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© 1,971
WATCH TOWER BIBLE AND TRACT SOCIETY
OF PENNSYLNANIA
版権所有
偉大な教え手に聞き従う
1,971年英文発行
1,972年日本文発行
発行者
ものみの塔聖書冊子協会日本東京都
本書は70の言語で発行されています
すべての版の印刷部数29,000,000部
Listening to the Great Teacher
Japanese(te-J)
Made in Japan
日本にて印刷製本
もくじ
章(しょう)ページ
1 イエス、偉大(いだいな)な教(おし)え手(て)・・・・・・・・・・・・・・7
2 神(かみ)からの手紙(てがみ)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・11
3 すべてのものを作(つく)られたかた・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・15
4 神(かみ)にはお名前(なまえ)があります・・・・・・・・・・・・・・・・・19
5 『これはわたしの子(こ)です』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 23
6 ほかの人(ひと)びとにつかえた偉大(いだい)な教(おし)え手(て)・・・・27
7 従順(じゅうじゅん)はあなたを守(まも)る・・・・・・・・・・・・・・・・31
8 良(よ)いとなり人(びと)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・35
9 もっと位(くらい)の高(たか)いかたがおられます・・・・・・・・・・・・・39
10ひとりのらい病人(びょうにん)が神(かみ)を賛美(さんび)した・・・・・・43
11イエスはわたしたちに祈(いの)ることを教(おし)えておられます・・・・・・47
12悪魔(あくま)にゆうわくされる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・51
13イエスの弟子(でし)になった人(ひと)びと・・・・・・・・・・・・・・・・55
14風(かぜ)や波(なみ)を制(せい)する力(ちから)・・・・・・・・・・・・59
15人(ひと)を許(ゆる)さなかったどれい・・・・・・・・・・・・・・・・・・63
16四日(よっか)のあいだ死(し)んでいた人(ひと)・・・・・・・・・・・・・67
17ほんとうのことを言(い)わなかったふたりの人(ひと)・・・・・・・・・・・・・・71
18人(ひと)びとが悪(わる)いことをするのはなぜですか・・・・・・・・・・・75
19わたしたちの兄弟姉妹(きょうだいしまい)にたいする愛(あい)・・・・・・・79
20死(し)からよみがえらされた子(こ)どもたち・・・・・・・・・・・・・・・83
21 『あなたの罪(つみ)は許(ゆる)されています』・・・・・・・・・・・・・・ 87
22神(かみ)を忘(わす)れた人(ひと)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・91
23働(はたら)くことの祝福(しゅくふく)・・・・・・・・・・・・・・・・・・95
24神(かみ)のみ使(つか)いからの助(たす)け・・・・・・・・・・・・・・・99
25いちばん良(よ)い場所(ばしょ)をえらんだ人(ひと)たち・・・・・・・・ 100
____________
26神(かみ)を賛美(さんび)する子(こ)どもたち・・・・・・・・・・・・・・107
27良(よ)いことをするために、憎(にく)まれる・・・・・・・・・・・・・・・111
28愛(あい)ある羊(ひつじ)かい・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・115
29神(かみ)を愛(あい)する人(ひと)と友(とも)だちになりなさい・・・・・119
30誕生日(たんじょうび)を祝(いわ)ったふたりの人(ひと)・・・・・・・・・123
31水(みず)か世界(せかい)を流(なが)し去(さ)る・・・・・・・・・・・・127
32 『平和(へいわ)を好(この)む人(ひと)は幸福(こうふく)です』・・・・・ 131
33 「カエサルのものはカエサルに」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 135
34崇拝(すうはい)は神(かみ)に属(ぞく)している・・・・・・・・・・・・・139
35 「与(あた)えることのほうに祝福(しゅくふく)は多(おお)い」・・・・・・ 143
36ほこりたかぶったパリサイ人(ひと)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・147
37どろぼうになった使徒(しと)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・151
38神(かみ)の家(いえ)を愛(あい)しなさい・・・・・・・・・・・・・・・・155
39 『王(おう)としてきたる者(もの)に祝福(しゅくふく)あれ』・・・・・・・ 159
40イエスはわたしたちのために
ご自分(じぶん)の命(いのち)をお与(あた)えになった・・・・163
41思(おも)い起(お)こす助(たす)けとなる食事(しょくじ)・・・・・・・・167
42からっぽの墓(はか)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・171
43イエスはしるしをお与(あた)えになる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・175
44 『あなたはわたしとともに楽園(らくえん)にいるでしょう』・・・・・・・・・ 179
45どうすれば『あなたを愛(あい)しています』と
神(かみ)に申(もう)しあげられるか・・・・・・・・・・・・・183
46永遠(えいえん)に生(い)きるための方法(ほうほう)・・・・・・・・・・・187
__________
(クリスチャンギリシャ語部分(いわゆる「新約聖書」部分)は西暦1,973年版初版の新世界訳聖書です)
[5]
親のみなさんへ
[6]
~~……
というのは、この本には子どもに答えさせるように出来ているからです。本文中にはその場に適した数多くの質問が設けられています。そうした質問の箇所にはダッシュ記号(--)が挿入されていますが、それは、そこで少し休止して、子どもに自分の考えを述べるよう促す時であることを親に思い起こさせるしるしです。子どもは話の中に自分を含めてもうことが好きです。そうしてもらわないと、子どもの興味はすぐ薄れてしまいます。しかしさらに重要なことですが、本文中の質問はお子さんの考えを知る助けとなります。むろん子供が見当違いの答えをする場合があります。しかし各々の質問に続く文章は、子供が健全な考え方を発達させる助けとなるように作られています。
~~~……--発行者
あなたの名前(なまえ)はなんですか。--あなたには名前(なまえ)がありますね。わたしにも名前(なまえ)があります。地上(ちじょう)の最初(さいしょ)の男(おとこ)は名前(なまえ)を持(ま)っていました。神(かみ)は、その男(おとこ)をアダムと呼(よ)ばれました。最初(さいしょ)の女(おんな)の名前(なまえ)は、エバでした。男(おとこ)・女(おんな)・子(こ)ども、すべての人(ひと)には名前(なまえ)があります。
夜(よる)たくさんの星(ほし)を見上(みあげ)げてごらんなさい。星(ほし)には名前(なまえ)があると思(おも)いますか。--そうです、神(かみ)は空(そら)の星(ほし)の一つ一つに、名前(なまえ)をおつけになりました。聖書(せいしょ)にはこう書(かい)いてあります。「彼(かれ)は星(ほし)の数(かず)をかぞえておられる。そのすべてをそれぞれの名(な)で呼(よ)ばれる」--詩篇、147:4。
人(ひと)も星(ほし)も、みな、名前(なまえ)をもっています。それで、神(かみ)は名前(なまえ)を持(も)っておられると思(おも)いますか。--偉大(いだいな)な教(おし)え手(て)は、神(かみ)が名前(なまえ)を持(も)っておられるとおっしゃいました。ある時(とき)、イエスは祈(いの)りの中(なか)で、神(かみ)にこういわれました。『わたしは、わたしに従(した)がう人(ひと)びとに、あなたのお名前(なまえ)を知(し)らせました』--ヨハネ伝、17:26。
神(かみ)のお名前(なまえ)を知(し)っていますか。--神(かみ)ご自身(じしん)が、ご自分(じぶん)の名前(なまえ)をわたしたちに知(し)らせておられます。神(かみ)はこういわれました「わたしはエホバである。これはわたしの名前(なまえ)である」ですから、神(かみ)のお名前(なまえ)はエホバです。--イザヤ書、42:8。
ほかの人(ひと)があなたの名前(なまえ)を覚(おぼ)えていると、あなたはうれしく思(おも)いませんか。--人(ひと)びとは、名前(なまえ)で呼(よ)ばれると、うれしく思(おも)いますね。ですから、あなたは、神(かみ)について話(はな)すとき、エホバというお名前(なまえ)を用(もち)いなくてはなりません。
偉大(いだい)な教(おし)え手(て)は、人(ひと)びとに話(はな)されるとき、エホバという、神(かみ)のお名前(なまえ)をお用(もち)いになりました。ある時(とき)、イエスは『あ
[20]
なたは心全体(こころぜんたい)をもってあなたの神(かみ)エホバを愛(あい)さなければならないと言(い)われました。--マルコ伝、12:30。
イエスは、「エホバ」というお名前(なまえ)が、たいへんたいせつなことを知(し)っておられました。そこで、イエスは、ご自分(じぶん)に従(した)がう(ひと)人びとに、神(かみ)のお名前(なまえ)を用(もち)いなさいとお教(おし)えになりました。そして、祈(いの)りのなかでも神(かみ)のお名前(なまえ)について話(はなし)しなさいと教(おし)えられました。
むかし、神(かみ)は、モーセという人に、ご自分(じぶん)のお名前(なまえ)がたいせつであることを、お教(おし)えになりました。モーセは、イスラエルの子孫(しそん)のひとりでした。イスラエルの子孫(しそん)は、エジプトという国(くに)に住(す)んでいました。エジプト人(じん)は、イスラエルの子孫(しそん)をどれいにして、たいへんいじめました。モーセがおとなになったとき、ひとりのイスラエル人(じん)を助(たす)けようとしたので、エジプトの王(おう)は怒(おこ)って、モーセをころそうと考(かんが)えました。そこで、モーセはエジプトからにげました。
モーセは、ほかの土地(とち)へ行(ゆ)きました。それは、ミデアンの地(ち)でした。その土地(とち)でモーセは羊飼(ひつじか)いとして、はたらき、羊(ひつじ)の世話(せわ)をしました。ある日(ひ)、モーセは、ふしぎなものを見(み)ました。イバラに火(ひ)がついているのですが、それはもえてしまわないのです。モーセは、よく見(み)ようと近(ちか)よりました。
なにが起(お)きたでしょう。--モーセは、そのもえるイバラのなかから声(こえ)がするのを聞(き)いたのです。その声(こえ)は、「モーセ、モーセ」と呼(よ)んでいました。
だれが話(はな)していたのでしょう。--神(かみ)が話(はな)しておられたのです。モーセに、たいせつなしごとをさせようとお考(かんが)えになった神(かみ)は、こういわれました『さぁ、わたしは、あなたをパロ(エジプトの王:ファラオ)につかわして、わたしの民(たみ)イスラエルの人(ひと)びとをエジプトから導(みちび)き出(だ)させよう』神(かみ)はモーセを助(たす)けるとやくそくされました。
ところが、モーセは神(かみ)にたずねました『わたしが、エジ
[21]
プトにいるイスラエルの人(ひと)びとのところへ行(い)って、神(かみ)がわたしをつかわされたと言(い)うとき、人(ひと)びとが、神(かみ)のお名前(なまえ)がなんというのですかと聞(き)いたら、なんと答(こた)えましょうか』神(かみ)は彼(かれ)らに『エホバがわたしを遣(つか)わされました。エホバというのがわたしの永遠(えいえん)の名前(なまえ)です』と告(つ)げるよう、モーセに言(い)われました。--出エジプト記、3:1-18。
これは、神(かみ)が、エホバというお名前(なまえ)をたもつつもりでおられることを示(しめ)しています。神(かみ)は、永遠(えいえん)にエホバというお名前(なまえ)で人(ひと)びとに知(し)られたいと思(おも)っておられました。
モーセはエジプトへ帰(かえ)って行(い)きました。エホバのことをまったく知(し)らなかったエジプト人(じん)は、エホバを、イスラエルの人(ひと)びとのおがんでいる、ちっぽけな神(かみ)にすぎないと考(かんが)えました。エホバが全世界(ぜんせかい)の神(かみ)であるとは考(かんが)えなかったのです。そこで、エホバはエジプトの王(おう)に言(い)われました。『わたしは、わたしの名前(なまえ)を全地(ぜんち)に知(し)らせよう』--出エジプト記、9:16。
エホバはご自分(じぶん)のお名前(なまえ)を全地(ぜんち)に知(し)らせました。神(かみ)は、モーセを用(もち)いて、イスラエルの人(ひと)びとをエジプトから導(みちび)き出(だ)させたので、全地(ぜんち)の人(ひと)びとは、やがて、エホバについて知(し)ったのです。
今日(こんにち)の多(おお)くの人(ひと)は、エホバが全世界(ぜんせかい)の神(かみ)であると信(しん)じていませんから、モーセの時代(じだい)の人(ひと)びとのようです。それでエホバはご自分(じぶん)の民(たみ)が、ほかの人(ひと)びとに神(かみ)について知(し)らせることを望(のぞ)んでおられます。イエスが行(おこ)なわれたことはそのことです。
[22]
あなたはイエスのようになりたいでしょう?--では神(かみ)のお名前(なまえ)はエホバですと、ほかの人(ひと)に知(し)らせてください。そのことを知(し)らない人(ひと)が大(おお)ぜいいることがわかったら、その人(ひと)たちに、聖書(せいしょ)の詩篇(しへん)83篇(ぺん)18節(せつ)の聖句(せいく)を教(おし)えてあげられるでしょう。さあ、聖書(せいしょ)を持(も)ってきて、いっしょにその聖句(せいく)を見(み)つけましょう。そこには、こう書(か)かれています。『エホバという名前(なまえ)を持(も)たれるあなただけが全地(ぜんち)の至上者(しじょうしゃ)であられます』。
たくさんある名前(なまえ)の中(なか)で一(いち)ばんたいせつなのは、「エホバ」というお名前(なまえ)です。それはすべてのものを作(つく)られたかたのお名前(なまえ)です。それは、イエスはわたしたちが心全体(こころぜんたい)をもってエホバを愛(あい)さなくてはならないと言(い)われたことを思(おも)い出(だ)してください。あなたはエホバを愛(あい)していますか。--
どうすれば、あなたも、エホバを愛(あい)していることを示(しめ)せるでしょうか。--一(ひと)つの方法(ほうほう)は、神(かみ)のお名前(なまえ)エホバをほかの人(ひと)たちに話(はな)すことです。またエホバが行(おこ)なわれたすばらしいことがらについて、ほかの人(ひと)たちに話(はな)せます。そうすれば、エホバ神(かみ)を喜(よろこ)ばせることができます。なぜなら、エホバは、人(ひと)びとにご自分(じぶん)のことを知(し)ってもらいたいと思(おも)っておられるからです。わたしたちは、エホバのことを人(ひと)に知(し)らせるわざにあずかれますね。--
あなたがエホバについて話(はな)すとき、その話(はなし)を聞(き)きたいとは思(おも)わない人(ひと)もいるでしょう。イエスが、エホバについて話(はな)したときでさえ、多(おお)くの人(ひと)は聞(き)きませんでした。でも、それだからといって、イエスはエホバについて話(はな)すのをやめられませんでした。
ですから、イエスのようになって、エホバについて話(はな)すのをやめないでください。エホバのお名前(なまえ)を愛(あい)していることを示(しめ)せば、エホバ神(かみ)はあなたを喜(よろこ)んでくださるでしょう。
(神のお名前のたいせつさを示す、さらに幾つかの聖句を今いっしょに聖書から読んでください。ヨハネ伝、17:26(そしてわたしはみ名を彼らに知らせました、またこれからも知らせます。それはわたしを愛してくださった愛が彼らのうちにあり、わたしが彼らと結びついているためです)。イザヤ書、12:4, 5(4. その日(ひ)なんぢらいはん ヱホバに感謝(かんしゃ)せよ その名(みな)をよべ その行為(みわざ)をもろもろの民(たみ)の中(なか)につたへよ その名(みな)のあがむべきことを語(かた)りつげよと 5. ヱホバを頌(ほめ)うたへ そのみわざは高(たか)くすぐれたればなり これを全地(ぜんち)につたへよ)。ローマ人への手紙、10:13(旧版初版1,973年版新世界訳:「エホバのみ名を呼び求める者はみな救われる」のです)。)
あなたは、だれかから何(なに)かをしてもらったら、うれしく思(おも)いませんか。--ほかの人(ひと)びとも、だれかから何(なに)かをしてもらったなら、うれしく思(おも)います。わたしたちはだれでもそう思(おも)うものです。偉大(いだい)な教(おし)え手(て)はそれを知(し)っておられたので、いつも人(ひと)のためになることをしておられたので、いつも人(ひと)のためになることをしておられました。イエスは『わたしは、つかえられるためではなく、つかえるために来(き)たのです』といわれました。--マタイ伝、20:28。
そこで、この偉大(いだい)な教(おし)え手(て)のようになりたいなら、わたしたちはなにをしなければなりませんか。--わたしたちもほかの人(ひと)のためになることをしなければなりません。
たしかに、多(おお)くの人(ひと)びとはそうしません。ほんとうをいうと、たいていの人(ひと)はいつもほかの人(ひと)につかえてもらいたいと思(おも)っています。イエスにしたがう人(ひと)たちでさえ、そう考(かんが)えたことがありました。イエスにしたがう人(ひと)たちはそれぞれ、一(いち)ばん重要(じゅうよう)な人(ひと)になりたいと思(おも)いました。
イエスは、彼(かれ)らがそのように考(かんが)えるのはよくないことを知(し)っておられました。そこで、ある日(ひ)、みんなが集(あつ)まっていたとき、イエスは彼(かれ)らがわすれることのできない教訓(きょうくん)をおあたえになりました。
人(ひと)びとがいっしょに食事(しょくじ)をしていたとき、イエスは食(しょく)たくから立(た)ちあがりました、そして、たらいを取(と)って、それに水(みず)を入(い)れました。人(ひと)びとが見(み)まもっていると、イエスはひとりひとりのところに行(い)って腰(こし)をかがめ、その足(あし)を洗(あら)い、手(て)ぬぐいでふきました。ちょっと考(かんが)えてみてください。もしあなたがそこにいてイエスに足(あし)を洗(あら)っていただいたとしたら、ど
[28]
うでしょうか。あなただったらどう感(かん)じたでしょうか。--
イエスに従(したが)っていた人(ひと)たちは、偉大(いだい)な教(おし)え手(て)からそのようにつかえられるのはまちがっていると感(かん)じて当惑(とうわく)しました。そのうちのひとりの人(ひと)は、そうしたいやしいことをイエスにしてもらってはならないと考(かんが)えたほどです。でも、イエスは、わたしたちがそうするのはたいせつなことですと言(い)われました。
今日(こんにち)のわたしたちはふつう、たがいの足(あし)を洗(あら)うことはしません。しかし、イエスが地上(ちじょう)におられたころ、そうすることはふつうのことでした。それはなぜかを知(し)っていますか。--
その人(ひと)たちが住(す)んでい国(くに)では、人(ひと)びとはす足(あし)にサンダルをはいたり、はだしで歩(ある)いたりしていましたから、ほこりの多(おお)い道(みち)を歩(ある)くと、足(あし)はほこりでよごれました。ですから、むかしは、家(いえ)に来(き)た人(ひと)のよごれた足(あし)を洗(あら)うのは親切(しんせつ)な行(おこな)いでした。
ところが、この時(とき)のイエスに従(したが)う人(ひと)びとはだれひとりとしてほかの人(ひと)の足(あし)を洗(あら)おうとはしませんでした。そこでイエ
[29]
スご自身(じしん)がそのことをされたのです。こうして、イエスはご自分(じぶん)に従(したが)う人(ひと)びとに大切(たいせつ)な教訓(きょうくん)をおあたえになりました。それらの人(ひと)たちは教訓(きょうくん)を学(まな)ばなければなりませんでした。そして今日(こんにち)のわたしたちもその教訓(きょうくん)を学(まな)ばなければなりません。
それはどんな教訓(きょうくん)でしたか。--イエスはふたたび食(しょく)たくにおつきになると、こうお話(はな)しをされました。『わたしがあなたがたにしたことがわかりますか。あなたがたはわたしを「先生(せんせい)」とか「主(しゅ)」とか呼(よ)んでいますが、それは正(ただ)しいことです。あなたがたの先生(せんせい)であり、主(しゅ)であるわたしが、あなたがたの足(あし)を洗(あら)ったのですから、あなたがたはたがいの足(あし)を洗(あら)わなければなりません』--ヨハネ伝、13:2-14。
ここで偉大(いだい)な教(おし)え手(て)は、ご自分(じぶん)に従(したが)う人(ひと)びとがたがいにつかえあってほしいと言(い)われたのです。彼(かれ)らは自分(じぶん)のことだけを考(かんが)えてはなりませんでした。また自分(じぶん)はたいへん重要(じゅうよう)な人間(にんげん)だから、ほかの人(ひと)からいつもつかえてもらうべきだと思(おも)ってはなりませんでした。イエスが望(のぞ)んでおられたのはのはそのことでした。イエスは、ご自分(じぶん)に従(したが)う人(ひと)びとが喜(よろこ)んでほかの人(ひと)びとにつかえてほしいと考(かんが)えておられたのです。
それはすばらしい教訓(きょうくん)ではありませんでしたか。--あなたも偉大(いだい)な教(おし)え手(て)のようになって、ほかの人(ひと)びとのためにつかえますか。--わたしたちはだれでも、ほかの人(ひと)のためになることを行(おこ)なえます。
ほかの人(ひと)につかえるのはむずかしいことではありません。よく注意(ちゅうい)して見(み)ると、あなたがほかの人(ひと)のためにしてあげられることはたくさんあります。
さあ、考(かんが)えてごらんなさい。あなたは、なにかおかあさんのお手(て)つだいをすることはできませんか。おかあさんはあなたや家族(かぞく)のためにたくさんの仕事(しごと)をしてくださいますね。あなたはおかあさんのお手(て)つだいができますか。--おかあさんにたずねてみてはどうですか。--
[30]
食事(しょくじ)の前(まえ)に、食卓(しょくたく)に はし や茶(ちゃ)わんをならべることがでいるかもしれません。または、食事(しょくじ)のあと、よごれた食器(しょっき)をかたずけることができるかもしれません。ゴミばこを毎日家(まいにちいえ)の外(そと)に出(だ)す子(こ)もいます。あなたができることはどんなことでも、イエスがなさったように、ほかの人(ひと)のためになるのです。
あなたに弟(おとうと)や妹(いもうと)がいますか。もしいるならば、弟(おとうと)や妹(いもうと)にもつかえることができます。--偉大(いだい)な教(おし)え手(て)であるイエスが、ご自分(じぶん)に従(したが)う人(ひと)びとにつかえられたことを思(おも)いだしてください。弟(おとうと)や妹(いもうと)につかえるなら、あなたもイエスにみならっていることになります。
弟(おとうと)や妹(いもうと)にどんなことをしてあげられますか。--遊(あそび)び終(お)わったおもちゃをかたずけるように教(おし)えてあげられるでしょう。また弟(おとうと)や妹(いもうと)が、ねる用意(ようい)をしたりするのを手(て)つだうことができるかもしれません。そうしてあげると、弟(おとうと)や妹(いもうと)はちょうどイエスに従(したが)った人(ひと)びとがイエスを愛(あい)したようにあなたを愛(あい)するようになります。
学校(がっこう)でもほかの人(ひと)につかえることができます。だれかが本(ほん)を落(おと)としたなら、それをひろってあげるのは親切(しんせつ)なことです。黒板(こくばん)をふきましょうかといったり、なにかお手(て)つだいをしましょうか、といって先生(せんせい)につかえることもできるでしょう。ほかの人(ひと)のために戸(と)をあけてあげるのも親切(しんせつ)な行(おこ)ないです。
あなたがなにかをしてあげても、お礼(れい)をいわない人(ひと)がときどきいます。そのために、あなたは良(よ)いことをするのをやめてしまいますか。--いいえ、やめてはいけません。多(おお)くの人(ひと)びとはイエスの良(よ)いわざに感謝(かんしゃ)しませんでした。それでもイエスは良(よ)いことをするのをおやめになりませんでした。
ですから、ためらわずに、ほかの人(ひと)びとにつかえてください。イエスのもはんにいつも従(したが)うようにしましょう。
(ほかの人びとを助けることを述べた聖句として、さらにローマ人への手紙、15:1, 2(1. ですが、わたしたち強い者は、強くない者の弱いところを担うべきであり、自分を喜ばせていてはなりません。2. わたしたちはおのおの、築き上げるのに良い事がらによって隣人を喜ばせましょう);箴言、3:27, 28(27. 汝(なんぢ)の手 善(て ぜん)をなす力(ちから)あらばこれを為(な)すべき者(もの)に為(な)さるゞこと勿(なか)れ28. もし汝(なんぢ)に物(もの)あらば汝(なんぢ)の隣(となり)に向(むか)ひ去(さり)て復来(またきた)れ明日(あす)われ汝(なんぢ)に予(あた)へんといふなかれ);ガラテヤ人への手紙、6:2(互いの重荷を負い合い、こうしてキリストの律法を全うしなさい)をご覧ください。)
なんでも自分(じぶん)のしたいことができればよいのに、とおもいますか。なにをしなさいと、だれにも言(い)われたくない、とおもうときがありますか。正直(しょうじき)にいってごらんなさい。--
でも、あなたにとって、どちらがよりよいことですか。自分(じぶん)がしたいと思(おも)うことをなんでもするのは、ほんとうに賢(かしこ)いことですか。それとも、お父(とう)さんやお母(かあ)さんに従(したが)うほうが、よい結果(けっか)がえられますか。--神(かみ)は、あなたが親(おや)に従(したが)うことを命(めい)じておられるのですから、それには十分(じゅうぶん)のわけがあるにちがいがありません。では、そのわけを考(かんが)えてみましょう。
あなたはいくつですか。--あなたのおとうさんはいくつか、知(し)っていますか。--おかあさんはいくつですか。--おふたりはあなたよりももっと長(なが)く生(い)きてこられました。人(ひと)は長(なが)く生(い)きれば生(い)きるほど、それだけ多(おお)くの時間(じかん)をかけてものごとを学(まな)んでいるのです。毎年(まいとし)もっと多(おお)くのことを聞(き)いたり見(み)たり、行(おこ)なったりしています。ですから、若(わか)い人(ひと)は、年(とし)うえの人(ひと)から学(まな)ぶことができるのです。
あなたやわたし、あるいは他(た)のどんな人(ひと)よりも長(なが)く生(い)きてきたのはだれですか。--それはエホバ神(かみ)です。ヱホバは、あなたやわたしよりも、もっと多(おお)くのことをごぞんじです。わたしたちにとって良(よ)いことがなんであるかをヱホバが話(はな)されるなら、わたしたちは、それが正(ただ)しいということを確信(かくしん)できます。神(かみ)がいわれることを行(おこ)なうなら、わたしたちは守(まも)られます。わたしたちはいつも、エホバに従(した)がわねばなりません。それはわたしじ
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しんの益(えき)のためです。また、あなたが神(かみ)に従(した)がうなら、それはあなたの益(えき)になります。
聖書(せいしょ)を取(と)り出(だ)して、神(かみ)が子(こ)どもたちに命(めい)じておられることがらを調(しら)べてみましょう。エペソ書(しょ)を開(ひら)けますか。--エペソ書(しょ)6章(しょう)1, 2, 3節(せつ)をよんでみましょう「子(こ)どもたちよ、主(しゅ)と結(むす)ばれている親(おや)に従順(じゅうじゅん)でありなさい。これは義(ぎ)にかなうことだからです。『あなたの父(ちち)と母(はは)を尊(とうと)びなさい』とあり、これは次(つぎ)の約束(やくそく)を伴(ともな)う最初(さいしょ)の命令(めいれい)なのです、『あなたにとって物事(ものごと)が順調(じゅんちょう)に行(ゆ)き、あなたが地上(ちじょう)で長(なが)らえるためである』」
これは聖書(せいしょ)のことばです。ですから、あなたのおとうさんやおかあさんに従順(じゅうじゅん)でありなさい、と命(めい)じておられるのは、エホバ神(かみ)ごじしんなのです。
あなたのおとうさんやおかあさんを「尊(とうと)ぶ」とは、どういう意味(いみ)ですか。--それはおとうさんやおかあさんを尊敬(そんけい)するということです。おとうさんやおかあさんのことばに耳(みみ)をかたむけ、いわれたことを、不平(ふへい)をいわずに行(おこ)わなければなりません。しかも、神(かみ)はあなたが従(した)がうなら、『あなた
[33]
は無事(ぶじ)に過(す)ごせる』でしょう(:別訳、地上での日を長くすることが出来る)と約束(やくそく)しておられるのです。
従順(じゅうじゅん)だったために、命(いのち)を救(すく)われた人(ひと)たちのおはなしを知(し)っていますが、はなしてあげましょうか。--
その人(ひと)たちは、むかし、エルサレムという大(おお)きな都(みやこ)にすんでいました。その都(みやこ)の人(ひと)びとはたいへん悪(わる)い人(ひと)たちで、神(かみ)のことばに耳(みみ)をかたむけませんでした。エホバは、かれらを教(おし)えるため、ごじしんの子(こ)イエス・キリストをつかわされましたが、人(ひと)びとはやはり耳(みみ)をかたむけませんでした。神(かみ)はかれらになにをなさろうとしていましたか。--
偉大(いだい)な教(おし)え手(て)は、神(かみ)がかれらの都(みやこ)を滅(ほろぼ)ぼさせようとしておられることを、人(ひと)びとに警告(けいこく)しました。そして、軍隊(ぐんたい)がその都(みやこ)のまわりに野営(やえい)をはり、都(みやこ)を滅(ほろぼ)ぼすであろうと語(かた)り、また、正(ただ)しいことを愛(あい)する人(ひと)は、どうすればのがれられるかを、人(ひと)びとに告(つ)げました。こういわれました。
『エルサレムのまわりに軍隊(ぐんたい)を見(み)るなら、エルサレムから出(で)て、山(やま)に走(はし)ってゆくべき時(とき)です』--ルカ伝、21:20-22。
イエスのいわれたとおりのことが起(お)きました。ローマ軍(ぐん)がきて、エルサレムのまわりに野営(やえい)をはったのです。つぎに、なにかの理由(りゆう)で軍隊(ぐんたい)はさってしまいました。たいていの人(ひと)は、危険(きけん)がさったと考(かんが)えて、都(みやこ:キリストはヱルサレムの荒廃の預言を為さった!!)にとどまっていました。でも、人(ひと)びとはどうすべきであると、イエスはいわれましたか。--
もし、あなたがエルサレムにすんでいたとしたなら、いったいどうしたでしょうか。--イエスのことばをほんとうに信(しん)じていた人(ひと)たちは、自分(じぶん)の家(いえ)をすてて、エルサレムから走(はし)ってにげ、遠(とお)い山地(さんち)にのがれました。おとなだけでなく、子(こ)どもたちもいっしょににげたのです。
それにしても、それらの人(ひと)たちは、従順(じゅうじゅん)だったために、ほんとうに守(まも)られましたか。--一年(いちねん)たっても、エルサレムにはなにも起(お)きませんでした。そして三年目(さんねんめ)にも、なにごともありませんでした。ところが、四年目(よねんめ)に、ローマの軍隊(ぐんたい)がもど
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ってきました。今(いま)やにげるのは手(て)おくれになりました。こんどは、その軍隊(ぐんたい)は都(みやこ)をほろぼしたのです。都(みやこ)のなかにいた人(ひと)びとのほとんどは殺(ころ)されました。
