輪廻転生を卒業しよう! 真我のハイリアリティ

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近年は地球文明(物質文明)も隆盛をきわめ、ここ日本もストレス社会となって参りました。
そこで宇宙の法を理解して、今生を縁に輪廻転生を卒業しませんか? 「一切衆生悉有仏性♪」

当サイトは作成者が「 行為者は存在しない 」ことを強制的に確信させられた、一連の不可思議な
体験(10数年前)を原点にして、関連書籍などを参考にし、多くの「 推測 」を交えて書いてます。

当サイトは 宗教的 なこと、主に 人間存在の真実 について書いてます。この分野では、ある理由から
それを オブラート に包んで表現する傾向があり、それは仏教にも言えます。しかし、仏教が興った
約2500年前とは時代・世相が異なることと、近年ではオブラートなしで表現する覚者・解脱者たちが
続出してることも参考にし、当サイトでは極力、真実をストレートに表現することを心掛けてます。

真実を知っている(その縁があった)、ということはこの 仮想システム内 で確実に有利に働きます。

なお、ここで書いてることは あくまで宗教的 であり、世間的には通用しない部分もあります。

★あなたは予め運命に定められた通りに、完璧なタイミングで「この文字」を読んでます。

★当サイトでは、形而上的概念に関する比喩表現(のようなもの)を多用しています。

★当サイトでは、「ハイリアリティ」=「至高の実在、真我、霊魂、真の現実」

「リアリティ」=「仮想世界、幻想性」、「●自己の存在性」=「幻想側の自己」 の意味。   2019.09.01

<見出し>
◎ 人間存在の真実 & 輪廻のゴール(まとめ)
◎ 真我探求のリアリティ
◎ 仏教とハイリアリティ(実在、真我、霊魂)
◎ いろは歌の解釈について・・終末メシア論(※オカルト)

人間存在の真実 & 輪廻のゴール(まとめ) ~ 人生は、不思議の国のアリス ~

◆この世界はいわば、共同仮想現実、完全リアル体験ができる VR のようなものである。
映画「マトリックス」は、まさにこれを裏テーマにしてる。(※「心」のトリックの世界。詳細後述)

◆究極視点では、現れた世界のすべては全自動の 縁起プログラム によって動いていて、個人は行為主体

ではない。 ほんとうは 私たち は、現れた世界の中には、いない。(自分の体験から100%断言、確実

◆人間は自我の催眠によって、本当はプログラムどおりに動いてるのを自分の意思で心体を動かしてる、と感じる催眠状態にある。 言い換えれば、行為者としての自己感覚を「自我(エゴ)」と表現できる。

◆しかし 仮装劇の中では、とうぜん個人に「行為の責任」が存在する(※宇宙の原理)。
言い換えれば、社会(=幻想)の中にはあくまで行為者が存在する、ということ(※視点の問題)。

★詳細:「行為者は~ パラダイムシフトと倫理・中道(別ページ)」

仏教情報総合サイト ブッダワールド

「我(が)」:
自我の意。 行為主体としての自己。 永遠不滅の本体。自己主観の中心となるもの。

仏教ではこのような常恒の我を認めない。 存在は縁起によってなるものとし 無我の立場をとる。

※仏教では、「『諸法無我、諸法一切縁起』でありながら『行為主体』が存在する 」
という解釈はムリであるため、「究極的見地では、行為主体は存在しない」 というように説明されてます。

縁起プログラム(≒集合意識・宇宙意識)にも自性はなく、それも幻想の一部であるため、

「一定の法則の下で、すべてがひとりでに動いていて、影響し合っている(一切縁起)」
がより正確な表現で、「縁起プログラムが動かしてる」は少しかたよった表現。(★阿頼耶識縁起)

人間:「縁起プログラムに動かされてる」 縁起プログラム:「人間の行動にも依存して動かされてる」


◆人生は、催眠の中に仮設された「仮設行為者(=自我)」が行為の責任を問われ、または称賛される、
という神秘的なジョークであり、挑戦状でもある。 すべての現れは「仮想宇宙意識」の戯れであり、
人間の意識もその深層の宇宙意識の一部。(※その「仮設・催眠」を解除せよ、という 謎のゲーム

ここでは一部否定的な表現もするけど、ある意味では くそ最高のジョーク。 わるふざけ、とも言える。
しかし根本原理の一部に 至高の理法 が含まれるため、そこを確信することが重要。(★阿頼耶識縁起)

そして催眠だとしても行為者の感覚が確かにあるわけだから、つねに「今この瞬間」だけが勝負どころ。

ポジティブに言うなら、「分離から再統合へ、幻想から真実へと向かう よろこびの道」。

アドヴァイタ哲学(不二一元論)ではこれを、「★リーラ(神性遊戯・神性劇)」という。

◆本質的には、仮想意識のなかに世界と人間が現れて、霊魂(真我)のアイデンティティ(私)が肉体と自我のシステムに同化する。 このうち、自我システムへの同化のことを「自我の催眠」と表現できる。

◆生存中に何らかの方法で(または流れで)、「自我の催眠(=仏教での無明)」が解除されれば、
それはいわゆる悟りをひらいた(解脱した)状態で、その人は今生で輪廻転生を卒業する。

by ラメッシ・バルセカール 《「意識は語る」より》

行為者という個人的感覚が消えるという意味で悟りが完全なとき、エゴは完全に消えます。 そのとき、

事実上エゴは消えたのです。しかし、肉体との一体化は続きます。なぜなら、肉体-心は機能しなければ
ならないからです。 個人的行為者としての一体化は消えるのです。(P196)

基本的には、悟りはたった一つのことを意味しています。現実に見えたことが、実は非現実であるという
突然の理解です。そのときあなたは非現実を現実として経験します。突然の超越の感覚、超越のヴィジョン
があるのです。 すべては夢であるということが、もはや観念ではないのです。(P141)

《「誰がかまうもんか」より》

人間は、個人的行為者という余分で怪しげな感覚の才能、つまりはエゴのことですが、それをもつ対象物の一つの種です。 繰り返します。人間は、現象界の対象物全体を形成するその他すべての対象物と並んで、
対象物の一つ、対象物の一つの種にすぎません。(P58)

by ニサルガダッタ・マハラジ 《「意識に先立って」より》

▼質問者
でも、私がコントロールできることもあります。例えば、ここに来るかどうかをコントロールできます。
▼マハラジ
それは誤解だ。 何であれ、起こることは自然に起こるのだ。 このすべては意識のショー、あるいは
表現であり、その特性は変化だ。それは意識的な存在のダンスであり、意識にはそれ自体を楽しませる
非常に多くの異なる形態、技量、能力が機能している。しかし、その機能は単に自分自身を楽しませる
ためのものだ。 それは疲れると眠って休み、目覚めると活動や行為などの何らかの娯楽を必要とする。
それらはみな意識の中の見かけだ。それぞれは自分自身の寿命に従って続くが、基本的には正当なことも

重要なことも何も起きてはいない。 目覚め、つまり理解が起こるまで、あなたは自分を行為者だと

考えるが、いったんこの理解が起これば、働いているどんな実体もないことをあなたは知る。(P236)

今日の世界には非常に多くの人たちがいて、彼らはあまりに色々なことで忙しいので食べる時間がない。
彼らは立って食べている。 これがマーヤ(※幻想)の性格だ。 偉大なマーヤの原理のせいで、
あなたは彼女のすべての悪巧みをおこなう。 そして、あなたはまた彼女の言うことを忠実に守っている。

そして最終的には、あなたの光、あの存在(※意識、存在性の原理?)は消滅させられる。

それから、あなたはどこへ行くのだろうか?(P32)

意識があるゆえにあらゆるものが存在するのだが、意識自体は単なるそれ(※真我)の光にすぎず、

存在するそれの反映だ。(P292)  霊性は開かれていると同時に謎でもある。

あなたが存在するゆえに、すべての世界があり、宇宙もある。 これはあなたの反映なのだ。(P293)

意識とは、愉快で魅惑的なマハーマーヤー(偉大な幻想)、あらゆるものの中で最も壮大な詐欺である。

◆縁起のシステムは、根源プログラムに 「秩序」「遊び心」「混乱」 と関連する原理的要素が存在して
いて、「メタファー(隠喩)」「ジョーク(悪ふざけ含む)」「ドラマチック(物語)」 が好きである。
あとたぶん、「リズム(調子)」 が好き。

現象化のパターン(運命づけ)には、人間を霊的成熟に向かわせようとする力も確実にはたらいてる。


◆人間が体験するできごとは、自分の深層意識に保存してある過去の行為のデータ、または集合意識から分配されたデータのどちらかを使って現象化してる(※人間関係は、過去の行為のデータが多いぽ)。

◆人間関係においては 大まかには、自分と相手の「心」は、どちらも両者のデータの二重投影であり、
両者の深層のデータ(※複合・分散 あり)が組み合わさって、心・体 の動きが定められる。
「二重投影」と表現したが、両者のデータはパズルのようにぴったり合致するものが使われ(=運命)、両者ともに自分のデータの分だけの体験をする。 なので、自分に関わるできごと
(※自分の心体の動き含む)は基本的に自分に割りあてられたデータの反映、とみるのが妥当。
しかしそれは幻想(≒夢)のなかであり、究極的にはそのすべてが自己と無関係、という確信が最重要。

このデータは主に前世から現在までのもので、現象化されれば消える!! が、ネガティブ現象に関して
「過剰に」戦ってしまうと(※自我の反応)、新たなネガティブデータが保存されてしまう。 これは、
完全スルーするとポジティブデータとなる場合が多く、宇宙の法が定める±ゼロのポイントがあるはず。

◆保存されたデータが現象化するまでの時間はさまざまであり、深層意識の状態と運命にもよるが、
おそらく平均的には、人生の全行為の 1/2 以上は来世に持ち越される。

◆あらゆる苦しみの根本原因は「自我の催眠」にある、と見抜いて賢く行動すれば、深層意識が直感的な何かを表層心に投影するようになる。真実はあるていど保護される設定になってる(※深層レベルの話)。

幻想のなかでは、それが真実。 仏教でいうなら「無明」。 つまり、幻想側の「仮の自己(心・体)」
の部分に興味を持ちすぎることは、場合によっては苦しみをつくりだす要因にもなりうる。


◆この仮想プログラムは自然発生的に? 起こっていて、 厳密な意味での巨大知性を持ったプログラマー
(創造神)は存在しないが、神的インテリジェンスを含む原理が一切万物に浸透してる(八百万の神)。
◆ほんとうは物事の運命は先ざきまで定まってる、という説もある。 少なくとも起こることはすべて
定められた運命だが、私たちは、真の自己である「気づき」を自覚することにおいて自由がある。

◆二元性の 多くの要素 は原理的なレベルでは表裏一体とも言われるが、輪廻のなかの現象については、

想像を絶する くそ膨大な時間のなかで、バランスを取ろうとする力が作用するかも。(★by ラメッシ)

◆この仮想システムは「変化」が基本特性で、つねに全体性の中でバランスを取りながら運動している。
ある意味では、つねに必要なことが起こってるともいえる。 サットヴァ(純質)で調和・安定の傾向!

◆大雑把に言えば、輪廻とは、仮想意識内の同化・一体化する肉体を変えられ記憶リセットされながら、全自動でこのようなたぐいの運動が発生するものであり、人生はその中の一片である。

◆「宇宙の法」は完全に状況に応じて、きわめて複雑に流動的に作用するのであり、ある行為における
徳・罪の判定(甘さ・厳しさ)は、周りの状況と行為者の(人生の)境遇、さらに心の動きも関与する。

※関連:「因縁生起 & 賢い生き方、悪人正機について(別ページ)」


◆人間が何か新しいことを始めたり、行動するにあたっては、「動機」が重要な要素 となる。

純粋な欲は悪くないが、表面的には、他者の利益のために行為すべき(※自分の利益も含まれてよい)。
動機がよければ、物事が即座にうまくいかなくても必ず後に良縁がつながるようになってる。

そして 本質的には、あらゆる行為は行為自身のためになされるべき(※自意識の問題)。 なぜなら、
実際は 分離した他者や個人的行為者は存在せず、私の心体の行為は私に対して 起こっている のだから。

あるいは、至高の神(≒私たちの真我)のためにすべての行為をなす、でも良いだろう。

行為の結果を除外して執着せずに利他的に奉仕すれば、それはより高度な「カルマ・ヨーガ」となる。

ヨーガ(サーンキヤ哲学)で言うと、、

自我の催眠(無明)とは、プルシャ(霊魂)がプラクリティから生じるグナ(要素)と結合してる、
またはグナを享受してる状態。 この仕組みのことを、ここでは自我システムとよぶ。

グナを超越(=解脱)した人は? その方法は?(↓)  ★プルシャとグナの結びつき(他サイト)

(★参考: 後記「サーンキヤ哲学」、「覚者たち(別ページ)」≫「その他」)

彼は中立者のように制止し、諸要素によって動揺させられず、諸要素が活動するのみと考え、安住して動かない。 彼は苦楽を平等に見て、自己に依拠し(充足し)、土塊や石や黄金を等しいものと見て、好ましいものと好ましくないものを同一視し、冷静であり、非難と称讃を同一視する。 彼は尊敬と軽蔑とを同一視し、味方と敵とを同一視し、一切の企図を捨てる。 このような人が、要素を超越した者と言われる。
また、不動なる信愛(バクティ)のヨーガにより私に奉仕する人は、これらの諸要素を超越して、ブラフマンと一体になることができる。(※私=至高神クリシュナ)《「バガヴァッド・ギーター(岩波文庫)」P116 より》


◆人間の知性は 創造プロセス(無知)により生じる産物で、プロセスの源が私たち(真我、真知)であるため、人間は創造プロセスを評価する立場にはなく、真に求められてるのは解脱して幻想の源を自覚すること。

※参考:「覚者たち(別ページ)」≫「世界創造原理 ‐ ドゥッカ・バカバン(by ニサルガダッタ)」

◆現れた世界は心のトリックを使った幻想であるため、条件さえ整えばどんなことでも起こりえる。
例えば、いつか人類が深層意識レベルで進化してハイレベルな霊的地球文明が誕生する可能性もあるが、
それでもそれは、「人生、という問題」の根本解決ではない。 ※関連:「★人類の運命(別ページ)」

◆「現時点」の人類の DNA or 深層意識のシステム、そして自然界のエネルギーバランスでは、生存中に
自我の催眠がとけて解脱(真我実現)するのは全体的には未だ稀なケースと言わざるを得ないが、
しかし、明らかに増加してきている。 つまり、現在その部分の 転換期 にさしかかってる可能性が高い。

◆人類のある程度に 仮想システムの理解 が起これば、人類の運命の本格的な転換期をむかえるのでは
ないか? と個人的には推測する。(※ジョークの世界。 すべては時節しだいなとこもある。

少なくとも言えるだろうことは、その理解度がひくい状態では、「分離と二元性の波」が強調されやすい

ということ(※人類・個人、の両方において)。※詳細:「行為者は~(次ページ)」


◆仮想縁起プログラムは、人間と私たちの根本的な誤認を「幻想ショー」を通して指摘しつづけ、

ついに輪廻を卒業(解脱)させる、というプログラム設定になってる。 ★参考:後記の「サーンキヤ哲学」

◆輪廻の卒業については、ある程度以上に輪廻経験を増やしても意味がなく、仮想システムの理解
幻想ゲームを卒業する強い必要性 が、プログラム上(人の心)で起こることが重要とされる(=運命)。
それらが起こって行動をともなえば、そちらの方向で縁がつながっていく。 現時点で多くの人には、
まずこの仮想システムの理解が起こらないために、延々と輪廻が継続されてる可能性がある。

私たちのすべての幸福の探求は、じつは無意識レベルでの真我の探求であると言われる。(★by ラマナ)

解脱 or 輪廻卒業 を志す人は、仮想世界の根本原理(≒存在性への愛)を深く理解しようと試みながら、執着を和らげていく姿勢が基本となる。 攻撃的否定性(つよい感情)は執着である。


◆もちろん、生存中に解脱しなくても、肉体死とともに成仏するケースはけっこうあると言われている。

幻想プログラムを卒業するつよい決意とともに、「個人は行為者ではない」ということを実生活に即して熟考し、自我主体の行為をひかえ、ハート主体の行為を心がけて深層意識のデータを浄化していき、

「すべての認識の対象(世界、体、心、つまり意識の内容物)は幻想(≒夢に見られてる側)」

ということだけを確信してなるべく欲望・執着を放棄してしねば、死んだあとに輪廻(幻想)を卒業してニルヴァーナのハイリアリティ(真の現実)に目覚める可能性が高い(※あくまで生き方の話です)。

「仮に」輪廻したとしても、直感的な洞察と良縁に恵まれた好ましい流れの運命を享受できるはず。
人生の中で「来世」という可能性を少し考えて行動するのは理に適ってるのかもしれないが、臨終間際にそのイメージを持ってしまうと卒業を妨害する可能性がある。 ※関連:「行為者は~(次ページ)」


◆しかしながら、本当はハイリアリティは誰にとっても今の瞬間に存在する(催眠で気づかない)。
眉間の後ろのほう(脳の中心)とハートの中心に全てである真我(≒無)への入り口があるが、その感触はたいてい味気なく感じられ、よく無視される。 幼い純粋な子供はその感覚をおぼろげながら感じてるため、自己と世界の関係が親密である。 その入り口から深く入っていくためには、心(表層・深層)を整えて執着(とくに自我への)を放棄することが要求される。(※幻想視点)

しかし実際は誰もがつねに意識の観照者(真我)であり、誤認が起こってるだけ。 心の浄化が十分なら、「私たちは意識を観てる側だ!」 ということに繰り返し注意を向ければ、すでに真我だったことに
即座に気づくこともあり得る(=解脱、輪廻卒業確定)。(※実在視点)


◆生きながらに催眠が解けて解脱した場合、「自我」への同化は解除されるが、「肉体(心)」への同化は必ず残る(※肉体同化の解除は「死」を意味する)。この場合、メインの自己感覚は真我の側になり、
人間としての自己感覚は、非個人的な無限の真我 が幻想内に反映された小さな側面となり、自分が人間だ
とは感じなくなる。 この状態は「私(自己)がない」などと表現されることもあるが、同じこと。 また、
個人的行為者(行為の司令塔)の感覚は消失する(※すべて自動的、自然体、世界は私の表現・仮現 )。
この状態は、現実的なパワーがある(※縁起の意味で)。あえて肉体レベルに焦点を合わせれば行為者の感覚が起こるが、「それは偽りだ」という感覚が同時に起こる。 メンタルシステムの最大の障害物で
ある自我が抜け落ちるので、心は エナジー と喜びに満ち、常に現在の瞬間を直感的に的確に捉え、慈悲深く注意深く道理に適った振る舞いを自動的にするようになる。 ネガティブ感情も起こるが幼子のように
速やかに消えていく(※それを掴む「私」がそこにいない)。自分のことでは精神的には悩まないが、
人々が苦しむのを見て胸を痛める。 肉体的な痛みは、肉体レベルでは ふつうの人と同じように感じるが、
同時に真我の位置からの観照が起こる。つまり、「苦しむのは幻想内の心や小さな自己(=肉体同化)
であって、メインの自己(=真我)はこちらから観てる」 という、あるいみ矛盾した認識状態。

※解脱後でも以前の古い「心の反応パターン」がでることもあるし、もちろん個人差や個性はあるけど、
大まかに言うと、上記のような感じになるらしい。(※ニサルガダッタの動画など。後にリンクあり)

◆なお、解脱してなくても心を浄化して、真我の「 認識力・気づき 」が意識内に反映された純粋な部分
(=観照意識)を自覚できれば一時的な観照が起こるようになり、「自我の催眠」の概要が感覚的に
わかる。 その状態では、主体(=観照意識)と客体(=意識の内容物)は未だ分離しているが、
客体の中の偽主体(=自我)が「偽り」であることは、(おぼろげながら)理解される。

