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オーストラリアであった事です。二十八歳の看護婦が試験勉強をし過ぎて神経衰弱になり、神経科の医師の治療を受けましたが、いっこうによくなりませんでした。彼女は自殺すると言い出し、医師も回復の見込みがないことを認めました。不治の病気にかかった人として扶助科の支給を受ける手続きがすすめられました。両親は娘の病気の回復を願って手をつくしましたが、そのかいがなかったのです。
なかばあきらめた父親は、娘が聖書を教わることを許しました。二、三回勉強しただけで、病気は目に見えてよくなり、父親、友人、親類もその回復ぶりにびっくりしました。彼女が急速に全快したのを見た医師の驚きは、なおさら大きなものです。どうして全快したのかと問われて、彼女は簡単にこう答えました。「新しい世のことを学んだので生きる希望が持てました」。たしかに聖書は希望を与える本です。
おかしなことにギリシャなどの偉人には希望を幻影と考えた人がいました。エスキラスによれば、希望は「流罪人の食物」であり、ユリピデーズは希望を「人間ののろい」と呼びました。しかし聖書はそれと正反対のことを述べており、希望を称揚し、希望を信仰および愛とならべています。(コリント前、一三ノ
一三)聖書は希望を称揚するにとどまらず、「望みにあふれ」「望みをいだいて喜び………なさい」と、クリスチャンにすすめています。また聖書によれば、希望は「たましいを安全にし不動にする錨」です。--ロマ、一五ノ一三。一二ノ一二。ヘブル、六ノ一九、新口。
健全な生活を送るうえに、希望は欠くことのできないものです。最近の医学によっても認められているこの事実は、昔から聖書に書かれていました。精神病医カール・メニンジャーは、希望の必要性を説いても笑って聞こうとしない精神病患者がいることを述べたあとで、こうつけ加えました、「その人々が精神病になった一つの原因は、こんなところにある」。
聖書は全能者であり、希望を与える神のお約束をしるした本です。それで聖書を学ぶ人は希望を得ます。使徒パウロはロマ人に宛てた手紙の中でこのことを明白に述べています。「これまでに書かれた事がらは、すべてわたしたちの教えのために書かれたのであって、それは聖書の与える忍耐と慰めとによって、望みをいだかせるためである」。(ロマ、一五ノ四、一三、新口)罪ゆえに弱さを持ち、先祖と同じく堕落している人間に対して、聖書は永遠の生命の希望をさしのべています。「偽りのない神が永遠の昔に約束された永遠のいのちの望み」について、テトス書一章二節は述べ、使徒ヨハネも「これが、彼自らわたしたちに約束された約束であって、すなわち、永遠のいのちである」と書きました。(ヨハネ第一、二ノ二五、新口)永遠の生命は、イエス・キリストが人類に得させる豊かな生命です。(ヨハネ、一〇ノ一〇)このように大
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きな、そして真実の希望を、聖書以外に見出すことはできません。
聖書に約束されたこの豊かな生命は、神の作る新しい世において享けるものです。それは矛盾に満ちたこの世界、核戦争による破滅の危険にさらされ、病気と死を免れず、悪も増し加わるこの世界で享けるものではありません。使徒ペテロはこの希望を次のように書いています、「わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいる」。(ペテロ後、三ノ一三、新口)使徒ヨハネは、この新しい世において享ける祝福を描いてこうしるしました、「見よ、神の天幕が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」(黙示、二一ノ二-四、新口)なんとすばらしい希望ではありませんか!病気も悲しみも死もない世界に住むことを、考えてごらんなさい。オーストラリヤの看護婦が、この希望を知って、健全な精神をとり戻したのも、不思議ではありません。この約束は神から出たもの、従って、たしかなものです。「これらの言葉は、信ずべきであり、まことである」--黙示、二一ノ五、新口。列王上、八ノ五六。ヘブル、一〇ノ二三。
神の約束した新しい世を治めるのは、イエス・キリストです。この事実もまた希望を抱かせます。「異邦人は彼に望みをおくであろう」と、パウロは書きました。(ロマ、一五ノ一二、新口。テモテ前一ノ一)イエスに希望をおくのはなぜですか。パウロは次のように答えています、「この望みは、わたしたちにとって、いわば、たましいを安全にし不動にする錨であり、かつ『幕ノ内』にはいり行かせるものである。その幕の内に、イエスは、永遠にメルキゼデクに等しい大祭司として、わたしたちのためにさきがけとなって、はいられたのである」。(ヘブル、六ノ一九、二〇、新口)イエスは地上において人々のために、多くのすばらしいわざをしました。イエスは「あらゆる病気、あらゆるわざわいをおいやしになった」のです。(マタイ、九ノ三五、新口)イエスのいやしによって、盲人の目は見、つんぼの耳は聞き、おしの口は語りました。イエスは足なえをいやし、死人をよみがえらせることさえしました。地上におけるイエスのわざは、イエス・キリストによる神の国の下で新しい世に住む人々が受ける祝福を表わしています。
