輪廻転生を卒業しよう!◆真我のハイリアリティ

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「二元(物質)パラダイム」 ➡ 「非二元(霊性)パラダイム」―― 移行の時代 ――

近年は地球文明(物質文明)も隆盛をきわめ、ここ日本もストレス社会となって参りました。
そこで仮想システムを理解して、今生を縁に輪廻転生を卒業しませんか? 「一切衆生悉有仏性♪」

当サイトは作成者が「 行為者は存在しない 」ことを強制的に確信させられた、一連の不可思議な
体験(10数年前)を原点とし、関連書籍などをもとにして、多くの「 推測 」を交えて書いてます。

当サイトは 宗教的 なこと、主に 人間存在の真実 について書いています。
この分野では、ある理由から、それを オブラート に包んで表現する傾向がむかしからあり、

それは仏教にもいえます。 しかし、仏教が興った約2500年前とは 時代・世相 が異なることと、
近年ではオブラートなしで表現する 覚者・解脱者 たちが続出していることも参考にし、
当サイトでは極力、真実をストレートに表現することを心掛けています。(★移行時代の観点)

真実を知っている、ということは仮想システム内で有利にはたらくと思います。
ここで書いてることは宗教的な事柄であり、あるいみ世間的には通用しない(?)部分もあります。

★あなたは予め運命に定められた通りに、完璧なタイミングで「この文字 キャハ」を読んでいます。

★当サイトでは、形而上的概念に関する比喩表現(のようなもの)を多用しています。

★当サイトでは、「ハイリアリティ」=「至高の実在、真我、霊魂、真の現実」

「リアリティ」=「幻想性、仮想世界」、「●自己存在性」=「幻想側の自己」 のいみ。     2019.09.01

<見出し>
◎ 人間存在の真実 & 輪廻のゴール(まとめ)
◎ 真我探求のリアリティ
◎ 仏教とハイリアリティ(実相、実在、真我、霊魂)
◎ いろは歌の解釈について・・ニューエイジ関係

人間存在の真実 & 輪廻のゴール(まとめ) ~ 人生は、不思議の国のアリス ~

◆この世界はいわば、共同仮想現実、完全リアル体験ができる VR のようなものである(※本質的に)。
映画「マトリックス」は、これを裏テーマにしている模様。(※「心」のトリックの世界)

◆究極視点では、現れた世界のすべては全自動の「縁起プログラム」により動いていて、
個人は行為主体ではない。 ほんとうは、私たち は現れた世界の中にはいない。(※これが絶対的真実)

◆人間は自我の催眠によって、実際はプログラムにより動いてるところを個別意志で心体を動かしてる、
と感じる催眠的な状態にある。 すなわち、行為者としての自己感覚を「自我(エゴ)」と表現できる。

◆しかし、仮装劇の中では、とうぜん個人に「行為の責任」が存在する(★宇宙の原理)。
すなわち、「社会(=幻想)の中には、あくまで行為者が存在する」ということ(★視点の問題)。

※詳細:「★パラダイムシフトと倫理・中道(次ページ)」

仏教情報総合サイト ブッダワールド
「我(が)」:
自我の意。 行為主体としての自己。 永遠不滅の本体。自己主観の中心となるもの。

仏教ではこのような常恒の我を認めない。 存在は縁起によってなるものとし 無我の立場をとる。

※仏教では、「『諸法無我、諸法一切縁起』でありながら『行為主体』が存在する 」
という解釈はムリでもあり、「究極的見地では、行為主体は存在しない」 というように説明されています。

「縁起プログラム群(=宇宙意識-集合意識)」 が一切万物を動かしているが(★ここでは略式説明)、
一切縁起であり 縁起プログラム?にも自性(独立性)はない、の様にも説明される。 言いかえれば、
「全体性のなかで、すべてが 自然的(縁起連繋的)に動いていて、影響(依存)しあっている」。

※「プログラム」=「意識の機能的原理のことで、自然的(知性・自由意志はナイ、力関係が変動的)」。

人間:「縁起プログラムに動かされてる」 縁起プログラム:「人間の行動にも依存して動かされてる」

「人類全般の信念体系」や「高次根源プログラム群(?)」も、縁起プログラムの動作に大きく影響する。


◆人生は、催眠の中に現われた「仮設行為者(=自我)」が行為の責任を問われ、あるいは称賛される、
という神秘的なジョークであり、挑戦状でもある。 すべての現われは「仮想宇宙意識」の戯れであり、
人間の意識も 宇宙意識内に存在する。(※その「仮設・催眠」を解除せよ、との謎のゲームでもある)

ここでは一部否定的な表現もするが、、あるいみ くそ 最高のジョーク。 悪ふざけ(?)ともいわれる。

しかし、根本原理の一部に「至高の理法」がふくまれるので、そこを理解することが大切。
そして、催眠であっても行為者の感覚がたしかにあるのだから、基本的に「現在が勝負どころ」となる。

ポジティブに言うなら、「分離から再統合へ、幻想から真実へと向かうよろこびの道」。

アドヴァイタ哲学(不二一元論)ではこれを、「★リーラ意識の戯れ・神性戯れ・神性劇)」 いう。

◆実際のところ、真我(霊魂)のアイデンティティ(=自己)が、仮想世界に現われた身体(心)と
自我のシステムに同化する。 このうち、自我システムへの同化のことを「自我の催眠」と表現できる。

◆生存中になんらかの方法で(または流れで)、「自我の催眠(=仏教での無明)」が解除されれば、
それは悟りをひらいた(解脱した)状態で、その人の自己は今生で輪廻転生を卒業する(おめ)。

by ラメッシ・バルセカール(インド銀行・元最高経営責任者) 《「意識は語る」より》

行為者という個人的感覚が消えるという意味で悟りが完全なとき、エゴは完全に消えます。 そのとき、

事実上エゴは消えたのです。しかし、肉体との一体化は続きます。なぜなら、肉体-心は機能しなければ
ならないからです。 個人的行為者としての一体化は消えるのです。(P196)

基本的には、悟りはたった一つのことを意味しています。 現実に見えたことが、実は非現実である
という突然の理解です。 そのときあなたは非現実を現実として経験します。 突然の超越の感覚、
超越のヴィジョンがあるのです。 すべては夢であるということが、もはや観念ではないのです。(P141)

《「誰がかまうもんか」より》

人間は、個人的行為者という余分で怪しげな感覚の才能、つまりはエゴのことですが、それをもつ対象物の一つの種です。 繰り返します。人間は、現象界の対象物全体を形成するその他すべての対象物と並んで、
対象物の一つ、対象物の一つの種にすぎません。(P58)

by ニサルガダッタ・マハラジ 《「意識に先立って」より》

▼質問者
でも、私がコントロールできることもあります。 例えば、ここに来るかどうかをコントロールできます。
▼マハラジ
それは誤解だ。 何であれ、起こることは自然に起こるのだ。 このすべては意識のショー、あるいは
表現であり、その特性は変化だ。 それは意識的な存在のダンスであり、意識にはそれ自体を楽しませる
非常に多くの異なる形態、技量、能力が機能している。 しかし、その機能は単に自分自身を楽しませる
ためのものだ。 それは疲れると眠って休み、目覚めると活動や行為などの何らかの娯楽を必要とする。
それらはみな意識の中の見かけだ。 それぞれは自分自身の寿命に従って続くが、基本的には正当なことも

重要なことも何も起きてはいない。 目覚め、つまり理解が起こるまで、あなたは自分を行為者だと

考えるが、いったんこの理解が起これば、働いているどんな実体もないことをあなたは知る。(P236)

今日の世界には非常に多くの人たちがいて、彼らはあまりに色々なことで忙しいので食べる時間がない。
彼らは立って食べている。 これがマーヤ(※幻影)の性格だ。 偉大なマーヤの原理のせいで、
あなたは彼女のすべての悪巧みをおこなう。 そして、あなたはまた彼女の言うことを忠実に守っている。

そして最終的には、あなたの光、あの存在(※意識、存在性の原理?)は消滅させられる。

それから、あなたはどこへ行くのだろうか?(P32)

意識があるゆえにあらゆるものが存在するのだが、意識自体は単なるそれ(※真我)の光にすぎず、

存在するそれの反映だ。(P292)  霊性は開かれていると同時に謎でもある。

あなたが存在するゆえに、すべての世界があり、宇宙もある。 これはあなたの反映なのだ。(P293)

意識とは、愉快で魅惑的なマハーマーヤー(偉大な幻想)、あらゆるものの中で最も壮大な詐欺である。

◆縁起のシステムは、根源プログラムに 「秩序」「遊び心」「混乱」 と関連する原理的要素が存在して
いて、「メタファー(隠喩)」「ジョーク(悪ふざけ込)」「ドラマチック(物語調)」 が好きである。
あとたぶん、「リズム(調子)」 が好き。
現象化のパターン(運命づけ)には、人間を霊性向上に向かわせようとする力もはたらいている。


人間が体験する現象は(大まかには)、「現象ベース(※集合意識依存)」的なものがあって、さらに
「仮自己の深層意識データ(行為データ +α)、★または集合意識から分配されたデータ」、のいずれかが
反映されてくると考えられる。(※仏教の業理論参考、、人間関係は過去の行為データが多いかも)

◆人間関係においては(基本的に)、互いの 心・体 のうごきは、分配ふくむ 両者のデータの二重投影、
と考えられ、すべては深層データによる運命づけである(※複合・分散・変質あり)。
心・体のうごきは(データ投影ではあるが)、「★心がけ、世界観・根本的価値観」などに依存して
傾向の変動性があり、また行為者の仮感覚があるため、、仮想的自由度アリ といえる。
このデータは 主に前世から現在までのもので、現象化されれば消える!! が、ネガティブ現象に関して
「過剰に」戦ってしまうと(※自我の反応)、新たなネガティブデータが貯蔵されてしまう。 これは、
完全スルーするとポジティブデータとなる場合も多く、宇宙の法が定める ±ゼロのライン があるはず。

◆貯蔵されたデータが現象化するまでの時間は様ざま。 深層意識と運命により大差もでる様だが、
平均的には、人生の全行為の 1/2 以上は来世にもちこされる様。(※ゆえに苦の娑婆ともいわれたり)

★「それゆえ人生においては、自分は行為者でないと知りながら、まるで自分が行為者であるかのように
生きなければならないということです。」 by ラメッシ(P579、意識は語る)


「宇宙の法(原理)」は完全に状況に応じて、きわめて複雑に流動的に作用する。 ある行為における
徳・罪 の判定には、その時点のあらゆる関連要素が関与する。(★一切縁起の観念のセカイ)

当仮想システムでは「宇宙の法」の基準において、正当(または必要)なていどに悪事を責めることは、

正当(状況によっては必要)な行為である。  ※集合的カルマ、参考:「因縁生起(別ページ)」

「宇宙の法」による判定の対象は、因縁生起レベルではなく、もちろん「現象レベル」になる。
◆あらゆる「苦」の根本原因は「自我の催眠」にある、と見抜いて賢く行動すれば、深層意識が直感的な何かを表層に投影するようになる。真実はあるていど保護される設定になっている(※深層レベルの話)。

幻想のなかでは、それが真実。 つまり、幻想側の「仮の自己(心体)」の部分に興味を持ちすぎる
ことは、場合によっては「苦」をつくりだす要因になる。


◆この仮想システムは おそらく自然発生的に起こっていて、厳密ないみでの巨大知性をもつ創造者(神)
は存在しないが、システム内のすべては神業的な?高度な無知原理(無知インテリジェンス)に基づいている。

◆ほんとうは物事の運命は先ざきまで定まってるはず、ともいわれる。 少なくとも起こることはすべて

定められた運命だが、「真我(気づき)」を自覚することにおいて私たちは自由があるかも。

◆「二元性は本質的に表裏一体」という表現があるが、陰陽論が拡大的に解釈されるケースもみられる。
「サットヴァ(純質)」は、「二元性のちから」を削ぐ 準非二元的な要素 である(※重要)。

◆当仮想システムは変化が本性であり、「❶全体性の水準」でバランスをとりながら(その水準下で)、
因縁生起を ベース的法則 とし、一切縁起システム に自動設定されたとおりにすべての物事が起こってくる。
人の世のあらゆる物事すべての人生は、「そのパラダイム水準下での、脚本設定」どおりに進行するが、

基本的には正当なことも重要なことも何も起きていない、とも表現される。(by ニサルガ、前記)

◆個人の公平性は表面にはないが、この仕組みでは壮大な超絶スケールでみれば似た要素?はあるはず。

★「宇宙はつねに運動し、それでいてつねにバランスがとれています。」 by ラメッシ

※「全体性」=「人類の集合意識」、「二元性のちから」=「分離衝突、あらゆる苦難困難 ―― の元」

※以上、参考:「人類の運命(別ページ)」≫「物事の流れは~(二元性の水準について ―― 変動)」


◆人間が何か新しいことを始めたり、行動するにあたっては、「動機」がわりと重要な要素になる。

純質的な欲はよいが、表面的には、他者の幸福のために行為すべき(※自分の幸福もふくまれてよい)。
動機やその他がよければ、物事が即座にうまくいかなくても後に良縁がつながるようになっている。

そして本質的には、あらゆる行為は行為自身のためになされるべき(※自意識の問題)。 じっさいは、
分離した他者や個人的行為者は存在せず、私の心体の行為は私に対して「起こっている」のだから。

あるいは、至高の神(or私たちの真我)のために行為をなす、でももちろんよいだろう。

行為の結果を放擲しながら、無私の心で奉仕したならば、より高度な「カルマ・ヨーガ」ともいわれる。

ヨーガ(サーンキヤ哲学)でいうと、

「自我の催眠(無明)」とは、、プルシャ(真我)が、プラクリティから生じるグナ(要素)と結合、or
グナを享受している状態。 この仕組みを、ここでは「自我システム」とよぶ。(← マインド・想念レベル)

グナを超越(=解脱)した人は? その方法は?(↓)  ★プルシャとグナの結びつき(他サイト)

(★参考: 後記「サーンキヤ哲学」、「覚者たち(別ページ)」≫「その他」)

彼は中立者のように制止し、諸要素によって動揺させられず、諸要素が活動するのみと考え、安住して動か
ない。 彼は苦楽を平等に見て、自己に依拠し(充足し)、土塊や石や黄金を等しいものと見て、好ましいも
のと好ましくないものを同一視し、冷静であり、(※中略)このような人が要素を超越した者と言われる。
また、不動なる信愛(バクティ)のヨーガにより私に奉仕する人は、これらの諸要素を超越して、ブラフマンと一体になることができる。(※私=至高神クリシュナ)《「バガヴァッド・ギーター(岩波文庫)」P116 》


◆人間の知性は 創造プロセス(無知)により生じる産物で、プロセスの源が私たち(真我、真知)であるため、人間は創造プロセスを評価する立場にはなく、真に求められてるのは解脱して幻想の源を自覚すること。

※参考:「覚者たち(別ページ)」≫「世界仮現原理 ‐ ドゥッカ・バカバン(by ニサルガダッタ)」

◆仮想娑婆世界は根本的に幻想であるため、条件・時節 しだいでは想像を超えたことも起こりえる。
たとえば、人類が深層意識レベルで進化して、「ハイレベル霊的地球文明」が誕生する可能性もあるが、

それは案外、そう遠くもない未来なのかもしれない。 ※参考:「★人類の運命(別ページ)」

◆現時点の、人類の深層意識システム(※集合意識ふくむ)、そして自然界のエネルギーバランスでは、
催眠がとけて解脱(真我実現)するのは割合的にはごく稀なケース(例外的)、と言わざるをえないが、
しかしおそらく増加してきている。 現在、その部分の 転換期 にさしかかってる、といわれる。

◆人類のあるていどに >仮想システムの理解 が起これば、人類の運命の 本格転換期 をむかえるだろう。
(※ジョークの世界。 すべては時節によるところもある。
>「これは『☆仮想現実』で、すべては『☆リーラ』であり、分離はしてない」 というようなこと。
仕組みの点からいえることは、その理解度がひくい状態では、「❶二元性のちから(分離)」が増幅し、
全体性の中で「苦」が増大して循環する(❶集合意識は、全人類相互影響機能 アリ)。
仮想システムの理解にもとづく適切な行動が起これば、その方向で良縁がつながっていくのはたしか。
今世紀前半ニューエイジ移行期。 集合意識(エネルギーバランス)の動向に目を向けたい(※世界情勢など)。

※参考:「★パラダイムシフト(別ページ)」 ※「非二元パラダイム = 仮想システムの理解・受容」


◆仮想縁起プログラムは、ある部分では、人間の根本的な誤認を「幻想ショー」をとおして指摘するような
プログラム設定になってる、ともいえる。 パラダイムシフト進行により、その種の動作は減少していく。

◆輪廻の卒業については、ある程度以上に輪廻経験を増やしても意味がなく、仮想システムの理解
幻想ゲームを卒業する強い必要性 が、プログラム上(人の心)で起こることが重要とされる(=運命)。
それらが起こって行動をともなえば、非二元系の因縁があるていどつながる可能性がある。

私たちのすべての幸福の探求は、じつは無意識レベルでの真我の探求であるといわれる。(★by ラマナ)

解脱 or 輪廻卒業 を志す人は、仮想システムの根理(≒存在性への愛)をよく理解しようと試みながら、
執着を和らげていく姿勢が基本となる。 攻撃的な現世否定精神は、執着である。


◆生存中に解脱しなくても、肉体死とともに成仏するケースがある(※機会がある)といわれているが、
実際のところ我われはほぼ延えんと輪廻継続している、といわれる(★現行二元パラダイムでは・・)。

幻想プログラムを卒業する意志とともに、「ほんとうは誰も行為者ではない」ということをよく考えて、
なるべく自我主体の行為をひかえ、ハート主体の行為を心がけて深層意識のデータを浄化していき、

「すべての認識の対象(世界、体、心、つまり意識の内容物)は幻想(≒夢にみられてる側)」

ということだけ確信して現世的な欲望・執着を放棄してしねば、死んだときに「迷いの輪廻」を卒業して
ニルヴァーナ のハイリアリティ(真の現実)に目覚める可能性がある(※あくまで生き方の話です)。


◆しかしながら、ほんとうはハイリアリティとの接点は誰にとっても現在にある。
眉間のうしろのほう(脳の視床)とハートの中心に、すべてである真我(≒無)との連結部がある、とも

いわれるが、これは幻想側を基点とした説明である。(※幻想視点  実際は身体基点というよりも、

「意識内に世界が現れてる」という実在寄りの深い視点を意識することで、意識レベル(マインド以前)
の自己感覚の自覚を促すような説明が主流になっている。(※観照者視点

しかし本当は誰もがつねに意識の観照者(真我)であり、誤認が起こってるだけ。 準備ができていれば、
「私たちは意識を観てる側だ!」 ということに注意を向ければ、すでに真我だったことに
即座に気づくこともありえる可能性がある(=解脱、輪廻卒業確定)。(※実在視点


◆催眠がとけて解脱した場合、「自我システム」への同化は解除されるが、「身体(心)」への同化は
必ずのこる(※身体同化の解除は「死」をいみする)。 この場合、自己本質(メイン)は実在真我になり、
身体レベル の自己は、「時空を超えた真我(非顕現)」のなかで接触する 側面的・微妙(サブ)になり、
自分が人間だとは感じなくなる。 自我特有の、「想念レベル の存在感覚-想念としての私」はきえる。

★「個人的行為者(行為主体)」の感覚はきえる(※すべて自動的、自然体、世界は私の表現・仮現)。
★「物質世界・時間空間」の存在は意識に依存していて幻想、とわかる視点(=真我・観照者)がある。
「あるいみ全自動行為者のような、微妙な感覚」があるらしい(※そのレベル の自意識がない)。
つまり、実在視点(真我・観照者)があるために、(仮自己もふくめて)幻想ショー的になる ってこと。

この状態は、現実的なパワーがある(※縁起のいみで)。 メンタルシステムの障害物のような自我が

抜け落ちることにより、(基本的に)心は軽やかで、つねに現在を直観的に的確にとらえ、慈悲ぶかく、
道理にかなった振る舞いをするようになる。 ネガティブ感情も起こるが、同時に観照が起こるため、
幼子のように速やかに消えていく。 水平的に巻き込まれることがなく、垂直的に切りはなされる。

それを掴む「私」がそこにいない。 つねに根底に静寂。 (★解脱の境地にも、深さ的なものがある様)

身体的な痛みは、身体レベルではふつうの人と同じように感じるが、同時に真我レベルから観照される。
つまり、幻想内の仮自己(=身体同化)は苦しむが、真我はその本質レベルにおいては影響を受けない。
「現象レベル(仮相視点)」と「本質レベル(実相視点)」では、客観的には矛盾する?感じにもなるが、
真我は身体レベル(側面)においては苦痛をさけることはできない、ということ。(※本質的矛盾はナイ)
(※この点は表現は数種みられるが、★視点の次元相違というしかなく、認識・体験の真主体は真我

※解脱後でも以前の古い「心の反応パターン」が出ることもあるし、個人差や個性はとうぜんあるけど、
大まかにいうと上記のようになる。(★ラメッシ、ニサルガの説明・動画など。あとにリンク)

◆解脱に至らなくても、、真我の「認識力・気づき(=知性)」が意識レベルに反映された「観照意識」
を自覚できれば、自我の催眠が感覚的にわかるといわれる(※程度・種類や、持続時間のちがいあり)。
つまり観照状態においては、主体(=観照意識)と客体(=意識の内容)の分離はあるが、
客体のなかの偽主体(=自我)が「偽り」であることは、(おぼろげながら)理解される、ということ。

※観照とは、、心の動きに影響されずに意識レベルから意識の内容を観ること。
自己と心(思考・感情)のあいだに距離感があり、巻き込まれず、不必要なものはすばやく切りはなされる。
すなわち(あるいみ)、マインドに巻き込まれた「真我・観照者」が、自我。
「真我・観照者・自我(マインド)」は、、異なるレベルで関わる「同一のアイデンティティ(存在・知性)」。

※観照について、参考:「覚者たち(別ページ)」≫「★ラメッシ(解脱するとどうなる?)」


◆人生とはいわば、映画を観ているようなもの。 私たちは実際には、スクリーン(=ハイリアリティ)
であり、その中の小さな点(=霊魂)でもある(※実在側は論理が通用せず)。 その小さな点が、
登場人物の視点から映画の中の世界をみてる(衆生本来仏)。 自由は、その自覚をとり戻すことにある。

