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神を眞とすべし
「されど如何(いか)ん、ここに信ぜざる者ありとも、そ
の不信は神の眞實(しんじつ)をすつべきか。決して然(しか)らず、
人をみな虚僞者(いつわりもの)とすとも神を眞(まこと)とすべし。錄(しる)して
『なんじはその言(げん)にて義とせられ、審(さば)かるるとき
勝ちを得給(えたま)はん爲なり』とあるが如(ごと)し。」ーーーロマ書三章三、四節ーーー[1]
’’神を眞とすべし’’
一九四六年 英文發行
一九五二年 日本文發行
Published in English 1946
Published in Japanese 1952By
WATCHTOWER BIBLE AND TRACT SOCIETY, INC.
International Bible Students Association
Brooklyn, N. Y., U.S.A.
神を眞とすべし第一囘發行1,000,000册
’’Let God Be True’’ Japanese
發 行 者
ワッチタワー聖書册子協會
萬 国 聖 書 研 究 會
北米合衆國ニューヨーク州、ブルックリン市
發 行 所
ワッチタワー聖書册子協會
北米合衆國ニューヨーク州、ブルックリン市
Made in the United States of America[3]
眞の神なる至上者と他の羊の善き牧者に此の書を献ぐ
神[:申??]命記卅二章四節。ヨハネ傳十章十一、十四、十六節。[5]
多くの真面目な心の持ち主は現世界に滿ちている宗教的混亂と言動の一致しない宗教指導者達の矛盾に対して注意を引き始めた。一般にそれらの宗教家たちが神の代辯者(だいべんしゃ)であると考えへられているが、それならば此の全地上に、果たして眞理が存在するだらうかと多くの正しい人の心の人たちは疑問を抱き始めている。そのような人々は曾[:かつ]て古人が「われ落胆(らくたん)して云えらく、すべての人は僞りなり」(詩篇116編11節、リーサー譯)と嘆息した失望を感じ苦しみに耐えているのである。然し之等[:これら]の人達もやがて正義の源(みなもと)から鳴り出づる眞理の轟[:とどろき]を耳にする時、一切の宗教を排除し、喜々としてこれに心を傾けることは當然[:とうぜん]である。
2 我等の目に見えるこの大宇宙は元來眞理を基礎として確立され、地上に住む人達の勝手氣儘な行動に頓着せず常に規則正しく活動しているのである。此の大宇宙の創造者は眞理の神である。この神は所謂キリスト教の人達に依って共通に崇拝されている神であると主張されているが、実際には彼等の長年にわたる宗派間の意見の對立、闘爭、誤謬等は神および神が人類に與へ給ふた聖言卽ち聖書を冒瀆している。このような多くの實例に行
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1 今日の宗教の状態に對して多数の正しき心の持主はどのような反對的態度を示しているか。
2 (イ)何故聖書には如何なる註釋をも付け加えるべきでないか。(ロ)此の書籍の読者は如何なる方法にて研究を行ふようすゝめられ又指導されるか。
[8] 當って困惑せる眞理の探究者達は希望を失い果て、「聖書とは如何なる調べをも奏で得る古い提琴である」と慨歎したが、もし之が眞實であるとするならば、聖書の原著者である神は混亂と自己矛盾の状態にあったこととなるのである。然しその神によって創造された此の見ゆる宇宙が驚くべき調和を以って決して矛盾していない事實を知る時、神にその様な矛盾はあり得ないのである。故に神の書である聖書には混亂はあり得ない。叉それには如何なる註釋をも付け加へるべきではない。聖書に關しての矛盾と虚僞はそれを解釋する人たち卽ち彼等自身一致を見ず屢々[:しばしば]大論争する宗教家達の責任である。從って此の書籍によって聖書を研究する者は所謂「キリスト教」に於ける困惑と誤謬の教理によって聖言を研究するよう勧められているのではないし、叉その様に指導されない。神が御自身の誓言の中で言われるはれることに從って學のである。「それ神は亂(みだれ)の神に非ず。和平(やはらぎ)の神なり」(コリント前書14章33節、アメリカ標準譯參照)。
3 眞理に到達する爲には先ず心の中より宗教的偏見を除き去るべきである。卽ち神が御自身で語り給ふた所に聞き從はねばねばならないのである。他の如何なる方法もそれは更に混亂を招くのみである。もし宗教的な人たると否とに拘わらず、聖書を輕蔑して人間的意見や傳説を重要視すると云う様なことがらがあったところでどうであらう?もし宗教の指導者たちが聖書の正當なる證據を拒絶した所でどうであらうか?たとへ「キリスト教」制度の高貴な教職者達が誤り教へたり迷はしていたところでどうであらうか?これらの驚くべくして失
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3 (イ)眞理を得る爲に我等はどの様にしなければならないか。(ロ)信仰薄き人間の故に我等はどの様な立場をとるべきか。