今日、病気に苦しむ人、耳の聞こえない人、口のきけない人、歩けない人にとって、これが何を意味するかを考えてごらんなさい、その人々にとってイエスはいまでも唯一の希望です。聖書から見てその事は明らかです。しいたげられている人々はどうですか。圧制者は砕かれ、打ちひしがれた人々は慰めを得ると約束されています。友を求めている人々は、聖書の福音を受け入れるとき、友を得るでしょう。イエスは、追随者が「百倍を受ける、すなわち、今この時代では家、兄弟、姉妹、母、子および畑を迫害と共に受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受ける」ことを保障しました。--マルコ、一〇ノ三〇、新口。詩、七二ノ四。
聖書によれば死者にはどんな希望がありますか。復活の希望があります。神は、死者がよみがえって楽園の地に生きることを約束されました。イエスのかたわらで杭につけられた男に、イエスは言われました、「なんじ我と偕にパラダイスにあるべし」これは地上によみがえる希望です。(ルカ、二三ノ四三、コリント前、一五ノ二二)たしかにこれはすばらしい希望です。--使行、二六ノ六-八。
聖書から見ても悪しき者には希望がありません。悪人は滅びうせます。(詩、九ノ一七。六八ノ二)しかし神を愛し、神のみ心を知って行おうとする人はだれでも、聖書から希望を得ます。聖書を学び、聖書のさしのべる希望すなわち「たましいを安全にし不動にする錨」を持つことは、きわめて大切です。
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神から授かった資産を用いる
「汝の貨財(たから)………をもてエホバをあがめよ」。ー箴言3:9
真理は人間の最も貴重な資産です。事実、それははかり知れぬ価値をもつ宝です。真理が神から出ている以上、それは神から与えられた宝です。賢明な人は今日、真理によって導かれて、永遠の生命に通ずる道を歩んでいます。真理を知る知識をもつなら、不幸な世界のただ中にいても、しあわせを得られます。資産と言えばすぐに金、お金、物質の持ち物などが頭にうかぶでしょう。しかしお金では、しあわせや心の平和、永遠の生命を買えません。ですからほんとうに真理を知っている人間はみな、神から授けられたこの貴重な資産を用いるので、真理の授与者なるエホバに感謝しています。ー詩、一〇五ノ一、二。
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1真理が金よりも貴重なのはなぜですか。
2 人は、神との関係について真理を学ぶことによって、神が与えてくださった多くの良きものに感謝するようになります。金持ちや資産家でなくても、自分の命が神から授けられたすばらしい資産であることを認めます。そしてもしその命を用いて神の祝福を得ることができるなら、その人はきわめて富んだ者になるでしょう。「エホバの祝福(めぐみ)は人を富ます、人の労工(ほねおり)はこれに加ふるところなし」。(箴言一〇ノニニ)人のもつ金や家は、ほかの人間や政府によって容易に取り上げられることがありますが、エホバが祝福をお与えになる場合は、だれもそれを取り去ることはできません。人間はエホバ神の祝福を得て、自分個人の資産あるいは資力を用いて成功できます。
3 神は人間が神と一致して生活することを望んでおられます。エホバとの関係をよく認識ている人々はそうします。私たちの中で自分のためだけに生きるものはない……私たちはエホバのために生きる……私たちはエホバのものである」。(ロマ、一四ノ七-九、新世)しかしエホバ神はだれをも強制されません。神は奉仕に献身する特権を悟る機会をお与えになるのです。だから人は、エホバへの奉仕にすべてをささげられたイエスの模範に従って、自分の命を他の人の祝福となるように用いられるのです。いま神に献身し、従順に神の御心を行なう者は、その生命が永遠の生命へ延長されることを保証されます。「義(ただ)しき道には生命(いのち)あり、その道すじには死なし」。ー箴言一二ノ二八。
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2人がその資産を最も有効に用いるには何が必要ですか。
3エホバとの関係を認識する人は何をしますか。
4 神が御言葉の中で明らかにされている生活のための正しい標準は、人の体力を保護します。エホバの戒めは人間を守る防御物となります。ですから人間は、この世と共に無価値なものを追い求めたり、泥酔や、大食や、暴力行為、はてはみだらな生活に精力を浪費しなくてすみます。また、真理を通して神から授けられた知恵に導かれて、二十世紀のスリルを追い求める人がよくぶつかる危険を避けることができます。人は誇りとか個人的な満足に動かされて最高峰の登頂を試みたり、もの凄い速度で旅行したり、激しい運動競技や拳銃による決闘、けんかなどで命を危険にさらします。でも神は、この終りの時代を一般に行なわれているようなことのためにむげに捨てるために人間に命をお与えになったのではありません。神の真理の宣明は、あらゆる人々が、自分の命をどのように使うべきかを悟る助けになっています。使徒ペテロは、真理を学ぶ者の生活に、どのような変化が起こるかを次のように示しています。「過ぎ去った時代には、あなたがたは、異邦人の好みにまかせて、好色、欲情、酔酒、宴楽、暴飲、気ままな偶像礼拝などにふけってきたが、もうそ
