行為者不在の、茶番劇! ~ パラダイムシフトと倫理・中道 ~

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「二元(物質)パラダイム」 ➡ 「非二元(霊性)パラダイム」―― 移行の時代 ――

近年は地球文明(物質文明)も隆盛をきわめ、ここ日本もストレス社会となって参りました。
そこで仮想システムを理解して、今生を縁に輪廻転生を卒業しませんか? 「一切衆生悉有仏性♪」

当サイトは作成者が「 行為者は存在しない 」ことを強制的に確信させられた、一連の不可思議な
体験(10数年前)を原点とし、関連書籍などをもとにして、多くの「 推測 」を交えて書いてます。

<見出し>
◎ パラダイムシフトと倫理・中道
◎ 昨今の世相について(集合意識システム、神性・解脱ゲーム)
◎ 輪廻転生について

パラダイムシフトと倫理・中道 (※次項とセット)

◆ほんとうは、このセカイに行為者は存在しない。(自由意志・自己介入の感覚は、あくまでも幻想)

このことは過去の一連の体験から、疑いの余地なく断言できます。(それのはじめのころは疑ってたが)
私が宗教的なことに本格的に興味を持ったのも、このサイトを作ったのも、それが原点になっています。
このサイトは 作成を思い立った キッカケ も関係して、誠意をもって書いています。

真に解脱した人はそれをつねに実感してる境地にあり、、釈迦は「縁起、諸法無我」などの説明により、

「行為主体は存在しない」ということを実際ははっきりと説いているけど、、とくに後代の仏教は、
そこを前面に出してないこともあり、オブラートに包んでるようにも感じられる。
そして世間一般的には、そうは理解されてこなかった。(※専門的には上記解釈、あとに掲載)

しかし 仏教以外の古文献にも確かに明記されるが、覚者といわれる人たちがこれを とくにハッキリと
表現し出したのは、主に昨今(ここ数十年でエスカレート、多数)なのは明らかであり(=運命づけ)、
これは(パラダイムシフト的な)変動の時代がくる 前兆なのではないか?

※仏教では、『 法界(=現れた心の世界)には、一切において自性(≒行為主体)が存在せず、
すべて「縁起」「一切皆空」、つまり「諸法無我」』 と表現している。

※仏教では、「『諸法無我、諸法一切縁起』でありながら『行為主体』が存在する 」
という解釈は ムリ でもあり、「究極的見地では、行為主体は存在しない」 というように説明されています。

◆そこを前面に出す必要性がでてきている、ということなのだろう。(※ツッコミの時代)
「物質主義的 科学文明」 の成熟期と言われるいま、「霊性主義的 科学文明」 に移行していくために。

※そちらに進むことで、科学の新しい領域・技術 もまた開拓されていくと思われる(フリーエネルギーなど)。

◆もしこの時代に釈迦がいたら、表現的には当時とは異なるものになるだろう。 真理は不変のものだが、
時代や相手が変われば表現は変わる。 周知のように彼の特徴は対機説法で、神通力があって人の心の性質や
過去生や運命をあるていど見抜くことができたため、相手によって違うことを言ったりして一見矛盾する
ような部分もあったが、それは高度な技術だった。 現代では考えにくいほどの弟子が解脱したとされるが、

過去生からの縁を持つ人びとがその時代のその場所に集まったのだろう。

◆解脱する前後において、神通力やなんらかの霊的能力が現れる場合と現れない場合があるが、もちろん
重要なのはそこではない。 それは特定の修業をすると現れやすく、深層意識のデータによって起こる余興の
ようなものだが、、実質的には仮想世界自体が 人生そのものが、神通力によって成立してるようなもの。

この仮想システムは、「ゲーム性・中毒性ありの、★病的なシステム」ともいえよう(集合意識にもよる)。
そして人生は、完全根本的ジョーク、人知を超えた途方もない神秘体験であり、冒険と挑戦の神性劇であり、
あるいは、「おふざけ神通力の、仮想システム(催眠)を解除せよ」との神秘的なゲームでもあるだろう。

◆序論(比ゆ的) ※関連:「昨今の世相(後の項)」、別ページ「人類の運命(★二元性の水準)」

仮想世界は「心」がつくり出す神秘的な幻想で、催眠下の「我われ」にとってはいわば、「真実の神」が
うらに隠され、「幻想の神(縁起 & 根源プログラム群)」 が深層でたわむれる 謎かけ神性劇 の世界であり、
実相(非顕現)はいわば、神秘が開かれた「真実の神」そのものといわれる。 あるいみにおいては、
現れた世界自体が「幻想の神」だが、、我われには自己介入してるように感じられるっ!(気のせいです)
もちろん、「幻想の神」は「幸福の神」にもなる。 そして「我われ」の行動が、そこに関係する。
幻想の神(全自動・多種プログラム群・自然原理)に、「知性」は存在しない。(●力関係が変動的)

「リーラ(意識の戯れ)」=「阿頼耶識(縁起プログラム)が、自然的(原理的)にすべてを動かしている」
すなわち、「一切縁起」「すべてが自然的(縁起連繋的)に動いていて、影響(依存)しあっている」。

人間:「阿頼耶識によって動かされてる」  阿頼耶識:「人間の行動にも依存して動かされてる」
「人類全般の信念体系」や「高次根源プログラム群(?)」も、阿頼耶識の動作に大きく影響する。
この仮想システムは、「基本的に、仮想行為者を軽視できない」形で展開される。
「人類 ―― 根源プログラム群」 は共に行為主体ではなく相互依存的な関係、というゲーム性が根本にある。

この世界では、「全体性の二元性の水準(変動的)」 でバランスをとりながら(その水準下で)、
一切縁起システムにより 自動設定されたとおりに、すべての物事が起こってくる。(※錯誤的システム)
「分離、個人的行為者」という幻想こそが、人の世の「苦」の最大原因ではないだろうか?(つづく)

★by ニサルガダッタ・マハラジ 《「I AM THAT 私は在る」より》 (※「●」付きは関連性)

宇宙は行為であふれている。 だが、そこに行為する者はいないのだ。 そこには自己同一化によって、
行為していると想像している無数の小さな、そして大きな、そしてとても大きな個人たちがいる。
だが、それが 行為の世界(マハーダーカーシュ)はすべてに依存し、すべてに影響する「●単一の統一体」だと
いう事実を変えることはない。 星たちは私たちに深く影響を与え、私たちも星たちに影響を与える。 P418

