1952年アメリカ大統領選挙

ページ名:1952年アメリカ大統領選挙

1952年アメリカ大統領選挙

州別獲得選挙人分布図

獲得選挙人

民主党 129人

共和党 183人       進歩党 65人       愛国党 110人

勝利地域数

民主党 12州

共和党 16州 (23州)       進歩党 7州       愛国党 10州

得票数

民主党 20,444,722票

共和党 20,645,960票   進歩党 7,583,176票     愛国党 5,558,595票

得票率

民主党 37.5%

共和党 37.9%       進歩党 13.3%      愛国党 10.2%

大統領

候補者

アドレー・スティーブンソン

トマス・E・デューイ   ヘンリー・A・ウォレス   ヒューイ・ロング

政党

民主党    共和党

進歩党    愛国党

副大統領

副大統領候補者

エステス・キーフォーヴァー

ジョン・フォスター・ダレス ヴィンセント・ハリナン    ジェームズ・フルブライト

政党

民主党    共和党

進歩党    愛国党


1948年アメリカ大統領選挙                 1956年アメリカ大統領選挙

1952年アメリカ合衆国大統領選挙(1952ねんアメリカがっしゅうこくだいとうりょうせんきょ、英語: United States presidential election, 1952)は、日本軍による西海岸進駐による混乱の最中行われた大統領選挙である。この選挙ではどの候補者も過半数を得ることが出来ず、最終的には共和党と進歩党の連立政権の勝利で終わった選挙戦である。

この選挙結果を受けて愛国党を率いていたヒューイ・ロングが南部州を引き連れアメリカ執政政府を宣言する事となり、選挙区の問題等が数多く残されていた選挙戦である。

目次

候補者の指名

・民主党の指名

民主党の予想される指名候補者は元大統領のトルーマンだった。しかし、世論調査に拠ればトルーマンはその人気が急落して1952年を迎えていた。党内の3分裂を抑えられなかった事はもちろん、南部の影響力の大規模な拡大はトルーマンが政治的退潮にあることを示していた。世論調査によるトルーマンの不支持率は66%に達していた。

トルーマンの主な対抗馬は人民主義者でテネシー州選出の上院議員エステス・キーフォーヴァーであり、テレビの全国放送で流された1951年の組織犯罪調査を指導し、犯罪や汚職に対する運動家として知られていた。2月15日のギャラップ世論調査ではトルーマンの弱さを示していた。全国レベルでトルーマンは民主党員の36%のみが選択し、対するキーフォーヴァーは21%だった。しかし、支持政党無し層ではトルーマン支持が18%なのに対し、キーフォーヴァーは36%だった。ニューハンプシャー州予備選挙では、キーフォーヴァーが19,800票を得て15,927票のトルーマンを破り、8人の代議員全てを獲得した。トルーマンはこの挫折によって傷つき、間もなく再選を求めないと宣言した(しかし、トルーマンはその回顧録で、キーフォーヴァーに破れるずっと前から再選を求めて出馬しないことに決めていたと主張した)。

トルーマンの撤退で、キーフォーヴァーは指名の一番手になり、予備選挙の大半を制した。しかし、多くの州では党員集会の代議員を州の党員集会で選んでおり、このことは党のボス達、特に大きな北部や中西部の州や都市の市長や知事が民主党候補を選べることを意味していた。これらのボス達(トルーマンを含む)は強くキーフォーヴァーを嫌っていた。キーフォーヴァーが行った組織犯罪の調査はマフィアの人物と大都市の民主党政治組織との結びつきを暴露していた。このことで、ボス達はキーフォーヴァーを信用できない一匹狼と見ており、その指名については支持を拒んだ。その代わりにトルーマンが音頭を取って、他のより許容できる候補者を探し始めた。トルーマンはニューヨーク州出身の外交官W・アヴェレル・ハリマンを好んだが選挙で選ばれる役職に就いたことがなく、政治には経験が足りなかった。トルーマンは次にその副大統領アルバン・W・バークリーに目を向けたが、年齢が74歳であり、労働組合の指導者達から年を取りすぎていると拒否された。

間もなく政治的な弱点が少ない候補者が一人現れた。イリノイ州知事アドレー・スティーブンソン2世だった。元副大統領アドレー・E・スティーブンソンの孫であり、イリノイ州でも傑出した家庭の出で、生まれながらの雄弁家、知性があり、政治的には中道という評判だった。1952年春、トルーマンはスティーブンソンに大統領候補になるよう説得を試みたが、スティーブンソンはイリノイ州知事への再選を目指していると言って拒否した。しかし、スティーブンソンは完全に候補者レースから外れたというわけではなく、党大会が近付くと、多くの党ボスさらに通常は政治に無関心な市民までが候補者名簿に載るべきと期待した。

