覚者たちの様ざまな教え、世界仮現原理「私は在る」

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「二元(物質)パラダイム」 ➡ 「非二元(霊性)パラダイム」―― 移行の時代 ――

近年は地球文明(物質文明)も隆盛をきわめ、ここ日本もストレス社会となって参りました。
そこで仮想システムを理解して、今生を縁に輪廻転生を卒業しませんか? 「一切衆生悉有仏性♪」

当サイトは作成者が「 行為者は存在しない 」ことを強制的に確信させられた、一連の不可思議な
体験(10数年前)を原点とし、関連書籍などをもとにして、多くの「 推測 」を交えて書いてます。

<見出し>
◎ 覚者たちの教え(世界仮現原理「私は在る」)、etc.
◎ グノーシス主義について
◎ ジャイナ教関連
◎ 仏教関連(原始仏典から抜粋)

覚者たちの教え(世界仮現原理「私は在る」)、etc.

※関連書籍から印象的だった箇所の一部抜粋です。 どれも良著なので、ぜひ買って読んでみて下さい。

ニサルガダッタ・マハラジ(近代の覚者のなかでも前衛的な巨匠。最強クラス。タバコ屋の親父)

ムンバイ(ボンベイ)の郊外で雑貨店(手巻きタバコ、ほか)を営みながら、平和に暮らしていたが、
なぜかある時、友人に半ば強引に グル のところに連れて行かれ、手土産用の花束も友人が買ってくれた。
その グル にいわれた言葉、「あなたは至高の実在だ。『私は在る』の感覚だけを見守りなさい。」 が、
ウソ を言ってるとはどうしても思えず、頭から離れず、従ったところ、3年ほどで真我実現した(37歳)。
ある人に発見され専門誌で紹介され、1951年から教え始めた。 国内外からの訪問者(探求者)は徐々に
増え、1966年に店を引退後は、自宅ロフトにて 1日2回(朝夕)の対話時間をもった(※非ビジネス)。
誠実、という言葉が ピタッ とくる人柄で、、
慈悲と ユーモア にも富み、熱意と技術をそなえた「厳格な?教師キャラ」で人気を博す。(1897‐1981)

※基本的に相手に応じて、直感的に臨機応変に教えている感じなので、
こういう問答集には時おり、あるいみで矛盾するような箇所が出てきます(※矛盾というか観点の違い)。
自分で判断・言動の理由を、論理的に説明できない様子もみられます(=直感)。
二重翻訳のこともあり、「★ニュアンスが変化」している部分もあると思います(★これは当然のこと)。
内容が被るためここでは扱わないが、直弟子ラメッシによる解説書「ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの」
(2020年 邦訳版)は、晩年の教えの真髄(エピソード含む)です。

▼「I AM THAT 私は在る」から抜粋(以下)▼

※1973年の初版(英訳)発行以来、現代のウパニシャッドとも称され、絶賛されてきた本(※問答集)。
マハラジいわく、
「答えてるのは私ではない。 質問を起こしてるそれが、私の体を使って答えてるだけだ。」(全577ページ)

◆「訳者あとがき」より

★彼ら(※ヒンドゥー教宗派 ナート の指導者たち)によれば、解脱とは 人の自我、私という感覚の消滅である
ラヤ(※三昧)の過程を経て、魂を シヴァ(※至高神)のなかに統合させることである。(P561)

(※実際に消滅するのは、あくまで「想念としての私」。 微妙なニュアンス変化?)

★もし、師が悟りを開いた人なら、彼の言葉は力を孕んでいる。 ── たとえ一千年後に一万マイル 離れた
ところにいる人がこの本を手に取ったとしても、もし読む人がその言葉を正しく受け入れ、吸収する
ことのできる状態にあるなら、その言葉が覚醒へと働きかけるだろう。(by マハラジ P565~566)

◆真我に響く真理のことば

気づくことは目覚めることだ。 気づかないことは眠っていることだ。
いずれにせよ、あなたは気づいている。 そうあろうと試みる必要はない。
あなたに必要なのは、気づいていることに気づくことだ。
意図的に、そして意識的に気づいていなさい。 気づきの領域を広げ、そして深めなさい。
あなたはつねにマインドを意識している。
だが、あなた自身が意識していることに気づいてはいないのだ。(P238)

[問い]この無限で永遠の自己を、どのようにして知るのでしょうか?

あなたが知りたがっている自己、それは何か二番目の自己のようなものだろうか?
もちろん、そこにはひとつの自己があるだけだ。そしてあなたがその自己なのだ。 あなたである自己、
それが唯一存在する自己だ。あなた自身に関する誤った観念を取り除き、放棄しなさい。するとすべての
荘厳さとともに、それはそこにある。 自己知識を妨げるのはあなたのマインドだけなのだ。(P536)

★世界とあなた、どちらが先に生まれたのだろうか? 世界が先だと考えるかぎり、あなたはそれに
縛られているのだ。 疑いの跡形もなく、世界はあなたのなかに在り、あなたが世界のなかに在るのでは

ないとひとたび悟れば、あなたは外に出ている。(P225)(※あるいみで一人一宇宙、共同仮想現実)

★紙のなかにあるひとつの穴が、紙のなかにありながら、しかも紙に属さないように、
至高の状態は意識の中心そのものでありながら、しかも意識を超越している。
それはマインドのなかの開かれた穴から、光が氾濫しているようなものだ。(P54)

★世界とはマインドの表面だ。そしてマインドは無限なのだ。 私たちが想念と呼ぶものは、

マインドの中のさざ波にすぎない。 マインドが静かなとき、それは実在を反映する。

マインドが徹底的に不動であるとき、それは消え去り、ただ実在だけが残るのだ。 この実在は非常に堅固
で、現実であり、マインドや物質よりも実質的なのだ。それに比べればダイヤモンドさえもバターのように

柔らかい。 この圧倒的な実在の現実性 が、世界を夢のように霧のかかった無意味なものにするのだ。(P503)
★[問い]どうすれば私のマインドを不動にできるでしょうか?

不動ではないマインドが、それ自身を不動にすることができるだろうか? もちろんできはしない。
うろつきまわるのがマインドの本性なのだ。あなたにできることは、意識の焦点をマインドの彼方へと移行

させることだけだ。―― ❶「私は在る」という想念以外のすべての想念を拒絶しなさい。――(P39)

★ただ、あなたはマインドのなかで知覚する世界の一部分としての個人をあなた自身だと想像していることを理解しなさい。そしてマインドを外側から見てみなさい。なぜなら、あなたは マインド ではないのだから。
結局、あなたの唯一の問題とは、何であれあなたが知覚するものと、熱心に自己同一化することなのだ。
この習慣を捨てなさい。あなたはあなたが知覚するものではないのだ。 注意深く、超然と離れて在る力を
使いなさい。あなた自身を生きているものすべてのなかに見なさい。(P503)

★「私は在る」にマインドの焦点を合わせることによって、「私はこれだ」という存在の感覚は消え去る。

そこに「私はただの観照者だ」が残り、それさえも、「私はすべてだ」のなかに沈んでいく。

そのときすべてはひとつとなり、ひとつは私から分離していないあなたの自己となるのだ。(P108)

★あなたが自分自身を 個人だと信じるならば、いたるところに 個人を見る。 実際には、個人というものは
存在しない。あるのは記憶と習慣の脈絡だけだ。 真我を実現した瞬間、個人は消え去る。

アイデンティティは残る。 だが、アイデンティティは個人ではない。 それは実在そのもののなかに本来

備わっている。 個人はそれ自身のなかに存在をもっていない。 それは観照者のマインドに映った
「私は在る」という感覚であり、また、存在のひとつの様式なのだ。(P57)

★生と死がひとつの存在における二つの相として、互いに必須のものと見られたとき、それが不死だ。 P51

★不死とは、「私は在る」という感覚からの自由だ。 しかもそれは消滅ではない。 その反対に、

それはあなたが思い描く以上にかぎりなく実在で、気づいていて、幸福だ。(P379)(※翻訳ニュアンス 注意)

★あなたが変化するものに飽き果てて、不変なるものを熱望するときだけ、マインドのレベルから見たとき空や暗闇として描写できるもの へと方向転換し、踏みこむ用意ができたのだ。(※中略)

それはまたすべてに浸透し、すべてを征服した、言葉を超える強烈なものだ。(P454~455)

★[問い]実在のなかに存在はあるのでしょうか?

アイデンティティ(※存在)は実在だ。 実在がアイデンティティなのだ。

実在とは無形の集合や無言の混沌ではない。 それは強力で、気づいていて、至福に満ちている。

それと比べれば、あなたの人生など太陽に対するロウソクのようなものだ。(P455)

▼質問者
眠りの間、あなたはどうしていますか?
▼マハラジ

眠っている状態に気づいている。

▼質問者
眠りは無意識の状態ではないでしょうか?
▼マハラジ

そうだ。 私は無意識の状態に気づいている。

▼質問者
それでは目覚めのとき、あるいは夢見のときは?
▼マハラジ

私は目覚めあるいは夢見の状態に気づいている。(P49)

※「カタ・ウパニシャッド(中期、第4章4節)」より。
睡眠の状態と覚醒の状態との両者を知るよすがであるアートマンを、
偉大な主であると考えて、賢者は憂いをもたない。

★[問い]もし誰かが鋭い刀で突然あなたの首を断ち切ったならば、あなたにとってどのような違いがあるのでしょうか?
まったく何の違いもない。身体がその頭を失うだけだ。 伝達経路 が断ち切られるだろう。 それだけだ。

二人の人が電話で話をしている。そして線が切られたのだ。 その人達には何も起こらない。(P345)

★世界があなたにとって、それほどにも圧倒的に現実のものとして現れるのは、あなたがそれについて
つねに考えているからだ。それについて考えるのをやめてみなさい。そうすれば、それは霧のなかに消えて
いくだろう。(P523)
★何であれ、マインドによって考えられたことは偽りに違いない。 なぜなら、
それはかならず相対的で限定的になるからだ。 実在は人知の及ばないものであり、ある目的のために
利用できるものではない。 それはそれ自体のために求められなければならないのだ。(P333)

★あなたには二つの道がある。 真我を実現するために、あなたのマインドとハートを捧げること、
あるいは私の言葉を信頼して受け入れ、それにしたがって行動することだ。(P328)
★いつであれ、あなたに求めずともやってくるものは神から贈られたものであり、もしそれを精いっぱいに
使うなら、かならずやあなたを助けることだろう。(P509)

《「I AM THAT 私は在る」第82章 P432~435、第86章 P461、第79章 P419 より》

▼質問者
戦争が起こっています。 戦争に対するあなたの態度とはどのようなものでしょうか?
▼マハラジ
ある場所、またはほかの場所で、ある形で、あるいはほかの形で、戦争はつねに起こっている。戦争の起こ
らなかった時がかつてあっただろうか? ある人は、それは神の意志だと言う。ある人は、それを神の戯れ
だと言う。 それは戦争とは不可避であり、誰の責任でもないということの別の言い方にすぎない。
▼質問者
しかし、あなた自身の態度とはどのようなものでしょうか?
▼マハラジ
なぜ私に態度を押しつけるのかね? 私自身のものと呼べる態度を私はもってはいないのだ。
▼質問者
この恐るべき無意味な虐殺の責任を取るべき誰かがかならずいるはずです。 どうして人びとはそんなにも
互いに殺しあう用意があるのでしょうか?
▼マハラジ

