十牛禅図(無相の自己)、唯識関連(根本的錯誤、至高の理法)

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「二元(物質)パラダイム」 ➡ 「非二元(霊性)パラダイム」―― 移行の時代 ――

<見出し>
◎ 十牛禅図 ~無相の自己~
◎ 唯識関連(阿頼耶識縁起、唯識無境、ほか)

十牛禅図 ~無相の自己~

十牛禅図・十牛図(じゅうぎゅうず)は、悟りに至るプロセスを10段階に分けて図と詩で表したもので、
禅の入門書とされてきた。 原作者は、中国北宋時代の臨済宗楊岐派の禅僧・廓庵(かくあん)。
「真の自己」が牛の姿で表され、、真の自己を求める「仮の自己」は牧人の姿で表されている。

各図の解説文は、元の詩は難解なので、一般的に出回っているものを参考に書いてますが、
牛が「霊魂(アートマン)」で、第八図で「梵我一如(完全解脱)」、という解釈でいいと思います。

これは実際的(比喩的)には、、最初から最後まで、丸い覗き穴の手前から絵をみてるのが「真我」で、
絵のなかの「仮の自己(人間)」に自己同化して成りきっている状態、ともいえよう。
覗き穴が「私は在る(世界仮現原理・意識の原理)」で、、穴の向こうが「仮想世界(意識)」。

※「梵我一如」については、TOPページ「人間存在の真実」 に該当項目 アリ。

◆第一図「 尋牛(じんぎゅう)」

ある日、飼っている 一頭の牛が牛小屋から逃げ出したことに気づいた牧人は、
牛を探すために山や川に捜索に出かけます。
彼はただ一人で、「★自己究明の旅」に出かけたのです。
禅においては、俗世間を離れ、修行の道に入ることを表しています。

◆第二図「 見跡(けんせき)」

牛は見つからないと諦めかけたとき、牧人はふと牛の足跡らしきものを
発見しました。彼は喜び勇んでその足跡をたどっていきます。牛の足跡は、
ほんとうの自分はどこにいるのかが表れかけていることを示しています。

◆第三図「 見牛(けんぎゅう)」

牧人はとうとう牛の後ろ姿を発見しました。 牛は前方の岩の向こうに
尻尾を出して隠れています。牛が驚いて逃げ出さないように、牧人は足を
しのばせて牛に近づいていきます。 禅においては、「見性」の初期段階で、
自己究明の旅ににおける直感的な智慧がここで生じ始めます。

◆第四図「 得牛(とくぎゅう)」

牧人は持ってきた網でついに牛を捕らえました。ふたたび逃げ出そうと暴れる
牛との格闘が始まります。 禅においては、心の汚れや迷いを取り除くための
修行の過程を示しています。

◆第五図「 牧牛(ぼくぎゅう)」

牧人は暴れる牛を綱と鞭で手なずけていきます。牛はとうとう牧人の根気に
負けておとなしくなりました。 しかし、牛に綱を付けたままなのは、
「まだ気は抜けない」ということを表しています。

◆第六図「 騎牛帰家(きぎゅうきか)」

牧人はおとなしくなった牛に乗り、楽しそうに横笛を吹きながら家路に
つきます。 真の自己と一つになることができたのです。
真の自己は、落ち着きはらっています。

◆第七図「 忘牛存人(ぼうぎゅうそんにん)」

牧人はとうとう自分の家に帰り着きました。牛を小屋に入れてほっとした牧人
は、静寂の中、庭でくつろいでいます。 牛が消えたことは、最後に残された
煩悩やエゴがなくなるという境地を表しています。 牧人は、生死解決を
ほとんど成し遂げたのです。

◆第八図「 人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう)」

牧人が突然いなくなりました。あるのはただ空白だけです。
牧人になにが起こったのでしょうか。
禅においては、心身脱落、つまり「解脱」を表しています(=無相の自己)。

※もちろん、「無相の自己」は表現であり、「実相の自己」と同じこと。

★「今、実存するものが消えるとき、今、不在のものが現れるのだ。
それくらい単純である。」 「―― もしあなたが実際の立場を見さえすれば、
何という冗談かがわかることだろう!
by ニサルガダッタ(P147、P207、指し示したもの)

《「サンユッタ・ニカーヤ(最古層、相応部経典)」より》

カッチャーヤナよ、
この世間の人々は、多くは二つの立場に依拠している。
それはすなわち、有と無とである。
もし人が正しい智慧をもって、「世間の現れ出ること」を如実に観ずるならば、
世間において無はありえない。
また人が正しい智慧をもって、「世間の消滅」を如実に観ずるならば、
世間において有はありえない。
カッチャーヤナよ、
「あらゆるものが有る」というならば、これは一つの極端の説である。
「あらゆるものが無い」というならば、これは第二の極端の説である。
人格を完成した人はこの両極端をさけて、中(道)によって法をとくのである。

◆第九図「 返本還源(へんぽんかんげん)」

空の世界に自然が戻ってきました。牧人に根本的な変革が起こり、自然のよう
にすべてを平等視して、清浄な心で生きることができるようになりました。
禅においては、解脱の境地に心のシステムが順応し、仮相の世界に適応して
いく段階を表しています。

◆第十図「 入鄽垂手(にってんすいしゅ)」

牧人はふたたび人間の世界に戻りました。 町の中に入った彼は、
笑みを浮かべて何かを子供に与えています。子供は迷える衆生を表しており、
牧人は他者を救う人になったのです。