しかし、イエスのことばに従(した)がった人たちはどうなりましたか。--エルサレムから遠(とお)くはなれていたので、害(がい)を受(う)けませんでした。従順(じゅうじゅん)であったので守(まも)られたのです。
従順(じゅうじゅん)であれば、あなたも守(まも)られるでしょうか。--そのとおりです。そのわけをおはなししましょう。道路(どうろ)では、けっしてあそんではいけませんと、わたしがあなたに禁(きん)じたとしましょう。わたしはなぜそうするのでしょうか。--なぜなら、あなたが車(くるま)にひかれて、死(し)んでしまうかもしれないからです。ところが、ある日(ひ)、あなたはこうおもうかもしれません。『今(いま)なら、車(くるま)も走(はし)っていないから、けがなんかするもんか。ほかの子(こ)どもたちも道路(どうろ)で遊(あそ)んでいるけれど、けがをした子(こ)どもなんか、いちども見(み)たことがない』
エルサレムの人(ひと)びとのほとんどが考(かんが)えたのも、それと同(おな)じようなことでした。ローマ軍(ぐん)がさったので、もうだいじょうぶだ、とおもったのです。ほかの人(ひと)びとが都(みやこ)にとどまるのを見(み)て自分(じぶん)もとどまりました。警告(けいこく)されていたのに、それに聞(き)きしたがわなかったのです。そのために、命(いのち)をうしないました。道路(どうろ)で遊(あそ)ぶ子(こ)どもたちも、命(いのち)をうしなうおそれがあるのです。従(したが)うほうが、はるかに良(よ)いことではありませんか。
ときどき従(したが)うだけでは不十分(ふじゅうぶん)です。しかし、いつも従(したが)うなら、あなたはほんとうに守(まも)られるでしょう。
「あなたがたの親(おや)に従順(じゅうじゅん)でありなさい」と、あなたの命(めい)じておられるのは誰(だれ)ですか。--それは神(かみ)です。そうして神(かみ)がそういわれるのは、神(かみ)があなたをほんとうに愛(あい)しているからであることを忘(わす)れないでください。
(従順のたいせつさを示す、すぐれた聖句をさらにいくつかしるします。伝道の書、12:13(13. 事(こと)の全体(ぜんたい)の皈(き)する所(ところ)を聴(きく)べし 云(いは)く 神(かみ)を畏(おそ)れその誡命(いましめ)を守(まも)れ 是(これ)は諸(すべて)の人(ひと)の本分(ほんぶん)たり)。コロサイ人への手紙、3ノ20(子どもたちよ、すべての事において親に従順でありなさい。これは主にあって大いに喜ばれることなのです)。箴言、23:22(汝(なんぢ)を生(うめ)る父(ちゝ)にきけ 汝(なんぢ)の老(おい)いたる母(はゝ)を軽(かろ)んずる勿(なか)れ)。)
あなたとはちがうひふの色(いろ)をした人(ひと)を知(し)っていますか。--ある土地(とち)では、ほとんどの人(ひと)のひふの色(いろ)は黒(くろ)か、かっ色(しょく)です。たいていの人(ひと)が白(しろ)いひふをしているという土地(とち)もあります。それは生(う)まれつきのものなのです。
ある人(ひと)があなたとちがうひふの色(いろ)をしているからといって、あなたはその人(ひと)よりすぐれていることになりますか。--黒(くろ)いひふをした人は、ひふの色(いろ)が白(しろ)い人(ひと)よりも自分(じぶん)のほうがすぐれていると考(かんが)えるべきですか。あなたはどう思(おも)いますか。---
偉大(いだい)な教(おし)え手(て)であられるイエス・キリストに聞(き)きしたがうなら、わたしたちはすべての人(ひと)びとに親切(しんせつ)にするでしょう。その人(ひと)の生(うま)れた国(くに)とか、ひふの色(いろ)はたいせつなことではありません。わたしたちは、すべての種類(しゅるい)の人(ひと)びとを愛(あい)さなければなりません。イエスはそのことを教(おし)えてくださいました。
ある日(ひ)ひとりのユダヤ人(びと)がやって来(き)て、イエスにむずかしい質問(しつもん)をしました。その人(ひと)はイエスの答(こた)えられない質問(しつもん)をすることができると考(かんが)えて、『永遠(えいえん)に生(い)きるには、なにをしなければなりませんか』とたずねました。
偉大(いだい)な教(おし)え手(て)にとって、これはやさしい質問(しつもん)でした。しかしその質問(しつもん)にご自分(じぶん)で答(こた)えるかわりに、イエスはその人(ひと)にこうおたずねになりました。『神(かみ)の律法(りっぽう)は、わたしたちがなにをしなければならないとのべていますか』
その人(ひと)は答(こた)えました。『神(かみ)の律法(りっぽう)には「あなたは心(こころ)をつくして、あなたの神(かみ)ヱホバを愛(あい)さなければならない。また
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あなた自身(じしん)のように、あなたのとなり人(びと)を愛(あい)さなければならない」とあります』
イエスは言(い)われました『そのとおりです。そのように行(おこ)ない続(つづ)けなさい。そうすればとこしえの命(いのち)をえるでしょう』
しかし、その人(ひと)はすべての人(ひと)を愛(あい)したいと思(おも)いませんでした。そこで、いいわけをしようとして、イエスにこう質問(しつもん)しました「わたしのとなり人(びと)とはいったいだれですか」あなただったらどのように答(こた)えたでしょうか。あなたのとなり人(びと)とはいったいだれですか--
この男(おとこ)の人(ひと)は、イエスに『あなたのとなり人(ひと)は、あなたの友(とも)だちです』と言(い)ってほしかったかもしれません。でもほかの人(ひと)びとについてはどうですか。それらの人(ひと)もわたしたちのとなり人(びと)ですか。--
質問(しつもん)に答(こた)えるため、イエスはひとつのお話(はなし)をなさいました。それはユダヤ人(びと)とサマリア人(びと)についての、次(つぎ)のようなお話(はなし)でした。
ひとりの男(おとこ)の人(ひと)がエルサレムの都(みやこ)からエリコに向(む)かう道(みち)をくだっていました。その人(ひと)はユダヤ人(びと)でしたが、歩(ある)いているとちゅう、強(ごう)とうにつかまり、打(う)ちたおされた上に、お金(かね)や着物(きもの)をうばわれました。強(ごう)とうは、その人(ひと)を打(う)ちのめすと、今(いま)にも死(し)にそうになったその人(ひと)を道(みち)のかたわらに置(お)いたまま、立(た)ち去(さ)ってしまいました。
しばらくして、ひとりの祭司(さいし)がその道(みち)をやって来(き)ました。祭司(さいし)は、ひどくきずついたその男(おとこ)の人(ひと)を見(み)ました。祭司(さいし)はどうしましたか。あなたならどうしましたか。--
その祭司(さいし)は道(みち)のむこうがわにわたって行(ゆ)き、立(た)ち止(ど)まることさえしませんでした。男(おとこ)の人(ひと)を助(たす)けるためになにもしなかったのです。
こんんどは、もうひとりの宗教家(しゅうきょうか)が道(みち)をくだってきました。それはエルサレムの神殿(しんでん)で仕(つか)えるレビ人(びと)でした。このレビ人(びと)
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は立(た)ちどまって助(たす)けようとしましたか。いいえ、祭司(さいし)とまったく同(おなじ)じで、助(たす)けようとはしませんでした。それは正(ただ)しいことでしたか。--
最後(さいご)に、サマリア人(びと)がとおりかかりました。その人(ひと)は、ユダヤ人(びと)がひどくきずついて、たおれているのを見(み)つけました。サマリア人(びと)とユダヤ人(びと)はおたがいに憎(にく)み合(あ)っていました。それで、このサマリア人(びと)は男(おとこ)の人(ひと)を助(たす)けずに置(お)き去(ざ)りにするでしょうか。そして、次(つぎ)のようにひとりごとを言(い)うでしょうか。『わたしはこのユダヤ人(びと)をどうして助(たすけ)けなければならないのか。わたしがけがをしても、この人(ひと)はわたしを助(たす)けてはくれないだろう』
ところが、そのサマリア人(びと)は、道(みち)のわきにたおれている人(ひと)を見(み)て、たいへんかわいそうに思(おも)いました。サマリア人(びと)はその人(ひと)を置(お)き去(ざ)りにして、見(み)ごろしにすることはできませんでした。
そこでサマリア人(びと)は、乗(の)っていた動物(どうぶつ)をからおりると、男(おとこ)の人(ひと)のほうへ行(ゆ)き、きずの手当(てあて)てをしはじめました。きずに、油(あぶら)とぶどう酒(しゅ)をつけました。こうすればきずが治(なお)ります。それから、きずをぬのでしばりました。
サマリア人(びと)は、そのきずついた人(ひと)を静(しず)かに動物(どうぶつ)の上(うえ)に乗(の)せました。それから、ふたりはゆっくりと道(みち)をくだって、宿屋(やどや)つまり小(ちい)さな旅館(りょかん)に来(き)ました。そのやどやで、サマリア人(びと)はユダヤ人(びと)がとまるへやを取(と)って、手(て)あつくかいほうしました。
さて、イエスは自分(じぶん)が話(はなし)をしていた男(おとこ)の人(ひと)に向(む)かってたずねました『あなたは、これら三人(さんにん)の人(ひと)のうちどの人(ひと)が良(よ)い
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となり人(びと)だと、思(おも)いますか』あなたはどのように答(こた)えますか。それは祭司(さいし)ですか、レビ人(びと)ですか、それともサマリア人(びと)ですか。--
男(おとこ)の人(ひと)は『足(あし)を止(と)めて、きずついた人(ひと)をかいほうしたサマリア人(びと)が良(よ)いとなり人(びと)です』と答(こた)えました。
イエスは言(い)われました『そのとおりです。では行(い)って、あなた自身(じしん)も、同(おな)じようにしなさい』--ルカ伝、10:25-37。
それはすばらしいお話(はなし)ではありませんでしたか--このお話(はなし)から、わたしたちとなり人(びと)がだれであるかがはっきりします。わたしたちのとなり人(びと)は、したしい友(とも)だちや、自分(じぶん)の国(くに)の人(ひと)またわたしたちと同(おな)じひふの色(いろ)をした人(ひと)だけではありません。わたしたちのとなり人(びと)は、すべての種類(しゅるい)の人(ひと)びとです。
それでは、だれかけがをした人(ひと)を見(み)たら、あなたはどうしますか--その人(ひと)が外国(がいこく)からの人(ひと)であったり、あなたとは違(ちが)うひふの色(いろ)をしていたら、どうですか。--それでも、その人(ひと)はあなたのとなり人(ひと)です。ですから、あなたはその人(ひと)を助(たす)けなければなりません。自分(じぶん)は小(ちい)さくて助(たす)けられないと思(おも)ったら、わたしに助(たす)けをもとめてください。でなければ、おまわりさんか、学校(がっこう)の先生(せんせい)をよぶこともできます。そうすることは、サマリア人(びと)のようになることです。
偉大(いだい)な教(おし)え手(て)は、わたしたちが親切(しんせつ)であることを願(ねが)っておられます。他(た)の人(ひと)がどんな人(ひと)であっても、その人(ひと)をわたしたちが助(たす)けるように望(のぞ)んでおられます。良(よ)いとなり人(びと)であった人(ひと)についてお話(はなし)をしてくださったのはそのためです。
(他の人種や国籍の人びとをどう見るべきかという問題については、使徒行伝、10:34, 35(34. そこでペテロは口を開いてこういった「わたしは、神が不公平なかたではなく35. どの国民でも、神を恐れ、義を行なう人は神に受け入れられるのだということがはっきりわかります);17ノ26(そうして、ひとりの人からすべての国の人を作って地の全面に住まわせ、また、定められた時と人びとの居住のための一定の限界とをお定めになりました。);マタイ伝、5:44-48(44. しかるに、わたしはあなたがたに言いますが、あなたの敵を愛しつづけ、あなたがたを迫害している者たちのために祈りつづけなさい。45. それはあなたがたが、天におられるあなたがたの父の子であることを示すためです。父は邪悪な者の上にも善良な者の上にもご自分の太陽を昇らせ……雨を降らせてくださるのです。46. というのは、自分を愛してくれる者を愛したからといって、あなたがたになんの報いがあるでしょうか。収税人たちも同じことを……47. また自分の兄弟たちにだけあいさつしたからといって、どんな格別なことをしているでしょうか。諸国の人びと……48. ですから、あなたがたは、あなたがたの天の父が完全であられるように完全でなければなりません)をもお読みください)
「わたしがおとなだったらいいんだけれど。そうすれば、なんでもしたいことができるのに」とだれかがいうのを聞(き)いたことがありますか。--あなたもそう思(おも)ったことがありませんか。--
たしかにおとなには行(おこ)なえても、子(こ)どもには行(おこ)なえないことがあります。でも、わたしたちはだれも自分(じぶん)たちだけの生活上(せいかつじょう)の規則(きそく)を作(つく)ることはできません。わたしたちよりももっと位(くらい)の高(たか)いかたがいらっしゃいます。それはどなたかしっていますか。--
たいていの人(ひと)は、神(かみ)はたしかにわたしたちよりも位(くらい)が高(たか)いかたであるということを認(みと)めます。しかし、口(くち)でいうだけでは不十分(ふじゅうぶん)です。自分(じぶん)が信(しん)じているということを行(おこ)ないによって証明(しょうめい)しなければなりません。
それはアダムとエバに起(お)きたことからもわかります。ふたりは最初(さいしょ)の男(おとこ)と女(おんな)でした。なかには、アダムとエバの話(はなし)は作(つく)り話(ばなし)しにすぎないという人(ひと)がいます。しかし、偉大(いだい)な教(おし)え手(て)はそうはおっしゃいませんでした。それがほんとうの事(こと)がらであるということ知(し)っておられたのです。聞(き)いてください。何(なに)が起(お)きたのかを話(はな)してあげましょう。
神(かみ)はアダムとエバをお作(つく)りになったとき、ふたりをエデンと呼(よ)ばれる場所(ばしょ)にあった美(うつく)しい園(その)におかれました。それは公園(こうえん)、つまり楽園(らくえん)でした。ふたりはそこで永遠(えいえん)に生(い)きることもできたのです。しかし、ふたりはある教訓(きょうくん)を学(まな)ばなければなりませんでした。それは、わたしたちも学(まな)ばなければならない教訓(きょうくん)です。それはむずかしい教訓(きょうくん)ではありません。ほんとうにそれを学(まな)びたいと願(ねが)うなら、それはやさしい教訓(きょうくん)です。
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エホバはアダムとエバに、エデンの木(き)からほしいと思(おも)うくだものや木(き)の実(み)をどれでも食(たべ)べてよいといわれました。ただし、ふたりが実(み)を取(と)って食(た)べてはならない木(き)がただ一本(いっぽん)ありました。エホバはアダムにこういわれました『しかし善悪(ぜんあく)の知識(ちしき)の木(き)については、それから食(たべ)べてはなりません。それから食(た)べる日(ひ)に、あなたは必(かなら)ず死(し)ぬからです』--創世記、2:17。
~~………
[41]
~~……
アダムはへびが言(い)ったことを信(しん)じませんでしたが、エバといっしょにいたかったという気持(きも)ちのほうが、神(かみ)への愛(あい)よりも強(つよ)かったのです。それでアダムもその木(き)から食(た)べました。--創世記3:1-6。
その結果(けっか)はどうなりましたか。--神(かみ)はうそをいわれませんでした。命(いのち)はたしかに神(かみ)への従順(じゅうじゅん)に依存(いぞん)しています。ですから、アダムとエバは死(し)にました、しかも、ふたりは全人類(ぜんじんるい)に死(し)をもたらしました。
聖書(せいしょ)によれば、エバにうそをついたそのみ使(つか)いはサタン悪魔(あくま)と呼(よ)ばれています。サタン悪魔(あくま)は神(かみ)の敵(てき)です。それで、わたしたちにとってもやはり敵(てき)です。--啓示の書、12:9。
サタン悪魔(あくま)は、すべての人(ひと)をエホバにそむかせたいと思(おも)っています。それで、人間(にんげん)に悪(わる)い考(かんが)えをいだかせようとしています。そして、だれひとりエホバをほんとうに愛(あい)してはいな
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いといいます。あなたも、わたしも神(かみ)を愛(あい)してはおらず、わたしたちは神(かみ)のいわれることをほんとうに行(おこ)ないたいと思(おも)ってはいない、とサタンはいっているのです。しかし、サタンのいうことは正(ただ)しいでしょうか。わたしたちはそのような人間(にんげん)でしょうか。--
だれかからじゃまされて少(すこ)しむずかしくなると、人間(にんげん)はエホバに仕(つか)えることをやめる、と悪魔(あくま)はいいます。人間(にんげん)は、ものごとがすべてつごうよくよくいっている時(とき)だけエホバに従(したが)っているにすぎないといいます。そして人間(にんげん)はすべてそういうものなのだ、というのです。悪魔(あくま)のいうことは正(ただ)しいですか。--
偉大(いだいな)な教(おし)え手(て)は、悪魔(あくま)はいつわり者(もの)であるといわれました。そして、エホバをほんとうに愛(あい)している人(ひと)びとがいることを証明(しょうめい)されました。偉大(いだい)な教(おし)え手(て)は『わたしはなにをすべきかをについてだれからもさしずを受(う)けません』とはいわれず、むしろ『父(ちち)はわたしより偉大(いだい)です』といわれました。そして、エホバに従(したが)われました。しかも、らくな時(とき)だけ従(したが)われたのではありません。いつも、また他(た)の人(ひと)からじゃまされて、むずかしくなった時(とき)でも、そうなさいました。そして、エホバに忠実(ちゅうじつ)であることを死(し)ぬまでずっと証明(しょうめい)されました。そのために、神(かみ)は偉大(いだい)な教(おし)え手(て)を生(い)き返(かえ)らせて、永遠(えいえん)に生(い)きるようとりはからわれたのです。--ヨハネ伝、14:28。
それが偉大(いだい)な教(おし)え手(て)のなさったことです。しかし、わたしたちはどうしますか。--もしエホバにそむくなら、わたしたちは、悪魔(あくま)ののぞみどおりにすることになります。でも、ほんとうにわたしたちの神(かみ)を愛(あい)しているなら、わたしたちは神(かみ)のおきてに従(したが)います。そして、毎日(まいにち)そうします。それは、ほんとうにそうしたいと思(おも)っているからなのです。
(わたしたちはだれにつかえますか。エホバに仕えますか、それとも悪魔にですか。この問題について聖書が述べている事がらを、ヨブ記、1:8-12.(8. ヱホバ、サタンに言(いひ)たまひけるは汝 心(なんぢ こゝろ)をもちひてわが僕(しもべ) ヨブを観(み)しや彼(かれ)の如(ごと)く完全(まったく)かつ正(たゞし)くして 神(かみ)を畏(おそ)れ悪(あく)に遠(とほ)ざかる人 世(ひと よ)にあらざるなり……11. 然(され)ど汝(なんぢ)の手(て)を伸(のべ)て彼(かれ)の一切(すべて)の所有物(もちもの)を撃(うち)たまへ然(さら)ば必(かなら)ず汝(なんぢ)の面(かほ)にむかひて汝(なんぢ)を詛(のろ)はん12. ヱホバ、サタンに言(いひ)たまひけるは 視(み)よ彼(かれ)の一切(すべて)の所有物(もちもの)を汝(なんぢ)の手(て)に任(まか)す唯(ただ)かれの身(み)に汝(なんぢ)の手(て)をつくる勿(なか)れ サタンすなはちヱホバの前(まへ)よりいでゆけり);2:1-5(4. サタン、ヱホバに応(こた)へて言(いひ)けるは皮(かは)をもて皮(かは)に換(かふ)るならば人(ひと)はその一切(すべて)の所有物(もちもの)をもて己(おのれ)の生命(いのち)に換(かふ)るべし5. 然(され)ど今(いま)なんぢの手(て)を伸(のべ)て彼(かれ)の骨(ほね)と肉(にく)とを撃(うち)たまへ然(さら)ば汝(なんぢ)の面(かほ)にむかひて汝(なんぢ)を詛(のろ)はん);27ノ5(我決(われきは)めて汝(なんぢ)らをして是(よし)とせじ我(われ)は死(しぬ)るまで我(わ)が罪(つみ)なきを言(いふ)ことを息(やめ)じ;箴言、27:11(わが子(こ)よ知恵(ちゑ)を得(え)てわが心(こゝろ)を悦(よろこ)ばせよ、然(さら)ば我(われ)をそしる者(もの)に我(われ)こたふることを得(え)ん)から読んでください。)
お母(かあ)さんは、きょう、あなたに良(よ)い食事(しょくじ)を作(つく)ってくださいませんでしたか。--お母(かあ)さんがそうしてくださったのは親切(しんせつ)なことではありませんか。--あなたはお母(かあ)さんにお礼(れい)をいいましたか。--人(ひと)に親切(しんせつ)にしてもらったとき「ありがとうございました」というのを忘(わす)れることがありますね。偉大(いだい)な教(おし)え手(て)が地上(ちじょう)におられたとき、「ありがとうございました」というのを忘(わす)れた、何人(なんいん)かのらい病人(びょうにん)がいました。
らい病人(びょうにん)とはどんな病人(びょうにん)か知(し)っていますか。--らい病人(びょうにん)とは、らい病(びょう)という病気(びょうき)にかかっている人(ひと)のことです。らい病(びょう)になると、からだの肉(にく)の一部(いちぶ)がくずれてしまうことさえあります。イエスが地上(ちじょう)におられたとき、らい病人(びょうにん)は他(た)の人(ひと)びとから離(はな)れて生活(せいかつ)しなければなりませんでした。また人(ひと)が近(ちか)づいてきたなら、らい病人(びょうにん)は『わたしはらい病(びょう)です。近(ちか)よってはいけません』と大声(おおごえ)で叫(さけ)ばなければなりませんでした。それは他(た)の人(ひと)がらい病人(びょうにん)にうっかりふれて、らい病(びょう)にかかるようなことがないようにするためでした。
イエスはらい病人(びょうにん)にとても親切(しんせつ)でした。ある日(ひ)イエスがエルサレムに行(ゆ)くとちゅう、ある小(ちい)さな町(まち)へ近(ちか)づくとと十人(じゅうにん)のらい病人(びょうにん)があいにやってきました。
らい病人(びょうにん)たちはイエスに近(ちか)よらないで、ずっとはなれたところに立(た)っていました。しかし、イエスはあらゆる種類の病気をなおす力(ちから)を神(かみ)からあたえられているということを聞(き)いていたので、イエスに大声(おおごえ)でこう叫(さけ)びました『先生(せんせい)であられるイエスよ、わたしたちを助(たす)けてください』
あなたはらい病人(びょうにん)をかわいそうに思(おも)いますか。--イエスはそう思(おも)われました。らい病(びょう)の人(ひと)がどんなに悲(かな)しい思(おも)いを
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するかを知(し)っておられたのです。それで、イエスはそのらい病人(びょうにん)たちに『神(かみ)の祭司(さいし)のところへ行(い)って、あなた方(がた)のからだを見(み)せなさい』とお答(こた)えになりました。
なぜイエスはそうすることを命(めい)じられたのですか。--エホバがご自分(じぶん)の民(たみ)にお与(あた)えになった、らい病(びょう)にかんする律法(りっぽう)があったからです。その律法(りっぽう)によると、神(かみ)の祭司(さいし)はらい病人(びょうにん)のからだを調(しら)べることになっていました。らい病人(びょうにん)がすっかりなおったら、祭司(さいし)はらい病(びょう)がなおったことをその人(ひと)に知(し)らせるのです。らい病(びょう)がなおった人(ひと)は、ふたたび、健康(けんこう)な人(ひと)びとといっしょに生活(せいかつ)できました。--レビ記、13:16, 17。
でも、それら十人(じゅうにん)のらい病人(びょうにん)はまだ病気(びょうき)がなおっていませんでした。では、イエスからいわれたとおり、祭司(さいし)に会(あ)いに行(い)きましたか。--たしかに行(い)きました。祭司(さいし)のところへ行(い)くため、すぐ出(で)かけました。その人(ひと)たちは、イエスがらい病(びょう)を取(と)りのぞいてくださると信(しん)じていたにちがいありません。
さて、どんなことが起(お)きましたか。--祭司(さいし)のところへ行(い)くとちゅう、その人(ひと)たちの病気(びょうき)は去(さ)り、からだはなおりました。健康(けんこう)なからだにもどったのです!イエスの力(ちから)を信(しん)じて、報(むく)いを受(う)けたその人(ひと)たちは、どんなにか喜(よろこ)んだことでしょう!
ところで、その人(ひと)たちは感謝(かんしゃ)をあらわすために、何(なに)をしなければなりませんでしたか。あなたならどうしましたか。--
病気(びょうき)のなおった人(ひと)のひとりは、イエスのもとにもどって来(き)て、エホバを賛美(さんび)し、神(かみ)をほめましたが、それは正(ただ)しいことでした。その人(ひと)をなおす力(ちから)は神(かみ)から来(き)たものだったからです。その人(ひと)はまた、偉大(いだい)な教(おし)え手(て)の足(あし)もとにひれふして、お礼(れい)をいいました。イエスにしていただいたことを深(ふか)く感謝(かんしゃ)していたからです。
それにしても、ほかの九人(きゅうにん)はどうですか。イエスはこうたずねました。『病気(びょうき)をなおしてもらったらい病人(びょうにん)は十人(じゅうにん)いませんでしたか。ほかの九人(きゅうにん)はどこにいるのですか。もどって
[45]
きて、神(かみ)に栄光(えいこう)をきしたのは、ただのひとりだけですか』
そうです、その十人(じゅうにん)のうちのひとりだけが神(かみ)に栄光(えいこう)をきし、もどってきて、イエスにお礼(れい)をいったのです。しかも、その人(ひと)は、サマリア人(じん)、つまりよその(くに)の人(ひと)でした。ほかの九人(きゅうにん)は神(かみ)にも、イエスにも感謝(かんしゃ)しませんでした。--ルカ伝17:11-19。
あなたは、それらの人(ひと)たちのだれに似(に)ていますか。--あなたもわたしも、そのサマリア人(びと)のようでありたいと思(おも)いませんか。--そうです、だれかになにか親切(しんせつ)なことをしていただいたなら、忘(わす)れずになにをしなければなりませんか。--感謝(かんしゃ)をあらわさなければなりません。
「ありがとうございました」というのをとかく忘(わす)れる人(ひと)がいます。でも、「ありがとうございました」というのは良(よ)いことです。それは正(ただ)しいことです。それに、「ありがとうございます」という人(ひと)は、エホバ神(かみ)とそのみ子(こ)イエスに喜(よろこ)ばれるのです。
こう考(かんが)えると、あなたは人(ひと)にいろいろなことをしていただいたのを思(おも)い出(だ)すでしょう。病気(びょうき)になったときのことを覚(おぼ)えていますか。--その十人(じゅうにん)のらい病人(びょうにん)のような病気(びょうき)をしたことはいちどもないかもしれませんが、ひどいかぜを引(ひ)いたり、おなかがいたくなったりしたことがあるでしょう。お父(とう)さんかお母(かあ)さんが世話(せわ)をしてくださいませんでしたか。--お父(とう)
[46]
さんやお母(かあ)さんに助(たす)けていただいて、よくなれたことをうれしく思(おも)いませんか。--
そのサマリア人(びと)は、病気(びょうき)をなおしていただいたイエスにお礼(れい)を述(の)べたので、イエスは喜(よろこ)ばれました。お父(とう)さんやお母(かあ)さんに何(なに)かをしてもらったとき、「ありがとうございました」とお礼(れい)をいうならば、お父(とう)さんやお母(かあ)さんは喜(よろこ)んでくださるのではありませんか。--そうです、喜(よろこ)んでいただけるのです。
まい日(にち)、あるいは、まいしゅう、わたしたちになにかをしてくださる人(ひと)もいます。それは、その人(ひと)たちの仕事(しごと)かもしれません。また、喜(よろこ)んでそうしてくださる人(ひと)さえいるでしょう。しかし、わたしたちはその人(ひと)たちにお礼(れい)をいうのを忘(わす)れるかもしれません。
学校(がっこう)の先生(せんせい)は、あなたが多(おお)くのことを学(まな)べるように、いっしょうけんめい努力(どりょく)しておられるでしょう。それは先生(せんせい)のお仕事(しごと)ですが、あなたが学(まな)ぶのを助(たす)けてくださる先生(せんせい)に感謝(かんしゃ)するなら、先生(せんせい)は喜(よろこ)ばれるでしょう。
ちょっとしたことをほかの人(ひと)からしてもらう場合(ばあい)もあります。だれかが戸(と)をあけてくださるかもしれません。--あるいは食事(しょくじ)のとき、だれかに食(た)べ物(もの)をまわしてもらったりすることはありませんか。--そうしたちょっとしたことにでも、「ありがとうございます」というのは良(よ)いことです。
地上(ちじょう)の人(ひと)びとに、「ありがとうございます」というのを忘(わす)れないなら、わたしたちの天(てん)のお父(とう)さまに、「ありがとうございます」というのを忘(わす)れることはまずないでしょう。それに、エホバに感謝(かんしゃ)すべきことは、なんとおおいのでしょう。エホバはわたしたちに命(いのち)と、生活(せいかつ)を楽(たの)しくするすべての良(よ)いものを与(あた)えてくださいました。ですから、まい日(にち)、神(かみ)をほめて、神(かみ)に栄光(えいこう)をきすべき、じゅうぶんの理由(りゆう)があるのです。
(感謝をあらわすべきことについては、詩篇、92:1(いとたかき者(もの)よヱホバに感謝(かんしゃ)し聖名(みな)をほめたゝふるは善(よ)きかな)とエフェソ人への手紙、5:20(わたしたちの主イエス・キリストの名により、常にすべての事に対してわたしたちの神また父に感謝をささげなさい)をもお読みください。)
あなたは、だれかから、なにか悪(わるい)いことをするように言(い)われたことがありますか。--その人(ひと)は、おもしろいよとか、ほんとうは悪(わる)いことじゃないよと言(い)って、あなたにその悪(わる)いことをさせようとしましたか。--だれかがわたしたちにそうしたことをすれば、その人(ひと)はわたしたちをゆうわくしようとしているのです。
ゆうわくされたら、わたしたちはどうしなければなりませんか。それにまけて、悪(わる)いことをしてもかまいませんか。--それはエホバ神(かみ)に喜(よろこ)ばれません。ところが、それを喜(よろこ)ぶものがだれだか知(し)っていますか。--サタン悪魔(あくま)です。
サタンは神(かみ)のてきです。また、わたしたちのてきです。サタンは見(み)えません。なぜなら、サタンは霊者(れいしゃ)だからです。しかし、サタンはわたしたちを見(み)ることができます。ある日(ひ)、悪魔(あくま)は、偉大(いだい)な教(おし)え手(て)イエス・キリストと話(はな)して、イエスをゆうわくしようとしました。それが起(お)きたとき、イエスがどうなさったかを知(し)れば、わたしたちがゆうわくにあったとき、どうすればよいかがわかります。
イエスは山(やま)に出(で)かけられました。ご自分(じぶん)が行(おこ)なうよう神(かみ)からあたえられた仕事(しごと)について考(かんが)えたいと思(おも)われたのです。
イエスは山(やま)のなかにいるあいだに、まる四十日(よんじゅうにち)たちました。そのあいだずっと、イエスはなにも食(た)べませんでした。いまやイエスはすっかりおなかがすいてしまいました。
サタンがイエスをゆうわくしようとしたのはそのときです。悪魔(あくま)はこう言(い)いました。『もしあなたが神(かみ)の子(こ)であるならば、パンのかたまりとなるようこの石(いし)に告(つ)げなさい』パンはどんなにかおいしいことでしょう!