※「観照」とは、心の動きに影響されずに超然として意識の内容物を観ること(≒「俯瞰」)。
観照が起こってるときは、思考・感情に巻き込まれることがなく、即座に切り離される。(※解脱者は常時)
つまり、自己と心(思考・感情)の間に距離感があるのが観照状態で、それ以外は巻き込まれてる状態。


◆人生とはいわば映画を見てるようなもの。 私たちは本当は真っ白なスクリーン(=ハイリアリティ)であり、その中の小さな点(=霊魂)でもある(※実在の側は論理が通用せず)。 その小さな点が、
登場人物の視点から映画の中の世界を見てる(衆生本来仏)。 自由は、その自覚を取り戻すことにある。

◆つまり、人間はいわば夢に見られてる側であり、「私」は夢を見てる側であり、ほんとうの意味では
誰も生まれず、誰も死なない、誰も何もやってない。 「自分が世界の中を動き回ってる」という感覚は
肉体同化(幻想視点)によるもので、実在視点では、ハイリアリティの真の現実において霊魂の面前で、
世界創造原理「私は在る」とともに意識(仮想世界・時間・空間)が仮現して、霊魂(私)が同化した

人間(仮の自己)が動き回ってる「シーン」が現れる。 ※参考:「唯識無境(別ページ)」

◆言い換えれば、真実は私たちは意識を観てる側(主体)であり、意識とその全内容物は客体で、
同時にそれは主体の側が化けたものだが、自我の催眠システムはその客体の中に偽りの主体(仮の自己)を設定するので、催眠が解ければ 時間と空間を超えてここにある原初の状態 を自覚できる(=解脱)。

解脱後も肉体への同化は必ず一部残るが、催眠下ではそれがすべてになってるということ。
ほんとうは誰もがその原初の位置にいるから世界を認識できるわけだが、誤認が起こってるということ。

★by ラマナ・マハルシ(16歳で真我実現した20世紀最強クラスの賢者)《「あるがままに」より》

もし誕生があるとするなら、一度の再誕生だけではなく、転生の連鎖の全過程が存在することになる。
なぜ、どのようにしてあなたはこの誕生を得ることになったのだろうか?
いままで同じ理由で、同じように、あなたは次から次へと再誕生してきたに違いない。

だが、もしあなたが「誕生したのは誰か?」と問いただせば、そして誕生と死があなたに起こったのか、
それともまったく異なる誰かに起こったのかと尋ねれば、そのときあなたは真理を悟るだろう。

そしてその真理がすべてのカルマを焼き尽くし、すべての誕生からあなたを解放するだろう。(P345)

至高の真我から見れば、この蜃気楼のような世界のなかで生を授かるという幻想は、
「私」と身体との同一化 という利己的な無知以外の何ものでもない。 真我を忘れはてた者たちは、
生まれては死に、死んでは再び生まれることだろう。 だが、至高の実在を実現して心が死にはてた者は、
生死を超えた実在のなかだけにとどまる。(P336)

※参考:「覚者たち(別ページ)」≫「ラマナ」≫「★秘められたインド」

※「覚者たち(別ページ)」≫「★ニサルガダッタ(意識に先立って)」 に関連項目あり。

~ 梵我一如について ~ (※私の解釈が間違ってる可能性もあります)

★「梵我一如」とは?
ウパニシャッドによれば、アートマン(我)は個人に内在する原理的実体であり、肉体の死後も存続して
輪廻の主体となり、宇宙原理たるブラフマン(梵)に合一したときに(梵我一如)、輪廻から解放される。

★《シャンカラいわく》 この世の万物はそれ(最高実在・ブラフマン)を本質としている。
それは真にあるものである。 それはアートマンである。

「身体がアートマン(自己)である」という一般の人々がもつ観念と同じほどに、それを否定する信念が
強固な人は、望まなくても解脱する。

★《「ウパデーシャ・サーハスリー」([著]シャンカラ、[出]岩波書店)》

≫ 太陽光線に照らされると、赤色などの形相が宝石のなかに輝き出るように、私が存在すると、
一切万物は統覚機能のなかにみえるようになる。(P32)
≫ 認識というアートマンの光輝に照らされて統覚機能は、自分自身の内に認識があり、他には認識主体は
存在しない、と考える。 これこそじつに統覚機能にある錯乱である。(P99)
≫「私」という観念の主体(=統覚機能)は、自分自身のアートマンはつねに苦痛をもたないのに、
(自分自身の苦痛を)、自分自身のアートマンに付託する。(P130)

実在の側は基本的には、「概念・時間・空間が通用しない、論理的でない、描写不可能」とされていて、
個別性(霊魂的なもの)と全体性(ユニシティ)の関係については、曖昧に言及されることが多い。
しかし、実在側を意味する「アートマン・ブラフマン・パラマートマン・パラブラフマン」などの概念が
一応あるので(※定義が不明瞭な部分もあるが)、この分野での実状と自分なりの考えを書いてみたい。

しかし、すべての言葉・思考は「概念的」であることは、ご理解ください(笑)。

すべての言葉での説明は、真実ではなく、「たとえ話」と捉えるといいかも(※覚者の説明もふくめて)。

ここで書くような形而上学的な話には、本質的な重要性はないわけです。まぁ気になる人向けというか。

まず、「アートマン = 霊魂・真我(個人の根本原理)」「ブラフマン = 至高の実在(宇宙の根本原理)」
について。 古代インドの哲学書「ウパニシャッド」には、「梵我一如」(※解脱の境地)の思想があり、
アドヴァイタ哲学にも受け継がれている。 これは解釈が分かれるが、主に、「アートマンとブラフマンは、
①完全に同一である。 ②本質的・根本的には異ならない(≒ 表面上は異なるが分離はしてない)。」
の2つの説に大別できる。 かんたんに言うと、霊魂の「個別性」の要素が「残らないのか、残るのか」。

これは、古代の解脱した人によってそう表現されて、基本的には賛同を得つつも上記の疑問点が残され、
古今東西にて多くの議論がなされてきた思想。 ひとつ言えるだろうことは、基本的に解脱者というのは、
肉体接続を残した有余涅槃の状態 において自分(←人間じゃない)が自覚してる境地を、全自動マインドが

直感的になんとか解釈して表現してるのであって、必ずしも形而上学的(構造的)な意味において的確に
説明してるとは限らないということ。 また、探求者の状態にあわせて方便を使う場合もあるだろう。
だから、大まかには同じようなこと言ってる場合が多いけど、表現・見解のいくらかの相違というのはよく
見られるし、大きな違いがでる場合もある。 そして忘れてはいけないのは、これはそもそも、

「概念的でなく、マインドのレベルでは把握不可能、描写不可能」 な何かについての話であるということ。

釈迦仏教は原始仏典をみる限り、②のようにも感じられる(※後記の「原始仏典から抜粋」、など)。
ジャイナ教(別ページ掲載)は、完全に②である(※解脱後の霊魂の個別性を ハッキリ と主張してる)。
近代の覚者らは人によるが、当サイトに掲載してるなかでは、「ニサルガダッタ」「ラマナ(上記)」は
微妙な表現が多くみられるが、基本的には②だろう(※とくにニサルガダッタは多くの説明が②を示す)。
「ラメッシ」は、実在側の個別性を認めてないように受けとれる発言がみられ、①かもしれない。

そして、インドの覚者らの説明というのは伝統的・習慣的に、「カースト制」という厄介な社会の闇の影響

を受けてる可能性もある。(※参考: 後記「仏教とハイリアリティ」≫「★カースト制度と仏教、ほか」)

★「自分の本質と全体の潜在的可能性に気づいた者が、どうしてこの制限された状態の与えるものに

満足できるだろうか?」 by ニサルガダッタ

まぁこれは伝統的な論点だが、解脱者の感覚・視点というのは普通には理解し難い部分はどうしてもある。
「ラマナ(別ページ)」のように、「解脱によって自己を失うことはなく、むしろ発見する。 そしてそれは
永遠の自己であり、終わりのない幸福である」というかんじの説明はよくみられる。 しかしその一方で、
「ほんとうは一つの『私』しかない、観照者は一者しかいない、個別性は一切ない」との説明もみられる。

つまりこれは、「非顕現の一者(至高神)」が顕現側に無数の「私」として反映されたのが人間の自己存在
であり、解脱すると「個別性の要素は完全消失」して一者だけが残るが、そこで自己を失う感じはしない。
この不可解さこそが「神」であり、これはそのようなジョークである、ということ(※=完全な①)。
この説明はふつうには理解しがたく、ぶっとび感はあるが、一部では定説になってたりもする。

しかし正直言って 現時点では、私はこの説を懐疑的にみているが、もちろん私は解脱者ではないし、

形而上学的な意味で自分の考えを書いてるだけであることは断っておきます。
そしてほんとうに観照者が一者だけなら、なぜ、解脱者は他者の心をつねに覗いてる(観照してる)状態に

ならないのか? という疑問もとうぜん起こる。 これは解脱者の感覚上・表現上のもので、事実の正確な
描写ではない、またはある局所的な観点からの描写ではないか? という感が払拭できないわけ。

そこでここではこの問題に対して、次項「仮説(梵我一如)」を提案したい(※というか解釈の一つ)。

ということで、当サイトはあくまで②の観点です。 もちろん、
「究極の本質(一者)においては、分離は存在せず、個別感はなくなる」 のような説なら納得できる。

まぁアドヴァイタ哲学の元祖(シャンカラ)の説は①なんだけど、分派や派生説はいろいろあります。
というか流れとしては、ウパニシャッドで「曖昧さのある『梵我一如』」が説かれ、ヴェーダーンタ学派の

「ブラフマ・スートラ」では「アートマンはブラフマンの部分である(=不一不異 ②)」と説かれてたが、

その観点を微妙に変えて「不二一元論」の立場で「ブラフマ・スートラ注解」を書いたのが、シャンカラ。
不二一元論はその内容から、カースト廃止運動家たちに支持されてきた側面もある(※ナーラーヤナ・グル など)。

★ベーダーンタ学派の「不一不異説」

★《参考》「シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド(中期、BC300~BC200年頃)」より

個我(アートマン)と刺激する者(神)とを別々と考えて、そののち、かれ(神)に嘉せられて不死に達する。
享受者(個我)・享受される対象(世界)・刺激する者(神)を考えて、すべては述べられた。
これは三態のブラフマン(宇宙の最高原理)である。

by ニサルガダッタ・マハラジ 《「意識に先立って」より》

意識が起こる前の原初の状態を描写することはできず、人はただそれであることができるだけだ(P279)

あなたが「私は在る」というこのアイデンティティをもって、自分自身を絶対から切り離すとき、あなた
は分割され、孤独を感じる。だから、あなたの要求が始まるのだ。 絶対においては、何の必要もない。
ただ絶対だけが行き渡っている。

真実とは完全なるブラフマンだけで、ブラフマン以外は何もない。 完全なるブラフマン状態の中で、
「私は在る」という存在性の感触があり、それとともに分離が始まり、他者性が入って来る。(P31)

この「私」はそれぞれのレベルで異なってはいないことを理解しなさい。
絶対としての「私」は、顕現するときに形を必要とする。その同じ絶対の「私」が顕現した「私」となり、その顕現した「私」の中では、それはあらゆるものの源泉である意識だ。(P259)

by ラメッシ・バルセカール 《「誰がかまうもんか」より》

あらゆる先生がユニークであり、明晰さか混乱のどちらかを生み出しています。 ですから、
もし教えというものが混乱を生み出すとしたら、それはなぜでしょう? (※中略)
では、どうして先生たちは混乱しているのでしょうか? なぜなら、それが神の意志だからです。(P35)

~ 仮説(梵我一如 ①を内包した②)~ (※私の解釈が間違ってる可能性もあります)

★by ニサルガダッタ・マハラジ 《「I AM THAT 私は在る」より》

≫ すべての聖典は、世界が存在する前に創造者が存在したと言っている。(※中略)

創造者以前に存在したのは、すべての世界とその創造物の源である、あなたの真我だけなのだ。(P225)

≫ 誰もが自分自身の世界をつくり出し、己の無知によって監禁され、そのなかで生きているのだ。
私たちのしなければならないことは、牢獄の実在性を否定することだけだ。
(※中略) 死と誕生を観照し、しかもけっして生まれず死ぬこともない、その人とともにある、

ただ彼だけが創造の種子であり、最後に残るものなのだ。(P226)

≫ 至福の原因を「私ではないもの」のなかに探求することによって、束縛がはじまるのだ。(P123)

≫ あなたがあなた自身を何か現実の実体のあるもののひとつとして、時間と空間のなかに実際に存在し、
短命で壊れやすいものだと想像するならば、当然、あなたは存続し、拡大していくことを切望するように
なるだろう。だが、あなたが時間と空間を超え、今ここの点においてのみ接触し、そうでなければすべて
に遍在し、すべてを抱擁する、到達不可能、難攻不落、不滅なるものだと知るとき、もはや恐れることは
何もなくなるのだ。 あるがままのあなたを知りなさい。(P504)

≫ 宇宙のなかには悟り、そして解放のために働いている力があるのだ。 私たちはそれを
サダー・シヴァと呼んでいる。 彼はすべての人のハートのなかにつねに存在している。(P481)

★ヤージュニャヴァルキヤ は古代インド(BC700年頃)の聖仙で、初期ウパニシャッドに登場。 曰く、

「この世界はすべてアートマンにほかならず、それは唯一のものである。」

しかし一方で、アートマンは純粋な意味での認識の主体であるから、決して認識の対象にはなりえず、
概念的に解釈することも描写することも不可能であることを示し、
アートマンは、「ではない、ではない(ネーティ、ネーティ)」としか言いようのないことを説いた。

※初期ウパニシャッドでは、宇宙の根本原理は「アートマン」だったり「ブラフマン」だったり、
またそれらは個人の原理でもあったり、この2つの言葉は混同して使われている(※下記pdf)。
そのあとで、「アートマン=個人原理」「ブラフマン=宇宙原理」 の定義がいつの間にか定着して、
「梵我一如」が言われだしたっぽい。 ★参考:梵我一如とウパニシャッド(pdf)

これはニサルガダッタの説明などが根拠だが、正誤は不明。 以下は、「言葉の定義の問題」を含みます。
この分野では実在をあらわすのに、前記の2概念のほかに、使用頻度は低いが以下の2概念が存在する。

「パラマートマン = 至高の真我・大我・全体性?に融合した真我・《昇華したアートマン?》」
「パラブラフマン = 至高の実在・ユニシティ(均一性全体性)・絶対・源泉・《昇華したブラフマン?》」

(※パラマートマンはヴェーダーンタ学派が言い出しっぺだが、ブラフマンとの関係などの定義が曖昧?)

ここで、「パラマートマン = ブラフマン(完全に同一)」 であると考える(※そういう解釈もある)。

すると、前記①を再考したくなってくる。 つまり定例解説のように、幻想内の肉体との 設定上の接続点、

という意味でのアートマンは、幻想外ではブラフマン(パラマートマン)と完全に同一だという解釈。

ここで、「一人一宇宙」(※参考:別ページ「唯識無境」)を考えてみて欲しい(※深層では繋がってる)。

この考え方はニサルガダッタの教えにもよく出てくるが(世界はあなた自身のマインドだ、みたいな)、

「唯識無境」の項で書いたところの、万華鏡(= 世界創造原理「私は在る」)を覗いてるのがブラフマン

(※個別性あり)で、これがアートマン(霊魂)と基本的に同一ということになる。 つまり、

個人が体験する世界は、その人に接続してる「ブラフマン(アートマン)」が仮現した幻想であると。

この場合、「パラブラフマン」と「ブラフマン(=パラマートマン、霊魂)」の関係が、「梵我一如」に
おける「梵・我」と同じような関係になり、疑問点(理屈が通じない点)はもちろん残るが、人間の本質は
「ブラフマン(仮想宇宙の根理)」まではワンネス? の個別性(=無限の真我)で(※分離はしてない)、

究極の根源である「パラブラフマン」において 真のユニシティ(統一生命場)となっていることになる。
しかし実際には、すべての実在領域においてパラブラフマンのユニシティが実現されるっぽい。

「一人一宇宙」なら、根理・ブラフマンも個別性をもつと考えるのは自然ではないだろうか? ただし、

ここでの 個別性(ブラフマン)は各自の「私は在る」の中に全宇宙を仮現するから、その意味では全体性。

映画でいえば、スクリーン表層がブラフマンで深層がパラブラフマン。 ブラフマンから映像が立ち現れる。
あるいは、スクリーン自体がパラブラフマンでその表層部分がブラフマン、としたほうがいいかも。
こう考えるなら、「世界は『非顕現の私』の反映・表現、全て一人芝居」 というニサルガダッタの説明も
一応納得いくし、「あるいみ完全な『梵我一如』(≒前記①)」 もすんなり受け入れることができる。
まぁ内容的には ①を内包した②、という感じだけど。

これは一般的な「ブラフマン」の概念を、「個別性(ブラフマン)」と「全体性(パラブラフマン)」に、

明確に分けただけです。 そもそも「梵我一如」においては、個人原理と宇宙原理は同等でもあるのだから
無茶ではないはずだし、ウパニシャッド哲学の一部や ニサルガダッタの説明はほぼ コレ を意味してるぽい。

ちなみにこの仮説で考えた場合、「顕現側(仮相)と非顕現側(実相)は相似形」と言えるかもしれない。
《顕現側》: ❶肉体 ≫ ❷表層・個別意識(顕現全体) ≫ ❸深層・集合意識(阿頼耶識)
《非顕現側》: ❶霊魂(アートマン) ≫ ❷ブラフマン(パラマートマン) ≫ ❸パラブラフマン

※ここで言われてる「パラマートマン」は、上記の意味での「ブラフマン」と同義ではないだろうか?

by ニサルガダッタ・マハラジ 《「意識に先立って」より》

▼質問者

パラマートマン(至高の自己)と ジーヴァートマン(個人の魂)の違いは何ですか?