その犯人を内側に探し求めなさい。 すべての闘争の根本には、「私」と「私のもの」という観念があるの
だ。 それらから自由になりなさい。そうすれば、あなたは闘争から解放されるだろう。

▼質問者
私が闘争から解放されたからといって、それが何になるのでしょう? それが戦争に影響を与えはしないで
しょう。 もし私が戦争の原因ならば、私は破壊される用意があります。 それでも、何千人もの私のような
者の消滅が、戦争を止めることがないのは明らかです。それらは私の誕生とともにはじまったのではなく、
私の死とともに終わるのでもありません。私に責任はないのです。 誰にあるというのでしょうか?
▼マハラジ
争いや闘いは存在の一部分なのだ。 どうしてあなたは存在の責任が誰にあるのかを調べないのだろうか?
▼質問者
なぜあなたは存在と闘争が不可分だと言うのでしょうか? 闘うことなしには存在はありえないと言うの
でしょうか? 私自身であるために他者と闘う必要はありません。
▼マハラジ

あなたは「身体-精神」、特定の名前と形として存続するために、つねに他者と闘っているのだ。 生きる
ために、あなたは破壊しなければならない。懐妊された瞬間から、あなたは周囲と戦争を始めたのだ。
死があなたを解放するまで、相互に根絶しあう残酷な戦争を。

▼質問者
私の質問はまだ答えられてはいません。 あなたは単に私の知っていることを描写しているだけです。
人生とその不幸を。 しかし、あなたは誰に責任があるのかを言いません。 私がせがむと、あなたは神や
カルマ、あるいは私の欲望や恐れを非難し、それは単にそれ以上の質問を招くだけなのです。
どうか最終の答えをください。
▼マハラジ

最終の答えとはこれだ。何も存在しない。すべては宇宙的意識界のなかの一時的な現れだ。名前と形として
の継続性は、容易に一掃できるただの精神的形態なのだ。

▼質問者
私は直接の、一時的な現れについて尋ねているのです。 ここに兵士によって殺された子供の写真が
あります。 あなたをにらみつけている。それは事実です。あなたはそれを否定できません。
さて、この子供の死の責任は誰にあるのでしょうか?
▼マハラジ

誰の責任でもない。あるいは皆の責任だ。 世界とは、それが包含するものであり、それぞれがそのほかの

すべてに影響を与えるのだ。 私たち皆が子供を殺し、私たち皆が子供とともに死ぬのだ。すべての出来事

には無数の原因があり、無数の結果を生みだしている。 責任の所在を求めることは何の役にも立たない。
何に起因するわけでもないのだ。

▼質問者
あなたの国の人びとはカルマや因果応報という言葉を使います。
▼マハラジ

それはただ総体として真実に近いというだけだ。実際には、私たちは互いの創造者と創造物であり、互いの
重荷の原因であり、互いの重荷の重さに耐えているのだ。

▼質問者
では、無実の人が罪で苦しんでいるというのでしょうか?
▼マハラジ
無知であることで、私たちは無実なのだ。行為のなかで、私たちは有罪だ。 私たちは知らずに罪を犯し、

理解することなく苦しむのだ。 私たちの唯一の希望は、止まって、見て、理解し、記憶の罠から抜けだす
ことだ。 なぜなら記憶が想像をあおりたて、想像が欲望と恐れをひき起こすからだ。

▼質問者
いったい、なぜ私は想像するのでしょうか?
▼マハラジ

意識の光が記憶のフィルムを通してあなたの脳に画像を投影するのだ。脳の欠陥と混乱のために、あなたが
知覚することは歪曲し、好き嫌いの好みに色づけされてしまう。あなたの思考を秩序あるものにし、過度の
感情的な意味づけから自由になりなさい。そうすれば、あなたは人びとやものごとをあるがままに、明晰性

と慈愛をもって見ることだろう。誕生、人生、死の観照者は同一だ。それは愛と苦痛の観照者なのだ。なぜ

なら限定と分離の存在が悲しみに満ちたものであるにもかかわらず、私たちはそれを愛しているからだ。
私たちはそれを愛し、同時に憎んでいるのだ。私たちは争い、殺し、生命や所有物を破壊する。そしてそれ
にもかかわらず、私たちは愛情深く、献身的なのだ。私たちは優しく子供の世話をする。そして子供を捨て
もするのだ。私たちの人生は矛盾で満ちている。しかし、それでも私たちはそれにしがみつく。この執着が
すべての根底にある。その上それは完全に表面的なものだ。私たちは何かに、あるいは誰かに全力でしがみ
つき、そしてつぎの瞬間それを忘れてしまう。子供が泥だんごをつくり、軽い気持ちで捨て去ってしまう
ように。それに触れてみなさい。子供は怒りとともに泣き叫ぶことだろう。気をそらしてみなさい。 彼は
それを忘れてしまう。 なぜなら、私たちの人生は今に在るからだ。 そして人生への愛は今に在るからだ。
私たちは多様性を、苦痛と快楽の劇を愛している。 私たちは対比によって魅せられているのだ。
このために対立するものと、それらの表面上の分裂を必要としている。 しばらくの間それらを楽しみ、
それから退屈して、純粋な存在の平和と沈黙を切望するのだ。

宇宙のハートは絶え間なく鼓動している。 あなたはその観照者であり、そのハートでもあるのだ。

▼質問者
私は絵を見ることはできますが、画家は誰なのでしょうか? 誰がこの悲惨な、しかし称賛すべき体験の
責任を取るのでしょうか?
▼マハラジ

画家は絵のなかにいるのだ。 あなたは画家を絵から引き離し、そして彼を探そうとする。
分割してはいけない。偽りの質問をしてはいけない。ものごとはありのままだ。 そして、誰か特定の人に

責任があるわけではない。 個人的責任という考えは媒介者という幻想から来ている。

「誰かがそれをしたに違いない、誰かに責任がある」 と。 今のような社会と、その法律と習慣の構成は、
分離した責任ある個人という考え方を根底にしている。 だが、これが社会にとって選択できる唯一の形態ではない。 分離の感覚が弱く、責任が拡散した別の類の社会形態もありうるだろう。

※関連:「★パラダイムシフト(別ページ)」
==

★誕生、人生、死、これらはひとつのものだ。 何がこれらの原因なのかを発見しなさい。

あなたは生まれる前に、すでに麻薬を飲まされていたのだ。 それは何の類の麻薬だったのだろうか?

あなたはすべての病気を治療するかもしれない。だが、もしあなたがいまだにこの根源的な麻薬の影響下に
あるなら、表面上の治療が何の役に立つだろう?(P461)

本当は、あなたは知らぬままにあなた自身を探しているのだ。 あなたは愛するにふさわしい、
完全に愛する価値あるものに恋い焦がれている。 無知ゆえに、あなたはそれを矛盾と対立の世界のなかに
探し求めている。 あなたがそれを内側に見いだしたとき、あなたの探求は終わるのだ。(P419)

《「I AM THAT 私は在る」P297 より》

▼マハラジ

苦痛という事実に気づきの焦点を当てるのは容易なことだ。苦しみあっては、ことはそう単純ではない。
苦しみに焦点を当てるだけでは、充分ではないのだ。なぜなら知ってのとおり、精神的な人生とはひとつの絶え間ない苦しみの流れだからだ。苦しみのより深い層に到達するには、あなたはその根元まで行き、そして、それらの広大なネットワークを露わにしなければならない。そこには恐れと欲望が緊密に織り込まれ、生命エネルギーの流れは対立して行く手を遮り、互いに破壊しあっているのだ。

▼質問者
どのようにして私の意識層より完全に下にある混乱を正すことができるのでしょうか?
▼マハラジ

あなた自身とともに在ること、「私は在る」とともに在ることによって、日々の生活におけるあなた自身
を、批判することよりも理解しようという意図をもって見守ることによって、何であれ、現れることを完全に受容することによってだ。 なぜなら、それはそこにあるのだから。あなたは奥深くにあったものが表層
に現れることを励まし、その捕らわれていたエネルギーによってあなたの人生と意識を豊かにするのだ。
これが気づきの偉大な働きだ。 それは生命とマインドの本性を理解することによって障害を取り除き、
エネルギーを解放する。

▼「意識に先立って」から抜粋(以下)▼

※最晩年(入滅の約1.5年前~2ヶ月前)の教えをまとめた問答集で、内容は比較的ハイレベルとされる。
最後のほうは病気が進行したために制限されたが、ギリギリ まで仮想意識内で問答が起こっている。

「I AM THAT 私は在る」とは雰囲気的に少し異なるが、顕著なちがいは、本書では自己の本質として
「真我」よりも「絶対」という言葉が多用され、その状態の魅力があまり描写されない傾向がある。

マハラジは、将来多くの人たちがこういう事柄に関心をもつ時代がくる、と1981年時点で言っている。

(1990年 英訳版、2018年 邦訳版発行、全360ページ)

◆世界仮現原理「私は在る」(=ドゥッカ・バカバン、苦しみの神)

ドゥッカとは苦痛、苦悩を意味する。 バカバンとは神を意味するだけでなく「私は在るという性質」の
現れとしての爆発、閃光、爆発的な閃光、世界認識を暗示している。 花火が爆発すると、すさまじい音、閃光、そして周囲が明るく輝く。 同様に

「私は在る」が爆発して存在すると認識可能な全宇宙が呼び出される が、「私は在るという性質」

である意識が不適切さや不完全さを生み出すために悲しみやみじめさなどが始まり、そして肉体・
マインドの感覚に落ち着いてしまう。完全から不完全へ、非存在から存在へ。 だから、方向を反転しな
さい。 肉体・マインドから存在へ、そして絶対へ。 そうすると意識の状態は神々しい状態だ。(P290)

※「私は在る」は、意識・世界 のはじまりの種子であり、「意識(存在性)の原理、世界仮現原理」。

人は自我の催眠(無明)により、身体やさまざまな観念をそれに付随させてる(身体に限定してる)。

それは純粋さと愚かさ(無知)を含むが、顕現における云わば「最高神」であり、愛と苦痛の観照者。

すなわち、無知の原点であり、叡知(真我)との連結部でもある。 心を純化すれば、観照者となる。

阿頼耶識とも深い関係、と考えられる。 そして周知のとおり、旧約聖書では・・

神ヤハウェが、「わたしは『私は在る』という者だ(I am that I am)」 と言っております。(爆)
これについては、後記「グノーシス主義」に関連あり。

★「私は在る」という知識は最大の敵であり、最大の友人だ。
それはあなたの最大の敵であるかもしれないが、もしそれの機嫌を正しくとれば、それは向きを変えて、
あなたを最高の状態へ導いてくれることだろう。(P35)

★あなたは自分が存在していることを知っている。「私は在る」の原理を礼拝しなさい。

ただそれを礼拝し、それとだけ一つでありなさい。 そうすれば、その「私は在るという性質」が
すべての知識を開示してくれることだろう。(P115)

※「私は在る」=「私が存在してる感覚 & その発現原理(※幻想側)」。 自己存在感の真の源は真我。

「『私は在る』という『想念』以外のすべての想念を拒絶しなさい。」との説明もみられる(※前❶)。
つまり、「★ラマナ・マハルシの説明(後記)」や「★釈迦の説明(ページ最下部)」とも、
基本的に同義と考えられる。