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でも、イエスは石(いし)をパンにかえる力(ちから)を持(も)っておられましたか。--はい、持(も)っておられました。イエスは神(かみ)のみ子(こ)だからです。イエスはとくべつな力(ちから)を持(も)っておられました。
悪魔(あくま)から石(いし)をパンにかえるようにといわれたら、あなたはそうしたでしょうか。--イエスはとてもおなかがすいていました。では、たった一(いち)どだけ石(いし)をパンにかえてもかまいませんでしたか。--自分(じぶん)の力(ちから)をそのような仕方(しかた)で用(もち)いるのはまちがっているということをイエスは知(し)っておられました。エホバは、イエスが自分(じぶん)のために使(つか)うのではなく、人(ひと)びとをエホバにひきよせるためにそうした力(ちから)を用(もち)いるよう、おあたえになったのです。
そこでイエスはそうするかわりに、サタンに、聖書(せいしょ)にはこう書(か)かれていると言(い)われました。『人(ひと)はパンだけによらず、エホバの口(くち)から出(で)てくるすべてのことばによって生(い)きなければなりません』イエスは、エホバに喜(よろこ)ばれることをするほうが、食物(しょくもつ)を食(た)べるよりもたいせつなことを知(し)っておられました。
ところが、悪魔(あくま)はあきらめませんでした。こんどはイエスをエルサレムに連(つ)れて行(い)って、神殿(しんでん)の高(たか)いところに立(た)たせると、こういいました。『もしあなたが神(かみ)の子(こ)ならば、ここから身(み)を投(とう)じなさい、神(かみ)の使(つか)いたちはあなたが害(がい)されないよう守(まも)るでしょうと書(か)かれているからです』イエスはどうなさいましたか。--
こんどもイエスはサタンの言(い)うことを聞(き)かないで、命(いのち)をきけんにして、エホバを試(こころ)みるのはまちがっていると、サタンに言(い)いました。
それでもサタンはあきらめず、こ
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んどは、イエスをたいへん高(たか)い山(やま)に連(つ)れて行(い)きました。サタンは、せかいのすべての王国(おうこく)と、そのさかえているようすをイエスに見(み)せ、こう言(い)いました。『もしあなたが身(み)をかがめてわたしに崇拝行為(すうはいこうい)をするならば、わたしはこれらすべてをあなたに与(あた)えます』。あなただったら、どうしたでしょうか。--
イエスはそうしようとなさいませんでした。どんなものを手(て)にいれるにしても、悪魔(あくま)をすうはいするのはまちがっていることを、イエスは知(し)っておられました。それでイエスは悪魔(あくま)にこう言(い)われたのです『サタンよ、行(い)ってしまいなさい!あなたが崇拝(すうはい)しなければならないのはあなたの神(かみ)エホバであり、あなたは彼(かれ)にのみ仕(つか)えなければならないと聖書(せいしょ)にしるされているからです』--ルカ伝、4:1-13。マタイ伝4:1-10。
わたしたちも、ゆうわくにあいます。どのようにしてゆうわくされるのか、知(し)っていますか。--一つの例(れい)があります。
お母(かあ)さんが夕食(ゆうしょく)のためにおいしいパイかケーキを作(つく)ったとします。でも、お母(かあ)さんはあなたに、食事(しょくじ)の時間(じかん)まで食(た)べてはいけません、とおっしゃるとしましょう。とてもおなかがすいていれば、あなたは、そのパイを食べるゆうわくをかん
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じるかもしれません。あなたはお母(かあ)さんに従(したが)いますか。--サタンはあなたが従(したが)わないことを望(のぞ)んでいます。
でも、イエスのことをおもいだしてください。イエスも、たいへんおなかをすかしておられましたが、神(かみ)を喜(よろこ)ばせるほうが、いっそうたいせつなことを知(し)っておられました。
あなたがすこし大(おお)きくなると、何(なに)かのくすりをのむようにいわれるかもしれません。あるいは、たばこをすうようにすすめられるかもしれません。その子(こ)たちは、そうしたくすりをのむと、とてもいい気もちになるというでしょう。でも、そのくすりはまやくかもしれないのです。それをのむと、おもい病気(びょうき)になって、死(し)んでしまうことさえあります。あなたはどうしますか。--
でも、イエスのことをおもいだしてください。サタンはイエスに、神殿(しんでん)から飛(と)びおりて命(いのち)をきけんにさせようとしました。しかし、イエスはそうしようとはなさいませんでした。イエスはサタンのことばに従(したが)いませんでした。あなたもまやくをのませようとする人のことばに従(したが)ってはなりません。
他(た)の人(ひと)がみな正(ただ)しいことをしているときに、そうするのはやさしいことですが、わたしたちに悪(わる)いことをさせようとしているときに、正(ただ)しいことをするのは、たいへんむずかしいばあいがあります。それらの人(ひと)は、自分(じぶん)たちのしていることはそんなに悪(わる)いことではないというかもしれません。しかし、重要(じゅうよう)なのはそれについて神(かみ)はなんと言(い)っておられるかということです。ものごとを最(もっと)もよく知(し)っておられるのは神(かみ)です。
ですから、他(た)の人(ひと)たちがなんと言(い)おうと、神(かみ)がそれは正(ただ)しくないといわれるなら、わたしたちはそのようなことをしません。こうして、わたしたちはいつも神(かみ)を喜(よろこ)ばせますが、けっして悪魔(あくま)には仕(つか)えません。
(悪いことをさせようとするゆうわくに絶える方法に関する良い助言がさらにマタイ伝、26:41(ずっと見張(みは)っていて絶えず祈り、誘惑(ゆうわく)に陥(おちい)らないようにしていなさい。もとより、霊ははやっても、肉体は弱いのです);箴言、22:24, 25(怒(いかる)る者(もの)と交(まじは)ること勿(なか)れ 憤(いきど)ほる人(ひと)とともに往(ゆく)ことなかれ);詩篇1:1, 2(悪(あし)きものの謀略(はかりごと)にあゆまず つみびとの途(みち)にたゝず 嘲(あざけ)るものの座(ざ)にすわらぬ者(もの)はさいわひなり2. かゝる人(ひと)はヱホバの法(のり)をよろこびて日(ひる)も夜(よる)もこれをおもふ)にしるされています。)
あなたはいじわるをされたことがありますか。--その人(ひと)はあなたの気(き)を悪(わる)くさせたり、不親切(ふしんせつ)なことを言(い)ったりしましたか。--では、あなたはいやな気持(きも)ちになりましたね。--
そのようなとき、自分(じぶん)がされたと同(おな)じような仕方(しかた)で不親切(ふしんせつ)なことをその人(ひと)にすべきですか。--多(おお)くの人(ひと)はそうします。
しかし、偉大(いだい)な教(おし)え手(て)は、自分(じぶん)にいじわるをした人(ひと)を許(ゆる)さなければなりませんといわれました。人(ひと)を許(ゆる)すのがどんなにたいせつなことかを教(おし)えるために、イエスは一(ひと)つのお話(はなし)をなさいました。あなたはそれを聞(き)きたいと思(おも)いませんか。--
むかし、ひとりの王様(おうさま)がいました。それは良(よ)い王様(おうさま)で、たいへん親切(しんせつ)な人(ひと)でした。その王様(おうさま)は自分(じぶん)のどれいが困(こま)ると、お金(かね)をかしさえしました。
でも、王様(おうさま)がかしたお金(かね)を返(かえ)してもらう時(とき)が来(き)て、自分(じぶん)からお金(かね)をかりたどれいたちを呼(よ)び、お金(かね)を返(かえ)すよう命(めい)じました。さて、ひとりの男(おとこ)は王様(おうさま)から六千万枚(ろくせんまんまい)のお金(かね)をかりていました。それはとてもたくさんのお金(かね)です。それはわたしたちが今(いま)まで手(て)にしたよりもたくさんのお金(かね)です。
そのどれいは王様(おうさま)からかりたお金(かね)を使(つか)いはたしてしまったので、一枚(いちまい)のお金(かね)も返(かえ)せませんした。それで王様(おうさま)はそのどれいと、どれいの妻(つま)や子(こ)どもたち、そしてどれいのもち物(もの)すべてを売(う)るように言(い)いつけました。そうすれば、それを売(う)って、王様(おうさま)にお金(かね)を返(かえ)せます。どれいはそれを聞(き)いてどんな気持(きもち)ちになったと思(おも)いますか。--
そのどれいは「どうかそのようなことはなさらないでください。もう少(すこ)し時間(じかん)をください。そうすれば、あなたから
[64]
おかりしているものを全部(ぜんぶ)お返(かえ)しいたします」と、王様(おうさま)にたのみました。もしあなたが王様(おうさま)だったら、そのどれいをどうあつかいましたか。--
良(よ)い王様(おうさま)はどれいをとてもかわいそうに思(おも)い、お金(かね)を一枚(いちまい)も返(かえ)さなくてもよいといわれました。六千万枚(ろくせんまんまい)ものお金(かね)のうち、一枚(いちまい)も返(かえ)さなくてもよくなったのです。そのどれいはどんなにか喜(よろこ)んだことでしょう。
しかし、それからそのどれいはどうしましたか。出(で)かけて行(い)って、自分(じぶん)からわずか百枚(ひゃくまい)のお金(かね)をかりた別(べつ)のどれいを見(み)つけました。それは六千万枚(ろくせんまんまい)のお金(かね)に比(くら)べたら、とるにたりないものです。ところがその男(おとこ)は仲間(なかま)の首(くび)をつかんでしめつけ「わたしがかした百枚(ひゃくまい)のお金(かね)を返(かえ)せ」と言(い)いました。
そのようなことをする人(ひと)を想像(そうぞう)できますか。--そのどれいは良(よ)い王様(おうさま)から非常(ひじょう)に寛大(かんだい)な許(ゆる)しをえたのに、こんどは仲間(なかま)のどれいに百枚(ひゃくまい)のお金(かね)を返(かえ)せと命令(めいれい)したのです。それは親切(しんせつ)なことではありませんでした。
さて、わずか百枚(ひゃくまい)のお金(かね)をかりていたどれいはびんぼうだったので、そのお金(かね)をすぐに返(かえ)せませんでした。それで仲間(なかま)のどれいの足(あし)もとにひれふすと『どうかもう少(すこ)し時間(じかん)をください。そうすれば、かりたものをお返(かえ)ししますから』とたのみました。その男(おとこ)は仲間(なかま)のどれいに時間(じかん)をあたえるべきではありませんでしたか。--あなたはそうしましたか。--
ところが、その男(おとこ)は王様(おうさま)のように親切(しんせつ)ではありませんでした。仲間(なかま)のどれいはその男(おとこ)にお金(かね)をすぐ返(かえ)せなかったので、その男(おとこ)は彼(かれ)をろう屋(や)に入(い)れてしまいました。その男(おとこ)はたしかに人(ひと)を許(ゆる)しませんでした。
ほかのけらいたちはそのできごとをはじめからおわりまでを見(み)て、そのことを王様(おうさま)に伝(つた)えました。王様(おうさま)は人(ひと)を許(ゆる)そうとしないどれいのことにたいへんはらをたて、彼(かれ)を呼(よ)んでこう言(い)いました「悪(わる)いどれいよ、わたしがおまえがわたしから
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かりたものを許(ゆる)さなかったか。では、おまえは仲間(なかま)のどれいをも許(ゆる)すべきではなかったか」
男(おとこ)は良(よ)い王様(おうさま)から教(きょう)くんを学(まな)ぶべきでしたが、学(まな)んではいませんでした。それで王様(おうさま)は、人(ひと)を許(ゆる)そうとしないそのどれいを、六千万枚(ろくせんまんまい)のお金(かね)を返(かえ)すまでろう屋(や)に入(い)れることにしました。もちろんろう屋(や)のなかにいては、返(かえ)すお金(かね)をもうけることができませんでしたから、その男(おとこ)は死(し)ぬまでそこにいることになったのです。
イエスはこのお話(はなし)を語(かた)りおえたとき、ご自分(じぶん)に従(したが)う者(もの)たちにこう言(い)われました『もしあなたがた各自(かくじ)が、自分(じぶん)の兄弟(きょうだい)を心(こころ)から許(ゆる)さないなら、わたしの天(てん)の父(ちち)もあなたがたを同(おな)じように扱(あつ)われるでしょう』--マタイ伝、18:21-35。
あなたも知(し)っているとおり、わたしたちはみな神(かみ)にたくさんのものを負(お)っています。わたしたちの命(いのち)は神(かみ)から与(あた)えられたものです。でも、わたしたちは悪(わる)いことをしますから、神(かみ)はわたしたちから命(いのち)を取(と)ることもおできになります。わたしたちが神(かみ)に負(お)っているものを支払(しはら)うだけのお金(かね)をもうけることは一生(いっしょう)かかってもとうていできません。
わたしたちが神(かみ)に負(お)っているものにくらべれば、他(た)の人(ひと)たち[:が]わたしたちに負(お)っているものは、ほんとうにとるにたりません。それはちょうど、あの一方(いっぽう)のどれいが別(べつ)のどれいからかりた百枚(ひゃくまい)のお金(かね)のようなものですが、わたしたちが神(かみ)に負(お)っているのは、どれいが王様(おうさま)に負(お)っていた六千万枚(ろくせんまんまい)のお金(かね)のようなものです。
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神(かみ)はとても親切(しんせつ)なかたですから、悪(わる)いことをしたわたしたちを許(ゆる)してくださいます。神(かみ)はわたしたちから命(いのち)を永遠(えいえん)に奪(うば)うことによって、わたしたちに支払(しはら)いをおこなわせようとはなさいません。でも、わたしたちがみ子(こ)イエスを信(しん)じ、わたしたちに悪(わる)いことをする人(ひと)たちを許(ゆる)すときにだけ、わたしたちは神(かみ)から許(ゆる)されるのです。これは考(かんが)えなければならないことですね。--
ではだれかがあなたに不親切(ふしんせつ)なことをして、それからあやまったなら、どうしますか。その人(ひと)をゆるしてあげますか。--そういうことが何度(なんど)もあったらどうしますか。それでもあなたがその人(ひと)を許(ゆる)してあげますか。--
もしあなたが、あやまるほうの人(ひと)だったら、他(た)の人(ひと)から許(ゆる)してもらいたいと思(おも)いませんか。--わたしたちは他(た)の人(ひと)にも同(おな)じようにすべきです。単(たん)にその人(ひと)を許(ゆる)すというだけでなく、心(こころ)からほんとうに許(ゆる)すべきです。そうすれば、わたしたちは偉大(いだい)な教(おし)え手(て)に従(したが)う者(もの)になりたいと、ほんとうに願(ねが)っているということを示(しめ)せます。
(人を許すことのたいせつさを強調するため、マタイ伝、6:14, 15「14. あなたがたが人の罪過(ざいか)をゆるすなら、あなたがたの天の父もあなたがたをゆるしてくださるのです。15. けれども、あなたがたが人の罪過をゆるさないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪過をゆるされないでしょう);ルカ伝、17:3, 4(3. 自分自身に注意を払(はら)いなさい。あなたの兄弟が罪をおかすなら、叱責(しっせき)を与え、その人が悔(く)い改(あらた)めるなら、ゆるしてあげなさい。4. たとえその人があなたに対して一日(いちにち)に七回罪(ななかいつみ)をおかし、『わたしは悔(く)い改(あらた)めます』と言(い)ってあなたのもとに七回戻(もど)って来(き)たとしても、あなたはその人をゆるしてあげなければなりません);そして箴言、19:11(聰明(さとり)は人(ひと)に怒(いかり)をしのばしむ 過失(あやまち)を宥(ゆる)すは人(ひと)の栄誉(ほまれ)なり)をも読んでください。)
女(おんな)の子(こ)がおかあさんに「はい、学校(がっこう)がおわったらすぐ家(いえ)にかえります」といったとしましょう。ところが、ほかの子(こ)どもたちがその女(おんな)の子(こ)に、のこって、いっしょに遊(あそ)んでいくようさそったとします。のこってもかまいませんか。--ちょっとだけならいいでしょうか。--
あるいは男(おとこ)の子(こ)が「はい、もう家(いえ)の中(なか)ではボールを投(な)げたりしません」とお父(とう)さんにいうかもしれません。では、お父(とう)さんが見(み)ていないときに、もう2, 3 回(かい)だけだったらしてもかまいませんか。--
偉大(いだい)な教(おし)え手(て)は、どうするのが正(ただ)しいかを教(おし)えて、こういわれました『ただ、あなたがたの「はい」ということばは、はいを、「いいえ」は、いいえ、を意味(いみ)するようにしなさい。それ以外(いがい)のことはみな邪悪(じゃあく)な者(もの)から出(で)るからです』--マタイ伝5ノ37。
イエスはそれによって何(なに)をいおうとしておられたのですか。--約束(やくそく)は守(まも)らなければならない、つまり、いつもほんとうのことをいわなければならないということを意味(いみ)しておられたのです。
ほんとうのことをいうのがどんなにたいせつかを示(しめ)すお話(はなし)があります。それは、自分(じぶん)はイエスの弟子(でし)だ、といっていたふたりの人(ひと)の話(はなし)です。
イエスの死(し)なれたのちまもなく、多(おおく)くの人(ひと)がイエスの弟子(でし)になりました。そのなかには、遠(とお)い所(ところ)からエルサレムに来(き)た人(ひと)たちもいました。その人(ひと)たちはエルサレムではじめてイエスのことを学(まな)んだのです。そしてもっと知(し)りたいと思(おも)いまし
[72]
た。その結果(けっか)、自分(じぶん)たちが考(かんが)えていたよりも長(なが)くエルサレムにとどまっていたので、なかにはお金(かね)がなくなって、食(たべ)べ物(もの)を買(か)うには援助(えんじょ)を受(う)けなければならない人(ひと)もいました。
エルサレムにいた弟子(でし)たちはそれらの人(ひと)たちを助(たす)けたいと思(おも)いました。そこで弟子(でし)たちの多(おお)くは自分(じぶん)の持(も)ち物(もの)を売(う)って、そのお金(かね)をイエスの使徒(しと)たちのところへ持(も)ってきました。使徒(しと)たちはそのお金(かね)を困(こま)っている人(ひと)たちに与(あた)えました。
アナニヤという弟子(でし)とその妻(つま)サッピラは、自分(じぶん)たちの畑(はたけ)を売(う)りました。ふたりは、その畑(はたけ)を売(う)りなさいとだれからも命令(めいれい)されたわけではありません。自分(じぶん)たちだけでそう決(き)めたのです。しかし、そうしたのは、ふたりが新(あたら)しい弟子(でし)たちを愛(あい)したからではありませんでした。ほんとうは、人(ひと)びとによく思(おも)われたかったのです。それでふたりは、そのお金(かね)を他(た)の人(ひと)びとを助(たす)けるために、まるで全部与(ぜんぶあた)えているようにみせかけることにしました。しかし、実際(じっさい)には、その一部(いちぶ)だけを与(あた)えて、残(のこ)りをとっておこうとしました。あなたはそのことをどう思(おも)いますか。--
さて、アナニヤが最初(さいしょ)にイエスの使徒(しと)たちに会(あ)いに来(き)て、お金(かね)をさし出(だ)しました。でも、アナニヤは全部(ぜんぶ)のお金(かね)を与(あた)えてはいませんでした。神(かみ)はそのことを知(し)っておられました。それで神(かみ)は、アナニヤが正直(しょうじき)ではないことを使徒(しと)ペテロにお教(おし)えになりました。それでペテロはこういいました。
『アナニヤよ、あなたはなぜ、サタンがあなたにこのようなことをさせるままにしたのですか。畑(はたけ)はあなたのものでした。あなたはそれを売(う)らなくてもよかったのです。それにあなたが畑(はたけ)を売(う)ってからでさえ、そのお金(かね)をどうするかはあなたの決(き)めることでした。しかし、その一部(いちぶ)だけを与(あた)えておきながら、なぜ、全部(ぜんぶ)のお金(かね)を与(あた)えているかのように見(み)せかけたのですか。そうすることによって、あなたは、わたしに対(たい)してでなく、神(かみ)に対(たい)してうそをついたのです』
[73]
それはそれほど重大(じゅうだい)なことでした。アナニヤはたしかにうそをついていたのです。アナニヤは、自分(じぶん)がするつもりだといっただことをしませんでした。彼(かれ)とその妻(つま)はそうするふりをしただけでした。
聖書(せいしょ)は、次(つぎ)に何(なに)が起(お)きたかをこう述(の)べています。『ペテロのことばを聞(き)くや、アナニヤは倒(たお)れて、死(し)んだ』。アナニヤは神(かみ)にうたれて死(し)んだのです。その死体(したい)は外(そと)に運(はこ)ばれ、ほうむられました。
3 時間(じかん)ほどのち、その妻(つま)サッピラがはいってきました。サッピラは夫(おっと)に起(お)きたことを知(し)りませんでした。それでペテロはサッピラにこうたずねました。『あなたがたふたりは、くださったお金(かね)の額(がく)で畑(はたけ)を売(う)ったのですか』
サッピラは答(こた)えました。『そうです、わたしたちはちょうどそれだけの価格(かかく)で畑(はたけ)を売(う)りました』
しかし、それはうそでした。ふたりはお金(かね)のいくらかを自分(じぶん)たちのためにとっておいたのです。それでサッピラも神(かみ)にうたれて死(し)にました。--使徒行伝、5:1-11。
わたしたちは、アナニヤとサッピラに起(お)きたことから何(なに)かを学(まな)ぶべきだと思(おも)いますか。--そのとおりです。それは神(かみ)はうそをつく人(ひと)をきらわれるということを教(おし)えてくれます。神(かみ)は、わたしたちがいつもほんとうのことをいうのを望(のぞ)んでおられます。
うそをつくのは悪(わる)いことではないという人(ひと)は少(すく)なくありません。そのような人(ひと)はほとんど毎日(まいにち)うそをつきます。しかし、あなたはうそをつくのは正(ただ)しいことだと思(おも)いますか。--
地上(ちじょう)で見(み)られる病気(びょうき)や苦(くる)しみや死(し)ははすべて、ひ
[74]
とつのうそのために生(うま)れたということを知(し)っていましたか。--悪魔(あくま)は神(かみ)について最初(さいしょ)の女(おんな)エバにうそをつきました。その結果(けっか)、エバは神(かみ)の律法(りっぽう)を破(やぶ)り、つぎにアダムにも神(かみ)の律法(りっぽう)を破(やぶ)らせました。ふたりは罪人(つみびと)になったので、その子(こ)どもはみな、うまれつきの罪人(つみびと)となりました。そして罪(つみ)のために苦(くる)しんで死(し)ぬようになりました。このすべてはどのようにして始(はじ)まりましたか。--うそがもとで始(はじ)まったのです。
イエスが、悪魔(あくま)は『うそつきであり、うその父(ちち)です』といわれたのももっともです。悪魔(あくま)はうそをついた最初(さいしょ)の者(もの)です。だれかだうそをついたばあい、その人(ひと)は悪魔(あくま)のしたことをしているのです、もしうそをつきたいと思(おも)うことがあるなら、このことを考(かんが)えるべきです。--ヨハネ伝18ノ44。
なにかの悪(わる)いことをしたりすると、そのことについてうそをつきたくなる場合(ばあい)がよくあります。たとえば、なにかをこわすかもしれません。そうしようなどとは思(おも)ってもいなかったのに、とにかくそれはこわれてしまいました。では、どうすべきですか。それをかくして、だれにもみつからないようにすべきですか。--
アナニヤとサッピラのことを思(おも)い出(だ)すべきです。ふたりはほんとうのことをかくそうとしました。それで神(かみ)は、ふたりをうって死(し)なせることにより、それがどんなに悪(わる)いことかを示(しめ)されました。
ですから、たとえ何(なに)をしようとも、それについて決(けっ)してうそをつくべきではありません。聖書(せいしょ)は「真実(しんじつ)を語(かた)りなさい」と述(の)べています。また、「互(たが)いに偽(いつわ)りを語(かた)ってはなりません」とも書(か)かれています。エホバはつねに真実(しんじつ)を語(かた)る神(かみ)ですから、わたしたちがおなじようにすることを望(のぞ)んでおられます。--エフェソ書、4:25。コロサイ書、3:9。
(わたしたちはいつもほんとうのことを話すべきです。それこそ出エジプト記20ノ16(汝(なんぢ)その隣人(となり)に対(たい)して虚妄(いつはり)の証拠(あかし)をたつるなかれ);箴言、6:16-19(16. ヱホバの憎(にく)みたまふもの六(むつ)あり 否(いな)その心(こゝろ)に嫌(きら)ひたまふもの七(なゝつ)つあり 17. 即(すなは)ち驕(たかぶ)る目(め) いつはりをいふ舌(した) つみなき人(ひと)の血8ち)を流(なが)す手(て) 18. 悪(あし)き謀計(はかりごと)をめぐらす心(こゝろ) すみやかに悪(あく)に趨(はし)る足(あし)19. 詐欺(いつはり)をのぶる証人(あかしびと)……);14:5(忠信(まこと)の証人(あかしびと)はいつはらず 虚偽(いつはり)のあかしびとは謊言(いつはり)を吐(は)く);12ノ19(真理(まこと)をいふ口唇(くちびる)は何時(いつ)までも存(たも)つ されど虚偽(いつはり)をいふ舌(した)はたゞ瞬息(まばたき)のあひだのみなり);16:6(憐憫(あはれみ)と真実(まこと)とによりて愆(とが)は贖(あがな)はる ヱホバを畏(おそ)るゝことによりて人悪(ひとあく)を離(はな)る)の要点です。)
もしみんなが良(よ)い人(ひと)であったら、どんなにかすばらしいことでしょう。--そうであれば、だれも他(た)の人(ひと)をきずつけるようなことはしません。
しかし、いつもほんとうに良(よ)い人間(にんげん)であるというような人がいますか。あなたはどう思(おも)いますか。--聖書(せいしょ)には、エホバ神(かみ)はいつも良(よ)いかたであると書(か)かれています。また、偉大(いだい)な教(おし)え手(て)であられるイエスはいつも正(ただ)しいことをなさいます。しかし、いつも良(よ)い人間(にんげん)でいられる人(ひと)はひとりもいません。
わたしたちは良(よ)い人(ひと)であろうと努力(どりょく)しますが、悪(わる)いことを考(かんが)える時(とき)がありますね。--ときには悪(わる)いこともします。最初(さいしょ)の人間(にんげん)アダムは、わざと神(かみ)にそむきました。それはたいへん悪(わる)いことでした。そのために、わたしたちはみな、不完全(ふかんぜん)なものとして生(う)まれました。みなアダムの子(こ)どもだからです。それは人(ひと)びとが悪(わる)い人(ひと)でありたくないと思(おも)っても悪(わる)いことをする理由(りゆう)の一(ひと)つです。
でも、わざと悪(わる)いことをする人(ひと)がいます。そうした人(ひと)たちはほかの人(ひと)をにくんで人(ひと)をきずつけるようなことをします。そのような人(ひと)が変化(へんか)して、良(よ)い人(ひと)になれると思(おも)いますか。--
聖書(せいしょ)は悪(わる)い人(ひと)が変化(へんか)した例(れい)をいくつかあげています。そのうちの一(ひと)つをあなたにお話(はな)ししましょう。それから、なぜその人(ひと)が悪(わる)い人(ひと)だったのか、わたしたちにわかるかどうかも、いっしょに考(かんが)えましょう。
その人(ひと)の名前(なまえ)はサウロでした。サウロはたいへん宗教心(しゅうきょうしん)のある人(ひと)で、パリサイ派(は)と呼(よ)ばれる宗派(しゅうは)に入(はい)っていました。パリサイ派(は)は神(かみ)のことば聖書(せいしょ)を持(も)っていましたが、そのなか
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に書(か)かれていることよりも、自分(じぶん)たちの指導者(しどうしゃ)のある人(ひと)びとの教(おし)えをいっそうたいせつにしました。あなたはそれがかしこいことだと思(おも)いますか。--そのためにたいへんなわざわいが来(く)るばあいがあります。
サウロがエルサレムにいたある日(ひ)、ステパノという名(な)の、イエスの弟子(でし)のひとりがつかまえられました。人(ひと)びとはステパノをさいばん所(しょ)につれて行(い)きましたが、さいばん官(かん)のなかにはパリサイ派(は)の人(ひと)たちもいました。ステパノは、自分(じぶん)のことを、いろいろ悪(わる)く言(い)われましたが、おそれずに話(はな)し、神(かみ)とイエスについてさいばん官(かん)たちによく証言(しょうげん)しました。
しかし、さいばん官(かん)たちは自分(じぶん)たちの聞(き)いたことが気(き)にいりませんでした。彼(かれ)らはたいへんこうふんして、ステパノをひっつかむと町(まち)の外(そと)へつれて行(い)きました。そしてステパノを打(う)ち倒(たお)して、石(いし)を投(なげ)げ、とうとうステパノを殺(ころ)してしまいました。
サウロはステパノが(ころ)されるのをその場(ば)で見(み)ていました。彼(かれ)はステパノを殺(ころ)すのはよいことだと思(おも)っていたのです。でも、どうしてそんな悪(わる)いことを考(かんが)えられたのでしょうか。--
さてサウロはパリサイ人(びと)として育(そだ)ち、生(う)まれた時(とき)からずっと自分(じぶん)たちは正(ただ)しい人間(にんげん)だと教(おし)え
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られていたので、パリサイ派(は)の人(ひと)たちを模範(もはん)と考(かんが)えていました。それで、その人(ひと)たちに見(み)ならったのです。
ステパノが死(し)んだので、サウロはイエスの弟子(でし)の残(のこ)りの人(ひと)たちをのぞきたいと思(おも)いました。サウロは彼(かれ)らの家(いえ)にはいって、男(おとこ)や女(おんな)をひきずり出(だ)しろう屋(や)に投(な)げこみました。弟子(でし)たちの多(おお)くは彼(かれ)につかまえられないようにため、エルサレムからほかへ移(うつ)って行(い)きました。しかしイエスについて宣(の)べ伝(つた)えることはやめませんでした。--使徒行伝、8:1-4。
そのためサウロはイエスの弟子(でし)たちをますますにくむようになりました。彼(かれ)は大祭司(だいさいし)のところへ行(い)って、ダマスコ市(し)にいるクリスチャンをつかまえるゆるしをもらいました。ところがダマスコへ行(い)くとちゅう、おどろくべきことが起(お)こりました。
天(てん)からたいへん明(あか)るい光(ひか)りがかがやいたので、サウロは目(め)が見(み)えなくなりました。すると「サウロ、サウロ、あなたはなぜわたしを迫害(はくがい)するのか」という声(こえ)がしました。主(しゅ)イエスが天(てん)から話(はな)しておられたのです。それでサウロはめくらのままダマスコへつれてゆかれました。
三日(みっか)あとに、イエスは、弟子(でし)のひとりでアナニアという名前(なまえ)の人(ひと)にまぼろしの中(なか)で現(あら)われ、サウロのところへ行(い)って、彼(かれ)の目(め)を見(み)えるようにしてやり、それから彼(かれ)に話(はな)しなさいと命(めい)じました。いまやサウロは喜(よろこ)んで耳(みみ)を傾(かたむ)けようとしていました。アナニアがサウロに話(はなし)したとき、サウロはイエスにかんする真理(しんり)を受(う)け入(い)れました。サウロの目(め)はふたたび見(み)えるようになり、サウロはそれまでの生(い)きかたをすっかり変(か)えて、神(かみ)の忠実(ちゅうじつ)なしもべになりました。--使徒行伝、9:1-22。
さて、サウロが以前(いぜん)なぜそんなに悪(わる)い人(ひと)だったのかわかりますか。--サウロはまちがったことを教(おし)えられており、神(かみ)に忠実(ちゅうじつ)でない人(ひと)たちに従(したが)っていました。そして、神(かみ)のことば聖書(せいしょ)よりも人間(にんげん)の考(かんが)えをたいせつにする人(ひと)びとの仲間(なかま)だったの
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です。しかし、サウロは真理(しんり)をほんとうににくんではいなかったので、自分(じぶん)を変(か)えました。
今(いま)でも、サウロのような人(ひと)はたくさんいます。その人(ひと)たちは自分(じぶん)を変(か)えることができますが、それはやさしいことではありません。なぜなら、すべての人(ひと)に悪(わる)いことをさせようといっしょうけんめいに働(はたら)いている者(もの)がいるからです。それはだれだか知(し)っていますか。--イエスは天(てん)からサウロに話(はな)しかけられた時(とき)その者(もの)についてこう言(い)われました。『わたしは人(ひと)びとの目(め)をあけて、彼(かれ)らを暗(くら)やみから光(ひか)りに、またサタンの力(ちから)から神(かみ)に転(てん)じさせるために、あなたをつかわします』--使徒行伝、26:17, 18。
そうです、悪(わる)いことがらにかんする教(おし)えすべては、サタン悪魔(あくま)から出(で)ています。サタンは人(ひと)びとが悪(わる)い人間(にんげん)であるようにと願(ねが)っているのです。ですから、もしわたしたちが悪(わる)いことをすれば、悪魔(あくま)は喜(よろこ)びます。でもわたしたちはエホバを喜(よろこ)ばせたいと思(おも)いますね。--ではどうすればそうすることができますか。--