▼マハラジ

あなたは部分という観点ではジーヴァ(個人の魂)を、全体としてはパラマートマンを考えるが、違いは
何もない。 それは肉体の中に限定されているときは一時性や、時間の単位、ジーヴァの様相を呈する。
寿命の終わりに、それはパラマートマンに融合する。

▼質問者
全体であるパラマートマンが、なぜ部分である肉体にそれ自身を制限するのでしょうか?
▼マハラジ
それにはどんな理由もない。それはただ起こるだけだ。

しかし、パラマートマンの中には存在への気づきがまったくなく、ただ気づきへの気づきがあるだけだ。

存在への気づきが現れるやいなや、二元性が現れ、顕現がやって来る。(P107~108)

★パラマートマン(至高の自己)が核なる真我であり、最高の真我だ。
そのアイデンティティにはどんな汚れもなく、空間よりも霊妙だ。(P64)

一つの影が「なぜ?」を知りたがっているのだ。 一人芝居 の中で一人の役者が演じる様々な登場人物の

一人が、「なぜ?」を知りたがっている。その答えとは、「なぜそうであってはいけないのか」となる
ことだろう。 実際はどんな質問もありえないのだ、「なぜ」も「なぜそうであってはいけないのか」も。

なぜなら、実際はどんな質問者もいず、ただ観念しかないからだ。 顕現は夢のようなものである。
なぜ夢は起こるのだろうか? 《「ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの」P73 より》


◆厳密に言うなら、「世界(心・体ふくむ)」というのは、深層の集合意識から各人の表層意識に投影
されるイメージ・現象であり、感覚器官が捉えてる(との設定で投影される)部分以外は現象としては
存在しない。しかし勿論、各人に現れる世界は完全リンクし(共通の舞台設定)、いま現れてない部分も

深層意識内にデータ設定が存在しているため、「人類共通のこうした世界体験が確かに存在する」

と言えるが、少なくとも 物質世界 は実在せず、「世界、という知覚体験」が現実に存在するのである。
つまり、私たちがリアルに体験している時間と空間の仮想世界は、各人の 意識に依存して存在 し、
意識(世界創造原理)という超ウルトラ神業的な幻術装置 を使うことでのみアクセスできる仮の世界」
であり、世界は霊的なもので、それは「非顕現の私(=実在)」の低次元の表現・仮現 である。

なお、「世界(対象)」「体験(認識)」「体験者(心)」「気づき(意識への)」 の各要素について、
「体験」は「気づき」の副次的要素のため真実度が高いが、「世界」と「体験者」は「気づき → 体験」
に含まれ、幻想度100%である。 つまり、「体験者」が「世界」を「体験」してるというのは誤認で、
「体験(認識)」があるときのみ、付随して「世界」と「体験者」(=幻想)が現れる。(※詳細後述)

ほんとうは、私たちは仮想意識(=リーラ)を観てるだけで誰も何もやってない。(マチガイナイ)

仮想世界の構成成分は、ある意味では意識(表面的には個人の顕在意識、本質的には宇宙意識)だが、
それもハイリアリティの仮現。 なお、真我を「意識」と表現する覚者もいる(※別次元意識)。

※「世界は知覚されたときのみ存在する、の理論」:「覚者たち(別ページ)」≫『ラマナ』『ラメッシ』
※関連:「★おかると物理学(量子論、ほか)~仮想現実説はすでに証明済み~」
「★唯識関連(阿頼耶識縁起、唯識無境)」

★「世界とはマインドの表面だ。そしてマインドは無限なのだ。」 by ニサルガダッタ(別ページより)
★「人は幻想世界の本質を無視する。」 by ルパート・スパイラ(下記「覚者たちの言葉」より)

★by ニサルガダッタ・マハラジ 《「I AM THAT 私は在る」より》

誰かが至高の実在と、それへの道について語らなければならないのだ。(P323、プルプル 震えながら)

私は大きな誠意と緊急性をもって、こういったすべてを話している。(意識に先立って、P189)

あなたは世界に属するのではない。あなたは世界の中にいるのでさえない。 世界は存在しない。
あなただけが在るのだ。あなたは想像の中で世界を夢のように創造している。あなたがあなた自身を夢から
分離できないように、あなた自身から独立した外側の世界をもつこともできないのだ。 独立しているのは、
世界ではなくあなただ。あなた自身が創造した世界を恐れてはならない。 幸福と実在を夢のなかで探そうと
するのはやめなさい。そうすればあなたは目覚めるだろう。すべての「なぜ」や「どうして」を知る必要は
ない。質問には終わりがないのだ。すべての欲望を放棄しなさい。マインドの沈黙を保ちなさい。
そうすればあなたは発見するだろう。(P471)

《「I AM THAT 私は在る」P358 より》

▼質問者
私は何か絶対的真実からはじめなければなりません。そのような何かがあるでしょうか?
▼マハラジ
ある。それが「私は在る」という感覚だ。 それからはじめなさい。
▼質問者
それ以外の何も真実ではないのでしょうか?
▼マハラジ

ほかのすべては真実でもなければ、偽りでもない。それが現れると真実のように見え、否定されるとそれは消え去るのだ。 一時的なものは神秘的だ。

※これ(↑)は、後記の「★釈迦いわく(有・無 と中道)」と同じようなこと言ってる。
▼質問者
私は実在は神秘的なのだと思っていました。
▼マハラジ

どうしてそうありえるだろう? 実在はシンプルで、オープンで、明らかで、優しく、美しく、そして

喜ばしいものだ。 それは矛盾からの完全な自由なのだ。 それはつねに新しく、つねに新鮮で、かぎりなく

創造的だ。 存在と非存在、生と死、すべての区別がそのなかで溶けあっている。

▼質問者
もしものごとの形が単なる現れでしかないなら、実際には、それらは何なのでしょうか?
▼マハラジ

実際には知覚だけがある。 知覚する者と知覚されるものは観念であり、知覚しているという事実が
現実のものだ。

▼質問者
絶対なるものはどこから来るのでしょうか?
▼マハラジ

絶対なるものは知覚の誕生する場所だ。 それが知覚を可能にするのだ。

しかし、分析のしすぎはあなたをどこへ導きもしない。 あなたのなかには分析もマインドも超えた存在の
核心がある。あなたはそれを行為のなかでだけ知ることができる。日常生活のなかでそれを表現しなさい。
そうすれば、その光はつねに明るく光り輝くだろう。

《「I AM THAT 私は在る」より》

私もあなたと同じ世界を見ている。だが、同じように見てはいない。 何も神秘的なことはないのだ。

誰もが世界をその人自身の観念を通してみている。 あなたが自分自身をこのようにあると考えるように、
世界もあなたが考えるようにあるのだ。 もし自分自身が世界から分離していると考えるならば、
世界もあなたから分離して現れる。そしてあなたは欲望と恐れを体験するだろう。(P140~141 )

すべてをあなたの存在の源である光から出現したものとして見なさい。 その光のなかに、

あなたは愛と無限のエネルギーを見いだすだろう。(P215)


◆まとめると、次のようになる。

◎ 人生は、鏡の国のアリス。 きわめて高度なジョーク。 謎の神性ゲーム。

◎ 私たちは実際には、リーラを観てる側であり、究極的には観られてる側のすべてでもある(仮現)。
「世界 = 自分の心(意識)」「あるいみで一人一宇宙、 深層レベルでは人類一宇宙、 深層から投影」

◎ リーラとは、「行為者が存在する、という設定」の神性劇であるため、社会(=幻想)の中には、
あくまで個別の行為者と行為の責任が存在する・・(としか言いようがない)。

◎「個人的行為者、分離の物質世界」 の感覚は「幻想」であり、すべてのうごきは「縁起」していて、
すべては私たちの 統一生命場、真の現実、源泉 である ハイリアリティ の仮のあらわれ(仮現)。

◆いずれ人類は、こういったようなことを、公然の事実として受け入れていく流れになると思われる。
下の「覚者たちの言葉」で、物質主義では500年存続できないと言われてるけど、たぶん変化する運命。

はっきり言うと、現文明は今世紀を変動期としてガラリと様相が変わる可能性が高い(※見た目でなく)。
現在、自然界のエネルギーバランスが人類の変容を促すよう急速に変化してきてる、と言われている。
物質文明の成熟期を迎えたいま、私たちは変化に適応するために準備していくべきではないだろうか?

《書籍の紹介》「ニュー・アース ‐ 意識が変わる 世界が変わる」(by 世界的教師 エックハルト・トール)

時は来た。 ついに人類は次のステージに移る。 その準備は出来ているか? (帯のそでより)

まだ全員というわけではないが、準備ができている人は多いし、一人が目覚めるたびに集団的な
意識のうねりは大きくなり、その他の人々の目覚めが容易になる。
―― もちろん自らの狂気を認識することが正気の台頭であり、治癒と変容の始まりである。

すでに地球上には意識の新たな次元が現れ、最初の花々が少しずつ開き出している。 (第一章より)

◆人間はこの「リーラ」を評価する立場にはない、とも言われるが、あえて一言感想を。
これは悲劇であり喜劇でもあり、どこまでも「本気」の、神秘的で美しく面白すぎる糞ジョークである。
もし、これを考案した神的な存在がいたとしたら、人知では到底計り知れない 最高の キチガイ である。
世の中のいろいろな局面や、真面目に書いてるこのサイトも含めて、これは只の「お笑い」にすぎない。


※「覚者たちの教え(別ページ)」 と少し被ります。

ニサルガダッタ・マハラジ(近代の覚者のなかでも前衛的な巨匠。タバコ屋の親父)

★私は意識とその意識の中に起こることは何であれ、巨大な詐欺にすぎないという結論に至った。

この詐欺を犯している人は誰もいない。それは自然発生的な出来事だ。この詐欺の犯人は誰もいない。
《「意識に先立って」P228 より》

★意識をあなたのなかにではなく、あなたに対して起こる何か外部の、異質な、あなたの上に押し重ねられたようなものとして見るときにだけ、それを超えることが可能なのだ。
そのとき、あなたは突然意識から自由な、まったくひとりの、何の干渉も入らない状態にいる。

《「I AM THAT 私は在る」P400 より》

★私たちの唯一の希望は、止まって、見て、理解し、記憶の罠から抜けだすことだ。 なぜなら記憶が想像を

あおりたて、想像が欲望と恐れをひき起こすからだ。《「I AM THAT 私は在る」P434 より》

★すべての闘争の根本には、「私」と「私のもの」という観念があるのだ。 それらから自由になりなさい。

そうすれば、あなたは闘争から解放されるだろう。《「I AM THAT 私は在る」P433 より》

★マインドと世界はひとつだ。あなたが世界として考えているものは、あなた自身のマインドなのだという

ことを理解しなさい。(※共同仮想現実)《「I AM THAT 私は在る」P521 より》

▼質問者

あなたの国の人々はカルマや因果応報という言葉を使います。

▼マハラジ

それはただ総体として真実に近いというだけだ。 実際には、私たちは互いの創造者と創造物であり、

互いの重荷の原因であり、互いの重荷の重さに耐えているのだ。《「I AM THAT 私は在る」P434 より》

▼質問者
私にはあまりにも多くのなすべきことがあり、マインドを静かに保つだけの余裕がありません。
▼マハラジ

それはあなたが行為者だという幻想によるのだ。 実際には、ものごとはあなたに対してなされるのであって

あなたによってなされるのではない。《「I AM THAT 私は在る」P499 より》

★しかし、それは意図的な普通の映画ではない。 もしあなたがすべてをそのあるがままに明確に見るなら、

それはひどい喜劇、本当のドタバタ喜劇である。 (※中略)これ以上滑稽なことがあるだろうか?

私は自分のグルの恩寵によって自分の本質を理解し、また途方もない悪ふざけが私におこなわれていた こと

にも気づいたのだ。(※詳細:別ページ 覚者たち)《「ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの」P164~165 》

★あなたには何の間違いもない。ただ、あなたのあなた自身に関する考えは、まったくの間違いだ。

欲望をもち、恐れ、苦しむのはあなたではなく、環境と影響によってあなたの身体に築かれた
個人なのだ。 あなたは個人ではない。 これがあなたのマインドのなかで明確に確立されるべき、
けっして見失ってはならないものだ。(P442、I AM THAT)

★―― そこから踏み出し、外側から見てみなさい。(※中略)ついにあなたは平和になるのだ。

世界には何も間違ったところはないということを、あなたは認識するだろう。(P408、I AM THAT)

★「ニサルガダッタ・マハラジの貴重な動画」(※「字幕日本語」クリック)

ラメッシ・バルセカール(上のマハラジの弟子。師匠とは表現が異なり、さらに前衛的)

★思考は外側からあなたの脳に入って来るのです。 あなたはあるときはAの道を選び、あるときはBの道を

選ぶのです。なぜなら、そのとき思考がやって来て、その選択をするからです。 あなたは思考を意図する

ことはできません。 何であれ起こることになっていることが、起こるのです。(P560)

★悟りのあとも、その肉体精神機構は肉体精神機構であり続け、それは自分自身の自然の特徴に従って外側の思考や出来事に反応します。でも、その反応がわき起こる瞬間に、それは観照され、切り離されます。

水平的に巻き込まれることがないのです。(P287) 《以上、「意識は語る」より》

ラマナ・マハルシ(アドヴァイタ界の大物中の大物。孤高の隠者・賢者 キャラ)

★ラジオは歌い、そして話をする。 だがもしそれを解体したなら、

中には誰もいないことを見いだすだろう。 同じように、私の存在は空のごとく、身体はラジオのように

話すけれども、そこには誰も行為する人がいないのである。《「あるがままに」P70 より》

★真実のあなたは霊性です。しかしこの霊性は誤って自身を身体と同一視しています。
身体は心によって投影されたものです。 心そのものは霊性から生まれました。

それゆえ、誤った自己同一視が終焉すれば、言葉で言い表せない永遠の至福と平和が訪れるのです。

▼質問者
生命は身体に属し、転生とは別の身体に生まれ変わることを意味しています。
▼マハルシ

単に身体を変えるだけでは意味はありません。 この身体に結びついている自我が別の身体に

移し替えられるのです。 《以上、「ラマナ・マハルシとの対話 第2巻」P124 より》

ルパート・スパイラ

「私は何ものかである」という信念や感情は、無知、つまり、体験の真の性質を無視することを前提と

して生まれます。これは ①架空の立場 です。(※自我の視点)

私たちは何ものでもない、つまり物事ではなく、開かれていて、空で、輝く気づきの現存であると

知っている立場は、②叡智と啓示の立場 です。(※観照者の視点? に近い)

そして私たちこそが、目に見えるすべての物事の要素、心、体、世界のすべてのあらわれの要素であると

知っている立場は、③愛、純粋な親密さの立場 であり、ここにおいては内側の自己も、

外側の対象物、他者、世界も存在しません。(※唯識無境の視点? に近い)

私たちにはこの三つ、「私は何ものかである」、「私は何ものでもない」、「私はすべてである」
という三つの選択肢しかありません。 そして、あらゆる瞬間、私たちは選びたい立場を選ぶことができ
ます。 選択次第で、私たちの体験は、選んだ立場を反映するようになります。

体験は、私たちの立場を裏づけるのです。 《以上、「プレゼンス」P267~268 より》

★動画「死、そして肉体は物質であるという考え」

物質というもので作られた肉体と呼ばれる独立・分離した物体は存在しないのです。それは決して
物質と呼ばれるもので出来ていません。それは意識の中に現れるイメージにすぎない。

言い換えれば、肉体と呼ばれるものは消えてもその真の現実は消えません。

黄檗宗の教えはそのことを言っています。「人は幻想世界の本質を無視する」

私達の経験は幻想ではなく現実ですが、世界が物質と呼ばれるもので出来ているという信念は幻想です。
そして私達は意識という経験の本質を無視し、代わりに物質という幻想を信じているのです。

もし人類が500年後に続いていなければ、それは物質主義の勝利を意味します。

人類は物質主義パラダイムでは生き残れません。 自らを破壊してしまいます。それが定めなのです。

そう、今まさにそれを目の当たりにしていますね。

「バガヴァッド・ギーター」([訳]上村 勝彦、[出]岩波書店)

諸行為はすべて、プラクリティ(根本原質)の要素(グナ)によりなされる。 我執(自我意識)に

惑わされた者は、「私が行為者である」と考える。
しかし勇士よ、要素と行為が自己と無関係であるという真理を知る者は、諸要素が諸要素に対して働くと
考えて、執着しない。(P47)

東西占星術研究所

偉大なヨーギーはプララブダ・カルマによる苦しみを喜んで受け入れるように忠告する。 そして、
唯一自由に行動が出来るクリヤマナの領域では、良い行いをなし、慈善をなすように忠告するのである。
そして、もしその忠告にしたがって、プララブダ・カルマによる苦を喜んで受け入れることができれば、
そのカルマは魂を解脱へと導くアカルマとなる。

※「プララブダ・カルマ」= 今生で経験することを運命付けられたカルマ
「クリヤマナ」= 今生で作るカルマ(見かけ上の自由意志あり)

◎「霊性は開かれていると同時に、謎でもある」 by マハラジ

◎「偉大なマーヤ(幻想)の原理のせいで、人びとは彼女のすべての悪巧みをおこなう」 by マハラジ

◎ 永遠なる パラブラフマン(至高の実在)と、永遠なる パラマートマン(至高の真我)のなかで、
世界創造原理(時間・空間)が仮現して、神聖なる劇が進行している。


真我探求のリアリティ (あるいみでは、サットヴァ)

★私は解脱してないけど、関連した一時的な体験が少しと、「行為者は存在しない」ことを確信させられた
一連の経験があり、そのことと覚者たちの教え(本など)を元にして、推測を交えて書いてます。
自分の中で整理する目的もある。 ここで書いてる「見解」が正しいとは限らないことを断っておきます。

なお、この分野における真の価値は「真我実現」のみです。 概念的な知識は、お遊びか参考ていどかにしか
ならず、何かしらの方法を実践することが重要です。 しかし言葉での説明が直感に響くことはあります。
また、「世界観」や「特定の概念」を繰り返し観想して深層に染み込ませることで、因縁生起のパターンが
少し変化することもあります。 しかしながら 最終的には、知性が最大の障害物となると言われていて、
そのためすべての顕現は、すがすがしいほどに何の「意味」「価値」もない ガラクタ、冗談 となります。

●「仏に逢うては仏を殺せ 祖師に逢うては祖師を殺せ」 by 臨済

●「人は、これが自分自身だと信じるものになる。 だから、何にもなるな。」 by マハラジ

●「人生とは探求なのだ。 探求するほかないのだ。」 by マハラジ(プルプル 震えながら)

● 幼児はそれ自身を 認識者・主体 である『自分』としてではなく、単なる『対象物』として扱う。

●「私」=「ハイリアリティ」、「体・心・意識」=「幻想(非自己)」。 ひたすらこれ! & 浄化。

《 マハラジ解説(要約)》 幼児が自己存在に気づき始めるとき(1~2歳?)の自己が「私は在る(知識)」で、最初は肉体に限定されないため上記の様な現象がみられる。 それ以前は「無知」の状態(※睡眠時も)。
絶対(原初の状態)は、「知識・無知(ともに意識の領域)」を超えている。
意識(≒知識)がマインドを認識するが、マインドは意識を認識できない。 人びとは眠りに支配されている。
マインド以前に意識の原理(=私は在る)があるが、それ以前に意識を知る最初の原理(=絶対)がある。
意識の内容にかかわらず、意識には変化がない。この事実に、意識レベルで気づこうとすることが霊的修練。
要求されるのは、精神的あるいは知的な能力ではなく「直感的な識別感覚」。(だそうです)


◆人生の本質は「私」の正体を見極める謎解きゲーム。 ある意味では「人生=罠」。 これはただ、

「 源泉にもどれ! そうすれば、『自己』はずっと源泉だったことに気づく。 何故ならほんとうは、
源泉にもどろうとする動き(真我探求)は、源泉(真我)がみてる夢のなかみだから。」

みたいな神秘的なジョーク、または挑戦状。(※源泉は非個人的なもので、概念や理屈は通用しない)

※参考: 後記の「サーンキヤ哲学」、「釈迦いわく(解脱者のゆくえ)」
別ページ「★もしその状態に到達したら?(※ニサルガダッタ、『世界創造原理』の下)」 など

※すでに「源泉・真我」であることを自覚するために、様々な方法が提案されてるのがこの分野(笑)。
《例》:睡眠中に夢をみて登場人物「私」に成りきってても、目覚めれば「私」はベッド上(=源泉)。

この悪ふざけのようなジョーク(意識の戯れ)について、アドヴァイタ哲学では、
「自然発生的な?(← 諸説あり)リーラ(神性遊戯)」 と言われている。
これは解脱した人でも「究極の理由」はわからないようだが、おそらくマハラジ氏(下記)

が言ってるように、実在の領域にこの幻想が起こるネタ(微細な不調和)みたいなものが、

何らかの理由で、あるいは自然発生的に発生して、一時的に起こってると考えられる。

そして私たちがほんとうに求められてるのは、そういった部分を知的に追究することではなく、
実際に自己を調べて、私たちこそがこの幻想の「源泉」であることを自覚することではある。
なお、この部分は解脱者(悟った人)でも捉え方や表現が人それぞれ変わってくる(下記)。

※関連:↓(別ページ、究極の理由は不明)

★人類の運命 & このジョークが起こる理由、リーラについて
★グノーシス主義、神はおられる...