[9] 望に滿ちた事實は聖書そのもの卽ち眞理の音信を變更せしめるであらうか。我等が正しく考へた時、眞實の生ける神は眞理を研究する者に御自身に就いて聖靈にて記された啓示を與へ給ふたに相異ないと確信し得る。事実そうである。故に我等は次の如く言った聖書の一記述者の立場をとるべきである。「爰(ここ)に信ぜざるものあれど其を如何。その不信は神の信を廢(す)つべきか。非(しから)ず。凡ての人を僞(いつは)りとするも神を眞とすべし。汝の告ぐる言(ことば)は義とせられ汝が審(さば)く時勝を得んと録(しる)されたる如し」(ロマ書3章3,4節、アメリカ標準譯參照)。此の記者は自ら罪人であった事を素直に告白せる正しい人であり、いかなる場合にも神は眞(まこと)であると述べている。彼は神に対し「我は汝に向いて獨(ひとり)なんぢに罪を犯し、聖前(みまえ)にあしきことを行へり。されば汝ものいふときは義とせられ、なんぢ裁くときは咎なしとせられ給ふ」(詩篇51篇4節、アメリカ標準譯參照)。もし我等が神を眞とするならば、神はその記された聖言によって眞理の諒解を與[:あた]へ給ふのである。
4 神を眞とすると云うふことは、人間に自由をもたらす眞理に就いて神に聞くといふことである。卽ち神の聖言[:みことば] なる聖書を眞理として受容れることである。故に我等は此の書籍中に於いて眞理に關しては眞理に訴へるのである。我々の責務はこゝに記されている事が真実にして信頼し得るものであるとの證據[:しょうこ] に、聖書からの引用句を示すことである。この方法は聖靈を受けた聖書記者及び聖書に記された忠信なる人達のとった道であり彼等が勧めている方法である。有名な豫言者イザヤはこの事を示して次の如く述べている。「もし人なんぢらにつ
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4 (イ)神を眞とするとは如何なる意味か。(ロ)此の書籍の研究方法はなぜイザヤ書8章20節と一致しているか。
[10] げて巫女(みこ)および魔術者(まじゅつしゃ)のさえづるが如くさゝやくがごとき者にもとめよといはば民はおのれの神にもとむべきにあらずや。(故に我等は)いかで活者(いけるもの)のために死者に求むることを為(せ)んといへ。たゞ律法(おきて)と證詞(あかし)とを(持って)求むべし。彼等のいふところ此の言(ことば)にかなはずば光あらじ」(イザヤ書8章19,20節、リーサー譯參照)。「却[:かえ]って律法(おきて)と證詞(あかし)とを求むべし。彼等の言ふところ此の言(ことば)にかなはずば朝の光をもたず」(イザヤ書8章20節、ドウエイ譯)。世界に暗黒を齎[:もたら]した責任者なる悪霊卽超人間的見えざる悪魔の勢力にあるこの世の人達の教には真理の光がないのである。我等が神の御言葉なる聖書の律法と證據を直接に求めないならば新しき正義の世の朝の近きことを示す光を見出すことは決して出來ないであらう。
5 古代のヘブルの最後の豫言者[:よげんしゃ]マラキは、神のみ言葉についてイザヤと同様に記している。卽ち彼は靈示を受けた神の代辨者として述べている。「なんぢらわが僕モーセの律法(おきて)をおぼえよ。すなはち我がホレブ山にてイスラヘル全體の爲に彼に命ぜし誡命(いましめ)をおぼゆべし」(マラキ書3章22節、リーサー譯參照)。現存する聖書の最初の五巻は豫言者モーセに依って記述された。故に古代ヘブルの最後の豫言者は一千年有餘年前にありし最初の聖書記述者と全く一致したことを述べている。モーセからマラキに至る他の總[:すべ]ての記述者たちは同じ立場を取っており、而して豫言者モーセは彼以前の神の豫言者たちの總てが靈示によって述べたところを記録したのである。
6 現存する神の聖言の書と共に口述による律法や傳説が存在するといふことに就いてはモーセよりマラキに
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5 古代ヘブル聖書の最初と最後及びその間にあった記述者たちは教えに關し如何なる立場をとっているか。6 モーセ及び箴言は口述法や傳説法について何と示しているか。
[11] 至る聖書記述者たちの中一人も何等言及していない。また聖書の何処にも、古代宗教家たちの口述的律法や傳説が録されたる神の御言葉と同等であるとは記されていない。それら口頭傳説が付け加へられねば録された聖書(みことば)は不完全であるとは言っていない。反って豫言者モーセは靈示によらないそれらの人間的口述傳説を神の與へ給ふ大律法や證詞に付け加へるべきではないと強く示している。「わが汝らに命ずる言葉は汝らこれを増しまた減すべからず。我が汝らに命ずる汝らの神ヱホバの命令を守るべし」(申命記4章2節、リーサー譯參照)。神の記し給ふ聖書は完全であって、それにはその様な人爲的傳説を必要としない。また傳説を教へ、それに拘泥し、それを聖書と同等またはそれ以上に評價する者は自らを僞善者とする者である。「神の言はみな潔(いさぎよ)し。神は彼を頼むものの盾なり。汝その言葉を加ふること勿れ。恐らくは彼なんぢをせめ、又なんぢを謊(いつわ)る者となしたまはん」(箴言30章5,6節、リーサー譯參照)。
7 神は豫言者イザヤをして自ら神の民と称し稱て実際には聖書よりも人為的な傳説を重ずる偽善者たちに對して強く反對せしめている。「主いひたまはく、この民は口をもて我にちかづき唇をもて我を敬えどもその心はわれに遠ざかれり。そのわれを畏みおそるるは人の誡命(いましめ)によりておしえられしのみ。この故にわれこの民の中にて再びくすしき事(わざ)をおこなはん。そのわざは奇(くす)しくしてあやし。彼らの中なる智者のちゑはうせ聡明者(さときもの)のさときはかくれん」(イザヤ書29章13,14節、リーサー譯參照)。
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7 人爲的教訓や傳説に從ふ人達に對して豫言者イザヤは如何に強い言葉で反駁したか。