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4,5(イ)エホバの戒めを知ることは、特にこの二十世紀において、どのように人の資産の保護になりますか。(ロ)イエスの模範は、神から与えられた命を用いることにおいて良識が必要なことをどのように示していますか。
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れで十分であろう。………万物の終りが近づいている。だから、心を確かにし、身を慎んで、努めて祈りなさい」。ーペテロ前。四ノ三ー七、新口。
5 イエス・キリストは、命を、神から授かった重要な資産として尊重されました。悪魔はイエスに、つまらないことに命をかけさせようとしました。「それから悪魔は、イエスを聖なる都につれて行き、宮の頂上に立たせて言った、『もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。「神はあなたのために御使いたちにお命じになると、あなたの足が石にうちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう」と書いてありますから』。イエスは彼に言われた、『「主[エホバ=新世]なるあなたの神を試みてはならない」とまた書いてある』」。(マタイ、四ノ五」-七、新口)神のみこころを無視して命を使う必要がどこにありますか。イエスは、献身したエホバのしもべとして、神のみこころにしたがって命を用いる良識をもっておられました。そして私たちの従うべき模範を残されました。生命は神が人間に賜わった贈り物の一つであり、神からのものです。ですから、イエスご自身が述べられた「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」という原則にしたがって、神への奉仕に用いるのが、唯一の正しい命の用いかたです。ーマタイ、ニニノニ一、新口。
時間の使い方
6 この世のつまらないものを追い求めることは、体力と精力の浪費になるばかりでなく、もう一つの資産、つまり時間の浪費になります。パウロは、諸国民の恥ずべき行いを指摘した後、時間を大切にし、この資産を上手に使わねばならぬ理由を述べています。「そこで、あなたがたの歩きかたによく注意して、賢くない者のようにではなく、賢い者のように歩き、いまの時を生かして用いなさい。今は悪い時なのである」。「それゆえに無分別になることをやめ、エホバの御心が何であるかを常に悟りなさい」。(エペソ、五ノ一五ー一七、新口、新世)今日、世界の諸国民は、あくなき快楽の追求によって時間を浪費し、エホバの御旨がなんであるかを悟りつづけることの益を無視しています。時間を浪費することによって彼らはまた、命そのものを失う部類にはいっています。また、ただ怠惰なために時間を浪費し、どんな責任をも果たそうとしない人がいます。その種の人は、それに気づいていようがいまいが、貴重な資産を奪われているのです。賢者はかつてこう書きました。「わたしはなまけものの畑のそばと、知恵のない人のぶどう畑のそばを通ってみたが、いばらが一面に生え、あざみがその地面をおおい、その石垣はくずれていた。わたしはこれをみて心をとどめ、これを見て教訓を得た。『しばらく眠り、しばらくまどろみ、手をこまぬいて、またしばらく休む』それゆえに、貧しさは盗びとのように、あなたに来、乏しさは、つわもののようにあなたに来る」。ー箴言二四ノ三〇ー三四、新口。
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6(イ)現在時間が非常に貴重なのはなぜですか。(ロ)怠惰はどのように盗人になりますか。
7 時間を有効に使うには訓練がいることを神の御言葉は強調しています。「常に御霊にみたされ、神への詩と賛美と歌とをもって語り合い、またエホバにむかって心より歌い、かつ賛美しなさい。主イエス・キリストの名によって、すべての事につき、私たちの父なる神に感謝しなさい」。(エペソ、五ノ一五、二〇、新世)献身したクリスチャンの時間は、神のことを行うのにささげられています。それには神の御言葉についての知識をとり入れること、それをほかの人たちに話すこと、同じく神に献身した人々と定期的に交わること、賛美と感謝を神に公にささげる組織された活動に参加することなどが含まれています。働く者は雇主に対しての義務を果たさなければなりませんが、一日のうちにはほかの時間もあります。若い人たちは一日学校にいるわけではありません。それで神のしもべたちはどこにいても、例えば出勤の途中や学校にいく途中、昼休みのとき、くつろぐ時間や娯楽を楽しむ時などに自分の時間を話すことに使います。これは、一般の家々で定期的な神権活動を行うためにはっきりと決めてある時間に加えて行うものです。そういうわけでクリスチャンは、いろいろな時に、神から与えられたもう一つの資産である話す力、すな
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7貴重な時間をどのように有益に使うことができますか。