★(※睡眠から目覚めるとき)「私は在る」という存在の感覚が最初に現れる。 それがどこからやって
くるのか、自分に尋ねなさい。 あるいは、それをただ静かに見守りなさい。 「私は在る」という感覚の
なかにマインドが動じることなく定まったとき、表現不可能な、しかし体験可能なひとつの境地へと
あなたは入っていく。 何度も何度も試みることだ。 そうすれば、「私は在る」という感覚は、つねに
あなたとともにある。 あなたが身体、感情、思考、観念、所有物などをそれに付随させてきただけだ。

《「I AM THAT 私は在る」P24 より》

★この移ろいゆくショーは次のような状況に似ているかもしれない。 仮に私が健康で元気でやっていた
としよう。 ところが突然私は病気になったので、医者が薬をくれた。 三日後私の熱は消えてしまった。
だから、三日間のこの熱の段階が「私は在る」という意識なのだ。 まさに移ろいゆくショー、
時間に縛られた状態といったものだ。

この原理は存在することを愛している。 そして、それを軽んじてはいけない。

それは非常に神々しい原理だ。 この「私は在るという性質」が全宇宙を含んでいるのだ。(P76)

※《Ⓐ 比較参照》: 後記「仏教関連(スッタニパータ)」

≫≫「すべて放捨してしまい、── 深層の欲望を完全に知って~」(★放棄 & 完全理解)

表現が少しちがうけど、本質的には同じ(※目標は同じ)。「深い理解」と「放棄」、どちらも必要で、
よく自己観察して心底理解が起これば内側で放棄できる、みたいなことかも(※心を外側とする)。

★種が愚かだから、それはこのように出て来たのだ。 種は根源的に愚かな状態 であるが、

それにもかかわらず、その種には何という大きな称号が与えられていることだろうか? (※中略)

すべての物質的世界はその種の中にある。 しかし、あなたは種ではない。 あなたは種の観察者だ。 P80

★あなたは経験に巻き込まれないかもしれないが、「私は在る」がそこにあるかぎり、経験はそこにある

だろう。 この意識の魔法、技術 は、それがみじめさの源泉だという事実をおおい隠したばかりでなく、

それ自体をあらゆる見かけの幸福の源泉にしたのだ。(P282)

◆真我探求の基本、かつ最終形

退却するということはただ内側へ入ることを意味するが、あなたの通常の傾向は五感を通して外の

世界を見ることだ。今、それを逆向きにしなさい。 私はこの肉体ではない、このマインドではない、
この感覚ではない。 そうすれば、あなたは意識に安定する。 意識に安定したあとは、それ以後のことは
すべて自動的に起こることだろう。 あなたは顕現へと拡大するのだ。 「私は在るという性質」がやって
来る前の原初の状態で、私は存在していたし、存在しているし、存在することだろう。(P117)

※↑ 智慧の道(ジニャーナ・ヨーガ)。 「私は在るという性質 = 意識」。

(※前略)もしその状態に到達したら、あなたは意識と意識がない状態を眺めているのだ。

これは自然なサマーディ、つまりサハジャ・サマーディと呼ばれている。 自然な状態ではあなたはその状態にいるが、肉体と意識という心身的な道具がいつも活動している。この道具は誰かがやって来た瞬間に作動するが、

さもなければ、あなたは絶対へと戻る。 それは大きなホールに覗き穴のついたドアが一つあるとすると、

その覗き穴が意識で、あなたはその後ろにいるようなものだ。

(※中略)しかし、あなたがそこへ行くという考えはどこにあるのだろうか? 実は、それはそんなふう
ではないのだ。あなたは本当は絶対であり、これらすべてはあなたが得てきた覆いにすぎない。
(※中略)それは言葉では決して描写することができない。
その状態は決して言葉によって捉えることはできない。(P343)

★その意識が絶対から絶えず繰り返し出て、また退却するだけで、あなたにとって運動はない。

それがショーの世話をしているのだ。 あなたが意識の中にいるとき、あなたは意識の性質を理解する。
この意識は消滅しつつあり、知識のあることは消えつつあるが、絶対であるあなたに何も影響を与えること
はない。それが死の瞬間だ。 しかし何が問題だろうか?

生命-呼吸は肉体を離れ、「私は在る」は退却するが、「私は在る」は絶対へ行く最中だ。
それは最大の瞬間、不死の最大の瞬間だ。 「私は在るという性質」がそこにあって、その運動もそこに
あった。 そして私は、それが消滅することを観察する。(P56)

★この肉体を構成している材料はますます疲労しつつあり、それにともなってこの知識もまた弱くなって
いる。(※中略)その少しの力も去ってしまうとき、意識もまた消え、存在感もなくなることだろう。
しかし、存在感がなくなったら、私はもっと存在することだろう。(P324)(※翻訳ニュアンス 注意)

★もし私たちにこの肉体が付随した意識を取るかどうかの選択肢があるなら、誰が愚かにもそれを受け入れ
るだろうか? それが起こったのは、ただ私たちには何の選択肢もなかったからであり、

あらゆることは自然発生的だったからだ。 苦しみもまた引き受けざるをえない。
なぜなら、それは全体の機能の一部だからであり、取り上げて選択できるどんな実体もないからだ。P314

★[問い]自分の思考に巻き込まれないでいること、それだけで充分ですか?
そのとおりだ。 それだけが唯一のことだ。 起こるべきことは何であれ、起こる。
おこなうということをあなたはまさに放棄したのだ。(※中略)
自分の思考にしがみついていないとき、あなたはもはや人ではない。(P149)

★もし私の言うことを誰かが明確に理解したなら、その実際の影響とは、
その個人の日常生活の活動においてさえ、特定の意図というものが何もなくなるだろうということだ。
物事はどんな意図的な意志も行動もなく、ある種の 玉軸受 のように継続してゆくことだろう。(P321)

★[問い]どういうわけで私は今、マハラジを発見するという幸運に巡り合えたのでしょうか?

あなたが過去世でおこなった何かよいことのおかげだ。もしあなたが宿題をやっていなかったら、この
場所を訪問することはなかったことだろう。 幸運でまれな者たちだけがこの場所を訪れ、話を聞く。P262

★[問い]どうしたら私たちは自分の道を見つけることができますか?

真我を悟りたいという衝動が非常に強烈なら、あなたの衝動と意識が正しいコースへ導いてくれること
だろう。(P246)

◆「至高の実在 ―― 真我・霊魂(の関係)」 (※関連項目:TOPページ「梵我一如」)

★世俗の世界にあっては、お金の力で何でも買うことができる。お金を差し出すことであなたはあらゆる
ものを手に入れる。同様に、真我を差し出すことであなたはブラフマンを得、ブラフマンを差し出すことでパラブラフマンを手に入れる。(P106)

※翻訳もあるが ここでは、、「真我 = 霊魂」「ブラフマン = 真我」「パラブラフマン = 至高の実在」
のようなことと考える(※TOPページ参照)。 「差し出す」「得る」「あなた」 をどう解釈するかだが、

パラブラフマンの一部として存する「真我(ブラフマン-霊魂)」が、「自我(身体)、パラブラフマン」
などを体現する(それに一体化する)のではないか? 「差し出す・得る = 再一体化」「あなた = 真我」
あるいは、「あなた = アイデンティティ」。 アイデンティティが移行する。

★あなたが顕現したその意識状態であるとき、それは次のようなものだ・・
深い濃紺の状態。 あなたはその均質で、深い濃紺の状態にいる。 それが存在性の最初の段階だ。

自ら輝くその深い濃紺の均質状態から知識のない状態へ行く。 それがあなたの本性だ。
それは知識がなく、全体で完全で完璧な状態なのだ。 知識のある状態ではすべては不完全であり、
決して完全になることはない。(P271) ※「知識 = 私は在る(≒ 顕現した意識)」

★あなたが「私は在る」というこのアイデンティティをもって、自分自身を絶対から切り離すとき、あなた
は分割され、孤独を感じる。 だから、あなたの要求が始まるのだ。 絶対においては、何の必要もない。

ただ絶対だけが行き渡っている(P31) 肉体を経験していなかったとき、あなたはその至福状態にあった

あなたの誕生以前の状態は熟睡として描写されうるものではなく、それを超えている。
ジニャーニの経験はあなたが生まれる前の状態と同じであり、それは完全な状態だ。(P311)

★自分の本質と全体の潜在的可能性 に気づいた者が、どうしてこの制限された状態の与えるものに

満足できるだろうか? さらに言えば、絶対の中の永久的な潜在的可能性があまりに大きいので、人々は

「絶対の中」にいることがどういうことか、それがどのようなものかを想像することができない。(P95)

★究極であるあなたは、決して自分自身を失うことはない。(P340)

★「私は在る」というその知識は新しい。 しかし、それは現実ではない。
私があなたに話していない現実があるのだが、言葉はそれを打ち消す。 私があなたに何を話してもそれは

真理ではない。 なぜなら、それは「私は在る」から出て来たからだ。 真理は表現を超えている。(P48)

★「ニサルガダッタ・マハラジの貴重な動画!」(※「字幕日本語」クリック)
(※Ⓐ)https://www.youtube.com/watch?v=A8mMYTZGFuw
https://www.youtube.com/watch?v=6udBygDdWuE
(Ⓐ3:23~)マハラジの所に訪れた探求者達は、どのようにすればこの「気づき」に達することが
出来るのか、非常に知りたがりました。 「あなたは何かを探すときどのようにするのかね?

あなたのマインドとハートを探すものに対して向け続けることだ。 関心を持たなければならない。
そして、絶えず思い起こしなさい。 思い起こされる必要があるものは忘れずにいるのが成功の秘訣だ。」

★ニサルガダッタ・マハラジに関するインタビュー邦訳(別ページ)

《冒頭》 2ch のスレッド(過去ログ)『 ニサルガダッタ・マハラジ「私は在る」I AM THAT 』 から、
マハラジに関するインタビュー「 Remembering Nisargadatta Maharaj 」の試訳部分だけの抜粋です。

何人かの有志の人たちが引き継ぎながら翻訳作業をつづけてくれ、私も毎にち新しい部分がアップされる
のを楽しみに覗いてたのが懐かしいです。 その後スレッドは落ちてしまいましたが、この貴重な内容を
このまま埋もれさせてしまうのは勿体ないということもあり、差しあたってここに掲載させて頂きます。


★「 Wikipedia(ニサルガダッタ、英語版のため翻訳推奨)」

★マハラジの師、シッダラメシュワルの言葉(他サイト)
★マハラジ、私は生まれていない(動画)
★Rays of the Absolute (the Legacy of Sri Nisargadatta Maharaj)(動画)


《「ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの」([著]ラメッシ・バルセカール、[出]ナチュラルスピリット)より》

★ある夕方、一人の訪問者が次のような言葉から話を始めました。
「全現象は映画か演劇の舞台のように幻想であると、マハラジは時々言います。そしてそれは・・・」
マハラジは笑いながら、彼を止めて言いました ── しかし、それは意図的な普通の映画ではない。