本来のあなたとしてのアイデンティティがあり、その上に個人が重ねられているのだ。(P460、I AM)
★「―― もしあなたが実際の立場を見さえすれば、『何という冗談かが』わかることだろう!」
(P207、指し示したもの)


―― パラダイムシフトと倫理・中道 ――

① 社会(=幻想)の中には、「行為者」がいる。  ② 究極的視点では、「行為者」は幻想である。

ほんとうは、意識内に現れるすべては「縁起」していて、それは「リーラ」である。
それは、私たちの 統一生命場、真の現実、源泉 である ハイリアリティ の仮の現れ(仮現)であり、
すなわち、「仮の世界(幻想の世界)」である。

た と え ば 、
それを「公認の事実」とする社会 があっても、犯罪が法の下に裁かれ、悪事が人に責められるのは、
つまり、基本的に個人が行為の責任を負わされるのは、神性劇では当然のこと。 これは、
催眠の中に現れた「仮設行為者(=自我)」行為の責任を問われる、という 神性ジョーク であり、
「仮設を解除せよ」というゲームでもあり、、それが大前提の人生(※宇宙の原理・法▼)だから。

★これは簡潔にいえば、犯罪や悪事をして受刑したり責められる人は、「受刑等する運命に設定されてた」
(※究極的にいえば)ということで、まともな国なら「法律・倫理」に従って適切に対応すればよい。
②は「私はその人間ではない」という究極超越視点であり、とうぜん幻想内では行為の責任は当人にある。
なお、無実の罪で死刑になるのも 予め定められた設定。 これは「問題ない」とはまったく言えないが、
ここは紛れもなくそういう世界。 人類はこの先、仮想システム を理解していくようになる、と言われている。

リーラとは、「行為者が存在する、という設定」の神性劇であるため、幻想を超えた究極視点の
社会のルール(法律・倫理、つまり)を脅かすことにはならず、そのような論理はそもそも成立しない。
※あくまで視点が異なる) は 人間社会とは基本的には関係ない視点、ということ。
逆にいえば、「究極的には行為者はいない」という部分だけをみれば、個人が行為の責任を負わされるのは
おかしいが、、仮想システム全体(←これがおかしい)の視点でみなければ道理が通らない、ということ。

★つまり、社会の中で個人が行為の責任を負うことは、基本的に「❶宇宙の原理」に沿っているわけだが、
「自我催眠」さえ解除すれば(②の非顕現の立場)、自我意識にもとづく問題行動は、けして起こらない。
(=❷非顕現の原理、人間の存在理由) (※に、に基づく)

解除てことでなくも、そちらの方向・質を帯びることにより、必ず問題行動やトラブル全般が減っていく。
問題行動は、「偽りの信念」から生じる「世界観・根本的価値観」それらを土台に、長年の心体の歪んだ
行動の連鎖縁起、過去生からの蓄積データ、などにより作り出される さまざまな状況の中で起こってくる。
そのすべてが、全体性の一部として予め運命に設定された通りに起こってくるが、
もちろん「このシステム」ではそこに、個人の責任があると基本的に言わざるをえない。
そしてまた、問題行動した人は基本的に因縁生起からは逃げれないのだから、法律の下で刑罰が与えられる
のは、その意味においても理に適ってる?のかも。 要点は、「宇宙の法 & 人間の存在理由」の理解度。

「道理うんぬん」は細かい考え方の話であり、これは非二元の分野では「当然のこと」と見なされる。

「ほんとうの真実(仮想システム・非二元)」 が理解されていくことが、この時代では優先される事項。

★平たくいうと、ここは仮の世界 なので、究極視点を直接あてはめて考えると道理に合わず、無視してると
徐じょに問題化 してくる面もある。 最終的に卒業させるために?、おかしなシステムになってるぽい。
しかし、「①宇宙の原理」と「②非顕現の原理(法)」を社会の中で協調させることを 目指すべきであり、
その方向に進んでいくことで、顕現世界に神聖さが、さまざまな形で現れてくると考えられます。

◆「幻想視点・実在視点・協調視点(中道)」(※「行為者の有無」、仏教・ジャイナ教・近代の覚者ら)

① ある点(立場)では、有る(存在する)。(=極論)
② ある点(立場)では、無い(存在しない)。(=極論)

③ ある点(立場)では、有り、また無い。 または、幻想として有る。(=中道、①②混合・協調)

視点をいっさい定めない場合、表現できない。(=論外)

「① 幻想視点」これを適用すると(※現状)、二元性(分離)が強調される(※戦争は周期的に必至)。
「② 実在視点(究極)」:これを適用すると、意味がわからず、人びとが混乱する(※倫理基準)。

「③ 協調視点」:これを適用すると(※絶対の原理として死守)、
からの移行では当初は困惑がみられるが、長期的には二元性が緩和され、あらゆる要素が改良されゆく。

★「①(単独)= 二元(物質)パラダイム」、、「③(①② 協調)= 非二元(霊性)パラダイム」。

※これは「この世の幻想性」を言ってるけど、もちろん「行為主体(自我)」についても同様です。

釈迦は原始仏典のなかで、「自我」は「空(=幻想)」であることをたびたび説明している。
「自我」は「行為主体」のような意味。

★「サンユッタ・ニカーヤ(最古層、相応部経典)」より

カッチャーヤナよ、

この世間の人々は、多くは二つの立場に依拠している。
それはすなわち、有と無とである。

もし人が正しい智慧をもって、「世間の現れ出ること」を如実に観ずるならば、

世間において無はありえない。

また人が正しい智慧をもって、「世間の消滅」を如実に観ずるならば、

世間において有はありえない。

カッチャーヤナよ、

「あらゆるものが有る」というならば、これは一つの極端の説である。
「あらゆるものが無い」というならば、これは第二の極端の説である。
人格を完成した人はこの両極端をさけて、中(道)によって法をとくのである。

◆当仮想システムでは「宇宙の法」の基準において、正当(又は必要)なていどに悪事を責めることは、

正当(状況によっては必要)な行為である。

◆「宇宙の法」による判定の対象は、因縁生起レベルではなく、もちろん「現象レベル」になる。

もし、悪事をした人が 「★行為者ではないから(リーラだから)、責めるな」 と主張しても、
悪事を責める側も行為者ではないのだから、これは成立(通用)しない。 というよりも前記のとおりで、
「★(リーラにおいては)あくまでも、社会の中には行為者がいる」 のだから、前提がまちがっている。
★まぁ それを法律に書けばよい話だろうし、ゆくゆくはそうなると思う(※表題の ①・② を両方)。