※参考: ページ下部「★ニサルガダッタ語録」
(私にとって、それらはすべてショーだ。
―― 広大な意識の広がりのなかの、ひとつの真珠の粒~)

※画像出典:「 Wikipedia(十牛図)」


唯識関連(阿頼耶識縁起、唯識無境、ほか) (※唯識以外の概念をまぜてます)

※「唯識・簡易図(八識)」やかんたんな紹介は、、TOPページ「真我探求のリアリティ」≫「★唯識」

※参考動画:「唯識という教え」(臨済宗・慈受院住職による法話)
※参考:「 Wikipedia(唯識)」


◆阿頼耶識(あらやしき)、阿頼耶識縁起(=リーラ)、ほか

「阿頼耶識」は深層意識の最深部であり、表層意識に仮想世界を顕現するためのすべてのデータ(種子)
を蓄えているため、「一切種子識(蔵識)」ともいわれる。 唯識流にいえば、、
すべての事物は、根本の識である 阿頼耶識の転変・識変 により生じる(阿頼耶識が姿を変える)」。

集合意識に属していることは確かだが、「阿頼耶識」は基本的に一人一人に個別、と定義される。
阿頼耶識の本性は善でも悪でもないが、解脱もまた、阿頼耶識の作用によって成立するとされる。

※初期仏教の「十二縁起(十二因縁)」は、「①無明 ②行 ③識 ④名色・・」 ではじまるが、、
「無明 = 根本無知」「行 = ●形成作用(阿頼耶識のはたらき)」「識 = 意識(深層・表層)」
「名色 = 心・体、物質世界」、、のようないみで、唯識の説明とも完全に合致している。

「阿頼耶識縁起」など(★仮現のしくみ) (※「形而上的概念」に関する比喩)

映画でたとえれば、、映像内に「仮設映写機(=阿頼耶識)」があって、ほかの映像を描き出している。

ある意味においては、「スクリーン(=真我、至高の実在)が映写機」ともいえる(★後記、別たとえ)。

阿頼耶識は、世界仮現原理(※というより仮想システム原理)に依存する 全自動プログラム群(+ α)。
なお、「スクリーン = 時間と空間を超えた実相(真我)」「映像 = 時間と空間の仮想世界」 のたとえ。

※「プログラム」=「意識の機能的原理のことで、自然的(知性・自由意志はナイ、力関係が変動的)」。

「一切縁起であり、阿頼耶識にも自性(≒独立性)はなく縁起の一部」、の様にも説明される。(下pdf)

――(※表現)「限定的ないみでは、阿頼耶識の根本的独立性? の中での一切縁起」、ともいえよう。

―― この仮想システムは、「基本的に、仮想行為者を軽視できない」形で展開される。

(基本的に)阿頼耶識が映画の根本であり、すべてである。 それが全自動でデータを組み合わせ、各人の
表層意識に「人生」を上映する。 それは、「予めすべて定められた脚本があるはず」といわれているが、
確実にいえるのは、時間のなかで、すべてが自然的・縁起的に動いている(阿頼耶識にも自性はない)、
仮想世界はすべてが縁起連繋している(影響しあっている)、単一の統一体(とくに人類の集合意識)。
人間の心・体のすべての動きは阿頼耶識が上映してる映像だが、それがカルマとして阿頼耶識に貯蔵され、
未来のどこかで上映されるであろう映像のタネとなるのである。

★「世界はそれ自体からそれ自体を再創造するのだ。

それは一時的なものが一時的なものを生みだしていく果てしない過程だ。」 by ニサルガ(P371、I AM)
★阿頼耶識と依他性との関係について(pdf)

(Ⅱ)阿頼耶識は先に考えたように八識のうちの根本の識であり、三性の関係からみれば

依他性(※因縁生、無自性)の一部分に属する。 (※からあと参照)

このサイクルを、「阿頼耶識縁起」という。(↑)

―― 阿頼耶識が、縁起プログラムにより自然的に現象を投影しているのだが、、その投影に対して

「宇宙の法」の判定が入る、と。 ここが、このシステムが「❶錯誤的かつゲーム的」といわれる主要因。
もう一つ挙げれば、、投影される幻想であるにも拘らず、各人がほんとうに個別・自由意志で行動してる
かのように、❷リアルな設定になっている点(例外アリ)。(※そして自我催眠があるので真実にみえる)

これが、仮想システムの核心部分。(↑)  (★高次~低次まで、一切縁起の観念のセカイ)

―― そして、
「★すべての人は、じつは無意識レベルでは『真我を』さがしている」 といわれる。 つまり、

『真我・絶対的幸福』への憧憬(のようなもの)が根本・深層心理にあって、、

無明・無知によりそれがあるいみ形を変えて、相対的幸福への欲望につながっている、と。(※まぁ定説)

阿頼耶識縁起は、「ある点においては、真我の解脱のために動いている」ってこともそれを裏付けるかも。
(※サーンキヤ参照、TOP)
これは現時点では基本的に賢くないが、膨大な時間の中でみれば「そういう力が働いている」、てこと。
そういう作用はあるだろうけど、、現行パラダイムでは実際には解脱達成者はごく稀、例外的である。

「行為者が存在する、という設定」の神性劇ゆえに、とうぜん社会の中には行為者がいる。(※別ページ)