★by 釈迦 《 中部経典63(毒矢のたとえ)》

あるとき、人が毒矢に射られたとする。 ところがもしもその人が、かけつけてくれた医者に対して、
「この矢を射たのは一体だれか。 弓はどのようなものか。 弦は何でできているのか。
矢羽はどんな鳥の羽か。 それが分からないうちは矢を抜くな。」 と言ったなら、その人はそれが
分かる前に死んでしまうであろう。 必要なのは、まず毒矢を抜き、応急の手当てをすることである。

by ニサルガダッタ・マハラジ(解脱者)

▼質問者
なぜ私はこの形をとったのでしょうか?
▼マハラジ

それはあなたが愚かだったからだ。 もしあなたがそれについて何か知っていたとしたら、

あなたはこの世に生まれ出て来なかったことだろう。《「意識に先立って」P79 より》

私の真実で全体である均質的な状態に、ほんの小さいさざ波が現れ、「私は在る」というニュースがやってきた。そのニュースのせいですべてが変わってしまい、私はこれを知り始めた。
── 非顕現としての私の存在から、この顕現の状態が出て来た。その均質性は属性の活動やマインドの
投影を理解しているが、属性の活動やマインドの投影は均質性を理解することはできない。
それがそれを理解しようとするとき、それはそれと一つになる。《「意識に先立って」P26~27 より》

https://www.youtube.com/watch?v=A8mMYTZGFuw(※「字幕日本語」クリック、16:20~)

厳密な意味での巨大な知性を持った創造者は存在しない。
この意識の戯れすべては自発的、自然に続いていく。その背後には知性は存在しない。

幻想の源を探求することによって、この幻想とは何であるか見つけようとしなさい。

by ラメッシ・バルセカール(解脱者)

▼質問者
私たちは、神の意志を理解しようとすることができないのですか?
▼ラメッシ
マルクス、あなたはそれをやりはじめようとすることさえできません。その理由は次のとおりです。

私たちの知能は非常に限定されていて、知性も非常に限定されています。それに対して、神の知性は
永遠です。ですから、非常に限定的にしか理解できない私たちが、どうやって神の意志を理解できるというのでしょうか? 私たちにはできないのです。

▼質問者
誰もできないのですか?
▼ラメッシ
誰もできません。なぜなら、あらゆる人は、単に源泉の反映である現象全体のわずかな部分にしかすぎないからです。あなたにできることはただ、あなたが少し前に言ったように、ものごとをあるがままに受け入れることだけです。まさにそういうことです! 《「誰がかまうもんか」第三章 ≫ 運命 P78 》

★もし映画がすべて善人の登場人物だけでできているとしたら、誰が観に行くでしょう?
あなたが映画を観に行くのは、それが面白いからです。 英雄がいて、悪漢がいます。
ですから、神の映画においても、彼は英雄と悪漢を創造し、恋愛物語、悲劇、喜劇を創造します。
神、つまり意識は、映画のために脚本を書き、映画を製作し、映画を演出し、映画の中のすべての登場人物
を演じています。 そして、ここが肝心なところです ―― 彼は一人一人の登場人物に起こることを苦しみ、
そして楽しんでいるということです。 意識が映画を作り、意識が映画を観ています。
そして、映画の中の登場人物は文句を言っているのです! 《「誰がかまうもんか」第三章 ≫ 映画 P98 》

◆人はみな幸せを探してる。 でも幻想の中の幸せは、時間によってこわされるときがくる。
なので、もし根本的に解決したいなら、時間と空間を超えた絶対的な真我を探求するより他に道はない。

なお、どんなに 輪廻という冒険 を続けたとしても、いつかはハイリアリティに自我を明け渡して、
それに目覚める(=輪廻卒業)ときがすべての人に必ずくる(元もとそれなんだから当然だけど)。

◆しかしながら、ここに パラドックス があることに留意しておきたい。 すべての人間の「私」は、
誤認が起こってるだけで本当は(ある意味では)真我なんだけど、幻想側の深層意識に、自我(の種子)を真我(自己)であると誤認して愛着する誤認プログラムがあり(≒根本的生存欲)、それが表層意識に
自我の催眠として現れて、輪廻の原因(=無知)になってると考えられる。(※「唯識」の説、後記)
だから仏教は、「諸法無我(現れた世界に『我 = 原義は真我』は存在しない)」 と説く。

つまり逆説的だが、真我探求とは直接的に真我を探すことではなく(それは不可能)、催眠の中に現れた「行為者としての自己感覚(自我)」や「体・心・意識」を偽り(非自己)、と見なして執着を解くこと
で、自我の催眠(=自我システムへの霊魂[私]の同化 )を解除していくことに他ならない。

最後は「私」が消滅していく(or落ちる)感覚や、恐怖・苦痛を伴う ケース もある(深層意識の関係?)。

◆なお、「『私は在る』の純粋な感覚に焦点を合わせる」 という方法も提案されてる。(by マハラジ)
つまり、「私は何かだ(意識内の全て)」を拒否した「私(=存在感覚)」に焦点を合わせ、洞察と
理解を通して最後に「私は在る(=幻想側の存在性の原理)」から解脱する、ということで先に挙げた

ものとは表現が異なるが、本質的には同じこと。 言い方を変えれば、次のようにも言えるだろう。
解脱してない人は、自己存在感覚の核心部(コア・アイデンティティ)は真我のものだが、それが自我の要素と結合して 催眠状態 にあるため注意が必要になる。  ひたすら心を浄化して偽りの観念を放棄し、

心の静寂が浸透してくれば、真我の反映が心に映り込んだ部分を自覚できる(観照意識としての私)。
観照意識に安定できるようになれば、あとは解脱(真我実現)まで自動的に進行する、とも言われてる。

ただし、観照意識とか スルー して スパッ と解脱する ケース もあるようなので、プロセスは十人十色 だろう。
以上より、仏教の「諸法無我」の教えと「真我探求」は、表現が異なるだけで本質的には同じと言える。

◆「行為者の感覚」に着目して探求(瞑想・生活)するのは、「バクティ(明け渡し)」にもなりえる。
何が起ころうとも神(or 真我)の計らいとみて、行為者としての自我を明け渡していく(自己放棄)。
◆すべての認識の対象(体・心・意識)は私ではない、として探求(瞑想・生活)し、催眠(同化)を
解いていくのは「ジニャーナ(知識の道)」で、釈迦仏教や一般的な真我探求はこちら。

この区別は便宜上のもので、本質的には近似する。 「バクティ」は対象を決め、信頼・献身・帰依
土台とし対象への自己放棄。「ジニャーナ」は 自己洞察 を通しての自己放棄。 人それぞれ適性がある。

「ジニャーナ」もある種の「バクティ」であり、実際には明確に分かれるとはかぎらない。
「ジニャーナ = 実在視点」「バクティ = 幻想視点」 と解釈するのも、アリ かもしれない(混合)。

私はこれ(↑)を心掛けてるが、ストレスが多い現代人の心の傾向からいうと、バクティ的に ハート
表現することはけっこう重要かも(※瞑想を習慣化しない人はとくに)。 それが心を浄化するから。

◆縁起の観点から言えば、次のように言えるだろう。もし仮に、「真我(至高の実在)」に意思のようなものがあるとした場合に、真我がやって欲しそうなことをやっていけば真我実現の方向に導かれる、と。

◆マハラジいわく、「彼があなたにしてもらいたい事は単に、自己洞察、自己制御、自己放棄だけだ。」
「『私とは何か?』以外のすべての質問を捨てなさい」「夢の中で、これは夢だと確信することが大切」

◆例えば「これは夢だ」という確信の下に、よい意味で人間を超越してる行動(できれば心も伴う)を
一度でもすれば、それを証するような関連した経験があとになって起こることがある。そういうときは、直感になにか送られてくる。 探求者はそういうのをつなげていくべきかと。

◆私たちの人生の多くは、「私」を存続させ装飾しようとする飽くなき試みである、と言える。 しかし
解脱者たちが言ってるのは逆に、「私」を他のすべての概念(体・心・etc.)から切り離すということ。

心は現象をある程度受け取っても、心との距離をあけていく。 私はその人間ではないということ。

◆他にもさまざまな方法が提案されてきたが、基本的・一般的には「心の静寂」が重要視されている。

状態にもよるが、そのためには行為を正して深層意識のデータを浄化していく必要がある場合も多く、
それにあたっては、「苦が起こる原因(本質的な意味)」をひたすら繰り返し熟考・観想して深層意識に染み込ませることで、心の反応パターンを改変していくことが肝要となる。

《「I AM THAT 私は在る」P94 より》

▼質問者
神の名を繰り返し唱えることは、インドではたいへん一般的なことです。それには何か効力があるので
しょうか?
▼マハラジ
ものであれ、人であれ、名前を知っているときは見つけやすい。神の名を呼ぶことによって、あなたは彼を
あなたのもとへ来させるのだ。
▼質問者
どのような姿で彼は来るのでしょうか?
▼マハラジ
あなたの期待した姿による。 あなたが不幸であったとして、ある聖者が幸運のためにあなたにマントラを

与えたとしよう。 あなたが信心と帰依心とともにそれを繰り返せば、不運は去るほかない。
変わらぬ信心は運命より強い。運命はいくつかの原因の結果で、ほとんど偶然の産物だ。 それゆえ、

それはゆるく織り込まれている。 自信と正しい期待が、それをたやすく克服するだろう。

《「I AM THAT 私は在る」P189 より》

▼マハラジ
もし言葉が欲しいなら、太古の力をもつ言葉をあなたに授けよう。どれでもいい。絶え間なく繰り返して
みるがいい。それらは驚きをもたらすだろう。
==
▼質問者
その手段の有効性のために信仰は必要ないのでしょうか?
▼マハラジ
結果への期待でしかない信仰ならば、まったく必要はない。ここでは行動が大事なのだ。何であれ、あなた

が真実のためにすることは、あなたを真実へと連れていくだろう。 ただ、正直に、誠実でありなさい。
どのような形を取るかは問題ではない。

==
▼質問者
信じられません! 絶望間際の、退屈で単調な復唱が効果的でありうるのでしょうか?
▼マハラジ

繰り返しているという事実そのもの、退屈と絶望、そしてまったくの確信の欠如にも関わらず、忍耐と
粘り強さをもって闘いつづけていることが、実に決定的なことなのだ。 やり方自体が重要なのではない。
その背後にある真剣さがもっとも重大なのだ。

※これは仏教の「塵を払わん、垢を除かん」の話にも通じるだろうね。
すべては縁起のシステム上で起こってることなので(=幻想の神、プログラム)、ある水準を超える
「アホ みたいに粘り強い努力」「人間を超越した行為」は、確実に結果を出してくるはず(マントラ限らず)。
★個人的に好きなマントラ:「オーム・ナマ・シヴァーヤ」

◆真我探求の方法については、色いろな人が色いろなこと言ってるので、そういうのを参考にしながら
自分の直感に頼るべきだろうけど、本当の重要さは方法よりも 熱意とその継続性 にあるとも言われる。

「命を差し出す」ほどの熱意があれば、確実にそちらの流れに入るとされる。 自己の存在性への執着
自我のシステム(催眠)の土台、根本の力であるため、自我の反応が起こるときにそこ(根本執着)に、そのつど注意を向けるべき。 継続すれば深層心によい変化をもたらすはず。

真我探求の要点は、「私」はすでに解脱してる側にいることを意識しつづける、ということだと思われる

(※私はほんとうは探求者ではない)。 これで10数年前に一時的に割とはっきりわかったんだが、
その直後に諸事情により長い トンネル に突入したもので(キャハ)。(※観照がわかった、という意味)
人によってはさほど困難を経験せず、スムーズに自己認識の移行に入るケースもある。

基本的には、心を浄化しつつ幻想を幻想(非自己)として意識し続ければ良いはずだが、「幻想視点」で何らかの努力をする場合でも、何もしてない「実在視点(=私)」を常に自覚することが重要で、これは

真我探求における パラドックス だが、本当の真実は実在視点だという 確信を深いレベルで持つべき。

真我探求とは、「冗談」であると同時に「自己存在の完全放棄を伴う神聖な祈り」に向かう道でもある。

◆表層における真我探求に「真剣さ・誠実さ・粘り強さ」があれば縁起によって導かれ、深層意識の
構造改革(=解脱)に至る可能性がある。それは完全に神の意思のようなもの(運命)であって、幻想の自分の側のコントロール下にはない。 しかしそれが起こらなくても、すべては縁起により何かに繋がる
ので賢明な行動を心がけたい。 なお、非常に強く深い菩提心(解脱を求める心)が、利他心・慈悲心とともに起こって行動を伴えば、もし今生で無理でも必ずその方向に向かうと言われている。 そして、

蓮の花は泥沼から咲くが、「強く深い菩提心」は泥沼のような状況から生じやすい、ともよく言われる。

★悟りの体験と分析(他サイト)

《 THE 真我探求 》 基本はひたすら心を浄化しながら①や②、などが一般的なアプローチ。
ただし、霊的修練は人それぞれの適性がある。「私は行為者ではない」の日常的な反復注意は有効だろう。

by ニサルガダッタ・マハラジ(「意識に先立って」P117~118 より)
退却するということはただ内側へ入ることを意味するが、あなたの通常の傾向は五感を通して外の世界を見ることだ。今、それを逆向きにしなさい。私はこの肉体ではない、このマインドではない、この感覚ではない。
そうすれば、あなたは意識に安定する。意識に安定したあとは、それ以後のことはすべて自動的に起こることだろう。 あなたは顕現へと拡大するのだ。「私は在るという性質」がやって来る前の原初の状態で、
私は存在していたし、存在しているし、存在することだろう。

※↑ 知識の道(ジニャーナ・ヨーガ)。 ここでは「意識 ≒ 観照意識?」。「私は在るという性質 = 意識」。

by ニサルガダッタ・マハラジ(「I AM THAT 私は在る」より)[以下同]
気づくことは目覚めることだ。気づかないことは眠っていることだ。いずれにせよ、あなたは気づいている。そうあろうと試みる必要はない。 あなたに必要なのは、気づいていることに気づくことだ。
意図的に、そして意識的に気づいていなさい。 気づきの領域を広げ、そして深めなさい。(P238)

あなたはつねにマインドを意識している。 だが、あなた自身が意識していることに気づいてはいないのだ。

あなただと思いこんでいるあなたを見てみなさい。そして、あなたはあなたが見ているものではないことを
覚えておきなさい。「これは私ではない。私は誰か?」が自己探求の動きなのだ。解放へのほかの手段というものはない。すべての手段は延期を意味するのだ。 あなたではないものを断固として拒絶しなさい。
真の自己が荘厳なる無のなかに現れるまで。 それは「何ものでもないもの」だ。(P545)

あなたはつねに不生不死であり、体験者を超えているということを覚えておきなさい。 それを覚えている

ことで、純粋な知識の質である、無条件の気づきの光が出現するだろう。(P208)

もし私を信頼するなら、あなたは意識とその無限の内容物を照らす純粋な気づきだ、と私が言うのを信じな
さい。それを自覚し、それにしたがって生きなさい。 もし私を信じることができないならば、そのときは
内側に入り「私は誰か?」と尋ねるがいい。 あるいは純粋で純然な存在である、「私は在る」という感覚に

あなたの気づきの焦点を合わせなさい。(P47)

意識の内容が好き嫌いなしに見られたとき、その意識が気づきなのだ。

だが、意識のなかに反映された気づきと、意識を超えた純粋な気づきとには違いがある。反映された気づき、「私は気づいている」という感覚は観照者だ。一方、純粋な気づきは実在の本質なのだ。(P456)

観照者意識はマインドのなかの実在の反映だ。実在はその彼方にある。 観照者とは、それを超えて彼方へと

通りぬけていくための扉なのだ。(P72)

あなたはあなた自身を動と見て、不動を見落としたのだ。 マインドを裏表にひっくり返しなさい。

動を無視しなさい。 そうすれば、あなたはあなた自身を常在で不変の実在、言語を絶する、しかし岩のように
確固たるものとして見いだすだろう。(P179)  マインドが静かなとき、それは実在を反映する。
マインドが徹底的に不動であるとき、それは消え去り、ただ実在だけが残るのだ。(P503)

https://www.youtube.com/watch?v=A8mMYTZGFuw(※「字幕日本語」クリック、3:23~)
★マハラジの所に訪れた探求者達は、どのようにすればこの「気づき」に達することが出来るのか、
非常に知りたがりました。 「あなたは何かを探すときどのようにするのかね? あなたのマインドとハートを探すものに対して向け続けることだ。 関心を持たなければならない。そして、絶えず思い起こしなさい。

思い起こされる必要があるものは忘れずにいるのが成功の秘訣だ。」


~ 心と深層意識のカラクリ、そしてハイリアリティ ~

◆人間の深層意識は大まかには次のようになってる。「 表層意識 → 潜在意識 → 集合意識(宇宙意識)」

唯識(下画像参照)でいう「阿頼耶識(アラヤシキ)」は、「集合意識の一部」を意味する概念である。
そこに個人の過去の行為のデータと集合的なデータ(=カルマ)、そして仮想世界のすべてを顕現するための、あらゆるデータ(材料)が保存されてる。

◆「意識」「心」「知覚作用」 などもそこのデータを使って投影されるものであるため、知覚の対象となるものは、当然そこのデータを使って作り出されたものに限定される。

「ハイリアリティ(実在・真我)」 は作り出されたものではなく、すべてがそこから仮現する源泉であり、「時間・空間・すべての概念」を超越しており、心のシステムで捉えることはできず、論理が通用せず、
言葉で直接表現(描写)することもできない、ただそれであることができるだけ、とされている。

これはコンピュータがプログラム以外を解釈できないのと同様。 どう表現しても、あるいみ的外れになる
と言われる。 または、「生まれつき盲目の人に色の描写を試みること」にも例えられる(※誤解を生む)。
あえて表現する場合は、たとえば、「属性がない、それに勝るものはない、完璧、永遠、絶対」
などという、心にとってはまるで意味不明な表現がいちおう使われる(※下記)。

★参考: 後記「釈迦いわく(出離、解脱者のゆくえ)」(涅槃ニルヴァーナの解説)
★参考:「覚者たち(別ページ)」≫「ニサルガダッタ」≫「『真我・霊魂』と『至高の実在』の関係」
★参考:「覚者たち(別ページ)」≫「その他」≫「自己喪失の体験(バーナデット・ロバーツ)」

しかし、生きてるうちはいわば半分半分(=有余涅槃)なので、肉体が死なないと分からないこともある

のではないか? と私は考える。 たとえば死後に、描写不可能といわれる「絶対者パラブラフマン」に

入り切れば(=無余涅槃)、生きてるうちは認識不可になってる「真実の神々の世界」が始まる可能性すらあるのでは? と。(※妄想注意!)

by ニサルガダッタ・マハラジ 《「I AM THAT 私は在る」より》

★あなたが変化するものに飽き果てて、不変なるものを熱望するときだけ、マインドのレベルから
見たとき空や暗闇として描写できるものへと方向転換し、踏みこむ用意ができたのだ。(P454)

★実在とは無形の集合や無言の混沌ではない。 それは強力で、気づいていて、至福に満ちている。
それと比べれば、あなたの人生など太陽に対するロウソクのようなものだ。(P455)

《「意識に先立って」より》

★それは常に行き渡っているが、知ることを超えている。その状態は説明することができないもので、
「それは在る」という言葉でさえその状態にはほど遠く、単なる示唆にすぎない。(P238)

★意識が起こる前の原初の状態を描写することはできず、人はただそれであることができるだけだ。

(P279)

◆例えるなら、「阿頼耶識」は映写機(フィルム含む)であり、これが全自動で上映してる映画が
表層意識に現れる世界(または人生)、というように言える。 究極視点では、人間のすべての心・体の

動きはこの阿頼耶識が上映してる映像だが、それらがカルマとして再び阿頼耶識に貯蔵され、未来のどこか
で上映されるであろう映像のネタとなるのである。 これを唯識では、「阿頼耶識縁起」という。
上映にあたっては集合的カルマの個人分配もけっこうあり、時間の中で貸借が清算される、と言われてる。
この映画は変化が基本特性で、つねに全体性の中でバランスを取りながら個々の動きが起こっている。
仏教ではこの映画自体を「苦」とみなし、上映の停止(=解脱・輪廻卒業)に向かう方法を説く。