(※いちおう想定して書くが、、実際にはこれが マトモ な問題になることは考えにくいし、前例も聞かない

※これに関連して私たちは、人間社会のさまざまな状況における微妙な問題を想像したりもするが(笑)、
人間社会において仮想システムを考えるときには、それは初歩的な倫理的問題(?)というか、
ありえるとしたら上記の類の「犯罪者の屁理屈、みたいな微問題」であって、これは対策もあるだろうし、
「仮に問題がありえるとしたら、パラダイム未定着が原因」といえよう。 そして 仕組みの点からいえば、
二元パラダイムが人類(※個人)にもたらす「苦難・困難」は、非常に大きなものといえるだろう。
「錯誤的かつゲーム的」である仮想システムと向き合うことが、その錯誤性を薄めていく主な方法である。

これについてのちょっとした実験を、ずいぶん前に一年程かけて、某掲示板(住人以外の出入りのある)
で流れでやったことがあるが、、あるていどの住人がリーラを受け入れだすと、行動パターンや
全体的な雰囲気が変化する、とはいえる(※空気というか集合意識というか)。 つまり、
人びとが(集合的に)ほんとうに受け入れていけば、「悪意」がより力を失い、「善意」がより力を得る。
「宇宙の法が存在している」という空気があると雰囲気がちがってくる。(※これは当然だが)
そこでのちょっとした経験からいえることは、、仮想システムを説明することは、
「縁起的に、完全に歓迎モード」だが、突っこんだ内容になるときは善悪の基準を考慮すべきと思います。

「リーラ」を受け入れた人間は、無責任な問題行動が減少はしても、その逆はふつう考えにくい。
たとえば犯罪などの問題行動は、それが起こる「運命(=プログラム設定)」になってない限り起こらず、
設定に反して起こせる行為者は存在していない。起こせるような気はするが、これは完全に気のせいです。
つまり、仮想システムが理解されていくことが悪行を増長することにはなりえず、、完全に逆ということ。
したがって私たち人類は、リーラ・仮想システムを理解(受容)することにより、
(★自然な流れで)「集合的カルマ ‐ 個人的カルマ」の負の部分が総体的に減少していき、
また、心の観念構造と社会構造を「よい意味でシンプル」にしていくことができるだろう(※方向的に)。

――「中道(=真理)」を、公的・法的に認めて適用する社会形態」も、勿論ありうるだろう。
それは 最終・究極的には、後記の覚者(ニサルガダッタ)が言うように、、
「分離の感覚がよわく、責任が拡散した社会形態」 である。 とりあえず 責任の問題は別として、

「●分離、個人的行為者」 は、事実ではないために、

文明進化とともに様ざまな形で問題化してきます。 公認の前段階として、真実は理解されてくべき。

※仮想システムを考えれば、これは個人と人間社会の 根本的要素 であり、長期的には
「●心の観念構造(の土台)」「●集合意識」 に大きく影響するだろう。

~ 非二元パラダイムと我われ人類 ~ (※今世紀が、変動期・節目になるぽい)

※姉妹ページ:「★人類の運命(別ページ)」

※「二元性のちから(集合意識)」=「分離衝突、あらゆる苦難困難 ―― の元」

すべては時節も関係してくるが、、つぎのような感じかもしれない。

人類全般の常識が「分離幻想(偽りの信念)」であるかぎり、縁起プログラムは人間を人間くさく動かし、
人類は周期的に戦争を繰りかえし、個人の人生にも「二元性のちから」が強く影響する。 個人について、
限定的な一観点でいうなら、過去生まで遡って、「分離幻想度(※行為)」が高いほど「苦難」が増える。

また、集合意識の関係で(※後記)、「解脱・輪廻卒業」は高難度になると考えられる。 つまり、
仮想システム(集合意識)の特性からして、二元性(分離衝突)が強調された世界が現れる。

催眠下における私たちは確かにそう感じるようになっているのだが、それは偽りの感覚であるため、、

「これは『仮想現実』で、すべては『縁起』していて、分離はしてない」(← 非二元パラダイム)

「究極的には行為者は幻想。社会の中には行為者がいる(システム設定上)」 のような事を受け入れていけば、
二元性(分離)が緩和されていき、 やがて縁起プログラムが 深層意識構造の改変社会システムの調和

に着手し、そして催眠がとける解脱者がどんどん出てくる、と考えられる。

そして今が、その タイミング であろう。(※移行プロセスでは、非二元支持者の活動が促進されていくはず)

これが「★幻想ゲームの核心的要素」であり、「集合意識に作用する 唯一的・根本的要素」でもあるため、
そのように仕組まれてる、謎かけ挑戦状 なわけです。 ここを外して霊性主義(時代)は、ありえない。

※参考:「阿頼耶識縁起(★根本的錯誤、2種類のゲーム、至高の理法)」

「仕組み」の点から端的にいえば、、この仮想システムは「神秘的で仮設的なトラブル」であるため、
最終的には人生は、そのシステムを解除(=解脱)することを目標とする「★解脱ゲーム」といえる。
いずれにしても、「仮想システムはジョーク(★リーラ劇・幻想ゲーム)」。
―― という観点でみたときに、人類の大部分がそれを、実質的にはほとんど理解していない状況は、
「一過性(数千年?)の、幻想の神による、、ヤンチャな時代(or 超催眠の非効率時代)」ともいえよう。

すなわち、それが仮想システムに定められた「ゲーム的な脚本」、ということになる。(★自然原理)

パラダイムシフト(人類規模に向かう)が進行すれば、大きく分けて3種の生き方が現われていくだろう。

❶:「外に向かう道(人の道)」 ❷:「源泉・故郷に帰還する道(ホトケ の道)」

❸:「❷を理解・意識しつつ、❶をあわせ持つ道(中間の道、現実的に考えやすいのは コレ)」

このバランスが、社会(―― 集合意識)をうまく機能・調和させ、神聖さをリアル化させる。

というか仮想システム上、❷が少数派であっても、あるていど一般化(=❸霊性主義)されていくだろう。
現在の宗教イメージとは異なり、「それが人生であり、ゲームを楽しむ」という感じになっていくだろう。
それが、「ハイリアリティ(真の現実)と向き合う」ということ。 仕組みの点では(それが人間なら)、
そのゲームを楽しめるような「社会基盤」を作ることが、人類において最重視されるべき事項、といえる。
その「★(本来の?)ゲーム価値観」が主流化していけば、総体的に様ざまな物事が調和していくだろう。

