輪廻転生を卒業しよう! 真我のハイリアリティ

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近年は地球文明(物質文明)も隆盛をきわめ、ここ日本もストレス社会となって参りました。
そこで宇宙の法を理解して、今生を縁に輪廻転生を卒業しませんか? 「一切衆生悉有仏性♪」

当サイトは作成者が「 行為者は存在しない 」ことを強制的に確信させられた、一連の不可思議な
体験(10数年前)を原点にして、関連書籍などを参考にし、多くの「 推測 」を交えて書いてます。

当サイトは 宗教的 なこと、主に 人間存在の真実 について書いてます。
この分野では、ある理由から、それを オブラート に包んで表現する傾向がむかしからあり、
それは仏教にも言えます。 しかし、仏教が興った約2500年前とは 時代・世相 が異なることと、
近年ではオブラートなしで表現する 覚者・解脱者 たちが続出してることも参考にし、
当サイトでは極力、真実をストレートに表現することを心掛けてます。

真実を知っている(その縁があった)、ということはこの 仮想システム内 で確実に有利に働きます。

なお、ここで書いてることは あくまで宗教的 であり、世間的には通用しない部分もあります。

★あなたは予め運命に定められた通りに、完璧なタイミングで「この文字」を読んでます。

★当サイトでは、形而上的概念に関する比喩表現(のようなもの)を多用しています。

★当サイトでは、「ハイリアリティ」=「至高の実在、真我、霊魂、真の現実」

「リアリティ」=「幻想性、仮想世界」、「●自己の存在性」=「幻想側の自己」 の意味。   2019.09.01

<見出し>
◎ 人間存在の真実 & 輪廻のゴール(まとめ)
◎ 真我探求のリアリティ
◎ 仏教とハイリアリティ(実在、真我、霊魂)
◎ いろは歌の解釈について・・終末メシア論(※オカルト)

人間存在の真実 & 輪廻のゴール(まとめ) ~ 人生は、不思議の国のアリス ~

◆この世界はいわば、共同仮想現実、完全リアル体験ができる VR のようなものである。
映画「マトリックス」は、まさにこれを裏テーマにしてる。(※「心」のトリックの世界。詳細後述)

◆究極視点では、現れた世界のすべては全自動の 縁起プログラム によって動いていて、個人は行為主体

ではない。 ほんとうは 私たち は、現れた世界の中には、いない。(自分の体験から100%断言、確実

◆人間は自我の催眠によって、本当はプログラムによって動いてるのを自分の意思で心体を動かしてる、と感じる催眠状態にある。 言いかえれば、行為者としての自己感覚を「自我(エゴ)」と表現できる。

◆しかし 仮装劇の中では、とうぜん個人に「行為の責任」が存在する(※宇宙の原理)。
つまり、社会(=幻想)の中には あくまで行為者が存在する、ということ(※視点の問題)。

※詳細:「★パラダイムシフトと倫理・中道(次ページ)」

仏教情報総合サイト ブッダワールド

「我(が)」:
自我の意。 行為主体としての自己。 永遠不滅の本体。自己主観の中心となるもの。

仏教ではこのような常恒の我を認めない。 存在は縁起によってなるものとし 無我の立場をとる。

※仏教では、「『諸法無我、諸法一切縁起』でありながら『行為主体』が存在する 」
という解釈はムリであるため、「究極的見地では、行為主体は存在しない」 というように説明されてます。

縁起プログラム(≒集合意識・宇宙意識)にも自性はなく、それも仮想システム内であるため、

「全体性のなかで、すべてが自然的に動いていて、影響しあっている (一切縁起)」
が的確な表現で、「縁起プログラムが動かしてる」は少しかたよった表現かも。(★阿頼耶識縁起)

人間:「縁起プログラムに動かされてる」 縁起プログラム:「人間の行動にも依存して動かされてる」

「人類全般の信念体系」や「高次の根源プログラム群」も、縁起プログラムの動き方に大きく影響する。


◆人生は、催眠の中にあらわれた「仮設行為者(=自我)」が行為の責任を問われ、または称賛される、
という神秘的なジョークであり、挑戦状でもある。 すべての現れは「仮想宇宙意識」の戯れであり、
人間の意識もその深層の宇宙意識の一部。(※その「仮設・催眠」を解除せよ、という 謎のゲーム

ここでは一部否定的な表現もするけど、ある意味では くそ最高のジョーク。 わるふざけ、の感もある。
しかし、根本原理の一部に「至高の理法」がふくまれるため、そこを確信することが重要。

そして催眠だとしても行為者の感覚が確かにあるわけだから、「今この瞬間」だけが勝負どころとなる。

ポジティブに言うなら、「分離から再統合へ、幻想から真実へと向かう よろこびの道」。

アドヴァイタ哲学(不二一元論)ではこれを、「★リーラ(神性戯れ・意識の戯れ・神性劇)」 いう。

◆本質的には、霊魂(真我)のアイデンティティ(私)が、仮想意識内(仮想世界内)に現れた身体と
自我のシステムに同化する。 このうち、自我システムへの同化のことを「自我の催眠」と表現できる。
◆生存中になんらかの方法で(または流れで)、「自我の催眠(=仏教での無明)」が解除されれば、
それはいわゆる悟りをひらいた(解脱した)状態で、その人は今生で輪廻転生を卒業する(おめ)。

by ラメッシ・バルセカール(インド銀行・元最高経営責任者) 《「意識は語る」より》

行為者という個人的感覚が消えるという意味で悟りが完全なとき、エゴは完全に消えます。 そのとき、

事実上エゴは消えたのです。しかし、肉体との一体化は続きます。なぜなら、肉体-心は機能しなければ
ならないからです。 個人的行為者としての一体化は消えるのです。(P196)

基本的には、悟りはたった一つのことを意味しています。 現実に見えたことが、実は非現実である
という突然の理解です。 そのときあなたは非現実を現実として経験します。 突然の超越の感覚、
超越のヴィジョンがあるのです。 すべては夢であるということが、もはや観念ではないのです。(P141)

《「誰がかまうもんか」より》

人間は、個人的行為者という余分で怪しげな感覚の才能、つまりはエゴのことですが、それをもつ対象物の一つの種です。 繰り返します。人間は、現象界の対象物全体を形成するその他すべての対象物と並んで、
対象物の一つ、対象物の一つの種にすぎません。(P58)

by ニサルガダッタ・マハラジ 《「意識に先立って」より》

▼質問者
でも、私がコントロールできることもあります。例えば、ここに来るかどうかをコントロールできます。
▼マハラジ
それは誤解だ。 何であれ、起こることは自然に起こるのだ。 このすべては意識のショー、あるいは
表現であり、その特性は変化だ。それは意識的な存在のダンスであり、意識にはそれ自体を楽しませる
非常に多くの異なる形態、技量、能力が機能している。しかし、その機能は単に自分自身を楽しませる
ためのものだ。 それは疲れると眠って休み、目覚めると活動や行為などの何らかの娯楽を必要とする。
それらはみな意識の中の見かけだ。それぞれは自分自身の寿命に従って続くが、基本的には正当なことも

重要なことも何も起きてはいない。 目覚め、つまり理解が起こるまで、あなたは自分を行為者だと

考えるが、いったんこの理解が起これば、働いているどんな実体もないことをあなたは知る。(P236)

今日の世界には非常に多くの人たちがいて、彼らはあまりに色々なことで忙しいので食べる時間がない。
彼らは立って食べている。 これがマーヤ(※幻想)の性格だ。 偉大なマーヤの原理のせいで、
あなたは彼女のすべての悪巧みをおこなう。 そして、あなたはまた彼女の言うことを忠実に守っている。

そして最終的には、あなたの光、あの存在(※意識、存在性の原理?)は消滅させられる。

それから、あなたはどこへ行くのだろうか?(P32)

意識があるゆえにあらゆるものが存在するのだが、意識自体は単なるそれ(※真我)の光にすぎず、

存在するそれの反映だ。(P292)  霊性は開かれていると同時に謎でもある。

あなたが存在するゆえに、すべての世界があり、宇宙もある。 これはあなたの反映なのだ。(P293)

意識とは、愉快で魅惑的なマハーマーヤー(偉大な幻想)、あらゆるものの中で最も壮大な詐欺である。

◆縁起のシステムは、根源プログラムに 「秩序」「遊び心」「混乱」 と関連する原理的要素が存在して
いて、「メタファー(隠喩)」「ジョーク(悪ふざけ込)」「ドラマチック(物語調)」 が好きである。
あとたぶん、「リズム(調子)」 が好き。

現象化のパターン(運命づけ)には、人間を霊的成熟に向かわせようとする力も確実にはたらいてる。


◆人間が体験するできごとは、自分の深層意識に保存してある過去の行為のデータ、または集合意識から分配されたデータのどちらかを使って現象化してる(※人間関係は過去の行為のデータが多いかも)。

◆人間関係においては 大まかには、自分と相手の「心」は、どちらも両者のデータの二重投影であり、

両者の深層のデータ(※複合・分散あり)が組み合わさって、心体の動きが定められる。(★因縁生起)

「二重投影」と書いたが、両者のデータはパズルのように合致し(=運命)、両者ともに自分のデータ(※分配ふくむ)の分だけの体験をする。 なので、自分にかかわるできごと(心体の動きふくむ)は、
自分が持ってたか割りあてられたかのデータの反映、とみるのが妥当(※行為責任あり)。
しかしそれは幻想(≒夢)のなかであり、究極的にはそのすべてが自己と無関係、という理解が最重要。
このデータは主に前世から現在までのもので、現象化されれば消える!! が、ネガティブ現象に関して
「過剰に」戦ってしまうと(※自我の反応)、新たなネガティブデータが保存されてしまう。 これは、
完全スルーするとポジティブデータとなる場合も多く、宇宙の法が定める ±ゼロのライン があるはず。

◆保存されたデータが現象化するまでの時間はさまざまであり、深層意識の状態と運命にもよるが、
おそらく平均的には、人生の全行為の 1/2 以上は来世にもちこされる(※これは推測)。


「宇宙の法(原理)」は完全に状況に応じて、きわめて複雑に流動的に作用する。 ある行為における
徳・罪 の判定には、周りの状況や行為者の状況、さらに心の動きも関与する。

当仮想システムでは「宇宙の法」の基準において、正当(または必要)なていどに悪事を責めることは、
正当(状況によっては必要)な行為である。
「宇宙の法」による善悪の判定の対象は、因縁生起レベルではなく、もちろん「現象レベル」になる。

◆あらゆる「苦」の根本原因は「自我の催眠」にある、と見抜いて賢く行動すれば、深層意識が直感的な何かを表層心に投影するようになる。真実はあるていど保護される設定になってる(※深層レベルの話)。

幻想のなかでは、それが真実。 仏教でいうなら無明。 つまり、幻想側の「仮の自己(心体)」の部分に
興味を持ちすぎることは、場合によっては「苦」をつくりだす要因になる。

★「世界はあなたがそれに与えるだけの力しか、あなたに対してもってはいないのだ。」 by ニサルガダッタ


◆この仮想プログラムは自然発生的に? 起こっていて、 厳密な意味での巨大知性を持ったプログラマー
(創造神)は存在しないが、神的インテリジェンスを含む原理が一切万物に浸透してる(八百万の神)。
◆ほんとうは 物事の運命は先ざきまで定まってる、という説もある。 少なくとも 起こることはすべて
定められた運命だが、真の自己である「気づき」を自覚することにおいて、私たちは自由があるかも。

◆本質的には「二元性は表裏一体」、ともいわれるが解釈の問題あり(※諸説)。
「サットヴァ(純質)」は、「二元性のちから」を削ぐ、「準非二元的な要素」である(※重要)。

◆この仮想システムは変化が基本特性で、つねに「全体性にて」バランスをとりながら運動している。
ある意味では、つねに必要なことが起こってるともいえる。 サットヴァ優勢で「調和・安定」の傾向!

しかし、基本的には正当なことも重要なことも何も起きてない、ともいえる。(★by ニサルガダッタ)

◆個人に関しては、公平性はナイといわれるが、壮大なスケールでみれば公平性に似た要素はあるかも。

★「全体性は一人ひとりの個人にとっての公平性や正義に関心がありません。もしあなたがそういう観点 ――
宇宙はつねに運動し、それでいてつねにバランスがとれています。」 by ラメッシ(別ページ 覚者たち)

※以上、参考:「人類の運命(別ページ)」≫「物事の流れは~(二元性の水準について)」

◆大雑把にいえば、輪廻とは、仮想意識内において一体化する身体を変えられ記憶リセットされながら、このようなたぐいの運動が発生するものと推測され、人生はそのなかの一片である。


◆人間が何か新しいことを始めたり、行動するにあたっては、「動機」が重要な要素 となる。

純粋な欲は悪くないが、表面的には、他者の利益のために行為すべき(※自分の利益も含まれてよい)。
動機がよければ、物事が即座にうまくいかなくても必ず後に良縁がつながるようになってる。

そして 本質的には、あらゆる行為は行為自身のためになされるべき(※自意識の問題)。 なぜなら、
実際は 分離した他者や個人的行為者は存在せず、私の心体の行為は私に対して 起こっている のだから。

あるいは、至高の神(≒私たちの真我)のためにすべての行為をなす、でも良いだろう。

行為の結果を除外して執着せずに利他的に奉仕すれば、それはより高度な「カルマ・ヨーガ」となる。

ヨーガ(サーンキヤ哲学)で言うと、、

自我の催眠(無明)とは、プルシャ(霊魂)がプラクリティから生じるグナ(要素)と結合してる、
またはグナを享受してる状態。 この仕組みのことを、ここでは自我システムとよぶ。

グナを超越(=解脱)した人は? その方法は?(↓)  ★プルシャとグナの結びつき(他サイト)

(★参考: 後記「サーンキヤ哲学」、「覚者たち(別ページ)」≫「その他」)

彼は中立者のように制止し、諸要素によって動揺させられず、諸要素が活動するのみと考え、安住して動かない。 彼は苦楽を平等に見て、自己に依拠し(充足し)、土塊や石や黄金を等しいものと見て、好ましいものと好ましくないものを同一視し、冷静であり、非難と称讃を同一視する。 彼は尊敬と軽蔑とを同一視し、味方と敵とを同一視し、一切の企図を捨てる。 このような人が、要素を超越した者と言われる。
また、不動なる信愛(バクティ)のヨーガにより私に奉仕する人は、これらの諸要素を超越して、ブラフマンと一体になることができる。(※私=至高神クリシュナ)《「バガヴァッド・ギーター(岩波文庫)」P116 より》


◆人間の知性は 創造プロセス(無知)により生じる産物で、プロセスの源が私たち(真我、真知)であるため、人間は創造プロセスを評価する立場にはなく、真に求められてるのは解脱して幻想の源を自覚すること。

※参考:「覚者たち(別ページ)」≫「世界創造原理 ‐ ドゥッカ・バカバン(by ニサルガダッタ)」

◆現象世界は心のトリックを使った幻想のため、条件・時節 さえ整えばどんなことでも起こりえる。
例えば、人類が深層意識レベルで進化して、ハイレベルな「霊的地球文明」が誕生する可能性もあるが、

それは案外、そう遠くもない未来なのかもしれない。 ※参考:「★人類の運命(別ページ)」

◆「現時点」の人類の DNA or 深層意識の構造、そして自然界のエネルギーバランスでは、生きながらに
自我の催眠がとけて解脱(真我実現)するのは全体的には未だ稀なケース、と言わざるをえないが、
しかし明らかに増加してきている。 現在、その部分の 転換期 にさしかかってる、といわれる。

◆人類のある程度に >仮想システムの理解 が起これば、人類の運命の本格的な転換期をむかえるのでは
ないか? と推測する。(※ジョークの世界。 すべては「Ⓐ時節しだい」なとこもある。
>「これは『仮想現実』で、すべては『縁起』していて、分離はしてない」 というようなこと。

基本的に言えるだろうことは、その理解度がひくい状態では「二元性(分離)」が全体的に強調され、
システム内で「苦」が増大して循環し、長期視点では誰にも本質的な利点はナイ(※Ⓐでは損害多し)。

(※集合意識の性質・仕組み、Ⓐ移行期として) ※参考:「★パラダイムシフト(別ページ)」

仮想システムの理解にもとづく適切な行動が起これば、その方向で良縁がつながっていくのは確かだが、
集合意識(エネルギーバランス)の変化により、そういう現象化パターンが促進されてきてる、といわれる。


◆仮想縁起プログラムは、人間と私たちの根本的な誤認を「幻想ショー」を通して指摘しつづけ、

ついに輪廻を卒業(解脱)させる、というプログラム設定になってる。 ★参考:後記の「サーンキヤ哲学」

◆輪廻の卒業については、ある程度以上に輪廻経験を増やしても意味がなく、仮想システムの理解
幻想ゲームを卒業する強い必要性 が、プログラム上(人の心)で起こることが重要とされる(=運命)。
それらが起こって行動をともなえば、そちらの方向で 縁がつながっていく。 現時点で多くの人には、
まずこの仮想システムの理解が起こらないために、延々と輪廻が継続されてる可能性がある。

私たちのあらゆる幸福の探求は、じつは無意識レベルでの真我の探求であるといわれる。(★by ラマナ)

解脱 or 輪廻卒業 を志す人は、仮想システムの根理(≒存在性への愛)をよく理解しようと試みながら、
執着を和らげていく姿勢が基本となる。 攻撃的な現世否定精神は、執着である。


◆もちろん、生存中に解脱しなくても、肉体死とともに成仏するケースはけっこうあると言われている。

幻想プログラムを卒業する意思とともに、「ほんとうは誰も行為者ではない」ということをよく考えて、
なるべく自我主体の行為をひかえ、ハート主体の行為を心がけて深層意識のデータを浄化していき、

「すべての認識の対象(世界、体、心、つまり意識の内容物)は幻想(≒夢にみられてる側)」

ということだけ確信してなるべく欲望・執着を放棄してしねば、死んだときに「迷いの輪廻」を卒業して
ニルヴァーナのハイリアリティ(真の現実)に目覚める可能性が高い(※あくまで生き方の話です)。

「仮に」輪廻したとしても、直感的な洞察と良縁にめぐまれた好ましい流れの運命を享受できるはず。
人生の中で「来世」という可能性を少し考えて行動するのは理に適ってるのかもしれないが、臨終間際につよくイメージすると卒業を妨害する可能性があるとかいわれる。


◆しかしながら、ほんとうはハイリアリティとの接点は、誰にとっても現在の瞬間にある。
眉間のうしろのほう(脳の視床)とハートの中心に、すべてである真我(≒無)との連結部がある、とも

いわれるが、これは幻想側を基点とした説明である。(※幻想視点  実際には身体を基点とせずに、

「意識内に身体が現れてる」という実在寄り視点をつねに意識することで、意識レベル(マインド以前)の自己感覚の目覚めを促すような説明が主流になっている。(※観照者視点
ただし、観照時の自己感覚は上記2点、またはそのどちらかに強く感じられるケースが多いっぽい。

しかし本当は誰もがつねに意識の観照者(真我)であり、誤認が起こってるだけ。 心の浄化が十分なら、「私たちは意識を観てる側だ!」 ということに繰りかえし注意を向ければ、すでに真我だったことに
即座に気づくこともあり得る(=解脱、輪廻卒業確定)。(※実在視点
いずれにしても、心(表層・深層)をととのえて執着(とくに自我への)を放棄することが要求される。


◆生きながらに催眠が解けて解脱した場合、「自我」への同化は解除されるが、「身体(心)」への同化
は必ず残る(※身体同化の解除は「死」をいみする)。 この場合、メインの自己感覚は真我の側になり、
人間としての自己感覚は、非個人的な無限の真我 が幻想内に反映された小さな側面となり、自分が人間だ
とは感じなくなる。 この状態は「私(自己)がない」と表現されることもあるが、同じこと。

★「個人的行為者(行為主体)」の感覚は消える(※すべて自動的、自然体、世界は私の表現・仮現)。
★「物質世界・時間空間」の存在は意識に依存してて幻想的、と感じる視点(=観照者・真我)がある。

厳密にいうなら、「あるいみ行為者のような、微妙な感覚」はあるのかもしれないが、つねに同時に
「行為者は偽り」という感覚・視点(=観照者・真我)があるため、個人的行為者は完全に消える。

