、ご自分に従う者すべてが、イエスの父、またイエス及び互いどうしと、同じように一致することを祈られたのです。

17 では、イエスのことを「言(ことば)」と呼び「太初(はじめ)に言(ことば)あり、言は神と偕(とも)にあり、言は神なりき」と述べる、ヨハネ伝一章一節(文)についてはどうですか。これは「三位一体」を裏づけていますか。いいえ、裏づけていません。まず、三者のことではなく、二者のことしか述べていない点に注意してください。また、同じ章の第二節は、言(ことば)が「太初に神とともに在(あ)り」と述べ、第十八節は「未(いま)だ神を見し者なし」と述べています。しかし、人々はイエス・キリストを見たのです。こうした理由で、ある翻訳はギリシア語原本に忠実に従いつつ、第一節を次のように訳出しています。「ことばは神とともにあり、ことばは神性をそなえていた」、もしくは「一つの神であった」。つまり、言(ことば)は神のように強力な者であったというのです。(アメリカ訳、新世界訳)それで聖書のこの部分は残りの部分すべてと一致しており、「三位一体」を教えているのではありません。

 18 「三位一体の第三位」とされる「聖霊」について言えば、わたしたちはこれが人格的なものではなく、神の活動力であることをすでに学びました。(士師紀 一四ノ六)バプテスマのヨハネは、自分は水でバプテスマを施したが、イエスは聖霊でバプテスマを施すであろうと語りました。水が人格的なものでないのと同じように、聖霊も人格的なものではありません。(マタイ伝 三ノ一一)ヨハネが予告したことは西暦三三年の五旬節の日に起こりました。その日、神は御子キリスト・イエスを通して、使徒や弟子たちに聖霊を注がれました。結果として、「彼らはみな聖霊に満たされた」のです。彼らは人格的なものに「満たされた」のですか。そうではありません。神の活動力に満たさ
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17 ヨハネ伝一章一節はなぜ「三位一体」を教えていませんか。
18 西暦三三年の五旬節に関する聖書の記述は、聖霊が人格的なものではあり得ないことをどのように示していますか。

[25]
れたのです。--使徒行伝 二ノ四、三三。

19 以上の事実は「三位一体」について何を示していますか。神のみことばである聖書の中に、このことば、またこの考えはありません。この教理は神から出たものではありません。興味ぶかいことに、「バビロニア人の生活と歴史」という本(E・A・ウォリス・バッジ鄕著、一九二五年版、一四六、一四七ページ)によると、古代バビロンの異教徒はこのようなことを信じていました。事実、彼らは三位一体の神々を幾つも崇拝していたのです。

「霊と真理とをもって」神を崇拝する

20 ある人を愛し、尊敬するには、その人の真の姿を知らねばなりません。わたしたちは神に専心の献身をするべきですが、そのためには、神のみことばを学び、「神の、善良で、好ましく、かつ完全な御心をわきまえ」知らねばなりません。(ロマ書一二ノ二)大切なのは、わたしたちがどのように神を崇拝したいかではなく、神はどのように崇拝されることを望んでおられるかということです。

21 宗教上の儀式や、「信心の助け」は、それに頼る人々に美しく見えるかもしれません。しかし、神はそれをどうごらんになりますか。あなたはこの点を知りたいと思われるでしょう。神の是認を望んでおられるからです。神の御子は、「真の崇拝者(は)霊と真理とをもって父を崇拝する」と言われました。(ヨハネ伝四ノ二三)たとえば像を使うのは「霊と真理とをもって」神を崇拝することですか。それは神の御心にかないますか。

 22 出エジプト記二十章四、五節の十戒の一箇条の中で、神ご自身はこう言われます。「自分のため
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19 (イ)それで、「三位一体」は聖書の教えですか。(ロ)古代の何処の異教徒は三位一体の神々を信じていましたか。
20 ロマ書十二章二節によると、神に専心の献身をするためには何が必要ですか。
21 神の御子のことばによると、神はどのような崇拝を望んでおられますか。
22 (イ)聖書は出エジプト記二十章四、五節で、宗教的な像についてなんと述べていますか。(ロ)神のみことばは「助け」として像を使うことが真の崇拝の方法でないことをどのように示していますか。

[26]
に、なんの彫刻した偶像も、つくるな………それらの前にひざまずくことも、崇敬をしめすこともするな」。(バ)ある人々は、宗教上の像を、崇拝するための「助け」とみなしています。像は目に見え、手で触れることができるからです。しかし神の霊感を受けた使徒パウロは、「わたしたちは、見えるものによらず、信仰によってあるいている」と書きました。(コリント後書 五ノ七)神はこの点できわめて率直です。神は、像を使うことが真の崇拝の方法でないことを告げ、そうした像を「偽りごと」と呼んでおられます。(イザヤ書 四四ノ一四-二〇。詩篇 一一五ノ四-八)宗教的な像に対して、神に対するほどの栄誉を与えることはないと唱えても、神ご自身は、自分の栄光と誉れをそうした像に与えない、と宣言しておられます。--イザヤ書 四二ノ八。

23 使徒ヨハネは愛の心をもって「偶像から身を守りなさい」と戒めています。(ヨハネ第一書五ノ二一)では、自分の家の中を見まわし、自分がこの勧めに従っているかどうかを確かめてごらんなさい。(申命記七ノ二五)生活と崇拝のしかたをエホバの愛の御心に合わせるならば、あなたはエホバの永遠の祝福を受けることができるのです。--コリント前書一〇ノ一四。

 24 エホバの威光とその愛のお目的とについて学び続けてください。それによってエホバへの愛を深めることができるでしょう。エホバのいつくしみによって受ける良いものに対し一日といえども感謝しない日を送ってはなりません。エホバについて学ぶにつれ、宇宙の偉大な神としてのエホバに忠実であることを大切さを心に刻んでください。愛の心でエホバに従うなら、あなたはとこしえの命に至る道を進むことができるでしょう。--エペソ書 四ノ二三、二四。詩篇 一〇四ノ三三-三五。
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23 自分の家の中を見まわすとき、使徒ヨハネのどんなことばを心にとめるべきですか。
24 神に近づくことを真に願うなら、わたしたちは何をするべきですか。

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[34]
第 五 章

死んだ人はどこにいますか

愛する人を亡(な)くした時の空虚な気持ちをあなたは経験しておられるでしょう。そのような場合、たいていの人は悲しみとともに、自分の力ではどうにもならないものを感じます。そして、おのずと疑問がわいてくるでしょう。人は死ぬとどうなるのか。まだどこかで意識を持ち続けているのだろうか。死んだ人が生き返るという望みがほんとうにあるだろうか。聖書はこうした疑問に慰めとなる答えを与えています。

2 簡単に言えば、死は生きていることの反対です。最初の人間アダムの意識的な不従順に対して刑を宣告した時、神はこう言われました。「[あなたは]やがて地に帰るであろう。あなたは地から取られたからである。あなたは塵だから、塵に帰る」。(創世記三ノ一九)考えて下さい。神が塵でからだを造り、それに命を与えるまで、アダムはどこにいましたか。どこにも存在していませんでした。アダムは死んだ時、この命と意識のない初めの状態に帰ったのです。アダムは火の燃える地獄に行ったのではなく、天の至福にはいったのでもありません。神の予告どおりに死んだのです。--創世記二ノ一-七。

 3 墓にある死人に命や意識はありません。聖書はこの点をはっきり教えています。伝道之(の)書九章五節と十節が死人の状態について述べることに注意してください。「生きている者は自分が死ぬこ
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1 たいていの人は、死んだ人についてどんな疑問をいだきますか。
2 聖書によれば、最初の人間アダムは死んだ時どうなりましたか。
3 伝道之書九章五、十節は死人の状態についてなんと述べていますか。人が死ぬと、その考えはどうなりますか。

[35]
とを知っている。しかし死んだ者は何事も知らない。報いを受けることももはやない。彼らの記憶は忘れられるからである。あなたの手が行なうことは、何事であれ、力をつくして行なえ。あなたが行く墓には、わざも、はかりごとも、知識も、知恵もないからである」。(欽)これは、死人は何もできず、何も感じないという意味です。次の聖句が述べるとおり、死人の考えは停止しています。「もろもろの君により頼んではならず、人の子により頼んでもならない。彼らに助けはない。その息が出て行けば、彼は土に帰る。その日に、彼の考えは滅びる」--詩篇 一四六ノ三、四、欽。