もちろん理解してる人はけっこういるが、二元パラダイムを崩すような勢力にはなっていない。

霊性主義(パラダイムシフト)が実際にどのように進行するかは、(ふつうに考えれば)予測不可能でもあり、
基本的に、「★人知では想像しにくい要素(展開)」がふくまれる、と考えられる。
おそらく数世紀にわたる移行プロセスになる? ようにも感じられるが、、流れにのれば面白くなるだろう。
言えることは、物質主義時代はたしかに成熟期を迎えているということと、

「我われ」は宇宙の原理的には(基本的に)、個人規模でも人類規模でも「行為者」として扱われていて、

世界は進行する様に進行し、物事は適時に起こるともいえるが、運命はほとんど偶然の産物ともいわれる。


◎「人生とは探求なのだ。 探求するほかないのだ。」 by ニサルガダッタ・マハラジ


[ 参考 ] ニサルガダッタ・マハラジ(解脱者、最強クラスの賢者

★個人的責任という考えは、「媒介者という幻想」から来ている。
「誰かがそれをしたに違いない、誰かに責任がある」と。 今のような社会と、その法律と習慣の構成は、
分離した責任ある個人という考え方を根底にしている。 だが、これが社会にとって選択できる唯一の形態
ではない。 分離の感覚が弱く、責任が拡散した別の類の社会形態もありうるだろう。(P435)

★報復よりも「防止」をもとに築かれた社会では、犯罪は非常にまれなのだ。
不健全なマインドと身体によって起こったようないくつかの例外は、医学的に扱われることだろう。 P531

《以上、「I AM THAT 私は在る」より》

★しかし、それは意図的な普通の映画ではない。 もしあなたがすべてをそのあるがままに明確に見るなら、
それはひどい喜劇、本当のドタバタ喜劇である。 (※中略)これ以上滑稽なことがあるだろうか?
私は自分のグルの恩寵によって自分の本質を理解し、また途方もない悪ふざけが私におこなわれていた こと
にも気づいたのだ。 (※中略)あなたは自分がその茶番の中で役割を演じている俳優であることが
わからないだけではなく、さらにその演劇の中で自分が決定と行為の選択をもっていると想定するのだ。

人生はあらかじめ書かれた脚本に従って厳密に展開するはずである。 (※詳細:別ページ 覚者たち)

《「ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの」P164~166 》

★「意識とは、愉快で魅惑的な マハーマーヤー(偉大な幻想)、あらゆるものの中で最も壮大な詐欺である。」

「―― またマハラジはそれを、行き渡っている間は興奮を生む『一時的な病気』と呼んでいます。」
(P341、ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの)

[ 参考 ] ラメッシ・バルセカール(解脱者、★インド銀行・元CEO最高経営責任者

―― これはまさに 仏陀が、「行為はなされるが、そこに個々の行為者はいない」と言ったと伝えられてい

ることです。 でも、社会には個々の行為者がいます。 個々の行為者なしに、社会は機能しないでしょう。

ですから、社会に関するかぎり、行為者はいます。 あなたはそうでないとは言えません。
《「誰がかまうもんか」第七章 ≫ 責任 P285 》

―― それゆえ人生においては、自分は行為者でないと知りながら、まるで自分が行為者であるかのように

生きなければならないということです。《「意識は語る」P579 》

[ 参考 ] ルパート・スパイラ(解脱者)

https://www.youtube.com/watch?v=IoJc9TCBbTI

物質というもので作られた肉体と呼ばれる独立・分離した物体は存在しないのです。――
それは決して物質と呼ばれるもので出来ていません。 それは意識の中に現れるイメージにすぎない。

もし人類が500年後に続いていなければ、それは物質主義の勝利を意味します。
人類は物質主義パラダイムでは生き残れません。 自らを破壊してしまいます。それが定めなのです。
そう、今まさにそれを目の当たりにしていますね。

[ 参考 ] 仏教情報総合サイト ブッダワールド

http://www.buddha-world.jp/file/words/word2.html
「我(が)」:

自我の意。 行為主体としての自己。 永遠不滅の本体。自己主観の中心となるもの。
仏教ではこのような常恒の我を認めない。 存在は縁起によってなるものとし 無我の立場をとる。


昨今の世相について(集合意識システム、神性・解脱ゲーム)

※セット項目:「人類の運命(別ページ)」≫えとせとら」

※集合的カルマ、参考:「因縁生起(別ページ)」

※要注意:「一切縁起の観念のセカイ(―― 根本部分は、論理的なふつうの考えが通用しない系)」

※すべては、「時節(タイミング)」も関係してきます。


◆この仮相・サハー世界の表面でなく深層は、、誰かの悪事によって他の誰かの過去の罪を清算してる
部分もある。(※もちろん、当本人の罪でない過去生由来や、集合的カルマ の個人分配ふくむ)
もちろん、他者のカルマとは関係しない悪事(不徳)も多々あるかと(※おそらくこれの影響が多大)。

★by ニサルガダッタ・マハラジ 《「I AM THAT 私は在る」より》

人は自分自身の罪によってのみ苦しまなければならないのだろうか?
私たちは本当に分離しているのだろうか? この広大な生命の大洋のなかで、私たちは他者の罪によって
苦しみ、また私たちの罪によって他者を苦しめる。 もちろん、バランスの法則が最高位のものだ。

そして最後には貸借の決済をすませる。(P401) (※ここでは文脈上、「罪 = 集合的カルマ」)

★[問い]あなたの国の人々は「カルマや因果応報」という言葉を使います。

それはただ総体として真実に近いというだけだ。 実際には、私たちは互いの創造者と創造物であり、
互いの重荷の原因であり、互いの重荷の重さに耐えているのだ。(P434)

★[問い]ここに兵士によって殺された子供の(※中略) この子供の死の責任は誰にあるのでしょうか?
誰の責任でもない。 あるいは皆の責任だ。 世界とは、それが包含するものであり、
それぞれがそのほかのすべてに影響を与えるのだ。(P433) (※これは主に、人類の集合意識について)