◆つまり、人間はいわば夢にみられてる側であり、「自己」は夢をみてる側であり、、本当のいみでは
誰も生まれず、誰も死なない、誰も何もやってない。 「自分が世界内を動きまわってる」という感覚は
身体同化(幻想視点)によるもので、実在視点では、ハイリアリティの真の現実において真我の面前で、
世界仮現原理「私は在る」により 意識(➡ 空間次元・世界)が仮現し、真我(自己)が自己同化した

人間(仮自己)が動きまわってる「シーン」が現れる。 ※参考:「唯識無境(ニサルガダッタ語録)」

◆言いかえれば、、真実は私たちは意識を観てる側(主体)であり、意識の全内容は客体であり、
それは本質的に主体側の仮現といえるが、自我システムは客体のなかに偽主体(自我)を設定するので、
催眠がとければ 時間と空間を超えてここにある原初の状態 を自覚できる(=解脱)。

解脱後も身体への同化は必ず一部のこるが、催眠下ではそれがすべてになってるということ。
ほんとうは誰もがその原初の位置にいるから世界を認識できるのだが、誤認が起こっているということ。

★by ラマナ・マハルシ(16歳で真我実現した最強クラスの賢者) 《「あるがままに」より》

もし誕生があるとするなら、一度の再誕生だけではなく、転生の連鎖の全過程が存在することになる。
なぜ、どのようにしてあなたはこの誕生を得ることになったのだろうか?
いままで同じ理由で、同じように、あなたは次から次へと再誕生してきたに違いない。

だが、もしあなたが「誕生したのは誰か?」と問いただせば、そして誕生と死があなたに起こったのか、
それともまったく異なる誰かに起こったのかと尋ねれば、そのときあなたは真理を悟るだろう。
そしてその真理がすべてのカルマを焼き尽くし、すべての誕生からあなたを解放するだろう。(P345)

至高の真我から見れば、この蜃気楼のような世界 のなかで生を授かるという幻想は、
「私」と身体との同一化 という利己的な無知以外の何ものでもない。 真我を忘れはてた者たちは、
生まれては死に、死んでは再び生まれることだろう。 だが、至高の実在を実現して心が死にはてた者は、
生死を超えた「実在のなか」だけにとどまる。(P336)

※参考:「覚者たち(別ページ)」≫「★ラマナ(秘められたインド)」

※別ページ「覚者たち」≫「★ニサルガダッタ(意識に先立って)」 に関連項目 アリ。

~ 梵我一如について ~

★「梵我一如」とは?
ウパニシャッドによれば、アートマン(我)は個人に内在する精神的実体であり、肉体の死後も存続して
輪廻の主体となり、宇宙原理たるブラフマン(梵)に合一したときに(梵我一如)、輪廻から解放される。

★《シャンカラいわく》 この世の万物はそれ(最高実在・ブラフマン)を本質としている。
それは真にあるものである。 それはアートマンである。

「身体がアートマン(自己)である」という一般の人々がもつ観念と同じほどに、それを否定する信念が
強固な人は、望まなくても解脱する。

★《「ウパデーシャ・サーハスリー」([著]シャンカラ、[出]岩波書店)》

≫ 太陽光線に照らされると、赤色などの形相が宝石のなかに輝き出るように、私が存在すると、
一切万物は統覚機能のなかにみえるようになる。(P32)

≫ 認識というアートマンの光輝に照らされて統覚機能は、自分自身の内に認識があり、他には認識主体は
存在しない、と考える。 これこそじつに統覚機能にある錯乱である。(P99)

≫「私」という観念の主体(=統覚機能)は、自分自身のアートマンはつねに苦痛をもたないのに、
(自分自身の苦痛を)、自分自身のアートマンに付託する。(P130)

実在側(実相)は、時間空間は通用しない、観念的でない、直接的には描写できない」とされているが、
個別性(霊魂的なもの)と全体性(ユニシティ)に関しては、なんとなく不明瞭さのようなものがあると思う。

ここではこの分野での実状的なものと、自分の考えを書いておきます。

古代インドの哲学書「ウパニシャッド」には、「★梵我一如(※解脱の境地)」の思想があり、
アドヴァイタ哲学に受けつがれている。

「我・アートマン = 霊魂・真我(個人の根本原理)」「梵・ブラフマン = 至高実在(宇宙の根本原理)」

これは基本的に、「アートマンとブラフマンは、
①完全に同一である。 ②本質的・根本的には異ならない(=分離はない・本質的ワンネス)。」

の2説がある。 ここでは、「(霊魂の)個別性」の要素が「残らないのか、残るのか」の観点で考える。

これは実際には、「★表現・言葉の定義・観点(の問題)」という要素も関係する。

これは、元々は古代の解脱した人によりそう表現されて、基本的には支持されつつ、

いくつかの点について議論もされてきた思想。 ひとつ言えるだろうことは、基本的に解脱者というのは、

身体接続をのこす 有余涅槃の状態 において、自己(←人間じゃない)が体現してる境地を、マインドが
接続があるために理解して、言語表現していることになるが、必ずしも形而上的(構造的)な意味において
正確に説明してるとは限らないだろう。 だから、基本的には(大まかには)同様のことを言ってるけど、

表現・見解のいくらかの相違はよくみられるし、解釈しだいで違いがでる場合もある。

―― そしてこれは、、
「マインドレベルで直接認識はできず、直接的には描写できない(観念化できない)」 実相についての話。

※参考: 後記「真我探求のリアリティ」≫「★心と深層意識のカラクリ」

釈迦仏教は(原始仏典をみると)、あきらかに②のように読める(※後記「原始仏典から抜粋」、ほか)。
ジャイナ教(別ページ掲載)は、完全に②(※解脱後の霊魂の個別性を ハッキリ 主張している)。

近代の覚者らは表現上は数種みられるが、、

「ニサルガダッタ」「ラマナ(前記)」は、②(※多くの説明が②を示しており、まぁ明白だろう)。

「ラメッシ」は、ストレートに読むと①?かもしれない(※そうも受けとれる、表現上な感はある)。
「ウパニシャッド」「ブラフマ・スートラ」と並んで、ヴェーダーンタ学派の3大聖典の一つである、

「バガヴァッド・ギーター」は完全に②。 ※参考:「覚者たち(別ページ)」≫「その他」

そして、インドの覚者たちの表現は、伝統的ないみにおいて「カースト制」の影響を受けてる可能性(?)
―― というか、(※それも歴史的には一部関係)近代のヒンドゥー教・インド哲学の主流思想になってる

「不二一元論派(ヴェーダーンタ学派の一派)」の影響はあるかとおもう(※後記参照)。 あるいは

影響というよりも、その定義がある ゆえに不明瞭さのようなものが発生する、というところはあるだろう。

ちなみに、インド国民の約8割がヒンドゥー教徒(※大衆化してるが、本格的な宗派もあり さまざま)。

★「『自分の本質』『全体』の潜在的可能性に気づいた者が、どうしてこの制限された状態の与えるもの
に満足できるだろうか?」 by ニサルガダッタ(P95、意識に先立って)

―― 具体的にいうと、

「ラマナ(別ページ)」のように、「解脱によって自己を失うことはなく、むしろ発見する。 そしてそれは
永遠の自己であり、絶対的な幸福である」 てかんじの説明はよくみられる。 しかし他方(一部には)、
「『一つの自己』だけが実在する、観照者は一者しかいない、個別性は存在しない」 みたいな説もある。

つまりこれは、「非顕現の一者(ブラフマン)」が顕現に無数の「私」として反映されたのが 人間の自己存在
であり、解脱すると「個別性の要素は完全消失」して一者だけがのこる、っていうことになる。

※これがストレート解釈?の①、たぶんこれは身体接続が考慮されてないぽい

「完全・不二一元論(元祖的)」は、上記のように解釈されることもある?が、

「完全な梵我一如を説いているが、個別性には言及していない(★またはやや曖昧)」、が実際のところ。

アドヴァイタの解説(★次項:Wikipedia パラマートマン、など)をみれば分かるが、実際には

「ブラフマン = 一つの自己」いう定義にはなっておらず、「ブラフマンいう状態」てとこ(※考え方)。

★三つのグナとブラフマン(参考)  (※いわば、非分離を強調させる表現・定義づけ)

実際には、アドヴァイタがこの完全・厳密なニュアンスで解釈されることは少ないようだが、、まぁ一応。

そして、ほんとうに観照者が一者ならば、なぜ解脱者は他者の心をつねに覗いてる(体験してる)状態には

ならないのか? という疑問もとうぜん起こってくる(※とくに解脱者同士)。そうならないということは、

「認識主体としての真我には、本質的ワンネスでありつつ 個別性が存在している」、をいみするだろう。

まぁ解脱者というのは、真我の気づき(絶対知の視点)のなかで仮現としての世界をみるので、

他者の心を直感的によむ能力は高まるみたいだし、もちろん「自己から分離した他者」という感覚はない。

つまりこれは、解釈的なものを除けば、、おそらく表現上 or 感覚上のもので 事実の正確な描写ではない、

あるいは 形式的 or 概略的な表現、と考えられる。(※「行動の指針」的に表現されることもあるだろう)

そこでこの問題とも関連して、次項「梵我一如(解釈)」を提案したい(※というか解釈の一つ)。

ということで、もちろん当サイトは ②の観点です(※限定不二一元論)。

※実際にアドヴァイタ系の覚者が説いている内容は、「限定不二一元論」的なものがほとんどだが、
このやや曖昧な状況は、とくに日本においては?誤解をまねく可能性もあるかと思う。

「実在側(実相)は本質的ワンネス & 分離の物質世界は幻想(※実相の仮現・分離なし・梵我一如)」

が実際的アドヴァイタの要点であり、「限定不二一元論」ははっきりさせても問題ないぽい。

不二一元論の元祖(シャンカラ・8世紀)の説は、「完全梵我一如」と表現してる点では ①ともいえるが、

―― 流れとしては、ウパニシャッドで「曖昧さのある『梵我一如』」が説かれて、ヴェーダーンタ学派の

「ブラフマ・スートラ」は、「アートマンはブラフマンの部分(=不一不異説 ②)」と解釈されていたが、

その解釈を変えて「不二一元論」の観点で「ブラフマ・スートラ注解」を書いたのが、シャンカラ。
不二一元論は、歴史上のカースト廃止運動家たちに支持された面もある(★ナーラーヤナ・グル など)。

つまり、「限定・不二一元論」の前身的なものは、ヴェーダーンタ学説(伝統説)として存在していて、
ウパニシャッドで古くから説かれてた「梵我一如」の、曖昧さを排除したのが「完全・不二一元論」だが、

不二一元論派の実質は、「ブラフマン一元論(幻影論)の徹底、、ブラフマン内の個別性については不問」
というかんじで、ある点では実質的には同様。 そしてこの「ブラフマン一元論(※あるいみ建前的)」が
近代のインド哲学の中心的思想になってるのは確かであり、この説明は「あるいみで建前的」になるので、

基本的にやや不明瞭さがあるように思える。 そこにおそらく、カースト制からつながる?歴史と伝統、

あるいは ヒンドゥー教(※多神教)の宗教的事情をふくむ?伝統がある、とみるのが自然だろうと思う。

なお、ここで紹介してる覚者たちは、人間的にも非常に誠実であることはまちがいない。

つまり、「限定不二一元論」「ブラフマン一元論(幻影論)」の合流が、「アドヴァイタ哲学」といえる。

―― 不二一元論派の 根本的な論点は、個別性うんぬんでなく「梵我一如(完全)」であることはたしか。

(※参考: 前記「シャンカラいわく、ウパデーシャ・サーハスリー」、下記リンク ―― ジニャーナ観点みたいな趣旨

★ヴェーダーンタ学派の「不一不異説」(コトバンク) ★「不二一元論派」 ★「被限定者不二一元論」

<不二一元論派より> 不二一元論派がもっとも有力であるばかりか、現在もなおインドの知識階級の
もっとも代表的な思想を形成しており、伝統的な学者の80%はこの派に属しているといわれ、――。

★「 Wikipedia(不二一元論)」 ★「 Wikipedia(六派哲学 ‐ ヴェーダ系)」 ★ざっくりインド哲学

★(参考)「ラーマーヌジャ神学、ブラフマン(被限定者性)の三側面」
(※P160、特殊性によって限定されるブラフマン)

「私はブラフマンを直接経験した」と言う場合、その対象をブラフマンだと認識した何かしらの判断要素が
あるはずである。その判断要素こそ、ブラフマンとブラフマンならざるものを区別する特殊性に他ならない

(※P171、ウパニシャッドで説かれる 有属性・無属性ブラフマン についての解釈)

(1)「属性がある」とは「吉祥な属性を有する」という意味である
(2)「属性がない」とは「放棄されるべき属性を欠いている」という意味である
(3)二種の文章は対象とする属性が異なっている
(4)従ってプラフマンは吉祥な属性を有し、放棄されるべき属性を持たない

※ウパニシャッドの解釈について、不二一元論派と異なる上のような説もある(微妙な観点のちがい?)。

★(参考)「シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド(※中期、BC300~BC200年頃)」より
個我(アートマン)と刺激する者(神)とを別々と考えて、そののち、彼(神)に嘉せられて 不死に到達する。
享受者(個我)・享受される対象(世界)・個我と世界を刺激する者(神)を考えて、全ては述べられた。

これは三態のブラフマン(宇宙の最高原理)である。

by ニサルガダッタ・マハラジ 《「意識に先立って」より》

意識が起こる前の原初の状態を描写することはできず、人はただそれであることができるだけだ。 P279

あなたが「私は在る」というこのアイデンティティをもって、自分自身を絶対から切り離すとき、あなた
は分割され、孤独を感じる。だから、あなたの要求が始まるのだ。 絶対においては、何の必要もない。
ただ絶対だけが行き渡っている。(P31)

この「私」はそれぞれのレベルで異なってはいないことを理解しなさい。
絶対としての「私」は、顕現するときに形を必要とする。その同じ絶対の「私」が顕現した「私」となり、その顕現した「私」の中では、それはあらゆるものの源泉である意識だ。(P259)

~(解釈)「梵我一如(①を内包した②)」~

★by ニサルガダッタ・マハラジ 《「I AM THAT 私は在る」より》

≫ すべての聖典は、世界が存在する前に創造者が存在したと言っている。(※中略)

創造者以前に存在したのは、すべての世界とその創造物の源である、あなたの真我だけなのだ。(P225)

≫ 誰もが自分自身の世界をつくり出し、己の無知によって監禁され、そのなかで生きているのだ。
私たちのしなければならないことは、牢獄の実在性を否定することだけだ。(※中略)
死と誕生を観照し、しかもけっして生まれず死ぬこともない、その人とともにある、

ただ彼だけが創造の種子であり、最後に残るものなのだ。(P226)

≫ あなたがあなた自身を何か現実の実体のあるもののひとつとして、時間と空間のなかに実際に存在し、
短命で壊れやすいものだと想像するならば、当然、あなたは存続し、拡大していくことを切望するように
なるだろう。だが、あなたが時間と空間を超え、今ここの点においてのみ接触し、そうでなければすべて
に遍在し、すべてを抱擁する、到達不可能、難攻不落、不滅なるものだと知るとき、もはや恐れることは
何もなくなるのだ。 あるがままのあなたを知りなさい。(P504)

≫ 宇宙のなかには悟り、そして解放のために働いている力があるのだ。 私たちはそれを
サダー・シヴァと呼んでいる。 彼はすべての人のハートのなかにつねに存在している。(P481)

★ヤージュニャヴァルキヤは古代インド(BC700年頃)の哲人で、初期ウパニシャッドに登場。 いわく、

「この世界はすべてアートマンから生じており、それは唯一のものである。」
しかし、アートマンは純粋ないみでの認識の主体であるから、けして認識の対象にはならず、

観念化することも描写することも不可能であることを示し、
アートマンは、「ではない、ではない(ネーティ、ネーティ)」としか言いようのないことを説いた。

※初期ウパニシャッドでは、、宇宙の根本原理は「アートマン」だったり「ブラフマン」だったり、
またそれらは個人の原理でもあったり、この2つの言葉は混同して使われている(※下pdf)。
そのあとで、「アートマン = 個人原理」「ブラフマン = 宇宙原理」という定義が定着して、
「梵我一如」が説かれてきた感じ。 ★参考:「我一如とウパニシャッド(pdf)」

これは、ニサルガダッタの説明などが根拠になります。 以下は、「言葉の定義の問題」をふくむ。

当分野では実在をあらわすのに、前記の2概念のほかに以下の2概念が存在する。

「パラマートマン = 至高の真我・全体性に合一した真我(梵我一如の境地)・《 昇華アートマン的 》」
「パラブラフマン = 至高の実在・ユニシティ(均質性、全体性)・絶対根源・《 昇華ブラフマン的 》」

(※パラマートマンはヴェーダーンタ学派が言い出しっぺだが、ブラフマンとの関係など定義が曖昧?)

★「 Wikipedia(パラ・ブラフマン、英語版のため翻訳推奨)」

※「ニルグナ・ブラフマン(属性なし、非顕現ブラフマン、あるいは顕現を体験しない究極ブラフマン)」
「サグナ・ブラフマン(属性あり、顕現との関係において解釈・表現?されたブラフマン)」

のようにウパニシャッドで曖昧に説かれ、「ニルグナ・ブラフマン = パラブラフマン」 になってる感じ。
★「 Wikipedia(パラ・マートマン、英語版のため翻訳推奨)」

※このアドヴァイタの項目(説明)は、実質的に、「以下の解釈」を意味してる感じだろう。

ここで、「パラマートマン = ブラフマン(完全に同一)」 と考える(※仮定義)。
すると、前記① を再考したくなってくる。 つまり定例解説のように、幻想内の 身体との設定上の接続点、

という意味でのアートマンは、幻想外ではブラフマン(パラマートマン)と完全に同一、という解釈。

ここで、「一人一宇宙」(★参考:別ページ「唯識無境」)を考えてみてほしい(※本質は、人類一宇宙)。

これは通説・定説であり、ニサルガダッタの説明にもよくでてくるが(※世界はあなた自身のマインド)、

「唯識無境」で書いたところの、 万華鏡(=世界仮現原理「私は在る」)を覗いてるのがブラフマン

(※個別性ありの真我)で、これがアートマン(霊魂)と基本的に同一ということになる。 つまり、

個人が体験する世界は、その人に接続してる「ブラフマン(アートマン)」を基礎とした幻想である、と。

この場合は、「パラブラフマン」:「ブラフマン(パラマートマン、真我)」 の関係が、
一般的な梵我一如における 「梵・ブラフマン」:「我・アートマン」 の関係と同様になり、人間の本質は
「ブラフマン(仮想宇宙の根理)」まではワンネス? の個別性(=無限の真我)であり、
「パラブラフマン(絶対的根源)」において、真のワンネス(ユニシティ・絶対性)になってるといえる。

そしてそこに分離はないので、解脱すればパラブラフマンのワンネスが体現される、と。

「一人一宇宙」なら、、根理・ブラフマンも個別性をもつ、と考えるのは自然(妥当)だろう。 ただし、
ここでの 個別性(ブラフマン)は、「私は在る」において全宇宙を仮現するから、その意味では全体性。
映画でいえば、スクリーン表層がブラフマンで深層がパラブラフマン。 ブラフマンから映像があらわれる。
実際には、スクリーン自体がパラブラフマンでその表層部分がブラフマン、としたほうが適切だろう。
こう考えるなら、「世界は『非顕現の私』の反映・表現、全て一人芝居」いうニサルガダッタ流の表現も

納得できるし、あるいみ、完全な『梵我一如』」ということになる(内容的には ①を内包した②)。

―― ウパニシャッドの一部(※実質)やニサルガダッタの説明は、これを意味しているようなので、
当サイトでは基本的にこの解釈で説明します。

※ニサルガダッタは、「ブラフマン = 個別性」の表現はしてないが(※定義関係)、内容は完全にこれ。

「一人一宇宙(個別世界仮現原理)」 の観点で、「真我 = 宇宙原理(※実質ブラフマン)」

の意味で使っているのはあきらか。(★前記、ほかここに載せてる以外でも多くの説明)

(※ニサルガダッタはときにより観点を変えた表現するので、人類一宇宙の観点もあります)

ちなみに上のように考えたとき、「顕現側(仮相)と非顕現側(実相)は、相似形」 ともいえよう。

《顕現側》: ❶身体 ≫ ❷表層意識(※表面的) ≫ ❸宇宙意識界(※本質的 = 表層・深層、包括意識)
《非顕現側》: ❶霊魂(アートマン) ≫ ❷ブラフマン(真我、パラマートマン) ≫ ❸パラブラフマン(究極本質)

★「意識がそのなかで起こる宇宙意識は、
意識のエーテルと呼ばれる。」 by ニサルガ

※この例えでいうと、、
「フィルム = 阿頼耶識(集合意識に属する)」。
「フィルム & 写像の世界」 は、
「世界仮現原理(+真我・光源)」 により仮現。

別観点では、写像の世界は 人類共通・共有だが、
世界現象を可能にする基礎的要素が、真我 ほか。
「一人一宇宙」は、一観点・捉え方(★後記)。

※ここで言われてる「パラマートマン」は、上記の意味での「ブラフマン」と同義。

by ニサルガダッタ・マハラジ 《「意識に先立って」より》

▼質問者

パラマートマン(至高の自己)と ジーヴァートマン(個人の魂)の違いは何ですか?