この状態は現実的なパワーがある(※縁起のいみで)。 メンタルシステムの最大の障害物である自我が

抜け落ちるので、心は エナジー と喜びに満ち、つねに現在の瞬間を直感的に的確に捉え、慈悲深く注意深く
道理にかなった振るまいをするようになる。 ネガティブ感情も起こるが、同時に観照が起こるため、
幼子のように速やかに消えていく。 水平的に巻き込まれることがなく、垂直的に切りはなされる。

(※それを掴む「私」がそこにいない、つねに根底には静寂)

肉体的な痛みは、肉体レベルでは普通の人と同じように感じるが、同時に真我レベルから観照される。
「幻想内の心や仮の自己(=身体同化)は苦しむが、、メインの自己(=真我)はこちらから観ている」

という、あるいみ矛盾した認識状態。

※解脱後でも以前の古い「心の反応パターン」がでることもあるし、もちろん個人差や個性はあるけど、
大まかに言うと、上記のような感じになるらしい。(※ニサルガダッタの動画など。後にリンクあり)

◆なお、解脱してなくても心を浄化して、真我の「 認識力・気づき 」が意識内に反映された純粋な部分
(=観照意識)を自覚できれば一時的な観照が起こるようになり、「自我の催眠」の概要が感覚的に
わかる。 その状態では、主体(=観照意識)と客体(=意識の内容)は未だ分離しているが、
客体のなかの偽主体(=自我)が「偽り」であることは、(おぼろげながら)理解される。

※「観照」とは、心の動きに影響されずに意識の内容を観ること。
観照が起こってるときは、思考・感情に巻き込まれず、即座に切りはなされる。(※解脱者は常時)
つまり、自己と心(思考・感情)のあいだに距離感があるのが観照状態で、それ以外は巻き込まれてる状態。

※観照について、参考:「覚者たち(別ページ)」≫「★ラメッシ(解脱するとどうなる?)」


◆人生とはいわば映画を観てるようなもの。 私たちは本当は真っ白なスクリーン(=ハイリアリティ)であり、その中の小さな点(=霊魂)でもある(※実在の側は論理が通用せず)。 その小さな点が、
登場人物の視点から映画の中の世界をみてる(衆生本来仏)。 自由は、その自覚をとり戻すことにある。

◆つまり、人間はいわば夢にみられてる側であり、「自己」は夢をみてる側であり、ほんとうの意味では
誰も生まれず、誰も死なない、誰も何もやってない。 「自分が世界の中を動き回ってる」という感覚は
身体同化(幻想視点)によるもので、実在視点では、ハイリアリティの真の現実において霊魂の面前で、
世界創造原理「私は在る」により意識(仮想空間・世界)が仮現して、霊魂(自己)が自己同化した

人間(仮の自己)が動き回ってる「シーン」が現れる。 ※参考:「★唯識無境(ニサルガダッタ語録)」

◆言いかえれば、、真実は私たちは意識を観てる側(主体)であり、意識とその全内容は客体で、それは
究極は主体の側の仮現でもあるが、自我システムはその客体の中に偽主体(仮の自己)を設定するので、
催眠が解ければ 時間と空間を超えてここにある原初の状態 を自覚できる(=解脱)。

解脱後も身体への同化は必ず一部のこるが、催眠下ではそれがすべてになってるということ。
ほんとうは誰もがその原初の位置にいるから世界を認識できるわけだが、誤認が起こってるということ。

★by ラマナ・マハルシ(16歳で真我実現した20世紀最強クラスの賢者) 《「あるがままに」より》

もし誕生があるとするなら、一度の再誕生だけではなく、転生の連鎖の全過程が存在することになる。
なぜ、どのようにしてあなたはこの誕生を得ることになったのだろうか?
いままで同じ理由で、同じように、あなたは次から次へと再誕生してきたに違いない。

だが、もしあなたが「誕生したのは誰か?」と問いただせば、そして誕生と死があなたに起こったのか、
それともまったく異なる誰かに起こったのかと尋ねれば、そのときあなたは真理を悟るだろう。
そしてその真理がすべてのカルマを焼き尽くし、すべての誕生からあなたを解放するだろう。(P345)

至高の真我から見れば、この蜃気楼のような世界のなかで生を授かるという幻想は、
「私」と身体との同一化 という利己的な無知以外の何ものでもない。 真我を忘れはてた者たちは、
生まれては死に、死んでは再び生まれることだろう。 だが、至高の実在を実現して心が死にはてた者は、
生死を超えた実在のなかだけにとどまる。(P336)

※参考:「覚者たち(別ページ)」≫「★ラマナ(秘められたインド)」

※参考:「覚者たち(別ページ)」≫「★ニサルガダッタ(意識に先立って)」 に関連項目 アリ。

~ 梵我一如について ~ (※私の解釈が間違ってる可能性もあります)

★「梵我一如」とは?
ウパニシャッドによれば、アートマン(我)は個人に内在する原理的実体であり、肉体の死後も存続して
輪廻の主体となり、宇宙原理たるブラフマン(梵)に合一したときに(梵我一如)、輪廻から解放される。

★《シャンカラいわく》 この世の万物はそれ(最高実在・ブラフマン)を本質としている。
それは真にあるものである。 それはアートマンである。

「身体がアートマン(自己)である」という一般の人々がもつ観念と同じほどに、それを否定する信念が
強固な人は、望まなくても解脱する。

★《「ウパデーシャ・サーハスリー」([著]シャンカラ、[出]岩波書店)》

≫ 太陽光線に照らされると、赤色などの形相が宝石のなかに輝き出るように、私が存在すると、
一切万物は統覚機能のなかにみえるようになる。(P32)
≫ 認識というアートマンの光輝に照らされて統覚機能は、自分自身の内に認識があり、他には認識主体は
存在しない、と考える。 これこそじつに統覚機能にある錯乱である。(P99)
≫「私」という観念の主体(=統覚機能)は、自分自身のアートマンはつねに苦痛をもたないのに、
(自分自身の苦痛を)、自分自身のアートマンに付託する。(P130)

実在の側は基本的には、「概念・時間・空間が通用しない、論理的でない、描写不可能」とされていて、
個別性(霊魂的なもの)と全体性(ユニシティ)の関係については、曖昧に言及されることが多い。
しかし、実在側を意味する「アートマン・ブラフマン・パラマートマン・パラブラフマン」などの概念が
一応あるので(※定義が不明瞭な部分もあるが)、この分野での実状と自分なりの考えを書いてみたい。

しかし、すべての言葉・思考は「概念的」であることは、ご理解ください(笑)。

すべての言葉での説明は、真実ではなく、「たとえ話」と捉えるといいかも(※覚者の説明もふくめて)。
ここで書くような形而上学的な話には、本質的な重要性はない わけです。 まぁ気になる人向けというか。

まず、「アートマン = 霊魂・真我(個人の根本原理)」「ブラフマン = 至高の実在(宇宙の根本原理)」
について。 古代インドの哲学書「ウパニシャッド」には、「梵我一如」(※解脱の境地)の思想があり、
アドヴァイタ哲学にも受け継がれている。 これは解釈が分かれるが、主に、「アートマンとブラフマンは、
①完全に同一である。 ②本質的・根本的には異ならない(≒ 表面上は異なるが分離はしてない)。」
の2つの説に大別できる。 かんたんに言うと、「(霊魂の)個別性」要素が「残らないのか、残るのか」。

これは、古代の解脱した人によってそう表現されて、基本的には賛同を得つつも上記の疑問点がのこされ、
古今東西にて多くの議論がなされてきた思想。 ひとつ言えるだろうことは、基本的に解脱者というのは、
身体接続を残した有余涅槃の状態 において自分(←人間じゃない)が自覚してる境地を、全自動マインドが

直感的になんとか解釈して表現してるのであって、必ずしも形而上学的(構造的)な意味において的確に
説明してるとはかぎらないということ。 また、探求者の状態にあわせて方便を使うケースもあるだろう。
だから、大まかには同じようなこと言ってる場合が多いけど、表現・見解のいくらかの相違というのはよく
みられるし、大きな違いがでる場合もある。 そして忘れてはいけないのは、これはそもそも、

「概念的でなく、マインドのレベルでは把握不可能、描写不可能」 な何かについての話であるということ。

釈迦仏教は原始仏典をみるかぎり、②のように感じられる(※後記の「原始仏典から抜粋」、など)。
ジャイナ教(別ページ掲載)は、完全に②である(※解脱後の霊魂の個別性を ハッキリ と主張してる)。
近代の覚者らは人によるが、当サイトに掲載してるなかでは、「ニサルガダッタ」「ラマナ(上記)」は
微妙な表現が多くみられるが、基本的には②だろう(※とくにニサルガダッタは多くの説明が②を示す)。
「ラメッシ」は、実在側の個別性を認めてないように受けとれる発言がみられ、①かもしれない。

そして、インドの覚者らの説明というのは伝統的・習慣的に、「カースト制」という厄介な社会の闇の影響

を受けてる可能性もある。(※参考: 後記「仏教とハイリアリティ」≫「★カースト制度と仏教、ほか」)
なお、この「梵我一如」の関連と、「肉体死後に真我はそれ自身に気づいているか否か」という点については、一人の覚者でもときによって(または時期によって)矛盾するような発言がみられたりもする。
しかし死後については、ほんとうのところはそうなってみないと正確には分からない、といえると思う。

★「自分の本質と全体の潜在的可能性に気づいた者が、どうしてこの制限された状態の与えるものに

満足できるだろうか?」 by ニサルガダッタ

まぁこれは伝統的な論点だが、解脱者の感覚・視点というのは普通には理解し難い部分はどうしてもある。
「ラマナ(別ページ)」のように、「解脱によって自己を失うことはなく、むしろ発見する。 そしてそれは
永遠の自己であり、終わりのない幸福である」というかんじの説明はよくみられる。 しかしその一方で、
「ほんとうは一つの『私』しかない、観照者は一者しかいない、個別性は一切ない」との説明もみられる。

つまりこれは、「非顕現の一者(至高神)」が顕現側に無数の「私」として反映されたのが人間の自己存在
であり、解脱すると「個別性の要素は完全消失」して一者だけが残るが、そこで自己を失う感じはしない。
この不可解さこそが「神」であり、これはそのようなジョークである、ということ(※=完全な①)。
この説明はふつうには理解しがたく、ぶっとび感はあるが、一部では受け入れられてたりもする。

しかし正直いって 現時点では、私はこの説を懐疑的にみているが、もちろん私は解脱者ではないし、

形而上学的な意味で自分の考えを書いてるだけであることは断っておきます。

そして、ほんとうに観照者が一者だけなら、なぜ解脱者は他者の心をつねに覗いてる(観照してる)状態に
ならないのか? という疑問もとうぜん起こってくる(※とくに解脱者同士)。そうならないということは、身体との接続部位やその周辺に個別性の要素がのこされてる、ということを意味するように思う。
まぁ解脱者というのは、真我(自己)の気づきのなかで仮現としての世界をみるので、他者の心を直感的に
よむ能力は高くなるみたいだし、もちろん「自己から分離した他者」という感覚はナイとされる。

つまりこれは解脱者の感覚上・表現上のもので、事実の正確な描写ではない、またはある局所的な観点から

の描写ではないか? という感が払拭できないわけ。

そこでここではこの問題に関して、次項「仮説(梵我一如)」を提案したい(※というか解釈の一つ)。

ということで、当サイトはあくまで②の観点です。 もちろん、
「究極の本質(一者)においては、分離は存在せず、個別感はなくなる」 のような説なら納得できる。

また、「観照者が一者」というのは、「認識力(知覚)が誕生するところが、究極の本質(一者)」という
ような意味なら納得できる。

まぁアドヴァイタ哲学の元祖(シャンカラ)の説は①なんだけど、分派や派生説はいろいろあります。
というか流れとしては、ウパニシャッドで「曖昧さのある『梵我一如』」が説かれ、ヴェーダーンタ学派の

「ブラフマ・スートラ」では「アートマンはブラフマンの部分である(=不一不異 ②)」と説かれてたが、

その観点を微妙に変えて「不二一元論」の立場で「ブラフマ・スートラ注解」を書いたのが、シャンカラ。
不二一元論はその内容から、カースト廃止運動家たちに支持されてきた側面もある(※ナーラーヤナ・グル など)。

★ベーダーンタ学派の「不一不異説」

★《参考》「シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド(中期、BC300~BC200年頃)」より

個我(アートマン)と刺激する者(神)とを別々と考えて、そののち、かれ(神)に嘉せられて不死に達する。
享受者(個我)・享受される対象(世界)・刺激する者(神)を考えて、すべては述べられた。
これは三態のブラフマン(宇宙の最高原理)である。

by ニサルガダッタ・マハラジ 《「意識に先立って」より》

意識が起こる前の原初の状態を描写することはできず、人はただそれであることができるだけだ(P279)

あなたが「私は在る」というこのアイデンティティをもって、自分自身を絶対から切り離すとき、あなた
は分割され、孤独を感じる。だから、あなたの要求が始まるのだ。 絶対においては、何の必要もない。
ただ絶対だけが行き渡っている。

真実とは完全なるブラフマンだけで、ブラフマン以外は何もない。 完全なるブラフマン状態の中で、
「私は在る」という存在性の感触があり、それとともに分離が始まり、他者性が入って来る。(P31)

この「私」はそれぞれのレベルで異なってはいないことを理解しなさい。
絶対としての「私」は、顕現するときに形を必要とする。その同じ絶対の「私」が顕現した「私」となり、その顕現した「私」の中では、それはあらゆるものの源泉である意識だ。(P259)

by ラメッシ・バルセカール 《「誰がかまうもんか」より》

あらゆる先生がユニークであり、明晰さか混乱のどちらかを生み出しています。 ですから、
もし教えというものが混乱を生み出すとしたら、それはなぜでしょう? (※中略)
では、どうして先生たちは混乱しているのでしょうか? なぜなら、それが神の意志だからです。(P35)

~ 仮説(梵我一如 ①を内包した②)~ (※私の解釈が間違ってる可能性もあります)

★by ニサルガダッタ・マハラジ 《「I AM THAT 私は在る」より》

≫ すべての聖典は、世界が存在する前に創造者が存在したと言っている。(※中略)

創造者以前に存在したのは、すべての世界とその創造物の源である、あなたの真我だけなのだ。(P225)

≫ 誰もが自分自身の世界をつくり出し、己の無知によって監禁され、そのなかで生きているのだ。
私たちのしなければならないことは、牢獄の実在性を否定することだけだ。
(※中略) 死と誕生を観照し、しかもけっして生まれず死ぬこともない、その人とともにある、

ただ彼だけが創造の種子であり、最後に残るものなのだ。(P226)

≫ 至福の原因を「私ではないもの」のなかに探求することによって、束縛がはじまるのだ。(P123)

≫ あなたがあなた自身を何か現実の実体のあるもののひとつとして、時間と空間のなかに実際に存在し、
短命で壊れやすいものだと想像するならば、当然、あなたは存続し、拡大していくことを切望するように
なるだろう。だが、あなたが時間と空間を超え、今ここの点においてのみ接触し、そうでなければすべて
に遍在し、すべてを抱擁する、到達不可能、難攻不落、不滅なるものだと知るとき、もはや恐れることは
何もなくなるのだ。 あるがままのあなたを知りなさい。(P504)

≫ 宇宙のなかには悟り、そして解放のために働いている力があるのだ。 私たちはそれを
サダー・シヴァと呼んでいる。 彼はすべての人のハートのなかにつねに存在している。(P481)

★ヤージュニャヴァルキヤ は古代インド(BC700年頃)の聖仙で、初期ウパニシャッドに登場。 曰く、

「この世界はすべてアートマンにほかならず、それは唯一のものである。」

しかし一方で、アートマンは純粋な意味での認識の主体であるから、決して認識の対象にはなりえず、
概念的に解釈することも描写することも不可能であることを示し、
アートマンは、「ではない、ではない(ネーティ、ネーティ)」としか言いようのないことを説いた。

※初期ウパニシャッドでは、宇宙の根本原理は「アートマン」だったり「ブラフマン」だったり、
またそれらは個人の原理でもあったり、この2つの言葉は混同して使われている(※下記pdf)。
そのあとで、「アートマン = 個人原理」「ブラフマン = 宇宙原理」 の定義がいつの間にか定着して、
「梵我一如」が言われだしたっぽい。 ★参考:梵我一如とウパニシャッド(pdf)

これはニサルガダッタの説明などが根拠だが、正誤は不明。 以下は、「言葉の定義の問題」を含みます。
この分野では実在をあらわすのに、前記の2概念のほかに、使用頻度は低いが以下の2概念が存在する。

「パラマートマン = 至高の真我・大我・全体性?に融合した真我・《昇華したアートマン?》」
「パラブラフマン = 至高の実在・ユニシティ(均質性全体性)・絶対・源泉・《昇華したブラフマン?》」

(※パラマートマンはヴェーダーンタ学派が言い出しっぺだが、ブラフマンとの関係などの定義が曖昧?)

ここで、「パラマートマン = ブラフマン(完全に同一)」 と考える(※そういう解釈もある)。

すると、前記①を再考したくなってくる。 つまり定例解説のように、幻想内の 身体との設定上の接続点、

という意味でのアートマンは、幻想外ではブラフマン(パラマートマン)と完全に同一、という解釈。

ここで、「一人一宇宙」(※参考:別ページ「唯識無境」)を考えてみて欲しい(※深層では繋がってる)。

この考え方はニサルガダッタの教えにもよくでてくるが(世界はあなた自身のマインドだ、みたいな)、

「唯識無境」の項で書いたところの、万華鏡(= 世界創造原理「私は在る」)を覗いてるのがブラフマン

(※個別性ありの真我)で、これがアートマン(霊魂)と基本的に同一ということになる。 つまり、

個人が体験する世界は、その人に接続してる「ブラフマン(アートマン)」が仮現した幻想であると。

この場合、「パラブラフマン」と「ブラフマン(=パラマートマン、真我)」の関係が、「梵我一如」に
おける「梵・我」と同じような関係になり、疑問点(理屈が通じない点)はもちろん残るが、人間の本質は
「ブラフマン(仮想宇宙の根理)」まではワンネス? の個別性(=無限の真我)で(※分離はしてない)、

究極の根源である「パラブラフマン」において 真のユニシティ(統一生命場)となっていることになる。
しかし実際は、解脱すればパラブラフマンのユニシティが実現されるぽい。

「一人一宇宙」なら、根理・ブラフマンも個別性をもつ、と考えるのは自然ではないだろうか? ただし、

ここでの 個別性(ブラフマン)は、「私は在る」において全宇宙を仮現するから、その意味では全体性。

映画でいえば、スクリーン表層がブラフマンで深層がパラブラフマン。 ブラフマンから映像が立ち現れる。
あるいは、スクリーン自体がパラブラフマンでその表層部分がブラフマン、としたほうがいいかも。
こう考えるなら、「世界は『非顕現の私』の反映・表現、全て一人芝居」 というニサルガダッタの説明も
一応納得いくし、「あるいみ完全な『梵我一如』(≒前記①)」 もすんなり受け入れることができる。
まぁ内容的には ①を内包した②、という感じだけど。

これは一般的な「ブラフマン」の概念を、「個別性(ブラフマン)」と「全体性(パラブラフマン)」に、

明確に分けただけです。 そもそも「梵我一如」においては、個人原理と宇宙原理は同等でもあるのだから
無茶ではないはずだし、ウパニシャッド哲学の一部や ニサルガダッタの説明はほぼ コレ を意味してるぽい。

ちなみにこの仮説で考えた場合、「顕現側(仮相)と非顕現側(実相)は相似形」と言えるかもしれない。
《顕現側》: ❶肉体 ≫ ❷表層・個別意識(顕現全体) ≫ ❸深層・集合意識(阿頼耶識)
《非顕現側》: ❶霊魂(アートマン) ≫ ❷ブラフマン(真我、パラマートマン) ≫ ❸パラブラフマン(根源)

※ここで言われてる「パラマートマン」は、上記の意味での「ブラフマン」と同義ではないだろうか?

by ニサルガダッタ・マハラジ 《「意識に先立って」より》

▼質問者

パラマートマン(至高の自己)と ジーヴァートマン(個人の魂)の違いは何ですか?