◆「集合意識システム(人類の深層意識、簡略的・比ゆ的・推測的)」(※ニューエイジ関連)

「ゲーム性ある、縁起のしくみ」があって、「人類全般の二元パラ信念体系(※心体の行為)」が、
集合意識に存在する「★闇プログラム(変動あり)」を活性化させ、「集合的カルマ ‐ 個人的カルマ」の
ネガティブ部分を増幅させる ようになっている。(← これは定説、つまり 二元性の水準が悪化)。
すなわち、「負の連鎖力」が強調される形で縁起し、負カルマがより多く生成され、つよく現象化する。

―― 根本的要素として考えられるのは(※おそらくは)、「★宇宙の法による判定が、シビアになる」。
これにより縁起プログラムのあらゆる動きに影響し、人の世の苦難が増大する。
宇宙の法は、小規模団体のルールみたいのも考慮されるが、、根本的に 人類の反映でもあると思われる。
(※シビアさだけでなく、あらゆる判定基準において)

―― 別観点でいえば、「徳の高い行為、徳の低い(不徳)行為」 の全体性における 総計(的なもの)が、
「二元性の水準」を深層レベル で決定させ、すなわち 縁起プログラムのあらゆる動きに影響するが、
「二元性の水準 ―― 実際の縁起プログラムの動き」 の間に、当然ながら「★あそび(可変性)」があり、

そのために、「縁起の自然な流れ(とくに環境的要素)」や「人類全般の信念体系(世界観)」
などによって「全体性の二元性の水準(※現象レベルでは、さまざまな要素・質あり)」が変動する。

そしてそこには、闇プログラム(あるいは多種プログラム群)による 複雑な縁起的作用 が関わってくる。

※因縁生起は、、(※集合的カルマは別の話としても)
「変動性 ―― 縁起・カルマシステム(全体性で縁起連繋、水準下、多種プログラム群の力関係の影響下)」。
総体としては真実に近いが、厳密には把握不可能といわれている。 ニサルガ説明等からは、あきらかに、
可変性 ―― 変動性」の要素が存在しており(とくに縁起の流れ・現象化、カルマ生成の関係)、

全体性の水準が大きくも変動しえるかと(※人類規模に向かい、縁起・時間の流れ ⇒ ⇒ を考慮すれば)。
集合意識レベル で縁起の連繋を考えると、時間経過とともに差がでてくる、という感じの仕組みだろう。
因縁生起は、個別視点だけでみるのは適切でなく、あくまで全体性において縁起連繋してる中での個別性。
すなわち、「(集合的カルマは別の話としても)因縁生起は全体性の中での、あくまでベース的なもの」。

「パラダイムシフト」の進行にしたがい、プラスの流れをつくり出す力、「集合的カルマ ‐ 個人的カルマ」
の負の部分を減少させる作用がつよまるのは確かだろう(★闇プログラムの逆の作用)。

またこの闇プログラムは、人類の「霊性向上」や「真我実現」を直接的にも妨げている、と考えられる。
一言でいえば、「★深層にある、負(二元性)の引力」てこと。(★全人類相互影響機能、ともいえる)
人類の信念(心の観念構造)が自動的に様ざまな形で現れる世界であり、結局のところ「単一の統一体」。
あらゆる現象(※人類・個人に関わる)が、包括的に その影響下で起こっていることになる。

そしてこれが絡んで、「●システム全体の二元性の水準」 が根本的に大きく変動しうる、と。
すなわち、闇プログラム的なものが よいいみで大きく変動すると、
その集合意識に属してる「集合的カルマ ‐ 個人的カルマ」が、大きく解消される流れになっていくだろう。
(※もちろん変化は継続的なものであり、集合意識・人類の進化や社会基盤などを考えてもしかり)

❶ 現時点の人類全般の「信念体系(=分離、個人的行為者)」は、
その集合意識の闇プログラムに大きなエネルギーを供給している、、ということになる。

❷ 闇プログラムには、高次の複雑な要素(対抗プログラム的)が、運命的に作用することもありえよう。

エジプト神話などは、そういった部分を表現してる、といわれている(★TOP「いろは歌の解釈」、他)。
★エジプト神話(オシリスとイシスの物語)
エジプト神話でいうと、つぎのようになる(※原理的に)。

「闇プログラム = セト(二元性・物質主義の権化)」「対抗プロ = ホルス(非二元・霊性主義推奨)」

この2大原理が水面下で対決するのが、ニューエイジ移行期(今世紀)の可能性。 最終勝者は、ホルス。
(※決着に要する時間は不明)
集合意識の「根源プログラム群」に、良くも悪くも神的なポテンシャルあり(※知性・自由意志ナシ)。

―― まぁおそらくは、エジプト神話でもそうでなくても、パラダイムシフトに入っていく雰囲気かと思う。
シリウス・コネクション でもいわれてるが、セト・ホルスは原理なので、実質的に我われ人類の内側に存在していて、
原理レベル での「セト VS ホルス」は、、現象レベル では「二元性のちから VS 非二元のちから」として
我われが闘うことになる、というのが通説であり仮想システムの特性(★助ける力は、適時に作用する)。

エジプト神話的に解釈したニューエイジ思想は、可能性のハナシではあるが、、どちらにしても、
「人類全般の物質主義的な状況は、数百年内に危険度が進行すると予測され、変化が必要な時期にきてる」
のような事は、昨今ではよくいわれてる。 元祖ニューエイジ思想は、「人類の意識の大きな進化過程」。

◆人生という「神性・解脱ゲーム」

※これ(後記)は、ある観点での表現。 「人類の運命(別ページ)」でも書いたように、

「人生のポジティブな要素を楽しみながら、ゲームを楽しむ」というスタンスもありうるだろう。

このさき私たち人類は、そういう方向にむかうと思われる(いわれている)が、、
現時点(※物質パラダイム、深層意識の構造↑)では、とりあえずこちらが現実的であろう。

現時点の人類の「集合意識システム」ではいまだ、あらゆる物事に影響する「二元性のちから」はつよく、
「解脱ゲーム」においても、基本的にハイレベルな霊的修練が要求されます(●高難度)!!
そして、解脱達成者というのは、古今東西に存在するが(※割合としてはごく稀、例外的だが)、
大きな苦難を乗り越えているケースも少なくない(※ここで紹介している覚者達は、ごく一部)。