[12]
8 宗教指導者達の教理や傳説とこの論争のゆえに紀元第一世紀の頃のラビたちと偉大なるナザレの師は対立する結果となった。之に關し「時にエルサレムの學者とパリサイ人イエスに來たりてい曰けるは、汝の弟子古(いにしえ)の人の遺傳(つたへ)を犯すは何故ぞ。そは食する時にその手を洗(あらは)はざればなり。答えて彼らに曰けるは汝らは亦なんぢらの遺傳(つたへ)によりて神の誠(まこと)を犯すは何故ぞ。それいましめて汝の父母を敬(うやま)へ。また父母を罵(ののし)る者は殺さるべしと宣べ給へり。然るに汝らは曰(いひ)てすべての人父母に對(むかひ)なんぢを養う可(べき)ものは禮物(そおへもの)なりと云(いは)ば、その父母を敬わずとも可(よし)とす。斯くて汝等遺傳によりて神の誡(いまし)めを廢(はい)せり。僞善者よイザヤは能(よ)くなんぢに就いて豫言し、この民は口にて我に近(ちかづ)き唇にて我を敬へどもその心は我に遠[:とおざ]かり、人の誡(いましめ)を教えとなして徒[:いたず]らに我を拝すと云(いへ)り」(マタイ傳15章1ー9節、ドウエイ譯)と記している。この様に所謂宗教的傳説家達は嘘僞者であり、神の律法破棄者である事が明白である。一方神の聖言に信頼を置いてそれに從ったナザレの師は神を眞としたのである。
9 之は事実である。古代ヘブル聖書(舊約聖書原文)においては宗教家達の口に傳へられた傳説卽ち後日になって人間によって聖書と同等或ひは両者の間に矛盾ある時には聖書よりも價値あるものとして記し出版した
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8 傳説に對して如何なる論争がマタイ傳15章1-9節に記録されているか。叉それによって誰が眞であり誰が噓僞者と示されたか。9 (イ)人間的傳説に対する聖書の立場に關し、何が確實か。(ロ)イエスが神に祈った時及び試練に遇った時、神の聖言に對してどの様な注意を拂ったか。
[13] ものを信ぜよとは教へていない。之と同じく紀元第一世紀に書かれた靈示によるギリシャ語聖書(新約聖書原文)においても、キリスト教々職者と自らを稱する者達の道德的教訓や傳説を受け容れて、それにしたがえとは教へていないのである。クリスチャンのギリシャ語聖書に置いては何百囘となくヘブル語聖書中に在する神の聖言が引用され、或ひはそれに言及されている。ナザレのイエスは當時に於いて彼が有していた唯一のものであった聖書に關して弟子達の爲に神の祈って曰く「眞理にて彼らを禦(きよ)め別ちたまえ、汝の御言は眞理なり」(ヨハネ傳17章17節)。イエスが四十日間荒野にて大敵と戦はれた時、神の聖言の書を用ひてこれに勝ち給ふた。卽ち聖言の書を用ひて敵が僞善者であることを指摘されたのである。彼が最初の試みにあったときに彼は「人はパンのみにていくるものにあらず。ただ神の口から出る凡てに因(よる)と錄'[:しる:された神の御言葉、聖書で!!伝統によって口伝律法や、口頭伝承では無くって!!タルムードやミシュナーの迷信では無い!!]されたり」と云はれたのである。第二囘の試みに遇った時彼は「主たる汝の神を試むべからずと亦錄'[:しる]せり」と言われた。第三囘の試みに遇った時には「サタンよ退け。主たる汝の神を拝し、ただこれにのみ事(つか)ふべしと錄[:しる]されたり」と云っておられるのである。この場合は常に豫言者モーセによって記述された神の聖言より引用されたのである。(マタイ傳4章4,7,10節。申命記8章3節。6章16節。6章13節)。
10 イエスがナザレのユダヤ教の會堂において地上に於ける御自身の使命を宣べられた時イザヤの預言の巻物からイザヤ書61章1,2節を引用された。(ルカ傳4章16ー21節)。而して後、「われ律法と預言者を廢(すつ)する爲に來たれりと誓ふ勿れ、われ来て之を廢(すつ)るに非ず。成就せん爲なり。われ誠に汝等に告げん。天地の盡ざ
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10 更にイエスは宣教及び不信なる宗教家達への忠告に於いて聖書に如何なる關心を示されたか。
[14] る中に律法の一點一晝[:一点一画]も遂(とげ)つくさずして廢[:すた]ることなし」(マタイ傳5章17,18節)と云はれたのである。イエスは彼を信ぜざる宗教家達に神の聖言の書を學ぶやう忠告された。「汝等聖書に永生(かぎりなきいのち)ありと意(おもひ)て之をしらぶ。この聖書は我について證(あかし)する者なり。若しモーセを信ぜば我を信ずべし。蓋(そは)モーセ我事を記したればなり。若(もし)モーセの記しし事を信ぜずば何(いか)で我言(いひ)しことを信ぜんや」(ヨハネ傳5章39,46,47節、欽定譯並にドウエイ譯參照)。
11 遂にイエスの敵である宗教家達は叛逆者の手を借りて彼を不法にも捕縛した。彼は何故に此の時抵抗しなかったのか。なぜならば彼は神の聖言を眞理として傳達していたからである。彼はその弟子たちに此の事に就いて警告し「我汝等に告げん。彼は罪人の中に数えられて有(あり)しとしるされたこの言葉は我に於いてとげらるべし。蓋[:けだし:そは] われを指(さし)たる事は必ず成(とげ)らるべければなり」(ルカ伝22章37節、アメリカ標準譯)と言われた。その数日後、彼の弟子たちに對して彼の不思議な経験を説明された時に、彼に就いて成就した事柄を指し示して神の聖言が眞理であることをたゝへたのである。二人の弟子との對話にて「故に、モーセよりすべての預言者を始めすべての聖書に於いて己に就いての事は解明されたり」(ルカ伝24章27節)と言っている。後日更に多くの弟子達との對話に於いて「彼等に曰(いひ)けるはモーセの例(おきて)、豫言者の書(ふみ)、詩の書に記されたる我事につく凡(すべて)の言(ことば)の必ずとぐべきは我もと汝等と偕(とも)に在(あり)しとき語れる所なり。これに於いて聖書を悟らせんとて其の聰(さとり)を啓(ひら)き曰けるは巳(すで)に斯錄(かくしる)された