▼マハラジ

あなたは部分という観点ではジーヴァ(個人の魂)を、全体としてはパラマートマンを考えるが、違いは
何もない。 それは肉体の中に限定されているときは一時性や、時間の単位、ジーヴァの様相を呈する。
寿命の終わりに、それはパラマートマンに融合する。

▼質問者
全体であるパラマートマンが、なぜ部分である肉体にそれ自身を制限するのでしょうか?
▼マハラジ
それにはどんな理由もない。それはただ起こるだけだ。

しかし、パラマートマンの中には存在への気づきがまったくなく、ただ気づきへの気づきがあるだけだ。

存在への気づきが現れるやいなや、二元性が現れ、顕現がやって来る。(P107~108)

★パラマートマン(至高の自己)が核なる真我であり、最高の真我だ。
そのアイデンティティにはどんな汚れもなく、空間よりも霊妙だ。(P64)

一つの影が「なぜ?」を知りたがっているのだ。 一人芝居 の中で一人の役者が演じる様々な登場人物の

一人が、「なぜ?」を知りたがっている。その答えとは、「なぜそうであってはいけないのか」となる
ことだろう。 実際はどんな質問もありえないのだ、「なぜ」も「なぜそうであってはいけないのか」も。

なぜなら、実際はどんな質問者もいず、ただ観念しかないからだ。 顕現は夢のようなものである。
なぜ夢は起こるのだろうか? 《「ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの」P73 より》


◆厳密にいえば、「世界(心・体ふくむ)」とは集合意識から各表層意識(統覚システム)に投影される
知覚イメージ(仮象)であり、感覚器官が捉えてる(との設定で投影される)部分以外は現象としては
存在してない。 しかし 各人が体験する世界は、深層に共通のデータ設定があり完全リンクであるため、

「人類共通のこうした世界体験がたしかに存在する」 といえるが、少なくとも 物質世界 は実在せず、
「世界、という意識体験」が現実である。(※共同仮想現実)

解脱者においても、マインドレベル(知覚レベル)では、物質世界は完全リアル的に知覚されます。

つまり、私たちがリアルに体験している時間と空間の仮想世界は、各人の 意識に依存して存在 し、
世界創造原理(意識)という超ウルトラ神業的な幻術装置 を使うことでのみアクセスできる仮の世界」
であり、世界は霊的なもので、それは「非顕現の私(=実在)」の低次元の表現・仮現 であるという。

これは、リアル体験されるけど根本的に仮想空間、という点では「マトリックス 的」と言えよう。
「世界(対象)」「体験意識・知覚)」「体験者(心)」「気づき(意識への)」 の各要素について、
「体験」は「気づき」の副次的要素であり現実(真実)だが、「世界(対象)」と「体験者(心)」は
「意識体験(気づき → 体験)」にふくまれる幻想的な要素である。(★関連後述)

ほんとうは、私たちは仮想意識(=リーラ)を観てるだけで誰も何もやってない。(マチガイナイ)

仮想世界の構成要素は、、あるいみでは意識(表面的には個人の表層意識、本質的には宇宙意識)だが、
それもハイリアリティの仮現。 なお、真我を「意識」と表現する覚者もいる(※別次元意識)。
真我(非顕現意識)と顕現意識は表裏一体 なので、あまり区別しないで説く人もいる(※↓この2人)。

※「世界は知覚されたときのみ存在する、の理論」:「覚者たち(別ページ)」≫『ラマナ、ラメッシ』
※以上、関連:「★おかると物理学(量子論、ほか) ~ 2015年以降 仮想現実説は ほとんど証明済 ~」
「★唯識関連(阿頼耶識縁起、唯識無境、ほか)(❷参考:ページ下部『ニサルガダッタ、ラメッシ 語録』)」

★「世界とはマインドの表面だ。そしてマインドは無限なのだ。」 by ニサルガダッタ(別ページより)

★「本来のあなたとしてのアイデンティティがあり、その上に個人が重ねられているのだ。」 by ニサルガ
★「人は幻想世界の本質を無視する。」 by ルパート・スパイラ(下記「覚者たちの言葉」)

★by ニサルガダッタ・マハラジ 《「I AM THAT 私は在る」より》

誰かが至高の実在と、それへの道について語らなければならないのだ。(P323、プルプル 震えながら)

あなたは世界に属するのではない。 あなたは世界の中にいるのでさえない。 世界は存在しない。
あなただけが在るのだ。あなたは想像の中で世界を夢のように創造している。あなたがあなた自身を夢から
分離できないように、あなた自身から独立した外側の世界をもつこともできないのだ。 独立しているのは、

世界ではなくあなただ。 あなた自身が創造した世界を恐れてはならない。 幸福と実在を夢のなかで探そう
とするのはやめなさい。 そうすればあなたは目覚めるだろう。(P471)

《「I AM THAT 私は在る」P358、ほか》

▼質問者
私は何か絶対的真実からはじめなければなりません。そのような何かがあるでしょうか?
▼マハラジ
ある。それが「私は在る」という感覚だ。 それからはじめなさい。
▼質問者
それ以外の何も真実ではないのでしょうか?
▼マハラジ

ほかのすべては真実でもなければ、偽りでもない。それが現れると真実のように見え、否定されるとそれは消え去るのだ。 一時的なものは神秘的だ。

※これ(↑)は、後記の「★釈迦いわく(有・無 と中道)」と同じようなこと言ってる。
▼質問者
私は実在は神秘的なのだと思っていました。
▼マハラジ

どうしてそうありえるだろう? 実在はシンプルで、オープンで、明らかで、優しく、美しく、そして

喜ばしいものだ。 それは矛盾からの完全な自由なのだ。 それはつねに新しく、つねに新鮮で、かぎりなく

創造的だ。 存在と非存在、生と死、すべての区別がそのなかで溶けあっている。

▼質問者
もしものごとの形が単なる現れでしかないなら、実際には、それらは何なのでしょうか?
▼マハラジ

実際には知覚だけがある。 知覚する者と知覚されるものは観念であり、知覚しているという事実が
現実のものだ。

▼質問者
絶対なるものはどこから来るのでしょうか?
▼マハラジ

絶対なるものは知覚の誕生する場所だ。 それが知覚を可能にするのだ。――

あなたのなかには分析もマインドも超えた存在の核心がある。 あなたはそれを行為のなかでだけ知ること
ができる。 日常生活のなかでそれを表現しなさい。 そうすれば、その光はつねに明るく光り輝くだろう。

=(ほか)=

誰もが世界をその人自身の観念を通してみている。 あなたが自分自身をこのようにあると考えるように、
世界もあなたが考えるようにあるのだ。 もし自分自身が世界から分離していると考えるならば、
世界もあなたから分離して現れる。 そしてあなたは欲望と恐れを体験するだろう。(P141)

すべてをあなたの存在の源である光から出現したものとして見なさい。 その光のなかに、

あなたは愛と無限のエネルギーを見いだすだろう。(P215)

人びとは快いことを善と見なし、苦しいことを悪と見なすのだ。――
苦しみを増長することが悪であり、それを取り除くことが善だ。(P530)


◆まとめると、次のようになる。

◎ 人生は、鏡の国のアリス。 謎の幻想ショー。 高度なジョーク。 謎かけ神性ゲーム。

◎ 私たちはほんとうは、リーラを観てる側であり、それは観られる側すべての源泉でもある(仮現)。
「世界 = 自分の心(幻想側)」あるいみで一人一宇宙、 深層レベルは人類一宇宙、 深層から投影」
私たちが体験する世界は、大まかには、(仮の自己の)深層のデータの反映。

※以上(一人一宇宙)、参考:「パラダイムシフト」≫「昨今の世相について(★ニサルガダッタ語録)」

※たぶん、「深層にいくほど よりミクロ次元」「ミクロ次元であるほど ★より本質的」(物理的に)。
現象世界を とことんミクロにみていくと、マクロな世界の痕跡は消えてくけど、「次元」が変わる? かも。
(★超ひも理論、別ページ掲載)

あるいみでは(表面的には)「一人一宇宙」、本質的には「人類一宇宙」、が適切な表現かと。
どちらにせよ「宇宙」は仮想(仮象)なので、観点と表現の違い ってこと。

◎ リーラとは、「行為者が存在する、という設定」の神性劇であるため、社会(=幻想)の中には、
あくまで個別の行為者と行為の責任が存在する・・(としか言いようがない)。

◎「個人的行為者、分離の物質世界」 の感覚は「幻想」であり、すべてのうごきは「縁起」していて、
すべては私たちの 統一生命場、真の現実、源泉 である ハイリアリティ の仮のあらわれ(仮現)。

◆いずれ人類は、こういったようなことを(類似ふくめ)、受け入れていく流れになると思われる。
下の「覚者たちの言葉」で、物質主義では500年存続できないと言われてるけど、たぶん変化する運命。

はっきり言うと、現文明は今世紀を変動期としてガラリと様相が変わる可能性が高い(※みた目でなく)。

現在、自然界のエネルギーバランスが人類の変容を促すよう急速に変化してきてる、といわれている。
霊的な種別(グループ)?ごとに、変化の時期が定まってるとか 定まってないとか。

物質文明の成熟期を迎えたいま、私たちは変化に適応するために準備していくべきではないだろうか?

《書籍の紹介》「ニュー・アース ‐ 意識が変わる 世界が変わる」(by 世界的教師 エックハルト・トール)

時は来た。 ついに人類は次のステージに移る。 その準備は出来ているか? (帯のそでより)

まだ全員というわけではないが、準備ができている人は多いし、一人が目覚めるたびに集団的な
意識のうねりは大きくなり、その他の人々の目覚めが容易になる。
―― もちろん自らの狂気を認識することが正気の台頭であり、治癒と変容の始まりである。

すでに地球上には意識の新たな次元が現れ、最初の花々が少しずつ開き出している。 (第一章より)

◆人間はこの「リーラ」を評価する立場にない、ともいわれるが、あえて一言感想を。
これは悲劇であり 喜劇でもあり、かんぜんに「本気」の、神秘的で美しく壮大すぎる糞ジョークである。
一つ確実に言えるのは、、根本的には人知がまったく及ばない(ぶっ飛んでる)、ということ。
仮想システム自体が、「無知・錯誤」の上に成立してる ようなものであって(★別ページ 人類の運命)、
世の中のいろいろな局面や、真面目に書いてるこのサイトも含めて、これは只の「お笑い」にすぎない。


※「覚者たちの教え(別ページ)」 と少し被ります。

ニサルガダッタ・マハラジ(近代の覚者のなかでも前衛的な巨匠。タバコ屋の親父)

《以下、「意識に先立って」P228》

★私は意識とその意識の中に起こることは何であれ、巨大な詐欺にすぎないという結論に至った。

この詐欺を犯している人は誰もいない。それは自然発生的な出来事だ。この詐欺の犯人は誰もいない。

《以下、「I AM THAT 私は在る」》

★意識をあなたのなかにではなく、あなたに対して起こる何か外部の、異質な、あなたの上に押し重ねられたようなものとして見るときにだけ、それを超えることが可能なのだ。
そのとき、あなたは突然意識から自由な、まったくひとりの、何の干渉も入らない状態にいる。(P400)

★私たちの唯一の希望は、止まって、見て、理解し、記憶の罠から抜けだすことだ。 なぜなら記憶が想像を
あおりたて、想像が欲望と恐れをひき起こすからだ。(P434)

★すべての闘争の根本には、「私」と「私のもの」という観念があるのだ。 それらから自由になりなさい。
そうすれば、あなたは闘争から解放されるだろう。(P433)

★マインドと世界はひとつだ。 あなたが世界として考えているものは、あなた自身のマインドなのだという

ことを理解しなさい。(P521)(※共同仮想現実)

★[問い]あなたの国の人々はカルマや因果応報という言葉を使います。

それはただ総体として真実に近いというだけだ。 実際には、私たちは互いの創造者と創造物であり、

互いの重荷の原因であり、互いの重荷の重さに耐えているのだ。(P434)

★[問い]私にはあまりにも多くのなすべきことがあり、マインドを静かに保つだけの余裕がありません。

それはあなたが行為者だという幻想によるのだ。

実際には、ものごとはあなたに対してなされるのであってあなたによってなされるのではない。(P499)

《以下、「ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの」P164~165》

★しかし、それは意図的な普通の映画ではない。 もしあなたがすべてをそのあるがままに明確に見るなら、

それはひどい喜劇、本当のドタバタ喜劇である。 (※中略)これ以上滑稽なことがあるだろうか?

私は自分のグルの恩寵によって自分の本質を理解し、また途方もない悪ふざけが私におこなわれていた こと

にも気づいたのだ。(※詳細:「覚者たち(別ページ)」≫「★ニサルガダッタ(最下部)」

あなたには何の間違いもない。 ただ、あなたのあなた自身に関する考えは、まったくの間違いだ。

欲望をもち、恐れ、苦しむのはあなたではなく、環境と影響によってあなたの身体に築かれた
個人なのだ。 あなたは個人ではない。 これがあなたのマインドのなかで明確に確立されるべき、
けっして見失ってはならないものだ。(P442、I AM THAT)
そこから踏み出し、外側から見てみなさい。―― ついにあなたは平和になるのだ。(P408)

★「ニサルガダッタ・マハラジの貴重な動画!」(※「字幕日本語」クリック)

ラメッシ・バルセカール(上のマハラジの弟子。師匠とは表現が異なり、さらに前衛的)

★思考は外側からあなたの脳に入って来るのです。 あなたはあるときはAの道を選び、あるときはBの道を

選ぶのです。 なぜなら、そのとき思考がやって来て、その選択をするからです。 あなたは思考を意図する

ことはできません。 何であれ起こることになっていることが、起こるのです。(P560)

★存在するすべては意識です。 あなたと私はこの空間に投影されている単なる対象物にすぎません。

空間と時間は単なる観念、対象物が拡大されるためのメカニズムにすぎません。 三次元対象物が
拡大されるためには、空間が必要です。そして、その対象物が観察されるためには、時間が必要です。

その対象物が観察されないかぎり、それは存在しません。 ですから、空間と時間は単なる観念で、

ある現象が起こり、観察されるために創造されたメカニズムにすぎません。(P92)《「意識は語る」↑》

ラマナ・マハルシ(アドヴァイタ界の大物中の大物。孤高の隠者・賢者)

★ラジオは歌い、そして話をする。 だがもしそれを解体したなら、

中には誰もいないことを見いだすだろう。 同じように、私の存在は空のごとく、身体はラジオのように

話すけれども、そこには誰も行為する人がいないのである。《「あるがままに」P70 より》

★真実のあなたは霊性です。 しかしこの霊性は誤って自身を身体と同一視しています。
身体は心によって投影されたものです。 心そのものは霊性から生まれました。

それゆえ、誤った自己同一視が終焉すれば、言葉で言い表せない永遠の至福と平和が訪れるのです。

★[問い]生命は身体に属し、転生とは別の身体に生まれ変わることを意味しています。

単に身体を変えるだけでは意味はありません。 この身体に結びついている自我が、

別の身体に移し替えられるのです。 《以上、「ラマナ・マハルシとの対話 第2巻」P124 より》

ルパート・スパイラ

「私は何ものかである」という信念や感情は、無知、つまり、体験の真の性質を無視することを前提と

して生まれます。これは ①架空の立場 です。(※自我の視点)

私たちは何ものでもない、つまり物事ではなく、開かれていて、空で、輝く気づきの現存であると

知っている立場は、②叡智と啓示の立場 です。(※観照者の視点? に近い)

そして私たちこそが、目に見えるすべての物事の要素、心、体、世界のすべてのあらわれの要素であると

知っている立場は、③愛、純粋な親密さの立場 であり、ここにおいては内側の自己も、

外側の対象物、他者、世界も存在しません。(※唯識無境の視点? に近い)

私たちにはこの三つ、「私は何ものかである」、「私は何ものでもない」、「私はすべてである」
という三つの選択肢しかありません。 そして、あらゆる瞬間、私たちは選びたい立場を選ぶことができ
ます。 選択次第で、私たちの体験は、選んだ立場を反映するようになります。

体験は、私たちの立場を裏づけるのです。 《以上、「プレゼンス」P267~268 より》

※以上、参考(関連): 上の「ニサルガダッタの動画Ⓐ(11:36~)」

★動画「死、そして肉体は物質であるという考え」(※良動画!)

物質というもので作られた肉体と呼ばれる独立・分離した物体は存在しないのです。

それは決して物質と呼ばれるもので出来ていません。 それは意識の中に現れるイメージにすぎない。

言い換えれば、肉体と呼ばれるものは消えてもその真の現実は消えません。

黄檗宗の教えはそのことを言っています。「人は幻想世界の本質を無視する」

私達の経験は幻想ではなく現実ですが、世界が物質と呼ばれるもので出来ているという信念は幻想です。
そして私達は意識という経験の本質を無視し、代わりに物質という幻想を信じているのです。

もし人類が500年後に続いていなければ、それは物質主義の勝利を意味します。

人類は物質主義パラダイムでは生き残れません。 自らを破壊してしまいます。それが定めなのです。

そう、今まさにそれを目の当たりにしていますね。

「バガヴァッド・ギーター」([訳]上村 勝彦、[出]岩波書店)

諸行為はすべて、プラクリティ(根本原質)の要素(グナ)によりなされる。 我執(自我意識)に

惑わされた者は、「私が行為者である」と考える。
しかし勇士よ、要素と行為が自己と無関係であるという真理を知る者は、諸要素が諸要素に対して働くと
考えて、執着しない。(P47)

◎「霊性は開かれていると同時に、謎でもある」 by マハラジ

◎「偉大なマーヤ(幻想)の原理のせいで、人びとは彼女のすべての悪巧みをおこなう」 by マハラジ

◎ 永遠なる パラブラフマン(至高の実在)と、永遠なる パラマートマン(至高の真我)のなかで、
世界創造原理(時間・空間)が仮現して、神聖なる劇が進行している。


真我探求のリアリティ (あるいみでは、サットヴァ)

★私は解脱者ではありません。 探求関連の経験と、覚者たちの教え(本など)を元にして書いてます。
自分の中で整理する目的もある。 ここで書いてる「見解」が正しいとは限らないことを断っておきます。

なお、この分野における真の価値は「真我実現」のみです。概念的な知識は、お遊びか参考ていどかにしか
ならず、何かしらの方法を実践することが重要です。しかし、「覚者の言葉」には「力」があるようです。
また、「特定の概念」を繰りかえし観想することで、縁起のパターンが少し変化することもあります。
しかしながら 最終的には、知性が最大の障害にもなりうるといわれ(※知性に頼りすぎると核心を外す)、
そのためすべての顕現は、すがすがしいほどに何の「意味」「価値」もない ガラクタ、冗談 となります。

●「仏に逢うては仏を殺せ 祖師に逢うては祖師を殺せ」 by 臨済

●「人は、これが自分自身だと信じるものになる。 だから、何にもなるな。」 by マハラジ

●「人生とは探求なのだ。 探求するほかないのだ。」 by ニサルガダッタ・マハラジ

● 幼児はそれ自身を 認識者・主体 である『自分』としてではなく、単なる『対象物』として扱う。

●「自己」=「ハイリアリティ」、「身体・心」=「非自己(幻想)」。 ひたすらこれ & 浄化。

《 マハラジ解説(要約)》 幼児が自己存在に気づき始めるとき(1~2歳?)の自己が「私は在る(知識)」で、最初は肉体に限定されないため上記の様な現象がみられる。 それ以前は「無知」の状態(※睡眠時も)。
絶対(原初の状態)は、「知識・無知(ともに意識の領域)」を超えている。
意識(≒知識)がマインドを認識するが、マインドは意識を認識できない。 人びとは眠りに支配されている。
マインド以前に意識の原理(=私は在る)があるが、それ以前に意識を知る最初の原理(=絶対)がある。
意識の内容にかかわらず、意識には変化がない。この事実に、意識レベルで気づこうとすることが霊的修練。
要求されるのは、精神的あるいは知的な能力ではなく「直感的な識別感覚」。(だそうです)


◆人生の本質は「私」の正体を見きわめる謎解きゲーム。 あるいみでは「人生=罠」。 これはただ、
「 源泉にもどれ! そうすれば、『自己』はずっと源泉だったことに気づく。 なぜならほんとうは、
源泉にもどろうとする動き(真我探求)は、源泉(真我)がみてる夢のなかみだから。」
みたいな神秘的なジョーク、挑戦状。(※源泉は非個人的、マインドのレベルでは理解不可能)

※参考: 後記の「サーンキヤ哲学」、「釈迦いわく(解脱者のゆくえ)」
別ページ「★もしその状態に到達したら?(※ニサルガダッタ、『世界創造原理』の下)」 など

※すでに「源泉・真我」であることを自覚するために、様々な方法が提案されてるのがこの分野(笑)。
《例》:睡眠時に夢をみて登場人物「私」に成りきってても、目覚めれば「私」はベッド上(=源泉)。

この悪ふざけのようなジョーク(意識の戯れ)について、アドヴァイタ哲学では、

「自然発生・自発的な(← 諸説・諸表現あり)リーラ(神性戯れ)」 といわれている。

これは解脱した人でも「究極の理由」はわからないようだが、おそらくマハラジ氏(下記)
が言ってるように、実在の領域にこの幻想が起こるタネ(微細な不調和)のようなものが、
自然発生的に、あるいは何らかの事情で発生して、一時的局面として起こってると思われる。

そして私たちがほんとうに求められてるのは、そういった部分を知的に追究することではなく、
実際に自己を調べて、私たちこそがこの幻想の「源泉」であることを自覚することではある。

なお、この部分は解脱者(悟った人)でも捉え方や表現が人それぞれ変わってくる(下記)。

※関連:↓(別ページ、究極の理由は不明)

★人類の運命 & このジョークが起こる理由、リーラについて
★グノーシス主義、神はおられる...