▼マハラジ

あなたは部分という観点ではジーヴァ(個人の魂)を、全体としてはパラマートマンを考えるが、違いは
何もない。 それは肉体の中に限定されているときは一時性や、時間の単位、ジーヴァの様相を呈する。
寿命の終わりに、それはパラマートマンに融合する。

▼質問者
全体であるパラマートマンが、なぜ部分である肉体にそれ自身を制限するのでしょうか?
▼マハラジ
それにはどんな理由もない。それはただ起こるだけだ。

しかし、パラマートマンの中には存在への気づきがまったくなく、ただ気づきへの気づきがあるだけだ。

存在への気づきが現れるやいなや、二元性が現れ、顕現がやって来る。(P107~108)

★パラマートマン(至高の自己)が核なる真我であり、最高の真我だ。
そのアイデンティティにはどんな汚れもなく、空間よりも霊妙だ。(P64)

★一つの影が「なぜ?」を知りたがっているのだ。 一人芝居の中で一人の役者が演じる様々な登場人物の

一人が、「なぜ?」を知りたがっている。その答えとは、「なぜそうであってはいけないのか」となる
ことだろう。 実際はどんな質問もありえないのだ、「なぜ」も「なぜそうであってはいけないのか」も。

なぜなら、実際はどんな質問者もいず、ただ観念しかないからだ。 顕現は夢のようなものである。
なぜ夢は起こるのだろうか? 《「ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの」P73 》


◆究極的にいえば、「世界(心・体ふくむ)」とは集合意識から各表層意識(※統覚システム)に投影される
本質知覚イメージ(体験)であり、感覚器官が捉えてる(との設定で投影される)部分以外は現象として
は存在していない。 しかしもちろん、集合意識に「世界データ設定(共有)」が存在しているので、

「人類共通のこうした世界体験が、たしかに存在する」といえるが、、物質世界 は本質的には実在せず、
「世界、という意識体験」が現実である。※共同仮想現実、共有の仮想次元は存在する といえる)

解脱者においても、マインドレベル(知覚レベル)では、物質世界は普通にリアル的に?知覚される。

つまり、リアルに体験される時間と空間の仮想世界は、「意識(深層・表層)」に依存して存在 し、
世界仮現原理(意識)、という超ウルトラ神業的な幻想原理 をつかうことでアクセスできる仮の世界」
であり、世界は 霊的 なもので、 それは「非顕現の私(実在)」の低次元の表現・仮現 でもあるという。

リアル体験されるけど根本的に 仮想次元(領域)、という点では「マトリックス 的」といえよう。

「世界(対象)」「体験意識・知覚)」「体験者(心)」「気づき(意識への)」 の各要素について、
「体験」は「気づき」の副次的要素であり現実的(真実)だが、「世界(対象)」と「体験者(心)」は

「意識体験(気づき → 体験)」に含まれる幻想的な要素である。(★関連後述)  本当のところは、、

私たちは 「仮想意識(=リーラ、概念のセカイ)」 を観てるだけであり、誰も介入できず。(マチガイナイ)
(※もちろん、幻想視点を無視することは社会の中では不可)

※つまり、「諸法無我」ということ。 まぁそれは究極的な表現だけども、
物質パラダイムの「近代」が進行していくことの問題点は、その「ほんとうの真実(非二元)」
理解度が低いために、「二元性のちから(※ある種の、不調和・衝突)」が集合意識レベルで増大する。

仮想世界の 基礎(※あるいみ構成成分)は、意識(表面的に表層意識、本質的に宇宙意識)といえるが、
それも ハイリアリティ(根本基礎)の仮現。 真我を「意識」と表現する場合もある(※別次元意識)。
真我(非顕現意識)と顕現意識は表裏一体 なので、あまり区別しないで説く人もいる(※↓この2人)。

※「世界は知覚されたときのみ存在する、の理論」:「覚者たち(別ページ)」≫『ラマナ、ラメッシ』
※以上、関連:「★おかると物理学(量子論、ほか) ~ 2015年以降 仮想現実説は ほとんど証明済 ~」
「★唯識関連(阿頼耶識縁起、唯識無境、ほか)(❷参考:ページ下部『ニサルガダッタ、ラメッシ 語録』)」

世界は進行する様に進行し、物事は適時に起こるともいえるが、運命はほとんど偶然の産物ともいわれる。

一切縁起の観念のセカイにおける全事象は、不可避である。 二元パラ では、我われは危険な境地にある!

★「本来のあなたとしてのアイデンティティがあり、その上に個人が重ねられているのだ。」 by ニサルガ

★「人は幻想世界の本質を無視する。」 by ルパート・スパイラ(後記「覚者たちの言葉」)

★by ニサルガダッタ・マハラジ 《「I AM THAT 私は在る」より》

誰かが至高の実在と、それへの道について語らなければならないのだ。(P323、プルプル 震えながら)

あなたは世界に属するのではない。 あなたは世界の中にいるのでさえない。 世界は存在しない。
あなただけが在るのだ。あなたは想像の中で世界を夢のように創造している。 あなたがあなた自身を夢から
分離できないように、あなた自身から独立した外側の世界をもつこともできないのだ。 独立しているのは、

世界ではなくあなただ。あなた自身が創造した世界を恐れてはならない。 幸福と実在を夢のなかで探そう
とするのはやめなさい。そうすればあなたは目覚めるだろう。(P471)

《「I AM THAT 私は在る」P358、ほか》

▼質問者
私は何か絶対的真実からはじめなければなりません。そのような何かがあるでしょうか?
▼マハラジ
ある。それが「私は在る」という感覚だ。 それからはじめなさい。
▼質問者
それ以外の何も真実ではないのでしょうか?
▼マハラジ

ほかのすべては真実でもなければ、偽りでもない。それが現れると真実のように見え、否定されるとそれは消え去るのだ。 一時的なものは神秘的だ。

※これ(↑)は、後記「★釈迦いわく(有・無 と中道)」と同じようなことを言ってる。
▼質問者
私は実在は神秘的なのだと思っていました。
▼マハラジ

どうしてそうありえるだろう? 実在はシンプルで、オープンで、明らかで、優しく、美しく、そして
喜ばしいものだ。 それは矛盾からの完全な自由なのだ。 それはつねに新しく、つねに新鮮で、かぎりなく
創造的だ。 存在と非存在、生と死、すべての区別がそのなかで溶けあっている。

▼質問者
もしものごとの形が単なる現れでしかないなら、実際には、それらは何なのでしょうか?
▼マハラジ

実際には知覚だけがある。 知覚する者と知覚されるものは観念であり、知覚しているという事実が
現実のものだ。

▼質問者
絶対なるものはどこから来るのでしょうか?
▼マハラジ

絶対なるものは知覚の誕生する場所だ。 それが知覚を可能にするのだ。――

あなたのなかには分析もマインドも超えた存在の核心がある。 あなたはそれを行為のなかでだけ知ること
ができる。 日常生活のなかでそれを表現しなさい。 そうすれば、その光はつねに明るく光り輝くだろう。

=<ほか>=

すべてをあなたの存在の源である光から出現したものとして見なさい。 その光のなかに、

あなたは愛と無限のエネルギーを見いだすだろう。(P215)


◆まとめると、次のようになる。

◎ 人生は、鏡の国のアリス。 謎の幻想ショー。 高度なジョーク。 謎かけ挑戦状。

◎ 私たちはじっさいには、リーラを観てる側であり、それは観られる側すべての基礎である(仮現)。
「世界 =(自分の?)マインド」あるいみで一人一宇宙、、あるいみでは深層レベルは人類一宇宙」
人間が体験する現象は、、ベース的には、分配ふくめた仮自己の深層データの反映といえるが、
「多種プログラム群の力関係の、影響下」と考えられる。(※個人規模 ―― 人類規模・全体性の水準

※一人一宇宙について、参考:「パラダイムシフト」≫「昨今の世相について(★ニサルガダッタ語録)」
後記「覚者たちの言葉」≫「★ルパート・スパイラの動画(最初~4:41)」
一人一宇宙(人人唯識)は、「唯識」における伝統的な概念でもあります。(★別ページ参照)

※たぶん、「深層にいくほど よりミクロ次元」「ミクロ次元であるほど ★より本質的」(物理的に)。
現象世界を とことん精緻にみていくと マクロな世界の跡形は消えてくけど、「次元」が変わる(?)かも。
(★超ひも理論、別ページ掲載 ――「より本質的 = より基礎的」のいみだが、深層意識も幻想である

じっさいには、、あるいみで「一人一宇宙」、本質的には「人類一宇宙」、といえよう。
あるいは、「世界仮現原理が個別」という原理的ないみで「一人一宇宙」。(※唯識の観点と、同様
あるいは、「体験する世界が共通」という設定的ないみで「人類一宇宙」。(← Ⓐ)
どちらにせよ「宇宙(空間次元)」は仮象(幻想属性)なので、「★観点と表現しだい」ってことになる。
実際には「体験だけが現実」であることからも、「Ⓐが本質的な観点」といえよう。(※共同バーチャル
基礎的ないみでは、「一人一宇宙」が本質的な観点になるが、、いずれにしてもこの2観点はセット。

すなわち、「体験する世界は人類共通・共有だが、世界という現象を可能にする、基礎的な要素が個別」。
「一つの仮想次元(仮想システム)に、個別原理でアクセス」「統一仮想システム-原理、共同でみてる夢」。
「★世界は真我の仮現」も一種の観点的表現であり、「★真我を基礎とした仮象のため、そうもいえる」。
もちろん、すべてを包括する究極本質的ないみでの源泉(基礎)は、「一なる至高の実在(ハイリアリティ)」。

◎ リーラとは、「行為者が存在する、という設定」の神性劇であるため、社会(=幻想)の中には、
行為者が、つまり行為の責任が存在する・・(としか言いようがない)。

◎「個人的行為者、分離の物質世界」 の感覚は「幻想」であり、すべてのうごきは「縁起」していて、
すべては私たちの 絶対生命場、真の現実、源泉 である ハイリアリティ の仮のあらわれ(仮現)。

◆人類はこの先、こういうようなこと(非二元パラダイム)を、受け入れていくようになると思われる。
下の「覚者たちの言葉」で、物質主義では500年存続できないと言われているが、変化する運命だろう。

おそらく現文明は、今世紀が、霊性主義時代へと入っていく変動期(節目)になるだろう。

現在、自然界のエネルギーバランスが人類の変容を促すよう急速に変化してきている、ともいわれる。

物質文明の成熟期を迎えたいま、私たちは変化に適応するために準備していくべきではないだろうか?

「リーラ」について、ひとこと感想。
これは悲劇であり 喜劇でもあり、かんぜんに「本気」の、神秘的で美しく壮大・壮絶な、くそジョーク。
ひとつ確実にいえるのは、、根本的には人知はまったく及ばない(ぶっ飛んでいる)。
仮想システム自体が、「無知・錯誤」の上に成立してる ようなもので(★しかし確実にゲーム性あり)、
ほどなくして人類は、この「途方もないゲーム」を理解していくようになるだろう(★ニサルガ予言)。


※「覚者たちの様ざまな教え(別ページ)」 と少し被ります。

ニサルガダッタ・マハラジ(近代の覚者のなかでも前衛的な巨匠。最強クラスの賢者)

《以下、「意識に先立って」》

★私は意識とその意識の中に起こることは何であれ、巨大な詐欺にすぎないという結論に至った。

この詐欺を犯している人は誰もいない。それは自然発生的な出来事だ。この詐欺の犯人は誰もいない。P228

★私は完全に肉体と肉体内部の意識から離れている。

それにもかかわらず、この病気のせいで、肉体の耐え難い苦痛が意識を通じて経験されている。(P132)

《以下、「I AM THAT 私は在る」》

★[問い]私にはあまりにも多くのなすべきことがあり、マインドを静かに保つだけの余裕がありません。

それはあなたが行為者だという幻想によるのだ。

実際には、ものごとはあなたに対してなされるのであってあなたによってなされるのではない。(P499)

★マインドと世界はひとつだ。 あなたが世界として考えているものは、あなた自身のマインドなのだという

ことを理解しなさい。(P521)(※共同仮想現実)

★[問い]あなたの国の人々は「カルマや因果応報」という言葉を使います。

それはただ総体として真実に近いというだけだ。 実際には、私たちは互いの創造者と創造物であり、

互いの重荷の原因であり、互いの重荷の重さに耐えているのだ。(P434)

★私たちは知らずに罪を犯し、理解することなく苦しむのだ。
私たちの唯一の希望は、止まって、見て、理解し、記憶の罠から抜けだすことだ。
なぜなら記憶が想像をあおりたて、想像が欲望と恐れをひき起こすからだ。(P434)

《以下、「ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの」P164~165 》

★しかし、それは意図的な普通の映画ではない。 もしあなたがすべてをそのあるがままに明確に見るなら、

それはひどい喜劇、本当のドタバタ喜劇である。 (※中略)これ以上滑稽なことがあるだろうか?

私は自分のグルの恩寵によって自分の本質を理解し、また途方もない悪ふざけが私におこなわれていた こと

にも気づいたのだ。(※詳細:「覚者たち(別ページ)」≫「★ニサルガダッタ(最下部)」

あなたには何の間違いもない。 ただ、あなたのあなた自身に関する考えは、まったくの間違いだ。

欲望をもち、恐れ、苦しむのはあなたではなく、環境と影響によってあなたの身体に築かれた
個人なのだ。 あなたは個人ではない。 これがあなたのマインドのなかで明確に確立されるべき、
けっして見失ってはならないものだ。(P442、I AM THAT)

そこから踏み出し、外側から見てみなさい。―― ついにあなたは平和になるのだ。(P408)

★「ニサルガダッタ・マハラジの貴重な動画!」(※「字幕日本語」クリック)

ラメッシ・バルセカール(上のマハラジの弟子。インド銀行・元CEO最高経営責任者)

★思考は外側からあなたの脳に入って来るのです。 あなたはあるときはAの道を選び、あるときはBの道を

選ぶのです。 なぜなら、そのとき思考がやって来て、その選択をするからです。 あなたは思考を意図する

ことはできません。 何であれ起こることになっていることが、起こるのです。(P560)

★存在するすべては意識です。 あなたと私はこの空間に投影されている単なる対象物にすぎません。

空間と時間は単なる観念、対象物が拡大されるためのメカニズムにすぎません。 三次元対象物が
拡大されるためには、空間が必要です。そして、その対象物が観察されるためには、時間が必要です。

その対象物が観察されないかぎり、それは存在しません。 ですから、空間と時間は単なる観念で、

ある現象が起こり、観察されるために創造されたメカニズムにすぎません。(P92)《「意識は語る」より》

★現象とそのすべての機能は、現実であるとともに非現実です。 それはちょうど、影が太陽のあるところ

では現実であるけれど、家の中に入れば存在しなくなるのと同じことです。(※中略)(※解脱しても)

それゆえあなたは、現象と、現象の中での苦痛を避けることができません 《「誰がかまうもんか」P291 》

ラマナ・マハルシ(アドヴァイタ界・最強クラスの賢者。孤高の隠者)

★ラジオは歌い、そして話をする。 だがもしそれを解体したなら、

中には誰もいないことを見いだすだろう。 同じように、私の存在は空のごとく、身体はラジオのように

話すけれども、そこには誰も行為する人がいないのである。《「あるがままに」P70 より》

★真実のあなたは霊性です。 しかしこの霊性は誤って自身を身体と同一視しています。

身体は心によって投影されたものです。 心そのものは霊性から生まれました。

それゆえ、誤った自己同一視が終焉すれば、言葉で言い表せない永遠の至福と平和が訪れるのです。

★[問い]生命は身体に属し、転生とは別の身体に生まれ変わることを意味しています。

単に身体を変えるだけでは意味はありません。 この身体に結びついている自我が、

別の身体に移し替えられるのです。 《以上、「ラマナ・マハルシとの対話 第2巻」P124 より》

ルパート・スパイラ

「私は何ものかである」という信念や感情は、無知、つまり、体験の真の性質を無視することを前提と

して生まれます。これは ①架空の立場 です。(※自我の視点)

私たちは何ものでもない、つまり物事ではなく、開かれていて、空で、輝く気づきの現存であると

知っている立場は、②叡智と啓示の立場 です。(※観照者の視点? に近い)

そして私たちこそが、目に見えるすべての物事の要素、心、体、世界のすべてのあらわれの要素であると

知っている立場は、③愛、純粋な親密さの立場 であり、ここにおいては内側の自己も、

外側の対象物、他者、世界も存在しません。(※唯識無境の視点? に近い)

私たちにはこの三つ、「私は何ものかである」、「私は何ものでもない」、「私はすべてである」

という三つの選択肢しかありません。 そして、あらゆる瞬間、私たちは選びたい立場を選ぶことができ
ます。 選択次第で、私たちの体験は、選んだ立場を反映するようになります。

体験は、私たちの立場を裏づけるのです。 《以上、「プレゼンス」P267~268 より》

※以上、参考(関連): 上の「★ニサルガダッタの動画Ⓐ(11:36~)」

★「死、そして肉体は物質であるという考え」(※良動画! ここでは「思考 = マインド」)

(8:20~)物質というもので作られた肉体と呼ばれる独立・分離した物体は存在しないのです。――

それは決して物質と呼ばれるもので出来ていません。 それは意識の中に現れるイメージにすぎない。

言い換えれば、肉体と呼ばれるものは消えてもその真の現実は消えません。

黄檗宗の教えはそのことを言っています。「人は幻想世界の本質を無視する」

私達の経験は幻想ではなく現実ですが、世界が物質と呼ばれるもので出来ているという信念は幻想です。

そして私達は意識という経験の本質を無視し、代わりに物質という幻想を信じているのです。

もし人類が500年後に続いていなければ、それは物質主義の勝利を意味します。

人類は物質主義パラダイムでは生き残れません。 自らを破壊してしまいます。それが定めなのです。

そう、今まさにそれを目の当たりにしていますね。

「バガヴァッド・ギーター」([訳]上村 勝彦、[出]岩波書店)

諸行為はすべて、プラクリティ(根本原質)の要素(グナ)によりなされる。

我執(自我意識)に惑わされた者は、「私が行為者である」と考える。
しかし勇士よ、要素と行為が自己と無関係であるという真理を知る者は、諸要素が諸要素に対して
働くと考えて、執着しない。(P47)

◎「霊性は開かれていると同時に、謎でもある」 by ニサルガダッタ

◎「偉大なマーヤ(幻影)の原理のせいで、人びとは彼女のすべての悪巧みをおこなう」 by ニサルガ

◎ 永遠なる パラブラフマン(至高の実在)と、永遠なる パラマートマン(至高の真我)のなかで、

世界仮現原理(時間・空間)が仮現して、神秘的な劇が進行している。


真我探求のリアリティ

★私は解脱者ではありません。 覚者たちの教え(本など)と、探求関連の経験を元にして書いています。
ここで書いてることが正しいとはかぎらないです。

◎「仏に逢うては仏を殺し 祖に逢うては祖を殺す」 by 臨済

◎「人は、これが自分自身だと信じるものになる。 だから、人になるな。」 by ニサルガダッタ

●「人生とは探求なのだ。 探求するほかないのだ。」 by ニサルガダッタ・マハラジ

◎ 幼児はそれ自身を『主体』である『自分』としてではなく、『対象物』のように扱うことがある。

◎「自己」=「ハイリアリティ」、「身体・心」=「非自己(幻想)」。 これ & 浄化 。。

《 ニサルガ説明(要約)》 幼児が自己存在に気づき始めるとき(1~2歳?)の自己が「私は在る(知識)」
で、幼少期は肉体同化が弱いため上記のような現象がみられる。 それ以前は「無知」の状態(※睡眠時も)。
絶対(原初の状態)は、「知識・無知(ともに意識の領域)」を超えている。
意識(≒知識)がマインドを認識するが、マインドは意識を認識できない。 人びとは眠りに支配されている。
マインド以前に意識の原理(=私は在る)があるが、それ以前に意識を知る最初の原理(=絶対)がある。
「意識内容に関わらず、意識には変化がない。 ただこの意識の中であらゆることが起こる。」 という事実に
意識レベルで気づこうとすることが霊的修練。 要求されるのは、直感的な識別感覚。(だそうです)


◆人生の本質は、「私」の正体を見きわめる謎解きゲーム。 すなわち、、
「 源泉にもどれ! そうすれば、『自己』はずっと源泉だったことに気づく。 なぜならほんとうは、
源泉にもどろうとする動き(真我探求)は、源泉(真我)がみてる夢のなかみだから。」
みたいな神秘的なジョーク、挑戦状。(※源泉は非個人的、マインドから直接認識はできない)

※参考: 後記「サーンキヤ哲学」、
「覚者たち(別ページ)」≫「★もしその状態に到達したら?(※ニサルガダッタ、『世界仮現原理』の下)」 など

この悪ふざけのようなジョーク(意識の戯れ)について、アドヴァイタ哲学では、

「自然発生・自発的な(← 諸説・諸表現あり)リーラ(神性戯れ)」 といわれている。

これは解脱者でも「究極の決定的理由」は分からないようだが、おそらくマハラジ氏(下記)

が言ってるように、非顕現領域にこの幻想が起こる タネ(微細な不調和)のようなものが、

自然発生的に、あるいは何らかの事情で発生して、一時的局面として起こっていると思われる。
なお、この部分は解脱者(悟った人)でも捉えかたや表現が人それぞれ変わってくる(下記)。

※関連:↓(別ページ、厳密な理由は不明)

★人類の運命 & このジョークが起こる理由、リーラについて
★グノーシス主義について

★by 釈迦 《 中部経典63(毒矢のたとえ)》

あるとき、人が毒矢に射られたとする。 ところがもしもその人が、かけつけてくれた医者に対して、
「この矢を射たのは一体だれか、弓はどのようなものか、弦は何でできているのか、
矢羽はどんな鳥の羽か、それが分からないうちは矢を抜くな。」 と言ったなら、その人はそれが
分かる前に死んでしまうであろう。 必要なのは、まず毒矢を抜き、応急の手当てをすることである。

by ニサルガダッタ・マハラジ

▼質問者
なぜ私はこの形をとったのでしょうか?
▼マハラジ

それはあなたが愚かだったからだ。 もしあなたがそれについて何か知っていたとしたら、

あなたはこの世に生まれ出て来なかったことだろう。 《「意識に先立って」P79 》

私の真実で全体である均質的な状態に、ほんの小さいさざ波が現れ、「私は在る」というニュースが
やってきた。 そのニュースのせいですべてが変わってしまい、私はこれを知り始めた。

── 非顕現としての私の存在から、この顕現の状態が出て来た。 その均質性は属性の活動やマインドの
投影を理解しているが、属性の活動やマインドの投影は均質性を理解することはできない。

それがそれを理解しようとするとき、それはそれと一つになる。 《「意識に先立って」P26~27 》

https://www.youtube.com/watch?v=A8mMYTZGFuw(※「字幕日本語」クリック、16:20~)