1952年民主党全国大会はシカゴで開催されたが、数週間前に共和党の大会が開催されたのと同じ会場だった。大会の開催地はスティーブンソン知事の地元だったので、まだ大統領候補になることを拒否していたものの、代議員達に歓迎の挨拶をすることを求められた。スティーブンソンは機知に富み感動するような挨拶を行ったので、その支持者達は彼の抗議にも拘わらず、指名獲得のための一連の行動を始めた。スティーブンソンはイリノイ州代議員のボス、ジャック・アービーと会見した後、遂にその名前を指名候補者リストにいれることを承知した。北部や中西部の他の大きな州から来た党のボス達は直ぐにその支持に加わった。キーフォーヴァーが第1回目の指名投票ではリードしたが、指名を得るには遙かに足りなかった。スティーブンソンは徐々にその力を伸ばし、3回目の投票で指名を獲得した。

1956年民主党全国大会のハイライトは、スティーブンソンが候補者選びの興奮を生み出そうとして、副大統領候補は代議員達が選ぶと突然の宣言をしたときだった。このことで、指名を得るために数人の候補者による激しい指名獲得競争が始まった。副大統領候補レースの興奮の大部分は、投票が始まるまでに代議員達に訴える時間が慌ただしい1日間しか残されていないという事実によっていた。有力候補は2人いた。1人はミネソタ州出身のヒューバート・H・ハンフリーであった。そしてもう一方はトルーマンらに嫌われているエステス・キーフォーヴァーだった。スティーブンソンは副大統領候補としてハンフリーの方を好んだが、投票に影響を与えるようなことは如何なることもしなかった。しかし、キーフォーヴァーの強い説得により、多数の州がほとんど根回しが出来なかったハンフリーからキーフォーヴァーに鞍替えしたことから、調整後の集計でキーフォーヴァーが勝利した。

・共和党の指名

共和党の指名争いは、現職大統領のニューヨーク州知事トマス・E・デューイに率いられる党中道派と、長い間党の保守派指導者だったオハイオ州選出の上院議員ロバート・タフトの二人であった。中道派は介入主義の傾向があり、1930年代のニューディール政策で創られた社会福祉政策の大半を喜んで受け入れる傾向もあった。一方、タフト上院議員に率いられる保守派は中西部と南部の一部に地盤があった。保守派はニューディール社会福祉政策の多くを廃止したいと思っていた。対外政策では、多く非干渉主義であり、アメリカは諸外国との同盟を避けるべきと考えていた。タフト上院議員は1940年と1948年に共和党の指名候補に挙がっていたが、2回ともニューヨーク州の中道候補に敗れていた。選挙運動が始まったときに62歳になっていたタフトは、この1952年選挙が指名を得るための最後のチャンスだということを率直に認め、それが支持者達を懸命にさせることになった。タフトの弱点はあまりに保守的で議論を呼ぶために大統領選挙には勝てないと党の多くのボス達が恐れたことであり、このことは遂に克服されなかった。

1952年の共和党全国大会がシカゴで開会されたとき、政治の専門家の大半は代議員の指名投票で支持基盤の保守派を愛国党に吸われているタフトよりトマス・E・デューイの勝利が確実だという見方をしていた。しかし、党大会を支配する雰囲気はアメリカ史の中でも最も厳しく感情的なものになっていた。タフト支持者であるイリノイ州選出の上院議員エヴァレット・ダークセンはその演説で、大会会場にいるデューイ知事を指して、共和党を「敗北への道」に導いていると告発し、代議員達からはブーイングと喝采が混じり合った反応があった。結局1回目の指名投票でデューイが指名を勝ち取った。続いて党大会では、ジョン・フォスター・ダレスを副大統領候補に指名した。彼は、他国に対する積極的な姿勢を提唱し、失ったアメリカの信用を英国との積極的な協力で取り戻せるだろうと考えていた。

・進歩党の指名

進歩党は前年と変わらずヘンリー・A・ウォレスを大統領候補として動き出していた。進歩党は社会主義者の温床として1948年選挙ではあまり多くの支持を得ることは出来なかったものの、共和党による赤狩りにも民主党にも見切りをつけた北部州の人々。並びに52年のカリフォルニア進駐により行き場をなくした貧困層らの希望として進歩党は北部の農村地域にて大きな支持を得ることになる。

副大統領候補者は1948年選挙時に副大統領候補であったグレン・H・テイラーを打ち破り、ヴィンセント・ハリナンが新大統領候補となった。

・愛国党の指名

トルーマンの公民権綱領採択で民主党全国大会を後にした代議員達によって結成され、南部の人種分離政策とそれを維持するジム・クロウ法の継続を主目標とした愛国党は更に支持を伸ばすために新たな活動を始めることになる。

ヒューイ・ロングが大統領候補になる事は確定していたが、副大統領候補を誰にするかが問題になっていた。一人は、サウスカロライナ州出身のロングと同じ、強固な人種隔離主義者として知られるストロム・サーモンドか、愛国党の中でも穏健的なアーカンソー州出身のJ・ウィリアム・フルブライトの2択を迫られていた。党内ではサーモンドを選択し南部での強固な支持を築こうと画策していたものもいたが、ロングのフルブライト支持宣言により、南部州に限らず北部の民主党支持地域での勝利を目指した戦略を行なった。