上映にあたっては集合的カルマの個人分配もけっこうあり、時間の中で貸しが清算される、といわれてる。
この映画では、「全体性の水準」でバランスをとりながら個々の動きが起こっている。
サットヴァ(純質)優勢だと 調和・安定 のちからが強い、と考えられる。
現象化のパターン(運命づけ)には、人間を霊性向上に向かわせようとする力もはたらいている。
あたかも何者かが脚本を書いているかのように、運命的なストーリーを伴って上映されることもよくある。
(※プログラムであって実際は何者もいません、神もプログラムの一部)
仏教ではこの映画自体を「苦」とみなし、上映の停止(=解脱・輪廻卒業)に向かう方法を説く。

人間:「阿頼耶識によって動かされてる」 阿頼耶識:「人間の行動にも依存して動かされてる」

――「人類全般の信念体系」や「高次根源プログラム群(?)」も、阿頼耶識の動作に大きく影響する。

因縁生起は、総体的には真実に近いが、「変動性 ―― 縁起・カルマシステム(全体性で縁起連繋)」。

――「因縁生起はベース的なもの」と考えられる(※時間・縁起の流れ、を考慮するととくに可変的)。

▼ 別のたとえ(★仮現のしくみ)▼

上では「阿頼耶識 = 仮設映写機」としたが、、たとえを変えれば、「阿頼耶識 = フィルム」である。
(※仮想システム原理に依存する全自動プログラムゆえ)  フィルム自体も仮想システム内にあるので、
人間の行動などに依存して、未来の上映ネタが定まっていくようにみえる(=幻想的・神業的フィルム)。
そして スクリーン(=真我)が光を投影して、阿頼耶識(=フィルム)とセットで映写機の働きをする。
「光 = 気づき(真我)」 だが、フィルムを通すことで 意識(世界)として仮現する(★雰囲気の話)。

つまりこれが「阿頼耶識の転変・識変」で、阿頼耶識が仮想世界を投影してるが、その全てが究極的には
実相(真我)の仮現でもあるということ。 夢でたとえれば、夢の中の意識の深層に「阿頼耶識」がある。

※以上、参考:「パラダイムシフト(別ページ)」≫「昨今の世相について(★ニサルガダッタ語録)」

「仮想システム原理(―― or 私は在る)」に依存して、「阿頼耶識、etc.」が存在する、と考えられる。
または、「私は在る」の覗き口が「統覚システム」で、その向こうに仮想世界が現れる、とも表現される。
こういう例えだと空間的にイメージしがちだが、実際には「次元間」で、
「ミクロ次元からマクロ系への、幻想の次元間投影」 と思われ。 ※参考:「★超ひも理論(別ページ)」

「統覚システム、自我の催眠」 については、後記「唯識無境」 の該当項目にて。

まぁこれは例え話だからちょっと アレ だけど、、「スクリーン = 実相(真我)」 にする理由は、
「仮相(映像の世界)」は「実相」を基礎(源泉)として、仮現する、という意味を持たせるためです。

「阿頼耶識」はじっさい映写機的だが、「仮相は実相の仮現」の意味をつよめたのが、「別のたとえ」。

「別例」でスクリーン(真我)が投影する光も真我(気づき)としたが、実相は空間の概念を超えていて、

映像の世界(仮相)は幻想であり、あるいみでスクリーンそのもの、っていうことであくまで比喩的に。

「3次元空間」はあくまで、「仮想次元・仮相属性」。 別例は、「★一人一宇宙」観点でのたとえ。

阿頼耶識がほんとうに幻想世界をつくり出してるのか、それともそれは幻想の中の見かけなのか・・

っていう問いは、TOP最下部「『鏡の国のアリス』夢を見たのはどっち?(仮解釈)」 を思わせるけど、

実相(真我)を基礎とし、「(私は在る+)阿頼耶識」 が幻想世界をつくり出してる、と考えられます。

私が確実に命かけて断言・保証できることは、「個人介入不可能(一切縁起)」。
(※幻想の神に誓って誠実に書いています)

あとユング心理学との整合性もある(※東洋思想の影響も受けたっぽいが、臨床経験が根拠になってる)。

★by ニサルガダッタ・マハラジ 《「I AM THAT 私は在る」より》
宇宙は行為であふれている。 だが、そこに行為する者はいないのだ。 そこには自己同一化によって、
行為していると想像している無数の小さな、そして大きな、そしてとても大きな個人たちがいる。 だが、
それが 行為の世界(マハーダーカーシュ)はすべてに依存し、すべてに影響する「単一の統一体」だという事実を
変えることはない。 星たちは私たちに深く影響を与え、私たちも星たちに影響を与える。(P418)

Ⓐ カルマとは満たされなかった欲望と、理解されなかった恐れの未使用のエネルギーの蓄積にすぎない。
蓄えは絶えず新しい欲望と恐れによって補充されていく。 それが永遠にそうである必要はないのだ。
Ⓑ あなたの恐れの根本原因である「あなた自身からの疎外」と、欲望の根本原因である「自己への切望」
を理解しなさい。 そうすればあなたのカルマは夢のように消え去るだろう。(P429)

※Ⓐ は一般的でない(独特な)表現?ぽいので、少し考察。 大雑把にいえば、
真我に反した行為が負カルマになるが、その根本の原因は「欲望と恐れ」にあるのはあきらかであり、
Ⓑ を軸にして考えれば、Ⓐ の表現は本質的ないみで的確という感じがする。

「阿頼耶識縁起」ともいわれるが、、普通に考えればこれは、「謎(かけ)」と「ジョーク性」を含んだ
「茶番劇な神秘システム」である。 まぁ部分的には面白い面もあるけど、そうも言っていられないのが
人の世の実情というか、、この仕組みを考えたとき、物質主義的な状況が「この先」進行していくことは
「ある種の危機」ともいえるだろう。
そして「我われ」には、その上映されてる人生を「自分の意志で生きてる感覚」が、たしかにある。