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わちエホバの賛美に用いられている神からのすばらしい贈り物を使います。ー詩、七一ノ二四。
影響力と力
8 富んでいる人であろうと貧しい人であろうとだれもが持っている資産の中に、他人の生活におよぼす影響力があります。使徒パウロのような人と交わって有益な影響を受けないということはまずありません。パウロはローマ人に対して次のような意見を述べています。「わたしは、あなたがたに会うことを熱望している。あなたがたに霊の賜物を幾分でも分け与えて、力づけたいからである。それは、あなたがたの中にいて、あなたがたと私とのお互いの信仰によって、共に励まし合うためにほかならない」。(ロマ、一ノ一一、一二、新口)今日、人間はどこに行ってもよい影響力を発揮するように、神は望まれています。クリスチャンも職場では汚い言葉を使ったり悪い考えをもつ人と一緒に働かねばならないかも知れません。しかしそうした悪いことに加わらないでクリスチャンとしての立場を守り、良いことを語るなら、必ず良い影響を与えます。クリスチャンの子供も、学校で、また、遊ぶときに良い影響力を与えねばなりません。賢明な父親は、神の真理を守るように導いて、家族に良い影響力を与えます。クリスチャンの母親は、父親が子供たちの生活に影響をおよぼすのを助け[し:誤植??!]ます。(箴言、二二ノ六。テモテ後、一ノ五)会衆内ではクリスチャンが熱心であり、助言や指示をすぐに適用し、会衆の活動のすべてを支持するようほかの人を励ますなら、良い影響力を与えます。またクリスチャンは立派に勤めを果たす監督を尊敬し、監督と心を合わせて働きます。ーテモテ前、五ノ一七。
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8個人的な交わりにおいて、影響力はどのようにすばらしい資産となりますか。
9 他の人の益のために用いられるなら、力と権力は神の授けられた資産です。この世のいわゆる強い者とは、たいてい人々を圧迫するために権力と力を使う独裁者のことですが、これは全能の神が人間に望んでおられることではありません。全能者であられるエホバは、忍耐と寛容の正しい模範を示しておられます。人間がその模範に従い、神のみこころに沿って権力を行使し、創造主に奉仕するのは良いことです。不完全な人間は長所と短所を持つと言われています。神の御言葉は、長所を用いるのも平衡を保ち、短所を抑制するように戒めています。「あなたは義に過ぎてはならない。また愚かであってはならない。あなたはどうして自分の時のこないのに、死んでよいであろうか。あなたがこれを執るのはよい、また彼から手を引いてはならない。神をかしこむ者は、このすべてからのがれ出るのである」。」ー伝道の書七ノ一六ー一八、新口。
10 知識と知恵を求めるのはよいことです。しかし知識と知恵を得るにつれて、高慢になったりうぬぼれて自分自身を傷つけないためには平衡が必要です。さもなければ人の間違いを見て、すぐに酷評するような人になるかもしれません。これは脱落のきっかけになることがあります。なぜならその人は、周囲の人々に対する愛と尊敬を失いはじめているからです。その人は、自分が批評している人のとは違った欠点を自分も持っていることを忘れるのです。イエスは警告されました。「人をさばくな。自分がさばかれないためである」。(マタイ、七ノ一、五、新口)神の御言葉の真理は、力と権力を正しく用いるための導きです。
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9,10(イ)力と権力を用いることにおいてエホバはどんな模範を示しておられますか。(ロ)伝道の書七章一六-一八節は、どんなことに平衡を保つ必要を示していますか。
11 健康にめぐまれた人はしあわせです。そういう人は、体力を創造主の賛美のために用い、その資産を与えられたことを神に感謝しなければなりません。(伝道の書一二ノ一)神のしもべたちは、完全な健康を期待してはいません。しかし、自分の資産を神の賛美に用いることができるように、適当な健康を保つよう努力します。アダムの子孫である人間は罪人です。ですから年をとるにつれてからだは弱くなり、いろいろな痛みが増します。ここで人の良識が試験されます。したいと思うことが全部はできなくて
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11円熟したクリスチャンは健康についてどんな見方をしますか。
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も、ヨブのことを思い起こして、いらいらする代わりに楽観的になり、すこしでもできることがあるのを喜ぶべきです。自分の健康に何が良いかは、各自が決めるべき事柄です。食べること飲むことについて他人を裁くべきではありません。(ロマ、一四ノ三、四)エホバのしもべが考えねばならぬ重要なことは神の御国です。「神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである」。(ロマ、一四ノ一七、新口)クリスチャンの集会や大会に出席することを犠牲にしたり、良いたよりの伝道を怠るほどいろいろなことにこったり、食物や新鮮な空気に神経を使い過ぎると、ついには忠実を失うことになるかも知れません。治療や、食餌療法やビタミンのことばかり話さずに、クリスチャンは、絶えず神の御国という大きな問題を心にとめて、話すのにも考えるのにも、ロマ書十四章十九節のパウロの助言に従わねばなりません。「こういうわけで、平和に役立つことや、互いの徳を高めることを、追い求めようではないか」。こういう態度は、会衆内のすべての人の精神の健康を保つのにあずかって力があります。精神の健康は肉体の健康よりも大切なものです。