人は不滅の魂をもっているか

4 では魂についてはどうですか。魂は人間の一部であり、人が死ぬ時、肉体を離れて生き続けるのではありませんか。この点について正しい答えを得るには、魂とはなんであるかをまず定めねばなりません。読者は驚かれるかもしれませんが、霊感の下にしるされた聖書の中では、人間だけでなく動物も「魂」と呼ばれています。たとえば民数紀略三十一章二十八節には、「人、牛、ろば、羊それぞれ五百ごとに一つの魂[ヘブル語でネフェシュ]」ということばがあります。--黙示録十六章三節もごらんください。そこには「魂」のギリシャ語「プシュケー」が出てきます。

5 では、魂とはなんですか。わたしたちは文字にしるされた創造者ご自身のことばがなんと述べているかを調べましょう。創世記二章七節にこう書いてあります。「そして、エホバ神は地の塵で人を造り、その鼻に命の息を吹き入れられた。すると人は生きた魂となった」。

 6 神が人の呼吸を開始させられたときにはじめて「人は生きた魂となった」という点にどうか注
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4 民数紀略三十一章二十八節は「魂」について何を明らかにしていますか。
5 聖書は魂についてどのように記述していますか。
6 聖書のどんな事実は、人間の魂がからだを離れて存在したりする影のようなものであり得ないことを示していますか。それで人間の魂とはなんですか。

[36]
意して下さい。つまり、医者となった人は医者であると同じように、創造された人間は魂であったのです。(コリント前書 一五ノ四五)それで、人間の魂とはそのもののことであり、単に肉体に宿ったり、体から離れて別個に存在したりする影のようなものではあり得ません。このことと一致して、聖書は人間の魂が身体的な特性をもつことを明らかにしています。たとえば聖書は、「あなたがたの魂は肉を食べたいと願う」と述べ、魂を、物質的な食物を求めるものとして扱っています。(申命記 一二ノ二〇。レビ記 一七ノ一二[新世界訳]もごらんください)聖書はまた、魂には血管があり、その中を血が流れていると述べています。「罪のない、貧しい者の魂の血」と語っているからです。(エレミヤ記 二ノ三四、欽)そうです、あなたの魂とは、身体的また精神的な機能を備えたあなたそのもののことなのです。--箴言 二ノ一〇。

7 では、「わたしの魂」という表現をはじめ、ある人の魂という言い方で、魂がさながら人の中にあるかのごとくに述べている聖句についてはどうですか。もとより、そうした聖句はわたしたちがすでに取り上げた聖句と調和しなければなりません。神のみことばに矛盾はあり得ないからです。それで、「魂」ということばがいろいろな意味に使われていることは明らかです。「魂」ということばは、魂としての人自身をさす場合があります。それで、「わたし自身」という言い方がありますが、それと同じ意味で、「わたしの魂」ということもできるのです。たとえば、詩篇作者は、「わたしの魂は嘆きのために眠りませんでした」と書いています。--詩篇一一九ノ二八。

 8 「魂」ということばはまた、生きた魂つまり生きた人間として人がもつ命を表わすこともあります。たとえば私たちは、生きた人間であるという意味で、だれそれは生きていると言いま
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7 聖書にある「わたしの魂」という表現は何をさしていますか。
8 (イ)「魂」ということばはほかのどんな意味に使うことができますか。それで、生きている人は「魂をもっている」と言えますか。(ロ)人が命を失う、つまり魂を失うと述べているのは聖書のどのことばですか。

[37]
す。あるいはこの場合、人間としての命があるという意味で、彼は命をもっていると言うこともできます。これと同じで、聖書に従えば人間とは魂そのものですが、生きているかぎり、人は「魂をもっている」とも言えるのです。それで、人が自分の命を失うと言うのと同じ意味で、自分の魂を失うと言うことができます。イエスは、「人が全世界を得ても、自らの魂を失えば、何の益があろうか」と言われました。(マタイ伝 一六ノ二六、欽)ラケルはベニヤミンを産みましたが、これが難産であったため、ラケルの魂(つまり、魂としてのラケルの命)は彼女を離れ、ラケルは死にました。(創世記 三五ノ一六-一九)ラケルは生きた人間ではなくなり、しかばねとなりました。また、預言者エリヤが死んだ少年に奇跡を行った時、少年の魂(魂としての少年の命)は少年にもどり、「彼は生き返り」ました。少年はふたたび生きた魂となりました。--列王紀略上 一七ノ一七-二三。

 9 魂が人そのものであれば、人が死ぬ時、魂はどうなりますか。聖書は、「罪を犯している魂--それは死ぬ」と述べて、魂が死ぬものであることを明らかにしています。(エゼキエル書 一八ノ四、二〇)使徒ペテロはイエスに関するモーセのことばを引用し、「実際に、その預言者に聞き従わない魂はすべて民の中から完全に滅ぼされるであろう」と述べました(使徒行伝 三ノ二三)この基本的な真理と一致して、聖書の中に、人間や動物の魂が不死または不滅であり、滅んだり、滅ぼされたりすることができない、と述べているところは一箇所もありません。他方、魂が死ぬものであり、また殺し得るものであることを示す聖句は幾十もあります。(レビ記 二三ノ三〇。ヤコブ書五ノ二〇)聖書は、イエス・キリストについてさえ、「彼(は)自分の魂を注ぎ出して死に至らせ」と述べています。(イザヤ書 五三ノ一二)ここでわかるとおり、人間の魂とは人間自身のことであり、人が死ぬときには、人の魂そのものが死ぬのです。
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9 (イ)聖書は、人間の魂は死なないと述べていますか。(ロ)人間の魂が死ぬものであることを述べているのはどの聖句ですか。

[38]
 10 死について誤った考えが多いのは、「魂」と「霊」の意味を混同しているためです。これから学ぶとおり、聖書はこれら二つが別のものであることを示しています。

生きた被造物にある霊とは何か

11 ヨブ記三十四章十四、十五節は、人(あるいは、知覚のあるほかの地上生物のいずれでも)が存在し、生き続けるためには、二つのもの、つまり霊と息が必要であることを示しています。その聖句はこう述べています。「もし彼[神]がその心をある者に向け、その者の霊[ヘブル語でルーアハ]と息[ヘブル語でネシャーマー]をご自分のもとに集められるならば、肉なるものは皆ともに死に、地上の人間は塵に帰るであろう」。わたしたちは、神が最初の人間を「地の塵で」、つまり地中から取った諸元素で造られたのを知っています。アダムの創造のとき、神はアダムのからだの幾十億という細胞を生きさせ、つまり、その中に生命力をもたせました。この活動的な生命力が「霊」(ルーアハ)ということばで表わされています。しかし、アダムのからだの幾十億の細胞一つ一つの中でこの生命力が保たれるためには、酸素が必要であり、それは呼吸によって供給されることになっていました。それで神はつぎに、「その鼻に命の息[ネシャーマー]を吹き入れられた」のです。こうしてアダムの肺は働きはじめ、呼吸によって細胞の生命力をささえるようになりました。--創世記二ノ七。

 12 これは生まれたばかりの赤子の場合と似ています。生まれる赤子にはすでに生命がありますが、生まれてすぐに呼吸を始めない場合があります。医師は呼吸を開始させるため、子供をたたきます。呼吸しなければ子供はすぐに死んでしまうからです。同じように、アダムの体の細胞
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10 死について誤った考えが多いのは、どんな二つのことばの意味を混同しているためですか。
11 (イ)ヨブ記三十四章十四、十五節によれば、人が生き続けるためにどんな二つのものが費用ですか。(ロ)これらはそれぞれ何を表わしていますか。
12 生まれたばかりの赤子を例にして「命の息」を説明しなさい。

[39]
にあった生命は呼吸によってささえられねばなりませんでした。それによってアダムは、生きた人間としての活動を営むことができたのです。

13 人間の魂とは生きた人間そのもののことであり、霊とはその人間を生きたものたらしめる生命力のことです。霊に個性はなく、また生きた人間が行なうのと同じことは行えません。霊そのものは、考えたり、話したり、聞いたり、見たり、感じたりすることができないのです。この点で霊は自動車のバッテリーから出る電流にたとえることができるでしょう。この電流はガソリンに点火してエンジンに力を出させ、ヘッドライトを輝かせ、警笛をひびかせ、自動車ラジオに人の声や音楽を出させます。しかし、エンジン、ヘッドライト、警笛装置、ラジオなどがなければ、バッテリーから出る電流そのものはそれらのことを何一つ行えません。電流はこれらの装置を働かせる力にすぎないからです。