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11 イエスが敵に捕らえられた時に何故彼は抵抗しなかったか。叉その數日後、弟子達に對してどの様にして神の聖言をたゝへられたか
[15] り」(ルカ傳24章44ー46節)。彼は如何なる場合にもラビの學校において教える彼らの傳説や人間製の教訓に求めることをしなかった。彼は彼の弟子達をして忠實に神の記録された聖言を參照せしめその事により神を眞として崇めしめた。そのことは同時に世間的に崇敬されている宗教指導者達が僞善者であることを證明したのである。
12 ナザレのイエスの此の事は一つの先例である。之は宗教家達の宗教的註釋に從ふ者や聖言の書以上に人爲的傳説を重んずるものは聖き神の言を宣明するイエスの忠信なる追随者を迫害するものであることを明らかに示している。彼自身の忠信なる追随者の一人は自己の實例によって如何に宗教的傳説や制度に盲目的に固執する者が神の聖言を眞とする人々に敵対する様になるかを示している。イエスの追随者の一人なるポウロは此の事を告白して次の如く述べている。「わが先にユダヤ教に在(あり)しとき行ひたることを汝等聞けり。卽ち甚(はなはだ)しく神の教會をせめ、かつ之をほろぼせり。我また心を人よりも先祖たちの遺傳(いひつたへ)に熱(あつ)くユダヤ教にありては我が国人のうち年ひとしき多くの人にまさりたり」(ガラテヤ書1章13,14節、アメリカ標準譯參照)。
13 ポウロは宗教的傳説のゆえにモーセや他の豫言者達及び詩篇記者達の記した眞理に對して如何に或期間盲目的になっていたかを認めている。彼は叉キリスト教の教職者と自稱する者が宗教的教訓や傳説の制度を發展せ
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12 イエスの先例によって傳説に固執する人々に關して如何なることを確信し得るか。また使徒ポウロは自己をその實例として如何に示したか。13 宗教的傳説の制度の作成に關してポウロは如何なる警告をしているか。
[16] しめて宗教組織の會員を眞理から遠[:とほざ]けるものである事を豫知[:よち]していた。故に斯く述べてゐる。「なんぢら愼(つつし)むべし。恐らくはキリストに循(したが)はず人の遺傳(いひつたへ)と世の小學に循(したが)ひ空言なる理學をもて汝等の心を奪はん」(コロサイ書2章8節、ドウエイ譯參照)。ポウロはそれらの傳説が僞りであり、靈示によって記述された聖言の内容とは異なる救ひを示すものであることを知っていた。聖書の中に記錄されている福音よりも宗教的傳説を誤り重んずる現代の宗教家は、よろしくポウロの教訓を熟考すべきである。卽ち「之[:これ] は福音に非ず。或る人たゞ汝等を擾(みだ)しキリストの福音を變[か]えんとする也。我等にもせよ天よりの使者(つかひ)にもせよ。もし我らが曾(かつ)て汝等に傳(つたへ)し所に逆らふ福音を汝等に伝えるものは呪(のろ)はるべし。我ら既に言ひしが今また我その如く言(いは)ん、若[:もし]なんぢらが受し所に逆らう福音を汝等に傳[:つたへ] る者は呪[:のろは ]るべし」(ガラテヤ書1章7ー9節)。
14 從ってポウロは強く神の聖言の書に基づいて教へ且つ宣(の)べたのである。彼は彼に聞く者は彼の云ふ所を聖書に依って確かめるべきであると述べている。事實、ポウロの主侍醫なりしルカはこのような態度を取ったものを聖書を讀んで使徒の眞實性を確かめんとしたとして批難するどころか却って褒むべきであると述べている。「兄弟たち夜の間に急ぎポウロとシラスをベレアに去らしむ。彼らはかしこに至りてユダヤ人の会堂に往けり。此処の人々はテサロニケの者よりは性情(ひととなり)よきが故に好(このみ)て道を聴き[:気持ちがおうよう(エホバの道を聴く用(よう)で!!)であった、1973年版。気持ちがおおらかであった。きわめて意欲的な態度で御言葉を受け入れ……1982-5年版 ]、此(かく)の如きこと果たして有か無か知らんとて日々聖書をさぐれり」(使徒行傳17章10,11節)。故に宗教組織がその會員に聖書を讀むことを禁じ、牧師
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14 故にポウロは神の聖言に對して如何なる方法態度をとったか。叉宣明者に對しての優れた態度とは何か。
[17] の説教のみを受容ることを要求し、之を聖書の示す所と比較研究してはいけないと教ふる場合があるとするならば、その宗教組織は使徒的な教へであると自から主張している言[:ことば]に反するものである。
15 ポウロの同僚使徒であったペテロは、彼と同じく聖書を第一義に考えていた。ペテロは再三ヘブル聖書を引用しており、而して斯く述べている。「然ど主の言(ことば)は限(かぎり)なく保つなり。汝等に宣べ傳へる福音は乃(すなは)ちこの言なり」(ペテロ前書1章25節、ドウエイ譯參照)。