もしあなたがすべてをそのあるがままに明確に見るなら、それはひどい喜劇、本当のドタバタ喜劇である。

ほら、私は今ここ自宅にいて、誰に迷惑もかけずに、自分のところへ自然にやって来ることをやっている。
仮にある日突然、警察官が玄関に現れて、某々の日にカルカッタで起こった暴行強盗事件の容疑を私にかけるとしよう。 私は彼に、自分はカルカッタにいたことも暴行強盗事件に参加したことももちろんないし、
自宅から一度も出たことさえないと言う。 私が非常に確信をもってこう言ったので、警察官は少々困って
しまった。そして、彼はさらに質問し、私が言ったことが真実であることを発見するのだ。それから、彼は
私に詫び、私を放免する。 これはそうあってしかるべきだ。(※中略)
―― これ以上滑稽なことがあるだろうか? 私は自分のグルの恩寵によって自分の本質を理解し、

また途方もない悪ふざけが私におこなわれていたことにも気づいたのだ。

―― これをもう一歩進めて、あなたの観念的実体がこの茶番に巻き込まれている程度を見てみなさい。
あなたは自分がその 茶番の中で役割を演じている俳優であることがわからないだけではなく、さらにその

演劇の中で自分が決定と行為の選択をもっていると想定するのだ。人生はあらかじめ書かれた脚本に従って

厳密に展開するはずである。 そして、通常のコースで出来事がこのように自然に起こるとき、人間という
この観念的実体は自分自身がそれに影響されることを許し、そして、苦しむ。 それから、彼は「束縛」と
「解放」を考えるのだ。 解放とは、人生を茶番と見て、あなた(対象性にまったく影響されない「私」)
は、形や名前やその他をもった実体ではありえないことを認識することだ。(P164~166)

★マハラジは、

「意識とは、愉快で魅惑的な マハーマーヤー(偉大な幻想)、あらゆるものの中でもっとも壮大な詐欺である」

と言います。 存在の魅惑的感覚は、歓迎されざる客のように顕現していない絶対を襲う感覚、観念に
すぎないのですが、その客は非常に狡猾に家庭を乗っ取るので、主人は偽の安心感と幸福感へと眠り込ま
されるのです。またマハラジはそれを、行き渡っている間は興奮を生む「一時的な病気」と呼んでいます。(P341)

ラマナ・マハルシ(アドヴァイタ界・最強クラスの賢者。孤高の隠者)

子供の頃はわりと普通で レスリング・ボクシング・水泳が好きで、素早いパンチ が周りの少年たちに警戒されてた。
Ⓐ 16歳のときに突発的に起こった擬似臨死体験にて瞬時に覚醒し、そこから性格も 賢者化 していった。
少したち、聖地アルナーチャラ山の寺院周辺・洞窟などで サドゥー生活 に入り、生涯この山から離れなかった。
★「 Wikipedia(サドゥー)」 は、レベル が ピンキリ です。 Ⓐ参考: 最下部「ラマナアシュラマムHP」
当初、寺院の境内で素っ裸で瞑想してたら、神職に「フンドシ だけは着けて!」と懇願され渋々承知した。

ある日の午後、コブラが寄ってきて頭を サッ ともたげたが、数分間見つめ合ったあとコブラは渋々退散した。
(※弟子談) 時おり生存が脅かされるような過酷な環境をしのぎ、虎などの猛獣も難なく手なづけた。
そんな彼の霊性の輝きは、自然に周りに帰依者のグループを形成させていき、やがて共同体が築かれ、

晩年(最後の10年くらい)には、あるきっかけで知名度が上がり、数千人の帰依者の行列ができてた。
共同体のなかで特別扱いされることを嫌い、皆と同じように雑務をこなし、個人的な所有物は最後まで、
「杖・水差し・フンドシ」の3点セット のみであった(=賢者)。(1879‐1950)

▼「あるがままに」から抜粋(以下)▼

※沈黙の聖者「ラマナ・マハルシ」の、教えの精髄。 若き日の質疑応答集「私は誰か?」も併せて収録。
上のマハラジが言ってることと本質的には同じだが、表現が異なる。 この分野の要点を理解するには、
最適な一冊(編集者の解説つき)。 後記のラメッシによれば、ラマナ・マハルシ が説く真我探求の方法
「私は誰か? と問う」について、その真意は「この私とは何なのか? を問いなさい」ということらしい。
つまり、心を内側(源)に向ける、てこと。 翻訳の関係でニュアンスが微妙に変化してるっぽい。

◆「世界は知覚されたときにのみ存在する」という理論について

「ドリシュティ ‐ スリシュティ」とは、世界は知覚されたときにのみ存在することを意味し、

「スリシュティ ‐ ドリシュティ」とは、世界を知覚する人が存在する以前から世界が存在している
ということを意味している。 前者の理論は現実に反するように思われるが、もし真理の探究者が真剣で
あるなら、これは受け入れられるべき理論だとシュリー・ラマナは主張した。

なぜなら、それが真理に近い見地であり、また誠実に真我実現に関心を寄せている者たちにとって

最も有益な姿勢だからである。(編集者解説 P318)

★運命を克服する、あるいは運命に依存しない方法が二つだけある。

一つはこの運命が誰にとってのものなのかを探究し、そして運命に束縛されているのは、真我ではなく自我だけであって、自我は存在しないということを発見する方法。(※ジニャーナ・ヨーガ ―― 智慧の道)

もう一つの方法は、いかに自分が無力であるかを悟り、「神様、私は存在しません。ただあなただけです」とつねに言うことで神に完全に明け渡し、「私」と「私のもの」という感覚を放棄して、神の意のままに

あなたをゆだねることである。(P390)(※バクティ・ヨーガ ―― 帰依・明け渡しの道)
※参考: 最下部「★ラマナアシュラマムHP(教え)」

★絶対的な真我が存在する。そして炎から火花が飛び散るように、真我から閃光が発せられる。この閃光が
自我と呼ばれるものである。 無知な人の場合、自我は立ち現れると同時に、それ自体をひとつの対象物と

同一化する。 それは対象物との関わりに依存せずには存続することができない。 この関わり合いこそが
アジニャーナ あるいは無知であり、その破壊こそがわれわれの努力の目標である。もし対象物との同一化の傾向
がなくなれば、自我は純粋なままとどまり、源へと溶け去るだろう。(P93)
★心のなかにものごとの印象があるかぎり、「私は誰か?」と尋ねなければならない。 想念が起こった

なら、そのとき、その起こったまさにその場で問うことによって、破壊されるべきである。(P400)

★心が静まれば、世界全体が静まる。 心がすべての原因である。
それが静まれば、本来の自然な状態はひとりでに現れるだろう。(P61)

◆輪廻転生について

▼質問者
魂とはヒンドゥー教の教義が示すように、何度も何度も生まれ変わる実体なのでしょうか、それとも
それは単なるサンスカーラ、精神的傾向の集合体にすぎないのでしょうか?
▼マハルシ

真我は永遠に存在し、影響を受けない。転生する自我はより低い次元、つまり想念の次元に属している。
それは真我実現によって超越されるのである。(P339)

★もし誕生があるとするなら、一度の再誕生だけではなく、転生の連鎖の全過程が存在することになる。
なぜ、どのようにしてあなたはこの誕生を得ることになったのだろうか?
いままで同じ理由で、同じように、あなたは次から次へと再誕生してきたに違いない。

だが、もしあなたが「誕生したのは誰か?」と問いただせば、そして誕生と死があなたに起こったのか、
それともまったく異なる誰かに起こったのかと尋ねれば、そのときあなたは真理を悟るだろう。

そしてその真理がすべてのカルマを焼き尽くし、すべての誕生からあなたを解放するだろう。(P345)

★至高の真我から見れば、この蜃気楼のような世界 のなかで生を授かるという幻想は、
「私」と身体との同一化 という利己的な無知以外の何ものでもない。 真我を忘れはてた者たちは、

生まれては死に、死んでは再び生まれることだろう。 だが、至高の実在を実現して心が死にはてた者は、

生死を超えた「実在のなか」だけにとどまる。 (※おそらく、「心 = 自我システム」のようないみ)

真我を忘れて身体を真我と想いなし、果てしなく誕生を繰り返し、そしてついに真我を知って真我に成る
ということは、世界中を放浪した夢から覚めるようなものだ。(P336)

★ひとつの意識状態と別の意識状態の間に、測定の基準となるものはない。そのような測定方法は仮定的な
ものだ。 ある個人はより多くの時間をとり、ある個人はより少ないということは事実である。 だが、
はっきり理解されなければならないのは、生まれ変わるのは魂ではなく、あたかも転生するかのように見え
る個人の思考にすぎない。 心がいかなる次元で活動しようとも、それはそれ自身のために身体を作りだす。

物理的世界には物理的身体、夢見の世界には夢の身体を。 夢見の身体は夢の雨に濡れ、夢の病で病気に
なる。ちょうど夢のない深い眠りのなかでは世界がなく、それゆえ身体もないように、物理的身体の死後、
心はある期間活動を停止する。だが、すぐそれは新しい世界と新しい身体(アストラル)のなかで活動的に
なる。 そのあとに、それは「再誕生」と呼ばれる別の身体を得るのである。(P342)

▼「秘められたインド ‐ 賢者たちとの出会いの記録」から抜粋(以下)▼

※ジャーナリストで求道者の英国人 「ポール・ブラントン」 による、霊的真理を求めるインド探索記で、
20以上の言語に翻訳された彼のベストセラー。 この探索は1930年代におこなわれ、インドの数々の
「隠れ賢者」 や奇人たちと出会う。 けっこう生々しい旅の記録で、時代の違いもあって興味深いです。

<発行者より> 1975~6年 ごろに当協会の一インド人会員が母国からもたらした本書の英文原著の内容が
おもしろく優れているので、翻訳して会誌「不滅の言葉」に連載した。 それが読者の好評を得たので、
原著の発行所と話し合いの上、一書にまとめて刊行したものである。(1982年5月、日本ヴェーダーンタ協会)

★ラマナ・マハルシとの真我探求についての問答を、一部抜粋(P203、P221~224)

たったひとつのなすべきことがある。 あなたの自己を見つめよ。 このことを正しいやり方でするなら、

あなたは自分のすべての問題に回答を得るだろう。(P203)
▼マハルシ

すべての人間は常に悲しみに汚されることのない幸福を欲しています。 つまり終わりのない幸福を ――
―― 幸福は、真の自己の生得のものです。 彼の幸福の探求は、彼の真の自己の無意識の探求なのです。

真の自己は不滅です。 それゆえ、人がそれを発見するときは、終わりのない幸福を発見するのです。

▼ブラントン
しかし世界は実に不幸ですが。
▼マハルシ
そう、しかしそれは、世界が自分の真の自己を知らないからです。

すべての人が例外なしに、意識的または無意識的にそれを探しているのです。

▼ブラントン
よこしまで獣のような人びとや、犯罪者でも、ですか?
▼マハルシ

彼らでさえ、犯す罪のひとつひとつに自己の幸福を見い出そうとして罪を犯すのです。 この努力は人間に
本能的なものですが、彼らは、実は自分たちは真の自己を探し求めている、ということを知らないものだ
から、最初は幸福への手段として邪悪な方法を試みるのです。 もちろんそれらは間違った道です。
人の行為は反射されてみずからに戻ってくるのですから。

▼ブラントン
── あなたがおっしゃる自己とは、正確には何なのでしょうか?
仰せのとおりだとすると、人の内部にもうひとつの自分があることになりますが?
▼マハルシ

人が二つの自分を持つことなどできますか?