はっきり言って 仰天 させられるのは、この「上映システム(阿頼耶識縁起)」はもちろんのこと、
「脚本の壮大ぶっとび感」についてもいえる。(★当脚本は、仮想システム受容の一点に収拾するだろう
時により観点を変える必要があるが、、この先は仮想システムが理解されていくようになるらしい。
これは根本部分は人知は及ばず、二元パラ育ちの人間には納得しにくい冗談である(※永遠の謎?ぽい)。
しかし何かの縁でこれを読む人がいたら、ぜひ一度はまじめに正面から考えてみてください。

★「Ⓢ 世界とは実在の錯誤した光景であり、それはそう現れたとおりのものではないと理解すれば ――」
「徹底的に世界は非実在であり、真の幸福のためには ――」 by ニサルガダッタ(P504、I AM THAT)

★「無知、という眠りに制圧されている人びとは、世界というこの悪い夢をみる。――」
by ラマナ・マハルシ(別ページ 覚者たち)

まぁ人間目線でみれば基本的に、「★根本的錯誤 or 不調和、の上に成立してるような仕組み」(上❶)。
「上映内容には誰も介入できない」ということを考えれば、、率直には「錯誤的 or ゲーム的」、
―― というか、二元パラダイムでは、このシステムは人類にとって錯誤的ということ。
これのポイントは、仮想システム自体「幻想ショー(しかし確実に、謎かけ挑戦ショー)」であるが、
「★根本的錯誤がまさに、ゲームの核心」でもあり、、それ自体が人知の及ばない何かの意志で、
仕組まれているようにもみえる? ってこと(※ここが、解釈または表現 が分かれるところ)。
しかし重要さは解釈にではなく、「★仮想システムを理解(受容)し、うまく適応していく」ことにある。

表現は色いろあるが、結局のところ「根本的錯誤・事実 と向き合っていく = 本来のゲームシステム」、
がこの仕組みとしては自然な見方で、その点でも「二元(物質)パラダイムは一過性の時代」と考えられ、

「仮想システムを理解して、一切縁起システム(プログラム群)のうごきを制御する、という仮想的ゲーム」

といえる(※個人規模 & 人類規模)。 ※関連:「下記(至高の理法)」、「人類の運命(別ページ)」
それがこの先の私たち人類の、「★幸福度の高い道」になるだろう。(―― 個人規模 + 人類規模時代)
二元パラダイムではかならず、「★別のゲーム(=表面苦楽、競争)」の面が強調される。

すなわち、簡略的に分けていうと(2種類のゲーム▼)、

「仮想システム(錯誤的ゲーム的)を理解せず ➡ 二元パラダイム、主ゲーム内容(表面苦楽、競争)」
「仮想システム(錯誤的ゲーム的)を理解する ➡ 非二元パラダイム、主ゲーム内容(霊性向上ほか)」

―― そういう内容で上映される、てこと。 我われは本質的ないみでは、「ゲームプレイヤーではなく観客」。
システムと向き合わないかぎり、仮想娑婆世界は低次ループになる感じ(基本的に)。

「Ⓣ本来のゲームシステム」というのは捉え方ではあるが、仮想システムと人間の仕組みの点からいうと、
そちらが「幸福度が高く、真我実現も容易になる道」であり、そして「人間の、(最終的な)存在理由」
に沿っていて、「錯誤的、と言う必要性も薄れていく道・・」ということ。
正確にいえば、「Ⓣ順理のゲームシステム」。(★世界観・根本的価値観・感性 ← これ)
仕組みの点からは(※それが仮想システムと人間の仕組みなら)、、

そのゲームを楽しめるような社会基盤をつくることが、人類において最重視されるべき事項、といえる。

教育・ほか様ざま。。仮想システム理解が広がれば、あるいみですべて自然展開すると思う(★人知超)。

全人類にとってそれが最善、てことになるだろう。 もちろん、あらゆる物事は時節によるところもある。

「我われが幻想の神を育てていく、という姿勢(パラダイムシフト)」が、人類に求められる時代であろう。

★「根本的問題は、限られた自分たちの知力で 現象世界と非現象世界の両方の全体図を見たいと思うこと
です。 それはちょうど、一本の小さいネジが機械全体を知りたいと思うようなものです。」 by ラメッシ

「非顕現(実相)」には思考が及ばない(心の領域ではナイ)、と古来よりいわれていて、そこから
「仮想システム(仮相)」が発生しているが、、その非顕現領域に神の意志のようなものがあるかどうか、
というハナシ。 これは諸説(諸表現)あるが、厳密にはすべて「仮説」ってことになるだろう。
まぁニサルガダッタ説明のように、非顕現側には「絶対的な何か・ピュア・真我・無終の幸福」があり、
そこから 自然発生・自発的 に生じている、というのは妥当な感じはする(★流出説は基本)。 もちろん、
仮想システムが成立するための、途方もない潜在的可能性のような「至高の何か」は非顕現にあるだろう。
そこに「直接的な意志がある」とは私は考えにくいが、しかし非顕現はさておいても、
仮想システム自体は「異次元の(高度な)、あほ原理」ではある。(※根本に狂気性・意味不明性あり)

※「ニサルガダッタ」は非顕現側の意志を認めず、「ラメッシ」は認め、「ラマナ」は微妙な表現多し。

※関連:「★人類の運命(えとせとら)」、「★ポイマンドレース(流出説)」  ★流出説(コトバンク)