<解脱達成者の3パターン(※混合あり、概略)>
大きな苦難を乗り越えて解脱  霊的真理につよく惹かれる感性  不思議な因縁に導かれて解脱
※現行パラダイムでは、❶の要素が割合的に少なくなく、「苦 ―― 輪廻卒業」の関連性がつよい模様

社会的にも宇宙の原理的にも通用しないが、、究極的視点(ほんとうの視点)だけでいえば、
人間が表面的に犯すすべての罪は、「えん罪」である。
しかしもちろん罪を犯した人は罪をつぐない改心すべきだが、究極的にはその人の「自己存在(私)」は
その行為とは無関係であり、これが人生という 謎の仮装ゲーム の要点である。
ほんとうの意味で私たちが犯している罪があるとすれば、それは「自己を見間違ってる」という一点だけ
であり、これがいわば「原罪」である。 そしてこのために私たちは生を受ける。

究極視点では人生とは言わば、服役中に再審請求(=真我探求)できるゲーム であり、無罪放免(=解脱)
を勝ちとればゲームクリア、といえるだろう(※ただし身体は最後まで服役中)。 つまり、
幻想内で人間が犯す罪はあくまで「有罪」で、解脱すれば「私」は幻想の中にはいないことがわかる、と。

仮想宇宙内の生命は、「宇宙意識下 ―― 集合意識下」で自然的に動いているのだが、それらは基本的に
宇宙の法の管轄下にある。 そしてあるいみ人間の状態を端的にいえば、身体は牢獄、または終始服役中、
ともいえよう。 そして最終的には、「仮想システム(世界仮現原理)を解除せよ、とのゲーム」であり、
ふつうに考えればこれは、●その難度を改善していく謎かけゲーム でもあるだろう。


◆これは、そのような神秘的な「幻想ゲーム」でまちがいないが、、
そこに参加してる人類に全般的にその理解が起こっていない、というのは世の中が進歩して
あらゆる物事が複雑化するにつれて(★人の心ふくむ)、好ましい状況でなくなってくると考えられる。

◆現時点の人類全般のパラダイム(信念体系)だと、、

①「長い目でみたときに、本当は自分にとって何がよいのか、わるいのか(※宇宙の法)」
②「人間の、(最終的な)存在理由とはなにか(※真我実現)」

を人類の大部分が明確には理解してない、という脚本の映画「人生」が、各自上映されてるようなもの。
この状態では 自動的に、集合意識レベル で「●二元性のちから(分離)」が増幅する。
そこにストレス社会の到来(★効率重視社会、あらゆる物事の複雑化、環境問題、など)が加わり、
人の心が乱れがちなのが 昨今の世相 ではないだろうか? そしてそれらの
要素は基本的に、私たちの「心の観念構造」が反映されたものであるから、その観念構造(の土台)に
「●非二元パラダイム」が入ることにより、それらも徐じょに 調和されていくだろう。
すべての人は、(凶悪犯罪者であっても)「●じつは無意識レベルでは、真我をさがしている」という。

※参考:「覚者たち(別ページ)」≫「●ラマナ(秘められたインド)、 ニサルガダッタ(絶対的な完成は)」

◆補足(結論)

極端な表現をすれば(限定的)、人の心とは全自動で損得勘定してる計算機のようでもあり(※報酬系)、
本当は人為的な要素は存在しない。 しかし仮に損得勘定としても、「自我視点・ハート視点」をふくみ、
究極的には「どれが自己か? 身体なのか世界全体なのか、非顕現の実在なのか」という自己認識要素も
ふくむことになる。 そして、私たちの心の構造の根本には、「存在性への執着(愛)」がある。
二元(物質)パラダイムでは、この損得勘定が(長期的には)まったく間違っている場合も全体的に多く、
短期視点(表面的)と長期視点(深層的)の「●ギャップ」が集合意識レベルで増幅する(※これは明白)。

※顕現世界はいわば、「二元性のちから ―― 非二元のちから」 がせめぎ合う、謎かけ挑戦ショー。

ふつうに原理的に考えれば、「二元性のちから = 人を欺くようなちから」 といえよう。
たとえば、「悪徳が、一定期間サポートされる」「しばらく好ましい流れがつづいたあとで二元性の波」、
といった現象も現れやすくなるだろう。 じっさい、因果応報をほとんど感じさせない(極)悪人、
というのも存在するが、そういうこと。 この仕組みで基本的にいえることは(※総体的いみで)、
「個々人の、時間方向のギャップ(無常度)」と「人類全体の、空間的な二元性ギャップ」は、比例関係。
ゆえに、「全体性の二元性の水準が、改善する」➡「両ギャップがともに減少、全体的に幸福度アップ」。

「二元性のちから ⇒ 負の増大・振幅大(エネルギー奪いあい)」「非二元のちから ⇒ 正の増大・振幅小」。

本当は、誰も人生の内容には介入できず、「★そのパラダイム水準下での、脚本設定」どおりに進行する。

日本は国体的には マトモ なほうではあるが、物質時代を象徴するような闇は当然ある(※諸犯罪ふくめ)。
そして、社会全体の「余裕のなさ、心の闇」のような何かは、徐じょに増大してないだろうか?
―― そして、諸外国の国家的レベルの問題にも目を向けたい。 中東、ロシア、北朝鮮、メキシコマフィア、ほか。
本当の視点では、、特定の人や団体に責任があるのではなく、全人類にとって他人事ではない。
全てはいわば、各自の心に 上映されてる映画であって、ほんとうは 誰一人そこに介入してないのだから。
私たちはいま、人間存在の真実と本当に向き合っていく時代に、突入しつつあるのではないだろうか?