聖書(せいしょ)にいつも注意(ちゅうい)を払(はら)って、そこに書(か)かれている事(こと)がらを行(おこ)なえば、わたしたちは神(かみ)に喜(よろこ)ばれるでしょう。自分(じぶん)が何(なに)か悪(わる)い事(こと)をしていたということが聖書(せいしょ)からわかったなら、それをやめなければなりません。神(かみ)がわたしたちにしてほしいと望(のぞ)んでおられることを聖書(せいしょ)から学(まな)んだなら、それをいっしょうけんめいしなければなりません。神(かみ)に喜(よろこ)ばれることをするなら、わたしたちは良(よ)い事(こと)をしているのです。なぜなら、神(かみ)は良(よ)いかただからです。
(悪いことを避ける助けとして、箴言、3:5-7(5. 汝(なんぢ)こゝろを尽(つく)してヱホバに倚頼(よりたの)め おのれの聰明(さとり)に倚(よ)ることなかれ6. 汝(なんぢ)すべての途(みち)にてヱホバをみとめよ さらばなんぢの途(みち)を直(なほ)くしたまふべし7. 自(みづ)から看(み)て聰明(さとし)とする勿(なか)れ ヱホバを畏(おそ)れて悪(あく)を離(はな)れよ);12:15(愚(おろか)なる者(もの)はみづからその道(みち)を見(み)て正(たゞ)しとす されど知恵(ちゑ)ある者(もの)はすゝめを容(い)る);2ノ10-14(10. すなはち知恵(ちゑ)なんぢの心(こゝろ)にいり 知識(ちしき)なんぢの霊魂(たましひ)に楽(たの)しからん11. 謹慎(つゝしみ)なんぢを守(まも)り 聰明(さとり)なんぢをたもちて12. 悪(あし)き途(みち)よりすくひ虚偽(いつはり)をかたる者(もの)より救(すく)はん13. 彼等(かれら)は直(なほ)き途(みち)をはなれて幽庵(くら)き路(みち)に行(あゆ)み14. 悪(あく)を行(おこな)ふを楽(たの)しみ 悪者(あしきもの)のいつはりを悦(よろこ)び);詩篇、119:9-11(9. わかき人(ひと)はなにによりてかその道(みち)をきよめん 聖言(みことば)にしたがひて慎(つゝし)むのほかぞなき10. われ心(こゝろ)をつくして汝(なんぢ)をたづねもとめたり 願(ねがは)くはなんぢの誡命(いましめ)より迷(まよ)ひいださしめ給(たま)ふなかれ11. われ汝(なんぢ)にむかひて罪(つみ)ををかすまじき為(ため)になんぢの言(ことば)をわが心(こゝろ)のうちに蔵(たくは)へたり)をもいっしょに読んでください。)
あなたには兄弟(きょうだい)や姉妹(しまい)が何人(なんにん)いますか。--だれもが家族(かぞく)のなかに兄弟(きょうだい)や姉妹(しまい)を持(も)っているわけではありません。ひとりでも兄弟(きょうだい)がいれば感謝(かんしゃ)する気持(きも)ちになれます。
神(かみ)は、わたしたちがある人(ひと)びとをとくべつ親(した)しく感(かん)じるようにお作(つく)りになりました。たくさんの友(とも)だちを持(も)っていても、兄弟(きょうだい)や姉妹(しまい)は友(とも)だちどうしよりももっと心配(しんぱい)しあうのがふつうです。ひとりが困(こま)っていれば、他方(たほう)が助(たす)けます。あなたがほしいのは、そのような兄弟(きょうだい)ではありませんか。--
でも、だれもが自分(じぶん)の兄弟(きょうだい)や姉妹(しまい)に親切(しんせつ)だとはかぎりません。聖書(せいしょ)には自分(じぶん)の弟(おとうと)をなぐった人(ひと)のことがでています。その人(ひと)の名(な)まえを知(し)っていますか。--それは最初(さいしょ)の人間(にんげん)のむすこであったカインです。
農夫(のうふ)だったカインは、ある日、自分(ひ、じぶん)が育(そだ)てた食(た)べ物(もの)のいくらかをとって神(かみ)へのおくり物(もの)、つまりささげ物(もの)をそなえました。弟(おとうと)のアベルもエホバにささげ物(もの)をそなえました。アベルは自分(じぶん)がかっていた羊(ひつじ)の群(む)れのなかで一(いち)ばん良(よ)い羊(ひつじ)を神(かみ)にささげたのです。神(かみ)はアベルとそのささげ物(もの)を喜(よろこ)ばれましたが、カインとそのささげ物(もの)は喜(よろこ)ばれませんでした。
それはなぜでしたか。--アベルのほうが多(おお)くのささげ物(もの)をしたからではありません。羊(ひつじ)をささげたというだけで、そうしたちがいができたのではありません。神(かみ)は人(ひと)びとの心(こころ)を見(み)ぬくことができると聖書(せいしょ)には書(か)かれています。神(かみ)は、わたしたちが心(こころ)の中(なか)でどう感(かん)じているかを知(し)っておられます。
神(かみ)はカインの心(こころ)の中(なか)に何(なに)があるのを見(み)ましたか。--カインが弟(おとうと)ををほんとうに愛(あい)しているのではないことをごらんになりました。アベルとそのささげ物(もの)がエホバに喜(よろこ)ばれたのを
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見(み)て、カインは自分(じぶん)を変(か)えて弟(おとうと)のようになろうとしましたか。--いいえ、それどころか、カインはおこりました。
エホバはカインに自分(じぶん)の考(かんが)えかたを変(か)えるようにと告(つ)げましたが、カインは聞(き)きいれませんでした。カインがほんとうに神(かみ)を愛(あい)していたなら、神(かみ)の言(い)われたことに注意(ちゅうい)したはずです。でも、カインは神(かみ)を愛(あい)していませんでしたし、弟(おとうと)も愛(あい)していませんでした。
そこで、ある日(ひ)カインは、「野原(のはら)に出(で)かけよう」とアベルに言(い)いました。カインは心(こころ)のなかに悪(わる)い考(かんが)えを持(も)っていましたが、アベルにはそれがわかりませんでした。それでアベルはカインについて行(い)きました。野原(のはら)でふたりだけになると、カインは弟(おとうと)をなぐりました。あまりにもひどくなぐって、アベルを殺(ころ)してしまったのです。それは恐(おそろ)しいことではありませんでしたか。--創世記、4:2-8。
聖書(せいしょ)は、わたしたちがこのことからとくべつの教訓(きょうくん)を学(まな)ぶべきであると教(おし)えています。それはどんな教訓(きょういく)か知(し)っていますか。『あなたがたが最初(さいしょ)から聞(き)いている音信(おんしん)はこれです。すなわち、わたしたちは互(たが)いに愛(あい)し合(あ)わなければなりません。カインのようになってはなりません。彼(かれ)は邪悪(じゃあく)な者(もの)から出(で)ました』ですから、兄弟(きょうだい)や姉妹(しまい)はおたがいにたいして愛(あい)をいだくべきです。そして、カインのようであってはいけません。--ヨハネ第一の手紙、3:11,12。
カインのようになるのはどうしてそんなに悪(わる)いことなのでしょう。--それは、カインは「邪悪(じゃあく)な者(もの)から出(で)て」いると聖書(せいしょ)に書(か)かれているからです。その邪悪(じゃあく)な者(もの)とはだれですか。もっとも邪悪(じゃあく)な者(もの)は悪魔(あくま)です。カインは悪魔(あくま)のようにふるまいましたから、悪魔(あくま)はまるでカインの父(ちち)のようでした。それはたいへんなことではありませんか。
自分(じぶん)の兄弟(きょうだい)や姉妹(しまい)を愛(あい)することがそれほどたいせつなわけがわかりますか。--兄弟(きょうだい)や姉妹(しまい)を愛(あい)さないなら、だれの子(こ)に
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なりますか。--悪魔(あくま)の子(こ)になります。そうなりたいとは思(おも)いませんね。--では、神(かみ)の子(こ)になりたいと思(おも)っていることを、どうしたら証明(しょうめい)できますか。--自分(じぶん)の兄弟(きょうだい)や姉妹(しまい)をほんとうに愛(あい)することによって証明(しょうめい)できます。
でも、愛(あい)とはなんですか。--愛(あい)とは、ほかの人(ひと)のために良(よ)いことをしてあげたいという深(ふか)い感情(かんじょう)です。他(た)の人(ひと)たちに親切(しんせつ)な気持(きもち)ちを持(も)っているなら、それは、わたしたちがその人(ひと)たちを愛(あい)していることになります。その人(ひと)たちに良(よ)いことをしてあげるとき、わたしたちは愛(あい)を示(しめ)しているのです。そして、もしわたしたちがほんとうにだれかを愛(あい)しているなら、その人(ひと)から何(なに)かをしてもらう前(まえ)に、その人(ひと)に良(よ)いことをしようとはしませんか。--
神(かみ)はそのようなことをなさいません。わたしたちが神(かみ)を愛(あい)す前(まえ)でさえ、神(かみ)はわたしたちを愛(あい)してくださいました。わたしたちはそのことから学(まな)べます。他(た)の人(ひと)たちがわたしたちを愛(あい)を示(しめ)す前(まえ)に、わたしたちはその人(ひと)たちを愛(あい)していることを示(しめ)せるのです。クリスチャンは自分(じぶん)の家(いえ)に住(す)んでいる人(ひと)たちのほかに、多(おお)くの兄弟(きょうだい)や姉妹(しまい)を持(も)っている、と聖書(せいしょ)に書(か)かれています。それらの兄弟(きょうだい)や姉妹(しまい)たちとはだれかわかりますか。--イエスはこう言(い)われました。『天(てん)におられるわたしの父(ちち)の意志(いし)を行(おこ)なう人(ひと)はだれでも、わたしの兄弟(きょうだい)また姉妹(しまい)です』これは、神(かみ)の意志(いし)を行(おこ)なう人(ひと)はみな兄弟(きょうだい)や姉妹(しまい)だということです。それらの
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人(ひと)たちはひとつの特別(とくべつ)な家族(かぞく)の兄弟(きょうだい)また姉妹(しまい)なのです。あなたはそのことを知(し)っていましたか。--マタイ伝、12:50。
あなたは、この大(おお)きなクリスチャン家族(かぞく)の兄弟(きょうだい)や姉妹(しまい)たちすべてを愛(あい)していますか。--そうすべきだと、イエスはおっしゃいました。また、イエスは、「もしあなたがたが互(たが)いの間(あいだ)で愛(あい)を持(も)っているならば、これによってすべての人(ひと)は、あなたがたがわたしの弟子(でし)であることを知(し)るでしょう」と言(い)われました。わたしたちの兄弟 姉妹(きょうだい しまい)すべてを愛(あい)さなければならないのです。--ヨハネ伝、13:35。
兄弟(きょうだい)、姉妹(しまい)をほんとうに愛(あい)していることはどうしたら示(しめ)せますか。--もし兄弟(きょうだい)や姉妹(しまい)を愛(あい)しているならば、話(はな)したくないからといって、兄弟(きょうだい)や姉妹(しまい)たちから遠(とお)ざかるようなことはしないでしょう。わたしたちは、どの兄弟(きょうだい)や姉妹(しまい)にたいしても親(した)しくして、いつも親切(しんせつ)にするでしょう。兄弟(きょうだい)や姉妹(しまい)が困(こま)っているならば、わたしたちはたしかにひとつの大(おお)きな家族(かぞく)ですから。行(い)って助(たす)けてあげるでしょう。わたしたちが、すべての兄弟(きょうだい)や姉妹(しまい)をほんとうに愛(あい)するなら、それは何(なに)を実証(じっしょう)する者(もの)となりますか。--わたしたちが、偉大(いだい)な教(おし)え手(て)であられるイエスの弟子(でし)であるということを実証(じっしょう)するものとなります。しかも、わたしたちはそうでありたいと願(ねが)っているのではありませんか。--
(わたしたちの兄弟姉妹に愛を示すという事柄は、ヨハネ第一の手紙、4:8, 20, 21(8. 愛さない者は神を知るようになっていません。神は愛だからです。20. 「わたしは神を愛する」と言いながら自分の兄弟を憎んでいるなら、その者は偽り者です。自分がすでに見ている兄弟を愛さない者は、見たことのない神を愛することはできないからです。21. そして、神を愛するものは自分の兄弟をも愛しているべきであるという、このおきてをわたしたちは彼から受けているのです)。とガラテヤ人への手紙、6:10(ですから、時に恵まれているかぎり、すべての人、ことに信仰において結ばれている人たちに対して、良いことを行なおうではありませんか)。でも論じられています。聖書を開いてこれらの聖句を読んではいかがですか。)
自分(じぶん)がだれかに愛(あい)されているということを知(し)るのは、すばらしいことではありませんか。--自分(じぶん)をほんとうに心配(しんぱい)してくれる人(ひと)がいるのは、すばらしいことです。しかし、地上(ちじょう)のだれよりもあなたを愛(あい)しているかたがいることを知(し)っていますか。--そのかたはエホバ神(かみ)です。
エホバはわたしたちをどれほど愛(あい)しておられますか。--エホバはわたしたちが地上(ちじょう)にいるときだけわたしたちのことを考(かんが)えて、わたしたちがいなくなると忘(わす)れてしまわれますか。それとも、エホバはほんとうにわたしたちのことを覚(おぼ)えておられますか。--聖書(せいしょ)には、『死(し)も、命(いのち)も、きたるべきものも、神(かみ)の愛(あい)からわたしたちを引(ひ)き離(はな)しえません』と書(か)かれています。--ローマ書、8:38,39。
ですから、神(かみ)がお忘(わす)れになることはありません。神(かみ)はご自分(じぶん)に仕(つか)える人(ひと)びとを記憶(きおく)しておられますし、それらの人(ひと)たちの小(ちい)さな子(こ)どもも覚(おぼ)えておられます。たとえそうした人(ひと)たちが死(し)んでも、神(かみ)はそれらに人(ひと)を生(い)き返(かえ)らせてくださるのです。
神(かみ)のみ子(こ)イエスは地上(ちじょう)におられたとき、エホバが小(ちい)さな子(こ)どもたちをたいせつにしておられることを示(しめ)しました。しばしば時間(じかん)をかけて神(かみ)について子(こ)どもたちにお話(はな)しにされました。イエスは神(かみ)の力(ちから)を用(もち)いて子(こ)どもを死(し)からよみがえらせることすらなさったのです。イエスがある家族(かぞく)のために、どのようにそのことをなさったか聞(き)きたいと思(おも)いますか。--
ヤイロという名前(なまえ)の男(おとこ)の人(ひと)がいました。その人(ひと)は妻(つま)と12歳(さい)の娘(むすめ)とともにガリラヤの海(うみ)の近(ちか)くに住(す)んでいました。お父(とう)さんとお母(かあ)さんはその娘(むすめ)をたいへんかわいがっていました。娘(むすめ)はふたりにとって、たったひとりの子(こ)どもだったのです。
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ですから、そのかわいい娘(むすめ)が重(おも)い病気(びょうき)になったとき、ふたりがどんなに悲(かな)しんだかあなたにも想像(そうぞう)できるでしょう。ふたりは娘(むすめ)の病気(びょうき)を直(なお)すためにできるかぎりのことをしました。でも娘(むすめ)の病気(びょうき)は悪(わる)くなるばかりでした。ヤイロは、娘(むすめ)はもう助(たす)からないということを知(し)りました。娘(むすめ)を助(たす)けるためヤイロやお医者(いしゃ)さんたちは、どうすることもできませんでした。
しかし、イエスなら助(たす)けることができるかもしれません。ヤイロはこのすばらしい人のことや、彼(かれ)が人(ひと)びとをいやせることを聞(き)いていました。それでヤイロはその人(ひと)をさがしに出(で)かけ、ガリラヤの海(うみ)の岸(きし)べで多(おお)くの人(ひと)を教(おし)えているイエスを見(み)つけました。
ヤイロは群衆(ぐんしゅう)をかきわけて進(すす)み出(で)、イエスの足元(あしもと)にひれふして、こう言(い)いました。『わたしのおさない娘(むすめ)が重(おも)い病気(びょうき)にかかっています。どうか娘(むすめ)を助(たす)けに来(き)てください。お願(ねが)いですから来8き)てください』
イエスはさっそくヤイロといっしょに出(で)かけました。偉大(いだい)な教(おし)え手(て)にあいに来(き)ていた大勢(おおぜい)の群衆(ぐんしゅう)もついて行(い)きました。ところがしばらく行(い)くと、ヤイロの家(いえ)から数人(すうにん)の男(おとこ)の人(ひと)がやって来(き)て、「おじょうさんはなくなりました。もう先生(せんせい)をわずらわせてもしかたがありません」と言(い)いました。
その人(ひと)たちの言(い)っていることがイエスの耳(みみ)にはいりました。ヤイロがひとり娘(むすめ)をなくしてどんなに悲(かな)しんでいるか、イエスはごぞんじでした。それでヤイロにこう言(い)われたのです。『恐(おそ)れてはなりません。ただ神(かみ)を信(しん)じなさい。あなたの娘(むすめ)はだいじょうぶです』
彼(かれ)らはそのまま進(すす)んでヤイロの家(いえ)まで行(い)きました。そこでヤイロの家族(かぞく)の友人(ゆうじん)たちが泣(な)いていました。小(ちい)さな友(とも)だちが死(し)んだので悲(かな)しんでいたのです。ところがイエスはその人(ひと)たちに、『泣(な)き悲(かな)しむのをやめなさい。幼子(おさなご)は死(し)んだのではない、眠(ねむ)っているのです』と言(い)われました。
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イエスがそう言(ゆ)うと、人びとはイエスをわらいはじめました。人(ひと)びとは少女(しょうじょ)が死(し)んだことを知(し)っていたからです。しかしイエスは、それらの人(ひと)に一(ひと)つの教訓(きょうくん)をあたえるため、少女(しょうじょ)はただねむっているだけだと言(い)われたのです。イエスは、ちょうどねむっている人(ひと)を起(お)こすのと同(おな)じほど、かんたんに、死(し)んだ人(ひと)を神(かみ)の力(ちから)によって生(いき)き返(かえ)らせるということを、人(ひと)びとに知(し)らせたいと思(おも)われたのです。
そこでイエスは、三人(さんにん)の弟子(でし)と子(こ)どものお父(とう)さんとお母(かあ)さんだけをのこして、ほかの人(ひと)たちにはへやから出(で)てもらい、子(こ)どものいるところへはいって行くと、少女(しょうじょ)の手(て)を取(と)って、「少女(しょうじょ)よ、起(お)きなさい」と言(い)われました。すると、どうでしょう。少女(しょうじょ)はすぐに起(お)き上(あ)がって歩(ある)きだしたのです。お父(とう)さんとお母(かあ)さんは喜(よろこ)びでいっぱいになりました。--マルコ伝5ノ21-24, 35-43。ルカ伝8ノ40-42, 49-56。
あなたのお友(とも)だちで、なくなった人(ひと)がいますか。--もしその友(とも)だちが生(い)き返(かえ)っていっしょに遊(あそ)べるとしたらどうです
[86]
か。--あなたはそのようなことが起(お)こることがあると思(おも)いますか。--
イエスはその少女(しょうじょ)を生(い)き返(かえ)らせることができたのですから、他(た)の人(ひと)びとのためにも同(おな)じことが行(おこ)なえるのではないでしょうか。--しかし、イエスはほんとうにそのようなことをなさるでしょうか。--そのとおりです。なぜなら、イエスご自身(じしん)こういわれたからです。『記念(きねん)の墓(はか)の中(なか)にいる者(もの)がみな彼(かれ)の声(こえ)を聞(き)いて出(で)てくる時(とき)が来(こ)ようとしています』しかも、その時(とき)は神(かみ)の王国(おうこく)の支配(しはい)のもとで、まもなくおとずれようとしています。--ヨハネ伝、5:28, 29。
生(い)き返(かえ)る人(ひと)びとをむかえるのはどんなにすばらしいことかちょっと考(かんが)えてごらんなさい。そのなかにはわたしたちの知(し)っている人(ひと)びともいることでしょう。そして、イエスがヤイロの娘(むすめ)をよみがえらされた時(とき)、それが自分(じぶん)の娘(むすめ)だということをヤイロが知(し)ったように、なくなった人(ひと)たちが死(し)からよみがえらされる時(とき)、わたしたちはそれがだれだかわかるのです。また、何千年(なんぜんねん)も前(まえ)になくなった人(ひと)びともよみがえらされるのです。遠(とお)い昔(むかし)の人(ひと)びとだからといって、神(かみ)はそれらの人(ひと)たちをおわすれになることはありません。
エホバ神(かみ)と、み子(こ)イエスが、わたしたちをそれほどまでに愛(あい)してくださることを知(し)るのは、すばらしいことではありませんか。--おふたりは、わたしたちがわずか、何年(なんねん)かのあいだではなく、永遠(えいえん)に生(い)きることをのぞんでおられるのです。
(死人に対する、聖書のすばらしい希望について、使徒行伝、24:15(そしてわたしは神にたいして希望を持っていますが、その希望はこれらの人たち自身もやはりいだいているものなのであり、義者と不義者の復活があるということです);コリント第一、15:20-22(しかしながら、今やキリストは死人の中からよみがえらされ、死の眠りについている者たちの初穂となられたのです。死が人を通してであるので、死人の復活も人を通して……アダムにあってすべての人が死んでゆくのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのです);イザヤ書、25:8(としへまでも死を呑みたまはん死を呑みたまはん 主(しゅ)ヱホバはすべての面(かほ)より涙(なみだ)をぬぐひ 全地(ぜんち)のうへよりその民(たみ)の凌辱(はづかしめ)をのぞき給(たま)はん これはヱホバの語(かた)りたまへるなり)も読んでください。)
正(ただ)しいことをすると、良(よ)い気持(きも)ちがしますね。--あなたも知(し)っているとおり、お父(とう)さんやお母(かあ)さん、それにエホバ神(かみ)も喜(よろこ)ばれます。でもどんなにいっしょうけんめい努力(どりょく)しても、悪(わる)いことをするばあいがありますね。--神(かみ)が悪(わる)いといわれたことをする、それが罪(つみ)です。
偉大(いだい)な教(おし)え手(て)であられるイエス・キリストは、罪(つみ)はわたしたちみんなに悪(わる)い働(はたら)きをすることを示(しめ)されました。イエスはふしぎなわざ、つまり、きせきのひとつをおこなって、そのことを示(しめ)されました。
そのときイエスはガリラヤの海(うみ)に近(ちか)い、ある町(まち)にとどまっておられました。大(おお)ぜいの人びとがイエスに会(あ)おうとしてそこにやってきました。あまりおおぜいの人(ひと)がきたので、家(いえ)にはいりきれなくなりました。戸口(とぐち)にちかよることさえできない人(ひと)もたくさんいました。
それでも、あとからあとから人(ひと)びとがやってきました。一群(いちぐん)の人(ひと)びとは、重(おも)い病気(びょうき)の男(おとこ)の人(ひと)を連(つ)れてきました。その人(ひと)はからだがまひしていて、歩(ある)けなかったので、小(ちい)さな寝台(しんだい)にのせられて、四人(よにん)の男(おとこ)の人(ひと)に運(はこ)ばれてきました。
人(ひと)びとがその病人(びょうにん)をイエスのもとに連(つ)れてきたいとおもったのはなぜだかわかりますか。--イエスはその病人(びょうにん)をなおしてくださるにちがいない、と信(しん)じていたのです。
でも、家(いえ)のなかは人(ひと)でいっぱいだったのですから、からだのまひした人(ひと)をどのようにしてイエスのそばに連(つ)れてゆくことができるでしょうか。--そこである方法(ほうほう)をみつけました。彼(かれ)らはやねにのぼったのです。やねはたいらでした。それから、やねに大(おお)きなあなをあけ、寝台(しんだい)に病人(びょうにん)をのせたまま、
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そのあなから下(した)のへやにつりおろしたのです。なんという信仰(しんこう)を持(も)っていたのでしょう!
家(いえ)のなかの人(ひと)びとはみな、それを見(み)て、びっくりしました。からだのまひした男(おとこ)の人(ひと)が、寝台(しんだい)にのせられたまま、へやのなかにつりおろされたからです。人(ひと)びとがそのようなことをしたので、イエスはおこりましたか。--いいえ、すこしもおこりませんでした。それらの人(ひと)びとの信仰(しんこう)をごらんになって喜(よろこ)んだイエスは、からだのまひしたその病人(びょうにん)に、「あなたの罪(つみ)はゆるされています」といわれました。
でも、なかには、イエスがそういうのはまちがっていると考(かんが)えた人(ひと)びともいました。イエスが罪(つみ)をゆるせるなどとは考(かんが)えられなかったのです。そこでイエスは、ご自分(じぶん)が、じっさいに罪(つみ)をゆるすことができるということを示(しめ)すため、その病人(びょうにん)にこうおっしゃいました。「起(お)きて、あなたの寝台(しんだい)を取(と)り上(あ)げ、家(いえ)に帰(かえ)りなさい」
イエスはそうおっしゃると、その人(ひと)の病気(びょうき)はなおったのです。からだはもうまひしてはいませんでした。こんどは、ほかの人(ひと)たちに運(はこ)んでもらわなくてもよくなりました。自分(じぶん)でおきて、歩(ある)いて、寝台(しんだい)を運(はこ)ぶこともできたのです。
このことを見(み)た人(ひと)びとはたいへんおどろきました。そんなすばらしいことは、それまでの生涯(しょうがい)でただの一度(いちど)も見(み)たことがありませんでした。--マルコ伝、2:1-12。
そのきせきからなにを学(まな)べますか。--イエスは罪(つみ)をゆるして病人(びょうにん)を
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なおす力(ちから)を持(も)っておられることがわかります。でもそのほかにも学(まな)べることがあります。人(ひと)は罪(つみ)のために病気(びょうき)になるということもわかります。
あなたは病気(びょうき)になったことはありますか。--だれでも病気(びょうき)をします。ですからわたしたちはみな、生(う)まれつき罪(つみ)を持(も)っていると聖書(せいしょ)はのべています。
生(う)まれつき罪(つみ)を持(も)っているとは、~…わたしたちはみな生(う)まれつき不完全(ふかんぜん)だという意味(いみ)です。したいと考(かんが)えていないのに、あやまったことをするばあいが、だれにでもあります。このようになったのは、最初(さいしょ)の男(おとこ)と女(おんな)、つまりアダムとエバが神(かみ)にしたがわなかったためです。そのふたりは、神(かみ)の律法(りっぽう)をやぶって罪(つみ)をおかしたので、わたしたちはみな、アダムから罪(つみ)を受(う)けつぎました。
わたしたちがどのようにアダムから罪(つみ)を受(う)けついだか知(し)っていますか。--では、わかりやすく説明(せつめい)しましょう。どろまんじゅう(油粘土?では傷の付いた皿でも傷が付く?)を作(つく)ったことがありますか。おさらにきずをつけると、どうなるか知(し)っていますか。--そのおさらで作(つく)ったどろまんじゅうはみな、おなじしるしがつきませんか。--
アダムは、そのおさらに、そしてわたしたちはそのどろまんじゅうに似(に)ています。神(かみ)の律法(りっぽう)をやぶったとき、アダムは不完全(ふかんぜん)になりました。つまり、おさらにきずをつけたように、アダムには悪(わる)いしるしがついたのです。それで、アダムに子(こ)どもができたとき、その子(こ)どもたちはどうなりましたか。--アダムの子(こ)どもにはみな、不完全(ふかんぜん)さというおなじしるしがついたのです。
腕(うで)が1本(ぽん)ないとか、からだのわきにあながあいているというような、ひとめでわかるようなひどい不完全(ふかんぜん)なからだで生(う)まれる子(こ)どもはめったにいません。それでも、人間(にんげん)はとても不完全(ふかんぜん)なので、病気(びょうき)にもかかりますし、やがては死(し)にます。
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もちろん、なかには、他(た)の人(ひと)びとよりも病気(びょうき)にかかりやすい人(ひと)がいます。それはなぜですか。そういう人(ひと)は、もっと多(おお)くの罪(つみ)を持(も)って生(う)まれたのですか。--いいえ、そうではありません。それは食(た)べ物(もの)がじゅうぶんにないためかもしれません。あるいは、おかしやアメなどを食(た)べすぎたり、夜(よる)おそくまでおきていて、じゅうぶんすいみんをとらなかったりするためかもしれません。または、てきとうな服(ふく)を着(き)ないで、雨(あめ)のふっている、あるいは寒(さむ)いそとに出(で)たりするためかもしれません。
人間(にんげん)が病気(びょうき)にならないような時代(じだい)はくるのでしょうか。罪(つみ)が取(と)りのぞかれることがあるのでしょうか。--では、イエスは、からだのまひしたその病人(びょうにん)のために何をなさいましたか。--イエスは、その人(ひと)の罪(つみ)をゆるして、病気(びょうき)をなおされました。イエスは、そのようにして、正(ただ)しいことをしようといっしょうけんめいに努力(どりょく)する人(ひと)すべてのために何(なに)をおこなおうとしているかを示(しめ)されたのです。
わたしたちが罪(つみ)をきらい、悪(あく)をにくんでいることを示(しめ)すなら、イエスは、わたしたちをいやしてくださるでしょう。イエスは、わたしたちがいま持(も)っている罪(つみ)をのぞきさってくださるでしょう。イエスは、神(かみ)の王国(おうこく)によって、まもなくそうしてくださるのです。
いちどに罪(つみ)がぜんぶわたしたちからのぞきさられるわけではありません。それはある期間(きかん)かかって、おこなわれてゆきます。そして、ついにはわたしたちの罪(つみ)はなくなり、病気(びょうき)になるようなことはもうなくなってしまいます。わたしたちはみな、完全(かんぜん)な健康(けんこう)にめぐまれるのです。それはなんという祝福(しゅくふく)でしょう。
(罪がすべての人にどのような影響を及ぼすか、このことに関してわたしたちは何を行えるかについて、さらに有益な考えを得るために、ローマ人への手紙、3:23(というのは、すべての者は罪を犯しているので神の栄光に達しないからであり);5:12(それゆえ、ひとりの人を通して罪が世に入り、罪を通して死が入り、こうして死が、すべての人が罪を犯したがゆえにすべての人の広がったのと同じように);6:12-14(12. それゆえ、罪があなたがたの体の中で引き続き王として支配し、あなたがたが体の欲望に従がうということがあってはなりません。13. また、あなたがたの肢体を引き続き不義の武器として罪にささげてもなりません。むしろ、自分を死人の中から生き返ったものとして神にささげ、また自分の肢体を義の武器として神にささげなさい。14. 律法のもとにではなく過分のご親切のもとにある以上、罪があなた方の主となってはならないからです。),23(罪の報いは死ですが、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命だからです);ヨハネ第一手紙、2:1(自分の兄弟を愛する者は光の中にとどまっており、その者につまづきのもととなるものはありません)。をお読みください。)
ある日(ひ)、ひとりの男(おとこ)の人(ひと)がイエスに会(あ)いにきました。その男(おとこ)の人8ひと)は、イエスがたいへん賢(かしこ)いことを知(し)っていました。彼(かれ)はイエスに『先生(せんせい)、わたしの兄弟(きょうだい)に、彼(かれ)の持(も)ち物(もの)のいくらかをわたしにわけることを命(めい)じてください』といいました。自分(じぶん)にはそれをもらうけんりがあると考(かんが)えていたのです。
あなたがイエスだったら、その男(おとこ)の人(ひと)に何(なん)といったでしょうか。--イエスは、その男(おとこ)の人(ひと)が問題(もんだい)を持(も)っていることを知(し)っておられました。でも問題(もんだい)なのは、その男(おとこ)の人(ひと)にとって兄弟(きょうだい)が持(も)っているものが必要(ひつよう)だということではありませんでした。その問題(もんだい)の人(ひと)は、生活(せいかつ)のなかでなにがほんとうに重要(じゅうよう)かを知(し)らないということでした。
そこでイエスは、ひとつのお話(はなし)をなさいました。神(かみ)を忘(わす)れた人についての、そのお話(はなし)を聞(き)きたいと思(おも)いますか。--
ある男(おとこ)の人はたいへん金持(かねも)ちで、土地(とち)や、くらをもっていました。そして、植(う)えた作物(さくもつ)がたいへんよくできたため、こくもつをぜんぶくらにいれることができなくなりました。では、どうすることにしましたか。--
その金持(かねもつ)ちの男(おとこ)の人(ひと)は、ひとりごとをいいました『わたしのくらをとりこわして、もっと大(おお)きなくらをたてよう。そして、こく物(もつ)と、わたしのたいせつなものすべてを、その新(あたら)しいくらにたくわえることにしよう』
それは賢(かしこ)いことだ、とその金持(かねも)ちは考(かんが)えました。また、多(おおく)くのものをたくわえる自分(じぶん)はたいへんりこうだと考(かんが)えて、つぎのようにひとりごとをいいました『わたしは、たくさんの良(よ)いものをたくわえた。それは、わたしにとって、何年(なんねん)
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ももつだろう。これで、わたしはゆっくりできるぞ。食(た)べて、飲(の)んで、楽(たの)しくすごすことにしよう』
しかし、その金持(かねも)ちの男(おとこ)の人(ひと)の考(かんが)えには、まちがったところがありました。どこがまちがっていましたか。--自分(じぶん)のことと、自分(じぶん)の楽(たの)しみしか考(かんが)えていなかったのです。神(かみ)を忘(わす)れていました。
そこで神(かみ)は、その金持(かねも)ちにこうはなされました『おろかなものよ、あなたは、こんばん死(し)ぬであろう。そうなれば、あなたがたくわえたものはだれのものになるのであろうか』