この問題を理解するにはまず、その人を分析する必要があります。

── あなたは、この真の自己を説明してくれとおっしゃるが、それは何と言ったらよいか。

それは、『それ』から人の『私』が生じ、それの中に消えていく、それなのです。

▼ブラントン
消える? どうして人が、自分という感覚を失うことができるのですか?
▼マハルシ

あらゆる思いの最初の最初、すべての人の心に浮かぶ原初の思い、それが『私』という思いです。
この思いが生まれたあと、ほかのあらゆる思いが生じます。 第一人称代名詞『私』が心に生じたあとに、
第二人称代名詞『あなた』は現れるのです。 もし『私』という糸を心でたどり、ついにその源に至るなら、
それが最初の思いであると同時に最後に消える思いであると、発見するでしょう。──

▼ブラントン
何が残るのですか? 人はそのときまったく無意識になるのですか? それとも馬鹿になるのでしょうか?
▼マハルシ

── 人がはじめて真の自己を知るとき、なにか別のものが彼の存在の奥底から生じ、彼を占領します。

そのあるものとは、心の背後の無限、神聖、永遠です。

ある人びとは 天の王国 と呼び、ある人びとは魂と呼び、ある人びとはニルヴァーナと呼び、
われわれヒンドゥは解脱と呼びますが、あなた方は自分たちの好きな名で呼んだらよいでしょう。
これが起こるとき、みずからを失うことは全くなく、むしろ彼は自己を発見するのです。


★【 秘められたインド ‐ 賢者たちとの出会いの記録(改訂版)】
[著]ポール・ブラントン、[翻訳]日本ヴェーダーンタ協会
[出版]:日本ヴェーダーンタ協会

以前の古い版は翻訳の関係で読みづらかったけど、改訂版は完全に改善されています。
この分野(霊的オカルトふくむ)に興味あれば楽しめる、貴重な内容の良書です。

当時ラマナは「知る人ぞ知る」的存在で、この本によって一気に知名度が上がったそう。

★動画「ラマナ・マハルシ」
https://www.youtube.com/watch?v=vwOjRL322Xs(2:40~)

最初に心の前面に現れる想念は、「私」という想念です。
「私」という想念が立ち現れてはじめて、他の無数の想念が現れるのです。
心を深く内面に向けることで、この「私」という想念がどこから現れるかを見いだしなさい。

「私」の源を内側に求めていくと「私」は消滅し、そこに「私-私」という別の実体が現れます。
「私」として現れますがそれは自我ではなく、完全な「一なる実在」なのです。

※これはまぁ、「想念としての『私』」=「自我、または自我の催眠の原因(自我システム への同化)」

「催眠解除後の実体としての『私-私』」=「霊魂-実在真我」、のようなことかと。

★「 Wikipedia(ラマナ・マハルシ)」

★ラマナアシュラマムHP(教え)  ★ラマナアシュラマムHP(教えの精髄)

―― それゆえ、世界が現れているとき、真我は現れない。 真我が輝いて現れるとき、世界は現れない。
人が絶え間なく心の本性を探究しつづけるならば、心は真我をあとに残して死滅するだろう。

★「真我実現」  ★「アルナーチャラからの招き」
これでこの身体は死んだ。 それは硬直したまま火葬場に運ばれ、そこで燃やされて灰と化すのだ。
だがこの身体の死とともに私は死ぬのだろうか? 果たして身体が「私」なのだろうか? 身体は沈黙し、それ自体に生命力はない。 だが私は自分の人格の完全な力を感じているし、それとは別に、

私の内側で「私」という声さえ感じる。 それゆえ、私は身体を超越した霊性なのだ。 身体は死ぬ。
だが、それを超越した霊性は死によって触れられることはない。 それゆえ、私は不滅の霊性なのだ。

★「回想録 / 強盗に襲われたとき」
良い人ばかりがアーシュラムを訪れたわけではありませんでした。ときには悪いサードゥさえ現れました。
1924年に、アーシュラムは二度も強盗に襲われています。二度目のとき、アーシュラムの中に価値ある
ものがないことが分かると、彼らはマハルシを棒で叩きさえしました。帰依者の一人が泥棒を捕まえて
処罰しようと、賢者の許可を求めました。賢者はこう言って彼を思いとどめたのでした。「彼らには彼らのダルマがあり、私たちには私たちのダルマがあります。耐え忍ぶことが私たちの義務なのです。彼らを邪魔せずにおきましょう」。強盗の一味の一人がラマナの左足大腿部を棒で殴ったとき、ラマナは言いました。
「もしそれで満足しないなら、反対側の足も打ちなさい」。強盗が去った後に、帰依者の一人が殴られた
ことを心配して尋ねました。 賢者はタミル語で poosaiという「礼拝」と「殴打」の語呂を合わせて、
「私も礼拝を受けたよ」と笑いながら答えたのでした。

※Sri Ramana Paravidyopanishad(pdf 英語、一部翻訳▼)

[33節]無知、という眠りに制圧されている人びとは、世界というこの悪い夢をみる。

真実の自己、の正しい自覚によりこの無知がやまないかぎり、人びとは3つの状態という迷路のなかを

さまよわなければならない。 ※「3つの状態 = 起きている状態、夢見てる状態、深い眠りの状態」

[125節]世界とは、音やその他の、5種の感覚の総合であり、それ以外の何ものでもない。
それらすべては、単に心の印象である。 ゆえに、世界は心いがいの何ものでもない。
[136節]「心は小さくて、世界は広大である。 どうして世界が心のなかにあることができるのか?」
という議論も誤りである。 聖者によって、広大なのは世界ではなく、心である、と説かれている。

[162節]「もし、心が非現実であるなら、残るものは無となるでしょう。 深い眠りにおいては、

何もないのだから。」―― この議論を提起する人は、自分自身を忘れる、という誤りをおかしている。

ラメッシ・バルセカール(最上部のマハラジの弟子。師匠とは表現が異なり、さらに前衛的)

23歳で インド銀行 の行員として勤務しはじめ、同時期に結婚している。 趣味は ゴルフ。
仕事上の野心はあまりなかったが、能力が評価されて次第に昇格していき、60歳で定年退職する最後の
10年間は 総支配人(頭取)を務めた。 国内外での何百もの新支店開設を監督し、銀行を急速な成長期に
みちびいたと高く評価されている。 また彼は、若い頃から アドヴァイタ に興味をもち、ラマナ・マハルシ の教えを
受けようと何度か試みたが成功しなかった。 退職後に専門誌にて、ニサルガダッタ という覚者が教えてる、
との情報を得て興味をひかれ、「I AM THAT 私は在る」を読んだら ビッ ときてすぐに会いに行った。
以後 約3年間、ニサルガダッタ に師事して通訳も務めた。 銀行員として培った英語力や西洋人の気質の理解、そして アドヴァイタ 関連の知識がある 彼の通訳は、まさにその時に必要とされていたため、強く歓迎され、
実際に外国人らにとても好評だった。(★「ニサルガダッタに関するインタビュー(別ページ)」で
「Ramesh Balsekar」で検索するとでます) (1917‐2009) (何気に肩書きが スゴイ)

※言葉の定義について。「意識」は、顕現側の「表層意識・宇宙意識」を指してる場合もあるけど、
「至高の実在(源泉)」と同義で使ってる場合もある ―― というより、ラメッシは「意識」に関しては、
「顕現意識 / 非顕現意識(実相・真我)」 は表裏一体なので、あまり区別してない(※説明・表現上)。
ラマナ(※前項・ラマナアシュラマムHP)、エックハルト(※次項)、も同様で区別しない傾向。

▼「意識は語る」から抜粋(以下)▼

◆師のマハラジいわく

★《アポなし?初対面時》 私が階段を上がって彼(※マハラジ)の前に立ったとき、彼の最初の言葉は
「君はついに来たんだね。 さあ来て、座りなさい。」 というものでした。 私は彼が他の誰かに
これらの言葉を言ったんだろうと思って後ろを振り返りましたが、誰もいませんでした。

非常に印象深かったことは、彼自身、自分がこの言葉を言ったことに気づいていない、
という明確な感覚が、私にあったことです。(P629)

★《ラメッシ解脱後》 ある朝、私がマハラジをいつものドライブに連れ出すために、
彼の準備ができるのを待っているとき、彼は特に落ち着いた調子で言いました。──

「それ(※ラメッシの悟り)が起こったことが、私はうれしい。 本は一冊だけでなく、数冊は出て来る
だろう。 そして、その本が語ることは、私が言ったことの物まねにはならないだろうし、それが
どうやって出て来るか、私は知らないし、あなたさえ知らないだろう。」(P270)

※英書を含めれば、ラメッシの著書は7冊以上は出てる。

◆対象物(世界)は、観察されないかぎり存在しない

存在するすべては意識です。 あなたと私はこの空間に投影されている単なる対象物にすぎません。

空間と時間は単なる観念、対象物が拡大されるためのメカニズムにすぎません。 三次元対象物が

拡大されるためには、空間が必要です。そして、その対象物が観察されるためには、時間が必要です。

その対象物が観察されないかぎり、それは存在しません。 ですから、空間と時間は単なる観念で、

ある現象が起こり、観察されるために創造されたメカニズムにすぎません。(P92)

◆解脱するとどうなる?(―― 観照)

★行為者という個人的感覚が消えるという意味で悟りが完全なとき、エゴは完全に消えます。 そのとき、
事実上エゴは消えたのです。しかし、肉体との一体化は続きます。なぜなら、肉体-心は機能しなければ

ならないからです。 個人的行為者としての一体化は消えるのです。(P196)

★基本的には、悟りはたった一つのことを意味しています。現実に見えたことが、実は非現実であるという突然の理解です。そのときあなたは非現実を現実として経験します。突然の超越の感覚、超越のヴィジョンがあるのです。 すべては夢であるということが、もはや観念ではないのです。(P141)

★悟りのあとも、その肉体精神機構は肉体精神機構であり続け、それは自分自身の自然の特徴に従って外側の思考や出来事に反応します。でも、その反応がわき起こる瞬間に、それは観照され、切り離されます。
水平的に巻き込まれることがないのです。(P287)  感情、欲望、思考、それらはただ起こります。
でも、それらは受け取られません。 何が起こっても、それが観照されるとき、それはただ消えます。 でも
その思考、感情、欲望が起こることは、その肉体精神機構のコントロールを超えた何かです。 心の性質は
それを「受け取る」か、それに巻き込まれるかのどちらかです。 でも「自分」がそこにいないときは、
それが起こることが観照され、そしてそれが消えていきます。(P293)

▼「誰がかまうもんか」から抜粋(以下)▼

★全創造が幻想です。それが、あなたがたどり着く究極的な理解です。それまでは、人生はまさしく現実になります。 そして、もし人生が現実であれば、人間も責任を伴ったきわめて現実的なものです。
でも、間違えないでください。人間は単にプログラムされたコンピュータなのです。何十億ものユニークにプログラムされたコンピュータであり、それを通じて源泉は機能しています。(P174)

★生命には本当に意味があるのか、それは本当に貴重なものか、調べてみてください。
それは、ただ起こるだけです。 それは、ただ起こるだけなのです。 知的思考はそれに意味を与え、
それから、その意味を知りたがります。 生命には意味などありません。
生命の本当の意味は、生命には意味がないことにあります。 それは、ただ起こるだけです。(P33)