しかし本当は、阿頼耶識(映写機)もスクリーン上の映像の一部(仮想プログラム)に過ぎない(笑)。。

(※参考:後記「唯識について」。 つまり、仏教や不二一元論と同様の見解です。)
スクリーン上に最初に現れる映像である阿頼耶識が、全自動の 縁起プログラム群 によって他の映像
(意識とその内容物)を描き出してる。 心の世界は一切縁起、一切皆空で、阿頼耶識にも自性(実体)は
ないということ。 そして、映像がそこから立ち現れてくるスクリーン(源泉)が「ハイリアリティ」で、
それが 認識力 現実性 において映像中の人間と接続する一点が、「霊魂」ということになる。

つまり、ほんとうの意味での映写機は「ハイリアリティ(真我、至高の実在)」、という捉え方もできる。

※以上詳細:「阿頼耶識縁起(別ページ)」

by 釈迦 《「ダンマパダ(154節)」(最古層、小部経典)》

―― だが家屋の作り手よ、汝の正体は見られてしまった。 汝はもはや家屋を作ることはないであろう。

汝の梁はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。 心は形成作用をはなれて、妄執を滅ぼしつくした。

※「家屋の作り手」=「阿頼耶識」、「汝の梁はすべて折れ~」=「無明(自我の催眠)を解除したよ」

◆そしてこの阿頼耶識から、いわば潜在意識の領域の自我である「末那識(マナシキ)」が現われる。
この識(=心)は人間が寝ても覚めても、深層でつねに「我、われ」と考える根源的な自我執着心である。
これが、阿頼耶識(=いわば宇宙の根源的ないのちの流れ)の一部をみて、それを自分の正体(=真我?)であると誤認して愛着し続けている。 この深層における誤認こそが、表層意識で起こるあらゆる煩悩と、
自我の催眠(=自我システムへの「私」の同化)の、つまり輪廻転生の根本原因と考えられる。

(※以上、「瑜伽行唯識派」の説)

◆まとめると、私たちが見てる物質世界はあくまで「ハイリアリティ」を基盤として仮現する幻想であり、世界を見てる私たち自身も、ほんとうは(認識力の主体、存在感覚の中核・源泉は)ハイリアリティ。
そこから仮現した阿頼耶識(集合意識)が、各個人の表層意識に「世界(心・体ふくむ)」という共通の
舞台設定で完全リンクされた イメージ・現象 を投影し、私たちはそれを体験するわけだが、自我の催眠下
においては 真の現実(自己)であるハイリアリティに気づかなくなるため、確固とした「物質世界」が、
私たちの意識に依存せずに実在してるように感じられる幻想と、個人的行為者という幻想が発生する。
「時間・空間」もほんとうは、投影された イメージ・観念 だが、催眠下では実在するように感じられる。
つまり物質世界は実在せず、「世界、という体験」だけが現実に存在し、「世界=体験=体験者(心)」
で、解脱者の「主客未分」の認識状態と個人的行為者の不在の感覚が真実である。


~ 真我探求の手がかり ~

◆仮想世界に現れるすべては「ハイリアリティ」の仮現だが、それが人間存在に直接的に投影する要素は、

「認識力」「現実性(リアル感、親密さ、存在感)」である。

※人それぞれの適性があることをご理解ください。

◆~ 認識力(気づき)への着目 ~

人間の「認識作用」は 心(=幻想)の機能であり、深層意識が上映してる映像の一部だが、

「認識力」は、心にも深層意識にも属さない。 それは霊魂から提供されてる。
例えば、月が自らの光で世界を見てるとする。しかし、月の光はほんとうは太陽の光である。
ここでは「月=心、太陽=霊魂」。 つまり、霊魂から発現した「認識力」が心(深層意識)に及んで

はじめて、私たちは「認識作用」という心の機能を使うことができる(=幻想視点)。

私たちが何かを見る時、「見る者(心)」「見ること(認識)」「見られるもの(対象)」 という3つ
の要素があるようにみえるが、そのすべてを包括するもう1つの要素、「気づき(認識力)」がある。
つまり、霊魂から発現した「気づき」がつねに意識に気づいている。 ここで、「気づき(≒観照)」は
実在の本質であり、実在そのものとして扱って問題ない。

つまり、私たちは本当は意識を観てる側で、意識とその内容物は観られてる側であり(=実在視点)、
心の機能である「見ること」は、意識を観てる私たちの認識力が心に及んで成立してる(=幻想視点)。

しかし催眠下にある私たちは「真我の気づき」を自覚できず、自我(心)になりきったような錯覚が
起こってる。 心の浄化が進行すれば、そこ(意識に気づいてる気づき)に注意を向けることを
繰り返し試みることで、その自覚が目覚めてくるとされる。 また、気づき自体に目覚める前段階として、
それが意識内に反映された純粋部分(=観照意識)の一時的な自覚(=観照)が起こりやすい。
(※観照 = 心の動きに影響されずに超然として意識の内容物を観ること)

なお、上記3要素はすべて「気づき」の中の現れだが、「見ること」は「気づき」の副次的要素なため、
真実度が高い。 つまり、3要素中では「見ること」だけが真実的(ミックス)であり、「見る者(心)」
と「見られるもの(対象)」は「気づき → 見ること」があるときだけそれに付随して仮現する要素で、

幻想度100%である(=実在視点 & 幻想視点)。 「心」とは、「知覚・思考・感情」などの精神機能

(深層からの投影)のことだから、上記(見る者)は当然といえば当然ではある。

ここでは「幻想視点」は主に、幻想の要素を認めながら実在に言及する視点で、
「実在視点」は完全に実在側の視点。 この分野では、論理的パラドックスは必ず発生します(笑)。

なぜなら、私たちが認識するすべては、ほんとうは「 自分の心(深層意識からの投影)」だから。

※なので上記の「幻想視点」の部分は、「 幻想内への認識力の投影(半分真実)」 ということで、
ご理解ください。 これは、人間の「催眠下の錯覚」とも関係してます。

「パラドックス」の感覚的体現(=観照状態)のために必要なのは、心を純化して静寂を大切にし、
心の活動(思考)に対して「無視 or 距離を置く」感覚を身につけること。

そして、源泉である真我の位置まで自覚が戻れば、観照時の主体と客体の分離はなくなるとされる。
(※パラドックスは意味を成さない) つまり、すべてはハイリアリティの仮現であると。

「ただ、見ることだけが在る。そのなかに見る者も、見られるものも含まれるのだ。
区別のないところに区別をつくり出してはならない。」

《「I AM THAT 私は在る ‐ ニサルガダッタ・マハラジとの対話」P285 より》

~ 書籍の紹介 ~

【 アイ・アム・ザット 私は在る ‐ ニサルガダッタ・マハラジとの対話 】

[編集]スダカール・S・ディクシット、[翻訳]モーリス・フリードマン
[翻訳]福間 巌、[出版]:ナチュラルスピリット

【 意識に先立って ‐ ニサルガダッタ・マハラジとの対話 】

[編集]ジーン・ダン、[翻訳]髙木 悠鼓
[出版]:ナチュラルスピリット

◆~ 現実性(リアル感、親密さ、存在感)への着目 ~

※これは自分ではピンときてないけど、本の受け売りで書きます。(★関連:「唯識無境」)

もう1つ、「現実性」と書いたが、仮想世界であっても人間はこの世界や仮の自己をリアルに感じるもの
だが、それは厳密には「現在の瞬間」にだけ、感じるのではないだろうか? 
過去のことは脳の記憶としてイメージがあるだけで、ほんとうのリアル感は記憶の中にはないはず。
その「リアル感(親密さ)」はハイリアリティ(真我)から現在の瞬間にだけ、心に投影される。
そして空間や物質世界そのものは幻想だが、それはハイリアリティの仮現でもある。もしこの世界に感じるリアル感に対して、親密さとともに自己の存在感を身体から拡大して重ねることができれば、それは意識に
拡大した状態(=唯識無境)であり、解脱の前段階の一種とされる。

つまり、人間が「現在の瞬間」にだけ世界や自己に感じる、「リアル感(親密さ)」は
「真の自己(真の生命)」に近いもの、と言えるだろう(※真我から生じるという意味で)。

なお、「心に投影される」と書いたが、実在視点で言えば「心=世界」である。

そして一般的にそのリアル感(親密さ)は、大人よりも純粋な幼い子供のほうが強く感じる傾向にあるが、しかし幼い子供には「気づきの明晰性」が欠けている(by マハラジ)。

★「意識が唯一の現実です。 それ以外は、現実それ自身の内部の映像にすぎません。」 by ラメッシ

◆前記の 「覚者たちの言葉」(戻る▲) で、「ルパート・スパイラ氏」が言ってる「叡智と啓示の立場」

はここでの「認識力(気づき)への着目」と同様であり、「愛、純粋な親密さの立場」はここでの

「リアル感(親密さ)への着目」と同様、とみてよいと思う。 たぶん、第6チャクラの活性が強い人は「気づき」のほうがピンときて、ハートチャクラの活性が強い人は「親密さ」のほうがピンとくるのかも。


~「サーンキヤ哲学」について ~

(夏目漱石が感銘を受けて『草枕』を書いたという)

◆サーンキヤ哲学は、BC7世紀頃?(諸説あり)のインドのリシ(聖仙)「カピラ」が開祖とされ、
ヨーガにおける根本哲学とされてきた。 なお、「バガヴァッド・ギーター」では解脱の方法として、
「知識の実修(ジニャーナ)」「行為の実修(カルマ・ヨーガ)」「親愛の実修(バクティ)」 の三種の道が説かれるが、

「知識の実修」は「サーンキヤの道」とも呼ばれ、形而上学的知識を土台にして解脱に向かう道である。

◆サーンキヤ哲学では、世界の根源として2つ原理を想定する(二元論)。
すなわち、「精神原理のプルシャ(純粋精神)」と「物質原理のプラクリティ(根本原質)」であり、

世界はプルシャの観照を契機にプラクリティから展開して生じると考える。 しかしその両者は不可分の関係で、両者が合わさることにより世界が展開することから、純粋な二元論とは言えない面もある。
当サイトでは基本的には非二元論の立場をとるが、「二元論・非二元論」というのは、観点と表現の違いなだけの場合もあり、そこだけに拘って他を排してしまうのは適切ではないだろう。

◆「プルシャ」は一般にアートマン(真我、霊魂)のこと。
「プラクリティ」は世界とそのすべての動きが展開するので、唯識でいう阿頼耶識(+心体ふくむ全世界)
と考えられる(※または「私は在る」)。 サーンキヤ哲学ではこれを実在とする(原理的な意味で?)。
唯識でも阿頼耶識を実在とする派と非実在とする派があるが、当サイトでは仏教やアドヴァイタ哲学などと同様に、プラクリティ的なものはすべて実在(プルシャ側)から現れる幻想(=仮現)、と考える。

ちなみに、「バガヴァッド・ギーター」では、クリシュナ(=至高神・実在)に属する高次のプラクリティ
(※実質的にプルシャ側)と、低次のプラクリティ(※非実在)があるとされる。

◆サーンキヤ哲学では人間の絶対的な 価値・幸福 は、プルシャが世界に完全に無関心となり、自らの内に

沈潜・立脚 すること(=独存、解脱)とされる。(※これは仏教や真我探求と同じ)

◆「サーンキヤ・カーリカー(=最古文献 5世紀、詩節で構成)」(解脱のところ、概要まとめ)
無意識の牛乳が子の成長のために活動するように、プラクリティはプルシャの解脱のために活動する。

プラクリティはプルシャによって見られると、世界を展開して、7つの様体にて自らを束縛する。
(※ある意味では、睡眠から目覚める瞬間に起こることがコレ)

すると、プルシャはわれを忘れてプラクリティにのめり込む。(※ほんとうは観てるだけだが無自覚)
すると、プラクリティはさまざまな手立てをもって、「私とあなたは別のものよ?」 ということを

プルシャに伝えようとする(=創造活動)。 グナ(要素)を有するプラクリティは、グナを有さない
プルシャのために非利己的に、さまざまな新たな方法を使って、無用と思えるようなことを実行する。

(※創造活動は ドラマチック だが賢くない) しかる後に、プラクリティは1つの様体を使って自らの
束縛を解く。 すると、プルシャは ハッ とわれに返る。 プラクリティはプルシャに自らを明かしたあと、

まるでステージ演目を終えたダンサーが踊りを終了するかのように、創造活動(ダンス)を終了する。ダンスを終えたプラクリティを、プルシャは観客のようにくつろぎながら眺める(=解脱)。

なお、プラクリティが自らの束縛を解くために使う「1つの様体」とは、25の原理の考察に習熟することで生じる、「わたしは~ではない」「~はわたしのものではない」「~の存在はわたしではない」

などの「純粋で清浄な確信的真知」である。(※深層意識への浸透)

また、この「確信的真知」はプルシャにもとどく。(※と、いうような意味にとれる記述がある)
それゆえに、ほんとうはプルシャではなくプラクリティこそが、束縛・輪廻・解脱、というダンスを

踊っているのである(原典談)。(※知識の道、ジニャーナ・ヨーガ)

(※でも プルシャ も私にのめり込んでるのは事実でしょ(当方=プラクリティ 談))

★サーンキヤ・カーリカー、個人翻訳(他サイト)

◆「古典サーンキヤ体系概説」([訳]服部 正明)より (※「サーンキヤ・カーリカー」の邦訳書)

※「世界の名著1 ‐ バラモン教典 原始仏典([出]中央公論社)」 内の掲載から抜粋です。

★《「序論(冒頭部分)」P191 より》
人はこの世に生存しているかぎり三種の苦に悩まされるので、それを除去する方法を知りたいという
欲求が生ずる。 苦を除去する方法は、ことあらためて知ろうと思わなくとも経験的に知られているから、
その欲求は無意味であるという者があるならば、それは正しくない。
経験的に知られている方法は、確実には、また究極的には苦を除去しないからである。

<輪廻の様相>(P203~207)

[44節]輪廻の主体としての微細な有機体には、功徳によって傾向づけられることによって、向上して
よりよい境遇において肉体を得ることがあり、罪過によってより低い境遇への沈下がある。

原質と精神原理とを区別する知識によって解脱が、その反対の無知によって束縛があると考えられる。

[45節]離欲によって八種の質料因(原質・理性・自我意識・五種の素粒子)への没入がある。
こうしてしばらくのあいだ肉体を得ることを停止するが、解脱したわけではないから、時がたてば再び
肉体を得て、輪廻を続ける。

[55節]知性である精神原理は、微細な有機体が消滅しないで輪廻を続けるかぎり、
それ(創造された身体)に宿って、老・死を原因とする苦悩をうける。

<解脱>(P207~208)

[66節]一方(観客である精神原理)は、「わたしは舞踏をすでに見た」といって無関心になり、
他方(舞妓である原質)は、「わたしはすでに見てもらった」といって舞踏をやめる。
すでに精神原理の目的は達せられているので、両者が結合しても創造の動機は存在しない。

[67節]正しい知識を得ることによって、功徳などの七つの理性の状態がもはや輪廻の原因でなくなった
とき潜勢力によって、あたかも壷などができあがって、目的が達せられたのちにもしばらくは続く
轆轤の回転のように、しばらくのあいだ身体を維持し続ける。

[68節]精神原理が身体から分離されるにいたり、目的がはたされたので原質が活動を停止するとき、
精神原理は決定的でかつ究極的な独存(解脱)に達する。

[69節]万物の存続・発生・帰滅がそこにおいて考察される、この、精神原理の目的に関する知識

(サーンキヤ学説)は、最高の神仙であるカピラによって説かれた秘密である。

◆「ラマナ・マハルシとの対話 第2巻」から抜粋

★プルシャとプラクリティは単に「至高なるもの」が分岐したものでしかありません。
それらが推測によって導き出されたのは、弟子が二元的感覚の中に深く根づいていたからです。(P157)

★プルシャは真我(アートマン)、知る者、体験者とも呼ばれる不変不滅の純粋意識である。
プラクリティは知られるもの、体験されるもの、マーヤー(※幻影)、顕現とも呼ばれ、生命意識を持たない。

それは サットヴァ、ラジャス、タマス という3つの要素から成り立ち、それらの均衡が失われたとき
25の原理を派生して、そこから現象世界を展開してゆく。 純粋意識であるプルシャは自ら活動せず、
この展開をただ観照するだけである。(※3要素・トリグナ の概念はサンキャ哲学が元祖)
この観照意識が純粋精神と根本原質の 偽りの結び付き を見破ったとき、プラクリティは現象世界の展開を

やめる。 こうして輪廻転生は断ち切られ、最終的に観照者であるプルシャだけが残る。(P249 訳注)

※プルシャがプラクリティから生じるグナと結合してる催眠状態がとければ、解脱。

★プルシャにはいかなる努力もできません。努力をするのはジーヴァ(個我)です。

自我性が存在するかぎり、努力は欠かせません。 自我が消え去れば、行為は自動的なものになります。

自我は真我の存在の中で行為します。真我なしに自我が存在することはできないのです。(P214)

★サットプルシャ(※=真実の自己)はどこにいるのでしょうか? 彼は内側にいるのです。
そう言うと、彼はもう一つのタミル語の詩を引用した。(P206)

「ああ、師よ! あなたは私の過去すべての輪廻転生において、私の内におられました。
そして私に理解できる言葉で話しかけ、私を導くために、人間の姿で現れてくださったのです」

~ 書籍の紹介 ~

【 世界の名著1 ‐ バラモン教典 原始仏典 】

[編集]長尾 雅人、[出版]:中央公論社

【 ラマナ・マハルシとの対話 第2巻 】

[著]ムナガーラ・ヴェンカタラーマイア、[翻訳]福間 巌
[出版]:ナチュラルスピリット


~「 唯 識 」について ~

(日本では法相宗が継承)

「 Wikipedia(唯識)」 にちょっと面白い話があったので紹介

★別ページにて、「阿頼耶識縁起」「唯識無境」 などについて書いてます。

★参考動画:「唯識という教え」(皇室ゆかりの 臨済宗・慈受院住職による法話)

「唯識」は瑜伽行唯識派とも呼ばれ、
4世紀のインドで瑜伽行(ヨーガ)のグループが、
深い瞑想と神通力により深層意識の構造を
明かして大成させた由緒ある大乗仏教の思想で、
あるていど信憑性が感じられるので、
当サイトでもその概念を一部取り入れている。
第九識 は日本で後付された概念なので(略)。
なお、日本では法相宗(唯識宗)が継承し、
大本山は 薬師寺と興福寺(戦前は法隆寺も)。

唯識では基本的に、世界とは各人の心の仮象と
その認識であり、実在してない、とする。
(=唯識無境) 最終的には心も非実在とする。

唯識思想には 有相唯識派と無相唯識派 があり、
これは阿頼耶識の実在性を認めるか否かの違い。

当サイトでは、「無相唯識派」と同じように、
「仮想世界(心の世界)は 一切皆空 であり、
真我のみが実在で、一切を観照する認識力の
主体(源泉)である」 と考える。

ちなみに釈迦仏教や、解脱を説く近代の覚者ら
の多くもこちら。 つまり「心の領域(幻想)」

と「真我(実在)」を分けて考えるのだが、
幻想は実在の現れ(仮現)でもあるから、
ほんとうは、その両者は別々ではない。 ただ、
「実在」が主体(源泉)であるということ。

別の切り口で言うならば、、
私たちの「自己認識」こそが、幻想なのだ。


◆注意点

ここに書いてるすべての概念的な知識は、お遊び、または参考程度にしかならない、ということを繰り返し
強調しておきます。 それを書いてる理由として、知性の性質とそれが真我探求の核心に通用しない訳を
示すことがある。また、あるていど理屈で納得できないと興味が失せたり、決意が固まりづらい人もいる。
(私もだが現代人はこのタイプが多い) 探求の核心部分についてのみ言えば多くの知識はまったく無用と
思われるが、ここでは探求者のためというよりも、主に「物質主義文明へのささやかな働きかけ」、
という趣旨で書いてます。 この分野の核心部分は知性とは相容れないものであることには、ご注意下さい。

(★参考: 上記「悟りの体験と分析(他サイト)」≫「2.臨済義玄の悟り」「3.定上座の悟り」など)


仏教とハイリアリティ(実在、真我、霊魂)

※別ページ「覚者たち」≫「ジャイナ教関連、仏教関連」 に、関連事項があります。

◆一般的に仏教では「霊魂」の存在を否定しがちだが、その 根本教理は「輪廻からの解脱」である。
この一見すると不可解な点について、少し掘り下げて考えてみたい。

結論から言うと、釈迦はアートマン(霊魂)の存在を否定してない、という解釈で間違いないと思う。
原始仏典では時おり肯定的に言及し、完全肯定もみられる↓。 「自己探求」では、真我を探すのでなく
幻想を拒否するしかないので、「諸法無我」は完全に正しいが、なぜか初期の頃から「解釈」が少し変。
「諸法無我・五蘊無我」 というのは、「ジニャーナ・ヨーガ」 の基本的なアプローチです(※後記)。

★《「ブッダの真理のことば、感興のことば(岩波文庫)」P250~251 より》

※「ウダーナヴァルガ(最古層、小部経典)」です。 これはたしかに、釈迦の言葉と思われる。

[第27章 37節]
すがたを見ることは、すがたをさらに吟味して見ることとは異なっている。 ここに両者の異なって
いることが説かれる。昼が夜と異なっているようなものである。 両者が合することは有り得ない。

※「すがたを見る」=「アートマンとして在る、自覚する。 その立場から観る(解脱者の視点)」

ある意味では、誰もがつねに「後者」をやってるけど自覚がない。本体がマヒして人間に成り切ってる
ような催眠状態だが、「認識力・気づき」はアートマンから出てる。 解脱とは、自覚がもどること。

「すがたをさらに吟味して見る」=「人間(マインド)の立場から、アートマンを探そうとする」

[第27章 38節]

もしもすがたをさらに吟味して見るのであるならば、単にすがたを見るということは無い。
またもしも単にすがたを見るのであるならば、すがたをさらに吟味して見るということは無い。

[第27章 39節]

(※前略) 何があるときに、すがたをさらに吟味して見ることがあるのだろうか?
何が無いときに、すがたをさらに吟味して見ることが無いのであろうか?