★by 釈迦 《 中部経典63(毒矢のたとえ)》

あるとき、人が毒矢に射られたとする。 ところがもしもその人が、かけつけてくれた医者に対して、
「この矢を射たのは一体だれか。 弓はどのようなものか。 弦は何でできているのか。
矢羽はどんな鳥の羽か。 それが分からないうちは矢を抜くな。」 と言ったなら、その人はそれが
分かる前に死んでしまうであろう。 必要なのは、まず毒矢を抜き、応急の手当てをすることである。

by ニサルガダッタ・マハラジ(解脱者)

▼質問者
なぜ私はこの形をとったのでしょうか?
▼マハラジ

それはあなたが愚かだったからだ。 もしあなたがそれについて何か知っていたとしたら、

あなたはこの世に生まれ出て来なかったことだろう。《「意識に先立って」P79 より》

私の真実で全体である均質的な状態に、ほんの小さいさざ波が現れ、「私は在る」というニュースがやって
きた。 そのニュースのせいですべてが変わってしまい、私はこれを知り始めた。

── 非顕現としての私の存在から、この顕現の状態が出て来た。その均質性は属性の活動やマインドの
投影を理解しているが、属性の活動やマインドの投影は均質性を理解することはできない。
それがそれを理解しようとするとき、それはそれと一つになる。《「意識に先立って」P26~27 より》

https://www.youtube.com/watch?v=A8mMYTZGFuw(※「字幕日本語」クリック、16:20~)

―― 厳密な意味での巨大な知性を持った創造者は存在しない。
この意識の戯れすべては 「自発的、自然」 に続いていく。 その背後には知性は存在しない。

幻想の源を探求することによって、この幻想とは何であるか見つけようとしなさい。

by ラメッシ・バルセカール(解脱者)

▼質問者
私たちは、神の意志を理解しようとすることができないのですか?
▼ラメッシ
マルクス、あなたはそれをやりはじめようとすることさえできません。 その理由は次のとおりです。

私たちの知能は非常に限定されていて、知性も非常に限定されています。それに対して、神の知性は
永遠です。ですから、非常に限定的にしか理解できない私たちが、どうやって神の意志を理解できるというのでしょうか? 私たちにはできないのです。

▼質問者
誰もできないのですか?
▼ラメッシ
誰もできません。なぜなら、あらゆる人は、単に源泉の反映である現象全体のわずかな部分にしかすぎないからです。あなたにできることはただ、あなたが少し前に言ったように、ものごとをあるがままに受け入れることだけです。まさにそういうことです! 《「誰がかまうもんか」第三章 ≫ 運命 P78 》

◆人はみな、幸せを探している。 でも幻想の中の幸せは、時間によって失われるときがくる。
なので、もし根本的に解決したいなら、時間と空間を超えた絶対的な真我を探求するより他に道はない。

なお、どんなに輪廻転生をつづけたとしても、いつかはハイリアリティに自我を明け渡して、
それに目覚める(=輪廻卒業)ときがすべての人に必ずくる(※元もとそれなわけだから当然だが)。

◆しかしながら、ここに パラドックス があることに留意しておきたい。 すべての人の「自己」は、
誤認が起こってるだけでほんとうは(核心は)真我なんだけど、幻想側の深層意識に 自我(の種子)を
真我(自己)であると誤認して執着する誤認プログラムがあり(=根本的生存欲)、それが表層意識に
自我の催眠として現れて、輪廻の原因(=無知)になってると考えられる。(※「唯識」の説、後記)

だから仏教は、「諸法無我」=「現れた心の世界に我(原義は 真我・私)は存在しない」 と説く。

つまり逆説的だが、真我探求とは直接的に真我を探すことではなく(それは不可能)、「身体・心」や
催眠の中に現れた「仮設行為者(自我)」をいつわり(非自己)、とみなして執着を解いていくことで、
自我の催眠(=自我システムへの 霊魂・私 の同化 )を解除していくことに他ならない。

最後は「私」が消滅してく(or 落ちる)感覚や、恐怖・苦痛を伴う ケース もある(深層意識の関係?)。

◆「『私は在る』の純粋な存在感覚に焦点を合わせる」、という方法(表現)もある。(by マハラジ)
つまり、「私は何かだ(意識の対象部)」を拒否した「私(=存在感覚)」に焦点を合わせ、洞察と
理解をとおして最後に「私は在る(=幻想側の存在性の原理)」から解脱する、ということで先のとは

表現がすこし異なるが、本質的には同じこと。 つぎのようにも言えるだろう。
解脱してない人は、自己存在感覚の核心部(コア・アイデンティティ)は 真我だが、それが自我の要素
と結合して 催眠状態 にあるため、注意が必要とされる。 心を浄化していつわりの観念を放棄し、

明晰性と無執着があるていど支配すると、真我の反映である観照意識があらわれる(※自己感覚あり)。
観照意識に安定できるようになれば、あとは解脱(真我実現)まで自動的に進行する、ともいわれてる。

心を純化すれば「私は在る = 観照者」になるが、、それがつねに「現在の瞬間」であり、真我との接点でもあり、そこから「時間が流れてる、という設定」の仮想世界が生じている、といわれる。

しかし 観照意識とかスル―して スパッ と解脱するケースもあるので、プロセスは十人十色 かと。

以上より、「仏教(諸法無我)」と「真我探求」は、表現が数種あるだけで本質的には同じ といえる。

◆何が起ころうとも神(or 真我)の計らいとみて、 信頼のもとに 自我(=存在性への執着、行為主体)
を明け渡していく(試みる)、というのは「バクティ(明け渡しの道)」的な表現・アプローチである。
◆すべての意識の対象(身体・心)は、私ではない、 として探求(瞑想・生活)し、催眠(同化)を
解いていくのは、「ジニャーナ(知識の道)」とよばれる(※基本的な真我探求、釈迦仏教など)。

この区別は便宜上のもので、本質的には近似する。 「バクティ」は対象をきめ、信頼・献身・帰依
土台とし対象への自己放棄。「ジニャーナ」は 自己洞察 を通して自己放棄。 人それぞれの適性がある。

「ジニャーナ」もある種の「バクティ」であり、実際は明確には分かれない(※時期により変えたり)。
「ジニャーナ = 実在視点」「バクティ = 幻想視点」 と解釈するのも、アリ かもしれない(混合)。

私はこれを心掛けているが、現代人の心の傾向からいうと、バクティ的に ハート を表現していくことは重要かもしれない(※自然な流れで、適切に)。 それが心を浄化するから。

縁起の観点からは、こう言えるかも。 かりに、真我(至高の実在)に意思のようなものがあるとした場合に、真我がやって欲しそうなことをやっていけば真我実現の方向にみちびかれる、と。

◆マハラジいわく、「彼があなたにしてもらいたい事は単に、自己洞察、自己制御、自己放棄だけだ。」
「『私とは何か?』以外のすべての質問を捨てなさい」「夢の中で、これは夢だと確信することが大切」

◆例えば「これは夢だ」という確信の下に、 まるで 自我がナイ かのような、よい意味で人間っぽくない
行動(できれば心も伴う)を一度でもすれば、それを証するような 関連した経験 があとになって起こる
ことがある。そういうときは直感に何か送られてくる。 探求者はそういうのを繋げていくべきかと。

◆心は出来事をあるていど受け取っても、「心との距離」を意識する、または
「『私は在る』は、心に影響されない」ということを意識する。 私はその人間ではない、ということ。

◆他にもさまざまな方法が提案されてきたが、基本的・一般的には「心の静寂」が重要視されている。

状態にもよるが、そのためには行為を正して深層意識のデータを浄化していく必要がある場合も多く、
それにあたっては、「苦が起こる原因(本質的な意味)」をひたすら繰りかえし 熟考・観想 して深層に
染み込ませることで、心の反応パターンを改変していくことが肝要とされる。

《「I AM THAT 私は在る」P189 より》

▼マハラジ
もし言葉が欲しいなら、太古の力をもつ言葉をあなたに授けよう。どれでもいい。絶え間なく繰り返して
みるがいい。それらは驚きをもたらすだろう。
==
▼質問者
その手段の有効性のために信仰は必要ないのでしょうか?
▼マハラジ
結果への期待でしかない信仰ならば、まったく必要はない。
ここでは行動が大事なのだ。 何であれ、あなたが真実のためにすることは、あなたを真実へと連れていく

だろう。 ただ、正直に、誠実でありなさい。 どのような形を取るかは問題ではない。

==
▼質問者
信じられません! 絶望間際の、退屈で単調な復唱が効果的でありうるのでしょうか?
▼マハラジ

繰り返しているという事実そのもの、退屈と絶望、そしてまったくの確信の欠如にも関わらず、忍耐と

粘り強さをもって闘いつづけていることが、実に決定的なことなのだ。 やり方自体が重要なのではない。

その背後にある真剣さがもっとも重大なのだ。

※仏教の「塵を払わん、垢を除かん」の話にも通じます。

◆真我探求の方法については、色いろな人が色いろなことを言ってるので、そういうのを参考にしながら
自分の直感に頼るべきだろうけど、本当の重要さは方法よりも 熱意と継続性 にあるともいわれる。

自己の存在性への執着 が自我システム(催眠)の土台、根本の力であるため、自我の反応が起こるとき
にそこ(根本執着)に、そのつど注意を向けるべき。 継続すれば深層心によい変化をもたらすはず。

真我探求の要点は、「自己」はすでに解脱してる側にいることを意識しつづける、ということだと思う。

※私はほんとうは探求者ではない 10数年前に、流れで一時的に割とはっきりわかったんだが、
その直後に諸事情により長い トンネル に突入したもので(キャハ)。(※観照がわかった、という意味です)
人によってはさほど困難を経験せず、「自己認識の移行」に入るケースもある(=★深層のデータ)。

基本的には、心を浄化しつつ幻想を幻想(非自己)として意識し続ければよいはずだが、「幻想視点」で
何かの努力をする場合でも、何もしてない「実在視点(=私)」をつねに自覚することが重要で、これは

真我探求における パラドックス だが、本当の真実は実在視点だという 確信 を深いレベルでもつべき。

真我探求とは、冗談であると同時に、「自己存在性の完全放棄を伴う神聖な祈り」に向かう道でもある。

◆表層における真我探求に 「真剣さ・誠実さ・ねばり強さ」 があれば縁起によって導かれ、深層意識の
構造改革(=解脱)にいたる可能性がある。 それは完全に神の意思のようなもの(運命)であって、
幻想の自分の側のコントロール下にはない。しかしそれが起こらなくても、すべては縁起によって何かに
つながるので賢明な行動を心がけたい。 なお、非常につよく深い菩提心(解脱を求める心)が、

利他心・慈悲心とともに起こって行動を伴えば、今生で無理でも必ずその方向に向かうともいわれてる。

★悟りの体験と分析(他サイト)

《 THE 真我探求 》 心を浄化しながら①や②、などが一般的なアプローチ(形式的には)。
もちろん、真我探求とは「生き方」でもある。 「誰も行為者ではない」の日常的な注意は有効だろう。

by ニサルガダッタ・マハラジ(「意識に先立って」P117~118 より)
退却するということはただ内側へ入ることを意味するが、あなたの通常の傾向は五感を通して外の世界を見ることだ。今、それを逆向きにしなさい。私はこの肉体ではない、このマインドではない、この感覚ではない。
そうすれば、あなたは意識に安定する。意識に安定したあとは、それ以後のことはすべて自動的に起こることだろう。 あなたは顕現へと拡大するのだ。「私は在るという性質」がやって来る前の原初の状態で、
私は存在していたし、存在しているし、存在することだろう。

※↑ 知識の道(ジニャーナ・ヨーガ)。 ここでは「意識 ≒ 観照意識?」。「私は在るという性質 = 意識」。

by ニサルガダッタ・マハラジ(「I AM THAT 私は在る」より)[以下同]
気づくことは目覚めることだ。気づかないことは眠っていることだ。いずれにせよ、あなたは気づいている。そうあろうと試みる必要はない。 あなたに必要なのは、気づいていることに気づくことだ。
意図的に、そして意識的に気づいていなさい。 気づきの領域を広げ、そして深めなさい。(P238)

あなたはつねにマインドを意識している。 だが、あなた自身が意識していることに気づいてはいないのだ。

あなただと思いこんでいるあなたを見てみなさい。そして、あなたはあなたが見ているものではないことを
覚えておきなさい。「これは私ではない。私は誰か?」が自己探求の動きなのだ。解放へのほかの手段というものはない。すべての手段は延期を意味するのだ。 あなたではないものを断固として拒絶しなさい。
真の自己が荘厳なる無のなかに現れるまで。 それは「何ものでもないもの」だ。(P545)

あなたはつねに不生不死であり、体験者を超えているということを覚えておきなさい。 それを覚えている

ことで、純粋な知識の質である、無条件の気づきの光が出現するだろう。(P208)

もし私を信頼するなら、あなたは意識とその無限の内容物を照らす純粋な気づきだ、と私が言うのを信じな
さい。それを自覚し、それにしたがって生きなさい。 もし私を信じることができないならば、そのときは
内側に入り「私は誰か?」と尋ねるがいい。 あるいは純粋で純然な存在である、「私は在る」という感覚に

あなたの気づきの焦点を合わせなさい。(P47)

意識の内容が好き嫌いなしに見られたとき、その意識が気づきなのだ。

だが、意識のなかに反映された気づきと、意識を超えた純粋な気づきとには違いがある。反映された気づき、「私は気づいている」という感覚は観照者だ。一方、純粋な気づきは実在の本質なのだ。(P456)
観照者意識はマインドのなかの実在の反映だ。実在はその彼方にある。観照者とは、それを超えて彼方へと
通りぬけていくための扉なのだ。(P72)

あなたはあなた自身を動と見て、不動を見落としたのだ。 マインドを裏表にひっくり返しなさい。

動を無視しなさい。 そうすれば、あなたはあなた自身を常在で不変の実在、言語を絶する、しかし岩のように
確固たるものとして見いだすだろう。(P179) マインドが静かなとき、それは実在を反映する。(P503)

https://www.youtube.com/watch?v=A8mMYTZGFuw(※「字幕日本語」クリック、3:23~)
★マハラジの所に訪れた探求者達は、どのようにすればこの「気づき」に達することが出来るのか、
非常に知りたがりました。 「あなたは何かを探すときどのようにするのかね? あなたのマインドとハートを探すものに対して向け続けることだ。 関心を持たなければならない。そして、絶えず思い起こしなさい。

思い起こされる必要があるものは忘れずにいるのが成功の秘訣だ。」


~ 心と深層意識のカラクリ、そしてハイリアリティ ~

◆人間の深層意識は大まかには次のようになってる。「 表層意識 → 潜在意識 → 集合意識(宇宙意識)」

唯識(下の方に画像あり)でいう「阿頼耶識(アラヤシキ)」は、おそよ「集合意識の一部」を意味している。
そこに、仮想世界を顕現するための、すべてのデータがある。

◆人間の知覚作用は、「感覚器官が捉えてる、との設定」 で阿頼耶識から表層意識に投影されるもので、
知覚の対象となるものは、そこのデータによって作り出された(投影された)ものに限定される。

「ハイリアリティ(実在・真我)」は作り出されたものではなく、すべてがそこから仮現する源泉であり、「時間・空間・すべての概念」を超越していて、心のシステムで捉えることはできず、論理が通用せず、
言葉で直接表現(描写)することもできない、ただそれであることができるだけ、とされている。

これはコンピュータがプログラム以外を解釈できないのと同様。 どう表現しても、あるいみ的外れになる
といわれる。 または、「生まれつき盲目の人に色の描写を試みること」にも例えられる(※誤解を生む)。
あえて表現する場合は、たとえば、「属性がない、それに勝るものはない、完璧、永遠、絶対」
などという、心にとってはまるで意味不明な表現がいちおう使われる(※下記)。

★参考: 後記「釈迦いわく(出離、解脱者のゆくえ)」(涅槃ニルヴァーナの解説)
★参考:「覚者たち(別ページ)」≫「ニサルガダッタ」≫「『真我・霊魂』と『至高の実在』の関係」
★参考:「覚者たち(別ページ)」≫「その他」≫「自己喪失の体験(バーナデット・ロバーツ)」

しかし、生きてるうちはいわば半分半分(=有余涅槃)なので、肉体が死なないと分からないこともある

のではないか? とも思う。 たとえば死後に、描写不可能といわれる「絶対者パラブラフマン」に

入り切れば(=無余涅槃)、生きてるうちは認識不可になってる「真実の神々の世界」が始まる可能性すらあるのでは? と。(※妄想注意!)

by ニサルガダッタ・マハラジ 《「I AM THAT 私は在る」より》

★あなたが変化するものに飽き果てて、不変なるものを熱望するときだけ、マインドのレベルから
見たとき空や暗闇として描写できるものへと方向転換し、踏みこむ用意ができたのだ。(P454)

★実在とは無形の集合や無言の混沌ではない。 それは強力で、気づいていて、至福に満ちている。
それと比べれば、あなたの人生など太陽に対するロウソクのようなものだ。(P455)

《「意識に先立って」より》

★それは常に行き渡っているが、知ることを超えている。その状態は説明することができないもので、
「それは在る」という言葉でさえその状態にはほど遠く、単なる示唆にすぎない。(P238)

★意識が起こる前の原初の状態を描写することはできず、人はただそれであることができるだけだ。

(P279)

◆例えるなら、「阿頼耶識」は映写機(フィルムふくむ)であり、これが全自動で上映してる映画が
表層意識に現れる世界(または人生)、というようにいえる。 究極視点では、人間のすべての心・体の

動きはこの阿頼耶識が上映してる映像だが、それらがカルマとして再び阿頼耶識に貯蔵され、未来のどこか
で上映されるであろう映像のタネとなるのである。 これを唯識では、「阿頼耶識縁起」という。
上映にあたっては集合的カルマの個人分配もけっこうあり、時間の中で貸借が清算される、といわれてる。
この映画は変化が基本特性で、つねに全体性の中でバランスをとりながら個々の動きが起こっている。
仏教ではこの映画自体を「苦」とみなし、上映の停止(=解脱・輪廻卒業)に向かう方法を説く。

しかし本当は、阿頼耶識(映写機)もスクリーン上の映像の一部(仮想プログラム)に過ぎない(笑)。。

(※参考:後記「唯識について」。 つまり、仏教や不二一元論と同様の見解です。)
スクリーン上に最初に現れる映像である阿頼耶識が、全自動の 縁起プログラム群 によって他の映像
(意識とその内容物)を描き出してる。 心の世界は一切縁起、一切皆空で、阿頼耶識にも自性(実体)は
ないということ。 そして、映像がそこから立ち現れてくるスクリーン(源泉)が「ハイリアリティ」で、
それが 認識力 現実性 において映像内の人間と接続する一点が、「霊魂」ということになる。