仕組みの点からいえることは、全般的に「仮想システムの理解度」がひくい状態では、全体性の中で
「苦(非常な レベル 含む)」が増大して循環す。 言いかえれば、根本的に「非効率・不合理的」である。
集合意識がつくり出す「縁起の観念世界」は、人類の「★心の観念構造」の、まさに反映の面もある。

―― ほんとうは、誰も何もしていない※行為者ではない、といういみで)。
しかし、「★ほんとうに誰かがそれをしている、、自己本質は人間(心体)である、、」 という
「Ⓐ思いこみ(信念)」そして「Ⓑ偽りの感覚(催眠)」 が、プログラム上で起こっている。

ⒶとⒷが、「あらゆる苦難、トラブル」 の 「根本かつ最大の原因」 であり、これ以外は表面的といえる。

したがって、まず「仮想システムの理解(Ⓐの解除)」が起こる(広がる)ことが最重要事項になるが、
Ⓑの解除以外、「表面的な苦の原因」に不適切に対処(反応)する行為と、「表面的な幸福」を不適切に
追求する行為が、人の世の「苦」の主要因である(※Ⓐの解除によって、不適切な行為が減少していく)。
これらは両極の表現であり、あるいみ同じことでもある。 催眠解除が、「真の幸福(≒苦の解決)」。
※関連:上リンク「ラマナ(秘められたインド)」

実質的には、「人間が体験する世界 =(自分の)マインド」であり、、分配ふくむ深層データの反映。
仮想世界(共同仮想現実)なので、あるいみでは(※原理的・基礎的には)「一人一宇宙」。▼▼

◆覚者の言葉(一人一宇宙 & 行為者不在) ▼▼

★by ニサルガダッタ・マハラジ 《「I AM THAT 私は在る」より》

誰もが世界をその人自身の観念を通してみている。 ―― もし自分自身が世界から分離していると考える
ならば、世界もあなたから分離して現れる。 そしてあなたは欲望と恐れを体験するだろう。(P141)
マインドは役者と舞台の両方だ。 すべてはマインドのものだ。 そしてあなたはマインドではないのだ。
マインドが誕生し、再誕生するのであって、あなたではない。(P173)  あなたが見ているものは、
ほかでもないあなたの自己なのだ。―― 運命のフィルムを通して、あなた自身の光がスクリーン上に絵を
描いていく。あなたはそれを鑑賞する人であり、光であり、絵であり、スクリーンでもあるのだ。(P498)
[問い]彼らは互いを夢見合うかもしれません。 [回答]それこそ人びとがしていることだ。
誰もが他者を想像し、その間につながりを探し求めている。探している人こそがつなぎ目なのだ。(P275)

※真我は観照者でありすべての基礎なので、観られる対象は真我の仮現ともいえる、と。
2つの観点があるため矛盾するようにもみえるが、それについては、「★サーンキヤ哲学(TOP)」。

徹底的に世界は非実在であり、真の幸福のためには無用のものなのだ。――
世界とは実在の錯誤した光景であり、それはそう現れたとおりのものではないと理解すれば、――(P504)

考えてみなさい。 あなたの住む世界をほかに誰が知っているというのかね ?
▼質問者
あなたが、そして皆が知っています。
▼マハラジ

誰かがあなたの世界の外側から来て、あなたにそう言ったのだろうか ?
私自身も、ほかの皆も、あなたの世界のなかで現れては消えていくのだ。――

▼質問者
そんなひどい話があるでしょうか! ――(※中略)
▼マハラジ

私の世界の証拠をあなたはもっていない。
あなたは完全に自分でつくり出した世界のなかに包みこまれているのだ。
―― あなたの世界の牢獄のなかにある人が現れ、あなたが創造した苦痛に満ちた矛盾の世界は
継続も永続もせず、それはただ誤解がもとで現れたのだ、とあなたに言うのだ。
彼はあなたに来たときと同じ方法、同じ道を通ってここを出ようと主張している。――(P65)

★by 釈迦 《「ブッダの真理のことば、感興のことば(岩波文庫)」P246(第27章 7~8節)より》

人々は自我観念にたより、また他人という観念にとらわれている。 このことわりを、或る人々は知らない。
実にかれらはそれを、身に刺さった矢 であるとは見なさない。 ところがこれを、人々が執著し
こだわっている矢であるとあらかじめ見た人は、「われが為す」という観念に害されることもないし、

「他人が為す」という観念に害されることもないであろう。 ※「身に刺さった矢 = 無明」

★by 釈迦 《「ダンマパダ(154節)」(最古層、小部経典)》
―― だが家屋の作り手よ、汝の正体は見られてしまった。 汝はもはや家屋を作ることはないであろう。
汝の梁はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。 心は形成作用をはなれて、妄執を滅ぼしつくした。

※「家屋の作り手」=「阿頼耶識」、「汝の梁はすべて折れ~」=「無明(自我の催眠)を解除したよ♪」

◎「霊性は開かれていると同時に、謎でもある」 by ニサルガダッタ

◎「人間において偉大な点は、かれがひとつの橋であって、目的ではないことだ。」 by ニーチェ


輪廻転生について

◆「輪廻転生(サンサーラ)」について

輪廻転生については、いわゆる覚者でも人によって(又はときによって)少し異なる表現の仕方があるが、

基本的には、「実在視点 or 幻想視点」 のどちらを優先して表現するかの微妙なちがいであり、
「(ジニャーナの)実在視点を基本として、幻想としての輪廻」 がひろく説かれている。

※参考:「覚者たち(別ページ)」≫「★ラマナ(輪廻転生について)」

一般的にいえば、、
仮の自己(肉体精神)は実際はその中には、「真の自己(存在)・真の認識力(知性)」を持ってないが、
真我のアイデンティティが自己同化することにて、持ってるかのような「仮の感覚」が発生するのである。
自我システムへの同化によって ❶行為主体の感覚 が、身体(心)への同化によって ❷知覚の感受
生じるが、、は「催眠・偽りの感覚」であり、については「私が感受してる」と感じる仕組みなので、
感受は表面的には幻想側(心)で起こってても、ほんとうの感受者は真我(霊魂・)なのは明白である。
自我催眠により、完全に人間(マインド)に成りきってしまうのが、真我の体験能力(※超絶神秘的)。

つまり 輪廻転生というのは、あらゆるものが変化しながらも 縁起によって、
時間経過の中に関連性があるわけだが、、それは最初から最後まで根本部分がウソの世界(≒夢)であり、
アイデンティティ(存在、知性)は真我にしか属さない。
幻想側の自我想念体(阿頼耶識 & データ)が輪廻をまたいで継続されるため、近代では、
「真我のアイデンティティが催眠同化した 自我(心)が、輪廻する」という感じの説明がよくみられる。