[第27章 40~41節]

ここなる人が苦しみを見ないというのは、見ない人が(=個人存在の諸要素の集合が)
アートマンである、と見ることなのである。 しかしすべてが苦しみであると明らかに見るときに、
ここなる人は「何ものかがアートマンである」ということを、つねにさらに吟味して見るのである。

無明に覆われて凡夫は、諸のつくり出されたものを苦しみであるとは見ないのであるが、
その「無明」があるがゆえに、すがたをさらに吟味して見るということが起こるのである。
この「無明」が消失したときには、すがたをさらに吟味して見るということも消滅するのである。

※「アートマン = 私・自己」、みたいなニュアンスで使われてる(●当時の定義をあらわしてる)。

「すがた = アートマン」は明白なので、これは「完全肯定」と言える。
これ以外でも原始仏典では、アートマンの存在を当然の前提としてるような箇所がいくつかみられるが、
注意深く読まないと、「アートマン自体の否定」とも取れてしまったりするのがミソ。

※「無明」=「根本無知(≒ 自我の催眠、真理についての無知、私は人間だという思い込み)」

まず、この「解脱・悟り」の分野で教えてる人たちは 「霊魂」のような個別の存在を意味する概念は、
あまり使わない、使うのを避けようとする傾向にある、とは言える(※使う人もいるけど)。

釈迦が一部の経典で アートマン(霊魂)に関して明言を避けてるのは、存在を否定してるのではなく、
かれが深層意識の構造を見抜いていて、★自己の存在性への執着心(≒深層の根本的生存欲)が 解脱の
邪魔するのを嫌ったから、というのもあるかもしれないが、それよりも主な理由は質問者などに対して、

「その質問をしてる『あなた』とは何か? 形而上的追求をあきらめて、その存在の源にいきなさい」

みたいな趣旨だったのでは? と推測する。 「十無記」は完全に後者(※参考:後記「釈迦いわく」)。
そして、「アートマン否定」関連での有名どころは、以下の2項である。

◎ 諸法無我 ‐「 法界(現れた心の世界)の中に、アートマン(霊魂・私)は存在しない 」
◎ 五蘊無我 ‐「 体・心・意識 などの人間要素の中に、アートマン(霊魂・私)は存在しない 」

「法界」は初期仏教では「現れた仮相の世界」を意味してたが、
後代のインド大乗仏教の解釈がおそらく影響して、(※参考: 下記「原始仏教・大乗仏教・密教~」)
大乗仏教全般では、「法界 = 実相ふくめた宗教的本源(すべて)」 みたいになってるぽい(※下記)。
原始仏典では、「法(のり)」=「縁起の法(宇宙の法)、つくられたもの」 みたいな使い方されてる。

★初期仏教では、「法界」は意識の対象となるもの(他サイト)

初期の段階では法界は十八界の一つで、意識の対象となるものを意味し、十二処でいえば法処にあたる。
しかし大乗仏教になると、これは単なる意識の対象ではなく、宗教的な本源を意味するようになった。
つまり、この全宇宙の存在を法(真理)とみなし、真如と同じ意味で使われるようになる。

★「 Wikipedia(法 ‐ 仏教)」

<存在を意味する「法」>
古い経典では「いっさいとは五蘊(ごうん)である」と説かれ、五蘊の法といわれるものを「法」という。

★「諸法無我」は厳密には「諸法非我」と訳されるべき(釈迦はアートマンを否定していない)(pdf)

―― すなわち、釈尊がアートマンを否定する論法は、「一切とは何か」を規定し、「そのいずれもが
アートマンではあり得ない」というもので、「アートマンは存在しない」と主張したのではない。

★釈尊はアートマンを否定せず、寧ろ重視していた(上から5つ目の項、by 中村元 氏 ← 仏教学者)

この2項では、アートマンの存在自体は否定してないのは明白だが(※むしろ 肯定の意を含んでる)、
ほかに関連性がありそうな事柄は、、

当時インドで興隆してたバラモン教の思想は、「人間は肉体と霊魂からなり永遠に輪廻する(カルマ論)」
であり、そこでのアートマン(霊魂)は ほぼ「自我」の意味だった うえ、「解脱」の概念がなく、

過酷なカースト制の根拠にもなってた。 このカースト制に激しく反対運動をしたのが、釈迦だった。

つまり仏教というのは当時、アンチ・バラモン教としての性質も持っていた、といえるだろう。

「私」を「肉体」と結び付けて捉える限り、それは「自我」だが、肉体から切り離せばそれは意識または
観照意識、最終的には 真我(アートマン)だということ。真我のアイデンティティが、肉体に同化してる。
そして原始仏典を見れば当時はほぼ、「アートマン = 私・自己」のような意味だったことがうかがえる。
上記(法界の定義の~)で仏教学者が言ってるけど、昔のインド人は「自我・真我」を分けて考えておらず
(まぁ核心では繋がってるが)、「アートマン(私)」が今の言葉での「自我」に近いニュアンスにも
なってた、ということ。

「諸法・五蘊無我」は現代人には「自我 or 霊魂」の有無のことに聞こえるけど、釈迦本来の意味は、
「この世は『仮現』で、ほんとうは私たちは現れた世界の中にはいない(私たちは、個人ではない)」
みたいなニュアンスだったと思われる。 つまり、真我探求 の基本形(★前項「THE 真我探求 ①」)
サーンキヤ哲学 での解脱の要点(※前項)とも、本質的に まったく同じ意味 ということで、
これらはみな、「知識の道(ジニャーナ・ヨーガ)」に分類できる。
そして釈迦の教えの主軸は、アートマンのような「形而上的概念」を説明することではなく、
知性・マインド の活動に背を向けさせて、すみやかに「解脱」に向かわせるものだった、といえる。

バラモン教(のちにヒンドゥー教)主導のカースト制が根付いたインドでは、仏教はやがて衰退の道を
たどることになる(※それが理由の一つかと)。 カースト制には、アートマンの概念が必要なのだ。

◆カースト制度と仏教、ほか(※輪廻転生とアートマン)

https://core.ac.uk/download/pdf/229752360.pdf
<抜粋> 4.カースト制における平等

仏陀はカーストによって差別される賤しい人の解放さるべき道理を説いたが、だからといって無差別に
平等を説いたわけではない。行為によっては賤しい人格も存在する。 業報輪廻という「生まれの差別」に
基づいたカースト制度を認めず、他方においては、「業報輪廻という一善をなさしめ悪をなさしめない」
ための宗教倫理に代わる独自の業論を展開したと考えられる。 業報輪廻において、業の果報を次の生まれ
に繋いでいく役目をするアートマン(霊的実在)と同様のはたらきを業自身に持たせ、そこに

アートマンという霊的実在を介在せずに、業報による輪廻という仏教独自の転生を説くことになった。

ちなみに「輪廻の主体」に関して近代の覚者らは、輪廻は幻想内で真我(アートマン)は実在だから、
ということで、「輪廻するのは幻想側の自我想念体で、真我は影響を受けない(関係ない?)」
みたいな感じの表現がよく見られ(※ラマナ、ニサルガダッタなど)、ニサルガダッタは晩年には輪廻転生の理論を否定さえしていたが、注意深く読めば実質的には上記と同様の意味合いである。
※たとえば、、前記「人間存在の真実」≫「ラマナ語録(前半)」 みたいなこと。
これはカースト制と関係あるかどうかは分からないが、確実にこのように表現される傾向にある。
サーンキヤ哲学(BC7世紀頃)もこれに近い(※伝統?)。 なお、カースト制の始まりはBC10世紀頃。
アートマンは自己存在の中核 ではあっても行為主体ではないから、輪廻の主体としない道理もわかるが。

まぁカースト制うんぬんは置いといても、「真の自己(アートマン)は、輪廻(幻想)のなかにはいない」
ということを強調する意味においても、上記のような説明は理に適っているのだろう。 つまり、
「知識の道(ジニャーナ): 私は心体ではない、私は現世のなかにはいない」 と同様の趣旨(観点)。

※基本的には コレ(↑)なんだろうけど、表現が頑なで少し不自然に感じられる場合もあるということ。

あと、「梵我一如(前記)」に関係する表現についても、カースト制の影響が多少なりともある気がする。

ヒンドゥー社会の闇、カースト制はインド憲法でこれによる差別が禁止されて久しいが、カースト自体は
廃止されておらず、とくに地方部では差別の風習が根強く残っている。

※輪廻について参考:「覚者たち(別ページ)」≫「ラマナ」≫「輪廻転生について」
「行為者は~(次ページ)」≫「輪廻転生について」


~ 原始仏教から部派仏教へ ~

★釈迦仏教の特徴をかいつまんで言えば、当時のバラモン教の 神秘主義的要素をほぼ排除してる ことと、

教えの根本理論(背景)は完全な実在視点だけど、ある意味では ゲームプレイヤー の立場(幻想視点)に立った
うえでの端的な(はっきりした)教え方をしてる(※現世否定精神など)。 覚者というのは皆そうだけど、

衆生を導くために時と場合に応じて観点を選んで 役者を演じてる わけです(※行為主体の感覚はない)。
実践面は、「心の浄化・無執着・禅定」を徹底させた「ジニャーナ・ヨーガ」の一種。

なお、釈迦入滅(BC485年説、BC383年説)の直後に第一結集がひらかれ、500人の阿羅漢(解脱達成者)
が集まって釈迦の教えを確認しあい、原始仏典のもととなる文書群が作成された。 そこから
約200年後の第三結集までに?、原始仏典「パーリ仏典 経蔵」(下記)が段階的に編集されたと考えられる。

原始仏典には後代の仏教諸派のような複雑な教理は見られず、厳しい教えだが内容的にはシンプルである。

最古層の経は小部に含まれ(※スッタニパータ、ダンマパダなど)、次いで相応部(サンユッタ・ニカーヤ)

が古いとされる。 原始仏典の内容の真実度(※釈迦の言動?)については諸説あるが、個人的な見解では、
経典にもよるけど8割くらい?は真実なのかなと。言い回しやニュアンスの変化は結構あるかも(※翻訳)。

しかし釈迦の教説というのは、基本的には出家修行者を主な対象として「解脱」を重視・強調していて、
時代背景も今とはずいぶん異なる、ということは理解されるべきだろう。

言い換えれば、釈迦仏教というのは一部オブラートに包む表現はあっても、世俗的でなくストイックで、
当時のインドでも世間一般のウケがよくないわけ。 だから大乗仏教・密教というように、ある種の魅力的な要素が時間の経過とともに入ってくる(※下記)。 ただし、大乗仏教は範囲が広くて一概には言えず、

密教はそもそも理論体系というか観点が、初期仏教とはけっこう異なる(※間違いという意味ではない)。

なお、第二結集のあとに仏教教団が分裂するまで、つまり釈迦入滅のあと約100年間の仏教を「原始仏教」
そこから紀元前後頃までを「部派仏教」(↓)という。

《 原始仏典 : パーリ仏典「経蔵」、漢訳仏典「阿含経」(パーリ仏典に概ね対応)》

①長部経典(長阿含経): 長篇の経典集。物語もふくむ。
②中部経典(中阿含経): 中篇の経典集。
③相応部経典(雑阿含経、サンユッタ・ニカーヤ): テーマ別の短篇経典集。
④増支部経典(増一阿含経): 法数ごとにグループ分けされた短篇経典集。
⑤小部経典(≒本縁部): 以上のどこにも入らない経典集。「スッタニパータ、ダンマパダ、ウダーナヴァルガ、etc.」

※後記の「原始仏典から抜粋」「釈迦いわく」、「覚者たち(別ページ)」≫「仏教関連」、にて一部紹介。

★第二結集のあと、仏教教団は運営方針をめぐって上座部(長老部)と大衆部に分裂した(※最初は軽度)。
BC250年頃になると上座部(保守派)と大衆部(革新派)の分裂が激化し、紀元前後の頃まで両派はさらに

こまかい分裂を繰り返した(※20の分派が誕生、部派仏教時代)。

この時期には経典(原始仏典)を基にして様ざまな独自の教説が立てられたが、しだいに複雑で難しい
学問仏教の面も強まっていき、民衆救済を掲げた大乗仏教を立ち上げる理由の一つになったと考えられる。

なお、上座部に追い出された大衆部系がインド大乗仏教の母体になった、という説もある(※真相は不明)。

~ インド大乗仏教、諸法実相について ~

★部派仏教時代の最終期に、紀元前後 ~1世紀にかけて作成された「般若経」系の多種経典群を基盤として
インド大乗仏教が興り、さらに「 法華経・華厳経・浄土三部経・維摩経・・(中期後期の経典群に続く)」

などの大乗経典が作成されていった。 のちに「中観派」「唯識派」の二大系統(学派)が誕生したが、
経典の内容など全般的に言って、初期仏教の 現世否定精神をマイルドにした感がある。

中観派では、般若経の「空」の概念を高度に理論化したが、「中論」に代表されるこの中観思想は、
哲学的にも面白い部分はあると思うけど、私は賛同しかねる点も一部ある(※下記)。

「空(梵語:シューニャ)」は、原語では数字の ゼロ を表す言葉でもある。 仏教では「無」とは区別され、
一般に「仮相・幻想・実体がない」のような意味であり、般若心経の「色即是空 空即是色」もその意味で

「空」が使われてる(と考えられる)。 そして中観派では、この「空」に「実相」の意味を付加した。
中観思想においては、「空」は基本的には 「 縁起・無自性・無実体(=仮相)」 を意味するが、

「縁起の如実相」「諸法の究極の相」 のことでもあり、その如実相を徹見すればそれが涅槃であるため、
「空即涅槃」「諸法実相これ涅槃」、と説明されている。(※講談社学術文庫「龍樹」P295~298、概要)
つまり、複雑な論理展開が多くて分かりづらいが、けきょくのところ「空」という一語に「仮相・実相」の
両方の意味をふくませている。 まぁそういうアプローチなのかもしれないが、ほんとうは、
「空」に「仮相」の意味を持たせるなら、そこに「実相」の意味をあわせ持たせるのはおかしい。
例えば、我われが睡眠時に見る夢は現実ではないが、「空」という言葉に「現実でない夢・夢でない現実」
という2つの意味を持たせるのはおかしい、というのとある意味では同じようなこと。

「仮相(幻想)」は「実相(実在)」の仮現なので、「仮相」の「本質」は、ある意味では「幻想」だし、
別の意味では「実相」なわけです。 しかし、「仮相の究極の相は実相である」 のように、
「仮現」の意味を入れずに言ってしまうと、仮相と実相を分けてる意味が無視され、論理的にもおかしく
なってしまう危険性があります(※ほかの事柄との関係において)。

★「諸法実相」という表現について

すべてを空と観じ切ったところに涅槃があるのだろうけど、「空即涅槃」「諸法実相これ涅槃」 と表現して
しまうと、「諸法・法界」の意味の変化にもつながり、そうなると「諸法無我」の解釈にも影響がでる。
そしてこの「諸法実相」が、大乗仏教全般の根本思想に一応なってるわけ(※解釈はいろいろだが)。
まぁ実際の仏教諸派では、「現世(物質世界)が実相そのもの」という解釈にはもちろんなってないけど。

※「 Wikipedia(諸法実相)」

仏教諸派では、「諸法の実相は、~である」 みたいな使い方してるけど、、これは「❶ 諸法 = 仮相」を

前提とするなら、それはひとつの表現ではあるが前提の意味がかき消されがちになり(※誤解されやすい)、
「❷ 諸法 = 実相ふくめた宗教的本源」を前提とするなら、初期仏教とは「諸法」の意味が異なります。

※参考: 上記「法界の定義の移り変わり~」

初期仏教の定義ではあくまで、「諸法・法界」は意識の対象となる部分であり、つまり、

「諸法 = 仮相(実相の仮現)」なので、どちらにしても「諸法実相」という言葉は混乱を招きやすい、

ということは指摘しておきます。 大乗仏教全般では、❷の意味になってるぽいのかな。
❷は、それ自体が理論的におかしいとかではないけど、「諸法・法界」の定義が変化してるってこと。

例えば、映画の映像である分離の物質世界(=仮相)は、分離のないスクリーン(=実相)を基盤として、
心(意識)において仮現する幻想であり、つまり、知覚の対象になるものと空間自体は幻想である。

~ インド密教、真言密教 ~

★大乗仏教最終期、6~7世紀頃を中心にして興ったインド密教では、むしろ現世肯定の色が強くなった。

大乗仏教が、当時ライバルだったヒンドゥー教に対抗するために、同じようにバラモン教の神秘主義的要素
(真言・加持祈祷・etc.)や 瑜伽行(ヨーガ)の要素などを取り込んで、密教が形成されていった。

※近代のインドの覚者らは、ヒンドゥー教に所属してる人もけっこういる(まぁ全人口の8割なので)。

これに関しては、現世否定精神というのは解脱するための方便というか、アプローチの一つなわけだけど、
「この世は幻想」「自我(行為主体)は幻想」 の2点は精神ではなく 事実・構造 であり、仏教の根本部分。
(※アドヴァイタ哲学、近代の覚者らも同様) その事実を踏まえた上で現世も肯定的に楽しもう、という
精神は個人的に好感がもてるが、探求者にとっては、現世否定というか少なくとも無執着の姿勢は必要かと。
(※表面的・一時的な幸福にあまり執着しないという)

ちなみに釈迦にとっては? メインの自己は釈迦(心体)ではなく、現世自体が真我(ハイリアリティ)の仮現であり、真我(如来)においては、すべての苦と生死を超越(解決)してる。

★真言密教(空海)は教典の中で、無執着を説くと同時に、現世をあるていど肯定的に捉えることを説く。

概して言うならば、密教の体系は「バクティ(帰依)」、顕教の体系は「ジニャーナ」、であると言える。
※《バクティ》参考: 前記「真我探求のリアリティ」、「覚者たち(別ページ)」≫「ラマナ・マハルシ」