★第三章 ≫ 聖なる催眠
利口な催眠術師は、二千人の人々に、実際にはそこにないものをあたかも固いものである何かだと信じさせ
ることができるのではないでしょうか? もし利口な催眠術師が、実際にはそこにないのに
何か固いものが存在していると、二千人の人々に信じさせることができるなら、神が催眠を通じて、
一人一人の肉体精神機構に、世界は現実で堅固だと信じさせるのはむずかしいことでしょうか?(P74)
※関連:「おかると物理学」≫「★超ひも理論(素粒子とは? 原子のスカスカ構造について)」

★第四章 ≫ 自由の感覚

では、何からの自由ですか? 以前はコンピュータに自分自身を同一化させていたものからの自由です。

それは、コンピュータそのもの、コンピュータとの自己同一化からの自由 を意味しています。(P109)

★第六章 ≫ 悟りの前の段階

もしロバートは行為しないという完全な無条件の受容があれば、それは同時に、ロバートは存在しないということです。そのとき存在するのは源泉だけで、それがしたいことを何であれやっているのであって、

何が起きているか心配するロバートは存在しません。 ですから、もし「自分」は理解したと考える誰かがいるなら、その理解は完全ではありません。完全なる理解とは、そこに個々の理解者が存在しないという
ような理解です。「人」が得るかもしれない理解 ── 自分は行為者ではないという理解 ── は、知性が
受け入れたものです。つまり、ラメッシの言ったこと、今、自分が聞いたことは、論理的であるので、
それに知性は反対ではないということです。これが知性が言うところの「私は受け入れる」です。 しかし、

個人的な体験からそれが生じるとき、知性は崩壊して、個人は消滅します。 観察するための個人はもはや
そこにいません。そこで起こるのは、何であれ肉体精神機構を通じて起こっていることについての非個人的
な観照です。(P252)

★動画「ラメッシ・バルセカール」(※「字幕日本語」クリック)
https://www.youtube.com/watch?v=1lo6BF6oYYY

エックハルト・トール(現存する、非二元をリードする世界的な教師)

▼「世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え」から抜粋(以下)▼

※この本の元タイトルは「Stillness Speaks(静寂は語る)」で、邦題は変更になっています。
この分野では有名な人ですが、人生の苦難の末にとつぜん解脱したということで、力強い響きがあります。

◆「Stillness Speaks(静寂は語る)」

世界の静寂を意識しているとき、思考活動が静止していることに気づくでしょう。

あなたは静寂があることに気づいています。でも、決して静寂について考えているわけではありません。
静寂に気づくようになると、それは、心が研ぎ澄まされた状態であることに気づくはずです。

これは、いうなれば、「わたしが在る」状態です。 あなたは、何千年ものあいだ人類を束縛してきた、
集合意識という檻の外 へと、ついに一歩足を踏み出したのです。(P17)

「いま、この瞬間」をありのままに、100パーセント受け入れるときはいつでも、あなたは静止して

います。 あなたは平和の中にいるのです。(P23)

── するとどうでしょう。 真の叡智が、静かに活動をはじめます。
「静止の空間」。 これこそが、創造性が誕生し、問題の解決策が見つかる場所 なのです。

静止とは、単に音のないこと、空っぽの状態を意味するのではありません。

静止とは叡智そのものです。 それは、万物が生まれくる、形態の奥に横たわる意識 です。(P24)

この一瞬 ──「いま」── だけが、あなたが決して逃れることのできない、唯一のものであり、
人生における唯一の、確固たる事実です。なにが起ころうと、あなたの人生がどんなに変わろうと、
唯一たしかなこと、それは常に「いま」です。
「いま」から逃れる道がないのだとしたら、いっそのこと腹をくくって、これを歓迎してみてはいかが

でしょう? 「いま」と友達になってみてはどうでしょう?(P77)

どんな状況にも、どんな人々にも、「悪」あるいは「悲惨だ」以外に言葉が見つからないときでさえ、

その奥には「まったき善」が、隠れているのです。 これを奇跡と呼ばずして、

なんと呼ぶでしょう? このまったき善は、「すでにそうであるもの(現実)」を、心から受け入れる
ことによって、わたしたちの内面と外面の両方に姿を現わします。(P215)

★動画「エックハルト・トール」
https://www.youtube.com/watch?v=W4DIDoVKz4Q

ヨーガ・スートラ(ヨーガ学派の根本教典、4~5世紀頃。[編集]パタンジャリ、ほか)

▼「世界の名著1 ‐ バラモン教典 原始仏典」([出]中央公論社)から抜粋(以下)▼

《第三章》[18節]前生でつくられた潜在印象に総合的制御を行なって潜在印象を直観すれば、
ヨーガ行者には前生の知が生ずる。 自己の前生だけではなく、他人の前生についても知られる。(P231)

[49節]一切知者性とは、すべてのものの本質である三要素についての、識別から生じる直観知をいう。

(P237)   ★三つのグナとブラフマン(by ラーマクリシュナ)

[55節](前略)純質とは、思惟機能の純質をいう。この純質は、激質と鈍質との汚れから除かれ、
真我との区別の認知だけを任務とし、(P238)※「純質(サットヴァ)」「激質(ラジャス)」「鈍質(タマス)」。

《第二章》[20節]「見る者」である真我は、真我の知が無知である思惟機能の鏡に反映して思惟機能が

知性を得るとき、対象を捉えている思惟機能のはたらき、すなわち思惟の表象を意識するのである。P222

《第一章》[2節]ヨーガとは心のはたらきを滅することである。 この経文はヨーガの定義を述べている。
ヨーガには有想(心作用が残っているもの)と無想(心作用が完全に滅したもの)の二段階が区別される。

[3節]そのときには、見る者(真我)は自己本来の状態に安住する。

心が無想の段階にあるときは、真我すなわち「絶対知」の能力は、自己本来の状態に安住する。

※心(意識の領域)は、「相対知」。 「絶対知 = 主客未分・ワンネス」。

[4節]その他の場合には、真我は心のはたらきと同じ形をとる。

心が活動状態にあるときは、真我は心のはたらきと区別されないはたらきをもつ。 真我と心とは、
無始よりこのかた互いに結びついているから、真我は心のはたらきを経験することができる。

[5節]心のはたらきは五種類で、煩悩性のものと非煩悩性のものとである。
煩悩性のものとは、煩悩を原因として生じたものであり、輪廻に導く業の潜在余力を蓄積する場となる。
非煩悩性のものは、心のはたらきと真我とを識別する知(解脱に導く真知)を対象とする。(以上、P211)

そ の 他

★《「バガヴァッド・ギーター」([訳]上村 勝彦、[出]岩波書店)》

プラクリティは、結果と原因を作り出す働きにおける因であると言われる。プルシャは、苦楽を享受する
ことにおける因であると言われる。というのは、プラクリティに宿るプルシャは、プラクリティから生ずる
要素(グナ)を享受するから。彼が要素と結合することが、彼が善悪の胎から生まれる原因である(P111)

見者が諸要素より他に行為者を認めず、また諸要素より高いものを知る時、彼は私の「状態」に達する。

身体より生ずるこれら三要素を超越してから、主体(固我)は、生老死苦から解放されて、不死に達する。
(P115)

純質的、激質的、暗質的な状態は、まさに私から生ずると知れ。しかし私はそれらの中にはなく、それらが
私の中にある。 これら三種の要素からなる状態により、この全世界は迷わされ、これらよりも高く、
不変である私を理解しない。実に、この 要素(グナ)からなる私の 神的な幻力(マーヤー)は超え難い。
ただ私に帰依する人々は、この幻力を超える。(P71~72)(※私=至高神クリシュナ)

※「シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド(中期、第4章9節)」より。
これ(原質)から魔術師(神)はこの全宇宙を創造した。
他のもの(精神原理)は魔術によってそれに結びつけられている。

★《「自己喪失の体験」([著]バーナデット・ロバーツ、[出]紀伊國屋書店)》

※無我の境地に目覚めた、敬虔なクリスチャンの女性。「自己喪失」とも表現しているが表現的なもので、
「解脱の境地」と考えられる。(※虚無状態のような境地も通過している)

後記「グノーシス主義」≫「グノーシスの神話」≫「断章3 イエスの知恵」 との類似性。

まず私が「純粋主体性」をどのように考えるかといいますと、
何かを知るとき、その知る者、知る対象、知る行為そのものがみな同一で分離していないことです。
しかしこの同一性は普通に経験される同一性、つまり既知の領域にある心的内容の同一性ではなく、
心で把握できない主客の合一で、それ自身にしか知られないものです。

この同一性における知は、それ自身の存在を存在の全体として知り、目それ自身を見る目と言ってもよく、

どこを見てもそれ自身しか見ないのです。(P124)

★《「ブッダ 悪魔との対話」(岩波書店)P261~262 》

── 神々の主であるサッカは、次の詩をとなえた。

「わたしは、こう思う。 他人が怒っているのを知ったときに、気を落ち着けて、静かにしているならば、
それが愚人を制止することである」

神々の主であるサッカがこの詩をとなえたときに、神々は随喜したが、阿修羅たちは沈黙していた。
そこで神々の主であるサッカは、阿修羅の主であるヴェーパチッティに次のように言った。
「ヴェーパチッティよ。詩を詠ぜよ」と。 ヴェーパチッティはとなえた。

「ヴァーサヴァよ。『 堪え忍ぶこと 』のうちにはこの過失があるのを、わたしは見ます。
『 かれは、わたしを恐れて忍んでいるのだ 』と愚人が思うときに、愚者は増長する。
逃げて行く人を見ると、牛がますます増長するように」

阿修羅の主であるヴェーパチッティがこの詩をとなえたときに、阿修羅たちは随喜したが、
神々は沈黙していた。そこで阿修羅の主であるヴェーパチッティは、神々の主であるサッカに、
次のように言った。「神々の主よ。詩を詠ぜよ」 このように言われたので、
神々の主であるサッカは、次のもろもろの詩をとなえた。

「『 かれは、わたしを恐れて忍んでいるのだ 』と思いたければ、そう思わせておけ。
そう思いたくなければ、それでもよい。

善き利のうちでも最上の利である『 堪え忍ぶこと 』よりもすぐれたものは、存在しない。──」

★《「臨済録」(岩波書店)P177 》

普化はある日、街に行って僧衣を施してくれと人びとに言った。みんながそれを布施したが、普化はどれも受け取らなかった。 師(※臨済)は執事に命じて棺桶一式を買いととのえさせ、普化が帰ってくると、
「わしはお前のために僧衣を作っておいたぞ」と言った。普化はみずからそれをかついで、
町々をまわりながら叫んだ、「臨済さんがわしのために僧衣を作ってくれた。わしは東門へ行って死ぬぞ」
町の人が競って後について行くと普化は言った。「今日はやめた。明日南門へ行って死ぬことにする。」
こうしたことが三日つづくと、もう誰も信じなくなり、四日目には誰もついて来る者がなかった。

普化はひとりで町の外に出て、みずから棺の中に入り、通りがかりの人に頼んで蓋に釘を打たせた。
この噂はすぐにひろまった。 町の人たちが先を争って駆けつけ、棺を開けてみると、なんと普化は

もぬけのからであった。 ただ空中を遠ざかっていく鈴の音がありありと聞こえるだけであった。 ♪


使用した本の一部紹介(この分野では トップクラス の良著だと思います)

~ 左から順に ~

★【 アイ・アム・ザット 私は在る ‐ ニサルガダッタ・マハラジとの対話 】
[編集]スダカール・S・ディクシット、[翻訳]モーリス・フリードマン、福間 巌
[出版]:ナチュラルスピリット