伝道
12 クリスチャンは、自分に対する神のご要求の中に、戸別伝道という仕事が含まれていることに感謝すべきです。戸別伝道をすれば必要な運動にもなり新鮮な空気も吸えます。すわったままの生活をすることがますます多くなっている現代の人々には、こういうことが非常に欠けています。クリスチャンは、知恵を使ってこの世の害の多い行いを避ける生活をして健康と力を保ちます。どの程度の健康であってもそれは神の御国の良いたよりの伝道に用いる資産です。ーマタイ、一〇ノ七、一二。コリント前、六ノ九、一〇。
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12御国奉仕は健康の面でもどのように人の益になりますか。
13 生まれつきの才能や素質はすばらしい神のたまものです。ある人は美術や音楽の才能があります。別の人は機敏な精神、強健なからだを持っていて、特殊の活動に自分を訓練できます。生まれつきの能力は当然のことと考えるべきではありません。それは、神を賛美するのに用いるよう、神から委託されたものであり、仲間のクリスチャンの益になり、会衆や組織を強化するものです。御国会館でもエホバの証者の大会でも、たえず仕事があります。エホバのほまれのために、またエホバのしもべのしあわせのために生来の才能を用いる以上によい用いかたがあるでしょうか。この世の人は、生まれつきの才能をもっていると高慢になります。しかし自分と完全な人間キリスト・イエスとを比較するけんそんなクリスチャンは、医師であろうと、弁護士であろうと、技師であろうと農夫であろうと、芸術家であろうと、機械工であろうと、自分の才能を神のみわざの発展のために用いる方法を見出します。そうすることはクリスチャンの献身の一部です。神の関心事の発展のために、生来の才能を惜しんで用いてはなりません。ー出エジプト、三五ノ三〇ー三五。
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13生まれつきの才能や素質を持っている場合、どうすればその資産を最も有効に用いられますか。
14 知識、理性力、神のみ言葉や神の定められた原則の意味を理解するに敏であること--こうしたことはみな、自分のためにも他の人のためにも有益です。神の御目的を研究するための研究集会に定期的に出席する勤勉な人がみな、知識と理性の力を増し加えることは確かです。しかし学んだ事柄の価値は、それがどのように用いられるかによって判断されねばなりません。パウロはテモテ後書二章一、ニ節で、テモテにそのことを印象づけています。「そこで、わたしの子よ。あなたはキリスト・イエスにある恵みによって、強くなりなさい。そして、あなたが多くの証人の前でわたしから聞いたことを、さらにほかの者たちにも教えることのできるような忠実な人々に、ゆだねなさい」。そして、得た知識を、利己的な気持ちを持たずに用いることは、大きな喜びであり楽しみです。
15 以上あげた資産は、所得や財産よりも貴重なものです。世間の金持ちの間では往々にして所
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14 知識と理性力が豊かになるなら何をすべきですか。
15,16(イ)所得や財産はどのように負担になることがありますか。(ロ)クリスチャンに財産がある場合、それらをどのように有効に用いることができますか。(ハ)家、機械その他の道具は、神から授かった資産としてどのようにその持ち主への祝福となりますか。
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得が資産というよりもむしろ負担になっているように思われます。しかしこのことは、イエスがマタイ伝、十九章二十四節で、「またあなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方がもっとやさしい」と、言われていることを考えると、別に驚くべきことではありません。では所得や財産のある人はみな神の御国にはいれないということですか。イエスの言葉から、「では、だれが救われることができるのだろうか」という質問が生じました。イエスは答えられました。「人にはそれができないが、神には何でもできない事はない」。(マタイ、一九ノ二五、二六、新口)永遠の命を得るには何をしなければなりませんか、と若い男が尋ねました。彼は神のおきてすべて守っていましたが、一つのことが欠けていました。貧しい人たちが真理を学ぶのを助けるエホバのわざに、自分のすべてをささげることを望まなかったのです。そこで彼は、多くの持ち物のゆえに悲しみながら去りました。