―― 厳密な意味での巨大な知性を持った創造者は存在しない。
この意識の戯れすべては 「自発的、自然」 に続いていく。 その背後には知性は存在しない。

幻想の源を探求することによって、この幻想とは何であるか見つけようとしなさい。

by ラメッシ・バルセカール

▼質問者
私たちは、神の意志を理解しようとすることができないのですか?
▼ラメッシ

―― 私たちの知能は非常に限定されていて、知性も非常に限定されています。
それに対して、神の知性は永遠です。 ですから、非常に限定的にしか理解できない私たちが、どうやって
神の意志を理解できるというのでしょうか? 私たちにはできないのです。

▼質問者
誰もできないのですか?
▼ラメッシ
誰もできません。なぜなら、あらゆる人は、単に源泉の反映である現象全体のわずかな部分にしかすぎない
からです。あなたにできることはただ、あなたが少し前に言ったように、ものごとをあるがままに受け入れ
ることだけです。 まさにそういうことです! 《「誰がかまうもんか」第三章 ≫ 運命 P78 》

◆我われ人間というのは幸せを探すものだが、幻想のなかの幸せは、時間によって失われるときがくる。
ゆえに、これについての唯一の根本的解決は、、時間空間を超えた絶対的な真我を実現することである。

そして輪廻転生をつづけても、ハイリアリティに自我を明け渡してそれに目覚める(=輪廻卒業)とき
がすべての真我にくる(※元もと ソレ だから当然だが)。 とりあえず今生で良縁をつくることを目指す。
(※いろいろやってみた時期もあるが、周知のとおり真我実現は基本的に高難度である・・)

◆しかしながら、ここに パラドックス があることに留意しておきたい。
すべての人の「自己(アイデンティティ)」は、実際には真我なのだが、幻想側の深層意識に
自我(の種子)を真我(自己)であると誤認して執着する 誤認プログラムがあり、それが表層意識に
自我の催眠として現れて、輪廻の原因(=無知)になっていると考えられる。(※「唯識」の説、後記)

ゆえに仏教は、「諸法無我」=「現れた心の世界に我(原義は 真我・自己)は存在しない」 と説く。

すなわち基本的に、真我探求とは直接的に真我を探すという感じではなく、「身体・心」や
催眠の中に現れた「仮設行為者(自我)」をいつわり(非自己)、とみなして執着を解いていくことで、
自我催眠(=自我システムへの 真我・自己 の同化 )の解除を目指すプロセスをいみする。

最後は「私」が消滅していく(or落ちる)感覚や、恐怖・苦痛を伴う ケース もある(深層意識の関係?)。

◆「『私は在る』の純粋な存在感覚に焦点を合わせる」、というアプローチもある。(by ニサルガ)
つまり、「私は何かだ(意識の対象部)」を拒否した「私(=存在感覚、想念)」に焦点を合わせ続け、
洞察と理解をとおして最後に「私は在る(=幻想側の存在性の原理)」から解脱する、ということで、

前出とは表現が異なるが本質的には同じこと。(★別ページ参照) つぎのようにも言えるだろう。

解脱してない人は、、自己存在の中核は真我のアイデンティティであるが、それが自我の要素と結合して

自我催眠状態にあるので、注意が必要とされる。  一般的にいえば、真我探求の過程において、

あるいは何らかの原因やながれで、観照意識があらわれる(自覚される)ことがある。
観照意識に安定できるようになれば解脱まで自動的に進行する、ともいわれる。

心を純化すれば「私は在る = 観照者」になるが、、それがつねに「現在の瞬間」であり、真我との接点
でもあり、そこから「時間が流れてる、という設定」の仮想世界が生じている、といわれる。

観照意識、存在に安定する、などいくつかの類似の説明があるが、実際はスパッと解脱する場合もある。

以上より、「仏教(諸法無我)」と「真我探求」は、表現が数種あるだけで本質的には同じ、といえる。

◆すべては神(or 真我)の計らいとみなして、 信頼のもとに、自我(というか存在性への執着)を
明け渡していく(※まぁ状況にもよるが、理想は柳)、は「バクティ(明け渡しの道)」的表現である。
◆すべての意識の対象(身体・心)は、私ではない、 として探求(生活・瞑想)し、催眠解除を目指す
のは、「ジニャーナ(智慧の道)」とよばれる。(※基本的な真我探求、元祖的仏教など)

この区別は便宜上のもので、本質的には近似する。 「バクティ」は対象をきめ、信頼・献身・帰依
土台とし対象への自己放棄。「ジニャーナ」は 自己洞察 を通しての自己放棄。 人それぞれ適性あり。
「ジニャーナ」もある種の「バクティ」であり、真我探求においては明確には分かれない。
「ジニャーナ = 実在視点」「バクティ = 幻想視点」 と解釈するのも、アリ かもしれない(※混合)。
実際のところ、バクティ的に ハート を表現していくことは大切かもしれない(※まぁ自然な流れで)。

◆縁起の観点からは、こう言えるかも。 かりに、真我(or 至高の実在)に意思のようなものがある、
とした場合に、真我がやって欲しそうなことをやれば真我の方向にみちびかれる可能性がある、と。
◆ニサルガいわく、「彼があなたにしてもらいたい事は単に、自己洞察、自己制御、自己放棄だけだ。」
「『私とは何か?』以外のすべての質問を捨てなさい」「夢の中で、これは夢だと確信することが大切」

◆たとえば「これは夢だ」いう確信の下に、まるで 自我がナイ かのような、よい意味で人間っぽくない
行動(できれば心も伴う)を一度でもすれば、それを証するような 関連した体験 があとになって起こる
ことがある(直感に何か送られてくる)。理解によって、縁起が感覚的に分かるようにもなる人もいる。

※人類が 非二元パラ に移行すれば、非二元系データ(因縁)が集合意識内を循環する(物質は クソ の塊)。

◆心は出来事をあるていど受け取っても、「心との距離(源泉)」を意識する。
または、「『私は在る』は、心に影響されない」ってことを意識する。 私はその人間ではない、と。
◆どんなアプローチであっても、基本的には「心の静寂」が重要視されている。

《「I AM THAT 私は在る」P189、ほか》

▼マハラジ
もし言葉が欲しいなら、太古の力をもつ言葉をあなたに授けよう。どれでもいい。絶え間なく繰り返して
みるがいい。それらは驚きをもたらすだろう。
==
▼質問者
その手段の有効性のために信仰は必要ないのでしょうか?
▼マハラジ
結果への期待でしかない信仰ならば、まったく必要はない。

ここでは行動が大事なのだ。 何であれ、あなたが真実のためにすることは、あなたを真実へと連れていく
だろう。 ただ、正直に、誠実でありなさい。 どのような形を取るかは問題ではない。

==
▼質問者
信じられません! 絶望間際の、退屈で単調な復唱が効果的でありうるのでしょうか?
▼マハラジ

繰り返しているという事実そのもの、退屈と絶望、そしてまったくの確信の欠如にも関わらず、
忍耐と粘り強さをもって闘いつづけていることが、実に決定的なことなのだ。
やり方自体が重要なのではない。 その背後にある真剣さがもっとも重大なのだ。

※仏教の「塵を払わん、垢を除かん」の話にも通じます。

=<ほか>=

あなた自身を人生の舞台の上で芝居を演じているかのように見なさい。
演技は見事なもの、あるいは不器用なものかもしれない。 だが、あなたはそのなかにいない。
あなたはただ、それを見守るだけだ。 もちろん、興味と共感をもって。
しかし、あなたは演技しながら続いていくこの芝居 ―― 人生をただ見ているだけだということを、
つねにマインドにとどめているのだ。(P466)

「自己はすでに『解脱の側(観てる側)』にいる」 ということを覚えておく、が要点ともいわれる。

(※私はほんとうは探求者ではない) 10数年前に、流れで一時的に割とはっきり観照状態になった
んだが、その直後に諸事情により長い トンネル に突入したもので・・(まぁそこにつながる ストーリー がある)

アプローチは人それぞれだが、深層データ(解脱の方向性をもつ因縁)は必要ともいわれる。

心を浄化しつつ 幻想を「幻想(非自己 & 自己の仮現)」と意識することが基本となるが、「幻想視点」
で特定の修練をする場合でも、、何もしてない「実在視点(=私)」を意識したいところであり、

これは探求における パラドックス ではある。。

真我探求とは、冗談であると同時に、「自己存在性の完全放棄を伴う神聖な祈り」に向かう道でもある。

★「悟りの体験と分析(他サイト)」  ★D・ハーディングが開発した自己探求の方法(頭がない方法)

《 THE 真我探求 》 心を浄化しながら ①や②、瞑想、などが基本的なアプローチ。

もちろん、真我探求とは「生き方」でもある。 「誰も行為者ではない」の日常的な注意は有効と思う。

by ニサルガダッタ・マハラジ(「意識に先立って」P117~118 より)
退却するということはただ内側へ入ることを意味するが、あなたの通常の傾向は五感を通して外の世界を見ることだ。今、それを逆向きにしなさい。私はこの肉体ではない、このマインドではない、この感覚ではない。
そうすれば、あなたは意識に安定する。意識に安定したあとは、それ以後のことはすべて自動的に起こることだろう。 あなたは顕現へと拡大するのだ。「私は在るという性質」がやって来る前の原初の状態で、

私は存在していたし、存在しているし、存在することだろう。

※↑ 智慧の道(ジニャーナ・ヨーガ)。 「私は在るという性質 = 意識」。

by ニサルガダッタ・マハラジ(「I AM THAT 私は在る」より)[以下同]

気づくことは目覚めることだ。気づかないことは眠っていることだ。いずれにせよ、あなたは気づいている。

そうあろうと試みる必要はない。 あなたに必要なのは、気づいていることに気づくことだ。
意図的に、そして意識的に気づいていなさい。 気づきの領域を広げ、そして深めなさい。(P238)

あなたはつねにマインドを意識している。 だが、あなた自身が意識していることに気づいてはいないのだ。

「これは私ではない。私は誰か?」が自己探求の動きなのだ。 解放へのほかの手段というものはない。

すべての手段は延期を意味するのだ。 あなたではないものを断固として拒絶しなさい。

真の自己が荘厳なる無のなかに現れるまで。 それは「何ものでもないもの」だ。(P545)

あなたはつねに不生不死であり、「体験者を超えている」ということを覚えておきなさい。

それを覚えていることで、純粋な知識の質である、無条件の気づきの光が出現するだろう。(P208)

もし私を信頼するなら、あなたは意識とその無限の内容物を照らす純粋な気づきだ、
と私が言うのを信じなさい。それを自覚し、それにしたがって生きなさい。 もし私を信じることができない

ならば、そのときは内側に入り「私は誰か?」と尋ねるがいい。 あるいは純粋で純然な存在である、
「私は在る」という感覚にあなたの気づきの焦点を合わせなさい。(P47)

意識の内容が好き嫌いなしに見られたとき、その意識が気づきなのだ。
だが、意識のなかに反映された気づきと、意識を超えた純粋な気づきとには違いがある。反映された気づき、

「私は気づいている」という感覚は観照者だ。一方、純粋な気づきは実在の本質なのだ。(P456)
観照者意識はマインドのなかの実在の反映だ。実在はその彼方にある。観照者とは、それを超えて彼方へと
通りぬけていくための扉なのだ。(P72)

あなたはあなた自身を動と見て、不動を見落としたのだ。 マインドを裏表にひっくり返しなさい。
動を無視しなさい。 そうすれば、あなたはあなた自身を常在で不変の実在、言語を絶する、しかし岩のように

確固たるものとして見いだすだろう。(P179) マインドが静かなとき、それは実在を反映する。(P503)

https://www.youtube.com/watch?v=A8mMYTZGFuw(※「字幕日本語」クリック、3:23~)
★マハラジの所に訪れた探求者達は、どのようにすればこの「気づき」に達することが出来るのか、
非常に知りたがりました。 「あなたは何かを探すときどのようにするのかね? あなたのマインドとハートを探すものに対して向け続けることだ。 関心を持たなければならない。そして、絶えず思い起こしなさい。

思い起こされる必要があるものは忘れずにいるのが成功の秘訣だ。」


~ 心と深層意識のカラクリ、そしてハイリアリティ ~

◆人間の深層意識は、大まかに次のようになっている。 「表層意識 → 潜在意識 → 集合意識」

唯識(下の方に画像あり)でいう「阿頼耶識(アラヤシキ)」は、おそよ「集合意識の一部」を意味している。
そこに、仮想世界を顕現するための、すべてのデータがある。

◆人間の知覚作用は、「感覚器官が捉えてる、との設定」 で阿頼耶識から表層意識に投影されるもので、
知覚の対象となるものは、そこのデータによって形成された(投影された)ものに限定される。

「ハイリアリティ(実在・真我)」 は形成されたものではなく、すべてがそこから仮現する源泉であり、
「時間・空間・すべての観念や概念」を超えていて、、心のシステムでは捉えられず、論理が通用せず、

言葉で直接表現(描写)することはできない、ただそれであることができるだけ、とされている。

これは、コンピュータがプログラム以外を解釈できないのと同様。
言語表現に関しては、「生まれつき盲目の人に色の描写を試みること」にも例えられる(※誤解を生む)。

あえて表現する場合、「仮相属性なし、原初状態、最上の究極、、静寂、完全、絶対、無限、神聖、永遠、
現実(リアル)、あるいは 天の御国」 などの表現がいちおう使われる。

★参考: 後記「釈迦いわく(出離)」(涅槃ニルヴァーナの説明)

★参考:「覚者たち(別ページ)」≫「ニサルガダッタ」≫「至高の実在 ―― 真我・霊魂(の関係)」
★参考:「覚者たち(別ページ)」≫「グノーシス主義」≫「至高の神について」

※「顕現は相対性であり観念(概念)の世界だけど、非顕現は絶対性だから観念化できない」といわれる。

「時間-永遠、空間-無限」 などももちろん相対性の枠組みの中なので、
非顕現を描写して「永遠・無限」などもつかわれるが、それは仮の表現 ってこと。 ニサルガ説明だと、

「永遠・無限(非顕現、仮表現)= 時間・空間(という概念・属性)がナイ、またはそれが通用しない」

「絶対性(非顕現)= 相対性の相互否定・分離しがたい本質的融合(絶対知の視点)」 みたいなこと。

マインド的には、「それは無では?」となるが、、こちら側(彼岸)には「実在性・完全性」がある、と。

直接知(境地の体現、マインド側での直感的理解)はあっても、観念化できないので直接表現はできず、
ということ。(※仮想システム内の一切が根本的に通用しない、みたいな・・)

もう一つの説明は、「真我はアイデンティティ(存在)そのものだから、言語化?できない」。

自己存在感覚は言語化というか誰もが知っているが、その「存在性」の原初(無垢)の状態、ということ。

★「『無限の空間と無限の時間』を思い描くことはできるかもしれないが、『空間と時間のまさに不在』
を思い描くことができるだろうか? それは不可能なのだ。――」

❶「目はそれ自身が見ているという行為自体を見ることができるだろうか?」

(※他所も考えると、この意味ぽい。→「目は、見られる対象のなかにそれ自身を見ることはできない」)

❷「水は喉の渇きを理解できるだろうか?」

by ニサルガダッタ(P150、指し示したもの) (※いわく、コレ の重要性が理解されたら、マインド ――)

<簡易解説>

❶「非顕現の真我(主体)= 目」「顕現 = 見られる対象」。 見られる側・顕現世界の思考のなかに、
真我はそれ自身を(または見ている行為を)見ることはできない(※両者の関係のこと、❷と類似)。
❷「顕現-非顕現」は、そのようなある種の相容れない関係(性質)、てこと(※根本的な次元相違)。

※あるいみで、顕現世界は真我が思い描いている対象(概念)であり、真我はそれ自身をその概念の中で
(対象、仮自己の思考として)思い描くことはできない、のようにも説明される(※上と同じ意味)。

by ニサルガダッタ・マハラジ 《「I AM THAT 私は在る」より》

★あなたが変化するものに飽き果てて、不変なるものを熱望するときだけ、マインドのレベルから
見たとき空や暗闇として描写できるものへと方向転換し、踏みこむ用意ができたのだ。(P454)

★実在とは無形の集合や無言の混沌ではない。 それは強力で、気づいていて、至福に満ちている。
それと比べれば、あなたの人生など太陽に対するロウソクのようなものだ。(P455)

《「意識に先立って」より》

★それは常に行き渡っているが、知ることを超えている。 その状態は説明することができないもので、
「それは在る」という言葉でさえその状態にはほど遠く、単なる示唆にすぎない。(P238)

★意識が起こる前の原初の状態を描写することはできず、人はただそれであることができるだけだ。P279

《「ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの」より》

★―― 現象的には正反対のものだと思われている時間と永遠性も、相対性の相互否定の中で、すなわち
全体、完全性(健全さ!)の中で再融合される。 真の視点とはこの根本的本質的融合である。(P175)

あなたが自分だと思っているものは経過、時間なのだ。 その一方、主体としてのあなたは時間がない存在
(※永遠)である。(P174) 私たちにとって意味があるのは、「現在」、今だけである。 なぜなら、
現在の存在とは永遠としての私たちだからだ。(P173) 偽者を偽者と見れば、残るものが真実である。

今、実存するものが消えるとき、今、不在のものが現れるのだ。 それくらい単純である。(P147)

個人的実存からただ存在それ自体へのある種の瞬間的調整がある。(P303)
―― もしあなたが実際の立場を見さえすれば、何という冗談かがわかることだろう!(P207)

◆たとえるなら、「阿頼耶識」は映写機であり、これが全自動で上映してる映画が
表層意識にあらわれる世界(または人生)、というようにいえる。 究極的には、人間の心・体のすべて

の動きはこの阿頼耶識が上映してる映像だが、それがカルマとして阿頼耶識に貯蔵され、未来のどこかで
上映されるであろう映像のタネとなるのである。 これを唯識では、「阿頼耶識縁起」という。

上映にあたっては集合的カルマの個人分配もけっこうあり、時間の中で貸しが清算される、といわれてる。
この映画では、全体性の水準でバランスをとりながら個々の動きが起こっている。
仏教ではこの映画自体を「苦」とみなし、上映の停止(=解脱・輪廻卒業)に向かう方法を説く。

しかしほんとうは、阿頼耶識(映写機)もスクリーン上の映像の一部(仮想プログラム)に過ぎない。。
(※参考:後記「唯識について」。 仏教やアドヴァイタと同様の見解)

スクリーン上に最初に現れる阿頼耶識が、全自動・縁起プログラム によりほかの映像(意識の内容)を

描きだしている。 心の世界・現象世界は、「一切皆空(すべて非実在)」ということになる。
そして、映像がそこから立ち現れるスクリーン(源泉)が「ハイリアリティ」であり、それが

認識力 現実性 において映像内の人間と接続する一点が、「霊魂」ということになる。

すなわちある意味においては、「ハイリアリティ(=真我、至高の実在)が映写機」ともいえるだろう。

※ここでは、世界仮現原理を省略。 ―― 参考: 別ページ「阿頼耶識縁起(別のたとえ)、唯識無境~」

by 釈迦 《「ダンマパダ(154節)」(最古層、小部経典)》

―― だが家屋の作り手よ、汝の正体は見られてしまった。 汝はもはや家屋を作ることはないであろう。

汝の梁はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。 心は形成作用をはなれて、妄執を滅ぼしつくした。

※「家屋の作り手」=「阿頼耶識」、「汝の梁はすべて折れ~」=「無明(自我の催眠)を解除したよ」

◆そしてこの阿頼耶識から、深層領域(潜在意識)の自我心である「末那識(マナシキ)」が現われる。

この識(=心)は人間が寝ても覚めても、深層でつねに「我、われ」と考える根源的な自我執着心である。

これが、阿頼耶識(=いわば宇宙の根源的ないのちの流れ)の一部?をみて、それを自己(真我)である

誤認して執着しつづけている。 唯識ではこの深層領域における誤認こそが、表層で起こるあらゆる
煩悩と、無明(自我の催眠)の、つまり輪廻転生の根本原因と考える。  ★末那識と阿頼耶識(他サイト)
(※以上、「瑜伽行唯識派」の説)

◆まとめると、、

私たちが体験する時間空間の現象世界は、「ハイリアリティ」を源泉(基礎)として仮現する幻想であり、

体験してる私たち自身も、ほんとうは(認識の主体、自己存在の中核・源泉は)、ハイリアリティ。

そこから現れる阿頼耶識(集合意識)が、各表層意識に、「世界(心体ふくむ)」という
本質知覚イメージ(体験)を投影して私たちはそれを体験するわけだが、自我の催眠下においては、
真の現実(自己)である ハイリアリティ に気づかなくなるために、「確固とした、分離の物質世界」
意識に依存せずに存在しているように感じられる幻想と、「個人的行為者」という幻想が発生する。
「時間・空間」も幻想属性(概念・投影メカニズム・ベース設定)だが、催眠下では実在するよう感じられる。

共有の仮想次元は存在する、といえよう(※共同バーチャル)。

つまり物質世界は実在せず、「世界、という意識体験」が現実であり、「世界=体験=体験者(心)」で、
「主客未分(絶対知・ワンネス)、行為者ナシ」の解脱の境地が真実ということになる。(★関連下記↓)


~ 探求の手がかり ~

※仮想世界(全顕現)は「ハイリアリティ」の仮現だが、、それが人間存在に直接的に投影する要素は、

「認識力(気づき、知性)」「現実性(リアル感、親密さ、存在感)」である。

※自分なりの解釈であり、適切でない部分もあるかもしれません。

◆~ 認識力(気づき、知性)への着目 ~

※参考: 別ページ「★唯識無境(統覚システムと自我の催眠)」

究極的(本質的)にいえば、、

人間の「認識作用(知覚)」は心(=幻想)の機能であり、「感覚器官が捉えてる、との設定」で深層から
統覚システム(表層意識)に投影されるもので、すなわち「すべては意識(認識)」ということになるが、

自我の催眠下では仮の自己(マインド)に成りきって、それを実感できなくなっている。

しかし、「認識力(知性)」は心にも深層意識にも属さない。 それは、真我(or 霊魂)に属している。

たとえば、月が自らの光で世界を見てるとする。 しかし、月の光はほんとうは太陽の光である。

ここでは、「月=心、太陽=真我」。

つまり、真我の「認識力(+アイデンティティ)」が深層経由で「身体(心)」に及ぶ(一体化する)
ことにより、私たちは「認識作用・知覚」という心の機能を使うことができる、と考えられる。

私たちが何かを見るとき、「見る者(心)」「見ること(認識)」「見られるもの(対象)」 という3つ

私の要素があるようにみえるが、、そのすべてを包括するもう1つの要素、「気づき(≒認識力)」がある。
つまり、「真我(気づき)」がつねに意識に気づいている。

つまり、私たちはほんとうは意識を観てる側であり、意識の全内容は観られてる側であり、(=実在視点)

心の機能である「見ること」は、真我の認識力が心(深層意識)に及んで成立している。(=幻想視点)
しかし、催眠下においては「真我(気づき)」の自覚がなく、自我(※マインド)に成りきっている。
究極的には意識に気づいてるのが真我だろうけど、意識レベルが観照者 です。 実際の探求においては、
観てる側を自覚することが要点で、「真我・意識」は深さの違い なので区別する必要はないかも。

上記3要素はすべて「気づき(真我)」の中の現れ だが、「見ること」は「気づき」の副次的要素であり、

現実的といえる。 つまり、3要素中では「見ること」だけが真実(現実的)であり、「見る者(心)」

と「見られるもの(対象)」は、「気づき → 見ること」にふくまれる幻想的な要素である。

すなわち、物質世界と人間(心体)は幻想であり、「意識体験(気づき → 体験)」が現実、ということ。
(=実在視点 & 幻想視点?)