16 ペテロの書卽ち記録された言(ことば)に於いては、絶對確實性を求めたり、宗教的高位にあることを主張したり、彼を崇めしめて榮譽を求めたりする様な個所は発見されない。彼は常に聞く者或るひは讀む者に神の王国の日の至る迄、永遠不變の神の聖言を輝く道しるべとするやう示した。「殊[:こと:とく ]に豫言者の確信われらにあり。この言は暗所(くらきところ)に照れる灯の如きものなり。夜の明けるまで明星の汝等の心の中に出るまで之に顧(かえり)みばよし。まづ初めに知るべき事は聖書の凡ての豫言は豫言者己の意(こころ)をもって示せるに非[:あら]ざることを知らん事なり。そは豫言は素(もと)より人意に因りて出しに非ず。神に屬する聖人(きよきひと)聖靈に感じて語りしものなればなり。昔民の中に僞(いつはり)の豫言者ありき。その如く汝等の中にも僞りの師いでん、彼らは滅びに至る異端を傳へ且つ己を贖(あがな)ふ主を主とせずして速
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15 ペテロはポウロと同じ考へ方をなしていた事をどの様に示したか。16 ペテロは自己の名譽を求めたか。而して何故彼はクリスチャンをして聖書に注意を拂はしめたか。
[18]かなる滅びを自らとるべし。先に聖(きよき)豫言者の語りし言葉と汝等の使徒たちが傳へし主なる救主の命令を記憶させんとす 」(ペテロ後書1章19ー21節。2章1節。3章2節。ドウエイ譯參照)。
17 故に我等は、此書籍を手にして讀む者が使徒の示した所に從ふやう希望するのである。卽ち此の書籍を讀む者は神の永遠の聖言を学ぶことによって神を眞とするのである。われらに神が聖靈をもって聖書を充たし給ふた事を知って、聖書に信頼をおき、成就せる豫言の記録及び我等の時代史に發生を豫定された豫言の成就となる事柄によって神の解釈を求めるのである。「解(と)く事は神によるにあらずや」(創世記40章8節。ドウエイ譯參照)。然り、彼の示す解釋は眞理である。故に此書籍は引用且つ參考とした多くの聖句によって満たされている。而して讀者は記されていない聖書の句を各自の聖書で讀み且[かつ]參考とすべきである。[:解く者は聖霊である?!:訓慰師(なぐさむるもの=約翰傳16:6、元譯)の聖霊の憶(おも)い起こし證詞(あかし)で!!絶対確実な聖霊で!!]
18 此書籍の中に引用されている聖句に特別の註がない場合は一般に用ひられている欽定譯聖書(King James Version) と稱されている聖書より引用されている。然し讀者はこの書の中に、ヘブル語、ギリシャ語の原文に最も近い意味を示しているユダヤ譯、ローマ・カトリック譯その他の版の聖書より隨時引用されていることに氣が付くであらう。欄外の質問は讀者の復習のために一節毎に設けたものであって、之は聖書研究會等に於いて利用出來るものである。以下の各章の研究は聖書の根本的、本質的な教へを一歩一歩極めて行くのである。
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17 どの様にして此の書籍は使徒の示せる方法に從っているか。
18 此書籍の引用句、欄外の質問、及び各章に就いて述べよ。
「エホバとは誰か」とは昔からの質問にて、紀元前第十六世紀の頃に始めて、エジプトの王パロはこの質問を侮辱的態度を以て發するとともに、挑戦的態度を以て、「我その聲に從ひてイスラヘルを去らしむべき、我エホバを知らず、またイスラヘルを去らしめじ」と豪語したのである。この挑戦は却って豫言者モーセに対して次の如き慰めの言葉を囘想せしめたのである。「されどパロ汝に聽かざるべし。我すなはち吾手をエジプトの上に加へ、大いなる罪をほどこして吾軍隊わが民イスラヘルの子孫(しそん)をエジプトの國より出さん。我が手をエジプトの上に伸て、イスラヘルの子孫(ひとびと)をエジプト人の中(うち)より出す時には彼等我のエホバなるを知らん」(出埃及記五章二節。七章四、五節、アメリカ標準譯參照)聖書中に示されてゐるエジプトは今日の全世界の模型となっている。故に、エジプトに關する此等の記録により、豫言は、全世界の人々が唯一の生ける神とはエホバであることを學び知る時は間近に迫っている。そして、それは彼等が喜ばざる方法によってであることを示している。從って今我らは賢明な道を選びエホバとは誰であり、いかなる神であるかを学ぶべきである。
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1 「エホバとは誰か」ということが最初に問題となったのは何時か。しかしてどれ程の重要視をもってなされたか。
[20] 2 モーセはエジプトの王パロの前に立って、彼が神から受けた使命を説明した時に、まず最初に彼を其処へ派遣した神の聖名をたたへた。モーセは「主(The Lord)曰く云々」とは言はなかった。なぜならばパロやそのほかのエジプト人は偽りの神々を指して主と云ひ、これを崇拝していたからである。モーセは彼の国人達が囚はれているエジプトの国へ戻りし理由を彼らに説明した時にさへ彼はエジプトへ派遣された特別なる方を示すため神の聖名を語った。聖書は次のごとく示している。「神モーセにいひけるは、我は有りて在る者なり。叉いひたまひけるは、汝かくイスラヘルの子孫に言うべし。我有(われあり)(ヘブル語 Ehyenh)といふもの我をなんぢらに遣はしたまふと。神またモーセにいひたまひけるは汝かくイスラヘルの子孫にいふべし。なんぢの先祖たちの神アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神エホバわれを汝らに遣わしたまふと。これは永遠(とこしなへ)にわが名となり世々にわが誌(しるし)となるべし」(出埃及記三章十四、十五節、アメリカ標準譯參照)モーセと彼の兄アロンが初めてパロの前に立った後、「神モーセに語りて之にいひけるは我はエホバなり。我全能の神といひてアブラハム、イサク、ヤコブに顯はれたり。然(され)ど我名のエホバの事は彼等しらざりき」(出埃及記六章二、三節、アメリカ標準譯)とある。