世間では、富んでいる人の多くは尊大になって、だれのやっかいにもならないという気持ちが強く、人からほめそやされるのを好むものですが、そうかといって、真理を学んで、神への奉仕に資産をささげられる富んだ人がひとりもいないという意味ではありません。いく人かの富んだ人たちがクリスチャンになったのは明らかです。なぜならパウロがテモテにつぎのように告げているからです。「この世で富んでいる者たちに、命じなさい。高慢にならず、たよりにならない富に望みをおかず、むしろ、わたしたちにすべての物を豊かに備えて楽しませて下さる神に、のぞみをおくように、また良い行いをし、良いわざに富み、惜しみなく施し、人に分け与えることを喜びこうして、真のいのちを得るために、未来に備えてよい土台を自分のために築き上げるように命じなさい」。ーテモテ前、六ノ一七ー一九、新口。
16 富んだ人に対するこの助言は、物質の持ち物に対する神の見方をあらわしています。あなたの持ち物はすべて、その多少にかかわらず、良いわざをするために使わなければなりません。そして惜しみなく施し、分け与えなければなりません。パウロは、自分が捕らえられ、迫害された時に、ピリピのクリスチャンたちが支持してくれたことをほめています。(ピリピ、四ノ一四、一六)伝道活動を発展させるために資金を用いることは、初期クリスチャンの時代から行なわれていることです。(コリント後、一一ノ八、九)現代においては、全世界で、クリスチャンが集会を開いたり教訓を得るための何千という御国会館が建てられていますが、このことは、神のみわざの全般的な発展のために、クリスチャンたちのグループが、どのように物質の資産を用いうるかを示すものです。家は、大きくても小さくても、聖書研究の集会に用いられます。また、エホバの証者の新世社会の旅行する代表者たちを泊めることにも用いられています。彼らは親切なもてなしを受け、食事が準備されます。自動車、ボートその他の乗り物も、良いたよりを広めるのに用いられます。いろいろな種類の機械や道具は必要に応じて使うことができます。エホバの制度をとおして全時間奉仕者たちが送り出されます。また宣教者の活動が行なわれています。神から授かった資産を、全世界にわたる真の崇拝の支持のために心を合わせて用いることはエホバ神の祝福を受けています。ーコリント前、ニ九ノ一ー九、一四ー一六。
神から授かった資産を用いる益
17 自分の資産を神への奉仕に十分に活用することから、人はどんな益を得ますか。正しい見方をもって、正しくこれらの資産を用いるとき人はクリスチャンとして円熟します。クリスチャンとして円熟すれば、それにともなって多くの特権への門が開かれます。神の組織は全世界にわたって急速に拡大していて、円熟した資格のある人々が、組織内の監督として多数必要となっています。新しい会衆が毎日のように作られています。一九六二奉仕年度中エホバの証者は六〇九の新しい会衆を作りました。献身した男子は監督にあたり、献身した女子もその分を果たしました。彼らは献身の真の意味をよく理解して、自分の才能を駆使(くし)しました。これは神に喜ばれることです。だれにせよ、良いこ
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17どんなものであろうと、自分のもっている神から授かった資産を正しく用いることから、どんな個人的な益が得られますか。
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とをするのにためらう必要があるでしょうか。最善のものを古い世に与えて、新世社会の方を惜しみ支持するなど、なんと愚かなことでしょう。物質は生かして用いることができます。家族が神のわざのために少しの物を犠牲にするなら、それによって家族のなかのひとりかそれ以上の者が、毎日良いたよりを伝道するという特権にあずかることができます。またある人たちは、家を離れ、必要の大きな場所に行って宣教の仕事をするための態勢をととのえるでしょう。物質的にわざを支持するのも良いことです。しかし、神から授かった個人的資産を用いて自分自身伝道に参加することは、御国宣明のこの最後の時代において最も大きなことです。「収穫は多いが、働き人が少ない。だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」。(マタイ、九ノ三七、三八、新口)神が与えてくださった多くの資源を考えて下さい。あなたが物質の富を持っていてもいなくても、時間、影響力、力、権力、健康、生来の才能、素質、理性力、知識、話す力、命そのもののほうがはるかに貴重であることを忘れないようにしましょう。いまその資産を、神の御心に一致して十分に用いているなら、あなたは最も賢明な投資をしているのです。エホバはあなたのその資産に加えて永遠の生命を与えることを約束されています。しかもエホバは約束を必ず守られるかたです。」ーマルコ、一〇ノ二九、三〇。
[研究記事の終り。]
下は別の記事。
喜んで与えることはさいわい
喜んで与えることは、今日、キリスト教国において余り行なわれていません。聖書によれば、神は喜んで与える人、惜しむことなく、心から進んで与える人を祝福します。では教会の資金集めについては何が言えますか。