物質世界は幻想だが、次元内視点(単独)ではリアルに存在する(体験される)、いう神業仮想システム。

ここでは「幻想視点」は、幻想側の要素を認めながら実在側に言及する視点で、
「実在視点」は完全に実在側の視点。 ある種のパラドックスのようなものは、避けれません。

なぜなら私たちが認識するすべて(人間ふくむ)は、「意識を基礎とした、仮象(※認識)」であるから。

統覚システム(意識・世界仮現原理)などに、「神業的トリック(超絶)」が存在していることはたしか。
ほか、仮想システムと 全体験を可能にしてる「真我の現実性 & 体験能力」も、超絶(人知を超えてる)。

たとえれば、、夢の中で登場人物に成りきっていろいろ体験したとしても、
本当のいみでの体験者は登場人物でなく夢見の側(真我)、というようなことであるが、
真我はその本質レベル においては体験の影響を受けず、体験は「意識-登場人物レベル」において起こる。

※「カタ・ウパニシャッド(中期 BC300年頃、第3章4節)」には、、(※古文献であり、参考)

「身体(感官・思考力)と結合したアートマンを、賢者たちは享受者とよぶ。
経験の主体は身体をもっているアートマンであり、純粋のアートマンそのものとは異なったものである。」

「リグ・ヴェーダ(BC1000年頃、I-164-20)」には、、(※別訳:分かちがたく結ばれた二羽の鳥~)
「二羽の翼も美わしき、契りを結べる伴侶ありて、ともに同一の樹を抱く。 ★「 Wikipedia(ツリーオブ~)」
その中の一羽は甘き果実をくらい、他の一羽はただ傍観するのみ」(ウパニシャッドからヨーガへ:平河出版社)

―― とあるが、、体験の真主体はアートマン、仮想体験能力はアートマンに側面的に具わるということ。
異なるレベルで関わる同一のアイデンティティ(※次元相違、仮想体験の仮主体は身体)。

分けていうと、、リグ・ヴェーダ歌では比喩的に、果実をたべる鳥が「アートマン(霊魂・身体同化)」、
傍観する鳥が「ブラフマン(真我、パラマートマン)」。 次元相違について補足すると、

アートマンそのものは実相次元だが、それが身体同化により仮相次元で機能している、と(=次元相違)。

解脱においては、自我システムへの同化が解除されるという点で「梵我一如の境地」なわけだが、
身体同化が一部のこるという点で、設定上は「アートマン(霊魂・身体同化)」は存在すると考えられる。

厳密にいえば「仮想体験の主体はアートマン」になるが、「体験だけがある」とも表現されるのは、

世界と身体は幻想であることと、解脱者にとって基本的に自己本質は真我であり、身体レベル は側面的ゆえ。

★霊魂を表す鳥(象徴)

西欧では、インドと同様に、鳥は(階級として)世界樹の枝にとまる。
『ウパニシャッド』では、烏が、2羽いる。「1羽は、木の果実を食べ、もう1羽は、食べずに見ている」。
活動的な個々の魂(ジーヴァートマ)と純粋認識である普遍精神(アートマ)のそれぞれのシンボルである。
実際、それらは別々ではない。そのため、時折、双頭の1羽の鳥の形で表現される。

★ただ、見ることだけが在る。 そのなかに見る者も、見られるものも含まれるのだ。

区別のないところに区別をつくり出してはならない。

《「I AM THAT 私は在る ‐ ニサルガダッタ・マハラジとの対話」P285 》

★必要なことは、分裂しているマインドである個人的マインドをもって見ることではなく、
全体的に見ることだ。 それは内側から見ることであり、源泉から見ることであり、一つの現象としての

顕現から見るのではなく、見ることすべての源泉から見ることだ。

そのとき、ただそのときだけ完全な認識と正しく見ることと、直観的な理解があることだろう。

《「ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの」P66 》

~ 書籍の紹介 ~

【 アイ・アム・ザット 私は在る ‐ ニサルガダッタ・マハラジとの対話 】

[編集]スダカール・S・ディクシット、[翻訳]モーリス・フリードマン
[翻訳]福間 巌、[出版]:ナチュラルスピリット

【 意識に先立って ‐ ニサルガダッタ・マハラジとの対話 】

[編集]ジーン・ダン、[翻訳]髙木 悠鼓
[出版]:ナチュラルスピリット

◆~ 現実性(リアル感、親密さ、存在感)への着目 ~

※これは的確な表現かどうかは不明だが、、関連書籍の内容を要約。

もうひとつ、「現実性」と書いたが、仮想世界であっても私たちはこの世界や仮の自己をリアルに感じる

ものだが、それは厳密には「現在」にだけ、感じるのではないだろうか?
過去のことは記憶としてのイメージがあるだけで、ほんとうのリアル感は記憶の中にはないだろう。
そしてその「リアル感(親密さ、存在感)」は、ハイリアリティ(真我)から現在に、心に投影される。
そして物質世界そのものは幻想だが、ハイリアリティの仮現でもある。 もしこの世界に感じる
リアル感に対して、親密さとともに、存在感(身体的意識)を身体から拡大してかさねることができれば、
それは拡大的な意識状態(=唯識無境?)であり、解脱の前段階(の一種?)と考えられる。

※別ページ(唯識)にあるとおり、「真の唯識無境」は解脱のことであり、

それ以前は基本的に「意識レベル」ということになるだろう。 したがって、ここで言ってる
「観照者 ――(準)唯識無境」 は、感覚上 あるいは表現上のちがいであり、実質的には同等ぽい。

つまり、人間が「現在」にだけ世界や自己に感じる「リアル感(現実性)」は、
「真の自己(真の生命)」に近いもの、といえるだろう(※「真我=リアル」といわれる、後記ラマナ)。

なお、「心に投影される」と書いたが、実在視点でいえば「心=世界」である。

※前記 「覚者たちの言葉」(戻る▲) で、ルパート・スパイラ氏 が言ってる、「叡智と啓示の立場」は

ここでの「認識力(気づき、知性)への着目」と同種、「愛、純粋な親密さの立場」はここでの

「リアル感(親密さ)への着目」と同種(同様の趣旨)、とみることができるだろう。


~「サーンキヤ哲学」について ~

(夏目漱石が感銘を受けて『草枕』を書いたという)

※参考:「 Wikipedia(サーンキヤ学派)」

◆サーンキヤ哲学は、BC7世紀頃?(諸説あり)のインドの聖仙 カピラ が開祖とされ(※やや伝説的)、
ヨーガにおける根本哲学とされてきた。 なお、「バガヴァッド・ギーター」では解脱の方法として、
「知識の実修(ジニャーナ)」「行為の実修(カルマ・ヨーガ)」「信愛の実修(バクティ)」 の三種の道が説かれる。

「知識の実修」は「サーンキヤの道」ともよばれ、形而上学的理解を土台にして解脱に向かう道である。

◆サーンキヤ哲学では、世界の根源として2つ原理を立てる(※基本的に二元論)。
すなわち、「精神原理のプルシャ(純粋精神)」「物質原理のプラクリティ(根本原質)」であり、
プルシャの観照を契機にプラクリティが世界を展開し、両者が合することが世界創造の根本、とする。
展開される世界(心体ふくむ)はプラクリティの化身、といった感じ。
プラクリティは知性(生命意識)を持たないが、知性であるプルシャ との結合によって、あたかも知性を
備えているかのようになり、マインドとして機能する。

◆「プルシャ」は、一般に「アートマン(真我・霊魂)」のこと。
「プラクリティ」は、世界とそのすべての動きを展開するので、「世界仮現原理」的なもの。

★「霊魂と物質がであったときにだけ、意識は生まれるのだ。」 by ニサルガダッタ(P498、I AM)

◆展開される世界が幻想とは、原典では直には言ってないが(※派生など)、後代のアドヴァイタ系では、
プラクリティはマーヤ(幻影)と同義に扱われている(※後記参照、非二元論的な解釈)。

まぁ 世界は、プラクリティが展開したりやめたりするので、原典でも「幻想」を意味しているとおもう。

サーンキヤ哲学は、下②を強調したジニャーナ的な体系、ということ。

アドヴァイタ系では、② または ①の直観的識別、が基本的なアプローチとなる。
初期仏教の釈迦の説明は、②の観点、つまりジニャーナ的なものが多い。(※後記参照)

①:「幻想(仮相)は実在(実相)の仮現、分離の物質世界は幻想である」(← アドヴァイタ的な説明)
②:「幻想(仮相)に属する人間要素(意識の対象)を、非自己とみる」(← ジニャーナ的アプローチ)

①と②は、観点(あるいは趣旨)の違いであり、本質的に矛盾はない。
しかしこの2観点により、説明が矛盾するようにみえる場合もある(※参考↓)。

※2つの観点での説明、例:「パラダイムシフト」≫「昨今の世相について(★ニサルガダッタ語録)」

基本的には、①の境地を体現するための方法が ②で、、①を直観的に識別しようとするアプローチは、

実質は ②と同様のこと。 ①は「行動の指針」のような趣旨でもつかわれる。

※参考動画(分かりやすい): 前記「覚者たちの言葉」≫「★ニサルガダッタの動画Ⓐ(11:36~)」

この動画の説明からいうと、解脱の境地というのは、、世界(幻想)の要素に束縛されない自由を基盤に、
世界は自己の仮現でもあること(※ワンネス)を体現してる境地。

「世界仮現原理(※仮想システム)」的なものは、、原理として「あるいみ非幻想」的にあるのでは?

―― とおもいます。 ニサルガ説明などからは、とりあえずそうみるのが自然かと(★マーヤの原理)。
アドヴァイタ哲学では「マーヤの原理」を独自には定義しないが、実際はそれを前提に説かれている感じ。

「原理的なものが、複数あるか否か」「現れる世界が、仮現(幻想)か否か」、の2点を混ぜて考えると、
「二元論・非二元論」定義がやや曖昧になる気もするが、基本的に「★マーヤ = 非二元論」である。
なお、「バガヴァッド・ギーター」では、クリシュナ(=至高神・実在)に属する高次のプラクリティと、

低次のプラクリティ(※非実在)があるとみなされる。 (★そういう、根本原理はあるとおもう)

◆サーンキヤ哲学における、人間の「絶対的な価値・幸福」は、プルシャが仮自己に完全に無関心となり
自己の内に 沈潜・立脚 すること(=独存、解脱)。(※真我探求・仏教などと同様)

◆「サーンキヤ・カーリカー(=現存最古文献、5世紀頃、詩節で構成)」(※解脱のところ、概要)

無意識の牛乳が子の成長のために活動するように、プラクリティはプルシャの解脱のために活動する。
プラクリティはプルシャによって見られると、世界を展開し、7つの様体にて自らを束縛する。

すると、プルシャはわれを忘れてプラクリティにのめり込む。(※ほんとうは観てるだけだが自覚なし)
すると、プラクリティは様ざまな方法をもって、「Ⓐ私とあなたは別のものよ」――
てことをプルシャに伝えようとする(=創造活動、Ⓑあるいみ高度だが無知性、基本的にマトモに非ず)。
グナ(要素)を有するプラクリティは有さないプルシャのために、様ざまな方法で無用なことも実行する。
結局的に、プラクリティは1つの様体にて自らの束縛を解く。 すると、プルシャは ハッ とわれに返る。

プラクリティは、プルシャに自らを示し終わると、

まるでステージ演目を終えた踊り子がダンスを終了するかのように、創造活動(ダンス)を終了する。
ダンスを終えたプラクリティを、プルシャは観客のようにくつろぎながら眺める(=解脱)。

なお、プラクリティが自らの束縛を解くために使う「1つの様体」とは、25原理の考察に習熟すること

により生じる、「私は~ではない」「~は私のものではない」「~の存在は私ではない」、などの

「清らかで純粋な、確信的真知」である。 そのように、じっさいはプルシャではなくプラクリティが、
束縛・輪廻・解脱、のダンスを踊っているのである(原典談)。(※Ⓐ:「プラクリティ = 人間要素」)
(※プルシャも私にのめり込んでるのは事実でしょ(プラクリティ 談))
Ⓐ:(正式に書くと・・)世人が焦慮をしずめるために行為するのと同様に、プラクリティもプルシャに

よって開展へと誘われる不安定を解消させようとして、プルシャの解脱のために活動する。

(※一切縁起システムは、ある意味ではつねに非顕現を指し示してるし、解脱促進プログラム も存在するが、

Ⓑ:二元パラダイムでは、全体的に二元ドラマが強調され、集合意識の関係で基本的に「解脱は至難」
★サーンキヤ・カーリカー、個人翻訳(他サイト)

◆「古典サーンキヤ体系概説」([訳]服部 正明)より (※「サーンキヤ・カーリカー」の邦訳書)

※「世界の名著1 ‐ バラモン教典 原始仏典([出]中央公論社)」 内の掲載から抜粋です。

★《「序論(冒頭部分)」P191 より》

人はこの世に生存しているかぎり三種の苦に悩まされるので、それを除去する方法を知りたいという

欲求が生ずる。 苦を除去する方法は、ことあらためて知ろうと思わなくとも経験的に知られているから、
その欲求は無意味であるという者があるならば、それは正しくない。
経験的に知られている方法は、確実には、また究極的には苦を除去しないからである。

<輪廻の様相>(P203~207)

[44節]輪廻の主体としての微細な有機体には、功徳によって傾向づけられることによって、向上して
よりよい境遇において肉体を得ることがあり、罪過によってより低い境遇への沈下がある。

原質と精神原理とを区別する知識によって解脱が、その反対の無知によって束縛があると考えられる。

[45節]離欲によって八種の質料因(原質・理性・自我意識・五種の素粒子)への没入がある。
こうしてしばらくのあいだ肉体を得ることを停止するが、解脱したわけではないから、時がたてば再び

肉体を得て、輪廻を続ける。
[55節]知性である精神原理は、微細な有機体が消滅しないで輪廻を続けるかぎり、
それ(創造された身体)に宿って、老・死を原因とする苦悩をうける。

<解脱>(P207~208)
[66節]一方(観客である精神原理)は、「わたしは舞踏をすでに見た」といって無関心になり、
他方(舞妓である原質)は、「わたしはすでに見てもらった」といって舞踏をやめる。

すでに精神原理の目的は達せられているので、両者が結合しても創造の動機は存在しない。

[67節]正しい知識を得ることによって、功徳などの七つの理性の状態がもはや輪廻の原因でなくなった
とき潜勢力によって、あたかも壷などができあがって、目的が達せられたのちにもしばらくは続く
轆轤の回転のように、しばらくのあいだ身体を維持し続ける。

[68節]精神原理が身体から分離されるにいたり、目的がはたされたので原質が活動を停止するとき、
精神原理は決定的でかつ究極的な独存(解脱)に達する。

[69節]万物の存続・発生・帰滅がそこにおいて考察される、この、精神原理の目的に関する知識

(サーンキヤ学説)は、最高の神仙であるカピラによって説かれた秘密である。

※「カタ・ウパニシャッド(中期 BC300年頃、第3章11節)」より。
「大きいもの」よりも「未開展のもの」が上位にあり、「未開展のもの」より精神原理(プルシャ)が

すぐれている。 精神原理にまさるものは何もない。それは頂点、それは最高の帰趣である。

◆「ラマナ・マハルシとの対話 第2巻」から抜粋

★プルシャは真我(アートマン)、知る者、体験者 とも呼ばれる不変不滅の純粋意識である。
プラクリティは知られるもの、体験されるもの、マーヤー(※幻影)、顕現とも呼ばれ、生命意識を持たない。
それは「サットヴァ、ラジャス、タマス」という3つの要素から成り立ち、それらの均衡が失われたとき
25の原理を派生して、そこから現象世界を展開してゆく。 純粋意識であるプルシャは自ら活動せず、
この展開をただ観照するだけである。(※3要素・グナは、サーンキヤ哲学が元祖)
この観照意識が純粋精神と根本原質の 偽りの結び付き を見破ったとき、プラクリティは現象世界の展開

をやめる。 こうして輪廻転生は断ち切られ、最終的に観照者であるプルシャだけが残る。(P249 訳注)

※プルシャがプラクリティから生じるグナを享受してる催眠状態がとければ、解脱。

★プルシャにはいかなる努力もできません。 努力をするのはジーヴァ(個我)です。
自我性が存在するかぎり、努力は欠かせません。 自我が消え去れば、行為は自動的なものになります。
自我は真我の存在の中で行為します。 真我なしに自我が存在することはできないのです。(P214)

★サットプルシャ(※真のプルシャ)はどこにいるのでしょうか? 彼は内側にいるのです。

そう言うと、彼はもう一つのタミル語の詩を引用した。(P206)
「ああ、師よ! あなたは私の過去すべての輪廻転生において、私の内におられました。
そして私に理解できる言葉で話しかけ、私を導くために、人間の姿で現れてくださったのです」

~ 書籍の紹介 ~

【 世界の名著1 ‐ バラモン教典 原始仏典 】

[編集]長尾 雅人、[出版]:中央公論社

【 ラマナ・マハルシとの対話 第2巻 】

[著]ムナガーラ・ヴェンカタラーマイア、[翻訳]福間 巌
[出版]:ナチュラルスピリット


~「 唯 識 」について ~

(日本では法相宗が継承)

「 Wikipedia(唯識)」 にちょっと面白い話があったので紹介

※別ページにて、「阿頼耶識縁起、唯識無境」などについて書いてます。

※参考動画:「唯識という教え」(皇室ゆかりの 臨済宗・慈受院住職による法話)

「唯識」は、瑜伽行唯識派ともよばれ、
4世紀のインドで瑜伽行(ヨーガ)のグループが、
深い瞑想と神通力により深層意識の構造を
明かして大成させた由緒ある大乗仏教の思想で、

信憑性は高く(※初期仏教とも整合性アリ)、
当サイト でもその概念を使用している。
第九識 は日本で他派が後づけしたので(略)。
なお、日本では法相宗(唯識宗)が継承してて、
大本山は薬師寺と興福寺(※戦前は法隆寺も)。

唯識では、世界とは各人の心(意識)の仮象と
その認識であり、実在ではない、とする。
(=唯識無境) 最終的には心も非実在とする。

唯識には「有相唯識派・無相唯識派」があり、
これは阿頼耶識の実在性を認めるか否かの違い。

当サイト では、「無相唯識派」と同じように、
「仮想世界(心の世界)は一切皆空であり、

真我のみが実在で、一切を観照する
認識の主体(知性)、一切諸法の基礎(現実)」

と考える(※仏教全般、近代覚者らも基本コレ)。
ちなみに、つぎのようなの表現(観点)もある。

★「世界が、全てにおいて非現実であるなら、
世界は現われないだろう。

しかし、世界は世界の基にあるもの、つまり

現実、との混同のためにまさに現われている。

by ラマナ・マハルシ(※下リンク 431節)

Sri Ramana Paravidyopanishad(pdf 英語)
★「虚妄分別(コトバンク)」

★巨人のダンジョン: FF4


◆このサイトの趣旨

★霊性主義、あるいは真我探求」そのものには、多くの哲学的知識は無用と思われます。
しかし霊性以前に、あるていど理屈で納得できないと興味が失せたり、意思が固まらない人もいるのでは
ないでしょうか。 ここでは主に、「★アンチ物質」「霊性時代へむかうささやかな ――」
という趣旨で、哲学的(というか形而上的)にあるていど追求しています。
もちろん真我探求の核心部分は、知性(マインド)とは相容れないものではあります。

※参考: 上記「悟りの体験と分析(他サイト)」≫「2. 臨済義玄の悟り」「3. 定上座の悟り」 など


仏教とハイリアリティ(実相、実在、真我、霊魂)

※別ページ「覚者たち」≫「仏教関連」 に、関連事項あり。

◆一般的に仏教では「霊魂」の存在を否定しがちだが、その 根本教理は「輪廻からの解脱」である。
この一見すると不可解な点について、少し掘り下げて考えてみたい。

結論からいうと、釈迦はアートマン(霊魂)の存在を否定してない、ということで間違いないと思う。
原始仏典では時おり肯定的に言及し、完全肯定もみられ↓。 「★自己探求」では、真我を探すというより
幻想を拒否するのが基本なので、「諸法無我」は完全に正しいが、なぜか初期のころから「解釈」が変。
そこには(※解釈関係)、「宗教的な事情、あるいはカースト制がらみの事情」 などがいわれているが、
「原始仏典は、アートマン関係で一部改ざんされてる」 とも一説にはいわれている(※後記リンク Ⓐ)。

「諸法無我・五蘊無我」というのは、「ジニャーナ・ヨーガ」の基本的なアプローチです(※後記)。

★《「ブッダの真理のことば、感興のことば(岩波文庫)」P250~251 より》
※「ウダーナヴァルガ(最古層、小部経典)」です。 これは確かに、釈迦の言葉だろう(あきらかに)。

[第27章 37節]
すがたを見る」ことは、すがたをさらに吟味して見ることとは異なっている。 ここに両者の異なって

いることが説かれる。 昼が夜と異なっているようなものである。 両者が合することは有り得ない。

※「すがたを見る」=「アートマンとして在る、自覚する(その立場から観る)」
「すがたをさらに吟味して見る」=「アートマンを、自己以外に(or マインド直接的に)さがす」

[第27章 38~39節]

もしもすがたをさらに吟味して見るのであるならば、単にすがたを見るということは無い。
またもしも単にすがたを見るのであるならば、すがたをさらに吟味して見るということは無い。
(※中略) 何があるときに、すがたをさらに吟味して見ることがあるのだろうか?
何が無いときに、すがたをさらに吟味して見ることが無いのであろうか?