阿頼耶識縁起の別表現が、リーラ。 これは、たとえば「バガヴァッド・ギーター」のように
人を勇気づけるような表現や、ポジティブ傾向の表現もあるが、ストレート表現も古今東西に存在する。
(※近代の覚者ら・仏教・ほか) まぁ仮想システムの特性からして、
「観点・趣旨」次第でさまざまに表現できるが、、こうなってる、という基本的な構造」はある。
そして現時点で、変動期であることも踏まえて率直にいうと、
「錯誤的かつゲーム的なシステム(神秘的なゲーム展開が予測される)」という感じだが、、それは
「分離から再統合へ、幻想から真実へと向かうよろこびの道」でもある。 これは、摩訶不思議 で高度な
冗談であって、魅力的な部分も多々あるし、感慨深いドラマや、もちろん苦難も生じる。
つまり、人類の意識・集合意識の状態に依存 して、ある 水準 でバランスを取りながら、様ざまな状況が
進行していくが、ある部分では、現行システムが 多種現象を通して 示そうとしているのは(個人 or人類)、
「これは幻想だ」てことだろう(※二元パラでの長期的特性、ループ的、古くから示されてもいるけど)。

Ⓢ:まぁ普通に考えれば、「実相(背景)」との関係性において「仮相・二元原理」が作動するために、
一切縁起システム(★複雑多岐な縁起性)の根底には、バランス性・確率性・ループ性」が存在する。
これは現象的には、「大きなスケールでみたときの、傾向」のいみ。「空間-時間」が基本要素・2観点。

―― そして根本原理の一部には、「★至高(非顕現)の理法」的なものが存在する。

そういう類も関係し、、人は困難な状況からでもいずれ救われる(人間にとって好ましい)方向に向かう
ようにもちろんなっている(※今生だけの話ではない)。
また、すべての人の自己存在の核心は神性をもつ真我であるため、救いの力というのは折々はたらくし、
最終的には真我実現、つまりリーラの閉幕に向かうようになっているはず(※まぁふつうに考えれば)。

Ⓐ: 阿頼耶識縁起は、「多種プログラム群(& データ)」 が影響しあい現象をつくり出している感じで、
人類全般の信念体系(あるいは個人の行動)が、、特定のプログラムの「力のつよさ」に影響をあたえる。
そして「至高の理法」的なプログラム が集合意識レベルに存在していて、現時点の集合意識の状態だと、
解脱に関していえば、「全体(人類レベル)的にはごく弱い状態」 と思われる(どうみても)。
(※個人規模では多様なタイムラグあり、運命次第。 解脱は例外的だが)

※Ⓐは、「人類レベル ―― 個人レベル」で別べつに成立し、人類レベル が根本・土台的(★ニサルガ説明等)。
各レベル で作用する「多種プログラム群の力関係」が変動的。 集合意識は「全人類相互影響機能」アリ。

★「宇宙のなかには悟り、そして解放のために働いている力があるのだ。 私たちはそれをサダー・シヴァ
と呼んでいる。 彼はすべての人のハートのなかにつねに存在している。」 by ニサルガ(P481、I AM)

「求めよ、さらば与えられる。 探せよ、さらば見つかるだろう。」 by イエス(to 人類の集合意識

★「天の時は地の利に如かず。 地の利は人の和に如かず。」 by 孟子
※「人の和」なしには、「地の利」は生かせず、「天の時」はフェイク、それが阿頼耶識縁起。
人類規模でも、そういう類の力は働くのではないだろうか?

物質文明が成熟したこの時代は、人類規模で霊性に向かいだす、運命の転換期といわれている。
現時点では、「解脱・真我実現」は例外的と言わざるをえないが、、これは 人類の意識・集合意識の状態

(=人類全般の信念体系に依存)によって 変化するというのが、重要ポイントだろう。

★~「阿頼耶識縁起」を構成する三つの過程 ~(※Wikipedia を参考、前記)

「種子生現行」:阿頼耶識の中の種子(データ)により、現行(現象)が生じること。
「現行薫種子」:その生じた現行が、阿頼耶識にあらたな種子として蓄えられること。
「種子生種子」:阿頼耶識の中で種子が維持される過程をいみし、それぞれの種子は相互に作用して、
新たな種子を生みだす可能性をもつ。(※相互作用・変質、組み合わせの変動性、みたいなことかと)

★~ 阿頼耶識の転化、そして輪廻卒業 ~

輪廻の卒業が確定する解脱の時点で、阿頼耶識の根本的変革(転化)が起こるが、それによって得られる
完全な清浄智が「大円鏡智」である。 この転化によって、阿頼耶識内の煩悩を生じさせる潜在力(種子)が、まったく綺麗に取りのぞかれるのである。
幻想側の自己の根本である阿頼耶識のなかから汚れたデータを徐々に取りのぞき、
瑜伽行(ヨーガ)を修することによりついに解脱すること、それが瑜伽行唯識派が目指すゴールである。

★存在の三つの形態(三性説)と転識得智(悟り)

―― 悟る、とは、BからCへの転換を意味する。

※「B. 遍計所執性 = 幻想視点」「A. 依他起性 = 観照者視点」「C. 円成実性 = 実在視点」

◆末那識(まなしき)

「末那識」は、阿頼耶識から生じる深層領域(潜在意識)の自我心である。
この識(=心)は人間が寝ても覚めても、深層でつねに「我、われ」と考える根源的な自我執着心であり、表層心につねに影響を与えている。 これが、阿頼耶識(=いわば宇宙の根源的ないのちの流れ)の一部?
をみて、それを自己であると誤認して執着しつづけている。 唯識ではこの深層領域における誤認こそが、
表層意識で起こるあらゆる煩悩と、無明(自我の催眠)の、つまり輪廻転生の根本原因とかんがえる。
私たちが仮の自己(心体)を自分だと認める作用、その感覚は、概して末那識の存在に起因している。