すなわち、「★脳の記憶リセット」はされるが、「自己存在 アイデンティティ」は継続する(※当然)。

たとえばの話、「Ⓐ完全記憶喪失(何一つ記憶がない)」になるとして、、それ以前の自分の立場からは、
「自分と関係ない(自分ではない)」 とは言えないのはあきらかであり、けして「自己 = 記憶」ではナイ
わけです。 記憶は、「偽アイデンティティ」を構成する要素の一つ(※身体とともに)。 しかしながら、
「完全記憶喪失」した後の立場からは、「それ以前の自分なんて知らないし、関係ない(自分ではない)」
と言いたくなるだろう(※完全に誤解だが)。 ここが、輪廻転生の実質的なポイントと考えられる。
まぁ自我催眠を考えれば、人間存在の根本がパラドックス(誤認)だし、時間(幻想)の中で人間の立場で
記憶を絡めて考えるとスッキリしづらい感はある。 私たちは「その人間が自己」という催眠下にあるが、
じっさいは、私たち人間の自己は「時間・空間(=仮相属性)」の外側にある、ということなので。
究極的にいえば「体験だけがある」ことになるが、「体験はつねに今にある」というところが要点だろう。
言いかえれば、、非解脱者は意識の領域(存在性の原理「私は在る」、肉体)に強烈に自己同化していて、
肉体生存中は「意識 ―― 脳」は完全に連動しているため、催眠下の感覚からでは釈然としづらい、と。
まぁしかし普通に考えれば、「行為者不在でありながら、輪廻はない」っていうのは無理ではあるが。

輪廻転生では、上記Ⓐに「一体化する身体の変更」が加わるだけ、と考えられる。(※自我想念体は継続)
「人間以外にも転生する」という説は当サイトでは考慮せず、ほとんど例外的 or 一時的とみなす。

★[問い]生命は身体に属し、転生とは別の身体に生まれ変わることを意味しています。

単に身体を変えるだけでは意味はありません。 この身体に結びついている自我が、
別の身体に移し替えられるのです。 《「ラマナ・マハルシとの対話 第2巻」P124 より》

★「無知、という眠りに制圧されている人びとは、世界というこの悪い夢をみる。」 by ラマナ(別ページ)

★「本来のあなたとしてのアイデンティティがあり、その上に個人が重ねられているのだ。」 by ニサルガ


◆輪廻転生とは仮想意識に依存して起こる、「まさに夢のようなもの」と考えられる(※共同バーチャル)。

個人的な(複雑な)経験からいえば、どう考えても、「輪廻転生、という仕組みは存在している」。

◆「我われ(人類)」はほとんど、輪廻(幻想)の海を延えんと漂っている、というのは定説ではある。
まぁ正確な真相は分からないが、、ラマナなどの覚者が転生してくることを考えると、ウーンて感じ。
「解脱者、という存在が希少である世の状態」では、死後の輪廻卒業も高難度と、とうぜん考えられる。

生存中に解脱しなくても、「肉体死の直後?に輪廻卒業の『道(可能性)』がある」といわれているが、
これは、「現世(メイン)の、副次的要素」とみるのが当然と思う。
※釈迦説や関連資料から判断すると、可能性は極小、現時点では解脱と同様に例外的ケース とみなせる

◆この分野で一般的に重要とされるのは、仮想システムの理解幻想ゲームを卒業する強い必要性 が、
プログラム上(人心)で起こることである(=運命)。それらが起こり行動をともなえば、非二元系の
因縁がある程度つながる可能性がある(※しかし、それを妨げる「二元性のちから」もまたはたらく)。

基本的にいえば、「宇宙の法(=人の道)」 に沿った生き方、つまりなるべく自我主体の行動を控えて
ハート主体の行動をしていくことが基本になるだろう。 そしてさらに、

「この世界は、ハイリアリティ(真の現実)において現れた仮想現実であり、個々の行為者が存在せず、
本当は自己とは真我(=意識の観照者)であり、意識内のすべては真我を基礎とした仮現である。」

のようなことを理解(確信)し、それを実生活に即してよく考えて行動に反映させることになるだろう。

「まよいの輪廻」の卒業、、それはおそらく 現状の人類の「集合意識システム(現行パラダイム)」では、

「至難」ということだろう。 まぁ縁のつながり的なものも関係する可能性はあるが、一切縁起ゆえに。

◆「すべての認識対象(世界、体、心、つまり意識の内容物)は幻想(≒夢にみられてる側)」であり、
生も死も、輪廻転生も、根本の部分には人知が及ばず、「心がつくり出す 神業的な幻想」。

なお、プログラム設定は「真実は、あるていど保護される(※長期的視点)」といえ、それは社会通念
や科学的証明とは基本的に関係ない(※直接的な意味ではなく深層的に、これは経験から理解)。


[ 参考 ] ニサルガダッタ・マハラジ(解脱者、最強クラスの賢者

▼マハラジ

今ここで、その肉体が去る最後の瞬間を考えてみなさい。 そのとき、あなたはどんなアイデンティティを
もって去って行くのだろうか?

これは詐欺であり、あらゆることが不正で、まるで夢の世界のようなものだ。

▼質問者
その第一の原因は何ですか? その罪とは何だったのですか?
▼マハラジ
この意識が意識を感じ始めて、悪ふざけが始まったことが罪なのだ。 あなたが好もうと好むまいと、私は
あなたの前に物事の実際の状態を置く。 あなたは自分が存在していることを知っているが、それはすべて

想像上のものだ。 あなたは自分が存在していると思っているが、それは嘘だ。 その存在性の特質やその

習性が何であれ、それはあなたの習性ではない。 あなたが自分の本当のアイデンティティに留まるとき、
悪ふざけのこの夢の世界から抜けている。 私はあなたの前にあなたの本質を置いたのだ。(P304)

★あらゆる人が死ななければならない。 だったら、自分の本質として死になさい。

なぜ、肉体として死ぬのか? 自分の本質を決して忘れないようにしなさい。そのことは多くの人たちには受け入れられないかもしれないが、それが事実だ。 もしあなたが野心をもたなければならないとしたら、

最高の野心をもちなさい。そうすれば、少なくとも死ぬ最中に、あなたは「絶対」になることだろう。

今、断固として信念をもって決意しなさい。(P195) 《以上、「意識に先立って」より》

★生きる者ではなく、ただ死者だけが死ぬことができる。 あなたのなかで生きているもの、

それは不死なのだ。 《「I AM THAT 私は在る」P425 より》
★次のことを覚えておきなさい。 「誰」も生まれず、「誰」も死なない。 なぜなら、

(現れて、ある期間留まり、そして、消えてゆく)すべての形態はあなたの表現、あなたの反映である

からだ。 《「ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの」P212 より》



★Moonglow: Wisp X  ★EZ DO DANCE: TRF ft. Polka