[第27章 40~41節]

ここなる人が苦しみを見ないというのは、見ない人が(個人存在の諸要素の集合が)アートマンである、
と見ることなのである。 しかしすべてが苦しみであると明らかに見るときに、
ここなる人は「(何ものかが)アートマンである」ということを、つねにさらに吟味して見るのである。

無明に覆われて凡夫は、諸のつくり出されたものを苦しみであるとは見ないのであるが、
その無明があるが故に、すがたをさらに吟味して見るということが起こるのである。
この無明が消失したときには、すがたをさらに吟味して見るということも消滅するのである。

※「アートマン = 私・自己」、みたいなニュアンスで使われている(●当時の定義をあらわしてる)。

「すがた = アートマン」は明白なので、これは「★完全肯定」。

これ以外でも原始仏典では、アートマンの存在を当然の前提にしてるような箇所がいくつかみられるが、
読みかたや翻訳によっては、「アートマン自体の否定」のようにも取れてしまったりするのがミソ。

※「無明」=「根本無知(≒ 自我の催眠、真理についての無知、私は人間だという思いこみ)」

まず、非二元の分野においては、「霊魂(アートマン)」のような個別性概念は あまり使わない傾向がある、
とはいえよう(※個別性を薄めたかんじの「真我(アートマン)」を多用)。

釈迦が一部の経典(※十無記、ほか▼▼)で、アートマンの存在に関して明言をさけてる(?)のは、
「●自己存在性への執着心」が解脱の邪魔をするのを嫌ったから、とみる説があるが、ちがうとおもう。

「十無記(※後記参照)」は、質問者(修行者)に対して、
「その質問をしてる『あなた』とは何か? 知的な追求をあきらめて、その存在の源にいきなさい。」
みたいな意味だろうし、、そのほかは 「単に、ジニャーナ的な説明」 と思われる(※後記❶ も関係)。

幻想側の自己存在性(=意識の対象部)と、アートマン(=自己)を区別するのが「ジニャーナ」だが、
「必要」なのは幻想側(存在性)を拒否することのみ で、実在側の形而上的知識は本質的には不要。
幻想側とアートマンが混同されてた時代に、釈迦いわく、「存在性は アートマン に非ず」(※以下参照)。

※当サイトでは、「霊魂 = 身体との設定上(一時性)の接続点」 のいみだが、真我と同様にも使用す。

※自己存在性 & 実相について、参考:「覚者たち(別ページ)」≫「●仏教関連(スッタニパータ)」

▼▼「アートマン(否定)」関係で有名なのは、以下の2項である(※ほかはこれと同義か類似)。

◎ 諸法無我(非我)‐「 法界(現れた仮相の世界)の中に、アートマン(霊魂・自己)はいない 」
◎ 五蘊無我(非我)‐「 体・心・意識 などの人間要素は、アートマン(霊魂・自己)ではない 」

初期仏教では、「法界 = 現れた仮相の世界(意識の対象)」 を意味していたが、
後代の解釈が影響して?、(※参考: 後記「原始仏教・大乗仏教・密教~」)
大乗仏教全般では、「法界 = 実相ふくめた宗教的本源?」 のようになってるぽい(※下記)。
原始仏典では、「法(のり)」=「縁起の法(宇宙の法)、つくられたもの」 のような使い方をしてる。

★初期仏教では、「法界」は意識の対象となるもの(専門サイト)
初期の段階では法界は十八界の一つで、意識の対象となるものを意味し、十二処でいえば法処にあたる。

しかし大乗仏教になると、これは単なる意識の対象ではなく、宗教的な本源を意味するようになった。
つまり、この全宇宙の存在を法(真理)とみなし、真如と同じ意味で使われるようになる。

★「 Wikipedia(法 ‐ 仏教)」

<存在を意味する「法」>
古い経典では「いっさいとは五蘊(ごうん)である」と説かれ、五蘊の法といわれるものを「法」という。

★「諸法無我」は厳密には「諸法非我」と訳されるべき(釈迦はアートマンを否定していない)

―― すなわち、釈尊がアートマンを否定する論法は、「一切とは何か」を規定し、「そのいずれもが
アートマンではあり得ない」というもので、「アートマンは存在しない」と主張したのではない。

★(Ⓐ)「釈尊はアートマンを否定せず、寧ろ重視していた(上から5項目、by 中村元 氏 ← 仏教学者)」

仏教者達はおそらく根本分裂以前に、釈迦が感じ取った真実の自我(=アートマン)の存在を否定し、
(※中略)―― と仏法を曲げてしまいました。 従って原始経典、北伝仏教経典、南方仏教経典すべてに
釈迦の仏法と、それを否定する頌とが混在している事に注意すべきです。(★上から11項目)

ここでアートマン自体は否定してない、というか アートマンの存在を当然の前提にしてる と思うけど、
※後記❷ も参照のこと) ほかにいくらか関係する可能性があるのは、、

(※まぁ原始仏典はアートマン関係で不自然さがみられ、一部改ざんか削除?されてると思うけど)

バラモン教当時、一般的に理解されていたことは、「人間は肉体と霊魂からなり、輪廻する(カルマ論)」
であり、そのアートマン(霊魂)は「ほぼ自我」の意味だったうえ、「解脱」がほぼ理解されておらず、

カースト制の根拠にもなっていた。 このカースト制に、釈迦が反対的だったというのは事実。

「私」を「肉体」と結びつけて捉えるなら、それは「自我」だが、肉体から切り離せばそれは意識または
観照意識、根本的には真我(アートマン)である。 真我のアイデンティティが、肉体に同化している。
そして原始仏典を見れば当時はほぼ、「アートマン = 私・自己」のような意味だったことがうかがえる。
上記(法界の定義の~)で仏教学者が言ってるけど、昔のインド人は「自我・真我」を分けて考えておらず
(核心的には同じだが)、「アートマン(自己)」が今の言葉での「自我」に近いニュアンスになってた、
ということ。(←

「諸法・五蘊無我」は現代人には「自我 or 霊魂」の有無のことに聞こえるけど、釈迦本来の意味は、
「この世は『仮現』で、、ほんとうは私たちは現れた世界の中にはいない(その心体は自己ではない)」
みたいなニュアンスだったと思われる。 つまり、真我探求 の基本形(★前項「THE 真我探求 ①」)
サーンキヤ哲学 での解脱の要点(※前項)とも、本質的に まったく同じ意味 ということで、
これらはみな、「ジニャーナ・ヨーガ(智慧の道)」に分類できる。
そして釈迦の教えの主軸は、アートマンなどの形而上的概念を説明することではなく、
むしろ 知性・マインド の活動に背を向けさせ、すみやかに解脱に向かわせるものだった、といえよう。

◆カースト制度と仏教、ほか(※輪廻転生とアートマン)

https://core.ac.uk/download/pdf/229752360.pdf

仏陀はカーストによって差別される賤しい人の解放さるべき道理を説いたが、だからといって無差別に
平等を説いたわけではない。行為によっては賤しい人格も存在する。 業報輪廻という「生まれの差別」に
基づいたカースト制度を認めず、他方においては、「業報輪廻という一善をなさしめ悪をなさしめない」
ための宗教倫理に代わる独自の業論を展開したと考えられる。 業報輪廻において、業の果報を次の生まれ
に繋いでいく役目をするアートマン(霊的実在)と同様のはたらきを業自身に持たせ、そこに
アートマンという霊的実在を介在せずに、業報による輪廻という仏教独自の転生を説くことになった。

※まぁ原始仏典(文庫)では基本的に、「自己が、輪廻や人間から解脱する」というニュアンスに読める。
仏教では初期の頃から、業報輪廻的な理論が説かれている。(※解脱後アートマンの解釈次第にみえる)

ちなみに、「輪廻の主体」に関して近代の覚者らは、輪廻は幻想内で真我(アートマン)は実在だから、
いうこともあり、「★輪廻するのは、幻想側の『自我想念体』で、真我は(本質的には)影響を受けない」
のような表現(観点)もよくみられる(※ラマナ、ニサルガダッタなど ―― 別観点の表現もみられる)。
※たとえば、、前記「人間存在の真実」≫「ラマナ語録(前半)」 みたいなこと。
これはカースト制とは関係ないだろうけど、このようにも表現される場合がある。
サーンキヤ哲学(BC7世紀頃?)の説明は、輪廻の主体を幻想側にしてる点は同様(※前記)。
ちなみに、ウパニシャッド全般では、「輪廻の主体はアートマン」と説かれている。
ラマナ説明の実質(※他所)は、「★真我のアイデンティティが催眠同化した 自我(心)が、輪廻する」。

―― というか、「輪廻の主体(の定義)」のことは別の話として、、基本的に
「ラマナ語録」のような説明は「ジニャーナ(智慧の道)」の観点・趣旨なわけだけど(※探求者向け)、
ジニャーナ観点(単独・究極)は、形而上的いみでは誤解をまねく場合もある(※これはそうでもない)。
たとえば、「輪廻転生の理論は誤り?(※部分的抜粋、、実在ではない・自我の境地が誤りといういみ)」
「輪廻や束縛は、偽実体との誤った一体化によるものであり、本質的に実在しない」、という感じの表現が
「ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの」にあるが、、探求者の本質的直観を意図したジニャーナ観点である。
(※このようにも表現されるのは、偽実体としての探求者の存在が最終的には解放の妨げだから)
なお、「輪廻はナイと考える」ことは、「輪廻からの解脱」とは関係ない(※その レベル の話ではない)。
ちなみに、ある種の闇も含有してきたカースト制度は、インド憲法でこれによる差別が禁止されて久しく、
非公式的カーストは廃止(消滅)に向かってはいるが、とくに地方部では差別の風習がのこっている。

※輪廻について、参考:「覚者たち(別ページ)」≫「★ラマナ(輪廻転生について)」
「行為者不在の~(別ページ)」≫「★輪廻転生について」


~ 原始仏教から部派仏教へ ~

★「 Wikipedia(釈迦)」
◆釈迦仏教の特徴をかいつまんで言えば、、バラモン教的な 神秘主義的要素をほぼ排除している ことと、

教えの根本(背景)は完全な実在視点だが、ある部分においては ゲームプレイヤー の立場(幻想視点)に立った
上での端的な(はっきりした)教え方をしている(※現世否定精神など)。 覚者というのは皆そうだけど、

衆生を導くために時と場合に応じて観点を選んで 役者を演じてる わけです(※行為主体の感覚はない)。
現世否定精神ともいわれるが、これの本質は「無執着(徹底)」であり、表面的な感情レベルの話ではない。
実践面は、簡略的にいえば、「心の浄化・無執着・禅定」を徹底させた「ジニャーナ・ヨーガ」の一種。

釈迦入滅(BC485年説、BC544年説)の直後に第一結集がひらかれ、500人の弟子達(修行完成者)が
あつまって釈迦の教えを確認しあい、原始仏典のもととなる文書群?が作成された。 そこから
約200年後の第三結集までに?、原始仏典「パーリ仏典 経蔵」(後記)が段階的に編集されたと考えられる。

原始仏典には、後代の仏教諸派のような複雑な教理はみられず、厳しい教えだが比較的シンプルである。
最古層の経は小部に含まれ(スッタニパータ、ダンマパダなど)、次いで相応部(サンユッタ・ニカーヤ)

が古いとされる。 原始仏典の内容の真実度(※釈迦の言動?)については、諸説あるが、
経典にもよるだろうけど8割くらい?は真実なのかなと。 言い回しやニュアンス変化は結構あると思われ。

まぁ釈迦の教説は、基本的には出家修行者をおもな対象としていて、時代背景も今とずいぶん異なる、
ってことは理解されるべきだろう(※原始仏典は、解脱に向かうような生き方を説いてる部分も多いが)。

すなわち、釈迦仏教というのは一部オブラートに包む表現(?)はあっても、けして世俗的ではなく、
当時のインドでも世間一般の受けがよくない、と。だから大乗仏教・密教などでみられるように、ある種の
魅力的な要素が付加されるのは自然の流れではある。 まぁ 大乗仏教は範囲がひろくて一概には言えず、

密教はそもそも理論体系というか観点が、初期仏教とはけっこう異なるが(※間違いという意味でなく)。

なお、第二結集のあとに仏教教団が分裂するまで、つまり釈迦入滅のあと約100年間の仏教を「原始仏教」
そこから紀元前後頃までを「部派仏教」(↓)という。

《 原始仏典 : パーリ仏典「経蔵」、漢訳仏典「阿含経」(パーリ仏典に概ね対応)》

①長部経典(長阿含経): 長篇の経典集。物語もふくむ。
②中部経典(中阿含経): 中篇の経典集。
③相応部経典(雑阿含経、サンユッタ・ニカーヤ): テーマ別の短篇経典集。
④増支部経典(増一阿含経): 法数ごとにグループ分けされた短篇経典集。
⑤小部経典(≒本縁部): 以上のどこにも入らない経典集。「スッタニパータ、ダンマパダ、ウダーナヴァルガ、etc.」

※後記「原始仏典から抜粋」「釈迦いわく」、「覚者たち(別ページ)」≫「仏教関連」、にて一部紹介。

◆第二結集のあと、仏教教団は運営方針をめぐって上座部(長老部)と大衆部に分裂した(※最初は軽度)。
BC250年頃になると上座部(保守派)と大衆部(革新派)の分裂が激化し、紀元前後の頃まで両派はさらに

こまかい分裂をくり返した(※20の分派が誕生、部派仏教時代)。

この時期には経典(原始仏典)をもとにして様ざまな教説・理論も立てられたが、しだいに複雑で難しい
面も強まっていき、民衆救済を掲げた大乗仏教を立ち上げる理由の一つになったと考えられる。

~ インド大乗仏教、諸法実相について ~

◆部派仏教時代の最終期に、紀元前後 ~1世紀にかけて主に作成された「般若経」系の経典群を基盤として
インド大乗仏教が興り、さらに「法華経・華厳経・浄土三部経・・(中期以降の経典、数種)」

などの大乗経典が作成されていった。 のちに「中観派」「唯識派」の二大系統(学派)が誕生したが、
経典の内容など全般的に言って、初期仏教の 現世否定精神をマイルドにした感がある。

中観派では、般若経の「空」の概念を理論化したが、中論に代表されるこの中観思想は、
私は賛同しかねるところもある(※下記、、中観派的な解釈・空の理論化てこと)。
「空(梵語:シューニャ)」は、原語では数字の ゼロ を表す言葉でもある。 仏教では「無」とは区別され、
基本的には「幻想・無実体(≒仮相)」のような意味で、般若心経:「色即是空 空即是色」もその意味で
「空」が使われている(?)。そして中観派では、「空」に「実相」にも似た独自の理論づけをした。
中観思想においては、「空」は基本的には「縁起(・非有非無・無実体)?」を意味するが(※仮相的)

それはつまり「Ⓑ縁起の如実相、諸法の究竟の相」の事であり、その如実相を徹見すれば涅槃であるため、
「空即涅槃」「諸法実相即ち涅槃」、と説明されている。(※講談社学術文庫「龍樹」P295~298、概要)

つまり定義的に、「空」という一語に「仮相・実相」の両方の要素をふくませてることになる。

この「空」の定義、&基づく理論は、「仮相・実相」の構造を無視したもので、あるいはそれを無効にす。

まぁ「空 = Ⓑ中道(& 実相?)」てことだが、「中道」の解釈と観点がおかしい(※下記)。 つまり、

基本・表面的には「仮相空」な感じだが、、定義上または文脈上は、実質的に「実相空」をふくんでいる。

「ニルヴァーナは空である(空即ニルヴァーナ)」とは、説いている。 ※(Ⓑ参考:他サイト)
しかし、仮相(幻想)は実相の仮現であり、概念として区別する必要があります(★構造的に)。

まぁ実際は、「実相」にも似た「空」観点 ―― というより、「実相」の定義がここで言うのとは異なり、

中観派説明からすると実質、「実相 = 非有非無・無実体の、空(涅槃)」になる(※基本は仮相空)。
その「空(中道)≒ 仮相・実相」観点にて、様ざまな事柄を説明。「無実体 ≒ 無自性」とす。 たとえば、
「一切諸法・縁起」は「空(固有の本質を欠く)」であり、「不生」である、と(★下リンク P16~17)。

しかし、初期仏教や近代の覚者らと整合性がとれない、というか定義的・論理的に変だろう(笑)。

「非有非無・無実体・無自性」は、基本的に仮相にあてられる言葉です。(★釈迦説明ニュアンスも同様)

「不生」は、実相にあてられる言葉です。

※参考: 後記「★釈迦いわく(有・無 と中道、出離)」

★「大乗仏教の成立 pdf(P21~30、P16~20 参照)」

≫(2)中道 7.存在と非存在とを知る世尊は、「カッチャーヤナ経」の中で、存在するということと
存在しないということの両者を否定したのである。(※P22 より)
≫(3)無記 16.如来が本質とするもの、それをこの世間は本質としている。如来は固有の本質をもたず、
この世間も固有の本質をもたない。(※P26 より)

※「カッチャーヤナ経(有・無・中道)」 は、世間(仮相)の幻想性を説いているのだが、、解釈が変。
「如来は固有の本質を~」は、「如来は無実体であり、現世も無実体(≒幻想、or 空)」みたいな意味。

「仮相(幻想)」は「実相(実在)」の仮現なので、「仮相」の「本質」は、ある意味では「幻想」だし、

別の意味では「実相」なわけです。 しかし、「諸法(仮相)の実相は涅槃である」のように
表現していると、やがて「諸法」のニュアンスが変化することもあるかと思う。

◆「諸法実相」という表現について

「涅槃 = 実相(に目覚めた境地)」なわけだが、「空即涅槃、諸法実相即ち涅槃」と表現してしまうと、
「諸法・法界」の意味の変化にもつながり、そうなると「諸法無我」の解釈にも影響がでる。
そしてこの「諸法実相」が、大乗仏教全般の根本思想に「一応」なっている模様(※解釈は様ざまだが)。
まぁ実際の仏教諸派では、「現世(物質世界)が実相そのもの」という解釈にはもちろんなってないけど。

※「 Wikipedia(諸法実相)」 ★諸法実相(専門サイト) ★「 Wikipedia(実相)」

★「諸法実相」という言葉は「般若経(の漢訳)」で登場するが、中観思想の キーワード にもなった、と。

仏教諸派では、「諸法の実相は、~である」のような使い方をしてるけど、

これは「⓫ 諸法 = 仮相」を前提とするなら、それは表現ではあるが前提の意味がかき消されがちになり、
「⓬ 諸法 = 実相ふくめた宗教的本源」を前提とするなら、初期仏教とは「諸法」の意味が異なります。

※参考: 前記「法界の定義の移り変わり~」

初期仏教の定義では、「諸法・法界」は意識の対象部であり、つまり
「諸法 = 仮相(実相の仮現)」なので、、あるいみでは「諸法実相」という言葉は誤印象をあたえやすい、

といえるかもしれない。 大乗仏教全般では、⓬の意味になっているようであるが、
⓬は、それ自体が理論的におかしいとかではないけど、「諸法・法界」の定義が変化してるってこと。
したがって、その定義でいくならほんとうは、「諸法無我」は別言葉に書きかえたほうが適切と思います。
たとえば、「仮相無我」とか。

例えば、映画の映像である分離の物質世界(=仮相)は、分離のないスクリーン(=実相)を基礎として、
意識(=いわば中間相)に依存して現れるもので、知覚(意識)のすべての対象と空間自体は幻想である。

~ インド密教、真言密教 ~

◆後期大乗仏教と併行して 6~7世紀頃を中心に興ったインド密教では、むしろ現世肯定の色が強くなった。

大乗仏教がライバルだったヒンドゥー教に対抗するような感じで、同じようにバラモン教の神秘主義的要素
(マントラ・護摩祈祷など)や 瑜伽行(ヨーガ)の要素などを取り込んで、密教が形成されていった。

これに関しては、現世否定精神というのは解脱するためのアプローチの一つなわけだけど、、
「この世は幻想」「自我(行為主体)は幻想」 の2点は精神でなく 事実・構造 であり、仏教の根本部分。

(※アドヴァイタ哲学、近代の覚者らも同様)

ちなみに釈迦にとっては? メインの自己は釈迦(心体)ではなく、現世自体が真我(ハイリアリティ)の仮現であり、
真我(如来)においては、すべての苦と生死を超越(解決)している。

◆真言密教(空海)は教典の中で、我欲を滅する(無執着)を説くとともに、現世を肯定的に捉えている。
つまり、表現としては「現世肯定的」だが、あくまで即身成仏的な密教思想のなかでの表現ということ。

概して言うなら、、密教の体系は「バクティ(帰依)的」、顕教の体系は「ジニャーナ」、といえる。

前記「覚者たちの言葉(ルパート・スパイラ解説)」でいうと、(あるいみ)密教は③、顕教は② である。

空海は教典のなかで、顕教・他派 の「現世否定精神」になん度か言及してるけど、密教系では基本的に、
「現世」と「実相」の区別を強調しない理論体系を構築している(※両界曼荼羅にも表現される?)。

―― つまり区別はしてるけど、そのなかでの「本質的同一性(=根本仏の現れ)」を強調してる、てこと。

その言語的に表現しにくい境地、あるいは構造を、密教的な観点で理論化してるといえると思う。

簡略的にいえば、、密教:「現世は『実相の』仮現である」、、顕教:「現世は実相の『仮現』である」

というように『強調点』が異なる、と(★観点が対照的)。
近代アドヴァイタ系では基本的に、この2つの観点は混ぜて説かれる(※ニサルガダッタ、ラメッシなど)。

密教では「三密瑜伽」、すなわち「身・口・意」の三密加持により六大無碍にとけ合う即身成仏を説くが、
瑜伽行(ヨーガ)の考え方が取り入れられていて、調和・統合(=瑜伽)を重視している。