つまり、ほんとうの意味での映写機は「ハイリアリティ(真我、至高の実在)」、という捉え方もできる。

※以上、詳細:「阿頼耶識縁起(別ページ)」

by 釈迦 《「ダンマパダ(154節)」(最古層、小部経典)》

―― だが家屋の作り手よ、汝の正体は見られてしまった。 汝はもはや家屋を作ることはないであろう。

汝の梁はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。 心は形成作用をはなれて、妄執を滅ぼしつくした。

※「家屋の作り手」=「阿頼耶識」、「汝の梁はすべて折れ~」=「無明(自我の催眠)を解除したよ」

◆そしてこの阿頼耶識から、いわば潜在意識の領域の自我である「末那識(マナシキ)」が現われる。
この識(=心)は人間が寝ても覚めても、深層でつねに「我、われ」と考える根源的な自我執着心である。
これが、阿頼耶識(=いわば宇宙の根源的ないのちの流れ)の一部をみて、それを自己(真我)であると
誤認して執着し続けている。 この深層領域における誤認こそが、表層意識で起こるあらゆる煩悩と、

無明(=自我の催眠)の、つまり輪廻転生の根本原因と考えられる。 ★末那識と阿頼耶識(他サイト)
(※以上、「瑜伽行唯識派」の説)

◆まとめると、私たちが体験する物質世界はあくまで「ハイリアリティ」を土台として仮現する幻想で、
体験してる私たち自身も、ほんとうは(認識力の主体、自己存在の中核・源泉は)、ハイリアリティ。
そこから仮現する阿頼耶識(集合意識)が、各表層意識に共通の舞台データ設定で「世界(心体ふくむ)」

という 知覚イメージ(仮象)を投影して、私たちはそれを体験するわけだが、自我の催眠下においては

真の現実(自己)である ハイリアリティ に気づかなくなるため、「確固とした、分離の物質世界」が、
意識に依存せずに存在してるように感じられる幻想と、「個人的行為者」という幻想が発生する。
「時間・空間」も投影された感覚(イメージ・観念)だが、催眠下では実在してるように感じられる。

つまり物質世界は実在せず、「世界、という意識体験」が現実であり、「世界=体験=体験者(心)」で、

解脱者の「主客未分、個人的行為者の不在」の感覚(認識状態)が真実である。(★関連下記↓)


~ 探求の手がかり ~

◆仮想世界に現れるすべては「ハイリアリティ」の仮現だが、それが人間存在に直接的に投影する要素は、

「認識力」「現実性(リアル感、親密さ、存在感)」である。

※自分なりの解釈であり、まちがってるかもです! 人それぞれの適性があります。

◆~ 認識力(気づき)への着目 ~

※関連: 別ページ「唯識無境(統覚システムと自我の催眠)」

人間の「認識作用(知覚)」は心(=幻想)の機能であり、「感覚器官が捉えてる、との設定」で深層から
統覚システム(表層意識)に投影されるもので、つまり「すべては意識(唯識)」ということになるけど、

自我の催眠下では仮の自己(人間)に成りきって、それを実感できなくなっている。

しかし、「認識力」は心にも深層意識にも属さない。 それは真我(または霊魂)から提供されてる。

たとえば、月が自らの光で世界を見てるとする。 しかし、月の光はほんとうは太陽の光である。

ここでは、「月=心、太陽=真我」。

つまり、真我の「認識力(+アイデンティティ)」が深層経由で「身体(心)」に及ぶ(一体化する)
ことにより、私たちは「認識作用」という心の機能を使うことができる、と考えられる。

私たちが何かを見るとき、「見る者(心)」「見ること(認識)」「見られるもの(対象)」 という3つ
の要素があるようにみえるが、、そのすべてを包括するもう1つの要素、「気づき(認識力)」がある。
つまり、真我から発現した「気づき」がつねに意識に気づいている。
ここで、「気づき(≒観照)」は実在の本質であるため、実在そのものと考えて問題ない。

つまり、私たちはほんとうは意識を観てる側で、意識とその内容物は観られてる側であり、(=実在視点)
心の機能である「見ること」は、真我の認識力が心(深層意識)に及んで成立している。(=幻想視点)

しかし催眠下にある私たちは「真我の気づき」を自覚できずに、自我(心)に成りきってしまっている。
究極的には意識に気づいてるのが真我だろうけど、意識レベル(観照者)の自覚を促す説明が一般的です。

なお、上記の3要素はすべて「気づき」の中の現れ だが、「見ること」は「気づき」の副次的要素であり、

現実的といえる。 つまり、3要素中では「見ること」だけが真実(現実的)であり、「見る者(心)」と
「見られるもの(対象)」は「気づき → 見ること」にふくまれる幻想的な要素である。

物質世界と人間(心体)は幻想的なもので、「意識体験(気づき → 体験)」が現実的なもの、ってこと。

(=実在視点 & 幻想視点)

ここでは「幻想視点」は、幻想側の要素を認めながら実在側に言及する視点で、

「実在視点」は完全に実在側の視点。 ある種の パラドックス のようなものは、避けれません(笑)。

なぜなら、ほんとうは私たちが認識するすべては、「自分の意識(深層からの投影)」だから。

統覚システム(意識・世界創造原理)に、 自我の催眠にも関わる 神業的なトリック が存在するだろう。
たとえば、夢の中で登場人物に成りきっていろいろ体験したとしても、ほんとうは その登場人物が体験した
とは言えず、夢の中のすべての体験は夢をみてる側に帰属する、というようなことに近いかと。

パラドックスの感覚的体現(=観照状態)のために必要なのは、心を純化して静寂を大切にし、
心の活動(思考)に対して「距離をおく(気づいてる)」感覚を身につけることとされる。

そして、源泉である真我の位置まで自覚がもどれば、観照時の主体と客体の分離はなくなるといわれる。
(※パラドックスは意味を成さない) つまり、すべてはハイリアリティの仮現であると。

「ただ、見ることだけが在る。 そのなかに見る者も、見られるものも含まれるのだ。
区別のないところに区別をつくり出してはならない。」

《「I AM THAT 私は在る ‐ ニサルガダッタ・マハラジとの対話」P285 より》

~ 書籍の紹介 ~

【 アイ・アム・ザット 私は在る ‐ ニサルガダッタ・マハラジとの対話 】

[編集]スダカール・S・ディクシット、[翻訳]モーリス・フリードマン
[翻訳]福間 巌、[出版]:ナチュラルスピリット

【 意識に先立って ‐ ニサルガダッタ・マハラジとの対話 】

[編集]ジーン・ダン、[翻訳]髙木 悠鼓
[出版]:ナチュラルスピリット

◆~ 現実性(リアル感、親密さ、存在感)への着目 ~

※これは自分ではピンときてないけど、本の受け売りで書きます。

もう1つ、「現実性」と書いたが、仮想世界であっても私たちはこの世界や仮の自己をリアルに感じるもの
だが、それは厳密には「現在の瞬間」にだけ、感じるのではないだろうか? 
過去のことは記憶としてのイメージがあるだけで、ほんとうのリアル感は、記憶の中にはないはず。
その「リアル感(親密さ、存在感)」はハイリアリティ(真我)から現在の瞬間にだけ、心に投影される。
そして物質世界そのものは幻想だが、それはハイリアリティの仮現でもある。 もしこの世界に感じる
リアル感に対して、親密さとともに自己の存在感を身体から拡大して重ねることができれば、それは意識に
拡大した状態(=唯識無境)であり、解脱の前段階の一種とされる。

つまり、人間が「現在の瞬間」にだけ世界や自己に感じる、「リアル感(親密さ)」は
「真の自己(真の生命)」に近いもの、といえるだろう(※真我から生じるという意味で)。

なお、「心に投影される」と書いたが、実在視点でいえば「心=世界」である。

そして一般的にそのリアル感(親密さ)は、大人よりも純粋な幼い子供のほうが強く感じる傾向があるが、しかし幼い子供には「気づきの明晰性」が欠けている(by ニサルガダッタ)。

★「意識が唯一の現実です。 それ以外は、現実それ自身の内部の映像にすぎません。」 by ラメッシ

◆前記の 「覚者たちの言葉」(戻る▲) で、ルパート・スパイラ氏 が言ってる「叡智と啓示の立場」は

ここでの「認識力(気づき)への着目」と同様であり、「愛、純粋な親密さの立場」はここでの

「リアル感(親密さ)への着目」と同様、とみてよいと思う。 たぶん、第6チャクラの活性が強い人は「気づき」のほうがピンときて、ハートチャクラの活性が強い人は「親密さ」のほうがピンとくるのかも。


~「サーンキヤ哲学」について ~

(夏目漱石が感銘を受けて『草枕』を書いたという)

◆サーンキヤ哲学は、BC7世紀頃?(諸説あり)のインドのリシ(聖仙)「カピラ」が開祖とされ、
ヨーガにおける根本哲学とされてきた。 なお、「バガヴァッド・ギーター」では解脱の方法として、
「知識の実修(ジニャーナ)」「行為の実修(カルマ・ヨーガ)」「親愛の実修(バクティ)」 の三種の道が説かれるが、

「知識の実修」は「サーンキヤの道」とも呼ばれ、形而上学的知識を土台にして解脱に向かう道である。

◆サーンキヤ哲学では、世界の根源として2つ原理を想定する(※基本的に二元論)。
すなわち、「精神原理のプルシャ(純粋精神)」と「物質原理のプラクリティ(根本原質)」であり、

世界はプルシャの観照を契機にプラクリティから展開して生じる。 しかしその両者は不可分の関係であり、
両者が合わさることにより世界が展開することから、純粋な二元論とは言えない面もある。
当サイトでは基本的には非二元論の立場をとるが、「二元論・非二元論」というのは、観点と表現の違いなだけの場合もあり、そこだけに拘って他を排してしまうのは適切ではないだろう。

◆「プルシャ」は一般にアートマン(真我、霊魂)のこと。
「プラクリティ」は世界とそのすべての動きが展開するので、唯識でいう阿頼耶識(+心体ふくむ全世界)
と考えられる(※または「私は在る」)。 サーンキヤ哲学ではこれを実在とする(原理的な意味で?)。
唯識でも阿頼耶識を実在とする派と非実在とする派があるが、当サイトでは仏教やアドヴァイタ哲学などと同様に、プラクリティ的なものはすべて実在(プルシャ側)から現れる幻想(=仮現)、と考える。

ちなみに、「バガヴァッド・ギーター」では、クリシュナ(=至高神・実在)に属する高次のプラクリティ
(※実質的にプルシャ側)と、低次のプラクリティ(※非実在)があるとされる。

◆サーンキヤ哲学では人間の絶対的な 価値・幸福 は、プルシャが世界に完全に無関心となり、自らの内に

沈潜・立脚 すること(=独存、解脱)とされる。(※これは仏教や真我探求と同じ)

◆「サーンキヤ・カーリカー(=最古文献 5世紀、詩節で構成)」(解脱のところ、概要まとめ)
無意識の牛乳が子の成長のために活動するように、プラクリティはプルシャの解脱のために活動する。

プラクリティはプルシャによって見られると、世界を展開して、7つの様体にて自らを束縛する。
(※あるいみでは、睡眠から目覚める瞬間に起こることがコレ)

すると、プルシャはわれを忘れてプラクリティにのめり込む。(※ほんとうは観てるだけだが無自覚)
すると、プラクリティはさまざまな手立てをもって、「私とあなたは別のものよ?」 ということを

プルシャに伝えようとする(=創造活動)。 グナ(要素)を有するプラクリティは、グナを有さない
プルシャのために非利己的に、さまざまな新たな方法を使って、無用と思えるようなことを実行する。

(※創造活動は ドラマチック だが賢くない) しかる後に、プラクリティは1つの様体を使って自らの
束縛を解く。 すると、プルシャは ハッ とわれに返る。 プラクリティはプルシャに自らを明かしたあと、

まるでステージ演目を終えたダンサーが踊りを終了するかのように、創造活動(ダンス)を終了する。ダンスを終えたプラクリティを、プルシャは観客のようにくつろぎながら眺める(=解脱)。

なお、プラクリティが自らの束縛を解くために使う「1つの様体」とは、25の原理の考察に習熟することで生じる、「わたしは~ではない」「~はわたしのものではない」「~の存在はわたしではない」

などの「純粋で清浄な確信的真知」である。(※深層意識への浸透)

また、この「確信的真知」はプルシャにもとどく。(※と、いうような意味にとれる記述がある)
それゆえに、ほんとうはプルシャではなくプラクリティこそが、束縛・輪廻・解脱、というダンスを

踊っているのである(原典談)。(※ジニャーナ・ヨーガ、知識の道)

(※でも プルシャ も私にのめり込んでるのは事実でしょ(当方=プラクリティ 談))

★サーンキヤ・カーリカー、個人翻訳(他サイト)

◆「古典サーンキヤ体系概説」([訳]服部 正明)より (※「サーンキヤ・カーリカー」の邦訳書)

※「世界の名著1 ‐ バラモン教典 原始仏典([出]中央公論社)」 内の掲載から抜粋です。

★《「序論(冒頭部分)」P191 より》

人はこの世に生存しているかぎり三種の苦に悩まされるので、それを除去する方法を知りたいという
欲求が生ずる。 苦を除去する方法は、ことあらためて知ろうと思わなくとも経験的に知られているから、
その欲求は無意味であるという者があるならば、それは正しくない。
経験的に知られている方法は、確実には、また究極的には苦を除去しないからである。

<輪廻の様相>(P203~207)

[44節]輪廻の主体としての微細な有機体には、功徳によって傾向づけられることによって、向上して
よりよい境遇において肉体を得ることがあり、罪過によってより低い境遇への沈下がある。

原質と精神原理とを区別する知識によって解脱が、その反対の無知によって束縛があると考えられる。

[45節]離欲によって八種の質料因(原質・理性・自我意識・五種の素粒子)への没入がある。
こうしてしばらくのあいだ肉体を得ることを停止するが、解脱したわけではないから、時がたてば再び
肉体を得て、輪廻を続ける。

[55節]知性である精神原理は、微細な有機体が消滅しないで輪廻を続けるかぎり、
それ(創造された身体)に宿って、老・死を原因とする苦悩をうける。

<解脱>(P207~208)

[66節]一方(観客である精神原理)は、「わたしは舞踏をすでに見た」といって無関心になり、
他方(舞妓である原質)は、「わたしはすでに見てもらった」といって舞踏をやめる。
すでに精神原理の目的は達せられているので、両者が結合しても創造の動機は存在しない。

[67節]正しい知識を得ることによって、功徳などの七つの理性の状態がもはや輪廻の原因でなくなった
とき潜勢力によって、あたかも壷などができあがって、目的が達せられたのちにもしばらくは続く
轆轤の回転のように、しばらくのあいだ身体を維持し続ける。

[68節]精神原理が身体から分離されるにいたり、目的がはたされたので原質が活動を停止するとき、
精神原理は決定的でかつ究極的な独存(解脱)に達する。

[69節]万物の存続・発生・帰滅がそこにおいて考察される、この、精神原理の目的に関する知識

(サーンキヤ学説)は、最高の神仙であるカピラによって説かれた秘密である。

◆「ラマナ・マハルシとの対話 第2巻」から抜粋

★プルシャとプラクリティは単に「至高なるもの」が分岐したものでしかありません。
それらが推測によって導き出されたのは、弟子が二元的感覚の中に深く根づいていたからです。(P157)

★プルシャは真我(アートマン)、知る者、体験者とも呼ばれる不変不滅の純粋意識である。
プラクリティは知られるもの、体験されるもの、マーヤー(※幻影)、顕現とも呼ばれ、生命意識を持たない。

それは サットヴァ、ラジャス、タマス という3つの要素から成り立ち、それらの均衡が失われたとき
25の原理を派生して、そこから現象世界を展開してゆく。 純粋意識であるプルシャは自ら活動せず、
この展開をただ観照するだけである。(※3要素・トリグナ の概念は、サーンキヤ哲学が元祖)
この観照意識が純粋精神と根本原質の 偽りの結び付き を見破ったとき、プラクリティは現象世界の展開を

やめる。 こうして輪廻転生は断ち切られ、最終的に観照者であるプルシャだけが残る。(P249 訳注)

※プルシャがプラクリティから生じるグナと結合してる催眠状態がとければ、解脱。

★プルシャにはいかなる努力もできません。 努力をするのはジーヴァ(個我)です。
自我性が存在するかぎり、努力は欠かせません。 自我が消え去れば、行為は自動的なものになります。
自我は真我の存在の中で行為します。 真我なしに自我が存在することはできないのです。(P214)

★サットプルシャ(※真実の自己)はどこにいるのでしょうか? 彼は内側にいるのです。
そう言うと、彼はもう一つのタミル語の詩を引用した。(P206)

「ああ、師よ! あなたは私の過去すべての輪廻転生において、私の内におられました。
そして私に理解できる言葉で話しかけ、私を導くために、人間の姿で現れてくださったのです」

~ 書籍の紹介 ~

【 世界の名著1 ‐ バラモン教典 原始仏典 】

[編集]長尾 雅人、[出版]:中央公論社

【 ラマナ・マハルシとの対話 第2巻 】

[著]ムナガーラ・ヴェンカタラーマイア、[翻訳]福間 巌
[出版]:ナチュラルスピリット


~「 唯 識 」について ~

(日本では法相宗が継承)

「 Wikipedia(唯識)」 にちょっと面白い話があったので紹介

★別ページにて、「阿頼耶識縁起、唯識無境」などについて書いてます。

★参考動画:「唯識という教え」(皇室ゆかりの 臨済宗・慈受院住職による法話)

「唯識」は瑜伽行唯識派とも呼ばれ、
4世紀のインドで瑜伽行(ヨーガ)のグループが、
深い瞑想と神通力により深層意識の構造を
明かして大成させた由緒ある大乗仏教の思想で、
信憑性が感じられるため(信憑性は高いぽ)、
当サイトでもその概念を使用している。
第九識 は日本で後付された概念なので(略)。
なお、日本では法相宗(唯識宗)が継承し、
大本山は 薬師寺と興福寺(戦前は法隆寺も)。

唯識では、世界とは各人の心(意識)の仮象と
その認識であり、実在してない、とする。
(=唯識無境) 最終的には心も非実在とする。

唯識思想には 有相唯識派と無相唯識派 があり、
これは阿頼耶識の実在性を認めるか否かの違い。

当サイトでは、「無相唯識派」と同じように、
「仮想世界(心の世界)は 一切皆空 であり、
真我のみが実在で、一切を観照する認識力の
主体(源泉)である」 と考える。

ちなみに釈迦仏教や、解脱を説く近代の覚者ら
の多くもこちら。 つまり「心の領域(幻想)」

と「真我(実在)」を分けて考えるのだが、
幻想は実在の現れ(仮現)でもあるから、
ほんとうは、その両者は別々ではない。 ただ、
「実在」が主体(源泉)であるということ。

別の切り口で言うならば、、
私たちの「自己認識」こそが、幻想なのだ。

★巨人のダンジョン: FF4(ラストダンジョン曲)


◆このサイトの趣旨

ここに書いてる概念的(または形而上学的)知識は、探求者にとってはお遊びか参考程度にしかならない、
てことをくり返しておきます。 しかし 探求以前に、あるていど理屈で納得できないと興味が失せたり、
意思が固まらない人もいるのではないでしょうか?(私もだが現代人はこの タイプ が多いと思われ)
探求の核心に関していえば多くの知識はまったく無用と思われるが、ここでは主に、「★アンチ物質」
「霊性文明へむかうささやかな ――」という趣旨で、概念的(または哲学的)にあるていど追求してます。
この分野の核心部分は知性とは相容れないものであることは、ご理解ください。

※参考: 上記「悟りの体験と分析(他サイト)」≫「2.臨済義玄の悟り」「3.定上座の悟り」など


仏教とハイリアリティ(実在、真我、霊魂)

※別ページ「覚者たち」≫「ジャイナ教関連、仏教関連」 に、関連事項があります。

◆一般的に仏教では「霊魂」の存在を否定しがちだが、その 根本教理は「輪廻からの解脱」である。
この一見すると不可解な点について、少し掘り下げて考えてみたい。

結論から言うと、釈迦はアートマン(霊魂)の存在を否定してない、ということで間違いないと思う。
原始仏典では時おり肯定的に言及し、完全肯定もみられる↓。 「★自己探求」では、真我を探すのでなく
幻想を拒否するしかないので、「諸法無我」は完全に正しいが、なぜか初期のころから「解釈」が少し変。
そこには(※解釈関係)、「宗教的な事情、カースト制がらみの事情」 などの可能性もいわれているが、
まぁ釈迦はアートマンの概念を、「形而上学的」な感じでは説いてない、とはいえる。
「諸法無我・五蘊無我」 というのは、「ジニャーナ・ヨーガ」 の基本的なアプローチです(※後記)。

★《「ブッダの真理のことば、感興のことば(岩波文庫)」P250~251 より》

※「ウダーナヴァルガ(最古層、小部経典)」です。 これはたしかに、釈迦の言葉と思われる・・。

[第27章 37節]
すがたを見ることは、すがたをさらに吟味して見ることとは異なっている。 ここに両者の異なって
いることが説かれる。昼が夜と異なっているようなものである。 両者が合することは有り得ない。

※「すがたを見る」=「アートマンとして在る、自覚する。 その立場から観る(解脱者の視点)」

ある意味では、誰もがつねに「後者」をやってるけど自覚がない。本体がマヒして人間に成り切ってる
ような催眠状態だが、「認識力・気づき」はアートマンから出てる。 解脱とは、自覚がもどること。

「すがたをさらに吟味して見る」=「人間(マインド)の立場から、アートマンを探そうとする」

[第27章 38節]

もしもすがたをさらに吟味して見るのであるならば、単にすがたを見るということは無い。
またもしも単にすがたを見るのであるならば、すがたをさらに吟味して見るということは無い。

[第27章 39節]

(※前略) 何があるときに、すがたをさらに吟味して見ることがあるのだろうか?
何が無いときに、すがたをさらに吟味して見ることが無いのであろうか?