3 もしも我らが神の聖言の書を讀むならば、我等は神の聖名に直面することを免れない。その名が正しくエホバと發言されなくともそれは問題ではない。實際に古代の聖書は大部分がヘブル語に拠って書かれ、僅かな部分がシリア語で書かれている。而してこれらの聖書に於いては神の名を表はすのにJod He Vau He(יהוה
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2 パロやイスラヘル人の前に於いてモーセは神を指して如何な名辭を用いたか。
3 ヘブル語聖書において、神の名は如何に現はれているか。何故七十人訳に於いて神の名が出ていないか。
[21] 叉はYHWH)の字が終始用いられている。この四つのヘブル語子音によって表現されている名は、ヘブル聖書中に於いて全部で六八二三囘*現はれている。ヘブル聖書の最初のギリシャ語聖書訳は大體紀元前二八五年かニ四七年の間になされたが、然しそれより以前からヘブル人はこの名を妄りに口にすることを迷信的に恐れて、其名を呼ぶことを止める様になっていた。故に彼等は神の名を讀み、それに行當たった時には、何時もアドナイ(Adonai 主)叉はエロヒム(Elohim 神)と呼んでいた。從って七十人訳(セプチ[:ュ]アジェント譯 Septuagint Version略号LXX)として知られる最初のギリシャ語訳の翻訳者たちはヘブルの習慣に従って神の名に代わる前記二つの語をギリシャ語に飜訳して用いたのである。
4 ギリシャ語聖書の記述者達は、全能の神の字義上の名を省略したこの七十人訳を用いた。從って何故にクリスチャン・ギリシャ語聖書に於いて、神の固有名詞が現れていないかがそれにより或程度説明出来るのである。これと同様に、ジェロム(Jerome)がラテン・ヴァルゲート訳(The Latin Vulgate Translation)を出した時、出埃及記六章三節においてエホバ(Jehovah)なる名称の代わりにアドナイ(Adonai)の名称を用いたのである。此故に英文ローマ・カトリック・ドウエイ譯(English Roman Catholic Douay Version)にその名が現れていないかが判明するのである。英文欽定譯(The Authorized or King James Version)には出埃及記六章三節、詩篇八三篇十八節、イザヤ書十二章二節、廿六章四節に於いて、「エホバ」の名が見られ、またロザ
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*Robt Gordis 著The Biblical Text in the Making 第三九章參照
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4 何故ギリシャ語聖書には「エホバ」の名が現はれていないのか。何故その名を用いた方が良いのか。
[22] ハム氏譯によるエンファサイズド・バイブル(The Emphasized Bible)においては、「ヤアウエ」(Yahweh)として六八二三囘現れている。然し、アメリカ標準譯(The American Standard Version)においては、すべて「エホバ」となっている。たとへ之等の發音の中どれも、神がモーセに示された發音そのままではないとしても、その名によってたれが指されているかは明瞭である。同様にイエスの名もヘブル語またはアラム語の本来の發音とは異なっているとはいへ、その近似的發音により誰を指すかを直ちに知り得る。而[:し]かもそれが彼に対して侮辱や冒瀆とはならないのである。
' 5 此處に一つの例を示すならば、カトリック・ドウエイ譯に於いて詩篇一〇九篇一、二節を「主(TheLord)わが主(myLord)にのたまふ。我なんぢの仇をなんぢの承足(しょうそく)とするまではわが右に座すべし。主(The'Lord)はなんぢの力の杖をシオンよりつきいださしめたまはん。汝はもろゝゝの仇の中に王となるべし[:あなたの敵のただ中で従えて行け!!新世訳!聖書を確認??!詩篇110:2!!]」と譯されているが、王ダビデのこの同じ歌をアメリカ標準譯においては、「エホバわが主(myLord)にのたまふ。我はなんぢの仇をなんぢの承足とするまではわが右に座すべし。エホバはなんぢのちからの杖(つえ)をシオンよりつきいださしめたまはん。汝はもろゝゝの仇のなかに王となるべし」と譯しているのである。斯くの如く、この後者の譯では忠實に神の名に正しき評價を與へ、あらゆる迷ひ。を退けている。此處にダビデが示している「わが主」とはエホバがメルキゼデクの法式にしたがって、王なる祭司として立てるメシヤ(Messiah)を指すのである。尚、英文欽定訳聖書に於いては神の名を飜譯するにあたって「主」(Lord)または「神」(God)に置き換え
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5 この名を用いる方が良いといふ一例を示せ。