それとは論点が ズレ るけど、近代覚者らは意識に関して、仮相(顕現意識)と実相(非顕現の休息的意識)
を区別せずに説く人もいる(※ラメッシ 下記、ラマナなど)。 表現やアプローチは、いろいろある。
真言(マントラ)は、タイミング・当人の心・継続期間にもよるが、大きな力を秘めてるといわれている。

「吽字義」には、つぎの一節がある。
「また人あって、或いは有為の非眞を厭い、無為の離妄をよろこびて、言語の道を廃詮の門に絶ち、
心行の処を寂滅の律に滅するとも、この三密の本法においては何ぞ曾て絶滅することがあろうか。」

この「絶滅しない実相」に目覚めるためのアプローチと表現が、顕教と密教ではけっこう異なるということ。

★根本は同じ) もちろん顕教でも絶滅しません(※まぁこれは、当時の誤解してた他派のことかと)。

現世を肯定的に捉えて我欲を滅し、「三密瑜伽」あるいは「根本仏である大日如来」に心身を捧げよ、
というのが真言密教の基本であり、つまり「バクティ(帰依)」の要素を取り入れた教義体系、といえる。

[参考] by ラメッシ・バルセカール 《「誰がかまうもんか」より》

現象は現実であり、同時に非現実なのです。 観察される程度において現実であり、

「意識以外にそれ自身の独立した存在がない」 という点にもとづけば、非現実であるのです。

それ自身の独立した存在がある唯一のものは現実で、現実とは意識のことなのです。

意識が唯一の現実です。 それ以外は、現実それ自身の内部の映像にすぎません。(P63)

※これが、「意識・真我」を区別しない唯識的な説明。

ジャイナ教の教祖が言うように(※別ページ)、真理は観点しだいで多様に言い表せる、と。


★「霊魂と物質がであったときにだけ、意識は生まれるのだ。」 by ニサルガダッタ(P498、I AM THAT)
★「解放とは、けっして個人が解放を得ることではなく、個人という実体から解放されることなのだ。」
by ニサルガダッタ(P361、I AM THAT)

★「もし君たちが外に向って求めまわる心を断ち切ることができたなら、そのまま祖仏と同じである。
君たち、その祖仏に会いたいと思うか? 今わしの面前でこの説法を聴いている君こそがそれだ。」 by 臨済

◆補足

人間の「自己存在の中核」は、アートマン(真我・霊魂)であり、「認識・体験の主体(知性)」もそれ。
それが幻想側の「私は在る(意識・存在性の原理)」をとおして、「自我システム」と「身体(心)」に
自己同化し、人間にとっての自己存在感覚を形成している。

これらの同化作用により、人間としての存在境地実在真我の本来の境地 と大きく異なってくるが、その
中核アイデンティティが同じ だから、解脱者が真我を「これこそが自己だった(笑)」と感じるのである。
「私は在る」はアートマンの根源の「至高の実在」からあらわれ、その原理により意識と世界が仮現する。
アートマンの本質は観照者だが、催眠により幻想内の仮の自己に同化する。そしてほんとうは、
アートマンや人間は行為主体ではなく、行為は縁起プログラムにより為される。

しかしバラモン教当時は、「人間要素(意識の対象部)の中に、行為主体としてアートマンが存在する」
という誤解と、「ゆがんだカルマ論 & 輪廻転生論」が広まっていた。
「解脱、(意識対象は幻想?)」の概念は、仏教以前にも一部存在するが、一般には理解されてなかった。

初期仏教が、「行為主体の意味ふくむ『自我』の実在性」を否定しているのは、明らかである。

仏教では、『 法界(=現れた仮相の世界)には、一切において自性(≒行為主体)が存在せず、
すべて「縁起」「一切皆空」、つまり「諸法無我」』 と表現していて、専門的にはもちろん、
「(究極的には)行為主体は存在しない」 ということになる。

また、釈迦仏教の解釈として、「輪廻転生間の『自己存在』に関連(繋がり)はない、輪廻説自体の否定」
という説があるが(※霊魂否定説とも関係)、これは実際には考えにくい。
スッタニパータほか諸原始仏典では、輪廻からの解脱(の重要性)に言及してる箇所がそうとうあります。

まぁそれを在家向けの方便、または後づけ的なもの、とみる説なわけだけど。 それも部分的にはあっても、

基本的には輪廻思想を背景にして、「輪廻からの解脱」を説いているのは確かとおもう。

◆「原始仏典」から抜粋

最古経典のスッタニパータでは、「アートマン」の存在を当然のように扱う箇所がいくつかある(↓)。

岩波文庫のスッタニパータだと、この部分の訳はアートマンでなく「みずから・自分」

★《「スッタニパータ・釈尊のことば(講談社学術文庫)」より》

自己自身の精神のアートマン は一定不動なるままにして織機の梭のように真っ直ぐに直進し、悪業の習慣性

にひっかからないようにコースを守り、個々別々なる身体存在と 平等一如なる精神存在 とのつながりを
如実なるままに思惟している。 そのようなひともまた沈黙の聖者であると、――(P71)

※「自己自身の精神のアートマン = 霊魂」「平等一如なる精神存在 = 至高の実在」、のようなことかと。

いかなるところにおいても世間的存在は根底的にうつろい実質がない。 どこかにわたくしの

自己自身の精神のアートマン がいこい安らう 安住処 がないものかと、――(P253)

最古層経典のウダーナヴァルガでは、「行為主体」が幻想であることを、確実に示す箇所がある(↓)。

釈迦特有の表現「身に刺さった矢」がでてくるので、たしかに彼の言葉だろう。

★《「ブッダの真理のことば、感興のことば(岩波文庫)」P246(第27章 7~8節)より》

人々は自我観念にたより、また他人という観念にとらわれている。 このことわりを、或る人々は知らない。
実にかれらはそれを、身に刺さった矢 であるとは見なさない。 ところがこれを、人々が執著し
こだわっている矢であるとあらかじめ見た人は、「われが為す」という観念に害されることもないし、
「他人が為す」という観念に害されることもないであろう。

※「身に刺さった矢 = 無明(自我の催眠)」

ウダーナヴァルガ、つぎの一節は、前項「真我探求の~」の冒頭部の「ニサルガの言葉」と同義(↓)。

「五蘊非我」がでてくるので、たしかに釈迦の言葉だろう。

★《「ブッダの真理のことば、感興のことば(岩波文庫)」P288(第32章 33節)より》

この世は熱のような苦しみが生じている。 個体を構成する五つの要素(=五蘊)はアートマンではない、
と考える。 ひとは、「われはこれこれのものである」と考えるそのとおりのものとなる。

それと異なったものになることは、あり得ない。(←

※ここでも、「アートマン = 私・自己」、みたいなニュアンスで使われている。(ジニャーナ)

この一節は、「アートマン(自己)」が「人間」に同化した状態が「衆生」、であることを明示している。


◆原始仏典の初期の解釈には不適切な点もあるとおもう(いわれてる)けど、、ややこしいポイントは、
実相は「時間空間・すべての概念(観念)」を超えている、、ということだろう。 つまり、
実相(実在)はもちろん存在するが、マインド知的に把握しきれる存在状態ではなく、それ自体を
直接的には観念化できないので、あえて表現する場合は「表現や観点の違い(種類)」がでてくる、と。

※参考: 前記「★心と深層意識のカラクリ」、「霊魂(アートマン)と 至高の実在(ハイリアリティ)の関係」

★「意識が起こる前の原初の状態を描写することはできず、人はただそれであることができるだけだ。」
by ニサルガダッタ(P279、意識に先立って)

◆なお、ウダーナヴァルガに「我ありという想いをほろぼし・・」という一節があるが、
他所も考慮すると、これはおそらく元は「諸法非我」だったように感じられる(※ニュアンスの変化)。
ラマナ・マハルシの表現だと、
「心を内側に向け、『私』想念の源を辿ることで、この想念が消滅し真我実現する」(★別ページ参照)
釈迦は原始仏典の中で、「❸不生なるものが有る」「不死の境地がある」、と明言している(★下記)。


~「 無記 」(中部経典63)~

※「中部経典63(毒矢のたとえ、ほか)」 で釈迦は、修行者からの、数々の形而上的な質問に対して、
沈黙の姿勢(=無記)を貫いている。 またこれ以外でも、かれがアートマン自体を否定した形跡はない。

たとえば、「中部経典72(火ヴァッチャ経)」 などは、あくまで
「意識(知覚)の対象としては、如来は認知されることはなく、未来に再び生じない」

ということを言っているわけだが、「如来 = 真我(アートマン)」である。

ここにわたしがいずれとも断定して説かなかったことは、
断定して説かなかったこととして了解せよ。
またわたしが断定して説いたことは、断定して説いたこととして了解せよ。
―― 何故にわたしはこのことをいずれとも断定して説かなかったのか。
何となれば、このことは目的にかなわず、心の平安、すぐれた英知、正しい覚り、

安らぎ(ニルヴァーナ)のためにならないからである。
しからば、わたしは何を断定して説いたのであるか。

①「これは苦しみである。」
②「これは苦しみの起こる原因である。」
③「これは苦しみの消滅である。」
④「これは苦しみの消滅に至る道である。」

ということを、わたしは断定して説いたのである。

これは目的にかない、心の平安、すぐれた英知、正しい覚り、安らぎのためになるものである。


~「 有・無 と中道 」(相応部経典、サンユッタ・ニカーヤ)~

※比較参照: 前記「人間存在の真実」≫「★ニサルガダッタ語録」

カッチャーヤナよ、

この世間の人々は、多くは二つの立場に依拠している。

それはすなわち、有と無とである。

もし人が正しい智慧をもって、「世間の現れ出ること」を如実に観ずるならば、

世間において無はありえない。

また人が正しい智慧をもって、「世間の消滅」を如実に観ずるならば、

世間において有はありえない。

※↑参考: 前記「心と深層意識のカラクリ」≫「★ニサルガダッタ語録」

カッチャーヤナよ、

「あらゆるものが有る」というならば、これは一つの極端の説である。

「あらゆるものが無い」というならば、これは第二の極端の説である。

人格を完成した人はこの両極端をさけて、中(道)によって法をとくのである。

※世界体験が起こってることは現実だけど、
体験(意識)の内容物はリアルにみえても「幻想」、という解釈でいいと思います。


~「 出離 」(小部経典、ウダーナヴァルガ)~

※「ブッダの真理のことば、感興のことば(岩波文庫)」P243~244

★(1)苦しみと(2)苦しみの原因と(3)苦しみの止滅と(4)それに至る道とをさとった人は、
一切の悪から離脱する。 それが苦しみの終滅であると説かれる。
★何ものかに依ることが無ければ、動揺することが無い。そこには身心の軽やかな柔軟性がある。
行くこともなく、没することもない。 それが苦しみの終滅であると説かれる。

★「❸不生なるものが有る」からこそ、「生じたものからの出離」をつねに語るべきであろう。

作られざるもの(=無為)を観じるならば、作られたもの(=有為)から解脱する。

※「有為(=仮相、つくられたもの、縁起したもの)」「無為(=実相、つくられざるもの、非縁起)」

この2つを明確に分けて説いている。

★生じたもの、有ったもの、起ったもの、作られたもの、形成されたもの、常住ならざるもの、
★老いと死との集積、虚妄なるもので壊れるもの、食物の原因から生じたもの、それは喜ぶに足りない。

★それからの出離であって、思考の及ばない静かな境地は、苦しみのことがらの止滅であり、

つくるはたらきの静まった安楽である。 ※「つくるはたらき = 阿頼耶識の形成作用」

★そこには、すでに有ったものが存在せず、虚空も無く、識別作用も無く、太陽も存在せず、

月も存在しないところの その境地を、わたくしはよく知っている。

★来ることも無く、行くことも無く、生ずることも無く、没することも無い。
住してとどまることも無く、依拠することも無い。── それが苦しみの終滅であると説かれる。
★水も無く、地も無く、火も風も侵入しないところ、そこには白い光も輝かず、暗黒も存在しない。

★そこでは月も照らさず、太陽も輝かない。 聖者はその境地についての自己の沈黙を
みずから知るがままに、かたちからも、かたち無きものからも、一切の苦しみから全く解脱する。

★さとりの究極に達し、恐れること無く、疑いが無く、後悔のわずらいの無い人は

生存の矢を断ち切った人である。 これがかれの最後の身体である。

★これは最上の究極であり、無上の静けさの境地である。 一切の相が滅びてなくなり、
没することなき解脱の境地である。


◆「仏教といえば『無我』『空』。」 「死んだら『無』。輪廻はない。わからない。あるかもしれぬ。
たぶんある。絶対ある。興味ない。」

ここ日本では宗教的なことは自由なので(よい国ですね)、人それぞれ色いろな考えがあるとおもう。

「空」は初期仏教では、「この世の幻想性・自我の幻想性」を表現するいみで少しほど使われたが、
後世になりそれと根本的に異なる「理論」も登場した。(★参考:前記「原始仏教・大乗仏教・密教」)
前記「心と深層意識のカラクリ」ニサルガダッタ語録のとおり、厳密にはマインドレベルから見たとき、
「実相」は「空」として描写できるけど、、当然ながらその「空」は、この世の幻想性の「空」とは
ニュアンス観点が異なります。 実際には、「実相」を指して「空」という仮表現はわりと使われてて、
本来それは問題ないが、仏教関連では以下のように感じられ、「仮想現実」を強調すべき時代ではある。

仏教に関していえば、「空 = 幻想(※仮相)」の理論的基盤(&イメージ)があるために、

「空 = 実相」ニュアンスを併用すると、ある種の誤解・混同のようなものも生じ(❸非有非無など)、
「仮相(実相の仮現)」と「実相」は、概念として区別する必要があります。
(※「意識・実相」を区別せずに説明するのは、べつの話。「非有非無」は、仮相のはなし。

※般若経系に中観派理論を加えると、「仮相空-実相空」の各イメージが混同・相殺?される感じ(笑)。
般若経系の「空」は正式に解釈すれば、初期仏教的な「仮相空」のニュアンスと思われるが、、
「実相」を指す「空」は「実相空」ニュアンスであり、2種の「空」は同一に扱うと論理的に矛盾する。
いわば、「仮相を指す『空』は、実表現」「実相を指す『空』は、仮表現」であり、あるいみ逆イメージ。
ちなみに、ニサルガダッタほかアドヴァイタ系でも、「空(実相)」という仮表現はまれに使われる。
※参考: 前記「覚者たちの言葉」≫「★ニサルガダッタの動画Ⓐ(11:36~)」
「実相」を指して使う「空」のニュアンスは、、「空っぽ・無実体・非有非無(※幻想性)」ではなく、
「気づき・実在性不死性超越性・観念化不可能・仮相属性はナイ(無相)という感じになるかと。
(※原始仏典では「実在性」が説かれている、≫ 別ページ 覚者たち)―― 表現は色いろありうる。

基本的にいえるがとくに仏教圏では、実相を指す「空」の表現はさけるか、あるいは「実相空・超空」
など区別表現したほうが無難とはおもう。(※時間空間の概念を超えている、という点では「超空」

般若経系は、説明(表現)による、あるいは 解釈によるというか誤解されやすいところもあるだろうけど、
「『空』に幻想(仮相の説明)のいみを持たせる文脈で、その『空』を実相としても扱う」
みたいな中観派説明は、中道論でぼかしても基本的に変だとおもう。(※以下、これに関連する説明)

空性の説明としての例え話をあげると、、
「★モノが存在するためには、空性(空間)が必要である。」
これは、般若心経:「色即是空 空即是色」 の説明としても見られるもので(★実相空の解釈は非正式)、
仮にこれを「実相空の比喩」と解釈した場合、そこに「仮相空ニュアンス」を間接的に含めて理解されやすい。
(※「実相空」的に仮表現した場合、空間にも例えられるが、実相は空間の概念・属性を超えた「実在」)

しかし、「★仮相(幻想)は、、実相を基礎とする(実相の仮現)」 の基本的構造にて考えると、
混合解釈は本質的に適切ではなく、「仮相空」と「実相空」は本来区別すべきところ。 すなわち、
「実相空」を使うときは、仮相は「空の仮現」になり、「空」に間接仮相空のいみを持たせるのは不適切。
哲学的に理論化するなら、区別しないと他の事柄との関係においても矛盾や誤解がでてくる、てこと。

★「 Wikisource(般若心経)」  ※(参考:空とは何か)

般若心経の「空」は、、イメージ的に「実相空」のようにも見えやすいと思われるが、
「是諸法空相 不生不滅 不垢不浄(から後)」などから、仮相の存在を認めないような観点、or
仮相はすべて本質は空であり 則ち空相が実相、というような解釈は非正式にはありえる(※空一元論的)。
そういう感じ(ニュアンス)の解釈も非正式にはあるが ―― というか、実際には「空一元論」的な解釈よりも、
「空の世界が、悟りの世界」みたいな表現は わりと見うけられる。(※実相を仮形容する語が経中にない)
すなわち、「仮相空が基本だけど、間接実相空のいみを含めて 一部表現」みたいなことだが、

まぁ般若心経の文脈でこの表現は、構造的ないみでは変です。
適正表現:「仮相は空(幻想)、ということを直観した境地が、悟りの世界(実相・超空の世界)」。

すなわち、「★仮相空のみ」で解釈するなら矛盾はないが(★中観派理論・解釈を外せば 正式にはこれ)、
解釈や表現によっては「仮相空・実相空」のニュアンスが混在してくる場合がある、と。
般若心経の解釈は、解説本などでも微妙に数種あるようだが、、
専門サイトでも、空性を空間に例えるはあっても「実相空」解釈はナイ(※紛らわしい表現はある、笑)。

したがってもし、単なる「幻想」といういみ以外に「空相」いうものを設定するとしたら、
「★空相 = 空間(※仮相基盤)」とすれば、論理的な矛盾はない。(★まぁ専門解説はそういう雰囲気)
そして「不生」は初期仏教では実相にあてているが、、空相(空間)に属する一切は非実在であるゆえに、

本質的(究極的)ないみで「不生」である、というように般若心経は解釈すればよい。

般若経系では、正式的に「空 = 無実体(※仮相空)」のいみだが、「仮相・実相」という両方の概念を
絡めた明確な説明は実際にはなされておらず、実相空のようにも見えやすい表現も部分的にある。
そして、中観派理論が適用されるなら矛盾をはらんだ解釈にもなるだろうけど、

基本的には、実相を仮形容する語が経中にないので、仮相空に間接実相空のいみを含めて表現されやすい。
(※「実相・彼岸」といった語はなん度か出てくるが、「空」の インパクト は基本的につよい)

なお、中観派説明においては、仮相と実相はどちらも本質的に無実体(空、固有の本質を欠く)とされる。

(※前記。 この考え方・定義はまったくおかしいと思われ、賛同できません)

「仮相・実相」は、あてる言葉を区別しないと、哲学としては論理破綻します。構造的ないみで。

◆まぁ当分野においては性質からして、表現や解釈が多様化しがちで、言葉の定義の問題もあり、
また「仮想システム、自我の催眠」そして「概念が通用しない実相」がかかわるために、
哲学的(形而上的)な面では、ややこしさも出てくる。 仏教にも複雑で難解な部分も存在してるけど、
探求における核心はもちろん、各人の「私」の内側に入っていくこと(仏教が指し示してるのはそれ)。


★「彼岸に至ろうとする人びとは、不死の境地を尋ねる。 かれらに問われて、すべての休止した、
生存の素因のない境地を、われは説く。」(サンユッタ・ニカーヤ)

★「世の中は泡沫(うたかた)のごとしと見よ。 世の中はかげろうのごとしと見よ。」(ダンマパダ)

★「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。」(スッタニパータ)

◎「ひとびとは因縁があって、完き安らぎ(ニルヴァーナ)に入るのである。」(ウダーナヴァルガ)


いろは歌の解釈について・・ニューエイジ関係

※オカルトネタ込です。

色は匂へど 散りぬるを
我が世誰そ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて
浅き夢見じ 酔ひもせず

香りよく色とりどりに咲く花も、やがて散ってしまう。
この世は誰にとっても、無常である。
この有為転変の、現世の奥山を今日越えたなら、
もはや浅き夢をみて、仮相の世界に酔いしれることもない。

いろは歌、ふつうに読むと上のように 仏教的な内容 だけど(※これは定説)・・

※「有為 ‐ うい」は完全に仏教用語で、「仮相(作られたもの)」のこと。

現代では最初に挙げたような「七五調の区切り」が一般的だけど、
古文献においては、上画像のような「七行区切り」がよくみられる。 そして・・

★「イエス」、「とかなくてしす」=「咎なくて死す(無実の罪でしぬ)」

というように、キリスト教的な暗号がふくまれている、という説が近年では有力なようです。

で、これ公式には作者不明だけど(※いろいろな説あり)、空海?じゃないかなぁと(※時代は合う)。
まずこの暗号歌自体が人間技とはちょっと思えないし、空海は唐で景教(キリスト教ネストリウス派)
の洗礼を受けて新約聖書を持ち帰ってて、真言密教もよくみると景教の要素が入ってる気がする。
その時代に、このような暗号歌をつくる人物が、つくれる人物がほかにいただろうか?
またもし作者は空海ではなく、暗号解釈も間違いでただの偶然だったとしても、本当はこの世のすべては

「意識の戯れ(縁起プログラム による運命づけ)」 であり、あるいみでは偶然は存在しないのだ。

「根本的かつ包括的ないみ」において、すべての物事は必然かつ偶然(縁起関係はあるいみ見かけ上)。

★弘法大師が「いろは歌」の作者か  ★暗号文としての「いろは歌」


なお、密教の「弥勒菩薩(梵語:マイトレーヤ)」のルーツは、「ミトラ教」のメシア概念 がインドで
ヴェーダ聖典に取り入れられ、やがて「大乗仏教・密教」にも取り入れられた模様。

まぁこれはオカルト的には有名な話だけど、世界中のかなりの宗教、 ※「 Wikipedia(ミトラ教)」
(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教、ゾロアスター教、大乗仏教、密教、etc.)
これらは、ミトラ教の 終末論・メシア論、ほか一部の教義や概念を取り込んでる、という見方もできる。