[第27章 40~41節]

ここなる人が苦しみを見ないというのは、見ない人が(=個人存在の諸要素の集合が)
アートマンである、と見ることなのである。 しかしすべてが苦しみであると明らかに見るときに、
ここなる人は「何ものかがアートマンである」ということを、つねにさらに吟味して見るのである。

無明に覆われて凡夫は、諸のつくり出されたものを苦しみであるとは見ないのであるが、
その「無明」があるがゆえに、すがたをさらに吟味して見るということが起こるのである。
この「無明」が消失したときには、すがたをさらに吟味して見るということも消滅するのである。

※「アートマン = 私・自己」、みたいなニュアンスで使われてる(●当時の定義をあらわしてる)。
「すがた = アートマン」は明白なので、これは「完全肯定」といえる。

これ以外でも原始仏典では、アートマンの存在を当然の前提にしてるような箇所がいくつかみられるが、
読み方や翻訳によっては、「アートマン自体の否定」のようにも取れてしまったりするのがミソ。

※「無明」=「根本無知(≒ 自我の催眠、真理についての無知、私は人間だという思い込み)」

まず、、この「解脱(非二元)」の分野で教える人たちは、「霊魂(アートマン)」のような個別性概念は、
あまり使わない傾向がある、とはいえる(※個別性を薄めたかんじの「真我(アートマン)」を多用)。

釈迦が一部の経典(※十無記、ほか▼▼)で、アートマンの存在に関して明言を避けてる(?)のは、
「●自己存在性への執着心(≒深層の根本的生存欲)」 が解脱の邪魔をするのを嫌ったから、

とみる説があるが、そうではないと思う。 「十無記(※後記参照)」は、質問者(修行者)に対して、

「その質問をしてる『あなた』とは何か? 知的な追求をあきらめて、その存在の源にいきなさい。」
みたいな意味だろうし、、そのほかは「単に、ジニャーナ的な説明」と思われる(※下記❶ も関係)。

幻想側の自己存在性(=意識の対象部)と、アートマン(=自己)を区別するのが「ジニャーナ」だが、
「必要」なのは幻想側(存在性)を拒否することのみ で、実在側の形而上的知識は本質的には不要。
幻想側とアートマンが混同されてた時代に、「それは アートマン に非ず」と釈迦はいった(※以下参照)。

※なお、「霊魂」=「身体との設定上の接続点」の意味であり、「全体から分離した個別性」ではナイ。

※自己存在性について、参考:「覚者たち(別ページ)」≫「●仏教関連(スッタニパータ)」

▼▼「アートマン(否定)」関係で有名なのは、以下の2項である(※ほかはこれと同義か類似)。

◎ 諸法無我(非我)‐「 法界(現れた心の世界)の中に、アートマン(霊魂・自己)はいない 」
◎ 五蘊無我(非我)‐「 体・心・意識 などの人間要素は、アートマン(霊魂・自己)ではない 」

「法界」は初期仏教では「現れた仮相の世界」を意味してたが、
後代のインド大乗仏教の解釈がおそらく影響して、(※参考: 下記「原始仏教・大乗仏教・密教~」)
大乗仏教全般では、「法界 = 実相ふくめた宗教的本源(すべて)」 みたくなってるらしい(※下記)。
原始仏典では、「法(のり)」=「縁起の法(宇宙の法)、つくられたもの」 のような使い方されてる。

★初期仏教では、「法界」は意識の対象となるもの(他サイト)

初期の段階では法界は十八界の一つで、意識の対象となるものを意味し、十二処でいえば法処にあたる。
しかし大乗仏教になると、これは単なる意識の対象ではなく、宗教的な本源を意味するようになった。
つまり、この全宇宙の存在を法(真理)とみなし、真如と同じ意味で使われるようになる。

★「 Wikipedia(法 ‐ 仏教)」

<存在を意味する「法」>
古い経典では「いっさいとは五蘊(ごうん)である」と説かれ、五蘊の法といわれるものを「法」という。

★「諸法無我」は厳密には「諸法非我」と訳されるべき(釈迦はアートマンを否定してない)(pdf)

―― すなわち、釈尊がアートマンを否定する論法は、「一切とは何か」を規定し、「そのいずれもが
アートマンではあり得ない」というもので、「アートマンは存在しない」と主張したのではない。

★釈尊はアートマンを否定せず、寧ろ重視していた(上から5つ目の項、by 中村元 氏 ← 仏教学者)

ここでアートマン自体は否定してない、というか アートマンの存在を当然の前提にしてる と思うけど、
※後記❷ も参照のこと) ほかに関係がありそうなことは、、

当時インドで興隆してたバラモン教の思想は、「人間は肉体と霊魂からなり永遠に輪廻する(カルマ論)」
であり、そこでのアートマン(霊魂)は、ほぼ「自我」の意味だった うえに、「解脱」の概念がなく、

過酷なカースト制の根拠にもなってた。 このカースト制に、つよく反対してたのが、釈迦だった。

つまり仏教というのは当時、アンチ・バラモン教としての性質も持ってた、ということ。

「私」を「肉体」と結び付けて捉える限り、それは「自我」だが、肉体から切り離せばそれは意識または
観照意識、最終的には真我(アートマン)だということ。 真我のアイデンティティが、肉体に同化してる。
そして原始仏典を見れば当時はほぼ、「アートマン = 私・自己」のような意味だったことがうかがえる。
上記(法界の定義の~)で仏教学者が言ってるけど、昔のインド人は「自我・真我」を分けて考えておらず
(まぁ核心では繋がってるが)、「アートマン(自己)」が今の言葉での「自我」に近いニュアンスに
なってた、ということ。(←

「諸法・五蘊無我」は現代人には「自我 or 霊魂」の有無のことに聞こえるけど、釈迦本来の意味は、
「この世は『仮現』で、ほんとうは私たちは現れた世界の中にはいない(その人間は、自己ではない)」
みたいなニュアンスだったと思われる。 つまり、真我探求 の基本形(★前項「THE 真我探求 ①」)
サーンキヤ哲学 での解脱の要点(※前項)とも、本質的に まったく同じ意味 ということで、
これらはみな、「ジニャーナ・ヨーガ(知識の道)」に分類できる。
そして釈迦の教えの主軸は、アートマンのような「形而上的概念」を説明することではなく、
知性・マインド の活動に背を向けさせて、すみやかに「解脱」に向かわせるものだった、と言えよう。

バラモン教(のちにヒンドゥー教)主導のカースト制が根付いたインドでは、仏教はやがて衰退の道を
たどることになる(※それが理由の一つかと)。 カースト制には、アートマンの概念が必要なのだ。

◆カースト制度と仏教、ほか(※輪廻転生とアートマン)

https://core.ac.uk/download/pdf/229752360.pdf
<抜粋> 4.カースト制における平等

仏陀はカーストによって差別される賤しい人の解放さるべき道理を説いたが、だからといって無差別に
平等を説いたわけではない。行為によっては賤しい人格も存在する。 業報輪廻という「生まれの差別」に
基づいたカースト制度を認めず、他方においては、「業報輪廻という一善をなさしめ悪をなさしめない」
ための宗教倫理に代わる独自の業論を展開したと考えられる。 業報輪廻において、業の果報を次の生まれ
に繋いでいく役目をするアートマン(霊的実在)と同様のはたらきを業自身に持たせ、そこに

アートマンという霊的実在を介在せずに、業報による輪廻という仏教独自の転生を説くことになった。

ちなみに、「輪廻の主体」に関して近代の覚者らは、輪廻は幻想内で真我(アートマン)は実在だから、
ということで、「輪廻するのは幻想側の自我想念体で、真我は影響を受けない(関係ない?)」
みたいな感じの表現がよくみられ(※ラマナ、ニサルガダッタなど)、ニサルガダッタは晩年には輪廻転生の理論を否定するような発言もしてたが、注意深く読めば実質的には上記と同様の意味合いである。
※たとえば、、前記「人間存在の真実」≫「ラマナ語録(前半)」 みたいなこと。
これはカースト制と関係あるかどうかは分からないが、確実にこのように表現される傾向がある。
サーンキヤ哲学(BC7世紀頃)もこれに近い(※伝統?)。 なお、カースト制の始まりはBC10世紀頃。
アートマンは自己存在の中核であっても行為主体ではないから、輪廻の主体としないのも分かるが。

まぁカースト制うんぬんは置いといても、「真我は、輪廻(幻想)の中にはいない」ということを強調する
意味においても、上記のような説明は理に適っているのだろう。 つまり、
「ジニャーナ(知識の道): 私は心体ではない、私は現世のなかにはいない」 と同様の趣旨(観点)。

※基本的にはこれ(↑)なんだろうけど、、表現が頑なで少し不自然に感じられる場合もあるってこと。

あと、「梵我一如(前記)」に関係する表現についても、カースト制の影響が多少なりともある気がする。

ヒンドゥー社会の闇、カースト制はインド憲法でこれによる差別が禁止されて久しいが、カースト自体は
廃止されておらず、とくに地方部では差別の風習が根強くのこっている。

※輪廻について、参考:「覚者たち(別ページ)」≫「★ラマナ(輪廻転生について)」
「行為者は~(別ページ)」≫「★輪廻転生について」


~ 原始仏教から部派仏教へ ~

★釈迦仏教の特徴をかいつまんで言えば、当時のバラモン教の 神秘主義的要素をほぼ排除してる ことと、

教えの根本(背景)は完全な実在視点だけど、ある意味では ゲームプレイヤー の立場(幻想視点)に立った
うえでの端的な(はっきりした)教え方をしてる(※現世否定精神など)。 覚者というのは皆そうだけど、

衆生を導くために時と場合に応じて観点を選んで 役者を演じてる わけです(※行為主体の感覚はない)。
「現世否定精神」ともいわれるが、これの本質は「無執着」であって、感情レベルの話ではナイ。
実践面は、「心の浄化・無執着・禅定」を徹底させた「ジニャーナ・ヨーガ」の一種。

なお、釈迦入滅(BC485年説、BC383年説)の直後に第一結集がひらかれ、500人の阿羅漢(解脱達成者)
が集まって釈迦の教えを確認しあい、原始仏典のもととなる文書群が作成された。 そこから
約200年後の第三結集までに?、原始仏典「パーリ仏典 経蔵」(下記)が段階的に編集されたと考えられる。

原始仏典には、後代の仏教諸派のような複雑な教理はみられず、厳しい教えだが比較的シンプルである。
最古層の経は小部に含まれ(※スッタニパータ、ダンマパダなど)、次いで相応部(サンユッタ・ニカーヤ)

が古いとされる。 原始仏典の内容の真実度(※釈迦の言動?)については諸説あるが、個人的な見解では、
経典にもよるけど8割くらい?は真実なのかなと。言い回しやニュアンスの変化は結構あるかも(※翻訳)。

しかし釈迦の教説というのは、基本的には出家修行者を主な対象として、「解脱」を重視・強調していて、
その主な理論は「ジニャーナ」としての「コア」の部分であり(※これは一般感覚だとつまらなく感じる)、
また時代背景も今とはずいぶん異なる、ということは理解されるべきだろう。

言いかえれば、釈迦仏教というのは一部オブラートに包む表現はあっても、けして世俗的ではなく、
当時のインドでも世間一般のウケがよくないわけ。だから 大乗仏教・密教 などでみられるように、ある種の
魅力的な要素が付加されるのは自然の流れではある。 まぁ 大乗仏教は範囲がひろくて一概には言えず、

密教はそもそも理論体系というか観点が、初期仏教とはけっこう異なるけど(※間違いという意味でなく)。

なお、第二結集のあとに仏教教団が分裂するまで、つまり釈迦入滅のあと約100年間の仏教を「原始仏教」
そこから紀元前後頃までを「部派仏教」(↓)という。

《 原始仏典 : パーリ仏典「経蔵」、漢訳仏典「阿含経」(パーリ仏典に概ね対応)》

①長部経典(長阿含経): 長篇の経典集。物語もふくむ。
②中部経典(中阿含経): 中篇の経典集。
③相応部経典(雑阿含経、サンユッタ・ニカーヤ): テーマ別の短篇経典集。
④増支部経典(増一阿含経): 法数ごとにグループ分けされた短篇経典集。
⑤小部経典(≒本縁部): 以上のどこにも入らない経典集。「スッタニパータ、ダンマパダ、ウダーナヴァルガ、etc.」

※後記「原始仏典から抜粋」「釈迦いわく」、「覚者たち(別ページ)」≫「仏教関連」、にて一部紹介。

★第二結集のあと、仏教教団は運営方針をめぐって上座部(長老部)と大衆部に分裂した(※最初は軽度)。
BC250年頃になると上座部(保守派)と大衆部(革新派)の分裂が激化し、紀元前後の頃まで両派はさらに

こまかい分裂を繰りかえした(※20の分派が誕生、部派仏教時代)。

この時期には経典(原始仏典)を基にしてさまざまな独自の教説が立てられたが、しだいに複雑で難しい
学問仏教の面も強まっていき、民衆救済を掲げた大乗仏教を立ち上げる理由の一つになったと考えられる。

~ インド大乗仏教、諸法実相について ~

★部派仏教時代の最終期に、紀元前後 ~1世紀にかけて主に作成された「般若経」系の経典群を基盤として
インド大乗仏教が興り、さらに「 法華経・華厳経・浄土三部経・維摩経・・(中期後期の経典、数種)」

などの大乗経典が作成されていった。 のちに「中観派」「唯識派」の二大系統(学派)が誕生したが、
経典の内容など全般的に言って、初期仏教の 現世否定精神をマイルドにした感がある。

中観派では、般若経の「空」の概念を高度に理論化したが、「中論」に代表されるこの中観思想は、
哲学的に面白い部分はあると思うけど、私は賛同しかねる部分もある(※下記)。

「空(梵語:シューニャ)」は、原語では数字の ゼロ を表す言葉でもある。 仏教では「無」とは区別され、
基本的には「幻想・無実体(≒仮相)」のような意味で、般若心経の「色即是空 空即是色」もその意味で

「空」が使われてる(?)。 そして中観派では、「空」に「実相」にも似た独自の理論づけをしている。
中観思想においては、「空」は基本的には 「 縁起・無自性・無実体(≒仮相)」 を意味するが、、

「縁起の如実相」「諸法の究極の相」 のことでもあり、その如実相を徹見すればそれが涅槃であるため、

「空即涅槃」「諸法実相即ち涅槃」、と説明されている。(※講談社学術文庫「龍樹」P295~298、概要)

つまり、「空」という一語に「仮相・実相」の両方の要素をふくませてることになる。 そしてまた、

「実相」にも似た「空」観点にて、「仮相・実相」の区別を曖昧(または無効)にする理論づけをしてる。
(※上記部分とは別にそのような説明がある、中道という説明もある)
しかし、仮相(幻想)は実相の仮現であり、概念としては区別する必要があります(※性質的に)。

「空」の理論(定義)自体は、これは上記の基本定義以外は、実質的にはほとんど実相に近いだろうけど、

初期仏教や近代の覚者らの説明と整合性が取れない部分、というか論理的に変なとこがあると思う。

「仮相(幻想)」は「実相(実在)」の仮現なので、「仮相」の「本質」は、ある意味では「幻想」だし、
別の意味では「実相」なわけです。 しかし、「仮相の究極の相は実相である」 のように、
「仮現」の意味を入れずに言ってしまうと、仮相と実相を分けてる意味が無視され、論理的にもおかしく
なってしまう危険性があります(※ほかの事柄との関係において)。

★「諸法実相」という表現について

すべてを空と観じ切ったところに涅槃があるのだろうけど、「空即涅槃」「諸法実相即ち涅槃」と表現して
しまうと、「諸法・法界」の意味の変化にもつながり、そうなると「諸法無我」の解釈にも影響がでる。
そしてこの「諸法実相」が、大乗仏教全般の根本思想に「一応」なってるわけ(※解釈はいろいろだが)。
まぁ実際の仏教諸派では、「現世(物質世界)が実相そのもの」という解釈にはもちろんなってないけど。

※「 Wikipedia(諸法実相)」

仏教諸派では、「諸法の実相は、~である」 のような使い方してるけど、、これは「⓫ 諸法 = 仮相」を

前提とするなら、それはひとつの表現ではあるが前提の意味がかき消されがちになり(※誤解されやすい)、
「⓬ 諸法 = 実相ふくめた宗教的本源」を前提とするなら、初期仏教とは「諸法」の意味が異なります。

※参考: 上記「法界の定義の移り変わり~」

初期仏教の定義ではあくまで、「諸法・法界」は意識の対象となる部分であり、つまり、

「諸法 = 仮相(実相の仮現)」なので、どちらにしても「諸法実相」という言葉は誤解を招きやすい、

ということは指摘しておきます。 大乗仏教全般では、⓬の意味になってるのかな。
⓬は、それ自体が理論的におかしいとかではないけど、「諸法・法界」の定義が変化してるってこと。

例えば、映画の映像である分離の物質世界(=仮相)は、分離のないスクリーン(=実相)を土台として、
意識(=いわば中間相)に依存して現れるもので、知覚(意識)のすべての対象と空間自体は幻想である。

~ インド密教、真言密教 ~

★大乗仏教最終期、6~7世紀頃を中心にして興ったインド密教では、むしろ現世肯定の色が強くなった。

大乗仏教が当時ライバルだったヒンドゥー教に対抗するために、おなじようにバラモン教の神秘主義的要素
(マントラ・加持祈祷・etc.)や 瑜伽行(ヨーガ)の要素などを取り込んで、密教が形成されていった。

※近代のインドの覚者らは、ヒンドゥー教に所属してる人もけっこういる(まぁ全人口の8割なので)。

これに関しては、現世否定精神というのは解脱するための方便というか、アプローチの一つなわけだけど、
「この世は幻想」「自我(行為主体)は幻想」 の2点は精神ではなく 事実・構造 であり、仏教の根本部分。
(※アドヴァイタ哲学、近代の覚者らも同様) その事実を踏まえた上で現世も肯定的に楽しもう、という
精神は個人的に好感がもてるが、探求者にとっては、現世否定というか少なくとも無執着の姿勢は必要かと。
(※表面的・一時的な幸福にあまり執着しないという)

ちなみに釈迦にとっては? メインの自己は釈迦(心体)ではなく、現世自体が真我(ハイリアリティ)の仮現であり、真我(如来)においては、すべての苦と生死を超越(解決)してる。