14 この霊つまり生命力はすべての動物の中にあり、妊娠の時に親から子へと伝えられてゆきます。それで神は、洪水を起こし、「活動的な生命の力[ルーアハ、霊]をもつ、肉なるものすべて[動物と人間]を天の下から滅ぼし去る」とノアに言われたのです。--創世記六ノ一七、一九五三年版脚注。また欽定訳の創世記七ノ一五、二二の脚注参照。

 15 人間と動物は皆ひとしくこの生命力つまり霊を備えているので、両者は同じようなさまで死にます。それで伝道の書三章十九、二十節はこう述べています。「人の子らに起こる事と、獣に起こる事とがあるが、両者に同じ事が起こるからである。これも死に、彼も死ぬ。これらはみな同一
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13 (イ)霊には個性がありますか。(ロ)自動車で言えば、霊は何にたとえられますか。
14 動物は人間と同じ生命力つまり霊を備えていますか。15 伝道之書三章十九、二十節は人間と動物の双方がこの霊つまり生命力を備えていることをどのように示していますか。

[40]
の霊[ルーアハ]をもつ………すべては一つの所に行きつつある、みな塵から出ており、みな塵に帰りつつある」。

16 神は命の与え主です。それで、神のみことばは、人が死ぬ時のことについて、「塵は元どおり地に帰り、霊はこれをお与えになったまことの神に帰る」と述べています。(伝道之書一二ノ七)人が死ぬとき、その生命力は最終的にはからだの細胞すべてから抜け去り、からだそのものは腐りはじめます。思考と行動のすべてが終わるのです。(詩篇一〇四ノ二九)では、霊が『これを与えた神に帰る』とはとはどういうことですか。その人の生命力が文字どおり地球を離れ、宇宙を伝わって神のおられる所に行くという意味ですか。そうではありません。死んだいま、その人の命の見込みは全く神にかかっているという意味で、それは神に帰るのです。霊を元どおりにし、その人を再び生きさせることができるのは神だけです。

 17 死んだ人を怖れて生活し、死んだ先祖をなだめるために供え物をする人がいます。しかし、死んだ人に意識はなく、生きている人をそこなったりすることはできないのですから、このような心配はいりません。そして、故人を非常に愛していた場合でも、遺族が、おそらくは多額の費用をかけて、いろいろな宗教行為や儀式を行ってみても、故人の益にはならないのです。(サムエル後書 一二ノ二一-二三)こうして死んだ人のほんとうの状態を知っていれば、死人と交信しようとするような行為を避けることができるでしょう。死人と話すことができると唱える者がいますが、実際には故人を装う悪霊、つまり邪悪な霊者と交信しているのであり、聖書はこれを戒めています。--申命記 一八ノ一〇-一二。
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16 (イ)人が死ぬ時、霊はどのようにからだを離れますか。(ロ)それはどのような意味で神に帰りますか。
17 (イ)死人は生きている人をそこなうことができますか。生きている人は死人に益を与えることができますか。(ロ)死人のほんとうの状態を知っていれば、悪霊崇拝的などんな行為を避けることができますか。

[41]
       地獄とは何か

18 悪人は地獄の火でいつまでも苦しめられる、と教える宗教組織が数多くあります。しかしこれは神のみことばが教えていることですか。あなたは自分の属する教会が教える「地獄」の意味を知っておられるかもしれません。しかし、聖書がこのことばに与えている意味を調べたことがありますか。聖書によれば地獄とはなんですか。

19 ヘブル語聖書に出てくる「地獄」ということばは、ヘブル語「シェオール」の訳です。このことばは全部で六十五回出てきます。ところが欽定訳聖書はこの「シェオール」を、三十一回は「地獄」、三十一回は「墓」、三回は「坑」と訳しています。カトリック・ドーウェー訳聖書は、地獄として六十三回、「坑」また「死」として一回ずつ訳しています。クリスチャン・ギリシア語聖書の中では、ギリシア語「ヘーデース」を地獄と訳している場合が少なくありません。この語は全部で十回出てきますが、欽定訳とドーウェー訳はそのすべてを「地獄」と訳しています。

 20 地獄は熱い所ですか。「シェオール」や「ヘーデース」は悪人が死後に苦しむ場所を表わしていますか。そうではないことは明らかです。なぜならすでに調べたとおり、死人は意識がなく、苦しむことさえできないからです。地獄にある者の状態について、聖書が自己矛盾をきたすことはありません。この点は、イエスが地獄にいたと述べることによっても裏づけられるでしょう。(使徒行伝 二ノ三一、欽、ド)五旬節の日にこのことを語った使徒ペテロは明らかに、イエスが火の責め苦を受ける場所ではなく、墓の中にいたことを意味していました。(コリント前書 一五ノ三、
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18 多くの宗教組織は地獄についてどんなことを教えていますか。これについてどんな疑問が起きますか。
19 (イ)「地獄」はヘブル語のどんなことばの翻訳ですか。このヘブル語は聖書のいろいろな翻訳の中でどのように訳出されていますか。(ロ)ギリシア語のどんなことばは「地獄」と訳されていますか。
20 (イ)なぜ地獄は人が苦しむ場所ではありませんか。(ロ)イエスも地獄にいましたか。

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四)使徒ペテロはこの点を述べるにあたり、詩篇十六編十節を引用しましたが、そこに使われているヘブル語「シェオール」は、使徒行伝二章三十一節でギリシア語「ヘーデース」は同じ意味のことばです。それで聖書の言う「地獄」とは実際には人間の墓のことです。

21 このことをさらに裏付ける証拠として、神の正しいしもべであり、多くの苦しみを経験したヨブの場合を考えてごらんなさい。彼は神にこう語りました。「どうかわたしを地獄[シェオール。墓、欽]の中に守り、あなたの怒りが過ぎるまでわたしを隠し、時を定めてわたしを思い出したまわんことを」。(ヨブ記一四ノ一三、ド)地獄が火の燃える熱い場所であるなら、ヨブがそこにかくまわれることを願うとは考えられません。明らかに、この「地獄」とは単なる墓のことであり、ヨブは墓に行って自分の苦しみのやむことを願ったのです。良い人々も悪い人々も聖書の「地獄」、つまり全人類に共通の墓に行くのです。

金持ちとラザロ

 22 しかし、「ヘーデース」ということばが出て来る所で、ある人々に、聖書の地獄とは身体的な責め苦の場所である、と信じさせてきた箇所が一つあります。それはイエスが金持ちとラザロについて語った所であり、そこでイエスは、金持ちが死に、「ヘーデース」で責め苦を受けたと語られました。(ルカ伝 一六ノ二二、三一)ここの「ヘーデース」ということばの使用法は、なぜ他における場合と大いに異なっているのですか。なぜならイエスはあることの説明として、たとえ話をしていたのであり、文字どおりの責め苦の場所について語っておられたのではないからです。(マタイ伝 一三ノ三四)考えてください。単に金持ちであり、良い着物を着て、豊かな食べ物をたべてい
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21 (イ)義人ヨブは地獄を火の燃える熱い場所であると考えていましたか。(ロ)それで聖書の地獄とはなんですか。
22 金持ちとラザロに関するイエスのことばはなぜたとえ話であると言えますか。

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たというだけで責め苦にあうと考えるのは、聖書の教えまた道理にかなっていますか。単にこじきであったというだけで天の命を受けると考えるのは聖書の教えにかなっていますか。次の点も考えてください。地獄はそこにいるものが天にいる者と実際の会話をできるような場所にあるですか。また、金持ちが文字どおり火の池の中にいたなら、どうしてアブラハムはラザロをつかわし、その指先の水一滴で金持ちの舌を冷やすことができるのですか。ではイエスは、このたとえで何を説明しておられたのですか。