俗説的には、「弥勒菩薩 ≒ イエス・キリスト」などともいわれる(※再臨のキリスト、のいみ)。

なお、ユダヤ教三大宗派の一つだったエッセネ派は、実質的にミトラ教の亜種でグノーシスにも近いが、

イエスとヨハネがこのエッセネ派(クムラン宗団、死海文書の作者説)に所属してた、という説はある。


ミトラ教の大元のルーツは、「シュメール文明(BC3500年頃~)・エジプト文明(BC3500年頃~)」

などでみられる シリウス信仰(※後者が顕著)にある? て説もあるが、古代オリエントで形式化されて
いき、BC1700年頃以降は原始ミトラ教?の形になり国教にもなってた。(※太陽信仰 ≒ シリウス信仰)
その後、古代アーリア人(イラン・インド系)に ミスラ神≒ミトラ神(太陽神)の信仰が受けつがれ、
1~4世紀にはローマ帝国および西アジア全般にて救済宗教として微妙に興隆した。

サンスクリット語での「マイトレーヤ(弥勒)」の語源は「ミトラ」。
古代インドのヴェーダ聖典(BC1200年~BC1000年頃)にも、「契約神ミトラ」として登場。

ミトラ教ルートではないが、「大本教、日月神示」近年では「ニューエイジ、アセンション思想」なども

形は違えど共通のなにかが感じられたりもする。 なお、「ニューエイジ思想」のルーツは基本的には、

西洋占星術 & 神智学協会(ブラヴァツキー)の思想にあるといわれてるが、、その根本には、
「古代エジプト神秘主義(シリウス関連)▼」 がある?かも(※ブラヴァツキーは エジプト神秘と関係あり)。
これは偶然的一致(?)の可能性もあるけど、、あるていど通説になってるかも。

そしてこの、エジプト神話の 「オシリスとイシスの物語(ホルスとセトの戦い)」 が、多くの
終末メシア論の集合意識(縁起)的なルーツ、という見方もできるのかもしれない(※まぁ順序的に)。

一説には、「イシス = シリウス A」「オシリス = シリウス B」「ホルス = 太陽系地球」 とも。
★エジプト神話(オシリスとイシスの物語)  ★ミトラ教概説(竹下雅敏・講演動画)

◆「水瓶座の時代(アクエリアンエイジ)」 (※今世紀前半、現在、ニューエイジ移行期)

★《「シリウス・コネクション ‐ 人類文明の隠された起源(徳間書店、マリー・ホープ著)」》

神秘主義者や形而上学者は、シリウスこそが地球の進化の鍵を握る天体であり、地球の未来においても
重要な役割を果たすはずだと信じている。古代エジプトの神官たちは、冒頭で述べた太古の文明から知識を
授けられて、シリウスの持つ意味を知りすぎていたがために、彼らの神秘的な儀式のうちに ――。(P15)
ドゴン族によれば、シリウス人は彼ら自身の「セト」を既に克服したのだという。
しかしその後、オシリス劇はそっくり我々地球にバトンタッチされてしまった。(P235)

闘いにはホルスが勝ったにもかかわらず、古代エジプト人はセトを恐れ続けていた。――
我々は現在もこの物語の只中におり、ホルスが戻ってきて地球が太陽に対し元の正常な位置に戻るまで、
その中にい続けるのである。―― しかしながら、水瓶座の時代こそがホルスの時代だといわれている。
ホルスの時代には歴史の振り子が混沌から秩序へと戻るだろう。(P124)

※「水瓶座の時代 = ホルスの時代」は通説になってるぽいが(クロウリー ?)、地球では大方2000年~4000年
があてはまり、今世紀前半がニューエイジ移行期となる(※計算方法によって少し変わるぽい)。
クロウリーがニューエイジ思想のルーツではなく、ホルス説と関係してるだけです。
超古代エジプトを深く研究した本書の著者も同意を示しているが、、
超古代エジプトの断片的な情報 から、「ホルス説」はあるていどは浮かび上がってくる(※下に掲載)。
あと、地球が太陽に対し元の位置に戻る ってことではないかも(※そのままでいける説あり)。
「水瓶座の時代(概ねホルスの時代ぽい)は、人間が神性に向かいだす時代」 といわれている。

※つまりニューエイジ思想といっても、、神智学協会的なもの(※西洋占星術的、スピリチュアルの源流)と、
エジプト神話的に解釈したもの(※ホルス説、アトランティス説)があり、時間的ズレが生じる可能性もある。
前者(※定説)は内容が多様化した感もあるが、、後者は可能性のハナシです(※オカルト)。

―― 後者であっても、ホルス時代への移行期にはたぶん、本格パラダイムシフトに入っていく雰囲気かと
おもう。 あるいみではすでに進行しているともいえるが、とりあえず 今世紀が節目ではあるだろう。
なお、エジプト神話の「神名(神格)」は、創造における「機能的原理(宇宙的・生命的諸力)」。

※「 Wikipedia(ニューエイジ)」  ※動画:「(占星術)本格的に水瓶座の時代に突入する2020年」

「ニューエイジ移行期(今世紀)」、リーラの舞台裏で起こる可能性があるのは、「2大原理の対決」。

「セト(二元性・物質主義の権化)」 VS 「ホルス(非二元・霊性主義推奨)」(※参考:下

原理レベル での「セト VS ホルス」は、、現象レベル では「二元性のちから VS 非二元のちから」として
我われが闘うことになる、というのが通説であり仮想システムの特性(※助ける力は適時に作用する)。

※以上、関連:「❶ 超古代エジプト神秘、ニューエイジ思想の関連(別ページ)」

「パラダイムシフト(別ページ)」≫「❷ 昨今の世相について(集合意識システム)」

そして映画を見終わった観客のように、我々はいつかこの暗い囲いを出て、魂の故郷へと帰って行く ――。
(※中略) 物質レベルでの体験はあまりにも現実的なものに感じられるかもしれない。 しかしそれは、
古代アトランティス語でいう、「ウン・ウ・スタ・リ・スタ」すなわち、一連の夢にすぎないのだ!(P327巻末)


オカルトネタ的にいうなら、ミトラ教うんぬんというより、少なくとも 3000年以上前から類似点のある
終末論やメシア論 を、くり返し人類社会に投下してくる現象をつくり出すための、特定のプログラムが
集合意識(根源意識)に存在してるということ。 そして、霊界(的なもの?)も関わってるっぽい。

つまり、人類の運命に関する壮大な脚本的プログラムが根源意識にあって、霊界や人間界の存在たちは、
根源意識の「遊び心(★秩序候補ふくむ)・混乱」 などの要素とともに動かされているのかもしれない。
ゆえに、世に豊富にでてる終末予言(の類)も、ぜんぜんあてにならないかも(※希望的推測)。
そして究極的見地では、根源意識ふくめ現象界はハイリアリティの仮現でもあり、すべての物事は
時間空間の幻想のなかで一時的にそのように現れるものであるため、そこに 個別の 原因やいみはナイ。
(※縁起プログラム はあるいみ見かけ上) このサイトを書き始めたきっかけも、私の意志ではない。

そしてある時期に現れた問題は、時間のなかで必ず解決が与えられるようになっている。
おそらく 公式の最古文明である 謎にみちたシュメール、エジプトの時代 あたりから、人類がずっと抱え
てきたこの問題の、原理主義的な政治関与ネタや多くのカルト宗教ネタにもなってきた終末メシア論の、
裏に隠されたほんとうのテーマは、「人間存在の真実について」そして、、

「自我 からの救済」あるいは「現行DNAシステム からの救済」ではなかっただろうか?(※妄想!)
あるいは、「深層意識(集合意識)レベルで進化」というのは十分ありえるだろう。(※妄想)

もちろん究極のいみの救済とは、私たちの本質から発生した「個人、人類、世界」という神秘的な幻想、
すなわち仮想システムから、私たちを救済することである(=謎のどっきり救済ゲーム)。

★by ニサルガダッタ・マハラジ 《「I AM THAT 私は在る」より》

宇宙は行為であふれている。 だが、そこに行為する者はいないのだ。 そこには自己同一化によって、
行為していると想像している無数の小さな、そして大きな、そしてとても大きな個人たちがいる。

だが、それが 行為の世界(マハーダーカーシュ)はすべてに依存し、すべてに影響する「★単一の統一体」だという
事実を変えることはない。 星たちは私たちに深く影響を与え、私たちも星たちに影響を与える。(P418)


キリスト教は詳しくないけど、イエスの処刑と復活の話というのは、「自我の死」と「真我への目覚め」
の比喩のようにも感じられる(※そういう説はある)。 聖書読むと、なんというか捏造みたいな部分も
少しはあるのだろうけど、意味深なメタファーや人類へのメッセージ? みたいな箇所も多くみられる。

つまりその話は、「『自我』がしぬ(=催眠がとける)ことが、『真我』に目覚めるということですよ 」
みたいなメタファー(隠喩)を含んでいるのではないか、と。
そして社会的には通用しないが、ここでリピートしてるとおり、実際はこの世界に行為者はいないので、
ほんとうは(究極視点では)、「自我」は実在しないし罪もないです。(★解脱=無罪放免)
だから、イエスが無実の罪で処刑っていう話とあうんだよねぇ・・

私が人生経験から理解したのは、縁起のシステムはどうも メタファー と ジョーク が好きらしい、ということ。

★人生というものは、言わば、服役中に再審請求(=真我探求)できる ゲーム。 無罪を勝ちとれば クリア。

これはあくまで当サイト的な解釈だけど、、旧約聖書の「神ヤハウェ」は、
世界仮現原理「私は在る」を比喩的にあらわしてると思う。(※すべては仮想縁起プログラムによる幻想ショー)

だから神ヤハウェがモーセに、「わたしは『私は在る』という者だ(I am that I am)」 といってる。

「私は在る」は、非顕現の私たちの本質から現れてる、といわれる(※まぁ、統一仮想システム-原理)。
だから、「私は在る(仮想システムの根理)」が顕現においては最高神のようなもので、、これは根本的に
「無知」をふくむが、そこには「非顕現(≒至高神)の理法」のようなプログラムも確かに存在している。

そして、「キリスト教」は旧約聖書(旧約の神)と関係しているけど、
新約聖書の内容はあきらかに一部に根本的矛盾がみられるので、イエスが真の覚者であるならば、
新約聖書には捏造等がふくまれるか、そうでなければ人知では分からない神秘的な事情によって
あえてそのように説いたかのどちらか。  終末思想に関していえば、たとえば、
「ユダヤ教・キリスト教・イスラム教はすべて、旧約の神と人類の進化(更新)」

というようにアレンジして捉えることもできると思う(※脅す気はないが、まもなくくる可能性がある)。


終末メシア論やニューエイジ関係は、陰謀論者の視点というのも存在するが、私はつぎのように考える。
陰謀的なものは、霊界?ふくめて存在する可能性はあるが、実際はこの世にもあの世にも行為者はいない
のだから、それも ドラマチック に展開される駒にすぎず、つねにすべては 然るべきところ に向かっている。

実際には「終末メシア論」いうより、人類規模で霊性に向かいだす「ニューエイジ移行期」てことかと。

この仮想システムは人間にとって、「魅力的要素」はあるけど、根本的ないみで「不条理」さがある。
そして根源意識に 「秩序」「遊び心」「混乱」 のような要素があり、「ハイリアリティ(真我)」の

副次的要素(=サットヴァ)が、ある意味つねに顕現全体に作用している。 しかし現象世界を、
局所的に一時的にみた場合には、それが強く現れるときや、弱く現れるときや、まったく現れないときが

あるのではないだろうか?  この仮想システムが暗に仄めかしていることは、どうみても

「分離は幻想、すべては幻想、自我の存在は認めたくない(キャハ)」 てことだろう。というかあるいみ、
このシステムは非顕現を指しつづけてるともいえる。

そして、、

このサイト含めすべての現れは、ほんとうには実在しない宇宙意識界による、壮大なるボケにすぎない。
そうならば 私たちが受ける人生の 最終の目的は、真実の自己知識(★解脱)をもって、壮大すぎるボケ
(人生自体ふくむ)に ツッコミを入れることにある、といえよう。
そしてその背後で「私たち(真我)」が、ボケとツッコミはどちらも自己自身の仮現でもあることを、
ハイリアリティの真の現実のなかで見届けることで、、あるいは私たち(真我)が自己自身にツッコミを
入れることで、「リーラ(神性劇)」は閉幕となるだろう。
まぁ最終的にはそうだろうけど、「★むしろ概念的に、ツッコミを入れていくべき時代」とおもいます。

ちなみに、上にあげた根源意識の3要素「秩序・遊び心・混乱」は、サーンキヤ哲学での3グナ、
「サットヴァ(純質)」「ラジャス(激質)」「タマス(鈍質)」 と雰囲気的には同じようなかんじ、
と考えればわかりやすいと思う。。

※ニサルガダッタの説明だと、「意識 = サットヴァ」。


そして、空海は唐で景教徒とかなり親交があったらしいので、キリスト教の秘密のようなものを知ってた可能性もある。 あるいは、神通力で人類の運命を見抜いてた可能性もある。
それで、仏教的な内容にキリスト教的な暗号入れてイロハ歌を作ったんじゃないかと(※憶測)。

空海といえば超人的な能力と法力(神通力)で、最期の遺言も「弥勒菩薩と共に下生する」とかでしょ。

なんかこのイロハ歌が引っかかったもので。 憶測と妄想だらけのオカルトネタですけど。(笑)

※(P. S.) 終末メシア論からエジプト神話につなげたけど、、終末メシア論はぜんぜん関係ないかも。
ここで主に書きたかったのは、「エジプト神話 & ニューエイジ」。


etc.

★《「ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの」P261 より》

―― あなたの個人的な夢のあらゆる対象物はあなたに他ならない。
人生-夢 においてもまた、たとえ彼らが夢の中ではお互いに対立していても、
すべての対象物(すべての個人)は、あなたそのものでしかありえない。

それゆえ、人生のすべての機能、すべての行為は自然発生的行為でしかありえない。
なぜなら、どんな行為をおこなうどんな実体もいないからだ。

あなた(私)はその機能であり、夢であり、シヴァの宇宙的ダンスなのだ!

ある観点では、、「非顕現(非二元絶対性)」の表現の場が、「顕現世界(二元相対性)」であり、
二元性(分離・多様性)があるために、「愛と苦痛の劇(リーラ)」が生みだされます。
そして、愛が、あるいは神聖さが、表現の機会をあたえられ、または機会がつくり出されます。

集合意識的ないみで、、私たちの心の奥底には「愛と苦痛の劇」への執着があるといわれます。
行為者はいないけど、、基本的に、人間存在の根底・土台 には(※究極のいみで全行為ふくむ)、
「(あるいみ相対的な)愛」があります。
そして私たち(※解脱者を除く)の心の構造の根本には、「存在性への執着(愛)」があります。
それらがさらに、「心のシステム & 縁起のシステム」により 歪められると、苦をつくり出します。
体験されるすべての現象は、意識の中の見かけであり、、

「錯誤的(ゲーム的)システム」 により自動設定されたとおりに、すべての物事が起こります。

集合意識がつくり出す「縁起の観念のセカイ」は、人類の「心の観念構造」の反映でもあります。
人類の「心の観念構造(の土台)」が、「二元性 ➡ 非二元性」 の質を総体的にふくんでいくことで、

顕現世界に神聖さが、さまざまな形で現れてくると思われます。

※ニサルガ説明によれば、本質的ないみでは「愛 = 存在の状態」。

あるいは、、幸福を求めることは人間の本性です。
すべての人は無意識レベルでは真我をさがしている、ともいわれるが、

縁起の幻想世界においては、興味の対象が、良くも悪くも強調されてきます(※特定のいみで)。
人類全般の「さまざまな幸福探求の行為」が、

「リアリティ(二元相対性) ➡ ハイリアリティ(非二元絶対性)」 の質を総体的に帯びていくことで、

顕現世界に神聖さが、さまざまな形でリアル化してくると思われます。(★人知を超えている)

※究極のいみでは、、リアリティはつねにハイリアリティの表現・仮現(上記ニサルガダッタ)。

顕現世界はいわば、「二元性のちから ―― 非二元のちから」 がせめぎ合う、謎かけ挑戦ショー。

「ほんとうは、誰も人生の内容に介入できない」ってことを輪廻をまたいだ 包括的視点 で考えたなら、、

「全体性(集合意識の水準)の中で、あらゆる体験(要素)が巡っている世界」とみれるだろう。
生が幻想であるなら、死も幻想であり、神業的トリック下の神秘体験である。
「二元性のちから」は欺く力であり、「空間-時間」それぞれの観点での「二元性ギャップ(+苦)」
を集合意識レベルで増大させる。 ゆえに、包括的 or 人類全体的にみたなら、「全体性の水準が命」。

※以上、参考:「人類の運命(別ページ)」≫「★えとせとら」

❶ ある視点では、有る(存在する)。(=極論、幻想視点)
❷ ある視点では、無い(存在しない)。(=極論、実在視点)
❸ ある視点では、有り、また無い。 または、幻想として有る。(=中道-真理、混合・協調視点)
➍ 視点を定めない場合、表現できない。(=論外)

※参考: 前記「★釈迦いわく(有・無 と中道)」、別ページ「★パラダイムシフト」

※これは、「この世の存在」「行為者の存在」 の両方に当てはまる。 極論の世界観は、弊害も アリ。
近代文明の進行とともに問題になってくるのは、常識が極論になってること。 これは根本的要素。
「行為者の存在」について、、❶は「宇宙の原理」に、❷は「非顕現の原理(法)」に基づく。

これらを社会の中で協調させる方向(=❸)が、この先の私たち人類の幸福の道(になると思われ)。

あらゆる悪行や善行を超えた彼方に
緑の野原がある
そこであなたに会おう
魂がその草のなかで横になると
世界はあまりにも豊かで 言葉にできなくなる

by ルーミー

「不思議の国のアリス」巻頭詩(冒頭部のみ)

All in the golden afternoon
Full leisurely we glide:
For both our oars, with little skill,
By little arms are plied,
While little hands make vain pretence
Our wanderings to guide

ものすべて 金の光の昼下がり
我ら舟こぐ ゆたゆたと
二人の漕ぎ手は つたなくて
か弱い腕で オールこぐ
小さな両手で でたらめに
我らの遊びを 案内する

「鏡の国のアリス」≫ 夢を見たのはどっち?(アリス or 赤の王)

★鏡の国のアリス(全訳、翻訳専門サイト)
≫ 第12章 どっちが夢を?
≫ 第 4 章 トゥィードルダムとトゥィードルディー
<抜粋>「そして王さまがきみのことを夢見るのをやめちゃったら、きみはどうなっちゃうと思う?」
「別にいまのままここにいるわよ、もちろん」とアリス。(※中略)

「きみはどこにもいなくなっちゃうんだよ。 だってきみなんか、王さまの夢の中にしかいない ―― 」

※アリスの夢か? 赤の王の夢か?
<抜粋> 要するにアリスの現実世界からすると鏡の国はアリスの夢の世界であるが、
その鏡の国は赤の王が寝て夢見ている限り存在するという構造を持つのである。

<たとえば(仮解釈)>

❶:「赤の王」=「仮想システム原理(≒阿頼耶識 ≒プラクリティ)、的なもの(※鏡の国の)」。
「赤の王」はアリスの夢の中の世界創造に関与しているが、ほんとうに夢を見てたのは「アリス」。
―― 比喩的表現ってことになるが、内容(実質)としてはストレートな解釈。 あるいは、
❷:「赤の王」=「現実世界視点での、アリスの状態を表してる」 かな(※作者の本意は不明)。

ちなみに、❶・❷ を併合して連想するなら、、

「仮想システムが無知・錯誤的(壮大なボケ)なのは、『夢見(ボケ)状態の真我』を暗示している。
したがって、仮想システムの性質は基本的に、『非顕現(解脱)』を指し示している。

(⇒ 完全根本的ジョーク、謎かけ挑戦状)」  ―― というように関連解釈することもできる。
ちなみに、アリスの現実世界には「赤の王」はいないが、「赤の女王」は子ネコ(キティ)
として存在する(※鏡の国と現実を行き来するきっかけ的な存在)。

※関連: 映画「マトリックス」に登場する「アリス」ネタ

「鏡の国のアリス」巻末詩(岩波少年文庫、[訳]脇 明子)

A BOAT, beneath a sunny sky
Lingering onward dreamily
In an evening of July --


Children three that nestle near,
Eager eye and willing ear,
Pleased a simple tale to hear --


Long has paled that sunny sky:
Echoes fade and memories die:
Autumn frosts have slain July.


Still she haunts me, phantomwise
Alice moving under skies
Never seen by waking eyes.


Children yet, the tale to hear,
Eager eye and willing ear,
Lovingly shall nestle near.


In a Wonderland they lie,
Dreaming as the days go by,
Dreaming as the summers die:


Ever drifting down the stream --
Lingering in the golden gleam --
Life, what is it but a dream?

くれやらぬ 七月の宵
はれわたる 空をあおいで
ゆらゆらと 船はたゆたう


三人の 小さき娘
お話に 耳をそばだて
キラキラと 目をかがやかす


その空も とうに色あせ
思い出の こだまも消えて
秋の霜 夏を枯らしぬ


現し身の アリスの姿
いまははや 見るよしもなく
幻の 訪れるのみ


さはいえど 丸き目をして
お話に 耳そばだてる
幼き子 なおもあるらん


不思議なる 国をさまよい
長き日を 夢見て暮らす
つかのまの 夏果てるまで


金色の 夕映えのなか
どこまでも たゆたいゆかん
人の世は 夢にあらずや?  

◎ 仮想意識とその中に現れる世界は、ハイリアリティの仮現。 「 神性劇リーラ これにて閉幕 ♪ 」

◎ 夢の中身にほんとうの価値は何もない。 すべては空、無常、風の前の塵に同じ。

◎「世間は虚仮(※幻想)にして、ただ仏のみこれ真なり」 by 聖徳太子

◎「人間において偉大な点は、かれがひとつの橋であって、目的ではないことだ。」 by ニーチェ

◎ 解脱(成仏)とは、幻想・錯覚 がとり除かれること。

人間(or 人類)の深層心に歪みがあるために、私たちは一時的に自己を正しく自覚できてないだけ。


★Just A Dream: Nelly
★Catch Fire(Lyrics): Jenix                   ご通読、ありがとうございました。 成仏祈願!!!

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