★真言密教(空海)は教典の中で、無執着を説くと同時に、現世をあるていど肯定的に捉えることを説く。

概して言うなら、、密教の体系は「バクティ(帰依)」、顕教の体系は「ジニャーナ」、といえる。

※《バクティ》参考: 前記「真我探求のリアリティ」、「覚者たち(別ページ)」≫「ラマナ・マハルシ」

あるいは、前記「覚者たちの言葉(ルパート・スパイラ解説)」で言うなら、密教は③、顕教は②である。

空海は教典のなかで、顕教・他派 の「現世否定精神」になん度か言及してるけど、密教系全般では概して、
「現世」と「実相」を明確には区別しない理論体系を構築している(※両界曼荼羅にも表現される?)。

―― というよりも、区別はしてるけど 区別のなかの同一(=根本仏の現れ)を強調してる、ということ。

これは、「時間・空間を超えた実相」とそれの仮現である「現世」の関係をどう表現するか、という問題。

すごく簡潔に言えば、、密教:「現世は『実相の』仮現である」、顕教:「現世は実相の『仮現』である」

というかんじに『強調点』が異なる、といえると思う(※観点が対照的)。
近代の覚者らは、この2つの観点を混ぜて教える人もけっこういる(※ニサルガダッタ、ラメッシなど)。

密教では「三密瑜伽」、つまり「身・口・意」の三密加持により身体と仏とがとけ合う即身成仏を説くが、

瑜伽行(ヨーガ)の考え方が取り入れられていて、調和・統合(=瑜伽)を重視している。

近代の覚者でも意識に関して、仮相(顕現した意識)と実相(非顕現の休息してる意識)をあまり区別せず
に説く人もいる(※ラメッシ 下記、ラマナなど)。 表現やアプローチは、いろいろあります。
真言(マントラ)は、タイミング・当人の心・継続期間にもよるが、大きな力を秘めてるといわれている。

「吽字義」には、つぎの一節がある。
「また人あって、或いは有為の非眞を厭い、無為の離妄をよろこびて、言語の道を廃詮の門に絶ち、
心行の処を寂滅の律に滅するとも、この三密の本法においては何ぞ曾て絶滅することがあろうか。」

この「絶滅しない実相」に目覚めるためのアプローチと表現が、顕教と密教ではけっこう異なるということ。

※根本は同じ) もちろん顕教でも絶滅しません(※まぁこれは、当時の誤解してた他派のことかと)。

現世を肯定的に捉えて我欲を滅し、「三密瑜伽」あるいは「根本仏である大日如来」に心身を捧げよ、
というのが真言密教の教えの基本であり、つまり「バクティ(帰依)」の要素がつよい教義体系といえる。

[参考] by ラメッシ・バルセカール 《「誰がかまうもんか」より》

現象は現実であり、同時に非現実なのです。 観察される程度において現実であり、

「意識以外にそれ自身の独立した存在がない」 という点にもとづけば、非現実であるのです。

それ自身の独立した存在がある唯一のものは現実で、現実とは意識のことなのです。

意識が唯一の現実です。 それ以外は、現実それ自身の内部の映像にすぎません。(P63)

※これが、「意識・真我」を区別しない唯識的な説明(※意識自体は実相的に捉えるのも アリ)。

つまり、ジャイナ教の教祖が言うように(※別ページ)、「真理は観点しだいで多様に言い表せる」と。


★「霊魂と物質がであったときにだけ、意識は生まれるのだ。」 by ニサルガダッタ(P498、I AM THAT)
★「解放とは、けっして個人が解放を得ることではなく、個人という実体から解放されることなのだ。」
by ニサルガダッタ(P361、I AM THAT)

★「もし君たちが外に向って求めまわる心を断ち切ることができたなら、そのまま祖仏と同じである。
君たち、その祖仏に会いたいと思うか? 今わしの面前でこの説法を聴いている君こそがそれだ。」 by 臨済

◆補足

人間の自己存在の「中核」はアートマン(霊魂・真我)であり、認識力の主体もアートマンなわけ。
それが幻想側の「私は在る(意識・存在性 の原理)」をとおして、「自我システム」と「身体(心)」に
自己同化して、人間にとっての自己存在感覚(=私)を形成している。
これらの同化作用により、人間としての存在感覚は本来の実在側のものとは全く異なってくるが、その
中核アイデンティティが同じ だから、解脱者が真我を「これこそが自己だった(笑)」と感じるのである。
「私は在る」はアートマンの分岐元の「至高の実在」から一時的にあらわれ、その原理により意識と世界が仮現する。 アートマンの本質は観照者だが、催眠により幻想内の仮の自己に同化する。 そして本当は、
アートマンや人間の自己は行為主体ではなく、行為は仮想縁起プログラムによって為される。(★サーンキヤ哲学)

しかし当時のインドでは、「人間要素(意識の対象部)の中に、行為主体としてアートマンが存在する」
という誤解と、「歪んだカルマ論、永遠の輪廻転生論」が広まってて、社会制度にも悪影響を及ぼしてた。
「意識の対象部」を幻想とする見方は、厳密には仏教以前にも一部あるが、ぜんぜん理解されてなかった。

初期仏教が、「行為主体の意味ふくむ『自我』の実在性」を否定してるのは、明白ではある。 そして、

解脱者はいつの時代にもいたわけだが、彼らが「行為者はいない」を とくにハッキリ 表明し出したのは、
「主に昨今」なのは明らかであり、これも時代の要請(=運命付け)ということかと。(変動期くる予感)

なお、仏教では、『 法界(=現れた心の世界)には、一切において自性(≒行為主体)が存在せず、
すべて「縁起」「一切皆空」、つまり「諸法無我」』 と表現していて、専門的にはとうぜん、

「究極的見地では、行為主体は存在しない」 という解釈が正統である。

また、釈迦仏教の解釈として、「輪廻転生間の『自己存在』に関連(繋がり)はない、輪廻説自体の否定」
という説があるが(※霊魂否定説とも関係)、私はこれは考えにくい。
スッタニパータほか諸原始仏典では、輪廻からの解脱(の重要性)に言及してる箇所がそうとうあります。
まぁそれを在家向けの方便、または後づけ的なもの、とみる説なわけだけど。 それも部分的にはあっても、

基本的にはバラモン教(ヴェーダ)の輪廻思想を背景にして、「輪廻からの解脱」を説いてるように思う。

◆「原始仏典」から抜粋

最古経典のスッタニパータでは、「アートマン」の存在を当然のように扱う箇所がいくつかある(↓)。

岩波文庫のスッタニパータだと、この部分の訳はアートマンでなく「みずから・自分」

★《「スッタニパータ・釈尊のことば(講談社学術文庫)」より》

自己自身の精神のアートマン は一定不動なるままにして織機の梭のように真っ直ぐに直進し、悪業の習慣性にひっかからないようにコースを守り、個々別々なる身体存在と 平等一如なる精神存在 とのつながりを
如実なるままに思惟している。 そのようなひともまた沈黙の聖者であると、(※後略)(P71)

「自己自身の精神のアートマン = 霊魂」「平等一如なる精神存在 = 至高の実在」 のような意味かと。

いかなるところにおいても世間的存在は根底的にうつろい実質がない。 どこかにわたくしの
自己自身の精神のアートマン がいこい安らう 安住処 がないものかと、(※後略)(P253)

最古層経典のウダーナヴァルガでは、「行為主体」が幻想であることを、確実に示す箇所がある(↓)。

釈迦特有の表現「身に刺さった矢」がでてくるので、間違いなくかれの言葉だろう。

★《「ブッダの真理のことば、感興のことば(岩波文庫)」P246(第27章 7~8節)より》

人々は自我観念にたより、また他人という観念にとらわれている。 このことわりを、或る人々は知らない。
実にかれらはそれを、身に刺さった矢 であるとは見なさない。 ところがこれを、人々が執著し
こだわっている矢であるとあらかじめ見た人は、「われが為す」という観念に害されることもないし、
「他人が為す」という観念に害されることもないであろう。

※「身に刺さった矢 = 無明(自我の催眠)」

つぎの一節(後半)は、前項「真我探求の~」の冒頭に載せた「マハラジ」の言葉と同義(↓)。

「五蘊非我」がでてくるので、間違いなく釈迦の言葉だろう。 ウダーナヴァルガです(同上)。

★《「ブッダの真理のことば、感興のことば(岩波文庫)」P288(第32章 33節)より》

この世は熱のような苦しみが生じている。 個体を構成する五つの要素(=五蘊)はアートマンではない、
と考える。 ひとは、「われはこれこれのものである」と考えるそのとおりのものとなる。

それと異なったものになることは、あり得ない。(←

※ここでも、「アートマン = 私・自己」、みたいなニュアンスで使われてる。 ジニャーナです。

この一節は、「アートマン(自己)」が「人間」に同化した状態が「衆生」、であることを明示してる。


◆はてしない議論のネタにもなってきた、この「仏教の霊魂問題」の要点の一つは、おそらく、
「実在の側は、『存在・非存在、空間』という人間の感覚に基づいた『概念』を超えてる」 ということ
ではないだろうか? つまり存在するといっても、心のシステムが理解できる存在状態ではない、と。

※参考: 前記「心と深層意識のカラクリ」、「★霊魂(アートマン)と 至高の実在(ハイリアリティ)の関係」

ここでは説明のために霊魂という概念を使ってるが、探求に際してそこに重要性はまったくないだろう。

◆なお、ウダーナヴァルガに「我ありという想いをほろぼし・・」という一節があるが、
アートマンは「想い」ではない(※ニュアンス変化してるかも、もとは「諸法非我」だった感もある)。
ラマナ・マハルシの表現だと、
「心を内側に向け、『私』想念の源を辿ることで、この想念が消滅し真我実現する」(★別ページ参照)
釈迦は原始仏典のなかで、「不生なるものがある」「不死の境地がある」、と明言している。(★下記)

◆釈迦だけではないが、解脱者は自我がないために、「直感」で時代背景や相手の性質・状況に完全に
適応した言動をするので(※個性の違いは当然ある)、必ずしも論理一貫せず、判断・言動の理由が自分
でも分からないこともあるっぽい。 後世の人が学ぶ場合、一応そこも考慮する必要があると思われる。


~「 無記 」(中部経典63)~

※「中部経典63(毒矢のたとえ)」において釈迦は、「アートマン(霊魂)と肉体は同じものか否か?」

やその他の形而上学的な問いに対し、沈黙の姿勢(=無記)を貫いている(★下サイト)。またこれ以外でも、
釈迦がアートマン自体を否定した形跡はなく(後世の経典や解釈を除く)、その概念を形而上学的な感じ
では使わずに説いてるだけと思われる。

ここにわたしが(いずれとも)断定して説かなかったことは、
断定して説かなかったこととして了解せよ。
またわたしが断定して説いたことは、断定して説いたこととして了解せよ。
── 何故にわたしはこのことをいずれとも断定して説かなかったのか。
何となれば、このことは目的にかなわず、心の平安、すぐれた英知、正しい覚り、
安らぎ(ニルヴァーナ)のためにならないからである。

しからば、わたしは何を断定して説いたのであるか。

①「これは苦しみである。」
②「これは苦しみの起こる原因である。」
③「これは苦しみの消滅である。」
④「これは苦しみの消滅に至る道である。」

ということを、わたしは断定して説いたのである。
これは目的にかない、心の平安、すぐれた英知、正しい覚り、安らぎのためになるものである。

<抜粋> ブッダが、無記(Avyākata)の態度をとったのは、渇愛を滅した阿羅漢の死後について。 渇愛の
ある衆生は、死後輪廻することが明言されている。ということが相応部経典無記相応から読み取れます。


~「 有・無 と中道 」(相応部経典、サンユッタ・ニカーヤ)~

※比較参照: 前記「人間存在の真実」≫「★ニサルガダッタ語録」

カッチャーヤナよ、

この世間の人々は、多くは二つの立場に依拠している。
それはすなわち、有と無とである。
もし人が正しい智慧をもって、世間の現れ出ることを如実に観ずるならば、
世間において無はありえない。
また人が正しい智慧をもって、世間の消滅を如実に観ずるならば、
世間において有はありえない。

カッチャーヤナよ、

「あらゆるものが有る」というならば、これは一つの極端の説である。
「あらゆるものが無い」というならば、これも第二の極端の説である。

人格を完成した人はこの両極端の説に近づかないで、中(道)によって法をとくのである。

※世界体験が起こってること自体は現実だけど、体験(意識)の内容物はリアルに見えても「幻想」、
という解釈でいいと思います。 この「中道」は、「行為主体」の存在についても同様に言えるだろう。


~「 出離 」(小部経典、ウダーナヴァルガ)~

※「ブッダの真理のことば、感興のことば(岩波文庫)」P243~244

★(1)苦しみと(2)苦しみの原因と(3)苦しみの止滅と(4)それに至る道とをさとった人は、

一切の悪から離脱する。 それが苦しみの終滅であると説かれる。

★何ものかに依ることが無ければ、動揺することが無い。そこには身心の軽やかな柔軟性がある。
行くこともなく、没することもない。 それが苦しみの終滅であると説かれる。

★不生なるものが有る からこそ、生じたものからの出離 をつねに語るべきであろう。

作られざるもの(=無為)を観じるならば、作られたもの(=有為)から解脱する。

「有為(=仮相、つくられたもの、縁起したもの)」「無為(=実相、つくられざるもの、非縁起)」

この2つを明確に分けて説いている。

★生じたもの、有ったもの、起ったもの、作られたもの、形成されたもの、常住ならざるもの、
老いと死との集積、虚妄なるもので壊れるもの、食物の原因から生じたもの、それは喜ぶに足りない。

★それからの出離であって、思考の及ばない静かな境地は、苦しみのことがらの止滅であり、

つくるはたらきの静まった安楽である。 ※「つくるはたらき = 阿頼耶識の形成作用」

★そこには、すでに有ったものが存在せず、虚空も無く、識別作用も無く、太陽も存在せず、
月も存在しないところのその境地を、わたくしはよく知っている。
★来ることも無く、行くことも無く、生ずることも無く、没することも無い。
住してとどまることも無く、依拠することも無い。── それが苦しみの終滅であると説かれる。
★水も無く、地も無く、火も風も侵入しないところ、そこには白い光も輝かず、暗黒も存在しない。
★そこでは月も照らさず、太陽も輝かない。 聖者はその境地についての自己の沈黙を
みずから知るがままに、かたちからも、かたち無きものからも、一切の苦しみから全く解脱する。

★さとりの究極に達し、恐れること無く、疑いが無く、後悔のわずらいの無い人は
生存の矢を断ち切った人である。 これがかれの最後の身体である。

★これは最上の究極であり、無上の静けさの境地である。 一切の相が滅びてなくなり、没することなき
解脱の境地である。


~「 解脱者のゆくえ(ヴァッチャの問い)」(中部経典72、概略です)~

★=釈迦 ☆=ヴァッチャ

☆『 友ゴータマよ、このようにこころが解脱した比丘はどこに再生しますか? 』 と問われて、あなたは

『 再生するというのは適切ではない 』 といいます。

『 友ゴータマよ、では再生しないのですか? 』 と問われて、あなたは

『 再生しないというのは適切ではない 』 といいます。(※問いが適切でない、ということ)

友ゴータマよ、ここに至って私は分からなくなりました。 迷ってしまいます。

★ヴァッチャよ、この教えは意味が深く、洞察しがたく、さとりがたく、思慮を超えたものである。

★ヴァッチャよ、ここであなたに私は訪ねよう。 あなたは思う通りに答えなさい。
ヴァッチャよ、あなたはこれをどのように考えるか。

もし あなたの前で 火が燃えておれば、あなたは『 私の前で火が燃えている 』と知るであろう?
☆友ゴータマよ、もし私の前で火が燃えておれば、『 私の前で火が燃えている 』と知るでしょう。

★ではヴァッチャよ、もしあなたに『 あなたの前で燃えているその火は何に縁って燃えているか 』
と尋ねたら、このように尋ねられたあなたはどのように答えるのか?

☆友ゴータマよ、もし私が『 あなたの前で燃えているその火は何に縁って燃えているか 』
と尋ねられたら、友ゴータマよ、このように尋ねられた私は答えるでしょう、
『 私の前で燃えているこの火は、草や薪を取り込むことに縁って燃えている 』と。

★ヴァッチャよ、もしあなたの前のその火が消えたら、あなたは
『 私の前のこの火は消えた 』と知るであろう?

☆友ゴータマよ、もし私の前のその火が消えたら、『 私の前のこの火は消えた 』と知るでしょう。

★ではヴァッチャよ、もしあなたに『 あなたの前のその火は消えた。
その火はここからどの方向へ行ったのか。 東か西か北か南か 』と尋ねたら、
このように尋ねられたあなたはどのように答えるのか?

☆友ゴータマよ、それは問いが適切ではありません。友ゴータマよ、その火は草や薪を取り込むこと
に縁って燃えていました。 それが尽き、他に供給されず、燃えるものがなくなって、
それは消えたのです。

★ヴァッチャよ、それと同じように、物質・感受・想・形成力・意識 として如来を認知する者は、
如来にはその 物質・感受・想・形成力・意識 は捨てられており、根を断たれたターラ樹の幹のように

消滅し、未来に再び生じないものであることを認知するであろう。(※どうみても、「如来 = 真我」)

如来は 物質・感受・想・形成力・意識 という呼び名から解き放たれており、大海のように深く、

無量であり、底が知られない。 それゆえ、

再生するというのは適切ではなく、再生しないというのも適切ではない。


◆「 仏教といえば『無我』『空』。 死んだら『無』。霊魂はない。輪廻はない。わからない。
あるかもしれない。たぶんある。絶対ある。興味ない。」

ここ日本では宗教的なことは自由なので(よい国ですね)、人それぞれいろいろな考えがあると思う。

「空」は初期仏教では、「この世の幻想性、自我の幻想性」を表現する意味で使われたが、、
後世になり それと根本的に異なる理論も登場した。(※参考:前記「原始仏教・★大乗仏教・密教」)
前記「心と深層意識のカラクリ」のニサルガダッタ語録にあるように、マインドのレベルから見たとき、
「実相」は「空」として描写されうるけど、、厳密に言えばその「空」は、この世の幻想性の「空」とは
ニュアンス観点が異なります。 実際には、「実相」を指して(描写して)「空」を使うときに、
「観照者的な性質」や「この世の幻想性」を間接的にふくむようなニュアンスでも使われてる気がする。
(※それは問題ナイ) おそらく般若心経や中観派の影響もあり、「空」の定義が曖昧になってるぽい。
ただ、「仮相(実相の仮現)」と「実相」は、(概念的には)区別する必要があります。
(※「意識・実相」を区別して説明するか否か、は別のハナシ)

◆まぁ重要なのは 言葉や理屈そのものではなく、この分野の全体像をみて 概要・要点 を理解してから、
実践していくことではある。しかしこの分野ではどうしても表現が入り乱れ、言葉の定義の問題もあり、
また「自我の催眠」と「概念が通用しない実在」が関わるために、パラドックスとある種の混乱を含んで
いて、概念的に理解する過程において誤解が起こりやすい、という点には注意されたい。
当サイトを作成したのは、この分野のアウトラインを解説することで、興味を持ち始めた段階の探求者が
誤解・混乱 を避けることを助けれたらよい、という思いがあったことも二次的な理由としてあるが、
推測的な解釈もふくみ、また人それぞれの適性があることはご理解ください。

この分野では言葉にできるものはすべてアウトラインであって、核心部分は各人の「私」の内側に入っていくことです(仏教が指し示してるのはそれ)。

★「彼岸に至ろうとする人びとは、不死の境地を尋ねる。 かれらに問われて、すべての休止した、
生存の素因のない境地を、われは説く。」(サンユッタ・ニカーヤ)

★「世の中は泡沫(うたかた)のごとしと見よ。 世の中はかげろうのごとしと見よ。」(ダンマパダ)

★「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。」(スッタニパータ)

◎「ひとびとは因縁があって、完き安らぎ(ニルヴァーナ)に入るのである。」(ウダーナヴァルガ)


いろは歌の解釈について・・終末メシア論(※オカルト)

※オカルトネタです。。

色は匂へど 散りぬるを
我が世誰そ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて
浅き夢見じ 酔ひもせず

香りよく色とりどりに咲く花も、やがて散ってしまう。
この世は誰にとっても無常である。
この有為転変の、現世という深い山を今日越えれば、
もはや儚い夢を見て仮相の世界に酔いしれることはない。