23 このたとえ話の中の金持ちは、イエスを退け、のちにイエスを殺した宗教指導者層を表わしていました。他方、ラザロは神の御子を受け入れた一般の人々を表わしていました。聖書の中で、死は人の生涯、もしくは人の進路における大変化の象徴として使われています。(ロマ書六ノ二、一一ノ一三、七ノ四-六と比べてください)イエスがラザロのような人々を霊的な意味で養われたとき、死つまりそれ以前の状態からの変化が起こりました。そして彼らは大いなるアブラハムであるエホバ神の恵みに入れられました。同時に、偽まん的な宗教指導者たちは、神の恵みをもつという面では「死」にました。見捨てられた彼らは、キリストに従った者たちが五旬節ののち彼らの悪行を強力にあばくのを見て、責め苦を忍ばねばなりませんでした。(使徒行伝七ノ五一-五七)それでこのたとえ話は、実際に火の燃える地獄で死人が責め苦を受けることを教えているのではありません。

ゲヘナと煉獄

 24 聖書は確かに、「地獄の火」について述べている、と異議を唱えるかたがいるでしょう。(マタ
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23 (イ)金持ち、(ロ)ラザロ、(ハ)両者の死、(ハ)金持ちの受けた責め苦のそれぞれについて、たとえ話にはどんな意味がありますか。
24 (イ)「地獄の火」という表現を使っている聖書の翻訳がありますが、その場合の「地獄」はどんなギリシア語の訳ですか。(ロ)イエスが地上におられた時、ゲヘナはどのように使われていましたか。

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イ伝 五ノ二二、欽、ド)なるほど、このような表現を使っている翻訳がいくつかあります。しかしそのような場合、「地獄」と訳されているギリシア語の元のことばは「ヘーデース」ではなく、「ゲエンナ」です。ゲヘナということばはクリスチャン・ギリシア語聖書の中に十二回出ており、エルサレム市の城壁外にあったヒンノムの谷をさしています。イエスが地上におられた当時、この谷は大きなごみ捨て場として使われており、ごみを焼くためにい・お・う・を加えた火がいつも燃えていました。「スミス聖書辞典」第一巻はこう説明しています。「そこは市の共同ごみ捨て場となり、罪人や動物の死体をはじめ、あらゆる汚れた物が投げ込まれた」。

25 イエスは、悪行のゆえにゲヘナに投げ込まれる者について語られましたが、それはどういう意味ですか。投げこまれる者がそこで永遠の責め苦を受けると言う意味ではありません。イエスはこの火とい・お・う・の谷(ゲヘナ)を永遠の滅びの適切な象徴として用いられたのです。一世紀当時にイエスの話しを聞いた人々はそのように理解しました。黙示録にある「火の湖」ということばも同じ意味であり、責め苦を意識することではなく、「第二の死」つまり永遠の死もしくは永遠の滅びを表わしています。この「湖」が象徴であることは、死と地獄(ヘーデース)がそこに投げ込まれることからも明らかです。これらのものを文字通りに燃やすことはできません。しかしなくしてしまうこと、つまり滅ぼし去ることはできるのです。--黙示録二〇ノ四、二一ノ八。

 26 では煉獄についてはどうですか。これは、人間の魂が意識をもち、死後に火の清めを受ける場所であるとされています。しかし聖書は死人に意識がないことをはっきり述べているのですから、神がそのような場所で人を責め苦に会わせることなどどうしてあるでしょうか。(詩篇 一四六ノ四)「煉獄」ということば、また「煉獄」という考えは聖書の中にないのです。
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25 (イ)ゲヘナは何の適切な象徴ですか。(ロ)同じものを象徴するどんなことばが聖書の黙示録にありますか。
26 聖書は煉獄のような所についてひとことでも述べていますか。

[45]
        死んだ人がまた生きるか

27 死んだ人のほんとうの状態について聖書の教えを学ぶなら、すでに死んだ人について不必要に心配したり、恐れたりすることはありません。また、死んだ人が苦しんでいないということを知れば、神の愛と公正さに対する認識がいっそう深まるでしょう。しかし死んでただ墓に行くだけなら、死んだ人には何も希望がないのだろうか、と考えるかたがいるでしょう。聖書は、死んだ人が再び生きるという、すばらしい希望を明らかにしているのです。

28 イエス・キリストは地上での宣教活動の間に、死んだ人を実際に生き返らせ、死を支配する力のあることを示されました。(ルカ伝七ノ一一-一六。ヨハネ伝一一ノ三九-四四)こうしてイエスは、ご自分が神の新しい事物の体制下で大規模に行う事柄の予告編ともいうべきものを示されたのです。うれしいことに、その時が来れば、地獄つまり全人類に共通の墓は、そこに収めた意識のない死人すべてを出してからになります。(黙示録二〇ノ一三)ある者は天の栄光への復活を受け、イエス・キリストのように霊の被造物となります。(ロマ書六ノ五)しかし人類の大部分は生き返ったのち、地上に復興する楽園での生活をたのしみます。--使徒行伝ニ四ノ一五。ルカ伝二三ノ四三。

 29 神の建てる新しい体制の下で死から復活する人々は、正しい律法に従順であるかぎり、再び死ぬ必要がありません。(イザヤ書 二五ノ八)人類を祝福するためのこのすばらしい備えについて知ったいま、わたしたちはいよいよエホバと御子イエス・キリストについての知識を得なければなりません。そうすることによって、わたしたちはとこしえの命と、とこしえの祝福に導かれるのです。
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27 死んだ人にはどんな希望がありますか。
28 (イ)イエスが死んだ人を生き返らせたことは何の予告ですか。(ロ)たいていの人は復活してどうなりますか。
29 人類を祝福するためのエホバのすばらしい備えについて知ったいま、わたしたちは何をすべきですか。

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[55]
第 七 章

邪悪な霊者が存在しますか

霊界から地上に来たイエス・キリストは、邪悪な霊者の存在を認めておられました。読者は、イエスが時おり悪魔について語り、悪魔を「偽りの父」、また「殺人者」と呼んだのを覚えておられるでしょう。(ヨハネ伝八ノ四四)偽りごとや殺人行為がしだいに増加している今日、この問題を調べることは、わたしたち自身の守りとなるでしょう。

 2 もとより、邪悪な霊の被造物の存在を認めない人はおおぜいいます。そして、聖書を用いていると唱える人の中にさえ、悪魔サタンは目に見えない霊者ではなく、単なる悪の性質のことであると言う人がいます。しかし、こうした考えは事実によって裏づけられていますか。悪魔の誘惑を受けた時のイエス・キリストご自身の経験についてはどうですか。聖書によれば、悪魔は世界のすべての国々をイエスに見せたのち、「ひれ伏してわたしを拝むなら、これらすべてをあなたにあげましょう」と言いました。イエスは悪魔にこう答えられました。「サタンよ、離れ去れ!『あなたが崇拝しなければならないのはあなたの神エホバである……』と書いてある」。この時、悪魔はイエスを離れました。--マタイ伝 四ノ一-一一。
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1 (イ)イエスは邪悪な霊者の存在を信じておられましたか。(ロ)イエスは悪魔をなんと呼びましたか。
2 (イ)ある人々は、イエスの教えとは逆に、悪魔についてどのように考えていますか。(ロ)イエスは悪魔についてどんな経験をされましたか。

[56]
 3 この経験をした時、イエス・キリストはだれの誘惑を受けていましたか。実在する人格的なものによってですか。あるいは、単なる悪という性質によってですか。もしイエスが単なる悪の性質によって誘惑されていたとされるなら、その性質はだれの中に宿っていたのですか。それはイエス・キリスト自身の中にあったのですか。もしそうであるとすれば、イエス・キリストには罪がなかったということを否定しなければなりません。しかし神の真理のみことばである聖書は、イエスが「偽りも汚れもなく、罪人から分けられ」ていたことを明らかにしています。(ヘブル書 七ノ二六)聖書はまた、「彼は罪を犯さず、その口に欺きはなかった」とも述べています。(ペテロ前書 二ノ二二)それゆえ、イエスが自らに内在する「悪」と問答をしていたということはあり得ません。イエスは生きた霊的な被造物と語っておられたのです。こうして、聖書と理性的な判断からして明らかなとおり、サタンは目に見えない霊界にいる生きた実在者です。--ペテロ前書 五ノ八。

自らを悪魔とする

4 しかし、悪魔はどうして存在するようになったのですか。神の「みわざは完全」ですから、神が邪悪なものを創造されないことは明らかです。(申命記三二ノ四)また、理知をもつ被造物でありながら、神と交わることのできないものを神が創造されるはずもありません。そのようなことは、道理また神の愛に反します。--詩篇五ノ四-六[五ノ五-七、バ]。