あるいは、前記「覚者たちの言葉(ルパート・スパイラ解説)」で言うなら、密教は③、顕教は②である。

空海は、教典のなかで 顕教・他派 の「現世否定精神」になん度か言及してるけど、密教系全般では概して、
「『現世』と『実相』を明確には区別しない理論体系」を構築している(※両界曼荼羅にも表現される?)。
より正確に言えば、区別はしてるけど区別のなかの同一(=根本仏の現れ)を強調してる、ということ。
個人的には、「現世否定精神」よりも「構造部分」の表現の問題について論じてほしいところ。
つまり、「時間・空間を超えた実相」とそれの仮現である「現世」の関係をどう表現するか、という問題。

ものすごく簡潔に言えば、密教:「現世は『実相の』仮現である」、顕教:「現世は実相の『仮現』である」

というかんじに『強調点』が異なる、と言えると思う(※観点が対照的)。
近代の覚者らは、この2つの観点を混ぜて教える人もけっこういる(※ニサルガダッタ、ラメッシなど)。

密教では「三密瑜伽」、つまり「身・口・意」の三密加持により肉体と仏とがとけ合う即身成仏を説くが、

瑜伽行(ヨーガ)の考え方が取り入れられていて、調和・統合(=瑜伽)を重視している。

近代の覚者でも意識に関して、仮相(顕現した意識)と実相(非顕現の休息してる意識)をあまり区別せず
に教える人もいる(※ラメッシ、ラマナなど)。 表現やアプローチは、いろいろあります。
真言(マントラ)は、タイミング・当人の心・継続期間にもよるが、大きな力を秘めてると言われている。

「吽字義」には、つぎの一節がある。
「また、ある人、有為の非眞を厭い、無為の離妄をよろこびて、言語の道を廃詮の門に絶し、
心行の処を寂滅の律に滅すれども、この三密の本法において何ぞかつて絶滅せん。」

この「絶滅しない実相」に目覚めるためのアプローチと表現が、顕教と密教ではけっこう異なるということ。

※根本は同じ) もちろん顕教でも絶滅しません(※まぁこれは当時の誤解してた他派のことかと)。

現世を肯定的に捉えて我欲を滅し、「三密瑜伽」あるいは「根本仏である大日如来」に心身を捧げよ、
というのが真言密教の教えの基本であり、つまり「バクティ(帰依)」の要素がつよい教義体系といえる。

[参考] by ラメッシ・バルセカール 《「誰がかまうもんか」P63 》
現象は現実であり、同時に非現実なのです。 観察される程度において現実であり、意識以外にそれ自身の

独立した存在がないという点にもとづけば、非現実であるのです。
それ自身の独立した存在がある唯一のものは現実で、現実とは意識のことなのです。

意識が唯一の現実です。 それ以外は、現実それ自身の内部の映像にすぎません。

※これ(↑)が、瑜伽(ヨーガ)の理論(≒唯識無境)と実質的に近似する表現。

つまり、ジャイナ教の教祖が言うように(※別ページ)、「真理は『観点』しだいで多様に言い表せる」と。


★「もし君たちが外に向って求めまわる心を断ち切ることができたなら、そのまま祖仏と同じである。
君たち、その祖仏に会いたいと思うか? 今わしの面前でこの説法を聴いている君こそがそれだ。」 by 臨済

◆補足

人間の自己存在感覚の中核部分はアートマン(霊魂・真我)のもので、認識力の主体もアートマンなわけ。
それが幻想側の「私は在る(存在性の原理)」をとおして、「自我のシステム」と「肉体(心)」に
一体化(自己同化)して、人間にとっての自己存在感覚(=私)を形成してる。
これらの同化作用により、人間としての存在感覚は本来の実在側のものとはまったく異なってくるが、その
中核アイデンティティが同じ だから、解脱者が真我を「これこそが自己だった(笑)」と感じるのである。
「私は在る」はアートマンの分岐元の「至高の実在」から一時的に現われ(幻想?)、その中に意識と世界が仮現する。 アートマンの本質は観照者だが、催眠により幻想内の仮の自己に一体化する。そして本当は、
アートマンや人間の自己は行為主体ではなく、行為は仮想縁起プログラムによって為される。(★サーンキヤ哲学)

しかし当時のインド社会では、「現世に生きる人間としての自己がアートマンであり、行為主体でもある」
という誤解と、歪んだカルマ論・永遠の輪廻転生論 が浸透してて、社会制度などにも悪影響を及ぼしてた。
この状況への対処法は、「アートマン(自己)や自我は行為主体ではない」 とか
「現れた心の幻想世界にアートマン(自己)は存在せず、自我の催眠を解除すれば輪廻から解脱できる」
などの真実を述べることだが、釈迦は主に後者を選んだ(※実質的には前者をふくむが直接的ではない)。
そして釈迦の心体を動かしてたのは釈迦ではないから(本人もその感覚)、その判断は、仮想縁起プログラム
によってそのように運命づけられてた、ということ。 そして、

解脱者はいつの時代にもいたわけだが、彼らが「個人は行為主体ではない」とはっきりと表明し出したのは「主に昨今」なのは明らかであり、これも時代の要請(=運命付け)ということかと。(変動期くる予感)

なお、仏教では、『 法界(=現れた心の世界)には、一切において自性(≒行為主体)が存在せず、
すべて「縁起」「一切皆空」、つまり「諸法無我」』 と表現していて、専門的にはとうぜん、

「究極的見地では、行為主体は存在しない」 という解釈が正統である。 また、釈迦仏教の解釈として、
「輪廻転生間の自己存在感覚に関連性(繋がり)はない」 という説があるが、これはまったくの誤解かと。

スッタニパータやほか諸原始仏典では、「輪廻からの解脱」の重要性が、繰り返し強調して説かれてます。

※参考:「覚者たち(別ページ)」≫ 「★仏教関連」(「自己の存在性」についても掲載)

◆原始仏典から抜粋

最古経典のスッタニパータでは、「アートマン」の存在を当然のように扱う箇所がいくつかある(↓)。

ちなみに、岩波文庫のスッタニパータだと、この部分の訳はアートマンでなく「みずから・自分」

★《「スッタニパータ・釈尊のことば(講談社学術文庫)」より》

自己自身の精神のアートマン は一定不動なるままにして織機の梭のように真っ直ぐに直進し、悪業の習慣性にひっかからないようにコースを守り、個々別々なる身体存在と 平等一如なる精神存在 とのつながりを
如実なるままに思惟している。 そのようなひともまた沈黙の聖者であると、(※後略)(P71)

「自己自身の精神のアートマン = 霊魂」「平等一如なる精神存在 = 至高の実在」 のような意味かと。

いかなるところにおいても世間的存在は根底的にうつろい実質がない。 どこかにわたくしの
自己自身の精神のアートマン がいこい安らう 安住処 がないものかと、(※後略)(P253)

最古層経典のウダーナヴァルガでは、「行為主体」が幻想であることを、確実に示す箇所がある(↓)。

釈迦特有の表現「身に刺さった矢」がでてくるので、間違いなく釈迦の言葉だろう。

★《「ブッダの真理のことば、感興のことば(岩波文庫)」P246(第27章 7~8節)より》

人々は自我観念にたより、また他人という観念にとらわれている。このことわりを、或る人々は知らない。
実にかれらはそれを、身に刺さった矢 であるとは見なさない。 ところがこれを、人々が執著し
こだわっている矢であるとあらかじめ見た人は、「われが為す」という観念に害されることもないし、
「他人が為す」という観念に害されることもないであろう。

※釈迦が言う「身に刺さった矢」は、「深層の根本的生存欲(≒自我の催眠)」を意味している。
(※参考:「覚者たち(別ページ)」≫「仏教関連(スッタニパータ)」)

つぎの一節(後半)は、前項「真我探求の~」の冒頭に載せた「マハラジ」の言葉と同義(↓)。

ウダーナヴァルガです(同上)。「五蘊非我」がでてくるので、間違いなく釈迦の言葉だろう。

★《「ブッダの真理のことば、感興のことば(岩波文庫)」P288(第32章 33節)より》

この世は熱のような苦しみが生じている。 個体を構成する五つの要素(=五蘊)はアートマンではない、
と考える。 ひとは、「われはこれこれのものである」と考えるそのとおりのものとなる。
それと異なったものになることは、あり得ない。

※ここでも、「アートマン = 私・自己」、みたいなニュアンスで使われてる。 ジニャーナです。

この一節は、「アートマン(自己)」が「人間」に同化した状態が「衆生」であることを明示してる。


◆はてしない議論のネタにもなってきたこの「仏教の霊魂問題」の要点のひとつは、おそらく、
「実在の側は、『存在・非存在、空間』という人間の感覚に基づいた『概念』を超えてる」 ということ
ではないだろうか? つまり存在するといっても、心のシステムが理解できる存在状態ではない、と。
(※参考: 前記「心と深層意識のカラクリ」、「霊魂(アートマン)と 至高の実在(ハイリアリティ)の関係」)
なので、ここではいちおう説明のために、「霊魂」という概念を使用しているが、探求者はあまりそこに
こだわるべきではないだろう(※そこに重要性はない)。

◆なお、ウダーナヴァルガに「我ありという想いをほろぼし・・」という一節があるが、アートマンは
「想い」ではない(※ニュアンスが変化してる可能性もある)。 ラマナ・マハルシの表現だと、
「『私』という想念が立ち現れる源を辿ることで、この想念が消滅し真我実現する」(★別ページ参照)
釈迦は原始仏典のなかで、「不生なるものがある」「不死の境地がある」、と明言している。(★下記)

◆釈迦だけではないが解脱者は自我がないため、「直感」で時代背景や相手の性質・状況に完全に適応
した言動をするので(※個性の違いは当然ある)、必ずしも論理一貫せず、判断・言動の理由が自分でも
分からないこともよくあるぽい。 後世の人が学ぶ場合は、一応そこも考慮する必要があると思われる。


▼すべて原始仏典からの抜粋。 このへんは、まちがいなく釈迦の言葉だろう(※雰囲気)。

~「 無記 」(中部経典63)~

※「中部経典63(毒矢のたとえ)」において釈迦は、「アートマン(霊魂)と肉体は同じものか否か?」

やその他の形而上学的な問いに対し、沈黙の姿勢(=無記)を貫いている(★下サイト)。またこれ以外でも、
釈迦がアートマン自体を否定した形跡はなく(後世の経典や解釈を除く)、その概念を基本的・直接的には使わずに教えてるだけと思われる(※形而上学的な意味においては)。

ここにわたしが(いずれとも)断定して説かなかったことは、
断定して説かなかったこととして了解せよ。
またわたしが断定して説いたことは、断定して説いたこととして了解せよ。
── 何故にわたしはこのことをいずれとも断定して説かなかったのか。
何となれば、このことは目的にかなわず、心の平安、すぐれた英知、正しい覚り、
安らぎ(ニルヴァーナ)のためにならないからである。

しからば、わたしは何を断定して説いたのであるか。

①「これは苦しみである。」
②「これは苦しみの起こる原因である。」
③「これは苦しみの消滅である。」
④「これは苦しみの消滅に至る道である。」

ということを、わたしは断定して説いたのである。
これは目的にかない、心の平安、すぐれた英知、正しい覚り、安らぎのためになるものである。

<抜粋> ブッダが、無記(Avyākata)の態度をとったのは、渇愛を滅した阿羅漢の死後について。 渇愛の
ある衆生は、死後輪廻することが明言されている。ということが相応部経典無記相応から読み取れます。


~「 有・無 と中道 」(相応部経典、サンユッタ・ニカーヤ)~

※比較参照: 前記「人間存在の真実」≫「★ニサルガダッタ語録」

カッチャーヤナよ、

この世間の人々は、多くは二つの立場に依拠している。
それはすなわち、有と無とである。
もし人が正しい智慧をもって、世間の現れ出ることを如実に観ずるならば、
世間において無はありえない。
また人が正しい智慧をもって、世間の消滅を如実に観ずるならば、
世間において有はありえない。

カッチャーヤナよ、

「あらゆるものが有る」というならば、これは一つの極端の説である。
「あらゆるものが無い」というならば、これも第二の極端の説である。

人格を完成した人はこの両極端の説に近づかないで、中(道)によって法をとくのである。

※世界体験が起こってること自体は現実だけど、体験(意識)の内容物はリアルに見えても「幻想」、
という解釈でいいと思います。 この「中道」は、「行為主体」の存在についても同様に言えるだろう。


~「 出離 」(小部経典、ウダーナヴァルガ)~

※「ブッダの真理のことば、感興のことば(岩波文庫)」P243~244

★(1)苦しみと(2)苦しみの原因と(3)苦しみの止滅と(4)それに至る道とをさとった人は、

一切の悪から離脱する。 それが苦しみの終滅であると説かれる。

★何ものかに依ることが無ければ、動揺することが無い。そこには身心の軽やかな柔軟性がある。
行くこともなく、没することもない。それが苦しみの終滅であると説かれる。

★不生なるものが有る からこそ、生じたものからの出離 をつねに語るべきであろう。

作られざるもの(=無為)を観じるならば、作られたもの(=有為)から解脱する。

「有為(=仮相、つくられたもの、縁起したもの)」「無為(=実相、つくられざるもの、非縁起)」

この2つを明確に分けて説いている。

★生じたもの、有ったもの、起ったもの、作られたもの、形成されたもの、常住ならざるもの、
老いと死との集積、虚妄なるもので壊れるもの、食物の原因から生じたもの、それは喜ぶに足りない。

★それからの出離であって、思考の及ばない静かな境地は、苦しみのことがらの止滅であり、

つくるはたらきの静まった安楽である。 ※「つくるはたらき = 阿頼耶識の形成作用」

★そこには、すでに有ったものが存在せず、虚空も無く、識別作用も無く、太陽も存在せず、
月も存在しないところのその境地を、わたくしはよく知っている。
★来ることも無く、行くことも無く、生ずることも無く、没することも無い。
住してとどまることも無く、依拠することも無い。── それが苦しみの終滅であると説かれる。
★水も無く、地も無く、火も風も侵入しないところ、そこには白い光も輝かず、暗黒も存在しない。
★そこでは月も照らさず、太陽も輝かない。聖者はその境地についての自己の沈黙をみずから
知るがままに、かたちからも、かたち無きものからも、一切の苦しみから全く解脱する。

★さとりの究極に達し、恐れること無く、疑いが無く、後悔のわずらいの無い人は
生存の矢を断ち切った人である。これがかれの最後の身体である。

★これは最上の究極であり、無上の静けさの境地である。一切の相が滅びてなくなり、没することなき
解脱の境地である。


~「 解脱者のゆくえ(ヴァッチャの問い)」(中部経典72)~

★=釈迦 ☆=ヴァッチャ

☆『 友ゴータマよ、このようにこころが解脱した比丘はどこに再生しますか? 』 と問われて、あなたは
『 再生するというのは適切ではない 』 といいます。

『 友ゴータマよ、では再生しないのですか? 』 と問われて、あなたは

『 再生しないというのは適切ではない 』 といいます。

『 友ゴータマよ、では再生しつつ、しかも再生しないのですか? 』 と問われて、あなたは

『 再生しつつ、しかも再生しないというのは適切ではない 』 といいます。

『 友ゴータマよ、では再生するのでもなく、再生しないのでもないのですか? 』 と問われて、あなたは

『 再生するのでもなく、再生しないのでもないというのは適切ではない 』 といいます。

友ゴータマよ、ここに至って私は分からなくなりました。 迷ってしまいます。
友ゴータマとの先の対話で得た信頼は、いまや消えてしまいました。

★ヴァッチャよ、あなたは分からなくなるに違いない。迷うに違いない。
ヴァッチャよ、この教えは意味が深く、洞察しがたく、さとりがたく、寂静で優れており、思慮を超え、
微妙であり、賢明な人によって知られるものである。

★ヴァッチャよ、ここであなたに私は訪ねよう。 あなたは思う通りに答えなさい。
ヴァッチャよ、あなたはこれをどのように考えるか。

もし あなたの前で 火が燃えておれば、あなたは『 私の前で火が燃えている 』と知るであろう?
☆友ゴータマよ、もし私の前で火が燃えておれば、『 私の前で火が燃えている 』と知るでしょう。

★ではヴァッチャよ、もしあなたに『 あなたの前で燃えているその火は何に縁って燃えているか 』
と尋ねたら、このように尋ねられたあなたはどのように答えるのか?

☆友ゴータマよ、もし私が『 あなたの前で燃えているその火は何に縁って燃えているか 』
と尋ねられたら、友ゴータマよ、このように尋ねられた私は答えるでしょう、
『 私の前で燃えているこの火は、草や薪を取り込むことに縁って燃えている 』と。

★ヴァッチャよ、もしあなたの前のその火が消えたら、あなたは
『 私の前のこの火は消えた 』と知るであろう?

☆友ゴータマよ、もし私の前のその火が消えたら、『 私の前のこの火は消えた 』と知るでしょう。

★ではヴァッチャよ、もしあなたに『 あなたの前のその火は消えた。
その火はここからどの方向へ行ったのか。 東か西か北か南か 』と尋ねたら、
このように尋ねられたあなたはどのように答えるのか?