いろは歌、ふつうに読むと上のような仏教的な解釈ができるけど・・

※「有為 ‐ うい」は完全に仏教用語で、「つくられたもの(仮相)」のこと。

現代では最初に挙げたような「七五調の区切り」が一般的だけど、
古文献においては、上画像のような「七行区切り」がよく見られる。 そして・・

★「イエス」、「とかなくてしす」=「咎なくて死す(無実の罪でしぬ)」

というように、キリスト教的な暗号がふくまれてる、という説が近年では有力なようです。
で、これ公式には作者不明だけど(※色いろな説あり)、空海? じゃないかなぁと(※時代は合う)。
まずこの暗号歌自体が人間技とはちょっと思えないし、空海は唐で景教(キリスト教ネストリウス派)の洗礼を受けて新約聖書を持ち帰ってて、真言密教もよくみると景教の要素が一部入ってる気がする。
その時代に空海のほかに、このような暗号歌をつくる人物が、つくれる人物がいただろうか?
また仮に作者は空海ではなく、暗号解釈も間違いでただの偶然だったとしても、本当はこの世のすべては

「意識の戯れ(縁起プログラム による運命づけ)」 であり、あるいみでは偶然は存在しないのだ。

「根本的かつ包括的な意味」において、すべての物事は必然であり偶然である(縁起関係は見かけ上)。


なお、真言密教の「弥勒菩薩(梵語:マイトレーヤ)」のルーツは、ミトラ教のメシア概念がインドで
ヴェーダ聖典に取り入れられ、やがて大乗仏教・密教にも取り入れられた。
まぁこれはオカルト系では有名な話だけど、世界中のかなりの宗教、
(キリスト、ユダヤ、イスラム、ヒンドゥー、ゾロアスター、大乗仏教、密教、etc.)
これらは、ミトラ教の 終末論・メシア論、ほか一部の教義や概念を取り込んでる、という見方ができる。
とくに キリスト教のメシア論が似ているため、「弥勒菩薩 ≒ イエス・キリスト」 といわれたりもする。

※聖書の中で語られる「再臨のイエス・キリスト」、という意味です。

なお、ユダヤ教三大宗派の一つだったエッセネ派は、実質的にミトラ教の亜種でグノーシスにも近いが、

イエスとヨハネがこのエッセネ派(クムラン宗団、死海文書の作者説)に所属してた、という説は有力。
エッセネ派の教義:「天上の主・メルキゼデク(マイトレーヤ)が終末期に正義の復権をおこなう」

★イエス像と弥勒菩薩像(手指のポーズ)  ★仮説、イエス・キリストの真相(2人のイエス)


ミトラ教の大元のルーツは、「シュメール文明(BC3500年頃~)・エジプト文明(BC3500年頃~)」などでみられる シリウス信仰(※後者が顕著)にあるともいわれるが、古代オリエントにて形式化されて
いき、BC1800年頃以降は原始ミトラ教?の形になり国教にもなってた。(※太陽信仰 ≒ シリウス信仰)
その後、古代アーリア人(イラン・インド系)に ミスラ神=ミトラ神(契約神・太陽神)の信仰が受け継がれ、1~4世紀にはローマ帝国および西アジア全般にて救済宗教として興隆し、キリスト教に敗れる形で衰退。

サンスクリット語での「マイトレーヤ(弥勒)」の語源は「ミトラ」。
古代インドのヴェーダ聖典(BC1200年~BC1000年頃)にも「契約神ミトラ」として登場。

ミトラ教ルートではないけど、「大本、日月神示」近年では「ニューエイジ、アセンション思想」なども
形は違えど共通のなにかが感じられたりもする。 なお、「ニューエイジ思想」 のルーツはいちおう、
西洋占星術 & 神智学協会(ブラヴァツキー)の思想にあるともいわれるが、、おそらくその根本には、

「古代エジプト神秘主義(シリウス関連)↓」 がある(※ブラヴァツキ―はエジプト神秘と深い関係)。

そしてこの、エジプト神話の「オシリスとイシスの物語(ホルスとセトの戦い)」こそが、多くの
終末メシア論の 集合意識的(縁起的)なルーツ、という見方もできるのかもしれない(※順序的にも)。

一説には、「イシス = シリウス A」「オシリス = シリウス B」「ホルス = 太陽系地球」 とも。
なお、旧約聖書が「シュメール文明・神話」に直接的なルーツをもつことは、学術的にも明らかである。
★ミトラ教概説 ~ 竹下雅敏 講演動画  ★エジプト神話(オシリスとイシスの物語)

◆「水瓶座の時代(アクエリアンエイジ)」 今世紀が、ニューエイジ移行期(※たぶん マチガイナイ)

★《「シリウス・コネクション ‐ 人類文明の隠された起源(徳間書店、マリー・ホープ著)」》(※推薦オカ本)

神秘主義者や形而上学者は、シリウスこそが地球の進化の鍵を握る天体であり、地球の未来においても
重要な役割を果たすはずだと信じている。 古代エジプトの神官たちは、冒頭で述べた太古の文明から知識を授けられて、シリウスの持つ意味を知りすぎていたがために、彼らの神秘的な儀式のうちに ――。(P15)

闘いにはホルスが勝ったにもかかわらず、古代エジプト人はセトを恐れ続けていた。――(※中略)
我々は現在もこの物語の只中におり、ホルスが戻ってきて地球が太陽に対し元の正常な位置に戻るまで、
その中にい続けるのである。 ―― ホルスの時代には歴史の振り子が混沌から秩序へと戻るだろう。 P124

「水瓶座の時代 = ホルスの時代」は通説になってるが(クロウリー ?)、地球では大方 2000年~4000年 が
あてはまり、今世紀(とくに前半)が移行期とされている(※計算方法や定義によって少し変わる)。
クロウリーがニューエイジ思想のルーツではなく、ホルス説と関係してるだけです。
古代エジプトを深く研究した本書の著者も同じように考えてるけど、、超古代エジプトの断片的な情報と、
地球の歳差運動の周期を考えれば、ふつうに「ホルス説」は浮かび上がってくる(※下記 に掲載)。
あと、地球が太陽に対し元の位置に戻る ってことではないかも(※そのままでイケル説あり)。

水瓶座の時代(ホルスの時代)は「人間が神性に向かいだす時代」、といわれている。

エジプト神話の「神名(神格)」は基本的に、創造における「機能的原理(宇宙的・生命的諸力)」。

※動画:「(占星術)本格的に水瓶座の時代に突入する2020年」
※謎解き、かごめうた(他サイト)

「ニューエイジ移行期(※今世紀)」、リーラの舞台裏で起こっていることは、2大原理の対決!!

「セト(二元性・物質主義推奨)」 VS 「ホルス(非二元・霊性主義推奨)」(※参考:

※以上、関連:「❶ 古代エジプト神秘思想、ニューエイジ思想の関連(別ページ)」
「パラダイムシフト(別ページ)」≫「❷ 昨今の世相について(集合意識システム)」

そして映画を見終わった観客のように、我々はいつかこの暗い囲いを出て、魂の故郷へと帰って行く ――。
(※中略) 物質レベルでの体験はあまりにも現実的なものに感じられるかもしれない。 しかしそれは、
古代アトランティス語でいう、「ウン・ウ・スタ・リ・スタ」すなわち、一連の夢にすぎないのだ!(P327巻末)

★《「天地の聖母(ヘルメス文書)」より》(※人類の文明の起源について)

そこでホルスは尋ねた。「母上、いかにして地球は神の恩恵を受けたのですか。」
イシスは答えた。「その起源について語ることはできません。 あなたの係累について語ることは禁じられているからです。 万能のホルスよ。不死なる神々の由来を人類に知られてはなりません。
世界を創造し、支配し、監督する神が、あなたの万能なる父オシリスと全能なる母イシスを遣わし、要するものすべてを与えるまでは・・・。」


これを本質的に見るならば、ミトラ教うんぬんというよりも、少なくとも3000年以上前から似たような
終末論・メシア論 を繰り返し人間社会に刷り込んでくる現象をつくりだすための、特定のプログラムが
集合意識(根源意識)に存在してるということ。 そして、霊界(的なもの?)も関わってるっぽい。

つまり、人類の運命に関連する壮大な脚本プログラムが根源意識にあって、霊界や人間界の存在たちは、
根源意識の「遊び心(秩序候補ふくむ)・混乱」などの要素とともに動かされてるのだろうと思われる。
だから世にでてる終末予言なんかも、あまりあてにならないかも(大元が アレ なので・・)。
そして究極的見地では、根源意識ふくめてこの世のすべてはハイリアリティの仮現であり、物事は
時間・空間の幻想のなかで一時的にそのように現れるだけであるため、そこに個別の原因や意味はナイ。
(※縁起プログラム は見かけ上の原因) このサイトを書き始めたきっかけも、私の意志ではない。

そしてある時期に現れた問題は、時間の中で必ず解決が与えられ、しばらくしたら別の新たな問題が
作りだされるようになってる。 公式での最古文明である 謎にみちたシュメール、エジプトの時代 あたり
から、おそらく人類がずっと抱えてきたこの問題の、原理主義的な政治関与ネタや多くのカルト宗教ネタ
にもなってきた終末メシア論の、裏に隠されたほんとうのテーマは、「人間存在の真実について」そして

「自我からの救済」または「現行DNAシステムからの救済」ではなかっただろうか?(※妄想!)
あるいは、「DNAはそのままで深層意識の構造の変更」というのも十分あり得るだろう。(※妄想)

もちろん究極の意味での救済とは、私たちの本質から発生した「個人、人類、世界」という神秘的な幻想
から、私たちを救済することである(=謎のおトボケどっきり救済ゲーム)。

★by ニサルガダッタ・マハラジ 《「I AM THAT 私は在る」より》

宇宙は行為であふれている。 だが、そこに行為する者はいないのだ。 そこには自己同一化によって、
行為していると想像している無数の小さな、そして大きな、そしてとても大きな個人たちがいる。
だが、それが行為の世界(マハーダーカーシュ)はすべてに依存し、すべてに影響する「●単一の統一体」だという

事実を変えることはない。 星たちは私たちに深く影響を与え、私たちも星たちに影響を与える。(P418)


キリスト教はよく知らないけど、イエスの処刑と復活の話ってのは、「自我の死」と「真我への目覚め」
の比喩じゃないのか? と昔から思っている。 聖書読むと なんというか、捏造みたいな箇所も少しは
あるだろうけど、意味深なメタファーや人類へのメッセージ? みたいな部分もけっこうある。

つまりその話は、「『自我』がしぬ(=催眠がとける)ことが、『真我』に目覚めるということですよ 」
みたいな メタファー(隠喩)を含んでいるのではないか、と。

※関連:「グノーシス主義(別ページ)」≫「★トマスによる福音書」
そして、社会的には通用しないがこのサイトで繰りかえし書いてるように、ほんとうはこの世に行為者はいないので、究極的視点では「自我」は実在しないし罪もないわけです。(★解脱=無罪放免)
だから、イエスが無実の罪で処刑って話と ピッタリ あうんだよねぇ・・
私が人生経験から理解したのは、縁起のシステムはどうも メタファー と ジョーク が好きらしい、ということ。

★人生ってのは 言わば、服役中に再審請求(=真我探求)できる ゲーム なわけ。 無罪を勝ちとれば クリア。

「キリストの再臨」とか、それ以外でもミトラ教類似の 終末論・メシア論 というのは、あるいは、
外面的な意味と内面的な意味(=隠喩)の2つを掛けてるんじゃないか、と思ったりもする。
外面的というのは、実際にメシア的な存在があらわれて、何らかの状況にある人類を助けること。
内面的というのは、人々の内側(深層)からくる救済のことで、真我実現か、深層意識の構造変更による「類似唯識無境」。 あるいは内面的だけ、つまりかんぜんにメタファーである可能性も考えられる。

これは「グノーシス主義(別ページ)」とも関係するけど、、旧約聖書の神「ヤハウェ」という存在は、
世界創造原理「私は在る」を比喩的にあらわしてると思う。(※すべては仮想縁起プログラムによる幻想ショー)

だから神ヤハウェがモーセに、「わたしは『私は在る』という者だ(I am that I am)」 と言ってる。

そして、「私は在る」は非顕現の私たちの本質から一時的に各自に現れて、仮想世界体験が起こってくる。
だから、「私は在る(仮想システムの根理)」が、顕現においては最高神のようなもので、これは根本的に

「無知」を含むが、そこには「非顕現(≒至高神)の理法」のような プログラム も確かに組み込まれている。

この原理は人類を苦しめることもあれば、非常によい状態に導くこともあるだろう(※神的な力をもつ)。

そして、「キリスト教」は旧約聖書(旧約の神)と大きく関係してるけど、内容的にみて非顕現側の
「間接的な」作用のようなものを感じるわけです(※よい意味で)。というか内容的にそうなってるよね。
「旧約の神からの契約更新」みたいな話だろうし。


終末論・メシア論 というのは陰謀論の視点でもみれるけど、私はつぎのように考える。
陰謀的なものは、霊界ふくめて存在する可能性はあるが、実際はこの世にもあの世にも行為者はいないのだから、それも ドラマチック に展開するための駒にすぎず、つねに全ては然るべきところに向かっている。

実際には「終末メシア論」というより、人類の霊性が上昇していく「ニューエイジ移行期」てことかと。

この仮想システムは 人間にとって根本的な意味で「不条理」さがあるが、しかし「魅力的要素」も多い。
そして根源意識に 「秩序」「遊び心」「混乱」 のような要素があり、「ハイリアリティ(真我)」の

副次的要素(=サットヴァ)が、つねに顕現全体に作用している。 しかし現象世界を、(個人視点で)
局所的に一時的にみた場合には、それが強く現れるときや、弱く現れるときや、まったく現れないときが

あるのではないだろうか?  この仮想システムが暗に仄めかしていることは、どうみても
「分離は幻想、すべては幻想、自我の存在は認めたくない(キャハ)」ということだろう。 そして、、

このサイト含めすべての現れは、ほんとうには実在しない宇宙意識界による、壮大なるボケにすぎない。
そのため私たちが受ける人生の最終の目的は、真実の自己知識(解脱)をもって、その壮大すぎるボケ
(人生自体も含む)にツッコミを入れることにある、といえるだろう。(※観照者視点)
そしてその背後で私たち(真我)が、ボケとツッコミは双方とも自分自身の仮現であることを
ハイリアリティの真の現実のなかで見届けることで、、あるいは私たち(真我)が自分自身にツッコミを
入れることで、この リーラ(神性劇)は閉幕となるはず。(※実在視点)
実在視点では「ボケ・ツッコミ」の二元性は成立せず、概念や論理も通用しないのだ。(by 覚者たち)

ちなみに、上にあげた根源プログラム の3要素 「秩序」「遊び心」「混乱」 は、サーンキヤ哲学での
3つのグナ、「サットヴァ(純質)」「ラジャス(激質)」「タマス(暗質)」 と雰囲気的に
同じような感じ、と考えればわかりやすいと思う。。

※ニサルガダッタの説明だと、「意識 = サットヴァ」。


そして、空海は唐で景教徒とかなり親交があったらしいので、キリスト教の秘密のようなものを知ってた可能性もある。 あるいは、神通力で人類の運命を見抜いてた可能性もある。
それで、仏教的な内容にキリスト教的な暗号入れてイロハ歌を作ったんじゃないかと(※憶測)。
空海といえば超人的な能力と法力(神通力)で、最期の遺言も「弥勒菩薩と共に下生する」とかでしょ。
なんかこのイロハ歌が引っかかったもので。 憶測と妄想だらけのオカルトネタですけど。(笑)


<他サイト>
★弘法大師が「いろは歌」の作者か ★暗号文としての「いろは歌」 ★シュメールと日本の関連性
★(動画)地球最古の文明は人類が作ったものではない?アフリカで発見された20万年前の超古代文明!

ある点では、有る(存在する)。(=極論、幻想視点)
ある点では、無い(存在しない)。(=極論、実在視点)
ある点では、有り、また無い。 または、幻想として有る。(=中道、中間視点)
視点をいっさい定めない場合、表現できない。(=論外)

※参考: 前記「釈迦いわく(有・無 と中道)」、別ページ「パラダイムシフト」

※これは、「この世の存在」「行為主体の存在」 の両方に当てはまる。 極論は弊害 アリ。
近代文明の進歩とともに問題化してくるのは、人々の常識が「極論」になってること。 これは根本的要素。

あらゆる悪行や善行を超えた彼方に
緑の野原がある
そこであなたに会おう
魂がその草のなかで横になると
世界はあまりにも豊かで 言葉にできなくなる

by ルーミー

「不思議の国のアリス」巻頭詩(冒頭部のみ)

All in the golden afternoon
Full leisurely we glide;
For both our oars, with little skill,
By little arms are plied,
While little hands make vain pretence
Our wanderings to guide

ものすべて 金の光の昼下がり
我ら舟こぐ ゆたゆたと
二人の漕ぎ手は つたなくて
か弱い腕で オールこぐ
小さな両手で でたらめに
我らの遊びを 案内する

「鏡の国のアリス」≫ 夢を見たのはどっち?(アリス or 赤の王)

鏡の国のアリス(全訳、翻訳専門サイト)
≫ 第12章 どっちが夢を?
アリスの夢か? 赤の王の夢か?(他サイト)
<抜粋> ①アリスの現実世界からすれば夢を見ていたのはアリスである。アリスの現実世界には赤の王が
いないから夢見ていたのが赤の王であることはない。 ②しかし鏡の国の現実からすると夢見ていたのは
赤の王であってアリスではない。(寝ていて夢見ているのは赤の王でアリスは起きている。)

<たとえば>

「赤の王」=「私は在る(≒ 意識 ≒ 阿頼耶識 ≒ プラクリティ)」=「アリスの夢の創造原理」。
「赤の王」は夢自体と夢の中の世界創造に関与しているが、ほんとうの意味で夢を見てたのは「アリス」。
あるいは、「赤の王 + 赤の女王(現実世界では子ネコ)」=「私は在る(世界創造原理)」。

※関連サイト: 映画「マトリックス」に登場する「アリス」ネタ

「鏡の国のアリス」巻末詩(岩波少年文庫、[訳]脇 明子)

A boat beneath a sunny sky,
Lingering onward dreamily
In an evening of July--


Children three that nestle near,
Eager eye and willing ear,
Pleased a simple tale to hear--


Long has paled that sunny sky:
Echoes fade and memories die.
Autumn frosts have slain July.


Still she haunts me, phantomwise,
Alice moving under skies
Never seen by waking eyes.


Children yet, the tale to hear,
Eager eye and willing ear,
Lovingly shall nestle near.


In a Wonderland they lie,
Dreaming as the days go by,
Dreaming as the summers die:


Ever drifting down the stream--
Lingering in the golden gleam--
Life, what is it but a dream?

くれやらぬ 七月の宵
はれわたる 空をあおいで
ゆらゆらと 船はたゆたう


三人の 小さき娘
お話に 耳をそばだて
キラキラと 目をかがやかす


その空も とうに色あせ
思い出の こだまも消えて
秋の霜 夏を枯らしぬ


現し身の アリスの姿
いまははや 見るよしもなく
幻の 訪れるのみ


さはいえど 丸き目をして
お話に 耳そばだてる
幼き子 なおもあるらん


不思議なる 国をさまよい
長き日を 夢見て暮らす
つかのまの 夏果てるまで


金色の 夕映えのなか
どこまでも たゆたいゆかん
人の世は 夢にあらずや?  

◎ 仮想意識とその中に現れる世界は、ハイリアリティの仮現。 「 神性劇リーラ これにて閉幕 ♪ 」

◎「堪え忍ぶこと」よりもすぐれた善き利は存在しない。 柳に雪折れなし。

◎ 夢の中身にほんとうの価値は何もない。 すべては空っぽ、風の前の塵に同じ。

◎「世間は虚仮(※幻想)にして、ただ仏のみこれ真なり」 by 聖徳太子

◎「人間において偉大な点は、かれがひとつの橋であって、目的ではないことだ。」 by ニーチェ

◎ 成仏とはただ、錯覚・幻想 がとり除かれること。

人間の心の深層に汚れと執着があるために、私たちは一時的に自己を正しく自覚できてないだけ。


★Just A Dream: Nelly
★Catch Fire: Nightcore
★ルート99: メタルマックス2(フィールド曲)
★Open Your Eyes: Aurosonic feat. Kate Louise Smith
★Flemington: Tom Day                                 ご通読、ありがとうございました。 成仏祈願!!