 5 それで、のちに悪魔となった目に見えない霊者は、ある時期には完全であり、他の「神の子た
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3 (イ)この経験は、悪魔が単なる悪の性質ではあり得ないことをどのように示していますか。(ロ)では、悪魔サタンはどんなものですか。
4 わたしたちが神について知っていることからすれば、神が邪悪な者を創造はずはありません。なぜそう言えますか。
5 (イ)悪魔となった霊の被造物はどのようにしてあやまった道にはいりましたか。(ロ)エバの心に反逆の思いをいだかせたのは単なるヘビですか。

[57]
ち」である幾百万の天使すべてと同じく、神の創造物として欠陥のないものであったに違いありません。(ヨブ記 三八ノ七)では、この者はどのようにして悪くなったのですか。この霊の被造物が神に対する反逆の道をあゆみはじめたのは、最初の人間男女の創造ののちです。この者は自分が崇拝されたいという欲望を育て、その欲望に従ってアダムとエバをそそのかし、神に反逆させました。どのようにしてこれを行なったのですか。聖書は一匹のヘビがエバに話しかけ、偽りを語ったと述べています。その結果、エバは神にそむきました。そしてエバは自分の夫をさそい、神への反逆に加わらせました。しかし、エバの心に反逆の思いをいだかせたのは実際にはだれですか。発声器官をもたない単なるヘビがそうさせましたか。そうではありません。ヘビの背後に何者かがいて、ヘビが語っているかのごとくに見せかけたのです。自分の口はほとんど動かさないで、近くの動物や人形が話しているかのように見せることのできる人がいます。超人間的の見えない霊者であればはるかに容易にこれを行うでしょう。神はバラムのロバにものを言わせました。(民数紀略 二二ノ二八)エデンにおいて、サタンはヘビを用いたのです。それで聖書は、悪魔であるサタンを「元のヘビ」と呼んでいます。宇宙内に反逆と悪とをもちこんだのはこの者に他なりません。--黙示録 一二ノ九。コリント後書 一一ノ三。

 6 しかし、高度の理知をもつこの霊者がほんとうに完全であったなら、他から誘惑する者もないのに、どうして悪を行なうようになったのだろうか、と考えるかたがおられるでしょう。それはこの者がまちがった事柄を考え続けたためであると聖書は答えています。(ヤコブ書 一ノ一四、一五)ある事態における様々な可能性を考えることそのものは悪いことではありません、たとえば、ひとのいえにはいったある人がテーブルの上にお金が置いてあるのを見たとします。この場合、その
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6 完全な被造物がどうして悪を行なうようになりますか。

[58]
人はお金をつかみ、自分のポケットに入れることもできます。しかし、それは盗みの行為になりますから、人はそのことについて熟考することさえすべきではありません。つまり、その種の考えが心に浮かんだなら、すぐにそれを心から払いのけるべきです。しかし、そうした考えを心に保ち、それが大きくなるままにしておくなら、まちがった欲望を育てることになるでしょう。やがてこれが人に悪行を犯させるものとなるのです。

7 完全な霊の被造物についても同じです。この者にとって、神の望まれることを果たすためではなく、自分の勝手な目的のために人間夫婦を利用する機会がありました。倫理的に自由な行為者として、彼はこのことを考えただけでなく、それを自分の心から払いのけませんでした。これが彼を罪に至らせたのです。初めは正直であった人が盗みの行為によって自らを盗人とする場合のように、この霊の被造物は神への反抗者として行動したことによって、自らサタンとなり、また神をそしる者となったことによって、自ら悪魔となりました。サタンおよび悪魔(ディアボロス)という名にはそれぞれ右のような意味があります。

 8 もとより、「彼が犯したのは単なるあやまちではないのか。彼は謝罪し、事態をそこまで収めることができなかったのか」と言われるかたもあるでしょう。これに答えるに際して、完全な者がわたしたちとは異なっていることを忘れてはなりません。その自由意志を行使して、何らかの決定をする場合、その決定は弱さや不完全さによって影響されていません。不完全な人間は相続した弱さのゆえに過ちを犯すことがあります。その人は自分のあやまちを認め、謝罪し、行いを改めることができます。しかし完全な被造物が悪を行なうことを選ぶ場合、それは意識的に選ぶのであり、あとで善行にもどるということをしません。みずからを悪魔としたものの場合がそうでした。
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7 (イ)それで、この霊の被造物はどのようにして邪悪な者となりましたか。(ロ)したがって、悪魔サタンを作り出したのはだれですか。
8 サタンが犯したのはなぜ単なるあやまちではありませんか。

[59]
      他の霊の被造物が自ら悪霊となる

9 悪と不従順とに走った霊の被造物は悪魔ひとりではありません。神は神聖な天使を非常に多く創造されました。ダニエル書七章十節はその一部について一億という数を示しています。聖書の創世記六章一-五節の記録は、ノアの日の洪水の前に、それら霊者である「神の子たち」のある者が、肉体をつけて人間となった、つまり霊の被造物として天で与えられていた自分の立場を離れ、肉のからだをまとったことを述べています。なんのためですか。美しい人間の娘と結婚して、人間的な情欲にふけるためでした。これは神に対して不従順な行為であり、聖書はこれを、『不自然な用途のために肉欲を追い求めた』ソドムおよびゴモラの人々の好意と同様に扱っています。(ユダ書六、七)御使いが天から下り、性交を目的として人間の肉体を求めることも、彼らの天の自然に反しているのです。こうした天使の行いは、ネピリムと呼ばれる「強大な者たち」つまり奇形的な子供を生み出したことを含め、多くのいまわしい結果をもたらしました。これら霊者である神の子たちはその反逆の行いによって自ら悪霊となり、悪魔の側に組みする者となりました。そして悪魔自身は「悪霊たちの支配者」となりました。--マタイ伝九ノ三四。

 10 ノアの日の世界的な洪水によって悪い人間すべてが滅ぼされた時、不忠実な天使たちは肉のからだを解いて霊界にもどりました。しかし彼らは神聖な天使からなる神の組織に加わることをもはや許されませんでした。かわって、霊的な暗やみという卑しめられた状態にとじ込められたのです。(ペテロ後書 二ノ四)神は、これら悪霊となった天使たちが肉のからだをつけることを、洪水以来もはや許しておられません。それでも彼らは人間男女に対し、いまだに危険な力をふるうこと
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9 神の他の神聖な天使たちはどのようにして悪霊となりましたか。
10 (イ)ノアの日の洪水が臨んだ時、人間の娘と結婚していた不従順な天使はどうなりましたか。(ロ)悪行の増加する今日、わたしたちは何に警戒すべきですか。

[60]
ができます。事実、サタンはこれら悪霊の助けを得て、「人の住む全地を惑わ」しています。(黙示録 一二ノ九)世界中で悪行が非常に増加している今日、わたしたちは悪霊に惑わされることがないよう十分に警戒しなければなりません。

悪魔はこの世の支配者

11 聖書のヨハネ伝には、主イエス・キリストが悪魔を「この世の支配者」と呼んだことが三回出てきます。(ヨハネ伝一二ノ三一。一四ノ三〇。一六ノ一一)またコリント後書四章四節は、悪魔を「この事物の体制の神」と呼んでいます。このことは、地上のすべての国々が悪魔サタンの支配下にあるという意味ですか。聖書は、「全世界(は)邪悪な者の支配下にある」と答えています。(ヨハネ第一書五ノ一九)このように、悪魔は「世の支配者」として人間に大きな影響を与え、人々を欺き、国々の政府をさえ動かしています。--黙示録一六ノ一三、一四。

 12 ご自分の聖書から黙示録十二章九節をごらんください。そこで悪魔は「大きな龍(りゅう)」として描かれています。次の章の一、二節はこの龍つまり悪魔が、海から出る「野獣」として象徴される者に、力と王座と大きな権威を与えたことが出ています。この「野獣」とはなんですか。では、サタンは何に対して権威をもっていますか。サタンはイエス・キリストになにを提供しましたか。「人の住む地上のすべての国々」です。(ルカ伝 四ノ五-八)イエスはこの申し出をすぐに退けましたが、悪魔が地上の国々を支配しているということを否定されませんでした。このことと一致して、黙示録十三章七節は象徴的な「野獣」に関し、「あらゆる部族、民族、国語、また国民を支配する権威を
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11 サタンはすべての国々に対してどんな地位を占めていますか。
12 (イ)黙示六十三章一、二節によると、悪魔は何に力と権威を与えていますか。(ロ)イエスに対する悪魔の申し出は、「野獣」の意味を知るのにどう役立ちますか。(ハ)黙示六十三章一、二節の「野獣」と、ダニエルの幻の中の獣に関する記述に、それぞれ同様の動物が出て来ることから、「野獣」は何を表わすと考えられますか。