一般選挙

・秋の選挙運動

史上最大の4大政党が争う形となったこの選挙では中部。特にカンザス・ミズーリ・テネシー・ケンタッキー辺りでは全政党が熾烈な選挙を行うことになり、大規模な選挙戦に発展することになった。

デューイはその忠告を守り、慎重に危険を避けた。平凡な言葉で話し、議論を呼ぶ問題を避け、大統領になった場合の計画については曖昧にした。演説ごとに明白なことに関する政治とは関係ない、楽観的な断定を入れ、今では悪名高い「お解りのように、あなた方の未来は今もあなた方の前にある」というような言葉もあった。この一言により北部州の人間の一部が進歩党に流失したことも、混迷を極める大統領選へと移り変わった一つの要因としている。スティーブンソンは全国で一連の感銘深い演説を行うことに集中した。彼も大きな聴衆を惹き付けた。スティーブンソンのスタイルは知識人や学者を感動させたが、政治の専門家の中にはその聴衆の「頭の上で」話しているのではないかと思う者がおり、彼の禿頭や知的な顔つきをもとに「卵頭」と渾名を付けた。

進歩党のウォレスは1952年のカリフォルニア侵攻によって家を失った貧困層の支援プロジェクトを掲げ、農村地域にて多くの支持を得ることに成功し、1948年時よりも遥かに多くの支持を得ることとなった。一方愛国党のロングは南部州以外の民主党支持州に注目し、愛国党の中でも穏健的な人物を味方につける事で支持を得ようと画策した。

1952年11月4日の投票日、全政党が過半数の選挙人を獲得できなかったため、アメリカ合衆国憲法修正第12条の下で各州議会が1票ずつ持ち新たな大統領を決めるための臨時選挙が行われることとなった。全候補者が過半数に届かなかったことは1824年アメリカ大統領選挙以来のことであり、128年ぶりの事であった。

選挙結果

                    大統領選の結果
 大統領候補者 

出身州

 党  得票数  得票率  副大統領候補者 

出身州

 選挙人得票数 
トマス・E・デューイ

ミズーリ州

共和党20,645,960票37.9%アルベン・バークレー

ケンタッキー州

  183
アドレー・スティーブンソン

イリノイ州

民主党20,444,722票37.5%エステス・キーフォーヴァ―

テネシー州

  129
ヒューイ・ロング

ルイジアナ州

愛国党5,558,595票10.2%ジェームズ・フルブライト

アーカンソー州

  110
ヘンリー・A・ウォレス

アイオワ州

進歩党7,583,176票13.9%ヴィンセント・ハリナン

カリフォルニア州

  65
スチュアート・ハンブレン

テキサス州

禁酒党73,412票0.1%エノック・ホルトウィック

イリノイ州

  0
ダグラス・マッカーサー

ウィスコンシン州

立憲党54,818票0.1%ハリー・バード

バージニア州

  0
       その他178,191票0.3%  0
        合計54,465462票100%  484
                     選出必要数  243

臨時選挙

最も選挙人を得ることが出来た共和党でさえも単独で州の過半数を取る事は不可能であったことから、いずれかの党との連立が最重要事項となっていた。党内では民主党との連立を望む声が多かったものの、デューイは衰え続けている民主党との協力よりも北部の農村地域を中心として成長し続けている進歩党との連立を図った。幸い進歩党を連立に組みこむことで過半数の23州を勢力下に抑えることも可能ではあったが、それには大部分を日本軍に実効占領されているネバダ州・アイダホ州の両州を含むことでしか過半数を達成することが出来ず、愛国党や民主党からもこの点は大きく問題に挙げられていた。

ネバダ・アイダホ問題は日本軍によるカリフォルニア進駐が選挙前であったこともあり対応が有耶無耶になっていた為に選挙結果を踏まえて、ネバダを州として認めたい共和党と進歩党が半ば強硬的に州として認める形をとり、共和=進歩連立が組まれたことから過半数を制した共和党のトマス・E・デューイが大統領に。そして進歩党との連立の交渉時に決められた通り、副大統領をヘンリー・A・ウォレスが務めることで大統領選の一つの結末を迎えた。

アメリカ執政政府の領土(地図中緑色)

しかし、ネバダ・アイダホ問題以前から公民権法問題等で冷遇され続けていた愛国党率いる南部地域が分離独立を決定する事となった。ヒューイ・ロングは南部地域を引き連れ「アメリカ執政政府」の建国宣言をした事で、トマス・E・デューイによる共和党と進歩党の連立による二期目の政権が正式に始まる事となる。

選挙後には民主党との交渉の結果、ネバダ州はネバダ準州として選挙人を0に。アイダホ州は選挙人を4から3に減らした形で1956年選挙までに選挙区は再編されることになる。その後、メキシコによる南部の侵攻の影響も相まって、アリゾナ・ニューメキシコ地域も更に準州へと格下げされることになる。

               アメリカ臨時大統領選挙
   アドレー・スティーブンソントマス・デューイヘンリー・ウォレスヒューイ・ロング
第一回     13州   16州   7州   9州
第二回     12州   16州   7州   10州
第三回     13州        23州   9州


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