[23] ているが、この場合は、「LORD」或は「GOD」のごとく全文字が大文字になっていて、一般的言葉の「主」(Lord)または「神」(God)と区別している。その例は詩篇一一〇篇一節(英文)の如くである。
'6 ヘブル聖書中の彼の名の出て来る個所を讀む時に、「エホバとは誰か」の質問に對する答えは明らかとなる。豫言者モーセは詩篇九十篇に於いて、「主よなんぢは往古より世々われらの居所(すみか)にてましませり。山いまだ生(なり)いでず、汝いまだ地と世界とをつくりたまはざりしとき永遠(とこしへ)よりとこしへまでなんぢは神なり。エホバよ歸りたまへ。かくていくそのときを歷(へ)たまふや。ねがはくば汝のしもべらに係(かかは)れるみこころを變(か)へたまへ」(詩篇九十篇一、二、十三篇[:誤植:節]'。アメリカ標準譯)それではエホバとは誰か。エホバとは始めなく終りなき永遠の神である。この神の永遠なることはイザヤ書五七章十五節に於いても明らかに示されている。「至高(いとたか)く至上(いとうへ)なる永遠にすめるもの、聖者となづくるもの如此(かく)いひたまふ。我はたかき所きよき所にすみ」。斯く神を永遠者として考へる時に、如何なる女性をも「神の母」と稱することは神に對する冒瀆である。何故なれば、女性は男性の協力者として創造されたものに過ぎないからである。
7 エホバは永遠に全宇宙の統治者である。凡ての尊貴と榮光は彼に歸せられるべきである。神よりの靈示を
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6 エホバとは誰であり、その存在はどれだけの期間か。
7 如何なる意味において彼は唯一の存在者であるか。
[24] 受けた記述者は之を明らかに示している。「願くは萬世の王即ちくちず、見えざる唯一の神に窮(かぎり)なく尊貴と榮光あらんことを」(テモテ前書一章十七節)。彼は永遠者であって滅びることがない。この意味において彼は唯一の存在者である。神の名、エホバは「自存叉は永遠」であると考へる人もある、ユダヤの学者であるアイ・リーザー(I.Leeser[:アイザック・リーサー])の譯せる聖書およびジェー[:ジェームズ]・モファット(J.Moffatt)の譯せる聖書中に於いてはヘブル語のエホバの名を英語の「永遠者」(The Eternal)と譯しているのである。
8 故に、曾[:かつ]てはエホバのみが宇宙に存在された事があった。生命も力も思考も凡てが彼の中に含まれていた。しかし、彼には孤獨感はあり得なかった。すなわち、彼は完全無缼であったからである。時至って、エホバは創造を開始された。この時に到って始めて彼は全創造物の神となったのである。故に創造に関する聖書の記録の冒頭に於いて彼を神として記述している。「元始に神天地を創造(つくり)たまへり」(創世記一章一節)エホバは創造の神であるが故に、「エホバ神」なる表現は至當であり、使用されているのである。この表現は、創造の記録の直ぐ次に表はれている。「エホバ神地と天をつくりたまへる日天地の創造られたるその由來は是なり」(創世記二章四、五、七、八、九、十五、十八、十九、廿一、廿二節、アメリカ標準譯參照)彼による最初の生者(いけるもの)は彼の如き靈者であった。「神は靈なれば拜する者も靈と眞とを以て之を拜すべきなり」。(ヨハネ傳四章二十四節)神は靈者である故に、エホバを人間の肉眼を以て見ることは現在も亦未来にても出来ないのである。彼はモー
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8 (イ)かつて神のみがあったことがあるか、何故「エホバ神」の名は適當であるか。(ロ)何故神は肉眼によっては絶對に見えないのか。
[25] セに斯く言っている。「汝わが面を見ることあたはず。我を見て生きる人あらざればなり」(出埃及記卅三章廿節)。偉大なる榮光の神を見るに肉眼は到底堪え得ぬのである。
9 彼は人の見ることのできない全智、全能の偉大なる靈者であるが、彼は彼の創造の偉業によって御自身の存在を人の前に明らかにされたのである。故に彼の神性即ち創造の神なることを否定する者は有罪の判決下におかれるのである。「それ人の見ることを得ざる神の永能(かぎりなきちから)と其神性(かみなること)とは造られたる物により創世より以来さとり得て明らかに見るべし。是故に人々惟諉(いひのがる)べきやうなし」(ロマ書一章廿節、ドウエイ譯參照)。彼の創造主としての榮光について靈示を受けた詩篇の記者は信仰を以て次の如く述べている。「わが靈魂よ、エホバをほめまつれ、わが神エホバよ、なんぢは至大にして尊貴(とほとき)と稜威(みいづ)を衣(き)たまえり。なんぢ光を衣のごとくまとひ、天を幕の如くはり、水のなかにおのれの殿(との)の棟梁(うつばり)とをおき、雲をおのれの車となし、風の翼にのりあるき、使(つかひ)たちを靈となし、焔(ほのほ)のいづる光を僕となしたまふ」(詩篇一〇四篇一ー四節。ヘブル書一章七、十四節)。
10 創造主としてのエホバは凡ての生命、力、良きことの泉であり、彼の仕事は完全である。彼に就いてモーセは次の如く歌っている。「われはエホバの御名(みな)を頌揚(たたえあげ)ん。我らの神に栄光を歸せよ。エホバは岩にましましてその御行爲(みわざ)は全くその道はみな正し。また眞實(まこと)ある神にましまして悪しきところなし。只正しくして直くい
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9 如何にして彼は御自身を人間に知らしめたか。神は使たちを何にしたか。
10 神の御技は如何?又救は誰によりてか?