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あたえられた」と述べています。さらに、預言者ダニエルは獣を何のたとえとしましたか。「国々」もしくは政府です。(ダニエル書七ノ二-七、一七、二三)ダニエルの幻に出て来る象徴的な獣と黙示録の「野獣」とに同様な意味のあることは、両者に関する記述の中に、しし、熊、ひょう、十本の角をもつ獣など、同種のどうぶつが出てくることからもうかがえます。(黙示録 一三ノ一、二)それで「野獣」とは、これまで幾世紀にもわたり地上を野獣のように支配してきたサタンの全政治組織を表わしています。イエス・キリストが、「わたしの国はこの世の一部ではない」と言われたのは当然です。また、イエスに従う者たちが世の一部とならない、つまり世の事柄に巻き込まれないようにするのも不思議ではありません。--ヨハネ伝 一八ノ三六。一七ノ一四-一六。

あらゆる心霊術を避けなさい

13 邪悪な霊者が人間男女を惑わす手段の一つは心霊術です。心霊術とはなんですか。それは、邪悪な霊の被造物と交信し、直接もしくは人間その他の媒介を通して、その霊者の惑わしを受けることです。聖書は心霊関係のある習慣をいっさい避けるようにと戒めています。心霊術を行うのは、悪霊の影響下にはいることだからです。--ガラテヤ書五ノ一九-二一。黙示録二一ノ八。

 14 神は、いかなる形のものであれ、心霊術をすべて非としています。聖書は神が否認されるそうした事柄の例として、占い、魔法、魔術、吉凶のしるしを見ること、まじないをかけること(催眠術、黒魔術など)、霊媒や易者に相談すること、死人にものを尋ねることなどをあげています。(申命記 一八ノ一〇-一二、イザヤ書 八ノ一九)これらすべては悪霊崇拝であり、こうした慣行に頼るのは自らを神の敵とすることです。--レビ記 一九ノ三一。歴代志略上 一〇ノ一三、一四。
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13 心霊術はなんですか。なぜ聖書は心霊術を避けるようにと戒めていますか。
14 心霊術と関係のある慣行にはどんなものがありますか。こうした慣行に頼る者を神はどうみなされますか。

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 15 占いは広く行われている心霊術の一つです。これは兆(しるし)または悪霊の力によって未知のあるいは将来の事柄を知ろうとすることです。(使徒行伝 一六ノ一六)占い棒、振り子、水晶球、霊応盤、超感覚的感知などによるもの、手のひらの筋を調べるもの(手相術)、ある鳥の飛び方を見るもの、夢そのほかの生活上の出来事の縁起を見、それと将来とを結びつけるものなど、今日行なわれている占いにはいろいろなものがあります。このほか、星による占いである占星術があります。これは他のさまざまな魔術と同じく、古代バビロンで始まりました。そして聖書は、占いの行為すべてを神に対する罪としています。--サムエル前書 一五ノ二二、二三。
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 17 しかし、心霊術的な宗教や秘術にいくらか関係してきた人が、心霊術から離れようと思うなら、どうすればよいですか。魔術から離れようとしたエペソの初期クリスチャンの多くは、何をしまし
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15 (イ)占いとはなんですか。今日行なわれている占いにはどんなものがありますか。(ロ)占星術と魔術はどこで始まりましたか。
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17 エペソの初期クリスチャンにならい、どのようにして心霊術から離れることができますか。

[63]
たか。聖書によると、使徒パウロが伝道した「エホバのことば」を受け入れたのち、彼らは「自分たちの本を集め、すべての人の前でそれを焼」きました。それらは銀五万片に相当したにもかかわらず、彼らは焼き捨てたのです。(使徒行伝 一九ノ一九、二〇)心霊術と関係のある者を破棄したのは賢明であり、わたしたちはこの模範にならうべきです。

18 秘術的、また魔術的な事柄に対する世の人々の関心が高まっていても、これに欺かれてはなりません。邪悪な霊の被造物がそうした心霊術の流行を助長しているのです。しかし、悪魔を含め、こうした邪悪な霊者の勢力はやがて滅ぼされます。(マタイ伝二五ノ四一)とこしえの命を望むなら、あなたはあらゆる心霊術を避け、悪霊の影響から離れていなければなりません。

悪魔は偽りの宗教を推し進める

 19 悪魔とその配下の悪霊は人類を惑わすために多くの手だてを備えており、心霊術がその一つであっても驚くにはあたりません。では、「偽りの父」である悪魔が人類を神から離すために用いている手段のうち最大のものはなんですか。(ヨハネ伝 八ノ四四)それは偽りの宗教です!偽りの宗教とは、偽りを基(もとい)とし、神の真理のみことばである聖書と相いれない崇拝です。聖書が、神のみことばと一致しない方法で崇拝する人々を悪霊崇拝者とみなしている理由の一つはこれです。その人々は悪霊の願いどおりに行動し、神に逆らっているからです。--申命記 三二ノ一六、一七。コリント前書 一〇ノ二〇。
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18 (イ)邪悪な霊者すべてはどうなりますか。(ロ)この点から見て、とこしえの命を求める人は何をしなければなりませんか。
19 (イ)悪魔が人類を神から離すために用いているおもな手段はなんですか。(ロ)偽りの宗教とはなんですか。(ハ)偽りの宗教に従っている人は、実際にはだれに仕えていますか。

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 20 たとえ偽りの宗教がもっともらしく見えても、今日の暗黒社会や犯罪の指導者と同じく、悪魔がうわべを飾っていることを見落としてはなりません。悪魔サタンが人々を欺いて自分に仕えさせるのに、義をよそおった宗教を利用する以上にこうかつな手段がありますか。悪魔が、表向きは神に仕えると唱える宗教によってひとびとを惑わすことは、聖書そのものの中に示されています。(マタイ伝 七ノ二二、二三)事実、クリスチャン使徒パウロは「サタン自らも自分を常に光の使いに変えてい(る)」と語りました。--コリント後書 一一ノ一四、一五。

 21 それで、悪魔を「この世の支配者」と呼んだイエス・キリストは単なる空想をしておられたのではありません。(ヨハネ伝 一二ノ三一)邪悪な霊者は実際に存在し、「人の住む全地」を惑わしているのです。しかし、悪魔とその配下の悪い点使徒が活動を封じられる時までは、「短い時」しか残されていません。(黙示録 一二ノ九、一二)それまでの間は、あらゆる心霊術を避け、もっともらしく見えても実際には偽りに基づく宗教から離れなさい。心霊術その他の宗教的な偽りごとを続けながら、神の新しい体制下でとこしえの命を得ることはできません。人をとこしえの命に導くのは、ただ真理だけだからです。--エペソ書 六ノ一二、一六。
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30 悪魔が犯罪の指導者と同じように人々を欺いていることを述べなさい。
31 (イ)邪悪な霊者たちに残されている時間について聖書はなんと述べていますか。(ロ)なぜ人は心霊術および他の偽りの宗教すべてから離れるべきですか。

第八章

神はなぜ今日まで悪を許してこられましたか

どの時代を見ても、人間の歴史には多くの悪がありました。そして今日、流血と犯罪と憎悪と不道徳は、世界中いたる所に見られます。罪のない善良な人々が他の人の悪行ゆえに苦しんだ例はなんと多いのでしょう。暴力行為の犠牲となり、自分の家や愛する人々、あるいは自らの命を失った人もいます。あなたご自身も同様な経験をしておられるかもしれません。たとえこれらを経験していなくても、不正、欺まん、不親切など、人の精神的な苦しみとなる事柄を経験しておられることでしょう。

2 なぜ神はこうした悪を今日まで許してこられたのですか。それには幾つかの理由があります。しかし、そうした理由を十分に理解するためには、最初の反逆の際に提出された問題について調べなければなりません。あなたはそのできごとに関する記録を聖書の創世記第三章からすでに読んでおられるでしょう。では、そのできごとのほんとうの意味を考えましょう。