教会主催のビンゴゲーム、富くじ、名前と金額をしるすようになった寄付袋をどう思われますか。寄付盆を回したり、小額の寄付をする人には気まずい思いをさせ、無理をしてまでも多くの額を出すように仕向けるのは、よいことですか。リーダース・ダイジェスト一九六三年二月号(英文)に次のことが出ていました。「フランスのある小村で、牧師はちょうを捕らえる網を寄付箱にして日曜日のさい銭のあがりをふやした。硬貨は網の目から落ちてしまう。紙幣でなければ網の目にかからない」。
このような方法は喜んで与える気持ちをおこさせ、祝福に導くものですか。そうではありません。喜んで自発的に与える気持ちはおさえられ、与える喜びも失われてしまうでしょう。クリスチャンは与えることから大きな喜びを得るはずです。使徒パウロは、初期クリスチャンと会衆の古い人に次のさとしを与えました、「『受けるよりは与える方が、さいわいである』と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを、万事について教え示したのである」。(使行、二〇ノ三五、新口)しかし受け取る人の思惑を気にして仕方なく与えるときには、喜びがありません。また威信を高めるために多額の寄付をする人は、自分の求める報い、すなわち人からのほまれを得るだけで、イエスの語ったさいわいを得ません。(マタイ、六ノ一ー四)今日では仕方なく出すことが多くなっていますが、昔はそうではなかったのです。初期クリスチャンの例を考えてみましょう。
初期クリスチャンは喜んで与えた
初期クリスチャンはどんな気持ちから与えましたか。歴史家エドワード・ギボンによれば、「互いに遠く離れた地に住む人々の間でも、助け
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合いが盛んに行なわれた。裕福な兄弟は乏しい会衆を喜んで助けた」1。与えることは自発的であったため、それには喜びがありました。教会史家ネアンダーは次のことを書いています。「旅人、貧しい人、病人、老人、やもめ、みなし子、信仰ゆえに投獄された人を助け、世話することは、クリスチャン社会全体の規模で行なわれた。このために崇拝の集まりにおいては、自発的な寄付がきまってさし出されたのである」。2
俸給を受ける牧師、什一、寄付盆などは、初期クリスチャンの中にありませんでした。「何事も簡素だった初期教会において、奉仕者は手づから働いて生活した」。3「どんなに小さくても、崇拝の場所にはかならず箱がおかれ、集まった人々はそれぞれの寄付をそこへ入れた」。4何時入れるか、どれほど入れるかは全く各人の自由でした。(西暦)一九〇年頃キリスト教に改宗したターツリアンはこう書いています。「月に一度、あるいは望む時に、各人はその志に従い、そして余裕のあるときにだけ、何がしかのささげ物を携えてくる」。5
このように初期クリスチャンは集まりの場所にかならず箱をおいて、各人が望むだけのものをその中に入れました。小額の寄付も快く受け入れられました。極めて小額の貨幣二つを賽銭箱に入れたやもめを見て、このやもめは他のだれよりも多く入れたのであると語ったイエス・キリストの言葉を、初期クリスチャンは覚えていました。(ルカ、ニ一ノ一ー一四)また使徒パウロの述べた次の原則を知っていたのです、「もし心から願ってそうするなら、持たないところによらず、持っているところによって、神に受け入れられるのである」。(コリント後、八ノ一二、新口)特別な資金が必要になったとき、初期クリスチャンは各人の財政状態に応じてできるだけのものをさし出しました。「一週間の初めの日ごとに、あなたがたはそれぞれ、いくらでも収入に応じて手もとにたくわえておき……なさい」。」ーコリント前、一六ノ二、新口。
このような与え方をした人は、豊かに祝福されました。その人々は心からすすんで与えたので喜びを感じ、また神から祝福されました。またその資金は多くの人の益のために用いられました。そのもたらした祝福を、パウロは次のように書いています。「各自は惜しむ心からでなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである。こうしてあなた方はすべてのことに豊かになって、惜しみなく施し、その施しはわたしたちの手によって行われ、神に感謝するに至るのである」。(コリント後、九ノ七、一一、新口)このように与えたことによって、仲間のクリスチャンの必要がみたされただけでなく、あふれるばかりの感謝が神にささげられました。それは真実の真[誤植??信!!]仰を表わすものであり、神に賛美をもたらした。
初期クリスチャンがしたのは、仲間の信者を助けることだけではありません。神の国の福音を伝道して未信者を助けることもしたのです。使徒パウロの宣教のわざを経済的に助けた初期クリスチャンは、神の国をひろめることに力をかしました。それで使徒の次の言葉を実感をもって味わったに違いありません。「福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである」。ーコリント前、九ノ二三、新口。
今日のクリスチャンも喜んで与える