★【 意識に先立って ‐ ニサルガダッタ・マハラジとの対話 】
[編集]ジーン・ダン、[翻訳]髙木 悠鼓
[出版]:ナチュラルスピリット

★【 あるがままに ‐ ラマナ・マハルシの教え 】
[編集]デーヴィッド・ゴッドマン、[翻訳]福間 巖
[出版]:ナチュラルスピリット

★【 意識は語る ‐ ラメッシ・バルセカールとの対話 】
[編集]ウェイン・リコーマン、[翻訳]髙木 悠鼓
[出版]:ナチュラルスピリット

★【 誰がかまうもんか?! ‐ ラメッシ・バルセカールのユニークな教え 】
[著]ラメッシ・バルセカール、[編集]ブレイン・バルドー、[翻訳]高木 悠鼓
[出版]:ナチュラルスピリット

★【 世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え 】
[著]エックハルト・トール、[翻訳]あさり みちこ
[出版]:徳間書店

★【 バガヴァッド・ギーター 】
[翻訳]上村 勝彦
[出版]:岩波書店


グノーシス主義について(※まぁ一観点として参考に)

◆これは、キリスト教の起源と同時期に興った宗教哲学(& 神話体系)で、
興味ぶかくもあり、あるていど調べたのでここにいくらか書きます。
「根源意識(阿頼耶識)」は、グノーシスで主張するところの造物神ヤルダバオート(=旧約の神ヤハウェ)
のようなものを含んでる可能性はある。 そうだとしても仮想プログラムの一部(というか原理?)であり、
ほんとうの自由意志をもつ存在ではない、とここでは考えます。

当サイトでは、現象界は「一切皆空・一切縁起」、すなわち一切において実体がなく、縁起していて、
神的な存在であってもすべて全自動のプログラム(幻想)の一部、という見方を支持します。

個人的には、「創造神ヤハウェ」というのは、「世界仮現原理(というか統一仮想システム原理)」
のことを縁起プログラムが宗教物語にして人間の世界に投下してる、っていう感がないこともない。

◆~ あるいみでは、神?は存在する(※幻想原理)~

ここで個人的な経験から、「神?」についての考えを書いておきたい。(詳しくは書けません)
人生は仮想プログラムの「ジョーク」だが、神的プログラム?の中には 実際に人間に手を差しのべてくれる
ものもあるということ。 人生の苦難というか非常に困難な状況において、ハートを表現できる機会が
不自然に 与えられたりすることがあるが、そういう逆境での善行により救済プログラム的なものが発動する
場合がある。 縁起ゆえに、根本的錯誤を踏まえた上で、「あるいみ全て幻想の神」といえなくもないが、

「あるいみでは、神は人のハートの中にいる」といえるだろう。 別の言いかたをすれば、
真我(ホトケ)が心に反映された 純粋な部分(ハートの中心)がすべての人にあるが、それが隠されてる度合いが
色いろある。 どんな状態であれ適切に(※自然な流れで)ハートを表現していけば、即座にではないが、
真我の至高の力が縁起を通して何らかの形で現れてくるようになってる。 それが神的プログラムを通して
現れることもある。 タイミング しだいでは、もちろん短期間のうちに現れることもあるだろう。

私の体験は、「神的な存在」ということではなく、原理が作用してそのように現象化したのだと思います。
現象化とは、脳内で上方から行動を指示する声が響きわたったのだが(ビビリ)、その結果をふくめた話。

仮想世界の根本原理には「無知(不条理)」があるが、その根本プログラムに「至高の理法」がふくまれる。
たとえば人間にとって苦しい経験であっても、ある観点でいえばその時点ではしょうがないし、
行動次第でよいデータになったり、チャンスになることもある。そしてまた、仮想プログラムの性質を深く
理解しようと試みつつ瑜伽行(ヨーガ)を修めていけば、輪廻卒業に向かうようになってる(?)のだろう。
厳密ないみでの理由や事情は不明だが、これは本質的にはそのような「解脱ゲーム」であることはたしか。


グノーシス主義の歴史 & 概要 (グノーシス主義とは、被造世界・星辰界の低次視である)

※言葉の定義に注意(時代の違い?)。 グノーシス主義では、「魂」「心魂」は主に「心」の意味で
(霊体・原因体など含む)、「霊」は「霊魂・真我・至高の実在」のような意味で使われてることが多い。
または、つぎのように解釈できる場合もある。 「心魂」とは霊魂が心に同化している状態であるため、
それを解除して霊魂を霊(至高の実在)の側に目覚めさせることが救済である、と。 これには同意できる。

◆グノーシス主義の歴史について

グノーシス主義は、後記のような「反宇宙的二元論」を基礎とする「グノーシス(認識)による霊魂の救済論」

を特徴とする宗教哲学である。 キリスト教起源と同時期の哲学者、シモン・マグス の教説が主な起源と
おもわれるが、僅か前時代のギリシア哲学者、ポセイドニオス(BC135~BC51年)が書いたとおもわれる

「ポイマンドレース(ヘルメス文書)」がグノーシス的な要素をふくみ、これの影響も受けてるかも。

これは「古代エジプト神秘思想」を基礎とし?、「プラトン哲学 & 西方ミトラ教」の流れを汲んでいて、
この辺りが広義のグノーシス主義(思想)の源流とされる(※反宇宙論的思想は古今東西にみられるが)。

グノーシス主義は多くの派生説(分派)を生みだし、2~3世紀に地中海世界で勢力をもったあと衰退した。

★「ポイマンドレース・ヘルメス選集の第一文書(別ページ)」(※哲学的にも洗練されていて、好感触)
★ポイマンドレース(竹下雅敏・講演動画)  ★ミトラ教とカルデア神学(『グノーシス』で検索)
★グノーシスの神話(ポイマンドレース有、専門サイト)

シモンについては、現存する記録が新約聖書と教会側文書のほかは非常に少ないが、つぎのよう。
シモンはさまざまな魔術のようなものを大衆に披露し、一部では神?として崇拝されたりもしていたが、

あるとき使徒フィリポから洗礼を受けてキリスト教に入信した。 しかし彼は従順な信徒にはならず、
独自の宗教哲学をもち?、教団内で数々のトラブルを起こして追放された。

しかしシモンの教説は「元祖グノーシス主義」として信奉者らに受けつがれ、キリスト教を取り込んだもの
=キリスト教的グノーシス派ふくめ多くの分派を生みだしていった。 これが原始教会に敵対視され、

教会が力を持つにつれてグノーシス派は異端として弾圧された、

―― と考えられる。(★一部のグノーシス派の方が イエスの真の教えを受けついでる、という説もある)

ちなみに、シモンは本名だが「マグス(=魔術師)」は教会側による俗称。 この対立関係を考えると、
どちら側の文書もあまり当てにできないかもしれない(※グノーシス派は幅が広いので モノ による)。

しかし 実際のイエスの教えは、なんらかの事情で 隠蔽された部分はあるかも。 公式の情報は謎が多いし。

以上のような事情から、グノーシス主義の起源周辺に関しては、多くは推測の域を出ないのはやむをえず。

★オカルト英書『古今の秘密の教え(1928年)』の翻訳サイト(―― グノーシス主義の真実に迫る)

おそらくシモンの情報が最もあるのは、「The Gnostic Simon Magus(G・R・S・Mead 著)」という英書。
《 ココに内容掲載(英語)》「序文」一部翻訳▼

二つ目の理由は、シモンは当時や後世においても、伝聞を精査しない無知な人たちによって、
虚偽と誤解にもとづいて伝えられていると、私が信じていることです。 しかし私の主な理由は、
私達が彼らの言説に直接的に接近できたときには、神智学研究の現在の復興がシモンの教えに光を浴びせ、
それが世界中の宗教における深遠な哲学と、根本部分は同じであったことを示すからである。

※グノーシスとは古代ギリシア語で「認識」を意味し、至高神と自己(の本質)との本質的同一性の認識に
到達することを求める宗教哲学が、グノーシス主義。 すなわち、「叡知真知、梵我一如」みたいなこと。

《「I AM THAT 私は在る」P103~104 より》

▼質問者

あるマハートマ(真我実現した人)たちが、世界は偶然の産物でも神の戯れでもなく、
宇宙全体に意識を発展させ、覚醒をもたらそうとする壮大な計画の結果と表現なのだと主張しています。

(※中略)話の内容はこのようなものです。 あなたの教えとの違いは、あなたは世界を避けるべき、
価値のないものだと主張するのに対して、彼らは世界を忌み嫌うことは必要な通るべき段階ではあるが、
一過性のものであり、じきに普遍の愛と確固たる意志で神とともに働くことになる、ということです。
▼マハラジ

あなたの言うことはすべて、外へと向かう(プラヴリッティ)道にとっては正しい。源へ帰還する(ニヴリッティ)道
を行くものにとって、自己を無に帰することは必要なことなのだ。 私のいる無(パラマーカーシュ)の境界には、いかなる言葉も思考も届かない。マインドにとって、そこはまったくの闇と沈黙だ。

── 目標を定め、それに向かって闘い、方法と未知を探し、ヴィジョンとエネルギー、そして
勇気を示す、それがマインドの本性なのだ。 それは神聖な質であって、私はそれらを否定してはいない。
しかし、何の相違もなく、何も存在せず、それをつくり出したマインドもないというのが私の立場だ。

そこが私の居場所なのだ。 ── そこには分離などない。 私たちは分離し、孤立した自己ではない。

ただ個人と非個人がひとつである「真我、至高の実在」があるだけだ。

《「I AM THAT 私は在る」P135 より》

あなたはただ世界という夢を見ているのだ、ということを悟りなさい。そして、出口を探すのはやめなさい
夢があなたの問題なのではない。 問題は、あなたが夢のなかのある部分が好きで、別の部分が嫌いだと
いうことだ。 すべてを愛すがいい。 あるいは何も愛さないことだ。 そして不平を言うのはやめなさい。

あなたが夢を夢として見たとき、為すべきことはすべて為し終えたのだ。

※これ(すべてを愛す~)は、「心」には、完遂するのはムリかと。
多分これは、好き嫌いがつよいために心の静寂を失っている質問者に対し、少し極端に言った感じかも。
あるいはこれは、TOPページ「覚者たちの言葉」でルパート氏が言ってる、
「愛、純粋な親密さの立場」「叡智と啓示の立場」、に通じる(近い?)意味、という捉え方もできる。
※関連: TOPページ「真我探求のリアリティ」≫「★マハラジ語録(THE 真我探求)」

《「意識に先立って」P82 より》

▼マハラジ
まず最初にここ、「私は在る」から出発し、そのあとで世界が何であるかを発見しなさい。
この「私」の本質を発見しなさい。
▼質問者
なぜ現実ではない「私」について発見するのですか?
▼マハラジ

「私」こそが、そこからあらゆるものが出て来る種だからだ。もし種がなければ宇宙もない。
どうやってあなたはこのいわゆる物質世界に入って来たのだろうか?