 3 その時に起きたことを要約すれば次のとおりです。エホバは、命を保つためには創造者に従順
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1 人類は悪についてどんな経験をしてきましたか。
2 神が悪を許してこられた理由は、どんな時に提出された問題と関係がありますか。
3 人間が罪に陥った時のことを簡単に述べなさい。

[66]
でなければならないこと。そして不従順であれば、その結果は死であることを人間に告げられました。(創世記 二ノ一七)神に敵対したサタンは、神のこの明白なことばを否定し、アダムの妻に向って、神に不従順であっても、この人間夫婦は『決して死なない』と語りました。さらにサタンは、神に逆らうそのような行為が実際には二人の状態を向上させ、二人は目が開き、「神のようになって善悪を知る」ようになると主張しました。(創世記 三ノ四、五)さて、サタンのこの反逆的な行動にはどんな問題が含まれていましたか。

提出された問題

4 問題もしくは重要な疑問が幾つか提出されました。まず初めに、サタンは神の真実さにかんして異議を唱えました。実質的には、サタンは神を偽り者、しかも生死のかかわる問題において偽り者であるとしたのです。第二にサタンは、人間の命と幸福が創造者に依存しているということに異議を唱えました。サタンはエホバに従順でなくても人間は生きることができ、また、いっさいの物事を成功裏に治めることができると主張しました。サタンは、人間が創造者から独立して行動でき、正邪善悪を自ら決定して神のようになれると論じたのです。第三に神が明言された律法に逆らう論議をしたサタンは、実質的に言って、神の支配のしかたは誤っており、被造物の益にならないと唱えたのです。こうして彼は、神の支配権にさえ挑戦しました。

 5 しかし、サタンの行動はさらに別の問題を提出しました。そのことは、のちに聖書のヨブ記一、二章に示されました。そこには、ヨブという人物に関連して、サタンがエホバ神に対する全被造物の忠実と忠節に異議を申し立てたことが出ています。サタンは、人間が神に仕えるのは、神と
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4 悪魔の反逆によって提出された問題を幾つかあげなさい。
5 聖書のヨブ記に示されたとおり、サタンはほかにどんな問題を提出しましたか。

[67]
神の正義の支配を愛しているためではなく、神から受ける物質面の祝福など、利己的な目的のためであるとあからさまに主張しました。そして、そのような目的がなくなれば、ヨブのような人物でさえ神から離れるであろうと主張したのです。(ヨブ記 一ノ六-一一。二ノ四、五)そうです、エデンにおけるサタンの反逆は、天と地にいる神の創造物すべての忠節に疑いを投げるものでした。たとえ試練に面しても、彼らは天の父に対する愛を実証し、他のいかなる者の支配よりも神の支配を望んでいることを示すでしょうか。

神が問題を解決される方法

6 サタンは神の力についてはなんの異論も提出していません。この点に注意してください。サタンは、エホバがその力を用い、敵対したサタンを滅ぼしてみるようにと挑戦したのではありません。サタンが挑戦したのは、神の支配権と支配の仕方とに対してだけです。サタンはまた、神の創造物の忠節に異議を申し立てました。つまり、ここで解決しなければならないのは、倫理的な問題でした。

 7 神に対するサタンの偽りの非難を、人間の場合にあてはめてある程度説明することができるでしょう。大きな家族をもつある人が、その家族の扱い方について、隣人の一人からさまざまな偽りの非難を受けたとします。そしてその隣人が、家族の者は父親に対して真の愛をいだいてはおらずい、ともに暮らしているのは、食べ物など、単に物質を得るためである、と言ったとします。その家の父親はこの非難にどう答えるでしょうか。非難した者に対して単に暴力を用いても、受けた非難に答えることにはなりません。むしろ、その非難は正しいのではないだろうか、との印象をさえ与えることになるでしょう。しかし、家族の者自らが父親の証人となり、父親が公正で愛のある
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6 サタンは神の力にかんして異議を唱えましたか。それで解決されねばならないのは、どんな種類の問題でしたか。
7 こうした倫理的な問題をどのように解決できるか。たとえで説明しなさい。

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かしらであり、家族は父親を愛しているゆえに心から喜んでともに暮らしているということを実証するなら、それはすばらしい答えとなるではありませんか。それによって、その父親の正しさは完全に立証されるでしょう。--箴言 二七ノ一一。イザヤ書 四三ノ一〇。

8 このたとえは幾つかの点で、神がなされたことの証明となります。しかし神はさらに、問題を疑問の余地なく解決するために充分な時間--今日までにほとんど六千年間--を与えられました。神がこれだけの時間を許したのは、忠実な被造物に、神とその支配に対する愛を示す機会を与えるためだけでなく、他のいかなる支配も必ず失敗に終わるということを実証するためでもありました。(箴言一ノ三〇-三三。イザヤ書五九ノ四、八)サタンは、エホバ神に逆らうことによって神に対抗する支配者として立ちました。そしてサタンの勧めた道を選んだ最初の人間夫婦は、エホバの支配からの独立を自ら宣言してサタンの支配下にはいったのです。【創世記三ノ六。ロマ書六ノ一六)神は、創造者から独立して行動し、自らを治めようとするサタンと人間の試みを極限まで許されました。これによって、彼らが全人類に真の益となる良い支配をもたらし得ないことは、将来の否定を全く許さないほど明白に証明されるでしょう。その間にエホバは、地上でエホバを愛する者たちにご自分の名と目的とを宣明させ、正義を愛し正義を求める者すべての啓発を図られるのです。

 9 それでこの事態はエホバ神に逆らうという点で悪魔サタンと同様な態度をとったエジプトのパロの場合とよく似ています。エホバはパロにこう言われました。「わたしはすでに、わたしの手を突き出して、おまえとおまえの民を疫病で撃ち、お前を地からぬぐい去ることができたであろう。しかしわたしはこの目的のためにおまえを生きながらえらせた。すなわち、おまえにわたしの力を見せ、わたしの名を全地に伝えるためである」--出エジプト記 九ノ一五、一六。
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8 問題を疑問の余地なく解決するため神が十分な時間を許されたことによって、何が証明されましたか。
9 神はエジプトのパロに対し、悪魔サタンの場合と似たどんなことを告げられましたか。

[69]
       結果は何を示すか

10 聖書は、サタンが自分に許された時間を利用して、天と地にまたがる自分の組織を築き上げたことを示しています。サタンが地上をどの程度まで支配するに至ったかはサタンを崇拝することを条件として、地上のすべての国々をイエスに提供しようとしたことからもうかがえるでしょう。(マタイ伝四ノ八、九)それゆえにこそ、サタンは「この世の支配者」と呼ばれているのです。(ヨハネ伝一六ノ一一)このことは人類に何をもたらしましたか。そして、人間が神とその支配から独立して歩んだことの結果はどうでしたか。

11 これが人類に平和と満足ととこしえの命をもたらさなかったことは歴史が証明しています。もたらされたものはその逆つまり死と苦痛の数千年でした。これまでの歴史及び世界の恐るべき現状は、人間が神なくしては自らを治め得ないことの証拠です。人間はあらゆる統治形態を試みて来ました。しかしいまだに安全と永続する幸福とを得ていないのです。なるほど物質面では進歩がありました、しかし月にロケットを送りながら、地上で平和に暮らせないというのはほんとうの進歩ですか。便利なものをことごとく備えた家を建てながら、離婚や非行によって家族がちりじりになっているあら、なんのとりえがありますか。戦争とちまたの暴動また不法の蔓延(まんえん)と資産や人命の破壊を誇ることができるでしょうか。決してそうではありません。しかしこれらは神を無視した支配が結んだ実です。まさに伝道之(の)書八章九節が述べる通り、「人が人を治めて傷つけた」のです。

 12 それで,神が悪を長く許してこられたことによって、『神の役を演じよう』とした人間の企ては悲惨な失敗であることが、疑問の余地なく実証されました。(詩篇 一二七ノ一)著名な論説家は
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10 サタンは神から許された時間を利用し、天と地にかんして何をしましたか。
11 神とその支配から独立した人間の悲しむべき結果について述べなさい。
12 (イ)著名な一論説家は地上の不幸の原因についてなんと述べましたか。(ロ)預言者ヱレミヤは、人間が自分の歩みを安全な方向に定めることについてなんと述べましたか。