その金持(かねも)ちは、死(し)んでから、それらのものを使(つか)えますか。--いいえ、だれかほかの人(ひと)が、それをえることでしょう。イエスはこういわれました。「自分(じぶん)のために宝(たから)をたくわえても、神(かみ)に対(たい)して富(と)んでいない人(ひと)はこうなります」--ルカ伝12ノ13-21。
あなたは、その金持(かねも)ちのようでありたいとはおもわないでしょう。--その人(ひと)がまちがっていたのは、物質(ぶっしつ)てきなものを得(え)ることを人生(じんせい)のおもな目的(もくてき)にしていたことです。そしていつも、さらに多(おお)くのものをほしがっていました。
その金持(かねも)ちのような人(ひと)は大(おお)ぜいいます。それらの人(ひと)びとはいつもさらに多(おお)くのものをほしがっています。しかし、それは大(おお)きな問題(もんだい)になることがあります。
たとえば、あなたはおもちゃを持(も)っていますね。--どんなおもちゃを持(も)っていますか。そのいくつかをわたしに教(おし)えてください。--
もし、あなたの友(とも)だちのなかに、あなたが持(も)っていない、おもちゃのトラックやお人形(にんぎょう)などのおもちゃを持(も)っている人(ひと)がいたらどうですか。お友(とも)だちからそれをとろうとするのは正(ただ)しいことですか。--
おもちゃがとてもたいせつなものに思(おも)えるばあいがときどきあるかもしれません。でも、しばらくすると、おもちゃは
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どうなりますか。--ふるくなり、ばらばらにこわれてしまい、もうほしくなくなってしまうばあいさえあります。あなたにはほんとうに、おもちゃよりずっとたいせつなものがあります。それはなんだか知(し)っていますか。--それはあなたのいのちです。そして、あなたの命(いのち)は、あなたが神(かみ)を喜(よろこ)ばせるかどうかにかかっていますね。--ですから、そのおろかな金持(かねも)ちのようになってはなりません。
その金持(かねも)ちがしたようなことをするのは子(こ)どもだけではありません。そういうことをするおとなは大(おお)ぜいいます。おとなのなかには、いつも、自分(じぶん)が持(も)っているものよりもさらに多(おお)くのものを欲(ほ)しがる人(ひと)がいます。その日(ひ)の食(た)べ物(もの)そして着(き)る物(もの)や住(す)む所(ところ)があっても、もっと多(おお)くもののをほしがりまです。たくさんの服(ふく)や、もっと大(おお)きな家(いえ)をほしがるのです。それにはお金(かね)がいりますから、たくさんのお金(かね)を得(え)るためにいっしょうけんめいはたらきます。そして、お金(かね)を得(え)れば得(え)るほど、さらにたくさんのお金(かね)をほしがります。
おとなの人(ひと)のなかには、お金(かね)を得(え)ようとしてあまりにも忙(いそが)しく働(はたら)くため、家族(かぞく)といっしょにいる時間(じかん)のない人(ひと)がいます。神(かみ)のためになにかをする時間(じかん)もありません。そのお金(かね)はそれらの人(ひと)を生(い)きつづけさせることができますか、--いいえ、できません。そうすることができるのは神(かみ)だけです。そ
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れに、死(し)んでから、自分(じぶん)のお金(かね)を使(つか)えますか。--いいえ、使(つか)えません。なぜなら、死(し)んだ人(ひと)はなにも行(おこ)なうことができないからです。
それでは、お金(かね)を持(も)つのは悪(わる)いことなのですか。--いいえ、そうではありません。お金(かね)があれば、食(た)べ物(もの)や着(き)る物(もの)を買(か)うことができます。聖書(せいしょ)には、お金(かね)は身(み)のまもりになると書(か)かれています。しかし、もしお金(かね)を「愛(あい)する」なら、問題(もんだい)をかかえることになります。自分自身(じぶんじしん)のために宝(たから)をたくわえても、神(かみ)に対(たい)して富(と)んでいなかった、あのおろかな金持(かねも)ちのようになるでしょう。--伝道之書(でんどうのしょ)7:12。
偉大(いだい)な教(おし)え手(て)は、その金持(かねも)ちは「神(かみ)に対(たい)して富(と)んで」いなかったので、おろかだといわれました。「神(かみ)に対(たい)して富(と)んで」いるとはどういう意味(いみ)ですか。--それは神(かみ)のことを生活(せいかつ)のなかで第一(だいいち)にするということです。ある人(ひと)びとは、神(かみ)を信(しん)じているといいます。それらの人(ひと)は時(とき)どき聖書(せいしょ)を少(すこ)し読(よ)みさえするかもしれません。そして、それでじゅうぶんだと考(かんが)えています。でもそれらの人(ひと)たちはほんとうに神(かみ)に対(たい)して「富(と)んで」いますか。--
金持(かねも)ちとは、ほんのわずかしか持(も)っていない人(ひと)のことではありません。たくさん持(も)っている人(ひと)のことです「神(かみ)に対(たい)して富(と)んで」いる人(ひと)は、神(かみ)にかんする多(おお)くの考(かんが)えであふれています。そのような人(ひと)は、喜(よろこ)んで神(かみ)についてしばしば話(はな)します。そして、神(かみ)を愛(あい)する人(ひと)たちといっしょに時間(じかん)を過(す)ごします。
わたしたちは、そのような種類(しゅるい)の人(ひと)ですか。わたしたちは「神(かみ)に対(たい)して富(と)んで」いますか。--偉大(いだい)な教(おし)え手(て)からほんとうに学(まな)ぶなら、わたしたちはそうなるでしょう。
(物質上のものを対して持つべき正しい見方を示す、さらにいくつかの聖句を次に掲げます。テモテ第一、6:6-10(確かに自ら足りて敬神の専念を守ること、これは大きな利得の手段です~~10. 金銭に対する愛はあらゆる有害な事柄の根であるからです。ある人たちはこの愛を追い求めて信仰から迷いで、多くの苦痛で自分の全身を刺したのです)。箴言、23:4(富(とみ)を得(え)んと思煩(おもひわずら)ふ勿(なか)れ 自己(おのれ)の明哲(かしこき)を恃(たの)むこと勿(なか)れ);28:20(忠信(ちうしん)なる人(ひと)は多(おほ)くの幸福(さいはひ)を得(え) 速(すみや)かに富(とみ)を得(え)んとする者(もの)は罪(つみ)を免(まぬか)れず)。ヘブライ書、13:5(あなたがたの生活態度は金銭に対する愛のないものとしなさい。そして、今あるもので満足しなさい。「わたしは決してあなたをはなれず、決してあなたを見捨てない」と言っておられるからです)。)
あなたは良いことを愛していますか。--愛しています、とわたしたちはふたりとも答えるのではありませんか。しかし、そのためにたとえ他の人から憎まれても良いことをするほど、ほんとうにそれを愛していますか。--そうするには勇気がいりますね。--
偉大な教え手はそのような勇気を持っておられたとあなたは思いますか。そのためにたとえ他の人から憎まれても、良いことを行なわれましたか。--
人びとはしばしば、イエスの行なわれた良い事がらのゆえにイエスのことを好ましく思いました。あるときのこと、一つの都市の人びとみんなが、イエスのとまっていた家の戸口のまわりに集まりました。人びとはイエスが病人をなおしていたので、やって来たのです。--マルコ伝、1:33。
しかし、ときには、イエスの教えられた事がらからすれば、人びとは真理を信じてはいないということがわかりました。当時、すべての人がイエスのことばを聞くのを好みましたか。--人びとはすすんで自分たちの考え方を変えようとしましたか。--すべての人がそうしたわけではなかったのです。じっさい、なかには、イエスが真理を話されたので、イエスをほんとうに憎み、その憎しみをあらわした人たちがいました。
そのようなことが、ある日(ひ)イエスの故郷(こきょう)であるナザレ市(し)で起(お)きました。イエスは会堂(かいどう)におはいりになりました。会堂(かいどう)というのは、ユダヤ人が集まる場所のことです。イエスは立(た)ち上(あ)がり、聖書(せいしょ)から、りっぱな話(はなし)をなさいました。人(ひと)びとはさいしょ、その話(はなし)を喜(よろこ)び、イエスの口(くち)から出(で)る美(うつく)
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しいことばにたいへん驚(おどろ)きました。それが自分(じぶん)たちの町(まち)で育(そだ)った若者(わかもの)だとはとても信(しん)じられませんでした。
しかし、つぎにイエスは別(べつ)のことがらをおっしゃいました。彼(かれ)らのようなユダヤ人(びと)ではない別(べつ)の人(ひと)びとに、神(かみ)が特別(とくべつ)の好意(こうい)を示(しめ)される時(とき)について話(はな)されたのです。イエスがそのことをいわれたところ、会堂(かいどう)にいた人(ひと)びとはおこりました。--なぜだかわかりますか。--
それらの人(ひと)びとは、神(かみ)が特別(とくべつ)の好意(こうい)を受(う)けるのは自分(じぶん)たちだけだと考(かんが)えていたのです。そうして、自分(じぶん)たちは他(た)の人(ひと)びとよりもすぐれていると考(かんが)えていました。それでイエスの話(はな)されたことを聞(き)いて、イエスを憎(にく)んだのです。しかも、彼(かれ)らがイエスに何(なに)をしようとしたか知(し)っていますか。--
聖書(せいしょ)はこう述(の)べています。『彼(かれ)らはイエスをつかんで、市(し)の外(そと)へ追(お)い出(だ)し、山(やま)のはしに連(つれ)れて行(い)き、山腹(さんぷく)に投(な)げ落(お)として殺(ころ)そうとした。しかし、イエスは彼(かれ)らから去(さ)ってゆかれた」--ルカ伝(でん)4:16-30。
もしあなたにそのようなことが起(お)きたとしたら、あなたはそれらの人(ひと)たちにふたたび神(かみ)について話(はな)すために、もどったでしょうか。--それは勇気(ゆうき)のいることでしょうね。--さて一年(いちねん)ほどあと、イエスはたしかにナザレにもどられました。そうして、聖書(せいしょ)には、『彼(かれ)は会堂(かいどう)で人(ひと)びとを教(おし)えはじめられた』と書(か)かれています。イエスは、神(かみ)にたいする愛(あい)を持(も)たない人(ひと)びとを恐(おそ)れて真理(しんり)を語(かた)るのをやめるようなことはなさいませんでした。マタイ伝(でん)13:54。
別(べつ)の日(ひ)イエスは、片手(かたて)がすっかりまひした、つまり、きかなくなったある男(おとこ)の人(ひと)のいる所(ところ)におられました。イエスはその人(ひと)をいやす力(ちから)を神(かみ)から与(あた)えられていました。ところが、そこにいた何人(なんにん)かの人(ひと)びとはイエスをこまらせようとしていました。偉大(いだい)な教(おし)え手(て)はどうなさいましたか。--
まずイエスは、何(なに)をするのが正(ただ)しいかを示(しめ)して、こうおた
[113]
ずねになりました。『もしあなたの羊(ひつじ)が安息日(あんそくにち)に大(おお)きな穴(あな)に落(お)ち込(こ)んだなら、あなたはそれを引(ひ)き出(だ)さないでしょうか』
もちろん、休(やす)むことになっている安息日(あんそくにち)でも、彼(かれ)らはその羊(ひつじ)のためにそうするでしょう。そこでイエスはいわれました。『人(ひと)は羊(ひつじ)よりずっと価値(かち)があるのですから、安息日(あんそくにち)に人(ひと)を助(たす)けるのはずっと良(よ)いことです』イエスがその人(ひと)をいやして助(たす)けるのがとうぜんだとかいうことが、なんと明(あき)らかに示(しめ)されたのでしょう。
そこでイエスはその男(おとこ)の人(ひと)に、手(て)をのばしなさいとお命(めい)じになりました。すると、たちまちその手(て)はもう一方(いっぽう)の手(て)と同(おな)じようによくなりました。その人(ひと)はどんなにか喜(よろこ)んだことでしょう。
しかし、そこにいたほかの人(ひと)たちはどうでしたか。喜(よろこ)びましたか。--いいえ、喜(よろこ)びませんでした。イエスをなおいっそう憎(にく)んだのです。そうして、そこをさると、イエスを殺(ころ)す計画(けいかく)を立(た)てました。--マタイ伝(でん)12:9-14。
今(いま)でも人(ひと)びとは当時(とうじ)とかわりません。正(ただ)しいことがすきな人(ひと)もいれば、そうでない人(ひと)もいます。何(なに)をするにしても、すべての人(ひと)を喜(よろこ)ばすことはけっしてできません。ですから、わたしたちは自分(じぶん)がほんとうに喜(よろこ)ばしたいと思(おも)う人(ひと)を決(きめ)めなければなりません。
あなたはどんな人(ひと)を友(とも)だちにしたいと思(おも)いますか。良(よ)い人(ひと)びとを友(とも)だちにしたいと思(おも)いますか。--エホバ神(かみ)に友(とも)だちになっていただきたいと思(おも)いますか。--ではいつも正(ただ)しいことをしなければなりません。
[114]
しかし、あなたが良(よ)いことを行(おこ)なうなら、悪魔(あくま)はあなたをこのみますか。--じっさい、あなたは悪魔(あくま)にすきになってもらいたいと思(おも)いますか。--
悪魔(あくま)にすかれている人(ひと)びとがいます。聖書(せいしょ)はそうした人(ひと)びとのことを「世(よ)」と呼(よ)んでいます。「世(よ)」は、偉大(いだい)な教(おし)え手(て)に従(したが)わない人(ひと)びとすべてでなりたっています。偉大(いだい)な教(おし)え手(て)はいわれました。「もしあなたがたが世(よ)の一部(いちぶ)であったなら、世(よ)はそれ自身(じしん)のものを好(この)んだことでしょう。ところが、あなたがたは世(よ)の一部(いちぶ)ではなく、わたしがあなたがたを世(よ)から選(えら)び出(だ)したので、そのために世(よ)はあなたがたを憎(にく)むのです」--ヨハネ伝(でん)15:18, 19。
世(よ)の人(ひと)びとのなかにはイエスを信(しん)じているとはいっても、イエスがなさったように、神(かみ)にかんする真理(しんり)を他(た)の人(ひと)びとに教(おし)えない人(ひと)びとがいます。もしあなたがそのような人(ひと)たちに、彼(かれ)らが真理(しんり)を教(おし)えていないということを聖書(せいしょ)から示(しめ)したなら、その人(ひと)たちは喜(よろこ)ぶでしょうか。--いいえ、そのほとんどの人(ひと)は喜(よろこ)びません。しかし、片手(かたて)のまひしたその男(おとこ)の人(ひと)のような人(ひと)たちを見(み)いだせるかもしれません。その人(ひと)は、イエスが真理(しんり)をかくされなかったことを感謝(かんしゃ)しました。
真理(しんり)をたしかにかくしている人(ひと)は少(すく)なくありません。そのような人(ひと)びとは、他(た)の人(ひと)からどう思(おも)われるかをおそれています。人(ひと)になんと思(おも)われるかをひどくおそれて、自分(じぶん)が正(ただ)しいと思(おも)うことを行(おこ)なわずに一生(いっしょう)をすごすのです。なんということでしょう。そのような人(ひと)は人生(じんせい)の幸福(こうふく)をずいぶんえそこなっています。しかも、神(かみ)の是認(ぜにん)をもえそこなっているのです。わたしたちはそのようになりたくはありませんね。--
(他の人がどう思うかを恐れて、正しいことを決してちゅうちょすべきではないことを示す次の聖句をいっしょにお読みください。箴言、29:25(人(ひと)を畏(おそ)るれば罟(わな)におちいる ヱホバをたのむ者(もの)は護(まも)られん)。サムエル前書、15:24(サウル、サムエルにいひけるは我(われ)ヱホバの命(めい)と汝(なんぢ)の言(ことば)をやぶりて罪(つみ)ををかしたり是(こ)は民(たみ)をおそれて其言(そのことば)にしたがひたるによりてなり)。マタイ伝、26:69-75(69 さてペテロは外(そと)で中庭(なかにわ)に座(すわ)っていた。すると、ひとりの下女(げじょ)がやって来(き)て、「あなたも、ガリラヤ人(じん)のイエスといっしょにいた!」と言(い)った。70 しかし彼(かれ)はみんなの前(まえ)でそれを否定(ひてい)し、「あなたがなんのことを話(はな)しているのかわたしにはわからない」と言(い)った。71 彼(かれ)が門舎(もんしゃ)のところへ出(で)て行(ゆ)くと、別(べつ)の女(おんな)が彼(かれ)に気(き)づき、そこにいる者(もの)たちに、「この人(ひと)はナザレ人(じん)イエスといっしょにいました」と言った。72 すると、彼(かれ)は再(ふたた)びそれを否定(ひてい)し、「わたしはその人(ひと)を知(し)らない!」と誓(ちか)って言(い)った。73 しばらくのち、回(まわ)りに立(た)っていた者(もの)たちが寄(よ)って来(き)て、ペテロに言(い)った、「確(たし)かにあなたも彼(かれ)らのひとりだ。現(げん)に、あなたのなまりがあなたのことを明(あ)かしているではないか」74 その時(とき)、彼(かれ)は、「わたしはその人(ひと)を知(し)らないのだ!」と言(い)って、のろったり誓(ちか)ったりし始(はじ)めた。するとすぐにおんどりが鳴いた。75 それでペテロは、「おんどりが鳴(な)く前(まえ)に、あなたは三度(さんど)わたしのことを否認(ひにん)するでしょう」と言(い)われたイエスのことばを思(おも)い出(だ)した。そして、外(そと)に出(で)て、激(はげ)しく泣(な)いた)。ヨハネ伝、12:42, 43(42 それでもなお、実際には、支配者たちでさえその多くの者が彼に信仰を持ったのである。しかしパリサイ人たちのてまえ、彼について告白しようとはしなかった。それは、会堂から追放されないようにとしてであった。43 彼らは、神からの栄光よりも人からの栄光を愛したのである)。)
あなたのお友(とも)だちを何人(なんにん)か教(おし)えてください。何(なん)という名前(なまえ)の人(ひと)たちですか。--
友(とも)だちを持(も)つのは良(よ)いことです。友(とも)だちとは自分(じぶん)がいっしょに時間(じかん)を過(す)ごしたいと思(おも)う人(ひと)たちです。それらの人(ひと)たちと話(はな)しあったり、いっしょに何(なに)かをしたいと思(おも)うものです。
また、正(ただ)しい種類(しゅるい)の友(とも)だちを持(も)つのも重要(じゅうよう)なことです。正(ただ)しい種類(しゅるい)の友(とも)だちかそうでないかはどうしてわかりますか。--
では、わたしたちの生活(せいかつ)のなかでいちばん重要(じゅうよう)なかたはだれでしょうか。--それはエホバ神(かみ)ですね。わたしたち命(いのち)や息(いき)やすべての良(よ)いものはエホバから来(き)ます。わたしたちは、神(かみ)との親(した)しい交(まじ)わりをだめにするようなことはけっしてしたくありませんね。--しかし、どんな友(とも)だちを選(えら)ぶかによって、神(かみ)との親(した)しい交(まじ)わりをだめにする場合(ばあい)があるのを知(し)っていましたか。--そのとおりなのです。ですから、友(とも)だちを注意深(ちゅういぶか)くえらぶ必要(ひつよう)があります。
偉大(いだい)な教(おし)え手(て)は、どのようにしてそうするのかを示(しめ)されました。正(ただ)しい種類(しゅるい)の友(とも)だちを持(も)っておられた偉大(いだい)な教(おし)え手(て)は、「わたしがあなたがたに命(めい)じていることを行(おこ)なうならばあなたがたはわたしの友(とも)です」といわれました。それはどうしてですか。--なぜなら、イエスが人(ひと)びとにお話(はな)しになったことがらはすべて神(かみ)からのものだったからです。ですからイエスは、ご自分(じぶん)の友(とも)だちとは神(かみ)から行(おこ)なうよう命(めい)じられたことを行(おこ)なう人(ひと)たちです、といっておられたのです。--ヨハネ伝15ノ24。
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これは、イエスが、神(かみ)にいそがしく仕(つか)えていない人(ひと)たちに親切(しんせつ)ではなかったという意味(いみ)ではありません。イエスはそのような人(ひと)たちにも親切(しんせつ)でした。それらの人(ひと)たちの家(いえ)に行(い)って食事(しょくじ)をすることさえなさいました。そのことを聞(き)いたある人(ひと)たちは、イエスは『罪人(つみびと)たちの友(とも)』であるといいました。でも、ほんとうにそうでしたか。--マタイ伝、11:19。
いいえ、そうではありませんでした。イエスは、そうした人(ひと)たちの生(いき)き方(かた)がすきだから、その家(いえ)に行(い)かれたのではありません。その人(ひと)たちの家(いえ)を訪問(ほうもん)したのは、神(かみ)について彼(かれ)らに話(はな)すためでした。その人(ひと)たちが悪(わる)い生(い)きかたをあらためて、神(かみ)に仕(つか)えるよう助(たす)けることにつとめられられました。
ある日(ひ)、そのようなことがエリコ市(し)で起(お)こりました。それはイエスがエルサレムに向(む)かうとちゅう、ちょうどそこを通(とお)っていた時(とき)のことです。そこには人(ひと)びとが群(むら)がっていました。その群衆(ぐんしゅう)のなかにザアカイという名前(なまえ)の男(おとこ)の人(ひと)がいました。ザアカイはイエスを一目見(ひとめ)たかったのですが、たいへん背(せ)が低(ひく)かったので、群衆(ぐんしゅう)のために見(み)えませんでした。そこでザアカイは道(みち)の前(まえ)のほうに走(はし)っていって、イエスが通(とお)り過(す)ぎるのをよく見(み)ようとして1本(いっぽん)の木(き)にのぼりました。
イエスはその木(き)のところにさしかかると、見(み)あげていわれました。『急(いそ)いで下(お)りなさい。きょう、わたしはあなたの家(いえ)に行(い)きます』しかしザアカイは悪(わる)いことをしてきた金持(かねも)
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ちでした。なぜイエスはそのような人(ひと)の家(いえ)に行(い)きたいと思(おも)われたのでしょうか。--
それは、その人(ひと)の生活(せいかつ)のしかたがすきだったからではありません。イエスはザアカイに神(かみ)のことを話(はな)すためにその家(いえ)へ行(い)かれたのです。イエスはザアカイがいっしょうけんめいにイエスを見(み)ようとしたのをごらんになりました。それで、ザアカイはおそらく耳(みみ)をかたむけるだろうとイエスはお考(かんが)えになったのです。それは、神(かみ)が命(めい)じておられる生活(せいかつ)のしかたについてザアカイに話(はな)す良(よ)い機会(きかい)となったでしょう。
そのけっかはどうなりましたか。ザアカイが悪(わる)い生(い)きかたをあらためました。そして、自分(じぶん)が取(と)る権利(けんり)のないお金(かね)を返(かえ)して、イエスに従(したが)う人(ひと)となりました。そのときはじめてイエスとザアカイは友(とも)だちになったのです。--ルカ伝、19:1-10。
それでは、偉大(いだい)な教(おし)え手(て)から学(まな)ぶなら、わたしたちも自分(じぶん)の友(とも)だちではない人(ひと)びとを訪問(ほうもん)するのですか。--そのとおりです。しかも、そうした人(ひと)たちに生活(せいかつ)のしかたがすきだから、彼(かれ)らの家(いえ)に行(い)くのではありません。また、それらの人(ひと)といっしょに悪(わる)いことをしたいとは思(おも)いません。わたしたちは神(かみ)について話(はな)すために訪問(ほうもん)するのです。しかし、わたしたちの親(した)しい友(とも)だちとはとくにいっしょに時(とき)を過(す)ごしたいと思(おも)います。親(した)しい友(とも)だちであるためには、その人(ひと)たちは神(かみ)に好(この)まれる人(ひと)でなければならないということを、わたしたちは知(し)っています。でも、そのような人かどうかはどうしてわかるのですか。--
1つの良(よ)い方法(ほうほう)は、その人(ひと)たちに次(つぎ)のようにたずねてみることです。あなたはエホバを愛(あい)していますか、と。なかには、エホバとはだれかを知らない人(ひと)さえいるかもしてません。でも、もしその人(ひと)がエホバについて学(まな)びたいと思(おも)うなら、その人(ひと)を助(たす)けることさえできます。そして、その人(ひと)たちがわたした
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ちと同(おな)じようにエホバを愛(あい)するようになったら、わたしたちは親(した)しい友(とも)だちになれます。
人(ひと)が良(よ)い友(とも)だちになれるかどうかを知(し)るのに、もう1つの方法(ほうほう)があります。その人(ひと)がしていることをよく見(み)てください。他(た)の人(ひと)に不親切(ふしんせつ)なことをして、それを笑(わら)いますか。それは正(ただ)しいことではありませんね。--その人(ひと)はいつも問題(もんだい)を起(お)こしていますか。そのような人(ひと)といっしょになって問題(もんだい)を起(お)こしたくはありませんね。--それとも、わざと悪(わる)いことをして、見(み)つからなかったから自分(じぶん)は利口(りこう)だ、と考(かんが)えるような人(ひと)ですか。たとえ見(み)つからなくても、神(かみ)はその人(ひと)のしたことを見(み)ておられますね。--そのようなことをする人(ひと)は良(よ)い友(とも)だちと思(おも)いますか。--
あなたの聖書(せいしょ)をもってきて、仲間(なかま)がわたしたちの生活(せいかつ)にどのように影響(えいきょう)するかについて聖書(せいしょ)がなんと述(の)べているかについて見(み)てみましょう。その聖句(せいしょ)はコリント第一(だいいち)15章(しょう)33節(せつ)です。そこが開(ひら)けましたか。--
こう書(か)かれています。「誤導(ごどう)されてはいけません。悪(わる)い交(まじ)わりは有益(ゆうえき)な習慣(しゅうかん)をそこないます」その意味(いみ)は、もしわたしたちが悪(わる)い人(ひと)たちとともに行(い)くなら、わたしたちも悪(わる)くなるということです。また、良(よ)い仲間(なかま)はわたしたちが良(よ)い習慣(しゅうかん)をつちかうのに助(たす)けとなるのもたしかなことです。
わたしたちの生活(せいかつ)のなかでいちばん重要(じゅうよう)なかたはエホバであることをけっしてわすれないようにしましょう。わたしたちはエホバとの親(した)しい交(まじ)わりをだめにしたくはありませんね。--では、神(かみ)を愛(あい)している人(ひと)たちだけを友(とも)だちにするよう、よく注意(ちゅうい)しなければなりません。
(正しい種類の仲間を持つことの重要性については、ヨハネ第一の手紙、2:15(世も世にあるものをも愛していてはなりません。世を愛する者がいれば、父の愛はその者のうちにありません);歴代志略下、19:2(時(とき)に先見者(せんけんしゃ)ハナニの子(こ)ヱヒウ、ヨシャパテ王(わう)を出(いで)むかえへて之(これ)に言(いひ)けるは汝悪(なんぢあし)き者(もの)を助(たす)けヱホバを悪(にく)む者(もの)を愛(あい)して可(よか)らんや之(これ)がためにヱホバの前(まへ)より震怒(いかり)なんぢ上(うへ)に臨(のぞ)む);詩篇、119:115(悪(あし)きをなすものよ我(われ)をはなれされ われわが神(かみ)のいましめを守(まも)らん)、そしてテモテ第二、2:22(それで、若さに伴いがちな欲望から逃れ、清い心で主を呼び求める人びととともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい)でもはっきり述べられています。これらの聖句をいっしょにお読みください。)
あなたはパーティーを開(ひら)くのがすきですか。--良(よ)いパーティーなら、それはたいへん楽(たの)しいときとなります。
でも、すべてのパーティーが良(よ)いわけではありません。なかにはあまりそうぞうしくて、となりの家(いえ)の人(ひと)をおこらせる場合(ばあい)があります。また、神(かみ)からでさえ是認(ぜにん)されてないパーティーもあります。あなたはそのことを知(し)っていましたか。--神(かみ)から是認(ぜにん)されないパーティーだとわかっているなら、あなたはそれに出席(しゅっせき)したいと思(おも)うでしょうか。--
聖書(せいしょ)はパーティーのことが出(で)ています。ある時、偉大(とき、いだい)な教(おし)え手(て)がパーティーに行(い)かれました。使徒(しと)たちも行(い)きました。それはある人(ひと)が結婚(けっこん)のときに開(ひら)いたパーティーでした。あなたもそのようなパーティーに行(い)ったことがありますか。--
また聖書(せいしょ)にはふたつの誕生日(たんじょうび)のパーティーのことが書(か)かれています。その1(ひと)つは偉大(いだい)な教(おし)え手(て)の誕生日(たんじょうび)を祝(いわ)うパーティーでしたか。--いいえ、そうではありません。その誕生日(たんじょうび)のパーティーはふたつとも、エホバに仕(つか)えなかった人(ひと)のために開(ひら)かれました。
その1(ひと)つは、イエスが住(す)んでおられたガリラヤ地方(ちほう)の支配者(しはしゃ)だった、ヘロデ・アンテパス王(おう)の誕生日(たんじょうび)のために開(ひら)かれたパーティーでした。
ヘロデ王(おう)はたくさんの悪(わる)いことをしました。ヘロデは兄弟(きょうだい)の妻(つま)を自分(じぶん)のものにしました。その人(ひと)の名前(なまえ)はヘロデヤです。神(かみ)のしもべであったバプティスマのヨハネは、そのようなことをするのはまちがっているということをヘロデに話(はな)しました。ヘロデはそれが気(き)にいらず、ヨハネをろうやにとじこめてしまいました。--ルカ伝3ノ19-20。
[124]
ヨハネがろうやにはいっていたとき、ヘロデの誕生日(たんじょうび)がきました。ヘロデは盛大(せいだい)なパーティーを開(ひら)いて、えらい人(ひと)びとをたくさん招待(しょうたい)しました。その人(ひと)たちはみな、食(た)べたり飲(の)んだり、楽(たの)しんだりしました。
その時(とき)ヘロデヤのむすめがはいってきて、人(ひと)びとのためにおどりました。そのおどりはみんなをたいへん喜(よろこ)ばせたので、ヘロデ王(おう)はそのむすめにすばらしいおくりものをしたいと思(おも)いました。それでむすめを呼(よ)んで、いいました。「おまえの求(もと)めるものがなんであれ、わたしの王国(おうこく)の半分(はんぶん)までなら、おまえに与(あた)えよう」
[125]
~~……今日、人(こんにち、ひと)びとは誕生日(たんじょうび)のパーティーのときに、だれかの首(くび)を切(き)りおとすことはしません。でも、誕生日(たんじょうび)を祝(いわ)うという考(かんが)えはすべて、そのようなことをした人(ひと)びとからはじまりました。それらの人(ひと)は異教徒(いきょうと)で、エホバに仕(つか)えた人(ひと)びとではありませんでした。わたしたちはそのような人(ひと)になりたいと思(おも)いますか。--
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~~……
たいていの人は、クリスマスがイエスの誕生日(たんじょうび)でないことを知(し)っています。それでも、多(おお)くの人(ひと)はとにかくクリスマスを祝(いわ)います。それらの人(ひと)は神(かみ)がどうお考(かんが)えになるかをほんとうに気(き)にかけてはいません。しかし、わたしたちはエホバを喜(よろこ)ばせたいと思(おも)いますね。--
では、わたしたちがパーティーを開(ひら)くときには、それが良(よ)いパーティーであることをたしかめたいものです。パーティーは1年(いちねん)のうちのいつでも開(ひら)けます。特別(とくべつ)の日(ひ)を待(ま)つ必要(ひつよう)はありません。ごちそうを食(た)べたり、ゲームをしたりして楽(たの)しめます。あなたはそうしたいと思(おも)いますか。--でも、計画(けいかく)をする前(まえ)に、それが神(かみ)からの是認(ぜにん)されるようなパーティーであることをたしかめましょう。
(常に神から是認される事がらを行なうことのたいせつさは、ヨハネ伝、8:29(そして、わたしを遣わしたかたはともにいてくださいます。わたしを独りだけにして見捨てたりはされませんでした。わたしは常に、そのかたの喜ばれることを行なうからです』);ローマ人への手紙、12:2(そして、自分をこの事物の体制に合わせてはなりません。むしろ、思いを作り直して自分を変革しなさい。それは、神の善にして受け入れられる完全なご意志を自らはっきり知るためです);箴言、12:2(善人(よきひと)はヱホバの恩寵(めぐみ)をうけ 悪(あし)き謀略(はかりごと)を設(もう)くる人(ひと)はヱホバに罰(つみ)せらる)、そしてヨハネ第一の手紙、3:22(そして、わたしたちが何を求めようと、神からいただくことができます。それは、わたしたちがそのおきてを守り、神の目に喜ばれることを行なっているからです)にも示されています。)
いつも自分(じぶん)を大(おお)きく強(つよ)そうに見(み)せようとする男(おとこ)の子(こ)を知(し)っていますか。---あなたはそのような人(ひと)たちといっしょにいたいと思(おも)いますか。それとも平和(へいわ)を好(この)む人(ひと)たちといっしょにいるほうがすきですか。--
偉大(いだい)な教(おし)え手(て)は神(かみ)がどんな人(ひと)びとを好(この)まれるかを知(し)っておられました。そして「平和(へいわ)を好(この)む人(ひと)たちは幸福(こうふく)です。その人(ひと)たちは『神(かみ)の子(こ)』と呼(よ)ばれるからです」といわれました。わたしたちがなりたいのはそのような人(ひと)ですね。--わたしたちは平和(へいわ)を好(この)む人(ひと)になりたいと思(おも)います。--マタイ伝、5:9。