[26] ます」(申命記卅二章三、四節、アメリカ標準譯)。叉彼こそ「凡の善賜(よきたまもの)と全き賜物はみな上より諸(もろもろ)の光明の父より降るなり。父は變こと無、また轉動て顯はるる影もなき者なり」。(ヤコブ書一章十七節)と記されたるものである。故に神はこの宇宙に悪魔を與えたのではない。なぜなら神はその様な悪しき物を決して創造されなかった。それどころか神は悪魔がもたらした罪悪、束縛、悲哀及び死等の不幸より人類を救ひ出す爲の凡ゆる手段、準備の與へ主である。この故に「救はエホバにあり。ねがはくば恩恵なんぢの民の上に在らんことを。」(詩篇三篇八節、アメリカ標準譯參照)と記されているのである。
11 神エホバは天にある聖にして有能なる被造物を御自身の許に一致、和合せる組織とし、御自身の聖意を實行せんとされたのである。凡ての善き天使の霊者は斯く整然と體制を整えられたことにより、上なる神の宇宙的組織制度を構成したのである。彼等の総ては生命の泉なる神から生命を受けた神の子であった。完全なる男女が此の地上に創造され、エデンの園に於いて神の御命令を實行せんとした時に、彼等は卽ち神の宇宙的組織制度の目に見ゆる部分として創造されたのである。彼等は地上的な被造物であった。この故にアダムは當時の「神の子」と呼ばれたのである。(ルカ伝三章卅八節)アダムとエバがエホバの至上権に對して叛逆した時、彼等はエホバの宇宙的組織制度に於ける神の子達としての立場を失ったのである。
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11 彼は如何にして宇宙的組織制度を確立されたか。
[27]12 聖にして忠信なる被造物の創造者であり頭なるものとしてエホバは全宇宙の支配權を執行し給ふのである。此處で今日、全世界に投げられた重大な問題は、誰が最高至上者か、この宇宙に於いて實際に支配權を有し、叉は有する資格ある者は誰かと云ふことである。エホバの根本目的はこの問題を解決することである。それは彼の宇宙の支配權を明白にすることを意味する。共謀して彼に叛逆せんとする者に対して彼の最高の統治權を明白に立証する爲の祈が詩篇八三篇十七、十八節に記録されている。「かれらをとこしへに恥おそれしめ、あはてまどひて亡びうせしめたまへ。然ばかれらはエホバとゆう名をもちたまふ汝のみ全地をしろしめすし至高者(いとたかきもの)なることを知るべし」。今後如何に否定するものがあらうとも神が最高權威者なることは明確に立証されるのである。
13 斯くエホバが天及び地上に於ける總ての敵を撃滅一掃することに依って、彼の宇宙的支配權を證明する時、彼は再び總ての生ける被造物の偉大なる神政者卽ち神權政府の支配者となるのである。彼の神權政府は住家[:すみか]なる宇宙の總てを治めるのである。あらゆる所に於いて、神權政府の法律は守られるのである。斯くして過去六千年の人類の歷史を貫いて來た神に對する長い叛逆はもはや許されなくなる。卽ち神エホバは惡しき敵卽ち惡魔と人類による僞りの罪名、非難、跳戰に対し唯一度そして永久に彼(神)の至上權と聖名を立證し給ふのである。エホバは至上者であり、全能者である。神は神權政府において、神權政府の王とせしめ給ふ彼の
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12 今日大きな問題となっていることは何であり、それは如何に解決されるか。
13 如何にして全宇宙に神權政治が再現するか。
[28]天的子と共に「上に在る權」を構成し給ふ。凡ての生ける者は之に服従しなければならないのである。この事は、神エホバが定め給ふたのである。(ロマ書十三章一、二節)
14 かの天的子は彼の追随者達に斯く祈るように教へられたのである。「天に在ます我等の父よ、願くは御名を崇(あが)めさせ給へ。御國を來させ給へ。御こころの天に成るごとく地にも成(なら)せ給へ」(マタイ傳六章九、十節)。此處に於いて、彼はエホバの聖名と御國に就いて言及されたのである。究極に於いて、天地全宇宙の中に永遠の生存權を受け得る凡ての被造物によって神の聖名は必ず崇められなければならない。神エホバの聖名が神聖であり、崇めらるるに適はしきことを立證する方法は、近き未来に於いてその敵に對し、ハルマゲドンの戰をなすメシヤによる王國である。如何なる叛逆、偶像崇拜または人爲的組織も神の榮光を奪い取ることは出来ない。彼は斯く云っていられる。「われはエホバなり。是わが名なり。我は榮光をほかの者にあたへず。わがほまれを偶像にあたへざるなり」(イザヤ書四二章八節、アメリカ標準譯)
15 「エホバ」といふ聖名はヘブル語の動詞であり、之の文字上の意味は「彼は在らしむ[:現行訳「彼はならせる」He,Will,Be(Become)~~]」であり、卽ち、ある目的の爲にあるといふことである。神は豫言者モーセに特別な方法でその聖名を知らしめ給ふたが、更に
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14 誰の名が如何にして崇めらるべきか。
15 神の名の意義は何か。而して何を表象するか。またそれに關する彼の目的とは何か。
[29]その時神は當時のエジプトに奴隷となっていた神の選民に關して御自身の目的を示すと共に聖名を示された。斯の如く文字上の意義以外に神の聖名「エホバ」はその創造物に對する目的を表象しているのである。(出埃及記三章十五-二十一節。六章二-八節、アメリカ標準譯)聖書中至る所にエホバは只に彼の恩寵をうけている人々のみならず、他の總ての人々をも彼がエホバであることを知らしめんとする御目的を示されているのである。豫言の書であるエゼキエル書の中だけで彼がエホバであることを凡ての人々に知らしめんとする御目的が六十囘以上も繰返されているのである。(出埃及記六章七節。エゼキエル書六章七、十、十三、十四節、アメリカ標準譯)故に神の偉大なる目的中、最も重要なことは長年に亘り非難され、誤解されし聖名を正しく證明することである。人々に對する救よりも彼の聖名が證明されることの方が重要なのである。
16 然らば何故この全能の神は、叛逆者の元兇とその配下の存在を許し、且つ彼等をして邪悪なる行爲をハルマゲドンの戰に至るまで恣(ほしいまま)にすることを許しているのであらうか。之に対する簡明な説明は頑迷なるエジプトの王パロに対する神の聖言に見て明らかである。「我此度わが諸(もろもろ)の災害を汝の心となんぢの臣下及びなんぢの民に降し全地に我が如き者なきことを汝に知らしめん。我もし我が手を伸べ疫病をもって汝となんぢの民を撃(う)ちたらば汝は地より絶たれしならん。抑(そもそも)我が汝を立てたるは卽ちなんぢをして我が権能を見させしめわが名を全地に傳へんためなり」(出埃及記九章十四-十六節、モーファット訳、アメリカ訳、リーサー訳)此處で
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16 何故全能の神は彼に対する大叛逆者とその配下の悪しき者の活動をハルマゲドン迄許しておかれるのか。
[30]エホバは敵対者の全部が撃滅一掃される以前に御自身の聖名を全地に宣明する爲御自身の證者達を出現せしめられる聖意を明らかにされたのである。彼の證者の指揮者は神権政府において王卽ちメシヤとして任命されるものである。而して、聖書全巻を通じて述べられている證者の長(おさ)並びに彼に從ふ證者達に関しては以下の各章に述べられている。
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