[70]
語りました。「我々は言いわけを求めれば求めるほど、地上の不幸が人間によるものであることを認めざるを得ない。我々の根本的な弱みは、自らを治めるという問題をいまだに解決していないことである」。*霊感を受けた聖書記述者であるヱレミヤは適切にもこう述べました。「エホバよ、地上の人間の道は人間が決めるものでないことを、わたしはよく知っています。自分の歩みを定めることさえ、歩く人に属していないのです。エホバよ、わたしを正してください」--ヱレミヤ記 一〇ノ二三、二四。箴言 一六ノ二五もごらんください。

13 サタンが地上の事物に与えた影響は不一致、悪、死となって表われました。サタンの支配は欺きと強圧と、利己心に基づくものでした。こうしてサタンは何の支配者ともなり得ないことを自ら示したのです。それゆえ、今この卑しむべき反逆者とその悪行にくみした者すべてを滅ぼし去っても、エホバが不当とされることはありません。(ロマ書一六ノ二〇)しかし、エホバの愛の支配に対する神の創造物の忠節の問題、および、試練に会えば、すべての者は神から離れるであろう、というサタンの主張についてはどうですか。

 14 エホバ神は「愛が決してむなしくならない」こと、また、まいないを受けたり、強制されたりするためではなく、愛の心から喜んで神に仕える者が人類の中にいることを知っておられました。(コリント前書 一三ノ八)何世紀にもわたる歴史の中で、このとおりに行動した人は幾千人もいます。ヨブはその一人です。ヨブはサタンの手によってはなはだしい苦しみを受け、資産と子供と健康とを奪われたにもかかわらず、「息が絶えるまで、わたしは決して自分の忠誠を
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* デイビッド・ローレンス、「U.S.ニューズ・アンド・ワールドリポート」、一九六七年九月二五日号、一二八ページ。
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13 サタンの支配は失敗であったことが証明された今、神が何を行なわれても不当ではありませんか。
14 (イ)ある者はどんなすぐれた動機から喜んで神に仕えてきましたか。(ロ)サタンの圧迫を受けながらも神への忠誠を守ったヨブは、悪魔についてどんなことを実証しましたか。

[71]
捨てない」と述べました。(ヨブ記 二七ノ五)ヨブはサタンが偽り者であることを実証したのです。

15 すでに見たとおり、完全な人イエスはサタンの誘惑とまいないの手段すべてを退けました。その上、番兵にむち打たれ、刑柱上で苦しみの死を遂げた時でさえ、イエスは神に対する忠節を守り通しました。(ペテロ前書二ノ二三)これは、望むなら完全な人間アダムも同じ道を取り得たこと、また人間の全面的な従順を求められる神が不当では無いことの証拠です。(テサロニケ後書一ノ四、五)エホバへの忠節を全うしたイエスは、サタンの欺まん的な挑戦に対する最良の答えを提出したのです。

 16 しかし、利己心と誇りために心のゆがんだサタンは、その狂気の歩みをゆるめていません。彼が誤っており、偽り者であることは、遠い昔に証明されたにもかかわらず、サタンは神を愛するものたちを迫害し続けています。(黙示録 一二ノ一七)イエスの死以来、多くのクリスチャンは、エホバを愛し、その愛の支配を望むがゆえにエホバ神に仕えてきました。そして今、幾十万の人々が支配者としてのエホバに対する忠節を表明しています。(黙示録 七ノ九、一〇)これらの人々は、エホバのみことばを忠実に守り、エホバの律法に深い敬意をいだくがゆえに、サタンからのあらゆる攻撃の中にあっても、満ち足りた気持ちで生活することができます。愛によるエホバの支配は唯一の正しい支配であり、人間はどんなに厳しい試練の下にあってもエホバへの忠節を守ることができ、サタンは全時代を通じて最も非道な偽り者です。神のしもべが幾世紀にもわたって示してきた一致と愛と忠誠は、このことの証拠を豊富に提出しています。
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15 (イ)イエスはエホバに対するサタンの欺まん的な挑戦にどう答えましたか。(ロ)完全な人間アダムは神への全き忠節を示し得ましたか。
16 (イ)偽り者であることが十分に証明されているにもかかわらず、サタンが神を愛する者たちを迫害し続けているのはなぜですか。(ロ)神の僕たちの忠節はどんなことの明白な証拠ですか。

[72]
         試みはどれだけ続くか

17 エホバが今日まで悪を許してこられたのは、サタンの提出した問題すべてを解決するためでした。しかしエホバは悪の存続をいつまでも許されるわけではありません。悪を終らせる時をすでに明確に定めておられるからです。聖書の記述者ダニエルは遠い昔、そのことについて述べました。彼は、「終わりはやはり定められた時に来る」と書きました。--ダニエル書一一ノ二七。

18 アダムの日以来今日に至る約六千年は、七十年ほどしか生きない人間の観点からすれば、非常に長く見えるかもしれません。しかし神は期限を定めておられますから、この点について神の見方を理解するのは良いことです。預言者モーセは詩篇九十篇四節でエホバについてこう語りました。「あなたの目には、一千年も、過ぎ去ればきのうのごと(し)」。五歳の子供にとって一年は長い期間です。しかし六十歳の人にとって、それはむしろ短く感じられるでしょう。同じように、とこしえに生きておられるエホバにとっては、一千年もわずか一日としか見えないのです。--ペテロ後書三ノ八。

 19 こうして定められた期間だけ悪の存在が許されましたが、これをわたしたちに対する不当な処置と考えてはなりません。エデンにおいて、神が反逆者すべてを直ちに滅ぼされたなら、わたしたちは生まれることさえなかったでしょう。そして、神の建てる新しい体制下でのとこしえの命を受ける機会に恵まれることは決してなかったでしょう。神がご自分の寛容を早い時期に打ち切らなかったことによって、わたしたちには、今日生き、将来とこしえに生きる機会が開かれたのです。(ペテロ後書 三ノ九、一五)また神は、この期間を利用して、キリストによる人間のあがないを備えられました。--ガラテヤ書 四ノ四、五。
__________
17 神はいつでも悪を許されるのですか。聖書のダニエル書はこの疑問にどう答えていますか。
18 六千年近くの機関は人間には長く見えますか。神にとっても長い期間ですか。神は千年をどのようにみなされますか。
19 神が悪を許してこられたことを、わたしたちに対する不当な処置と考えてはなりません。これはなぜですか。

[73]
 20 神はこの期間を用いて、「あわれみの器」を人類の中から選び取り、それを整えることをもされました。「あわれみの器」とは正義の政府を構成する人々をさし、その政府は新しい体制下の地上で永遠に生きる人々を治めます。この天の御国は人類にとって、なんとすばらしい祝福となるでしょう。この「あわれみの器」を整える間、神は大いなる寛容を示してこられました。神は邪(よこしま)な者たち、つまり「怒りの器」を忍ばれたのです。神はその者たちの滅びの猶予してこられました。なんのためですか。聖書は明瞭に答えています。「あわれみの器におよぶご自身の栄光の富を知らせるためであった」。(ロマ書 九ノ二二-二四)神の御名が立証され、「怒りの器」である邪な者たちが滅び去るとき、そのことの栄光は、神の天の御国のものとなるでしょう。また、神が悪の存続をしばらく許されたことによって、普通では見ることのできない神の属性のある面が表わされました。それは神のあわれみと寛容です。これによって、わたしたちは創造者に対する感謝の思いを深め、神にならいつつ、自らの人格を向上させることができます。--エペソ書 五ノ一。

 21 神がこれまで悪を許してこられたことによって成し遂げられた真に有益な事柄がもう一つあります。将来のいつか、神が物事を行なう方法について何者かが異議を唱えた場合、別の方法を試みることを、神が再び許す必要はありません。神から独立して物事を治めようとしたサタンと配下の悪霊および人間の六千年にわたる失敗の記録がすでに十分な答えとなっているからです。だれも、『機会が与えられなかった』とは言えません。『もう少し時間があったなら』と言える者もいません。これまでに許された時間によって、創造者に逆らう道が全く災いであることは、すでに十分に証明されているのです。それで、宇宙の平和を脅かす反逆者が再び現れた場合、その者をすみやかに打ち砕いても、神は全く正当であるとされるのです。--詩篇 一四五ノ二〇。
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20 聖書はロマ書九章二十二-二十四節で、神が悪を許してこられた理由をどのように説明していますか。
21 神が一定の期間だけ悪を許されたことには、ほかにどんな益がありますか。  



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