今日においても真のクリスチャンは、よろこんで与えることの祝福を味わった初期クリスチャンにならいます。このように与えることは、どこで行なわれていますか。エホバの証者の御国会館を訪れる人は、それを見るでしょう。エホバの証者の御国会館また他の集会の場所には、たとえどんなに小さな場所であっても、寄付箱が備えられています。寄付箱が回ってくることは決してありません。すべては自発的なものであり、人はその志に従って望むだけのものを箱に入れます。気まずい思いをしたり催促されたり、あるいはそれと反対に表彰されたりする人はありません。寄付金は監督の俸給にあてられるのではなく、会館の維持、その地域における神の国の福音伝道のために使われます。
全世界にわたり二万二千を数えるエホバの証者の会衆は、その地域また国だけでなく全地に
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福音をひろめる必要を認識しています。そこでエホバの証者の世界的な伝道を監督する「ものみの塔協会」に宛て、その資力に応じて一定の額を送る決議が、会衆に提出されます。いくつかの会衆を集めて開かれる巡回大会のおりにも、証者は会場の使用料のために寄付するだけでなく、多くの場合、協会に寄付を送ることを決議します。
エホバの証者の会衆および巡回区だけにとどまらず、証者の各人も伝道のわざをすすめるための寄付を直接協会に送ります。そのような寄付は Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania, 124 Columbia Heights, Brooklyn 1, New York宛に送られてきます。アメリカ以外の国に住む人は、その国にある協会の支部事務所に送金できます。支部の所在地は協会の出版した本と冊子の裏にたいてい印刷されています。
エホバの証者は特定の額を寄付する責務を負ったり、約束したりしませんが、それでもパウロの次の言葉に述べられた原則に従います。「だから、わたしは兄弟たちを促して、あなたの所へ先に行かせ、以前あなたがたが約束していた贈り物の準備をさせておくことが必要だと思った。それをしぶりながらではなく、心をこめて用意していてほしい」。(コリント後、九ノ五、新口)初期クリスチャンは、自分の寄付しようとする額をあらかじめ知らせるのを正しい事と考えました。それは予想額を基に計画の立案を可能にするためです。そこで毎年、多くのエホバの証者は協会に個人の資格で手紙を送り、世界的な御国のわざをすすめる一助として、その年のあいだ協会に直接送ることを希望している寄付の額を知らせます。それは約束することではなく、エホバの恵みによって、寄付したいと希望する額をあらかじめ知らせることです。そうすることは協会にとって大きな助けとなります。希望した額を送れなくなっても、催促されることは決してありません。すべては自発的なものです。協会はどんなに少額の寄付も快く受け入れます。いろいろな国のエホバの証者の中には、イエスの語ったやもめのように少額の寄付しかできない人がいます。しかもその僅かな額を送るのにも、節度を重ね、計画したかも知れません。しかし問題は寄付の額ではないのです。その人々は喜んで与えることの祝福を知っています。
「ものみの塔協会」は、寄せられた寄付をどのように使って、すべての人の祝福をはかりますか。たとえば昨年、協会は、全地で神の国を伝道している宣教者、特別開拓者を援助するために二百六十万ドルを費やし、会衆を訪問して証者を宣教に励ます巡回及び地域の僕の必要とした四十七万ドルの費用を支出しました。なお今年も世界各国から百四名の奉仕者がものみの塔ギレアデ聖書学校に呼ばれて、特別な訓練を受けています。その費用も協会の負担です。また協会は八十七の支部を運営しており、ある国々では印刷工場を運営しています。それはこの雑誌のような協会の出版物を少額の寄付で全世界に配布するためです。
エホバの証者は協会にも、あるいは土地の御国会館のためにも寄付しますが、このような自発的寄付が与えることの全部ではありません。エホバの証者は他の人が神の国を学ぶのを助けるため、自分の時間と精力を用います。一歴史家によれば、最初の二世紀における「教会は宣教を使命とした」6のです。当時のクリスチャンは喜んで与える人でした。キリスト教国にならわず、これら初期クリスチャンの手本に倣うエホバの証者の新世社会は、よろこんで与えることの祝福を味わっています。
引用文献
1 History of Cristianity, by Edward Gibbon. p. 1772 The History of the Cristian Religion and Church, During the Three First Centuries, by Augstus Rose, p. 1563 Early Church Histiry, Edward Beckhouse and Charles Tylor, p. 2634 History of the Christian Church, by John F. Hurst, vol. I, P. 3605 Apology, translated by T. R. Glover p. 1756 Martyrs and Apologists, De Pressense, p. 20シェアボタン: このページをSNSに投稿するのに便利です。
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