★末那識と阿頼耶識(他サイト)

★~ 末那識の転化 ~

解脱者においては末那識の通常の働きは消え、代わりに自他の差別のない「平等性智」が生じる。
解脱前の段階においては、一時停止することがある。

◆唯識無境(ゆいしきむきょう)、ほか

★《唯識無境》「この識の転変は分別である。 ❸これによって分別されたものは存在しない。

したがって、このすべては唯だ識のみのものである。」 (「唯識三十頌」第17頌 より)

≫《言い換え》「意識が転じて物質世界が現れるのは、分別(意識の機能、識別作用)によるものである。
それゆえに物質世界は幻想、すべてはただ意識(認識)のみのものである。(=意識に依存して仮現)」

これ(↑)が唯識思想の根本、「唯識無境」。

「唯識無境」の説明は「絶対知(主客未分)」を意味しているので、この境地を体現したなら、
解脱(涅槃)ということになる。(※唯識でもそういう感じで説かれてる、★後記Ⓑ 参照)
近代では、「真我」を「非顕現意識」とも言い、「顕現意識」と区別をつけない説明もよくあるが、
「唯識」の理論体系は基本的にその観点といえるだろう。

「統覚システム」と自我の催眠(★一人一宇宙・人類一宇宙)

★「人人唯識(にんにんゆいしき)」とは?   ※参考:「 Wikipedia(唯識 ‐ 人人唯識)」

唯識における基本的な説明であり、「一人一宇宙」のこと(※こちらが一般化した表現)。

すなわち、一人一人が阿頼耶識(≒集合意識)が生みだす個別的・幻想世界に生きてる、ということ。

―― これは観点によるところもあり、近代の覚者らも表現が数種あるが、当サイトでは次のようにみる。

じっさいには、、あるいみで「一人一宇宙」、本質的には「人類一宇宙」、といえよう。

あるいは、「世界仮現原理が個別」という原理的ないみで「一人一宇宙」。(※唯識の観点と、同様

あるいは、「体験する世界が共通」という設定的ないみで「人類一宇宙」。(← Ⓐ)

どちらにせよ「宇宙(空間次元)」は仮象(幻想属性)なので、「★観点と表現しだい」ってことになる。

実際には「体験だけが現実」であることからも、「Ⓐが本質的な観点」といえよう。(※共同バーチャル
基礎的ないみでは、「一人一宇宙」が本質的な観点になるが、、いずれにしてもこの2観点はセット。

すなわち、「体験する世界は人類共通・共有だが、世界という現象を可能にする、基礎的な要素が個別」。

「一つの仮想次元(仮想システム)に、個別原理でアクセス」「統一仮想システム-原理、共同でみてる夢」。

「★世界は真我の仮現」も一種の観点的表現であり、「★真我を基礎とした仮象のため、そうもいえる」。

もちろん、すべてを包括する究極本質的ないみでの源泉(基礎)は、「一なる至高の実在(ハイリアリティ)」。

☆「あなたが世界として考えているものは、あなた自身のマインドなのだということを理解しなさい。」

☆「世界とはマインドの表面だ。そしてマインドは無限なのだ。」 by ニサルガ(P521、P503、I AM)
※以上、参考: 後記「マインドシステム」、後記「★ルパート・スパイラの動画(最初~4:41)」

★「統覚システム(統覚機能)」とは?

知覚・思考・感情 などの意識内容を、自己の意識として統合して 最終認識(=統覚)するしくみのこと。

私たちの世界体験の感受作用は、見かけ上のいみでは幻想側(心の機能)において起こっているが、

本当のいみでの「統覚者(知性・体験者)」は、「実在側(真我・自己)」ということになる。

たとえれば、、夢の中で登場人物に成りきっていろいろ体験したとしても、
本当のいみでの体験者は登場人物でなく夢見の側(真我)、というようなことであるが、

真我はその本質レベル においては体験の影響を受けず、体験は「意識-登場人物レベル」において起こる。

(―― 本質レベル・実在究極観点では、世界も身体もなく存在するのは真我・至高の実在だけ)

★「自我の催眠」とは? (※造語的、同種の表現はよくあるが)

真我のアイデンティティ(自己)が、自我システムに自己同化することにより、
自分がその人間であり行為主体である、という偽りの感覚が生じること。(※詳細TOPページ)
仏教では、これを「無明」といい、その催眠下の人間を「衆生」という。

▼ たとえるなら、人生というのは・・▼

たとえるなら、人生というのは、「万華鏡を覗いたら、現れた世界の登場人物(仮の自己)に成りきって、

真の自覚を失ってしまった」 というような状況と考えられる。(覗いてるのが真我)

※実相(実在)は一般に、「時間・空間・すべての概念、を超えている」とされるが、ここでの

万華鏡(=世界仮現原理)も、「時間・空間(=仮相属性)、は通用しない」 といえよう(or イマココ)。

(★人知を超えた神業的原理、のたとえ話。 ★根拠はニサルガ説明、ほか複数、サーンキヤも近い。)