でも他(た)の人(ひと)がわたしたちを怒(おこ)らせるようなことがあります。そしてその人(ひと)に仕返(しかえ)しをしようとしたくなるかもしてません。ある時(とき)そのような事(こと)がイエスの弟子(でし)たちに起(お)きました。
弟子(でし)たちはイエスといっしょにエルサレムに向(む)かって旅(たび)をしていました。しばらく行(い)くとイエスは休(やす)むところを見(み)つけるためにある者(もの)たちを先(さき)につかわしました。しかしその村(むら)の人(ひと)びとは彼(かれ)らがとまるのをいやがりました。その人(ひと)びとは違(ちが)う宗教(しゅうきょう)を持(も)っていて、崇拝(すうはい)のためにエルサレム市(し)へ行(い)く人(ひと)をきらいました。
もしそうしたことがあなたに起(お)きたら、あなたはどうしたでしょうか。そのためにおこったでしょうか。その人(ひと)びとにしかえしをしたいと思(おも)ったでしょうか。--
弟子(でし)のヤコブとヨハネはしかえしをしたいと思(おも)いました。そして『あなたはわたしたちが火(ひ)に、天(てん)から下(くだ)って彼(かれ)らを滅(ほろ)ぼすよう命(めい)ずることを望(のぞ)まれますか』とイエスにいいました。しかしイエスは他(た)の人(ひと)びとをそのようにあつかうの
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は正(ただ)しくないとかれらにいわれました。--ルカ伝、9:51-56。
人(ひと)びとがときどきわたしたちにいじわるをすることがあるのはたしかです。あなたをのけものにして、いっしょに遊(あそ)んでくれないかもしれません。「むこうへ行(い)ってよ」ということさえあるかも知(し)れません。そのようなことがおきると、いやなな気持(きも)ちになりますね。--その人(ひと)たちに何(なに)かしかえしをしたくなるかもしれません。でも、しかえしをすべきですか。--
どうぞあなたの聖書(せいしょ)を持(も)ってきてください。そして、箴言(しんげん:格言(かくげん))24章(しょう)29節(せつ)を開(あ)けてみましょう。そこにはこう書(か)かれています。「『彼(かれ)がわたしにしたとおりに、わたしは彼(かれ)にするつもりだ。わたしはおのおのにそのするところにしたがって報(むく)いよう』と言(い)ってはならない」
これはあなたにとって何(なに)を意味(いみ)していますか。--仕返(しかえ)しをしようとしてはいけないということです。他(た)の人(ひと)がわたしたちにいじわるをしたからといって、わたしたちがその人(ひと)にいじわるをすべきではありません。神(かみ)はわたしたちがそうすることを望(のぞ)んではおられません。
でも、もしだれかがあなたとけんかをしようとしたらどうですか。あなたの悪口(わるくち)をいっておこらせようとするかもしれません。あなたをあざけって、こわいんだろう、というかもしれません。たぶんあなたのことをいくじなしというでしょう。あなたはどうすべきですか。けんかに引(ひ)きこまれてしまってよいでしょうか。--
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聖書(せいしょ)になんと書(か)かれているか、もう一度見(いちどみ)てみましょう。マタイ伝(でん)5章(しょう)39節(せつ)をしらべると、そこでイエスは、「邪悪(じゃあく)な者(もの)に抵抗(ていこう)してはいけません。あなたの右(みぎ)のほほを打(う)つ者(もの)には他方(たほう)のほほをも向(む)けなさい」と言(い)われています。
イエスがここで言(い)われた意味(いみ)は何(なん)ですか。だれかがあなたの一方(いっぽう)のほほをげんこつでぶったなら、他方(たほう)をもぶたせなければならないという意味(いみ)ですか。--いいえ、イエスのいわれたのはそういう意味(いみ)ではありません。
打(う)つというのは、げんこつでぶつをいうより、押(お)すとか押(お)しのけることです。けんかを売(う)るためにそうするのです。わたしたちをおこらせたいからです。それで、もしわたしたちがおこって押(お)しかえしたりしたら、どうなりますか。--おそらくけんかになってしまうでしょう。
イエスはご自分(じぶん)に従(したが)う人(ひと)びとがそのようにふるまうことを望(のぞ)まれませんでした。それで、だれかがわたしたちを打(う)ちかえすべきではないといわれたのです。おこってけんかをすべきではありません。もしそんなことをすれば、わたしたちはけんかをはじめた人(ひと)と少(すこ)しも変(か)わらないことになります。
問題(もんだい)が起(お)きたとき一番良(いちばんよ)いのは、立(た)ち去(さ)ることです。あいての人(ひと)はもう二、三回(に、さんかい)あなたを押(お)すか、押(お)しのけるかするかもしれませんが、それでおしまいになるでしょう。あなたが立(た)ち去(さ)っても、それがあなたが弱(よわ)いことにはなりません。あなたは正(ただ)しい事(こと)がらを守(まも)る強(つよ)い人(ひと)であることを示(しめ)しているのです。
では他(た)の人(ひと)たちがけんかをしているのを見(み)たなら、どうすべきですか。そこにわりこんで、どちらか一方(いっぽう)の味方(みかた)をすべきですか。--
聖書(せいしょ)は何(なに)が正(ただ)しいことかを述(の)べています。箴言(しんげん)26章(しょう)17節(せつ)を調(しら)べましょう。そこにはこう書(か)かれています。「通(とお)りすがり
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に自分(じぶん)のものでもない争(あらそ)いに対(たい)して激(はげ)しく怒(おこ)る者(もの)は、犬(いぬ)の両耳(りょうみみ)をひっつかむ者(もの)のようだ」
犬(いぬ)の両耳(りょうみみ)をひっつかんだら、どうなりますか。犬(いぬ)はいたいので、あなたにかみつくでしょうね。--犬(いぬ)がもがけばもがくほど、犬(いぬ)の耳(みみ)をもっとしっかりとにぎるでしょう。そうすると犬(いぬ)はいっそうこうふんしますから、はなしてやったときにはあなたをひどくかむでしょう。そうかといってあなたはそこに立(た)ったままいつまでも犬(いぬ)の耳(みみ)をつかんでいられますか。--
それで他(た)の人(ひと)のけんかにまきこまれると、それと同(おな)じような困(こま)ったことになるのです。わたしたちは、だれがそのけんかを始(はじ)めたのか、また、その人たちがなぜけんかをしているのか知(し)らないかもしれません。一方(いっぽう)の人(ひと)がたたかれていても、その人(ひと)はあいての人(ひと)から何(なに)かをぬすんだのかもしれません。もしその人(ひと)を助(たす)けるなら、どろぼうを助(たす)けることになるでしょう。それは良(よ)いことではありませんね。--
では、けんかを見(み)たらどうすべきですか。--それが学校(がっこう)でのことなら、先生(せんせい)のところへ走(はし)っていって知(し)らせることができます。学校(がっこう)から遠(とお)く離(はな)れているところでのことなら、おまわりさんを呼(よ)べます。
他(た)の人(ひと)がけんかをしたいと思(おも)っても、わたしたちは平和(へいわ)を好(この)む者(もの)になれます。他(た)の人(ひと)はけんかをしたいと思(おも)うかもしれません。でもわたしたちは自分(じぶん)が正(ただ)しい事(こと)がらを守(まも)る強(つよ)い人(ひと)であることを示(しめ)せます。
(人がけんかを避けるのに助けとなる良い助言はさらにローマ人への手紙、12:17-21(17. だれに対しても、悪に悪を返してはなりません。すべての人の前によいものを備えておきなさい。18. できるなら、あなたがたに関するかぎり、すべての人に対して平和を求めなさい。……自分で復しゅうをしてはなりません。むしろ神の憤りに道を譲りなさい。……「復しゅうはわたしのもの、わたしが返報する、とエホバは言われる……燃える石炭を彼の頭に積み上げることになるのである」21. 悪に征服されてはなりません。むしろ善を以って悪を征服して行きなさい。)、詩篇、34:14(悪(あく)をはなれて善(ぜん)をおこなひ和睦(やはらぎ)をもとめて切(せつ)にこのことを勉(つと)めよ)テモテ第二、2:24(主の奴隷は争う必要はありません。むしろすべての人に対して穏やかで、教える資格を備え、苦境のもとでも自分を制し、)に出ています)
お金(かね)を取(と)り出(だ)して、それをしらべてみましょう。その上(うえ)には何(なに)がしるされているのが見(み)えますか。--このお金(かね)を作(つく)ったのはだれですか。--それは政府(せいふ)が作(つく)りました。
何千年(なんぜんねん)もの間、政府(あいだ、せいふ)は人(ひと)びとが使(つか)うお金(かね)を作(つく)ってきました。偉大(いだい)な教(おし)え手(て)が地上(ちじょう)におられた時(とき)ローマの政府(せいふ)がお金(かね)を作(つく)りました。そのころローマ政府(せいふ)の支配者(しはいしゃ)はだれだったか知(し)っていますか。--その人(ひと)はカエサルと呼(よ)ばれていました。
ローマの政府(せいふ)はその時代(じだい)の人(ひと)びとのためにたくさんの良(よ)いことをしました。今日(こんにち)の政府(せいふ)もわたしたちのためにたくさんの良(よ)いことをしています。交通(こうつう)のための道路(どうろ)を作(つく)ったり、わたしたちを守(まも)るおまわりさんや消防士(しょうぼうし)さんたちに給料(きゅうりょう)をはらいます。
政府(せいふ)がそうするにはお金(かね)がかかります。政府(せいふ)はどこからお金(かね)を得(え)るのか知(し)っていますか。--国民(こくみん)から得(え)るのです。国民(こくみん)が政府(せいふ)にはらうお金(かね)を税金(ぜいきん)といいます。
税金(ぜいきん)をはらうのを喜(よろこ)ばない人(ひと)は少(すく)なくありません。イエスが地上(ちじょう)におられた当時(とうじ)、ユダヤ人(じん)のなかには、ローマの政府(せいふ)に税金(ぜいきん)を少(すこ)しもはらいたくない人(ひと)がいました。それらの人(ひと)は税金(ぜいきん)を憎(にく)みました。そこである日(ひ)何人(なんにん)かの男(おとこ)の人(ひと)が偉大(いだい)な教(おし)え手(て)のもとに来(き)て『わたしたちはカエサルに税金(ぜいきん)を払(はら)わなければなりませんか。それとも払(はら)わなくてもよいでしょうか』とたずねました。
さてそれらの人(ひと)はイエスをわなにかけるためにそう質問(しつもん)したのです。なぜならもしイエスが『はい、税金(ぜいきん)は払(はら)わなければなりません』とお答(こた)えになったなら、ユダヤ人(じん)の多(おお)くはイエスの言(い)うことをこのまないでしょう。しかしイエス
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は『いいえ、税金(ぜいきん)を払(はら)うひつようはありません』とはいえませんでした。そういえばそれはまちがいになります。
そこでイエスはつぎのようになさいました。それらの人たちに『硬貨(こうか)を見(み)せなさい』といわれました。硬貨(こうか)がさし出(だ)されると、イエスは『それにはだれの絵(え)と名前(なまえ)がついていますか(:だれの像と名刻がありますか:旧版、新世界訳)』とおたずねになりました。
人(ひと)びとはいいました『カエサルのです』
そこでイエスはいわれました『ではぜひとも、カエサルのものはカエサルに、しかし神(かみ)のものは神(かみ)に返(かえ)しなさい』--ルカ伝、20:19-26。
それはりっぱな答(こた)えではありませんでしたか。--だれもその答(こた)えにあやまりを見(み)つけることができませんでした。カエサルが人(ひと)びとのためになることをするなら、カエサルが作(つく)ったお金(かね)を用(もち)いて、そうしたことに対(たい)してカエサルに支払(しはら)うのは、まったくとうぜんです。それでイエスはこのようにして、わたしたちが受(う)けているものに対(たい)して政府(せいふ)に税金(ぜいきん)をはらうのはとうぜんであるということを示(しめ)されたのです。
ところであなたはまだ小(ちい)さいので、税金(ぜいきん)をはらってはいないでしょう。それでも政府(せいふ)に対(たい)してしなければならないことがあります。それはなんだか知(し)っていますか。--それは政府(せいふ)の法律(ほうりつ)に従(したが)うことです。
そのことをわたしたちに命(めい)じておられるのは神(かみ)です。そのみことば聖書(せいしょ)は『上位(じょうい)の権威(けんい)に従順(じゅうじゅん)でありなさい』と述(の)べています。ではその「上位(じょうい)の権威(けんい)」とはだれのことですか。--政府(せいふ)のなかで権力(けんりょく)を持(も)っている人(ひと)びとのことです。
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ですからたしかに法律(ほうりつ)に従(したが)わなければなりません。神(かみ)はそうすべきであるといっておられます。---ローマ書(しょ)13:1, 2。
1つの例(れい)を考(かんが)えてみましょう。道(みち)に紙(かみ)くずなどを捨(す)ててはいけないという法律(ほうりつ)がある場合(ばあい)その法律(ほうりつ)に従(したが)うべきですか。--そのとおりです。神(かみ)はあなたがそれに従(したが)うことを望(のぞ)んでおられます。
わたしたちはおまわりさんにも従(したが)うべきですか。政府(せいふ)は人(ひと)びとを守(まも)るためにおまわりさんに給料(きゅうりょう)をはらっています。おまわりさんに従(したが)うことは、政府(せいふ)に従(したが)うことと同(おなじ)じです。
ですから道(みち)をわたろうとしている時(とき)おまわりさんが「待(ま)ちなさい!」といったなら、どうすべきですか。--もしほかの人(ひと)たちが走(はし)ってわたるなら、どうすべきですか。--たとえ待(ま)つのはあなただけだとしても、あなたは待(ま)つべきです。神(かみ)は従(したが)いなさいとわたしたちに命(めい)じておられるのです。
近所(きんじょ)で問題(もんだい)が起(お)きて、おまわりさんが「道路(どうろ)に出(で)ないでください。外(そと)へ出(で)てはいけません」というかもしれません。でも叫(さけ)び声(ごえ)が聞(き)こえてくると、何(なに)が起(お)きているのだろうと思(おも)うかもしれません。ようすを見(み)るために外(そと)へ出(で)て行(い)くべきですか。--それは「上位(じょうい)の権威(けんい)」に従(したが)うことでしょうか。--
また政府(せいふ)は各地(かくち)に学校(がっこう)を建(た)てて、先生(せんせい)に給料(きゅうりょう)をはらいます。子(こ)どもたちが先生(せんせい)のいうとおりにすれば、教室(きょうしつ)でおだやかに勉強(べんきょう)できます。では神(かみ)はあなたが先生(せんせい)に従(したが)うことを望(のぞ)んでおられるでしょうか。--
「先生(せんせい)に従(したが)いなさい」という聖句(せいく)は聖書(せいしょ)のなかに1つもありません。でもそうすべきであることを聖書(せいしょ)は示(しめ)しています。政府(せいふ)は人(ひと)びとを守(まも)るためにおまわりさんに給料(きゅうりょう)をはらうのとおなじように、人(ひと)びとを教育(きょういく)するために
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先生(せんせい)に給料(きゅうりょう)をはらっています。ですからおまわりさんにも先生(せんせい)にも従順(じゅうじゅん)であることは、政府(せいふ)に従(したが)うことなのです。
あるいはこの問題(もんだい)をつぎのように考(かんが)えることもできます。神(かみ)は子(こ)どもたちに「お父(とう)さんとお母(かあ)さんに従(したが)いなさい」と命(めい)じておられます。ところであなたのお父(とう)さんやお母(かあ)さんは、先生(せんせい)にあなたの世話(せわ)をしてもらうため、あなたを学校(がっこう)に通(かよ)わせています。ですから家(いえ)で親(おや)に従(したが)うのとおなじように、先生(せんせい)に従(したが)うのは正(ただ)しいことです。--エフェソ書6ノ1。
わたしはいつもあなたといっしょにいるわけではありませんから、あなたが学校(がっこう)の先生(せんせい)に従(したが)っているかどうかはわたしにはわかりません。でも神(かみ)は見(み)ておられます。そしてわたしたちがほんとうに喜(よろこ)ばせたいと思(おも)っているのは神(かみ)ですね。--またわたしはあなたがおまわりさんに従(したが)っているかはわかりません。でもだれが見(み)ておられますか。--神(かみ)が見(み)ておられます。そのことをいつも思(おも)い起(お)こしてください。
それにわたしたちの生活(せいかつ)のなかでは神(かみ)が第(だい)1であるということも忘(わす)れないでください。わたしたちは政府(せいふ)に従(したが)いますが、それは神(かみ)がわたしたちに望(のぞ)んでおられることだからです。しかししてはならないと神(かみ)から禁(きん)じていることをするよう政府(せいふ)から命(めい)じられた場合(ばあい)はどうでしょう。--もしだれかに「神(かみ)に従(したが)わなくてもよい」といわれたなら神(かみ)はわたしたちがそのことばに聞(き)き従(したが)うのを望(のぞ)まれるでしょうか。--
そのようなことがイエスの使徒(しと)に起(お)きました。では使徒(しと)たちはどうしましたか。あなただったらどうしますか。--使徒(しと)たちは答(こた)えました「わたしたちは自分(じぶん)の支配者(しはいしゃ)として人間(にんげん)より神(かみ)に従(したが)わねばなりません」--使徒行伝、5:29。
(聖書では法律を尊重することが教えられています。テトスへの手紙3ノ1(政府や権威者たちに服し、自分たちの支配者としてそれに従順であるべきことを引き続き彼らに思い出させなさい。またあらゆる良い業に備えをし);マタイ伝、5:41(まただれか権威のもとにある者があなたを一マイルの奉仕に徴用するならば、その者と一緒に二マイル行きなさい);ペテロ第一、2:12-14(12. 諸国民の中にあっていつもりっぱに行動しなさい。それは悪行者として悪く言っているその事がらについてあなたがたのりっぱな業を実際に見、その業のゆえに検分の日に神の栄光をたたえるようになるためです。13. 人間の創造したものすべてに主のために服しなさい。すなわち、上位者としての王に対してであろうと14. あるいは、悪行者を処罰し、善行者をほめるために王から遣わされた知事に対してであろうとです)に書かれていることがらをお読みください。)
あなたにたいせつな質問(しつもん)をしたいと思(おも)います。それは、どのように答(こた)えるかによってあなたの将来(しょうらい)の命(いのち)が左右(さゆう)されるほど重要(じゅうよう)な質問(しつもん)です。あなたの神(かみ)はだれですか。--
あなたの神(かみ)とは、あなたが崇拝(すうはい)しているものです。世界(せかい)じゅうの人(ひと)びとはいろいろな種類(しゅるい)の神(かみ)を崇拝(すうはい)しています。それらの神(かみ)がみのなかには、木(き)や石(いし)を彫(ほ)ったり、木(き)や石(いし)で作(つく)ったりしただけのものもあります。また、スポーツや音楽(おんがく)でよく知(し)られた人(ひと)びともいます。それらの人(ひと)は「スター」とか「アイドル」(偶像(ぐうぞう)という意味(いみ))などといわれています。でも、そうしたほかの神(かみ)がみを賛美(さんび)するのは正(ただ)しいことですか。--
偉大(いだいな)な教(おし)え手(て)はつぎのようにいわれました。「あなたが崇拝(すうはい)しなければならないのはあなたの神(かみ)ヱホバであり、あなたが聖(せい)なる奉仕(ほうし)をささげなければならないのは彼(かれ)に対(たい)してだけである」--マタイ伝(でん)4ノ10。
それでイエスは問題(もんだい)を明(あき)らかにされました。わたしたちのささげる崇拝(すうはい)はヱホバ神(かみ)だけに属(ぞく)する事(こと)がらです。わたしたちのささげる崇拝(すうはい)のほんの少(すこ)しでさえ、ほかのどんな神(かみ)にも与(あた)えることはできません。このことを知(し)っていたある若者(わかもの)たちの感動的(かんどうてき)なお話(はなし)が、聖書(せいしょ)にしるされています。
その若者(わかもの)たちの名前(なまえ)は、シャデラク、メシャク、アベデネゴです。三人(さんにん)はヘブル人(じん)でしたが、バビロンの国(くに)に住(す)んでいました。バビロンの王(おう)は巨大(きょだい)な金(きん)の像(ぞう)を立(た)てました。そして音楽(おんがく)がなったなら、だれでもみなその像(ぞう)にひれ伏(ふ)しておがむようにと命(めい)じました。そして王(おう)は、『拝(おが)まない者(もの)はだれでも燃(も)える火(ひ)の炉(ろ)に直(ただ)ちに投(な)げ込(こ)まれるであろう』と警告(けいこく)しました。あなただったらどうしましたか。--
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シャデラク、メシャク、そしてアベデネゴは、いつもは王(おう)の命(めい)じることならなんでもしました。ところが、そのときは三人(さんにん)はそうしませんでした。なぜだかわかりますか。--というのは、神(かみ)の律法(りっぽう)には、『あなたは、わたし以外(いがい)のどんな神(かみ)がみをも持(も)ってはならない。あなたは自分(じぶん)のために彫像(ちょうぞう)を作(つく)って、それを拝(おが)んではならない』と書(か)いてあったからです。それで、シャデラク、メシャクそしてアベデネゴは王(おう)の命令(めいれい)よりもヱホバの律法(りっぽう)に従(した)がったのです。--出エジプト記、20:3, 4。
王(おう)はそのことを聞(き)くと、たいへんおこりました。そこでただちに、シャデラクとメシャクとアベデネゴを自分(じぶん)の前(まえ)につれてこさせて、こうたずねました。『あなたがたがわたしの神々(かみがみ)に仕(つか)えようとせず、わたしのたてた金(きん)の像(ぞう)を崇拝(すうはい)しようとしないというのはほんとうか。もう一度機会(いちどきかい)を与(あた)えよう。さあ、音楽(おんがく)が聞(き)こえたなら、ひれ伏(ふ)して、わたしの作(つく)った像(ぞう)を崇拝(すうはい)しなさい。もしそうしないから、火(ひ)の燃(も)える炉(ろ)に投(な)げ込(こ)まれる。いったいどの神(かみ)がわたしの手(て)からあなたがたを救(すく)い出(だ)せるであろう』
さて、シャデラクとメシャクとアベデネゴはどうしたでしょうか。あなただったらどうしましたか。--三人(さんにん)はエホバによりたのみました。そして、すぐにこう王(おう)に申(もう)しあげました。『わたしたちが仕(つか)えている神(かみ)はわたしたちを救(すく)い出(だ)すことができます。しかしたとえそうなさらなくても、あなたの神(かみ)がみはわたしたちの仕(つか)える神(かみ)ではありません。わたしたちはあなたの金(きん)の像(ぞう)にひれ伏(ふ)すことはしません』
王(おう)はかんかんにおこって、『炉(ろ)をいつもより七倍(ななばい)もあつくせよ』と命(めい)じました。また、シャデラクとメシャクとアベデネゴをしばりあげるよう、強(つよ)いけらいたちに命(めい)じ、それから、『彼(かれ)らを炉(ろ)に投(な)げ込(こ)め!』といいました。
王(おう)のしもべたちは三人(さんにん)を投(な)げこみました。が、炉(ろ)があまり
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にもあつかったので、王(おう)のけらいたちはほのおで焼(や)き殺(ころ)されました。三人(さんにん)のヘブル人(じん)はどうでしたか。
シャデラクとメシャクとアベデネゴは火(ひ)のまんなかに倒(たお)れました。しかし、三人(さんにん)は立(た)ちあがりました!害(がい)を受(う)けなかったのです。それにもうしばられてはいませんでした。どうしてそのようなことがありえたのでしょう。
炉(ろ)のなかを見(み)た王(おう)は、その光景(こうけい)におそれを感(かん)じました。『われわれは三人(さんにん)の男(おとこ)を火(ひ)のなかに投(な)げこんだのではなかったか』と王(おう)はたずねました。
『王(おう)よ、そのとおりでございます』と、しもべたちは答(こた)えました。
しかし、王(おう)はいいました。「見(み)よ!わたしには、四人(よにん)の者(もの)がそこを歩(ある)いているのが見(み)える。しかも、彼(かれ)らはだれも火(ひ)でそこなわれてはいない』
その四番(よんばん)めの者(もの)はだれだかわかりますか。--それはエホバのみ使(つか)いでした。そのみ使(つか)いは、まことの神(かみ)の三人(さんにん)の忠実(ちゅうじつ)なヘブル人(じん)のしもべたちを守(まも)るためにそこにいたのです。
そのことがわかると、王(おう)は炉(ろ)の入口(いりぐち)のところ
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へ行(い)って、「シャデラク、メシャク、アベデネゴ、至高(しこう)の神(かみ)のしもべたちよ、出(で)て、ここに来(き)なさい!」と大声(おおごえ)で叫(さけ)びました。彼(かれ)らが出(で)てきた時(とき)、だれもやけどをしていないことがみんなにわかりました。火(ひ)のにおいさえしませんでした。
そこで王(おう)はいいました。『シャデラク、メシャク、アベデネゴの神(かみ)がほめたたえられますように。神はご自分(じぶん)のしもべたちを救(すく)い出(だ)された。なぜなら、彼(かれ)らは自分(じぶん)たちの神(かみ)のほかには、どんな神(かみ)にも少(すこ)しも仕(つか)えようとせず、崇拝(すうはい)しようとしないからである』--ダニエル書(しょ)3章(しょう)
それはすばらしいことではありませんでしたか。--エホバは、それら三人(さんにん)の若者(わかもの)の行(おこ)ないを喜(よろこ)ばれました。ですから、わたしたちはそのことから教訓(きょうくん)を学(まな)べます。
今(いま)でも、人(ひと)びとは崇拝(すうはい)のために像(ぞう)をたてます。なかには、木(き)や石(いし)や金属(きんぞく)でできた像(ぞう)もあります。あなたはそうした像(ぞう)をおがみますか。--
ほかにも、布(ぬの)でできた像(ぞう)があります。そのような像(ぞう)を見(み)たことがありますか。--像(ぞう)が布(ぬの)、あるいは木(き)や石(いし)でできているかどうかは、神(かみ)にとって重要(じゅうよう)なことでしょうか。--エホバのしもべがそのような像(ぞう)のまえで崇拝行為(すうはいこうい)をするのは正(ただ)しいことでしょうか。--
シャデラク、メシャク、アベデネゴはエホバだけに崇拝(すうはい)をささげました。神(かみ)は三人(さんにん)のことを喜(よろこ)ばれました。あなたはそのもはんに見(み)ならいますか。--
(エホバに仕える人は、それと同時に像を崇拝することはできません。このことについてイザヤ書、42:8.(われはヱホバなり是(これ)わが名(な)なり 我(われ)はわが栄光(えいくゎう)をほかの者(もの)にあたへずわがほまれを偶像(ぐうざう)にあたへざるなり)とヨシュア記、24:14, 15(然(され)ば汝(なんぢ)らヱホバを畏(おそ)れ赤心(まごころ)と真実(まこと)とをもて之(これ)に事(つか)へ汝(なんぢ)らの先祖(せんぞ)が河(かは)の彼返(かなた)およびエジプトにて事(つか)へたる神(かみ)をも除(のぞ)きてヱホバに事(つか)へよ15. 汝(なんぢ)ら若(もし)ヱホバに事(こと)ふることを悪(あし)とせば汝(なんぢ)らの先祖(せんぞ)が河(かは)の彼返(かなた)にて事(つか)へし~~……神々(かみ〲)にもあれ汝(なんぢ)らの事(つか)ふべきものを今日選(こんにちえら)べ但(ただ)し我(われ)と我家(わがいへ)とは共(とも)にヱホバに事(つか)へん),19-22(22. ヨシュア民(たみ)に向(むか)ひて汝(なんぢ)らはヱホバを選(えら)びて之(これ)に事(つか)へんといへりなんぢら自(みづか)らその証人(あかしびと)たりと言(いひ)ければ皆我(みなわれ)らは証人(あかしびと)なりと答(こた)ふ)にしるされている事柄をお読みください。)
わたしはあるひけつを知(し)っています。あなたはそれを聞(き)きたいと思(おも)いますか。--それは幸福(こうふく)のひけつです。
幸福(こうふく)でない人(ひと)は大(おお)ぜいいます。その人(ひと)たちは、ほかの人(ひと)びとから何(なに)かをしてもらわなければ幸福(こうふく)になれないという場合(ばあい)がたいへん多(おお)いのです。だれかに良(よ)いものをもらうと幸福(こうふく)になります。だれからも何(なに)か特別(とくべつ)のことをしてもらわないと、そのような人(ひと)たちは幸福(こうふく)ではありません。
さて、ここにひけつがあります。偉大(いだい)な教(おし)え手(て)はこう言(い)われました。「受(う)けるよりも与(あた)えるほうが幸福(こうふく)です」それで、たいへん幸福(こうふく)なのはおくりものをもらう人(ひと)ではなくて、他(た)の人(ひと)びとに与(あた)える人(ひと)です。そのことを知(し)っていましたか。--使徒行伝(しとぎょうでん)20:35.
それはどういう意味(いみ)かを考(かんが)えてください。おくりものをもらう人(ひと)は幸福(こうふく)ではないとイエスは言(い)われましたか。--そうではありません。あなたはおくりものをもらうのがすきですね。--わたしもそうです。良(よ)いものをもらうと、わたしたちは幸福(こうふく)になります。
しかしイエスは、与(あた)えると、もっと幸福(こうふく)になると言(い)われました。イエスはいつも正(ただ)しいことを言(い)われましたね。--
では、わたしたちが他(た)の人(ひと)びとに与(あた)えることができるものには何(なに)がありますか。何(なに)か提案(ていあん)がありますか。--
おくりものをしたいとき、お金(かね)のかかる場合(ばあい)があります。少(すく)なくとも、お店(みせ)で買(か)うおくりものなら、そのためにお金(かね)を払(はら)わなければなりません。ですから、そのようなおくりものをしたい場合(ばあい)には、それを買(か)えるだけのお金(かね)をためなければならないでしょう。
[144]
しかし、おくりものはすべてお店(みせ)から買(か)うものだとはかぎられていません。そのことを説明(せつめい)しましょう。暑(あつ)い日(ひ)には、一(いっ)ぱいの冷(つめ)たい水(みず)ほどよいものはありません。お店(みせ)に行(い)ってそれを買(か)う必要(ひつよう)はありません。でも、だれかのどのかわいた人(ひと)にそれをあげるなら、あなたは与(あた)えることからえられる幸福(こうふく)を味(あじ)わえます。
~~……
使徒(しと)パウロは与(あた)える幸福(こうふく)を知(し)っていました。パウロは他(た)の人(ひと)たちに何(なに)を与(あた)えましたか。--彼(かれ)は世(よ)の中(なか)で一番(いちばん)よいおくりものを持(も)っていました。神(かみ)とイエスにかんする真理(しんり)を知(し)っていたのです。パウロはそれを他(た)の人(ひと)に喜(よろこ)んでわけ与(あた)えました。自分(じぶん)のさしのべた援助(えんじょ)に対(たい)して人(ひと)びとからお金(かね)をもらわずにそうしたのです。
[145]
~~……
たとえば、食(た)べたいと思(おも)っているおかしを一(ひと)つ持(も)っていたとします。もしわたしがあなたに、それをほかの子(こ)どもにあげなさいと言ったなら、あなたはそれをあげて幸福になれますか。--でも、だいすきな友(とも)だちに会(あ)ったとき、おかしを一(ひと)つ持(も)っているとします。おかしをその友(とも)だちにわけてあげたいと自分(じぶん)で考(かんが)えるなら、あなたは喜(よろこ)んでわけてあげられますね。--
それで、わたしたちがある人(ひと)をたいへん愛(あい)すると、その人(ひと)になんでも与(あた)えたい、そして自分(じぶん)のためには何(なに)も取(と)っておかなくてもよいと思(おも)うようになることがあるのを知(し)っています
[146]
か。愛(あい)が深(ふか)くなるにつれ、わたしたちは神(かみ)にたいしてそのように感(かん)ずるべきです。
偉大(いだいな)な教(おし)え手(て)は、そのように感(かん)じている女(おんな)の人(ひと)を知(し)っておられました。そして、その女(おんな)の人(ひと)をエルサレムの神殿(しんでん)のなかでごらんになりました。その人(ひと)は硬貨(こうか)をたった二枚持(にまいも)っていました。彼女(かのじょ)が持(も)っているものといえばそれがすべてでした。しかし、その女(おんな)の人(ひと)はその二枚(にまい)とも寄付(きふ)として、つまり神殿(しんでん)のためのおくりものとして箱(はこ)に入(い)れました。だれかから言(い)われてそうしたのではありません。自分(じぶん)からそうしたいと思(おも)い、神(かみ)をほんとうに愛(あい)していたのでそうしたのです。与(あた)えることができて、その人(ひと)は幸福(こうふく)でした。
ですから、与(あた)える方法(ほうほう)はたくさんありますね。--そうしたいと思(おも)って与(あた)えるなら、わたしたちは幸福(こうふく)になることを偉大(いだい)な教(おし)え手(て)は知(し)っておられました。「与(あた)えることをならわしにしなさい」とおっしゃったのはそのためです。そうするなら、だれかから良(よ)いことをしてもらうのを待(ま)って悲(かな)しい思(おも)いをすることはないでしょう。いつも他(た)の人(ひと)びとを幸福(こうふく)にしようとして忙(いそが)しくつとめるでしょう。そうすれば、だれにもまして幸福(こうふく)な人(ひと)になれるのです。--ルカ伝、6:38.