☆友ゴータマよ、それは問いが適切ではありません。友ゴータマよ、その火は草や薪を取り込むこと
に縁って燃えていました。 それが尽き、他に供給されず、燃えるものがなくなって、
それは消えたのです。

★ヴァッチャよ、それと同じように、物質・感受・想・形成力・意識 として如来を認知する者は、
如来にはその 物質・感受・想・形成力・意識 は捨てられており、根を断たれたターラ樹の幹のように

消滅し、未来に再び生じないものであることを認知するであろう。(※どうみても、「如来 = 真我」)

如来は 物質・感受・想・形成力・意識 という呼び名から解き放たれており、大海のように深く、

無量であり、底が知られない。 それゆえ、

再生するというのは適切ではなく、再生しないというのは適切ではなく、再生しつつしかも再生しない
というのは適切ではなく、再生するのでもなく再生しないのでもないというのは適切ではない。


◆「 仏教といえば『無我』『空』。 死んだら『無』。霊魂はない。輪廻はない。わからない。
あるかもしれない。たぶんある。絶対ある。興味ない。」

ここ日本では宗教的なことは自由なので(よい国ですね)、人それぞれいろいろな考えがあると思う。

「空」は初期仏教では「この世の幻想性」や「自我の幻想性」の意味で使われたが、後世において
「縁起の空性」や「仮相・実相」を兼ねる解釈もでてきた。(★前記「原始仏教・大乗仏教・密教~」)
前記「心と深層意識のカラクリ」のニサルガダッタ語録にあるように、マインドのレベルから見たとき、「実相」は「空」として描写されうるけど、その場合の「空」は、この世の幻想性という意味での「空」
とは言葉のニュアンスが異なります。


◆まぁ重要なのは言葉や理屈そのものではなく、この分野の全体像をみて 概要・要点 を理解してから、
実践していくことではある。 しかしこの分野ではどうしても表現が入り乱れ、言葉の定義の問題もあり、
また「自我の催眠」と「概念が通用しない実在」を扱うために、パラドックスとある種の混乱を含んで
いて、概念的に理解する過程において非常に誤解が起こりやすい、という点には注意されたい。
当サイトを作成したのは、この分野のアウトラインを解説することで、興味を持ち始めた段階の探求者が誤解・混乱 を避けることを助けれたらよい、との思いが当初あったことも理由の一つだが、客観的な
立証ができない 個人的な見解 も多くふくみ、また人それぞれの適性があることはご理解ください。

この分野では言葉にできるものはすべてアウトラインであって、核心部分は各人の「私」の内側に入っていくことです(仏教が指し示してるのはそれ)。

★「彼岸に至ろうとする人びとは、不死の境地を尋ねる。 かれらに問われて、すべての休止した、
生存の素因のない境地を、われは説く。」(サンユッタ・ニカーヤ)

★「世の中は泡沫(うたかた)のごとしと見よ。 世の中はかげろうのごとしと見よ。」(ダンマパダ)

★「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。」(スッタニパータ)

◎「ひとびとは因縁があって、完き安らぎ(ニルヴァーナ)に入るのである。」(ウダーナヴァルガ)


いろは歌の解釈について・・終末メシア論(※オカルト)

※オカルトネタです。。

色は匂へど 散りぬるを
我が世誰そ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて
浅き夢見じ 酔ひもせず

香りよく色とりどりに咲く花も、やがて散ってしまう。
この世は誰にとっても無常である。
この有為転変の、現世という深い山を今日越えれば、
もはや儚い夢を見て仮相の世界に酔いしれることはない。

いろは歌、ふつうに読むと上のような仏教的な解釈ができるけど・・

※「有為 ‐ うい」は完全に仏教用語で、「つくられたもの(仮相)」のこと。

現代では最初に挙げたような「七五調の区切り」が一般的だけど、
古文献においては、上画像のような「七行区切り」がよく見られる。そして・・

★「イエス」、「とかなくてしす」=「咎なくて死す(無実の罪でしぬ)」

というように、キリスト教的な暗号が含まれてる、という説が近年では有力なのです。
で、これ公式には作者不明だけど(※色いろな説あり)、空海? じゃないかなぁと(※時代は合う)。
まず、この暗号歌自体が人間技とは思えず神業的だし、空海は唐で景教(キリスト教ネストリウス派)の
洗礼を受けて新約聖書を持ち帰ってて、真言密教もよくみると景教の要素が一部入ってる気がする。
その時代に空海のほかに、このような暗号歌を作る人物が、作れる人物が存在しただろうか?
また仮に作者は空海ではなく、暗号解釈もまちがいでただの偶然だったとしても、本当はこの世の全ては

「意識の戯れ(縁起プログラム による運命づけ)」 であり、ある意味では偶然は存在しないのだ。

しかし、本当は全ての物事の因果関係(表面的 & 因縁生起)は見かけ上のもの、という点に基づくなら、
すべての物事は根本的なレベルにおいて完全な偶然、とも言える(=究極視点、極論)。アハ


なお、真言密教の「弥勒菩薩(梵語:マイトレーヤ)」のルーツは、ミトラ教のメシア概念がインドで
ヴェーダ聖典に取り入れられ、やがて大乗仏教・密教にも取り入れられた。
まぁこれはオカルト系では有名な話だけど、世界中のかなりの宗教、
(キリスト、ユダヤ、イスラム、ヒンドゥー、ゾロアスター、大乗仏教、密教、etc.)
これらは、ミトラ教の終末論・メシア論、ほか一部の教義や概念を取り込んでる、という見方ができる。
とくにキリスト教のメシア論が似ているため、「弥勒菩薩 ≒ イエス・キリスト」 と言われたりもする。

※あくまで、聖書の中で語られる「再臨のイエス・キリスト」という意味です。

なお、ユダヤ教三大宗派の一つだったエッセネ派は、実質的にミトラ教の亜種でグノーシスにも近いが、

イエスとヨハネがこのエッセネ派(クムラン宗団、死海文書の作者説)に所属してた、という説は有力。
エッセネ派の教義:「天上の主・メルキゼデク(マイトレーヤ)が終末期に正義の復権をおこなう」

★仮説、イエス・キリストの真相(2人のイエス)  ★イエス像と弥勒菩薩像(手指のポーズ)


ミトラ教の大元のルーツは、「シュメール文明(BC3500年頃~)・エジプト文明(BC3500年頃~)」などでみられる シリウス信仰(※後者が顕著)にあるとも言われるが、古代オリエントにて形式化されて
いき、BC1800年頃以降は原始ミトラ教?の形になり国教にもなってた。(※太陽信仰 ≒ シリウス信仰)
その後、古代アーリア人(イラン・インド系)に ミスラ神=ミトラ神(契約神・太陽神)の信仰が受け継がれ、1~4世紀にはローマ帝国および西アジア全般にて救済宗教として興隆し、キリスト教に敗れる形で衰退。

サンスクリット語での「マイトレーヤ(弥勒)」の語源は「ミトラ」。
古代インドのヴェーダ聖典(BC1200年~BC1000年頃)にも「契約神ミトラ」として登場。

ミトラ教ルートではないが「大本」や「日月神示」、近年では「ニューエイジ」や「アセンション」なども形は違えど共通の何かが感じられたりもする。 なお、「ニューエイジ思想」 のルーツはいちおう、
西洋占星術 & 神智学協会(ブラヴァツキー)の思想にあるとも言われるが、おそらくその根本には、

「エジプト神秘主義(シリウス関連)↓」 がある(※ブラヴァツキ―はエジプト神秘主義と深い関係)。

そしてこの、エジプト神話の「オシリスとイシスの物語(ホルスとセトの戦い)」こそが、多くの
終末メシア論の 集合意識的(縁起的)なルーツ、という見方もできるのかもしれない(※順序的にも)。

一説には、「イシス = シリウス A」「オシリス = シリウス B」「ホルス = 太陽系地球」 とも。
なお、旧約聖書が「シュメール文明・神話」に直接的なルーツをもつことは、学術的にも明らかである。
★ミトラ教概説 ~ 竹下雅敏 講演動画  ★エジプト神話(オシリスとイシスの物語)

◆「水瓶座の時代(アクエリアンエイジ)」 2020年現在、移行期の真っただなか

★《「シリウス・コネクション ‐ 人類文明の隠された起源(徳間書店、マリー・ホープ著)」》(※推薦オカ本)

神秘主義者や形而上学者は、シリウスこそが地球の進化の鍵を握る天体であり、地球の未来においても
重要な役割を果たすはずだと信じている。 古代エジプトの神官たちは、冒頭で述べた太古の文明から知識を授けられて、シリウスの持つ意味を知りすぎていたがために、彼らの神秘的な儀式のうちに ――。(P15)

闘いにはホルスが勝ったにもかかわらず、古代エジプト人はセトを恐れ続けていた。――(※中略)
我々は現在もこの物語の只中におり、ホルスが戻ってきて地球が太陽に対し元の正常な位置に戻るまで、
その中にい続けるのである。 ―― ホルスの時代には歴史の振り子が混沌から秩序へと戻るだろう。 P124

※「水瓶座の時代 = ホルスの時代」 は通説になってるが(クロウリー ?)、地球では大方 2000年~4000年 が
あてはまり、21世紀初頭は移行期になるとよく言われてる(※計算法によって少し変わり諸説ある)。
クロウリーは黒魔術師キャラだけど、これについては正しい気もする(※行為者不在の幻想ショーです)。
古代エジプトを深く研究した本書の著者も、同じように考えている(※根拠はイマイチわからん)。
まぁクロウリーがニューエイジ思想のルーツなわけではなく、ホルス説と一応関係してるだけだけど。
水瓶座の時代(ホルスの時代?)は「人間が神性を体現していく時代」、と言われている。

※動画:「【占星術】本格的に水瓶座の時代に突入する2020年」

なお、エジプト神話の「神名(神格)」は基本的に、創造における「機能的原理(宇宙的・生命的諸力)」

を表わしていている。 ※参考:「★古代エジプト神秘思想(別ページ)」

そして映画を見終わった観客のように、我々はいつかこの暗い囲いを出て、魂の故郷へと帰って行く ――。
(※中略) 物質レベルでの体験はあまりにも現実的なものに感じられるかもしれない。 しかしそれは、
古代アトランティス語でいう、「ウン・ウ・スタ・リ・スタ」すなわち、一連の夢にすぎないのだ!(P327巻末)


これを本質的に見るならば、ミトラ教うんぬんというよりも、少なくとも3000年以上前から似たような
終末論・メシア論を繰り返し人間社会に刷り込んでくるこの現象を作り出すための、特定のプログラムが集合意識(根源意識)に存在してるということ。 そして明らかに、霊界も密接に関わっている。

つまり、人類の運命に関連する壮大な脚本プログラムが根源意識にあって、霊界や人間界の存在たちは、
根源意識の「遊び心・混乱」などの要素とともに動かされてるのだろうと思われる。
だから世に出てる終末予言なんかも、部分的に当たったり外れたりだろうね(大元が アレ なので・・)。
そして究極的視点では、根源意識もふくめこの世のすべては「ハイリアリティ」の仮現であり、
物事は時間・空間の幻想の中で一時的にそのように現れるだけなので、そこに個別の原因や意味はない。
(※縁起プログラム は見かけ上の原因) このサイトを書き始めたきっかけも、私の意志ではない。

そしてある時期に現れた問題は、時間の中で必ず解決が与えられ、しばらくしたら別の新たな問題が
作り出されるようになってる。 公式での最古文明である 謎にみちたシュメール、エジプトの時代 あたり
から、おそらく人類がずっと抱えてきたこの問題の、原理主義の政治関与ネタや多くのカルト宗教ネタ
にもなってきた終末メシア論の、裏に隠されたほんとうのテーマは、「人間存在の真実について」そして

「自我からの救済」または「現行DNAシステムからの救済」ではなかっただろうか?(※妄想!)
あるいは、「DNAはそのままで深層意識の構造の変更」というのも十分あり得るだろう。(※妄想)

もちろん本当の意味での救済とは、私たちの本質から発生した「個人、人類、世界」という神秘的な幻想
から、私たちを救済することである(=謎のおトボケどっきり救済ゲーム)。

★by ニサルガダッタ・マハラジ 《「I AM THAT 私は在る」より》

宇宙は行為であふれている。だが、そこに行為する者はいないのだ。 そこには自己同一化によって、
行為していると想像している無数の小さな、そして大きな、そしてとても大きな個人たちがいる。
だが、それが行為の世界(マハーダーカーシュ)はすべてに依存し、すべてに影響する単一の統一体だという事実を

変えることはない。 星たちは私たちに深く影響を与え、私たちも星たちに影響を与える。(P418)


キリスト教は詳しくないけど、イエスの処刑と復活の話ってのは、「自我の死」と「真我への目覚め」の
比喩じゃないのか? と私は昔から思っている。 聖書読むと何というか、改ざんや捏造も少しは含まれるだろうけど、意味深なメタファーや人類へのメッセージ? みたいな箇所もけっこうある。

つまりその話は、「『自我』がしぬ(=催眠がとける)ことが、『真我』に目覚めるということですよ 」
みたいな メタファー(隠喩)を含んでるのではないか、と。

※関連:「グノーシス主義(別ページ)」≫「★トマスによる福音書」
そして、社会的には通用しないがこのサイトで繰りかえし書いてるように、ほんとうはこの世に行為者はいないので、究極視点では「自我」は実在しないし罪もないわけです。(★解脱=無罪放免)
だから、イエスが無実の罪で処刑って話と ピッタリ 合うんだよねぇ・・(※実話かどうかは置いといて)
私が人生経験から理解したのは、縁起のシステムはどうも メタファー と ジョーク が大好きらしい、ということ。

★人生ってのは 言わば、服役中に再審請求(=真我探求)できる ゲーム なわけ。 無罪を勝ち取れば クリア。

「キリストの再臨」とか、それ以外でもミトラ教類似の 終末論・メシア論 というのは、あるいは、
外面的な意味と内面的な意味(=隠喩)の2つを掛けてるんじゃないか、と思ったりもする。
外面的というのは、実際にメシア的な存在があらわれて、何らかの状況にある人類を助けること。
しかしその場合でも、世に出てるどの終末論もかんぜんには当たらない気がする。
内面的というのは、人々の内側(深層)からくる救済のことで、真我実現か、深層意識の構造変更による「類似唯識無境」。 あるいは内面的だけ、つまりかんぜんにメタファーである可能性も考えられる。

これは「グノーシス主義(別ページ)」とも関係するけど、、旧約聖書の神「ヤハウェ」という存在は、
世界創造原理「私は在る」を比喩的にあらわしてると思う。(※すべては仮想縁起プログラムによる幻想ショー)

だから神ヤハウェがモーセに、「わたしは『私は在る』という者だ(I am that I am)」 と言ってる。

そして、「私は在る」は非顕現の私たちの本質から一時的に各自に現れて、仮想世界体験が起こってくる。
だから、「私が在る(仮想システムの根本原理)」が顕現においては最高神のようなもので、これは根本的
に 無知・愚かさ をふくむけど、非顕現(≒至高神)の理法のような プログラム もたしかに組み込まれている。
この原理は人類を苦しめることもあるし、非常によい状態に導くこともある(※神的な力をもつ)。

そして、「キリスト教」は旧約聖書(旧約の神)と大きく関係してるけど、内容的にみて非顕現側の
「間接的な」作用のようなものを感じるわけ(※よい意味)。 というか、内容的にはそうなってるよね。
一般的にも、「旧約の神からの契約更新」みたいな話でしょ?


この手の終末論・メシア論はもちろん陰謀論の視点でも見れるけど、私はつぎのように考える。
陰謀は霊界も含めあるかもしれないが、しかし、本当はこの世にもあの世にも行為者はいないのだから、
それも運命に定められた ドラマチック に演出するための駒にすぎず、すべては然るべきところに収束する。
この仮想システムは人間にとって根本的な意味で「不条理」さもあるけど、同時に「魅力的」でもある。
そして根源意識に 「秩序」「遊び心」「混乱」 のような要素があり、「ハイリアリティ(真我)」の
副次的要素(=サットヴァ)が、つねに全顕現の裏側から顕現全体に作用している。ただ、個人の視点で
局所的に一時的に見た場合には、それが強く現れるときや、弱く現れるときや、まったく現れないときが
あるように感じられるのではないだろうか? この仮想システムが暗に仄めかしてることは、どうみても「分離は幻想、すべては幻想、自我の存在は認めたくない(キャハ)」ということだろう。 そして、、

このサイト含めすべての現れは、ほんとうには存在しない宇宙意識界による、壮大なるボケにすぎない。
そのため私たちが受ける人生の最終の目的は、真実の自己知識(解脱)をもって、その壮大すぎるボケ
(人生自体も含む)にツッコミを入れることにある、と言えるだろう。(※観照者視点)
そしてその背後で私たち(真我)が、ボケとツッコミは双方とも自分自身の仮現であることを
ハイリアリティの真の現実のなかで見届けることで、、あるいは私たち(真我)が自分自身にツッコミを
入れることで、この リーラ(神性劇)は 閉幕・完結 となるはず。(※実在視点)
実在視点では「ボケ・ツッコミ」の二元性は成立せず、概念や論理も通用しないのだ。(by 覚者たち)

ちなみに、上にあげた根源プログラム の3要素 「秩序」「遊び心」「混乱」 は、サンキャ哲学における
3つのグナ 「サットヴァ(純質)」「ラジャス(激質)」「タマス(暗質)」 と雰囲気的に
同じような感じ、と考えればわかりやすいと思う。。

※ニサルガダッタの説明だと、「意識 = サットヴァ」。


そして、空海は唐で景教徒とかなり親交があったらしいので、キリスト教の秘密(裏話)のようなものを知ってた可能性もある。 あるいは、神通力で人類の運命を見抜いてた可能性もある。
それで、仏教的な内容にキリスト教的な暗号入れてイロハ歌を作ったんじゃないかと(※憶測)。
空海といえば超人的な能力と法力(神通力)で、最期の遺言も「弥勒菩薩と共に下生する」とかでしょ。
なんかこのイロハ歌が引っかかったもので。 憶測と妄想だらけのオカルトネタですけど。(笑)


<他サイト>
★弘法大師が「いろは歌」の作者か ★暗号文としての「いろは歌」 ★シュメールと日本の関連性
★(動画)地球最古の文明は人類が作ったものではない?アフリカで発見された20万年前の超古代文明!

ある点では、有る(存在する)。(=極論、幻想視点)
ある点では、無い(存在しない)。(=極論、実在視点)
ある点では、有り、また無い。 または、幻想として有る。(=中道、中間視点)
視点をいっさい定めない場合、表現できない。(=論外)

※参考: 前記「釈迦いわく(有・無 と中道)」、別ページ「パラダイムシフト」

※これは、「この世の存在」「自我(行為主体)の存在」 の両方に当てはまる。 極論は弊害 アリ。

あらゆる悪行や善行を超えた彼方に
緑の野原がある
そこであなたに会おう
魂がその草のなかで横になると
世界はあまりにも豊かで 言葉にできなくなる

by ルーミー

「不思議の国のアリス」巻頭詩(冒頭部のみ)

All in the golden afternoon
Full leisurely we glide;
For both our oars, with little skill,
By little arms are plied,
While little hands make vain pretence
Our wanderings to guide

ものすべて 金の光の昼下がり
我ら舟こぐ ゆたゆたと
二人の漕ぎ手は つたなくて
か弱い腕で オールこぐ
小さな両手で でたらめに
我らの遊びを 案内する

「鏡の国のアリス」≫ 夢を見たのはどっち?(アリス or 赤の王)

鏡の国のアリス(全訳、翻訳専門サイト)
≫ 第12章 どっちが夢を?
アリスの夢か? 赤の王の夢か?(他サイト)
<抜粋> ①アリスの現実世界からすれば夢を見ていたのはアリスである。アリスの現実世界には赤の王が
いないから夢見ていたのが赤の王であることはない。 ②しかし鏡の国の現実からすると夢見ていたのは
赤の王であってアリスではない。(寝ていて夢見ているのは赤の王でアリスは起きている。)

<たとえば>

「赤の王」=「私は在る(≒ 意識 ≒ 阿頼耶識 ≒ プラクリティ)」=「アリスの夢の創造原理」。
「赤の王」は夢自体と夢の中の世界創造に関与しているが、ほんとうの意味で夢を見てたのは「アリス」。
あるいは、「赤の王 + 赤の女王(現実世界では子ネコ)」=「私は在る(世界創造原理)」。

※関連サイト: 映画「マトリックス」に登場する「アリス」ネタ

「鏡の国のアリス」巻末詩(岩波少年文庫、[訳]脇 明子)

A boat beneath a sunny sky,
Lingering onward dreamily
In an evening of July--


Children three that nestle near,
Eager eye and willing ear,
Pleased a simple tale to hear--


Long has paled that sunny sky:
Echoes fade and memories die.
Autumn frosts have slain July.


Still she haunts me, phantomwise,
Alice moving under skies
Never seen by waking eyes.


Children yet, the tale to hear,
Eager eye and willing ear,
Lovingly shall nestle near.


In a Wonderland they lie,
Dreaming as the days go by,
Dreaming as the summers die:


Ever drifting down the stream--
Lingering in the golden gleam--
Life, what is it but a dream?

くれやらぬ 七月の宵
はれわたる 空をあおいで
ゆらゆらと 船はたゆたう


三人の 小さき娘
お話に 耳をそばだて
キラキラと 目をかがやかす


その空も とうに色あせ
思い出の こだまも消えて
秋の霜 夏を枯らしぬ


現し身の アリスの姿
いまははや 見るよしもなく
幻の 訪れるのみ


さはいえど 丸き目をして
お話に 耳そばだてる
幼き子 なおもあるらん


不思議なる 国をさまよい
長き日を 夢見て暮らす
つかのまの 夏果てるまで


金色の 夕映えのなか
どこまでも たゆたいゆかん
人の世は 夢にあらずや?  

◎ 仮想意識とその中に現れる世界は、ハイリアリティの仮現。 「 神性劇リーラ これにて閉幕 ♪ 」

◎「堪え忍ぶこと」よりもすぐれた善き利は存在しない。 柳に雪折れなし。

◎ 夢の中身にほんとうの価値は何もない。 すべては空っぽ、風の前の塵に同じ。

◎「世間は虚仮にして ただ仏のみこれ真なり」 by 聖徳太子

◎「人間において偉大な点は、かれがひとつの橋であって、目的ではないことだ。」 by ニーチェ

◎ 成仏とはただ、錯覚・幻想 が取り除かれること。

人間の心の深層に汚れと執着があるために、私たちは一時的に自己を正しく自覚できてないだけ。


★Just A Dream: Nelly
★Catch Fire(Lyrics): Jenix [Nightcore]
★Flemington: Tom Day                        ご通読、ありがとうございました。 成仏祈願!