万華鏡が 「私は在る(世界仮現原理・意識の原理)」 で、それを覗くと(最終的には?)、
仮想次元、意識(基礎)➡ 時間と空間・仮想セカイ」 にアクセスす。(※共同仮想現実、❸マトリックス 的
この場合、万華鏡は 一人一人に個別 のものだが、深層では集合意識 になっていて、
体験される世界は人類共通 のものとなる。(★謎だが
あらわれる現象世界は、「実相(真我)-意識」を基礎 とした仮象であるが、

そのなかでは、集合意識(阿頼耶識)から投影されるかたちとなる。(※阿頼耶識縁起)

これ(万華鏡)は いわば、超絶神業的なVR装置 であり、非解脱者には 完全リアル に人生があらわれる。

あるいみ仮相と実相の橋渡しをするのが、

万華鏡の覗き口、てことになる(★実質ココが「私は在る(の根本)」。ページ上部の 十牛禅図も同様)。
※参考:「覚者たち」≫「ニサルガダッタ(『世界仮現原理~』、その下『もしその状態に到達~』)」
この、覗き口が「統覚システム」統覚が起こっているところ、真のいみで)で、おそらく幻想側では、

「脳の視床」や「ハートの中心」などと一応関連している(※阿頼耶識の設定上、そうなってる)。

そしてこの仮想システムでは、実際はほぼかんぜんに、

「脳が意識を生みだしている、、感覚器官が対象を捉えている、、」

という「❷緻密な設定」で、深層意識から「表層意識(※本質的には統覚システム)」に投影されている。

すなわち、幻想内では実際にそのように機能してる、ということを意味し、

肉体生存中は「意識 ―― 脳」はほぼ完全に連動してる、ということ。(※真我は意識の領域を超えてる)

関連: 別ページ「超ひも理論(★素粒子の物質性否定説について ≫ )」

なお、人間としての知覚作用は、意識内で機能する「★マインドシステム(※幻想属性)」に依存してる、

と考えられる。(※「世界 = マインド」ともいわれ。 ★ルパート・スパイラ説明も同種)

「時間・空間」は幻想属性であり、「根本的・投影メカニズム」とされる(※ベース設定・概念・感覚イメージ)。

共有の仮想次元は存在する、といえよう。  究極的にいえば、、私たちが人間として
知覚する対象と知覚作用と人間自体、時間空間?は、深層から投影される 本質知覚イメージ(体験)であり、

すなわち「すべては認識(唯識)」といえる。(※あるいは「意識を基礎とした仮象」)
現象世界におけるすべての体験(※対象物)は、本当のところは、「意識の中の見かけ(幻想ショー)」。

「幻想属性の要素(本質知覚イメージ)」も、幻想内では 完全リアルに機能している、というとこが ポイント。

阿頼耶識は幻想属性であるが「投影メカニズム」なので、「本質知覚イメージ」というより、
あるいみで「より根本的な要素」と考えられる(※まぁ幻想内での、「表面的要素-根本的要素」の差)。

ここでは(❸)、「本質知覚イメージ」は、表層意識または統覚システムに 投影される要素を指す。

※解脱者においても、マインドレベル(知覚レベル)では、物質世界は普通にリアル的に知覚される。

(★ニサルガダッタ、ラメッシ ↓)

そして、身体(心)と「自我システム」への、「真我」の自己同化によって、

完全に幻想内の人間に成りきった催眠状態が発生する。 細い点は違うかもしれないが、こういう感じの
「神業的トリック(超絶)」が存在していることはたしかである。  ★「虚妄分別(コトバンク)」

(≫ 意識・世界仮現原理、統覚システム、自我システムあたり。 人間の知恵的には、ありえないレベル。
「この世界は 共同でみてる夢のようなもので、実在ではなく実体がなく、本質的に知覚イメージ ← コレ)

※夢は知覚イメージだが、その中では夢の世界が体験される。 そして、「共有の仮想次元は、存在する」と。

―― 当サイトでは、「共有の仮想次元(体験の次元)= 宇宙意識界(❸ 統一仮想システム原理)」。
世界仮現原理は、、表面的いみでは個別と考えられるが、統一仮想システム原理に属する副次的要素。

まぁ意識が発生するすべての生物に 世界仮現原理(意識の原理)あり、ということになるので、
「統一仮想システム(宇宙意識界)への、アクセス権」といったところ(※あくまで サブ原理)。

仮想システムと 全体験を、可能にしてる要素は、「真我の現実性 & 体験能力(超絶)」てことになる。

※(参考)「地球上で真我を有する生物は人間だけ」の説について:「★ポイマンドレース(別ページ)」

※「私は在る(世界仮現原理・意識の原理)」 は、ニサルガ、ラマナ、ラメッシの説明などに共通し、

インド哲学やほかでも使用される概念。 「時間・空間(=仮相属性)、は通用しない」 については、、

TOPページ「真我探求のリアリティ」≫「★心と深層意識のカラクリ」。

仮想セカイは、次元内視点ではリアルに存在する(❸体験される)が、次元外視点では存在していない。

量子論でも、「粒子(物質)が実在する」という考えに拘れば、現象についての解釈が矛盾だらけに

なってしまうが、「分離、個人的行為者」という常識は、私たちが霊性主義の時代へ向かうにあたっては、

変化していくだろう。

このサイトはあるきっかけで作成を思い立って、考え直して(訳アリ)、形而上的なことも書いてきました。

「自我の催眠」に関しての覚者(解脱者)のコメントで、
「信用詐欺、途方もない悪ふざけ」みたいな表現もみられるが、これは率直な表現と思われる。
それは宗教的には古くから説かれつつも、この社会のパラダイム的には受け入れられてないのが現状だが、

解脱者の言が真実である、という一点にこのサイトを捧げておわります。 ご通読に感謝!!!