(幸福をもたらす与える喜びにかんするすぐれた考えが、さらにマタイ伝、6:1-4(人に注目されようとして自分の義を人の前で行うことがないようによく注意しなさい。でなければ、天におられるあなたがたの父にあってあなたがたに報いはありません。~~…自分の前にラッパを吹いてはなりません。あなたがたに真実に言いますが、彼らは自分の報いを全部受けているのです。しかし、あなたはあわれみの施しをするさい、あなたの右の手がしていることを左の手に知らせてはなりません。あなたのあわれみの施しがひそかになされるためです。そうすれば、ひそかに見ておられるあなたの父が報いてくださるのです。);コリント第二、9:7(各自いやいやながらでも、強いられてでもなく、ただその心に決めたとおりに行ないなさい。神は快く与える者を愛されるのです)およびルカ伝、14:12-14(次にイエスは自分を招いた人にもこう言われた。「あなたが、正さんや晩さんを設けるときには、友人や兄弟、また親族や富んだ隣人などを呼んではなりません。恐らく彼らはいつかあなたを招き返して、それがあなたへの報いとなることでしょう。むしろ、あなたがごちそうを設けるときには、貧しい人、かたわ、足なえ、盲目の人などを招きなさい。そうすればあなたは幸いです。彼らにはあなたに報いるものが何もないからです。あなたが義人の復活のさいに報いを受けるのです」)にも述べられています。)
ほこるとはどういう意味(いみ)ですか。あなたは知(し)っていますか。--
例(れい)をあげましょう。自分(じぶん)があまりとくいでないことをしてみようとしたことがありますか。ボールを打(う)ったり、なわとびをしたりしていたことがあるかもしれません。だれかに「は、は、は。きみよりぼくのほうがうまくできるよ」といわれたことがありますか。--では、その人(ひと)はほこっていたのです。自分(じぶん)のことを自慢(じまん)しました。
ほかの人(ひと)がそうするとき、あなたはどう感(かん)じますか。このましく感(かん)じますか。--では、あなたがなにかをほこるなら、ほかの人(ひと)はどう感(かん)じると思(おも)いますか。--「わたしはあなたよりじょうずですよ」というのは、親切(しんせつ)なことですか。--エホバは、そうする人(ひと)をこのまれますか。--
偉大(いだい)な教(おし)え手(て)は、そのようなことをする人(ひと)びとがいることを知(し)っておられました。それで、ある日(ひ)、そうした人(ひと)たちに一(ひと)つのお話(はな)をなさいました。それはパリサイ人(びと)と収税人(しゅぜいにん)にかんするお話(はな)しでした。
パリサイ人(びと)はこうまんな宗教家(しゅうきょうか)でした。そしてしばしば、あたかも自分(じぶん)たちはほかの人(ひと)びとよりも正(ただ)しくて、神聖(しんせい)な人間(にんげん)でもあるかのようにふるまいました。イエスのお話(はな)に出(で)てくるパリサイ人(びと)は、祈(いの)りをするため、エルサレムにある神(かみ)の神殿(しんでん)にのぼって行(い)きました。
イエスのお話(はなし)によれば、ある収税人(しゅぜいにん)も、祈(いの)りをするため、そこにのぼりました。ところで、たいていの人(ひと)は収税人(しゅぜいにん)がきらいでした。収税人(しゅぜいにん)は自分(じぶん)たちの敵(てき)だと感(かん)じていました。そのうえ、収税人(しゅぜいにん)は必(かなら)ずしも正直(しょうじき)ではありませんでした。
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そのパリサイ人(びと)は神殿(しんでん)でつぎのように神(かみ)に祈(いの)りはじめました。『おお神(かみ)よ、わたしは、自分(じぶん)がほかの人(ひと)びとのような罪人(つみびと)ではないことをあなたに感謝(かんしゃ)します。わたしは人(ひと)びとをだましたり、ほかの悪(わる)いことをしたりはしません。わたしはあそこにいる収税人(しゅぜいにん)のようではありません。わたしは正(ただ)しい人間(にんげん)です。わたしは週(しゅう)に二回食事(にかいしょくじ)を取(と)りませんから、あなたについて考(かんが)える時間(じかん)がもっとたくさんあります。そして、わたしが得(え)る物(もの)のすべての十分(じゅぶん)の一(いち)を神殿(しんでん)におさめています』ほんとうにそのパリサイ人(びと)は自分(じぶん)が正(ただ)しいと考(かんが)えていたのですね。--そして、そのことを神(かみ)にも話(はな)したのです。
しかし、収税人(しゅぜいにん)はそうではありませんでした。彼(かれ)は、神(かみ)の神殿(しんでん)に近(ちか)づけるほど良(よ)い人間(にんげん)ではないとさえ感(かん)じていました。天(てん)にむかって目(め)をあげようとさえしませんでした。それで、頭(あたま)をたれたまま、遠(とお)くはなれたところに立(た)っていました。収税人(しゅぜいにん)は自分(じぶん)の罪(つみ)を悔(く)い、悲(かな)しんで胸(むね)を打(う)ちました。自分(じぶん)がどんなに良(よ)い人間(にんげん)かを神(かみ)に話(はな)そうとはしないで、『おお神(かみ)よ、罪人(つみびと)のわたしに親切(しんせつ)にしてください』と祈(いの)りました。
あなたはふたりのうちのどちらかが神(かみ)に喜(よろこ)ばれたと思(おも)いますか。それは、自分(じぶん)がたいへん良(よ)い人間(にんげん)だと考(かんが)えた、ほこりたかぶったパリサイ人(びと)でしたか。それとも自分(じぶん)の罪(つみ)を悔(く)いていた収税人(しゅぜいにん)でしたか。--
イエスは次(つぎ)のようにいわれました。『神(かみ)にとっては、収税人(しゅぜいにん)のほうがパリサイ人(びと)よりも義(ぎ)にかなった人間(にんげん)です。なぜなら、あたかも自分(じぶん)がほかの人(ひと)よりもまさっているかのように見(み)せかけようとする者(もの)はみな、低(ひく)くされるからです。しかし、自分(じぶん)を卑(いや)しい者(もの)とみなす人(ひと)は高(たか)められます』--ルカ伝、18:9-14。
ここでイエスの教(おし)えておられる教訓(きょうくん)がわかりましたか。--自分(じぶん)はほかの人(ひと)びとよりまさっていると考(かんが)えるのはあやまっていることを、イエスは示(しめ)されたのです。この教訓(きょうくん)がわたし
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たちの生活(せいかつ)にどのようにあてはまるかを考(かんが)えてみましょう。
学校(がっこう)であなたと、もうひとりの子(こ)どもがある質問(しつもん)に答(こた)えるよう求(もと)められたとしましょう。あなたはすぐに答(こた)えられますが、もうひとりの子(こ)どもは早(はや)く答(こた)えられないとしたらどうですか。もちろん、答(こた)えを知(し)っているなら、あなたはいい気持(きも)ちがします。でも、その別(べつ)の生徒(せいと)に、きみはおしだね、というのは親切(しんせつ)なことでしょうか。--ほかの人(ひと)をけなして、自分(じぶん)をよく見(み)せようとするのは正(ただ)しいことですか。--
パリサイ人(びと)がしたのはそのことです。パリサイ人(びと)は、自分(じぶん)は収税人(しゅぜいにん)よりもすぐれているとして、自慢(じまん)しました。しかし偉大(いだい)な教(おし)え手(て)は、そのパリサイ人(びと)はまちがっているといわれました。
たしかに、ある人(ひと)にはほかの人(ひと)よりもよくできることがあるかもしれません。でも、それだからといって、その人(ひと)はほかの人(ひと)よりも良(よ)い人(ひと)だということになりますか。--
このことについて考(かんが)えてみてください。自分(じぶん)はたくさんのことを知(し)っているからといって、ほこるべきですか。--わたしたちは自分(じぶん)の頭脳(ずのう)を作(つく)りましたか。--いいえ、人間(にんげん)に頭脳(ずのう)をお与(あた)えになったかたは神(かみ)です。そして、わたしたちが知(し)っているものはすべて、だれかほかの人(ひと)から学(まな)んだ事(こと)がらなのです。あるいは本(ほん)で読(よ)んだことかも知(し)れませんし、だれかから聞(き)いたことかも知(し)れません。たとえ自分(じぶん)で考(かんが)え出(だ)したにしても、どのように考(かんが)え出(だ)したのでしょう。神(かみ)が
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お作(つく)りになったものを見(み)て考(かんが)え出(だ)したのです。わたしたちが持(も)っているものはすべて、だれかほかの人(ひと)から来(き)ました。
なかには強(つよ)い人(ひと)がいます。しかし、そうだからといって、ほかの人(ひと)よりもすぐれているといえますか。--そのような人(ひと)たちも自分(じぶん)のからだを作(つく)ったわけではありませんね。--人間(にんげん)に筋肉(きんにく)をお与(あた)えになったのは神(かみ)です。そして、わたしたちが食(た)べて強(つよ)くなるように、食(た)べるものをはえさせてくださるのは神(かみ)です。
そうすると、わたしたちはだれかにほこる理由(りゆう)を持(も)っていますか。わたしたちはほかの人(ひと)びとよりもすぐれていますか。--自分(じぶん)がどんなに良(よ)い人間(にんげん)かをほかの人(ひと)に告(つ)げるかわりに、たしかに、エホバがどんなにすばらしいかたかをほかの人(ひと)びとに話(はな)すべきではありませんか。--なぜなら、わたしたちがものごとをよく行(おこな)えるようにしてくださったのはエホバだからです。
人(ひと)がいっしょうけんめい努力(どりょく)しているとき、その人(ひと)を元気(げんき)づけるようなことをいってあげるのは親切(しんせつ)な行(おこ)ないです。その人(ひと)のしたことをうれしく思(おも)っている、といってあげなさい。そうすれば、その人(ひと)がもっと良(よ)くできるように助(たす)けてあげられるかもしれません。自分(じぶん)も人(ひと)からそうしてもらいたいと思(おも)うのではありませんか。--それで、イエスはこういわれました。『自分(じぶん)にしてもらいたいとほかの人(ひと)びとに思(おも)うとおりに、人(ひと)にも同(おな)じようにしなさい』これは守(まも)るべき良(よ)い規則(きそく)ではありませんか。--ルカ伝、6:31。
もしそのとおりにするなら、わたしたちは決(けっ)して自慢(じまん)したり、ほこったりはしないでしょう。わたしたちは、あのほこりたかぶったパリサイ人(びと)のようになりたいとは思(おも)いません。
(誇りや自慢は避けなければなりません。次の聖句に書かれていることをお読みください。箴言、16:5(すべて心(こゝろ)たかぶる者(もの)はヱホバに悪(にく)まれ 手(て)に手(て)をあはするとも罪(つみ)をまぬがれじ), 18(驕傲(たかぶり)は滅亡(ほろび)にさきだち 誇(ほこ)る心(こゝろ)は傾跌(たふれ)にさきだつ)。コリント第一、4:7(というのは、だれが人と他と異ならせるのですか。実際、自分にある者でもらったのではないものがあるのですか。では、もらったのではあれば、どうしてもらったのではないかのように誇るのですか);13:4(愛は辛抱強く、また親切です。愛はねたまず、自慢せず、思い上がらず)。)
あなたはだれかに何(なに)かをぬすまれたことがありますか。--あなたはどうかんじましたか。--だれがそれをぬすんだとしても、その人(ひと)はどろぼうです。そして、どろぼうをすきな人(ひと)はいません。
あなたはイエスの使徒(しと)のひとりがどろぼうになったことを知(し)っていましたか。--その人の名前(なまえ)はイエ[:ス?]カリオテのユダです。
ユダは何(なに)を行(おこ)なうのが正(ただ)しいかを知(し)っていました。小(ちい)さな子(こ)どものときでさえ、神(かみ)の律法(りっぽう)を聞(き)いていました。むかし、神(かみ)が天(てん)から大(おお)きな声(こえ)でで話(はな)され、「盗(ぬす)んではならない」と民(たみ)に命(めい)じられたことさえ知(し)っていました。ユダは神(かみ)の律法(りっぽう)が正(ただ)しいことを知(し)っていました。--出エジプト記、20ノ15。
おとなになったとき、ユダは偉大(いだい)な教(おし)え手(て)に会(あ)いました。ユダはイエスの言(い)われた事(こと)がらが気(き)にいって、イエスの弟子(でし)になりました。あとになって、イエスはユダをご自分(じぶん)の十二使徒(じゅうにしと)のひとりに選(えら)ぶことさえなさいました。
イエスと弟子(でし)たちは多(おお)くの時間(じかん)をいっしょに過(す)ごしました。彼(かれ)らはいっしょに旅行(りょこう)したり、いっしょに食事(しょくじ)をしたりしました。そして一行(いっこう)のお金(かね)は一(ひと)つの箱(はこ)のなかにいっしょに入(い)れておかれました。イエスはその箱(はこ)をユダに与(あた)えて、世話(せわ)をさせました。
もちろん、そのお金(かね)はユダのものではありませんでした。お金(かね)をどのように使(つか)うかをユダに命(めい)ずるのはイエスでした。しかし、しばらくたって、ユダは何(なに)をしたと思(おも)いますか。ユダはすべきでないときにお金(かね)を取(と)りはじめました。他(た)の人(ひと)びとが見(み)ていないときにお金(かね)を取(と)っていました。ユダはどろぼ
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うになったのです、そののちユダは、いつもお金(かね)のことばかり考(かんが)えるようになり、もっとたくさんのお金(かね)をえる方法(ほうほう)をみつけようとしていました。
ある日(ひ)、ひとりの女(おんな)の人(ひと)が、イエスに良(よ)い気分(きぶん)をあじわってもらおうと、たいへんじょうとうの油(あぶら)を手(て)に取(と)ってイエスの足(あし)にぬりました。ところがユダはふへいをもらしました。その油(あぶら)を売(う)れば貧(まず)しい人(ひと)びとにあげるためのお金(かね)がもっと手(て)にはいるのに、と言(い)いました。ほんとうは、箱(はこ)のなかにもっとお金(かね)がたまれば、それをぬすめるのにとユダは思(おも)っていたのです。あなたはそのような人(ひと)をどう思(おも)いますか。--ヨハネ伝(でん)12:1-6。
イエスはその時(とき)すぐに、あなたはどろぼうだ、とユダに言(い)おうとはなさいませんでした。しかし、イエスは、そのたいそうやさしい女(おんな)の人(ひと)を困(こま)らせてはならないとユダに言(い)われました。ユダはそのことが気(き)に入(い)りませんでした。彼(かれ)はどうしようと考(かんが)えましたか。ユダはいけないことをしたと感(かん)じるべきでした。それまでぬすみをしていたことをイエスに話(はな)し、そのお金(かね)をかえすべきでした。しかしユダはそうするどころか、恐(おそ)ろしいことをしたのです。
ユダはイエスの敵(てき)であった祭司長(さいしちょう)たちのところへ行(い)きました。祭司長(さいしちょう)はイエスをとらえたいと思(おも)っていました。しかし、人(ひと)びとに見(み)られないように、夜(よる)イエスをとらえたいと思(おも)っていました。ユダは彼(かれ)らにいいました。『もしわたしにお金(かね)をくださるなら、イエスをつかまえる方法(ほうほう)を教(おし)えましょう。わたしにいくらくださいますか』祭司長(さいしちょう)たちは、『銀(ぎん)
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三十枚(さんじゅうまい)をおまえにやろう」といいました。それはかなりのお金(かね)でした。--マタイ伝、26:14-16。
よこしまなユダはそのお金(かね)をもらいました。それはちょうど、偉大(いだい)な教(おし)え手(て)をそれらの人(ひと)たちに売(う)っているのと同(おな)じことでした。あなたは、そのような恐(おそ)ろしいことをする人(ひと)を想像(そうぞう)できますか。--さて、人(ひと)がどろぼうになると、そのようなことが起(お)こるのです。その人(ひと)は神(かみ)よりも、お金(かね)を愛(あい)するのです。その人(ひと)は神(かみ)よりも、お金(かね)を愛(あい)するのです。
では、わたしたちがこの問題(もんだい)をはっきり理解(りかい)しているかどうかを確(たし)かめてみましょう。どろぼうとは何(なに)かを理解(りかい)するためには、ある物(もの)を自分(じぶん)のものにするとはどういう意味(いみ)かを知(し)らなければなりません。人(ひと)びとは働(はたら)いて、品物(しなもの)を自分(じぶん)のものにします。またお金(かね)で買(か)ったり、あるいはおくり物(もの)としてもらったりする場合(ばあい)もあります。
お父(とう)さんが仕事(しごと)をなさると、そのためにお金(かね)をえます。そのお金(かね)はお父(とう)さんのものですか。--そうです。なぜならお父(とう)さんはそれをえるために仕事(しごと)をなさったからです。それはあなたのものではなく、お父(とう)さんのものです。
そうしたお金(かね)で、お父(とう)さんはあなたの家(いえ)のなかにある物(もの)を買(か)ったのです。それらはお父(とう)さんのものです。それらはお父(とう)さんのものですから、だれがそれを使(つか)ってよいかを言(い)う権利(けんり)はお父(とう)さんにあります。お父(とう)さんは、あなたがそれで遊(あそ)んでよいかどうかをあなたに話(はな)されます。また、お父(とう)さんはあなたがそれで遊(あそ)んでよいかをどうかをお母(かあ)さんに話(はな)させることもあります。
ときどきあなたは、ほかの子(こ)どもたちの家(いえ)に行(い)って遊(あそ)ぶことがありますね。--その家(いえ)のものはその子(こ)どもたちのお父(とう)さんのものです。その家(いえ)から何(なに)かを取(と)って、自分(じぶん)の家(いえ)に持(も)って来(く)るのは正(ただ)しいことでしょうか。--その家(いえ)のお父(とう)さんかお母(かあ)さんから持(も)っていってもよいといわれないなら、それは正(ただ)
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しくありません。その家(いえ)のお父(とう)さんかお母(かあ)さんに尋(たず)ねないで何(なに)かを自分(じぶん)の家(いえ)に持(も)って帰(かえ)ったら、それはどろぼうです。
なぜある人(ひと)はぬすむのですか。--その人(ひと)はほかの人(ひと)のものを見(み)るかもしれません。それは自転車(じてんしゃ)かもしれません。その自転車(じてんしゃ)を見(み)つめたり、それについて考(かんが)えたりすればするほど、それがますますすきになります。もしその人(ひと)が愛(あい)のある人(ひと)でなければ、他(た)の人(ひと)がどう感(かん)じるかを気(き)にしません。それでその人(ひと)は他(た)の人(ひと)をなぐって、自転車(じてんしゃ)をとろうとするかもしれません。あるいは、他(た)の人(ひと)がいなくなるのを待(ま)って、それから自転車(じてんしゃ)をとります。その人(ひと)はいったい何(なに)をしているのですか。--ぬすみをしているのです。
その人が自転車(じてんしゃ)を盗(ぬす)むのをほかの人(ひと)は見(み)ていないかもしれません。でも、それを見(み)ているかたがいるのです。だれだかわかりますか。--エホバ神(かみ)はそれを見(み)ておられます。神(かみ)はその人(ひと)がどろぼうだということを知(し)っておられます。
他(た)の人(ひと)の持(も)ち物(もの)が多(おお)いか少(すく)ないかは問題(もんだい)ではありません。お店(みせ)に行(い)くと、たくさんの品物(しなもの)が目(め)につきます。自分(じぶん)がたいへん欲(ほ)しいと思(おも)っているものを見(み)て、ある人(ひと)びとは一(ひと)つぐらいだれにもわからないだろうと自分(じぶん)にいうかもしれません。それを取(と)って、お金(かね)を払(はら)いません。それは正(ただ)しいですか。--いいえ、それはぬすみです。
そのようなことをする人(ひと)びとはユダににています。なぜなら、ユダはどろぼうだったからです。決(けっ)してユダのようにならないようにしましょう。
(盗むのは悪いことです。聖書はこのことを、マルコ伝、10:17-19(『~~…盗んではいけない、偽りの証しをしてはいけない、~…などです』)。ローマ人への手紙、13:9(「あなたは~…盗んではならない、~…」その法典は、この言葉、即ち、「あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない」に要約されるからです。)エフェソ人への手紙4ノ28(盗む者はもう盗んではなりません。むしろ、ほねおって働き、自分の手で良い業をなし、窮乏している人に分け与えることができるようにしなさい。)ではっきりと述べています。)
あなたは、だれかの家(いえ)に食事(しょくじ)に招待(しょうたい)されるのがすきですか。--もし神(かみ)の家(いえ)に招待(しょうたい)されたならどうでしょう。行(い)きたいと思(おも)いますか。--
ところで、神(かみ)は家(いえ)に住(す)んでおられません、とあなたはいうかもしれません。たしかに、神(かみ)はわたしたちのように家(いえ)に住(す)んでおられません。
でも、偉大(いだい)な教(おし)え手(て)は、神(かみ)は「家(いえ)」を持(も)っておられる、とおっしゃいました。そしてイエスは、小(ちい)さな子(こ)どもの時(とき)でさえ、よく神(かみ)の家(いえ)に行(い)きました。その家(いえ)とは、エルサレム市(し)にある美(うつく)しいエホバの神殿(しんでん)でした。その神殿(しんでん)はエホバのもので、エホバを崇拝(すうはい)するために用(もち)いられました。ですから、それは「エホバの家(いえ)」と呼(よ)ばれました。
イエスは少年(しょうねん)のころ、「エホバの家(いえ)」から遠(とお)くはなれたところに住(す)んでいました。当時(とうじ)は自動車(じどうしゃ)や汽車(きしゃ)はありませんでした。その神殿(しんでん)に行くには、歩(ある)いて行(い)かなければなりませんでした。それも1時間(じかん)かそこら歩(ある)けばよいのではなくて、そこに行(い)くには少(すく)なくとも三日間歩(みっかかんある)かねばなりませんでした。また、帰(かえ)りにもやはり三日(みっか)かかりました。わざわざそうした旅行(りょこう)をするだけの価値(かち)がありましたか。あなただったら「神(かみ)の家(いえ)」でひと時(とき)を過(す)ごすためにそんなに遠(とお)くまで歩(ある)いたでしょうか。--
「神(かみ)の家(いえ)」を愛(あい)した人(ひと)びとは、それを遠(とお)すぎるとは考(かんが)えませんでした。毎年(まいとし)イエスの両親(りょうしん)は崇拝(すうはい)のためにエルサレムに行(い)きました。そして、イエスも両親(りょうしん)といっしょに行(い)きました。
ある年(とし)のこと、両親(りょうしん)は帰(かえ)りの旅(たび)をはじめましたが、イエスは家族(かぞく)の者(もの)とはいっしょにいませんでした。かなりの道(みち)の
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りを旅(たび)するまで、ひとりもそのことに気(き)づきませんでした。それから両親(りょうしん)はイエスをさがしにもどりました。イエスはどこにいたと思(おも)いますか。--
ふたりはまさに神殿(しんでん)のなかでイエスを見(み)つけました。イエスは教師(きょうし)たちのことばに耳(みみ)をかたむけては、質問(しつもん)したりしていました。そして教師(きょうし)たちが何(なに)かたずねると、イエスは答(こた)えました。教師(きょうし)たちはイエスのりっぱな答(こた)えにたいへん驚(おどろ)きました。
両親(りょうしん)がイエスをついに見(み)つけたとき、ほっとしたのはいうまでもありません。ところが、イエスは心配(しんぱい)してはいませんでした。とどまっているのに神殿(しんでん)は良(よ)いところだということを知(し)っていたのです。それでイエスは、「わたしが自分(じぶん)の父(ちち)の家(いえ)にいるべきなのをご存(ぞん)じではなかったのですか』とたずねました。イエスはその両親(りょうしん)が「神(かみ)の家(いえ)」であることを知(し)っていました。そして、そこにいるのがすきだったのです。--ルカ伝(でん)2ノ41-49。
イエスはその両親(りょうしん)が崇拝(すうはい)のために集会(しゅうかい)に行(い)ったのは一年(いちねん)にたった一度(いちど)だけではありませんでした。彼(かれ)らの住(す)んでいた町(まち)では毎週、崇拝(まいしゅう、すうはい)のための集会(しゅうかい)がありました。
そうした集会(しゅうかい)では、だれかが立(た)ち上がって、聖書(せいしょ)を読(よ)みました。人(ひと)びとが持(も)っていた聖書(せいしょ)は全部(ぜんぶ)を1冊(さつ)の本(ほん)にまとめたものではありませんでした。長(なが)い巻(ま)き物(もの)になっていたのです。ですから、人(ひと)びとは巻(ま)き物(もの)を開(ひら)き、読(よ)みたいと思(おも)うところを出(だ)してから読(よ)みました。それからその説明(せつめい)が行(おこ)なわれました。聖書(せいしょ)によれば、それらの集会(しゅうかい)に出席(しゅっせき)するのはイエスの「習慣(しゅうかん)」でした。つまり、イエスは定期的(ていきてき)に出席(しゅっせき)されたのです。--ルカ伝(でん)4:16。
わたしたちもそうすべきです。でも現在(げんざい)、「神(かみ)の家(いえ)」はどこにありますか。神(かみ)を崇拝(すうはい)するにはどこへ行(い)くべきですか。--
イエスが行(い)ったエルサレムの神殿(しんでん)はもはやそこにはありま
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せん。それはほろぼされてしまいました。ですからそこに行(い)くわけにはいきません。
しかし、神(かみ)は今(いま)でも確(たし)かに「家(いえ)」を持(も)っておられます。それは石(いし)で作(つく)った家(いえ)ではありません。人(ひと)びとで作(つく)りあげられた家(いえ)です。そのようなことがどうしてありえますか。家(いえ)とは住(す)む場所(ばしょ)のことです。そして神(かみ)は、ご自分(じぶん)の民(たみ)といっしょにいるといっておられます。神(かみ)が天(てん)を去(さ)って地上(ちじょう)におりて来(こ)られるのではありません。しかし、神(かみ)はご自分(じぶん)の民(たみ)に非常(ひじょう)に親(した)しくしておられるので、その民(たみ)はあたかも神(かみ)がまさしく自分(じぶん)たちといっしょにおられるように感(かん)じるのです。--ペテロ第一(だいいち)2:5。エフェソ書(しょ)2:22。テモテ第一(だいいち)3:15。
それでは、「神(かみ)の家(いえ)」に行(い)くには、わたしたちはどこに行(い)くべきですか。--神(かみ)の民(たみ)が崇拝(すうはい)のために集(あつ)まっている所(ところ)に行(い)くべきです。それは大(おお)きな建物(たてもの)かもしれませんし、小(ちい)さな建物(たてもの)のなかかもしれません。あるいは、それはだれかの家(いえ)かもしれません。たいせつなのは、集(あつ)まっている人(ひと)びとが本当(ほんとう)に(かみ)の民(たみ)でなければならないということです。でもそれが神(かみ)の民(たみ)かどうかはどうしてわかりますか。--
それでは、それらの人(ひと)は集会(しゅうかい)で何(なに)をしますか。聖書(せいしょ)に書(か)かれていることをほんとうに教(おし)えますか。それを読(よ)んだり、話(はな)し合(あ)ったりしますか。そうであれば、わたしたちは神(かみ)のことばを聞(き)くことになるのではありませんか。--そして、「神(かみ)の家(いえ)」では神(かみ)の言(い)われた事(こと)がらが話(はな)されるはずですね。--
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しかしもし、聖(せいしょ)の述(の)べる仕方(しかた)で生活(せいかつ)しなくてもよいと人(ひと)びとがいうとすればどうですか。その人(ひと)たちは神(かみ)の民(たみ)だといえますか。--
ほかにも考(かんが)えなければならないことがあります。聖書(せいしょ)によれば、神(かみ)の民(たみ)は「ご自分(じぶん)の御名(みな)のための民(たみ)」なのです。神(かみ)のお名前(なまえ)はなんですか。--それはエホバです。ですから、あなたの神(かみ)はエホバですかと人(ひと)びとにたずねることができます。「いいえ、そうではありません」というなら、その人(ひと)たちは神(かみ)の民(たみ)ではないことがわかります。--使徒行伝(しとぎょうでん)15:14。
しかし、わたしたちの神(かみ)はエホバですというだけでは不十分(ふじゅうぶん)です。その証拠(しょうこ)はどこにありますか。そのような人(ひと)はほかの人(ひと)びとにエホバについて語(かた)っているはずです。そして、神(かみ)のおきてを守(まも)って、神(かみ)への愛(あい)を表(あら)わしているはず集(あつ)まるべきです。そして、定期的(ていきてき)にそこに行(い)くべきです。教(おし)えてくださる人(ひと)たちの話(はな)しに耳(みみ)をかたむけ、たずねられる質問(しつもん)に答(こた)えるべきです。それはイエスが「神(かみ)の家(いえ)」です。--イザヤ書(しょ)43:10。
わたしたちは、このことをしている人びとを知(し)っていますか。--それでは崇拝(すうはい)のためにその人(ひと)たちとともに集(あつ)まるべきです。そして、定期的(ていきてき)にそこに行(い)くべきです。教(おし)えてくださる人(ひと)たちの話(はな)しに耳(みみ)をかたむけ、たずねられる質問(しつもん)に答(こた)えるべきです。それはイエスが「神(かみ)の家(いえ)」にいたとき行(おこ)なったことです。そうするなら、わたしたちも「神(かみ)の家(いえ)」に対(たい)する愛(あい)をほんとうに示(しめ)すことになるのです。
(わたしたちは、神の民とともに定期的に集会に出席することに喜びを持つべきです。このことに関して詩篇、122:1(人(ひと)われにむかひて、率(いざ)ヱホバのいへにゆかんといへるとき我(われ)よろこべり)とヘブライ人への手紙、10:23-25(わたしたちの希望を公けに言い表すことを、たじろぐことなくしっかり保ちましょう、約束してくださったのは忠実なかただからです。また、たがいのことをよく考えて愛とりっぱな業とを鼓舞し合い、ある人々が習慣にしているように、集まり合うことをやめたりせず、むしろ互いに励まし合い、その日が近づくのを見てますますそうしようではありませんか)に書かれていることをお読みください。)
あなたには、なかの良(よ)い友(とも)だちが何人(なんにん)かいますね。--ところで、それらの友(とも)だちがほんとうにきけんな目(め)にあっているとしましょう。もしのっている舟(ふね)がしずみかけているとしましょう。もしできるなら、その友(とも)だちを救(すく)いたいと思(おも)うでしょうか。--友(とも)だちを助(たす)けるさいに自分(じぶん)が死(し)ぬおそれがあっても、そうするでしょうか。--ほかの人(ひと)を救(すく)おうとして自分(じぶん)の命(いのち)を与(あた)えるとすれば、その人(ひと)はそれらの人(ひと)をたいへん愛(あい)していることを示(しめ)しています。
イエスはわたしたちにたいするそのような愛(あい)を持(も)っておられたことを証明(しょうめい)しました。イエスはすすんで天(てん)をはなれ、地(ち)につかわされ、わたしたちのために死(し)なれました。イエスがわたしたちのために死(し)なれました。イエスがわたしたちのために死(し)なれたことを知(し)っていましたか。--
イエスがどのようにしてそうなさったかを聞(き)きたいと思(おも)いませんか。--では、わたしたちがその場(ば)にいて、その時(とき)のできごとを見(み)ているとしましょう。
ある春(はる)の夜(よ)ふけ、エルサレムでのことです。大(おお)きな月(つき)がこうこうと照(て)っています。エルサレム市(し)のほうを見(み)ると、イエスと使徒(しと)たちが大(おお)きな門(もん)をくぐって、市(し)の外(そと)に出(で)て行(い)くのが見(み)えます。オリブ山(やま)と呼(よ)ばれる丘(おか)に着(つ)くと、ある園(その)にはいって行(い)きます。わたしたちもついて行(い)ってみましょうか。--
よく見(み)ると、イエスが弟子(でし)たちからはなれたところに行(い)って、ひざまずいて父(ちち)に祈(いの)られます。イエスはそれを三回(さんかい)なさり、そのたびにもどって来(き)ては、祈(いの)っていなさいと弟子(でし)たちにお命(めい)じになります。なぜですか。何(なに)が起(お)こるのですか。--
ほら!園(その)に向(む)かってやって来(く)る男(おとこ)たちが見(み)えますか。--
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あかりを持(も)っている人(ひと)や、こんぼうを持(も)っている人(ひと)たちがいます。つるぎを持(も)った兵士(へいし)たちもいます。人(ひと)びとはとてもこわい顔(かお)をしています。イエスは彼(かれ)らが来(く)るのを見(み)たにちがいありません。イエスはにげるべきではありませんか。--
イエスは彼らをごらんになりましたが、にげようとはなさいません。すると、兵士たちがつかつかとやって来て、イエスを捕(とら)えます。イエスは、連(つ)れ去(さ)られるままになさるのでしょうか。イエスは父(ちち)に助(たす)けを求(もと)めようと思(おも)えば、それもできました。また、神(かみ)は、いく千人(せんにん)ものみ使(つか)いをイエスのもとにつかわすこともできました。そして、み使(つか)いたちは、男(おとこ)たちをすぐにほろぼすこともできたのです。もしあなたがイエスだったら、み使(つか)いの助(たす)けを叫(さけ)び求(もと)めたでしょうか。--
しかし、イエスはその人(ひと)たちに捕(とら)えられるがままにされます。なぜですか。--イエスはわたしたちのためにすすんで死(し)のうとしておられるからです。それよりもさらに重要(じゅうよう)な理由(りゆう)があります。イエスは弟子(でし)のペテロに、『神(かみ)のみことばはそのとおりにならなければなりません』といわれます。おわかりのように、イエスがご自分(じぶん)の命(いのち)を人類(じんるい)のためにお与えになるということは、聖書(せいしょ)のなかにすでに書(か)かれていました。
イエスの弟子(でし)たちは、ここでおそろしくなって、にげてしまいます。兵士(へいし)たちはイエスをエルサレムへつれもどします。あとをつけて、何(なに)が起(お)こるのか見(み)てみましょう。
兵士(へいし)たちはイエスを祭司長(さいしちょう)たちの前(まえ)につれて行(い)きます。彼(かれ)らはイエスをにくんでいます。イエスは、祭司(さいし)たちが聖書(せいしょ)を教(おし)えていないことを人(ひと)びとに示(しめ)してこられたからです。
祭司(さいし)たちは裁判(さいばん)を開(ひら)き、イエスについてうそをいう人(ひと)たちをなかにいれ、イエスが何(なに)か悪(わる)いことをした証拠(しょうこ)をあげようとして、イエスに質問(しつもん)します。しかし、イエスの不利(ふり)なことを何一(なにひと)つ証明(しょうめい)できません。そこでイエスに、『あなたは神(かみ)の子(こ)か』と聞(き)きます。『そのとおりです』とイエスは答(こた)えます。
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祭司(さいし)たちはおこって、こういいます。『彼(かれ)は有罪(ゆうざい)だ!彼(かれ)は殺(ころ)されるべきだ!』ほかの人(ひと)たちもみな、それに同意(どうい)します。それで、そこにいた人びとのいく人(にん)かがイエスをからかいはじめ、イエスは、聖書(せいしょ)から真理(しんり)を教(おし)えたことをこうかいするようになりますか。あなたならどう感(かん)じたでしょうか。--
でも、イエスはこうかいするどころか、不平(ふへい)をいったり、なぐりかえしたりすることさえなさいません。
さて、朝(あさ)がやってきます。イエスは一晩(ひとばん)じゅう起(お)きておられました。祭司(さいし)たちは今度(こんど)はイエスをしばらせて、総督(そうとく)のピラトのもとに連(つ)れて行(い)きます。
そしてピラトにこういいます。『イエスは政府(せいふ)に反対(はんたい)しています。彼(かれ)は殺(ころ)されるべきです』しかし、ピラトは、彼(かれ)らがうそをいっているのだということを見(み)ぬき、こういいます。『この男(おとこ)には何一(なにひと)つ悪(わる)いところがない。彼(かれ)を釈放(しゃくほう)する』ところが祭司(さいし)やほかの者(もの)たちは、『だめだ!殺(ころ)せ!』と大声(おおごえ)で叫(さけ)びます。
そのご、ピラトは、イエスを釈放(しゃくほう)したいともう一度群(いちどぐん)しゅうに話(はな)そうとしますが、祭司(さいし)たちは群(ぐん)しゅうを動(うご)かして、『彼(かれ)を釈放(しゃくほう)するなら、あなたも政府(せいふ)に反対(はんたい)しているのだ!彼(かれ)を殺(ころ)せ!』と叫(さけ)ばせます。あたりはそうぜんとなります。ピラトはどうするでしょうか。
ピラトは人(ひと)びとの要求(ようきゅう)にまけます。そして、まずイエスをむちで打(う)たせ、それから、死刑(しけい)にするためにイエスを兵士(へいし)たちにわたします。
兵士(へいし)たちはイエスに大(おお)きな柱(はしら)、つまりくいを与(あた)えてはこばせます。そしてみんなはついに、市(し)の外(そと)の、頭(ず)がいこつの場所(ばしょ)と呼(よ)ばれる
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所(ところ)へつきます。そこで、兵士(へいし)たちはイエスの両手(りょうて)と両足(りょうあし)をくいにくぎづけにし、それを立てます。こうしてイエスはくいにかけられます。イエスのからだからは血(ち)が流(なが)れてゆきます。その苦(くる)しみと痛(いた)みはたいへんひどいものです。
イエスはくいにかけられただけなので、すぐに死(し)ぬわけではありません。祭司長(さいしちょう)たちはイエスをからかって、「もし神(かみ)の子(こ)なら、刑柱(けいちゅう)から下(お)りて来(こ)い!」といいます。しかし、イエスは、何(なに)をするために父(ちち)からつかわされたかをごぞんじです。わたしたちが永遠(えいえん)の命(いのち)を得(え)る機会を持(も)てるようにするため、ご自分(じぶん)の命(いのち)を与(あた)えなければならないということを知(し)っておられるのです。午後(ごご)3時ごろ、ついにイエスは父(ちち)に向(む)かって大声(おおごえ)で叫(さけ)んで、死(し)なれます。--マタイ伝(でん)26:36-27:50。ルカ伝(でん)22:39-23:46。ヨハネ伝(でん)18:1-19:30。
イエスはアダムとはなんとちがっていたのでしょう。アダムは神(かみ)に対(たい)する愛(あい)を示(しめ)すどころか、神(かみ)にそむきました。アダムが罪(つみ)をおかしたために、わたしたちすべては、罪(つみ)をもって生(う)まれているのです。しかし、イエスは神(かみ)とわたしたちにたいして愛(あい)を示(しめ)されました。またいつも神(かみ)に従(したが)われました。そして、ご自分(じぶん)の命(いのち)をお与(あた)えになったので、アダムがわたしたちにもたらした害(がい)を取(と)りのぞくことができるのです。
あなたは、イエスがなさったすばらしいことを正(ただ)しく理解(りかい)していますか。--神(かみ)にお祈(いの)りする時(とき)、み子(こ)がしてくださったことにたいして、神(かみ)に感謝(かんしゃ)していますか。--そうする人(ひと)は、そのことを正(ただ)しく理解(りかい)している人(ひと)といえます。そして、偉大(いだい)な教(おし)え手(て)の言(い)われることをほんとうに行(おこ)なうなら、イエスがわたしたちのためにご自分(じぶん)の命(いのち)をお与えになったことを、どれほど正(ただ)しく理解(りかい)しているかを、いっそうよく示(しめ)せます。
(イエスがわたしたちのためになさったことに対する正しい認識を培うため、ヨハネ伝、3:16(というのは、神は世を深く愛してご自分の独り子を与え、誰でも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで、永遠の命を持つようにされたからです);ローマ人への手紙、5:8, 19(ところが神は、わたしたちがまだ罪人であった間にキリストがわたしたちのために死んでくださったことに於いて、ご自身の愛をわたしたちに示しておられるのです;ひとりの人の不従順を通して多くの者が罪人とされたのと同じように、ひとりの方の従順を通して多くの者が義とされるのです);テモテ第一、2:5, 6(神はただ一人であり、また神と人間との間の仲介者もただ一人、人間キリスト・イエスでありこの方は、すべての人のための対応する贖いとしてご自身を与えて下さったのです--このことは正にその定めの時に証しされるのであり);マタイ伝20ノ28(ちょうど人の子が、仕えてもらうためではなく、むしろ仕え、かつ自分の魂を、多くの人と引き換える贖いとして与えるために来たのと同じです)をお読みください。)
だれかからすばらしいおくり物(もの)をもらったとしましょう。あなたはそれをどう感(かんじ)じますか。--ただ、「ありがとうございます」といって、あとはおくり物(もの)をくださったかたのことをすっかり忘(わす)れてしまいますか。それとも、していただいたことを忘(わす)れないようにしたいと思(おも)いますか。--
エホバはわたしたちにたいへんすばらしいおくり物(もの)を与(あた)えてくださいました。わたしたちのために死(し)ぬよう、ご自分(じぶん)のみ子(こ)を地上(ちじょう)につかわされたのです。そのおかげで、わたしたちは病気(びょうき)と死(し)から自由(じゆう)になれます。エホバとみ子(こ)は、なんと愛(あい)のあることをしてくださったのでしょう!たしかにわたしたちは、神(かみ)とみ子(こ)がわたしたちのためにしてくださったことを忘(わす)れたいとは思(おも)いませんね。--
神(かみ)のみ子(こ)は、ご自分(じぶん)のなさったことをわたしたちに思(おも)い起(お)こさせるための特別(とくべつ)な方法(ほうほう)をお与(あた)えになりました。あなたはそれを知(し)っていますか。--そのことについて話(はな)してあげましょうか。--
あなたが、エルサレムのある家(いえ)の二階(にかい)にいると考(かんが)えてください。時(とき)は夜(よる)です。へやにだれがいるのかを見(み)てみましょう。そこには偉大(いだい)な教(おし)え手(て)がいます。使徒(しと)たちもいます。その人(ひと)たちは、テーブルのまわりの長(なが)いすに寄(よ)りかかっています。テーブルの上(うえ)には、天火(てんぴ)で焼(や)いた小羊(こひつじ)の肉(にく)と、ひらぺったいパンと赤(あか)いぶどう酒(しゅ)があります。でも、これはふつうの食事(しょくじ)ではありません。みんなは特別(とくべつ)な食事(しょくじ)をしているところなのです。なぜだかわかりますか。--
これは、何百年(なんびゃくねん)も前(まえ)に起(お)きた、とても重要(じゅうよう)なことがらを思(おも)いださせる食事(しょくじ)なのです。エホバがご自分(じぶん)の民(たみ)である
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イスラエル人(じん)をエジプトでの奴隷状態(どれいじょうたい)から解放(かいほう)なさったのはその夜(よる)のことでした。
エホバはご自分(じぶん)の民(たみ)に、『家族(かぞく)ごとに一頭(いっとう)の小羊(こひつじ)を殺(ころ)し、その血(ち)を家(いえ)の戸口(とぐち)のはしらにぬりなさい』と命(めい)じたあと、『家(いえ)のなかにはいって、小羊(こひつじ)をを食(た)べなさい』といわれました。
人(ひと)びとはそうしました。そして、その日(ひ)の夜、神(よる、かみ)のみ使(つか)いはエジプトの地(ち)を通(とお)り、ほとんどの家(いえ)でうい子(ご)を殺(ころ)しました。しかし、戸口(とぐち)のはしらにぬられた血(ち)を見(み)ると、その家(いえ)を過(す)ぎ越(こ)してゆきました。それらの家(いえ)の子(こ)どもは死(し)にませんでした。もしあなたがそこにいたら、どちらの家(いえ)にいたいと思(おも)ったでしょうか。--
エジプトの王(おう)は、エホバのみ使(つか)いのしたことにおそれをなしてしまいました。そして『おまえたちは自由(じゆう)だ。エジプトから出(で)て行(い)け!』とイスラエル人(じん)にいいました。そこでイスラエル人(じん)はラクダやロバに荷物(にもつ)をつんで出(で)ていきました。
しかし、エホバは、その民(たみ)をどのようにして解放(かいほう)したかを民(たみ)に忘(わす)れないようにさせたいと望(のぞ)まれました。そこで、こうおっしゃいました。「年(ねん)に一度(いちど)、あなたがたは、こんばん食(た)べたような食事(しょくじ)をしなければなりません。そして、エジプトでこん夜起(やお)きたことについて、あなたがたの子(こ)どもたちに話(はな)すべきです』
イスラエル人はこの特別(とくべつ)な食事(しょくじ)を過(す)ぎ越(こ)しと呼(よ)びました。なぜだかわかりますか。--なぜなら、その夜、神(よる、かみ)のみ使(つか)いは血(ち)でしるしのつけられた彼(かれ)らの家(いえ)を『過(す)ぎ越(こ)し』たからです。おぼえていますか。
イエスと使徒(しと)たちは、過(す)ぎ越(こ)しの食事(しょくじ)をしながら、そのことについて考(かんが)えています。そのあと、イエスはたいへん重要(じゅうよう)なことを行(おこ)ないますから、注意深(ちゅういぶかく)く見(み)まもってください。
イエスは残(のこ)ったパンの一(ひと)つを取(と)り上(あ)げ、そのための祈(いの)りをささげてから、そのパンをさきます。それを弟子(でし)たちにまわ
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して、「取(と)って、食(た)べなさい」と告(つ)げ、それから、『このパンは、わたしがあなたがたのために死(し)ぬ時(とき)に与(あた)えるわたしのからだをあらわしています』といいます。
つぎにイエスは赤(あか)いぶどう酒(しゅ)のはいったコップを取(と)りあげて、もう一度感謝(いちどかんしゃ)の祈(いの)りをささげてから、それをみんなにまわします。そして、『あなたがたはみな、それからのみなさい』と告(つ)げ、そしてこういいます。『このぶどう酒(しゅ)はわたしの血(ち)をあらわしています。まもなくわたしは、あなたがたを罪(つみ)から自由(じゆう)にするために、わたしの血(ち)をそそぎ出(だ)します。わたしを思(おも)い起(お)こすために、このことを行(おこ)ないつづけなさい』--マタイ伝、26:26-28。コリント第一、11:23-26。
イエスを思(おも)い起(お)こすために弟子(でし)たちはそれを行(おこ)ないつづけなければならない、とイエスがおっしゃったことにあなたは気(き)がつきましたか。--弟子(でし)たちはもう過(す)ぎ越(こ)しの食事(しょくじ)はしません。そのかわり毎年一回(まいねんいっかい)、イエスの死(し)を思(おも)い起(お)こすために、この特別(とくべつ)な食事(しょくじ)をするのです。それは主(しゅ)のばんさんと呼(よ)ばれます。こんにち、それは記念式(きねんしき)とも呼(よ)ばれます。なぜですか。--なぜなら、それはイエスとその父(ちち)がわたしたちのためにしてくださったことを思(おも)い出(だ)させるものだからです。
あなたも、こんど行(おこ)なわれる記念式(きねんしき)にわたしといっしょに行(い)きませんか。--そこに行(い)くと、ひらべったいパンと赤(あか)いぶ
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どう酒(しゅ)がまわされるのを見(み)ます。そのパンとぶどう酒(しゅ)を見(み)たら、あなたは何(なに)を考(かんが)えますか。--
パンを見(み)たら、イエスのからだについて考(かんが)えるべきです。イエスはわたしたちに永遠(えいえん)の命(いのち)をえさせるために、ご自分(じぶん)のからだをすすんでおすてになりました。また、赤(あか)いぶどう酒(しゅ)についてはどうですか。--それを見(み)たら、人(ひと)びとがイエスをくいにくぎづけにして殺(ころ)した時(とき)にそそぎ出(だ)された、イエスの血(ち)のことを思(おも)い出(だ)すべきです。
イエスの血(ち)は、エジプトで用(もち)いられた過(す)ぎ越(こ)しの小羊(こひつじ)の血(ち)よりずっと尊(とうと)いものです。なぜだかわかりますか。--わたしたちは、イエスの血(ち)により罪(つみ)のゆるしを受(う)けられるからです。
わたしたちのすべての罪(つみ)を取(と)りさってもらうとは、どういう意味(いみ)かわかりますか。--そうなると、何(なに)かあやまりをするということはもう決(けっ)してありません。また、もう病気(びょうき)もなったり、年(とし)をとったり、死(し)んだりすることもないのです!記念式(きねんしき)に行(い)く時(とき)には、そのようなことを考(かんが)えるべきです。
記念式(きねんしき)に出席(しゅっせき)する人はみな、そのパンを食(た)べ、ぶどう酒(しゅ)をのむべきですか。--いいえ、イエスは、そうする人(ひと)たちに、「あなたがたはわたしの王国(おうこく)にあずかり、わたしとともに天(てん)でくらいにつきます」といわれました。それは、彼(かれ)らが天(てん)に行って、イエスといっしょに王(おう)になるという意味(いみ)です。パンとぶどう酒(しゅ)にあずかるのは、そうなる人(ひと)たちだけです。
しかし、たとえパンを食(た)べたり、ぶどう酒(しゅ)をのんだりしなくても、記念式(きねんしき)に出席(しゅっせき)すべきです。なぜだかわかりますか。--なぜならイエスはわたしたちのためにもご自分(じぶん)の命(いのち)をお与(あた)えになったからです。記念式(きねんしき)に行(い)く人(ひと)は、それを忘(わす)れてはいないことを示(しめ)しています。わたしたちは、キリストを通(とお)して与(あた)えられた、神(かみ)のすばらしいおくり物(もの)のことをおぼえています。
(記念式に出席するのたいせつさを示す聖句としては、ほかにルカ伝、22:19, 20,(19. また、イエスはパンを取(と)り、感謝(かんしゃ)をささげてそれを割(さ)き、それを彼らに与えて、こう言いわれた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体を表わしています。わたしの記念としてこれを行ないつづけなさい) 28-30(しかし、あなたがたはわたしの試練の間わたしに堅くつき従ってきた者たちです);コリント第一11ノ27(そのようなわけで、だれでも、ふさわしくないしかたでパンを食べたり主の杯を飲んだりする者は、主の体と血について罪を負うことになります)があります。)
あなたは動物(どうぶつ)がすきですか。--ライオンと遊(あそ)べたらいいなあ、と思(おも)いますか。それともくまをかってみたいなあ、と思(おも)いますか。
そのようなことを行(おこ)なえる時が近づいています。聖書(せいしょ)を取(と)り出(だ)して、いっしょにそのことについて読(よ)みましょう。
その聖句(せいく)はイザヤ書(しょ)11章(しょう)6節(せつ)です。そこにはこう書(か)かれています。「狼(おおかみ)はしばしのあいだ雄(おす)の小羊(こひつじ)とともに実際(じっさい)に宿(やど)り、ひょうは子(こ)やぎとともに横(よこ)たわり、子牛(こうし)、たてがみのある若(わか)いライオン、肥(こ)えた動物(どうぶつ)がみなともにいて、ほんの小(ちい)さな少年(しょうねん)がそれらを導(みちび)く者(もの)となる」
もしおおかみが小羊(こひつじ)をつかまえたなら、今(いま)だったらどうなりますか。--小羊(こひつじ)を食(た)べてしまうでしょうね。また、もしひょうが小(こ)やぎといっしょにいたとしたら、どうなりますか。--その小(こ)やぎはひょうのえじきになってしまうでしょう。
しかし、聖書(せいしょ)によると、このような状態(じょうたい)は変化(へんか)しようとしています。神(かみ)は、それらの動物(どうぶつ)が、たがいに食(た)べあうかわりに、わらを食(た)べるようにさせようとしておられます。動物(どうぶつ)がみんななかよしになったら、ライオンをかうのは楽(たの)しいことでしょうね。--そのようなことが楽園(らくえん)でおきようとしているのです。
楽園(らくえん)てなんだか知(し)っていますか。--楽園(らくえん)とは美(うつく)しい園(その)とか公園(こうえん)のことです。それは平和(へいわ)と楽(たの)しみの場所(ばしょ)です。
神(かみ)は最初(さいしょ)の男(おとこ)であるアダムとその妻(つま)に楽園(らくえん)を住(す)みかとしてお与(あた)えになりました。それはエデンの園(その)と呼(よ)ばれました。その園(その)には動物(どうぶつ)がいました。でも、どの動物(どうぶつ)もほかの動物(どうぶつ)を害(がい)
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しませんでした。おいしいくだものがたくさんなる木(き)もありました。それから、川(かわ)もありました。そこはすばらしい住(す)みかでした。
しかし、アダムとエバはその楽園(らくえん)を失(うしな)いました。ふたりは神(かみ)にそむいたので、もう楽園(らくえん)には住(す)めなくなりました。エデンの園(その)はいまはありません。それでは、わたしたちには楽園(らくえん)に住(す)むどんな機会(きかい)があるのですか。--
さて、偉大(いだい)な教(おし)え手(て)は、苦(くる)しみのくいの上(うえ)で死(し)ぬ前(まえ)新(あたら)しい楽園(らくえん)について話(はな)されました。ある男(おとこ)がイエスに、『イエスよ、あなたがご自分(じぶん)の王国(おうこく)にはいられる時(とき)わたしを思(おも)い出(だ)してください』といいました。イエスは、『きょうあなたに真実(しんじつ)に告(つ)げます、あなたはわたしとともに楽園(らくえん)にいるでしょう』とお答(こた)えになりました。--ルカ伝、23:42, 43。
イエスは、ふたりがまさにその同(おな)じ日(ひ)に楽園(らくえん)にはいるであろうとはいわれませんでした。ふたりとも、その日(ひ)に死(し)んで、ほうむられました。しかし、イエスは『王国(おうこく)にはいった』のちに何(なに)が起(お)きるかについて話(はな)しておられたのです。そのとき、もう一度楽園(いちどらくえん)が与(あた)えられます。その新(あたら)しい楽園(らくえん)は永遠(えいえん)に続(つづ)きます。
その楽園(らくえん)はどこにあるでしょうか。--最初(さいしょ)の楽園(らくえん)はまさにこの地上(ちじょう)にありましたね。では、新(あたら)しい楽園(らくえん)もこの地上(ちじょう)につくられます。イエスがわたしたちに、神(かみ)の意志(いし)が地上(ちじょう)でも行(おこ)なわれることを祈(いの)るように教(おし)えられたのはそのためです。その時(とき)が来(く)ると、全地(ぜんち)は楽園(らくえん)になります。
楽園(らくえん)では大(おお)きな変化(へんか)がいろいろ生(しょう)ずるでしょう。空気(くうき)はきれいで新鮮(しんせん)で、呼吸(こきゅう)するのも良(よ)いものになり、川(かわ)の水(みず)もきれいな良(よい)い水(みず)となります。土地(とち)はたくさんの食物(しょくもつ)を産(さん)するので、うえる人(ひと)はひとりもいません。全地(ぜんち)は公園(こうえん)のようになるでしょう。それはあらゆる種類(しゅるい)の鳥(とり)や動物(どうぶつ)がすみ、あらゆる種類(しゅるい)の水(みず)や花(はな)のある生(い)き生(い)きとした楽園(らくえん)になるでしょう。
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しかし、ひじょうに大(おお)きく変化(へんか)するのは人(ひと)びとでしょう。地球(ちきゅう)をだいなしにしているのは人(ひと)びとですね。--なかには家(いえ)のなかをきたなくしている人(ひと)がいます。そのような人(ひと)は、ところかまわずものを捨(す)てます。でも、楽園(らくえん)はそのような所(ところ)ではありません。そこは清潔(せいけつ)な、ここちよい住(す)みかです。それで、もし楽園(らくえん)に住(す)みたいと思(おも)うなら、ものをきれいに、そうしてきちんと整(せい)とんしておく方法(ほうほう)をいま学(まな)ぶべきではありませんか。--それは、地球(ちきゅう)が楽園(らくえん)になるのをほんとうに願8ねが)っていることを示(しめ)す一(ひと)つの方法(ほうほう)ですね。--
人(ひと)びとはほかの点(てん)でも変化(へんか)します。楽園(らくえん)は平和(へいわ)な場所(ばしょ)です。しかし今日(こんにち)あらゆる人(ひと)が平和(へいわ)な人(ひと)というわけではありません。なかには、ほかの人(ひと)に向(む)かって大声(おおごえ)を上(あ)げる人(ひと)がいます。そのような人(ひと)はほかの人(ひと)を打(う)ったり、きずつけたりして、まるで野生(やせい)の動物(どうぶつ)のようなことをします。それらの人(ひと)は平和(へいわ)にくらすことを学(まな)ばなければなりません。楽園(らくえん)では、ひとびとは『なんら害(がい)を与(あた)えたり、破滅(はめつ)を引(ひ)き起(お)こしたりはしません」--イザヤ書(しょ)、11:9。
あなたはいつもほかの人(ひと)たちとなかよくしていますか。--楽園(らくえん)
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に住(す)もうと思(おも)うなら、平和(へいわ)な人(ひと)になることを学(まな)ぶ必要(ひつよう)がありますね。--
楽園(らくえん)に住(す)むのはすばらしいことです。神(かみ)は、その時(とき)わたしたちのためにおどろくべきことを行(おこ)なわれると約束(やくそく)しておられます。あなたの聖書(せいしょ)の黙示録(もくしろく)21章(しょう)3節(せつ)と4節(せつ)をあけていっしょに読(よ)みましょう。そこにはこう書(か)かれています。「見(み)よ、神(かみ)の天幕(てんまく)が人(ひと)とともにあり、神(かみ)は彼(かれ)らとともに住(す)み、彼(かれ)らは神(かみ)の民(たみ)となるであろう。こうして神(かみ)みずから人(ひと)とともにおられるであろう。また、彼(かれ)は人(ひと)の目(め)からすべての涙(なみだ)をことごとくぬぐい去(さ)られ、そうしてもはや死(し)はなくなり、嘆(なげ)きも、叫(さけ)びも、苦痛(くつう)ももはやなくなるであろう。以前(いぜん)の物事(ものごと)は過(す)ぎ去(さ)った」
そのことを考(かんが)えてみてください!神(かみ)はわたしたちを見守(みまも)ってくださるのです。わたしたちが、ふしあわせだからといって泣(な)きさけぶ必要(ひつよう)は決(けっ)してありません。病気(びょうき)のために痛(いた)い思(おも)いをするひとりもいません。そうして、だれも死(し)ぬ必要(ひつよう)はありません。楽園(らくえん)とはそのような所(ところ)なのです。
あなたはほんとうに楽園(らくえん)に住(す)みたいと思(おも)いませんか。--わたしは住(す)みたいと思(おも)います。今(いま)わたしたちが毎日(まいにち)していることは、わたしたちが楽園(らくえん)にはいれるかどうかに影響(えいきょう)します。楽園(らくえん)でくらしたいと思(おも)うなら、今(いま)はそのために準備(じゅんび)すべき時(とき)です。
(この地球は永遠に続きます。神は地球をすばらしい住みかにされます。このことについて、さらに聖句をお読みください。詩篇、104:5(ヱホバは地(ち)を基(もとゐ)のうへにおきて永遠(とこしへ)にうごくことなからしめたまふ)。37:10, 11(10 あしきものは久(ひさ)しからずしてうせんなんぢ細密(こまか)にその處(ところ)をおもひみるともあることなからん 11 されど謙(へりく)だるものは國(くに)をつぎまた平安(やすき)のゆたかなるを樂(たのし)まん)。箴言、2:21, 22(21 そは義人(たゞしきひと)は地(ち)にながらへをり完全者(まったきもの)は地(ち)に止(とゞま)らん22 されど惡者(あしきもの)は地(ち)より亡(ほろぼ)され悖逆者(もとるもの)は地(ち)より抜(ぬき)さらるべし)。イザヤ書、35:5, 6(5 そのとき瞽者(めしひ)のめはひらけ聾者(みゝしひ)の耳(みゝ)はあくことを得(う)べし6 そのとき跛者(あしなへ)は鹿(しか)の如(ごと)くにとびはしり唖者(おふし)の舌(した)はうたうたはんそは荒野(あれの)に水(みづ)わきいで沙漠(さばく)に川(かは)ながるべければなり)。ミカ書、4:3, 4(3 彼衆多(かれおほく)の民(たみ)の間(あひだ)を鞫(さば)き強(つよ)き國(くに)を規戒(いまし)め遠(とほ)き處(ところ)にまでも然(しか)したまふべし彼(かれ)らはその劍(つるぎ)を鋤(すき)に打(うち)かへて鎗(やり)を鎌(かま)に打(うち)かへん國(くに)と國(くに)とは劍(つるぎ)を擧(あげ)て相攻(あいせ)めずまた重(かさね)て戰争(いくさ)を習(なら)はじ4 皆(みな)その葡萄(ぶどう)の樹(き)の下(した)に坐(ざ)しその無花果樹(いちじくのき)の下(した)に居(を)らん之(これ)を懼(おそ)れしむる者(もの)なかるべし萬軍(ばんぐん)のヱホバの口(くち)これを言(い)ふ)。)
エホバはわたしたちにたくさんのすばらしいおくり物(もの)をくださいました。たいへんすぐれたおくり物(もの)の一(ひと)つは命(いのち)です。命(いのち)がなければ、何(なに)もできませんね。--でも、もしそのおくり物(もの)をずっと持(も)っていたいなら、しなければならないことがあります。
あなたはその一(ひと)つを今(いま)しています。わたしもしています。昼(ひる)も夜(よる)も、眠(ねむ)っているときでさえしています。もしそれをやめるなら、わたしたちはすぐ死(し)んでしまいます。それが何(なに)かわかりますか。--そうです、呼吸(こきゅう)です。
生(い)きつづけるために毎日(まいにち)していることがほかにもあります。そのいくつかをを言(い)えますか。--食物(しょくもつ)を食(た)べ、水(みず)を飲(の)み、そして眠(ねむ)ります。神(かみ)は、わたしたちがそうしたことをしなければ生(い)きていけないようにお作(つく)りになりました。
それはどれもむずかしいことではありません。じっさい、わたしは食(た)べることが好(す)きです。あなたもそうでしょう。--でも食物(しょくもつ)はどのようにしてわたしたちを生(い)きつづけさせるのでしょうか。知(し)っていますか。食物(しょくもつ)をのみこんだあと、それはどうなりますか。--
からだは食物(しょくもつ)をくだいて、たいへん小(ちい)さなものにします。それから血液(けつえき)がそれらのからだのあらゆる部分(ぶぶん)に運(はこ)びます。この食物(しょくもつ)は新(あたら)しい骨(ほね)、新(あたら)しい肉(にく)、新(あたら)しい髪(かみ)の毛(け)、つめ、眼(め)その他(た)のからだの部分(ぶぶん)を作(つく)るために驚(おどろ)くような方法(ほうほう)で使(つか)われます。そのことを知(し)っていましたか。--
からだの古(ふる)い部分(ぶぶん)がどうなるか不思(ふし)ぎに思(おも)うかもしれません。それらは一度(いちど)に少(すこ)しづつ死(し)んでゆき、役(やく)にたたなくなって捨(す)てられます。そして新(あた)しいものがそれにかわります。
[188]
この変化(へんか)はからだのすべての場所(ばしょ)で起(お)きています。からだ全体(ぜんたい)が作(つく)り直(なお)されるまでにあまり長(なが)くはかかりません。エホバは、わたしたちのからだがこのことを行(おこ)なうように、そして、それを永遠(えいえん)に行(おこ)なうようにお作(つく)りになりました。そうです、永遠(えいえん)に生(い)きるように人間(にんげん)をお作(つく)りになったのです。
しかし人(ひと)は死(し)にます。なぜですか。--なぜなら、アダムが神(かみ)にたいして罪(つみ)をおかしたからです。わたしたちアダムから罪(つみ)を受(う)けました。アダムは人間(にんげん)と神(かみ)との良(よ)い関係(かんけい)をだめにしました。しかも、わたしたちの命(いのち)は神(かみ)に依存(いぞん)しているのです。
永遠(えいえん)に生(い)きるためには空気(くうき)や水(みず)、食物(しょくもつ)や眠(ねむ)り以外(いがい)にも必要(ひつよう)なものがあります。神(かみ)に対(たい)して正(ただ)しい立場(たちば)を取(と)ることが必要(ひつよう)です。
わたしたちを永遠(えいえん)に生(い)きさせる医者(いしゃ)はいません。死(し)なないようにする魔法(まほう)の薬(くすり)もありません。永遠(えいえん)に生(い)きられる唯一(ゆいいつ)の方法(ほうほう)は、神(かみ)に親(した)しく近(ちか)づくことです。偉大(いだい)な教(おし)え手(て)は、どうすればそうすることができるかを教(おし)えておられます。
聖書(せいしょ)を持(も)ってきて、ヨハネ伝(でん)17章(しょう)3節(せつ)を開(ひら)きましょう。そこにはイエスの言(い)われたことばが次(つぎ)のように出(で)ています。「これが永遠(えいえん)の命(いのち)を意味(いみ)しています。彼(かれ)らが、唯一(ゆいいつ)のまことの神(かみ)であるあなたと、あなたがお遣(つか)わしになった者(もの)であるイエス・キリストとに関(かん)する知識(ちしき)を取(と)り入(い)れることです」。
永遠(えいえん)に生(い)きるためには何(なに)が必要(ひつよう)であると偉大(いだいな)な教(おし)え手(て)はおっしゃいましたか。--わたしたちは知識(ちしき)を取(と)り入(い)れなければなりません。つまり、学(まな)ばなければなりません。それでわたしたちは聖書(せいしょ)を勉強(べんきょう)するのです。
でも、エホバについて学(まな)ぶことは、永遠(えいえん)に生(い)きるのにどのように役(やく)だつのですか。--命(いのち)はみな神(かみ)から来(き)ていることを思(おも)いだしてください。エホバの好意(こうい)を受(う)けるためには、エホバを唯一(ゆいいつ)のまことの神(かみ)として崇拝(すうはい)しなければなりません。で
[189]
も、神(かみ)のいわれた事(こと)がらをよく聞(き)かないなら、正(ただ)しい方法(ほうほう)で神(かみ)を崇拝(すうはい)することはできません。毎日食物(まいにちしょくもつ)が必要(ひつよう)なように、エホバについて毎日学(まいにちまな)ばなければなりません。そうすれば、いつもエホバに親(した)しく近(ちか)づいていられます。聖書(せいしょ)はこう述(の)べています。『人(ひと)はパンだけによらず、エホバの口(くち)から出るすべてのことばによって生(い)きなければなりません』--マタイ伝、4ノ4。
神以外(かみいがい)のあるかたにかんする知識(ちしき)をも取(と)り入(い)れるべきです。それはどなたの知識(ちしき)ですか。--イエス・キリストです。神(かみ)は罪(つみ)を取(と)りのぞくためにイエスをつかわされたからです。イエスは、アダムが神(かみ)にたいして罪(つみ)をおかしたときにもたらされた害(がい)を取(と)りのぞくことができます。わたしたちが神(かみ)との良(よ)い関係(かんけい)を取(と)りもどすのを助(たす)けることができます。それはほかのどんな方法(ほうほう)でもできないことです。
それで聖書(せいしょ)は、「ほかのだれにも救(すく)いはありません」と述(の)べています。永遠(えいえん)に生(い)きたいなら、イエスについて学(まな)ばなければなりません。イエスにたいして真(しん)の信仰(しんこう)を持(も)てば、永遠(えいえん)に生(い)きられます。イエスは全地(ぜんち)に良(よ)い状態(じょうたい)をもたらされるとき、永遠(えいえん)に生(い)きて幸福(こうふく)になるのを助(たす)けてくださいます。それは確(たし)かなことです。それで聖書(せいしょ)には、「御子(みこ)に信仰(しんこう)を働(はたら)かせる者(もの)は永遠(えいえん)の命(いのち)を持(も)っている」と書(か)かれているのです。--使徒行伝(しとぎょうでん)4:12。ヨハネ伝(でん)3:36。
[190]
さて、イエスに「信仰(しんこう)を働(はたら)かせる」とはどういう意味(いみ)ですか。--イエスがいなければわたしたちは生(い)きて行(い)けないことをほんとうに信(しん)じるという意味(いみ)です。神(かみ)がイエスを通(とお)して永遠(えいえん)の命(いのち)を与(あた)えてくださることをわたしたちは信(しん)じています。あなたはこのことを信(しん)じていますか。--
イエスに「信仰(しんこう)を働(はたら)かせる」ということはほかにも意味(いみ)があります。イエスをほんとうに信(しん)じているゆえに、イエスのおっしゃることを行(おこ)なうという意味(いみ)です。ある事(こと)だけをして、ほかの事(こと)はしない、というのではありません。イエスのおっしゃること全部(ぜんぶ)を行(おこ)なうのです。そして、ほんとうにしたいと思(おも)っているからそうするのです。それはあなたがしたいと思(おも)っていることですか。--
偉大(いだい)な教(おし)え手(て)が行(おこ)なうように言(い)われている事(こと)がらの一(ひと)つは、神(かみ)と神(かみ)の王国(おうこく)について他(た)の人(ひと)びとに話(はな)すことです。そのしかたを示(しめ)すため、イエスはみずからそのことをなさいました。それで、イエスからほんとうに学(まな)んだ人は、そのことを行(おこ)ないます。あなたはそうしていますか。--
でも、たいせつなのはそれだけではありません。聖書(せいしょ)が正(ただ)しいと述(の)べている事(こと)がらを毎日行(まいにちおこ)なうべきです。悪(わる)いことをしないように注意(ちゅうい)しなければなりません。わたしたちは互(たが)いにほんとうに愛(あい)しあっていることを示(しめ)さねばなりません。
そうするならば、偉大(いだい)な教(おし)え手(て)のことばにほんとうに聞(き)き従(したが)っていることになります。
(確かにイエス・キリストの神の弟子は、まさしくこの地上で幸福の内に永遠に生きることができます。このことについて、聖書が詩篇、37:29, 34(29. たゞしきものは國(くに)をつぎ その中(なか)にすまひて永遠(とこしへ)にまもりたすけらるれど悪(あし)きものすゑは断滅(たちほろぼ)さるべし34. ヱホバを俟望(まちのぞ)みてその途(みち)をまもれ さらば汝(なんぢ)をあげて國(くに)をつがせたまはん なんぢ惡者(あしきもの)のたちほろぼさるる時(とき)にこれをみん);マタイ伝、19:16-21(さて、見よ、ある人が彼のところに来て、こういった「師よ、永遠の命を得るために、わたしはどんな良いことを行なわなければならないでしょうか」イエスは彼に言われた、「なぜあなたは善いことについて私にたずねるのですか。良いかたはひとりだけなのです。だが、命の入りたいと思うなら、おきてを絶えず守り行ないなさい」~~……「他でもない、殺人をしてはならない、姦淫を犯してはならない、盗んではならない、偽りの証しをしてはならない、父と母を敬いなさい。そして、隣人を自分自身のように愛さねばならない、です」~~…まだ何が足りないのですか」イエスは家われた、「完全でありたいと思うなら、行って、自分の持ち物を売り、貧しい人たちに与えなさい(:一番大事なのはも貧者の「もの塔協会」に寄付する事?)。そうすれば、天に宝を持つようになる……それから、来てわたしの追随者になりなさい」)およびローマ人への手紙、6:23(罪の報いは死ですが神の賜物はわたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命だからです)で述べている事がらを読んでください。)
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