★《「世親」([著]三枝 充悳、[出]講談社学術文庫)》

「Ⓑ 唯識性とは仏との境界である」と説かれるように、
仏陀すなわち覚者になってはじめて「唯識」を根本的に直接的に理解することができる。だが、(※中略)
まずは理すなわち道理によって論理的に理解しなければならない。(P128)

※Ⓑは、「唯識無境」でなく「観照意識(相対知の領域)」、みたいなことかと。

★by 釈迦 《「ダンマパダ(154節)」(最古層、小部経典)》

―― だが家屋の作り手よ、汝の正体は見られてしまった。 汝はもはや家屋を作ることはないであろう。
汝の梁はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。 心は ●形成作用 をはなれて、妄執を滅ぼしつくした。

※「家屋の作り手」=「阿頼耶識」、「汝の梁はすべて折れ~」=「無明(自我の催眠)を解除したよ」


◎「霊性は開かれていると同時に、★謎でもある」 by ニサルガダッタ

◎「人生とは探求なのだ。 探求するほかないのだ。」 by ニサルガダッタ・マハラジ


[ 参考 ] ニサルガダッタ・マハラジ(解脱者、最強クラスの賢者

★意識と無意識は、身体のなかにあるかぎり脳の状態に依存するのだ。
しかし、自己はそのどちらも超えている。

★私にとって、それらはすべてショーだ。 ショーそのもののように非現実なのだ。
私はあなたのように世界を知覚するかもしれないが、あなたはそのなかにいると信じきっている。
ところが、私は世界を広大な意識の広がりのなかの、「ひとつの真珠の粒」 としてしか見ていないのだ。

★誰もが自分自身の世界をつくり出し、己の無知によって監禁され、そのなかで生きているのだ。

★誕生、人生、死、これらはひとつのものだ。 何がこれらの原因なのかを発見しなさい。
あなたは生まれる前に、すでに麻薬を飲まされていたのだ。 それは何の類の麻薬だったのだろうか?

《以上、「I AM THAT 私は在る」P132、P197、P226、P461 》

★しかし、それは意図的な普通の映画ではない。 もしあなたがすべてをそのあるがままに明確に見るなら、

それはひどい喜劇、本当のドタバタ喜劇である。 (※中略)これ以上滑稽なことがあるだろうか?

私は自分のグルの恩寵によって自分の本質を理解し、また途方もない悪ふざけが私におこなわれていた こと

にも気づいたのだ。 (※中略)あなたは自分がその茶番の中で役割を演じている俳優であることが

わからないだけではなく、さらにその演劇の中で自分が決定と行為の選択をもっていると想定するのだ。
人生はあらかじめ書かれた脚本に従って厳密に展開するはずである。 (※詳細:別ページ 覚者たち)

★あなたは時間と空間を越え、「今この地点(※世界仮現原理)でのみ時間と空間に接触している。

もし時間と空間に接触していなければ、時間も空間もなく、どんな経験にも傷つかない。

《以上、「ニサルガダッタが指し示したもの」P164~166、P35 》(※「真我 = 知性・体験者」をいみする)

[ 参考 ] ラメッシ・バルセカール(解脱者、★インド銀行・元CEO最高経営責任者

★現象は現実であり、同時に非現実なのです。 観察される程度において現実であり、

「意識以外にそれ自身の独立した存在がない」 という点にもとづけば、非現実であるのです。

それ自身の独立した存在がある唯一のものは現実で、現実とは意識のことなのです。

意識が唯一の現実です。 それ以外は、現実それ自身の内部の映像にすぎません。(P63 誰がかまうもんか)

★存在するすべては意識です。 あなたと私はこの空間に投影されている単なる対象物にすぎません。

空間と時間は単なる観念、対象物が拡大されるためのメカニズムにすぎません。 三次元対象物が
拡大されるためには、空間が必要です。そして、その対象物が観察されるためには、時間が必要です。

その対象物が観察されないかぎり、それは存在しません。 ですから、空間と時間は単なる観念で、
ある現象が起こり、観察されるために創造されたメカニズムにすぎません。《「意識は語る」P92 》

[ 参考 ] ルパート・スパイラ(解脱者)

(★推薦動画)https://www.youtube.com/watch?v=IoJc9TCBbTI

(6:53~)物質主義的思考は、まず物質があり意識は物質から派生したもの、という思い込みから始まって

います。ですが、私たちは真逆のことを経験しています。 まず意識がありその中に思考が分散しています。

そして私たちが物質と呼ぶものは、各々の思考の中に現れます。 (※ここでは、「思考 = マインド」)

(8:20~)物質というもので作られた肉体と呼ばれる独立・分離した物体は存在しないのです。――

それは決して物質と呼ばれるもので出来ていません。 それは意識の中に現れるイメージにすぎない。


★(動画)この世界が仮想現実であることを示す証明式
(2:32~)

私たちがバーチャルリアリティの住人であったとすると、光子の速度は、情報処理の産物ということに
なります。 つまり、一定の頻度で私達の世界が更新されているということになるのです。

《「刹那生滅」by 道元 》
おおよそ壮士(そうし)の一弾指(たんじ)のあいだに、六十五の刹那ありて、
五蘊(ごうん)生滅すれども、凡夫かつて不覚不知なり。



◎ 一切皆苦 一切皆笑 不生不滅 唯仏是真 ―― 夢幻の如くなり ――― 一切衆生悉有仏性 ♪ ――



★時の回廊(アレンジ): クロノトリガー

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