ここではすべてが一掃されることだろう。 私はあなたのために、故郷へ帰るようにと招いているのだ。

◆グノーシス主義の概要

★Wikipedia「グノーシス主義」
グノーシス主義には様々なバリエーションがあるものの、一般的に認められるのは「反宇宙的二元論」
呼ばれる世界観である。 反宇宙的二元論の「反宇宙的」とは、否定的な秩序が存在するこの世界を受け
入れない、認めないという思想あるいは実存の立場である。言い換えれば、現在われわれが生きているこの
世界を悪の宇宙、あるいは狂った世界と見て、原初には真の至高神が創造した善の宇宙があったと捉える。

グノーシスの神話では、原初の世界は、至高神の創造した 充溢(プレーローマ)の世界である。 しかし
至高神の神性(アイオーン)のひとつである ソフィア(知恵)は、その持てる力を発揮しようとして、

ヤルダバオートあるいはデミウルゴスと呼ばれる狂った神を作った。 ヤルダバオートは自らの出自を忘却
しており、自らのほかに神はないという認識を有している。グノーシスの神話では、このヤルダバオートの
作り出した世界こそが、我々の生きているこの世界である、と捉えられる。

★Wikipedia「デミウルゴス」

グノーシス主義では、『旧約聖書』に登場するヤハウェと名乗っているデミウルゴスを、固有名で
「ヤルダバオート」と呼んでいた。『旧約聖書』において愚劣な行為を行い、悪しき行いや傲慢を誇示しているのは、「偽の神」「下級神」たるヤルダバオートであるとした。

★グノーシス主義概論(専門サイト)《 魂の救済 》

── それに対し、グノーシス主義における「救済の要件」は、プレーローマの「知り難い至高神」への信仰
の度合いで決まるのではない、と云う点が異なります。グノーシス主義は、まさに「グノーシス」の主義と

云うその名が語る通り、「グノーシス = 叡智・認識・知識」を人(の魂)が熟知しているか、

真の神と偽の神(デミウルゴス)の対立になる、この全世界の「反宇宙的二元論」構造を覚知し認識して
いるかと云うことが、救済の要件となると云っても過言ではありません。

★《「グノーシスと古代宇宙論」([著]柴田 有、[出]勁草書房)P122 》
<補遣2「ポイマンドレース」>
[15]この故に、人間はすべての地上の生き物と異なり二重性を有している。すなわち、身体のゆえに死ぬ
べき者であり、本質的人間のゆえに不死なる者である。不死であり、万物の権威を有しながら、運命に服して死ぬべきものを負っている。 こうして世界組織の上に立つ者でありながらその中の奴隸と化している。

「グノーシスの神話」([訳・著]大貫 隆、[出]講談社)から抜粋

★《 P16 ‐ グノーシス主義の世界観と救済観 》
グノーシス主義とは何か。
── 歴史的には、初期ユダヤ教の周縁に、原始キリスト教とほぼ同じ頃に現れ、やがてキリスト教と
接触するに及んで、最大の『異端』とされた。 なぜなら、本来の人間は至高の神の一部である、
という思想であったからである。 ただし、現実の人間は居場所を間違っている。 それゆえ、自分の本質を

認識(ギリシア語で「グノーシス」)して、本来の場所へ立ち帰らねばならないというのである。

◆「至高の神」について

★《 P59 ‐ トポス1 否定神学 》

グノーシス主義神話の多くは「存在しない神」が存在する という逆説から始まる。この逆説の意図は、

グノーシス主義者が奉ずる至高神が通常の人間の表現能力はもちろんのこと、それまでさまざまな宗教や
哲学説の中で神について行われてきたあらゆる言表、さらには他でもない当のグノーシス主義者たち自身の

表現能力さえも越えるほどに超絶的な存在 であることを、何とかして言い表そうとするところにある。

★《 P62 ‐ 断章2 三部の教え(ナグ・ハマディ文書)》
この彼(父)は、生まれることも死ぬこともない者であるがゆえに、「初めも終わりもない者」

呼ばれるに留まらない。むしろ、始まりも終わりもないことが現に彼の在り方であるように、その偉大さに
おいて達しがたく、その知恵において近づきがたく、その権威において把握しがたく、その甘美さにおいて
究めがたい者である。(※中略)
彼自身の存在そのもの、その在り方そのもの、そのかたちそのものについて言えば、

人間のいかなる知力も彼を知解することはできず、いかなる言葉も彼を表現できず、――。

★《 P64 ‐ 断章3 イエスの知恵(ナグ・ハマディ文書)》

だが、その方にはその方自身の固有のイデアがある。 あなたがたが見たことのあるような、あるいは

受けたことがあるようなものではなく、異質のイデアである。 というのは、そのイデアは他の一切のもの

と違っていて、万物よりも優れているからであり、あらゆる方向から見、自分自身を通して自分を観るから
である。 ※「イデア = すがた、存在(実在)、本質」 みたいな意味。

前記「覚者たちの教え」≫「その他」≫「自己喪失の体験(バーナデット)」 との類似性。

★《 P65 ‐ 断章4 バシリデースの教説 》

存在しない神は ―― 知られず、知覚されず、計画されず、熟慮の末の決断としてではなく、
情緒の影響を受けずに、欲望なしに、世界を造りたいと思った。

★《 P92 ‐ 断章15 ヨハネのアポクリュフォン(ナグ・ハマディ文書)》
ソフィアの考えは無為のままでいることができなかった。 彼女の業が現れ出た。それは不完全で醜悪な
外貌をしていた。というのも彼女は伴侶なしにそれを作り出したからである。 そしてそれは母親の姿に似て
いなかった。母親とは異なる形をしていたからである。 そこで彼女が思案しつつ見てみると、その外貌は
別の形になっていた。 蛇とライオンの外貌を呈していたからである。 彼の目は火のような光を放っていた。
彼女はそれを自分のそばから投げ捨てた。 かの場所から外へ。 それは不死なる者たち(神々)の誰一人と
してそれを見ることがないようにするためであった。 というのも、彼女はそれを 無知の中 に産み落とし

てしまったからである。 彼女は彼に光の雲を巻き付けて、その雲の真中に王座を置いた。 それは、

「ゾーエー(生命)」あるいは「万物の母」と呼び習わされる聖霊の外には 誰も彼を見ることがないように
するためであった。そして、彼女は彼を ヤルダバオート と名付けた。 ※「ゾーエー = 永遠の命、霊魂」

★《 P110 ‐ 断章28 アルコーンの本質(ナグ・ハマディ文書)》
その獣(=造物神)は目を開いた。彼は大いなる無窮の物質を見た。 そして高慢になって、言った。
「私こそが神である。 私の他には何者も存在しない」と。 彼はこう言った時に、万物に対して罪を犯した
のである。 さて、権威の高み からある声が到来して、こう告げた。

「お前は誤っている、サマエールよ」と。「サマエール」とはすなわち、盲目の神 という意味である。

「トマスによる福音書」([著]荒井 献、[出]講談社)から抜粋

※「トマスによる福音書」は、1945年にエジプトで発見された「ナグ・ハマディ文書」に含まれる文書で、114節 の短文からなるイエスの語録集である。 本文中に、使徒トマスによって書き記されたとある。
これは 正統教会により外典として退けられた、いわゆるキリスト教的グノーシス派に属す、とされる文書。
内容は外典ぽさはとくになく、正典と並行する箇所も多い。 比喩的表現で難解な箇所はけっこうある。
この文書の原作者はトマスの信奉者(正統教会内の 軽グノーシス主義者の説あり)らしく、捏造度については
何とも判断しにくいところ。 ユダの福音書は「バルベーロ王国」(2世紀後半のグノーシス分派に特有)
がでてくるので、捏造くさいと思ったが(笑)。
この本はイエス語録だけでなく、関連分野をふくむ包括的な解説がある。 福音書の冒頭には以下のように、
「イエスの言葉を体現?すれば、不死の境地に目覚めるだろう」 のようにとれる記述がある。

「これは、生けるイエスが語った、隠された言葉である。 そして、
これを ディディモ・ユダ・トマス が書き記した。」  ── そして、彼(※イエス)が言った。
「この言葉の解釈を見出す者は死を味わうことがないであろう。」(福音書冒頭 P120~121 より)

ちなみに、正典の「ヨハネ福音書」でこれと並行する箇所は、
「もし人がわたしの言葉を守るならば、その人はいつまでも死を見ることがないであろう」 になる。

★《 P103 ‐ グノーシスの神話論 》
はじめに 上界に、至高者(「原父」「父」または「霊」)があった。
彼は女性的属性(「思い」「知恵(ソフィア)」または「魂」)と対をなし、彼らの「子」と、いわば
「三位一体」を形成していた。 女性的属性は至高者を離れて、上界から中間界へと脱落し、ここで
「諸権威」あるいは「支配者たち」を産む。 彼ら──とりわけその長なるデミウルゴス──は、至高者の
存在を知らずに、「母」を陵辱し、下界と人間を形成する。 こうしてデミウルゴスは「万物の主」たること
を誇示し、中間界と下界をその支配下におく。 しかし至高者は、女性的属性を通じて人間にその本質(霊)

を確保しておく。 デミウルゴスの支配下にある人間は、自己の本質を知らずに、あるいはそれを忘却し、

「無知」の虜となっている。 人間は自力でこの本質を認識することができない。 そこで至高者は、
下界にその「子」を啓示者として遣わし、人間にその本質を啓示する。 それによって人間は自己にめざめ、
自己を認識して、「子」と共に上界へと帰昇する。 中間界と下界(宇宙全体)は解体され、万物は上界の
本質(霊)に帰一し、こうして「万物の更新」が成就する。 (※ソフィアは、プラクリティ的である)

~「トマス福音書のイエス語録」から抜粋 ~

※たびたび出てくる「単独者」は、「解脱者(真我実現者)」のいみと思われる(翻訳の関係?)。

★[18節]あなたがたは一体、終わりを求めるために、はじめを見出したのか。 なぜなら、
はじめのあるところに、そこに終わりがあるであろうから。 はじめに立つであろう者は幸いである。
そうすれば、彼は終わりを知るであろう。 そして死を味わうことがないであろう。(P150)

★[39節]パリサイ人や律法学者たちは知識(グノーシス)の鍵を受けたが、それを隠した。
彼らも入らないばかりか、入ろうとする人々をそうさせなかった。しかしあなたがたは、蛇のように賢く、
鳩のように素直になりなさい。(P182)

これは、正典「ルカ福音書(11章)▼」ではつぎのようになる。

[52節]あなたがた律法学者は、災いである。 知識の鍵を取りあげて、自分が入らないばかりか、
入ろうとする人たちを妨げてきた。
[53節]イエスがそこを出て行かれると、律法学者やパリサイ人たちはイエスに激しく詰め寄り、
質問攻めを始めた。
[54節]彼らは、イエスの口から出ることに言いがかりをつけようと、ひそかに計った。

★[3節]もしあなたがたを導く者があなたがたに、「見よ、御国は天にある」と言うならば、
天の鳥があなたがたよりも先に御国へ来るであろう。 彼らがあなたがたに、「それは海にある」と
言うならば、魚があなたがたよりも先に御国へ来るであろう。(※正典「ルカ福音書」に類似文あり)

そうではなくて、御国はあなたがたの只中にある。 そして、それはあなたがたの外にある。
あなたがたがあなたがた自身を知るときに、そのときにあなたがたは知られるであろう。
そして、あなたがたは知るであろう、あなたがたが 生ける父の子らであることを。 しかし、あなたがたが
あなたがた自身を知らないなら、あなたがたは貧困にあり、そしてあなたがたは貧困である。(P125)

★[75節]多くの人々が戸口に立っている。 しかし花嫁の部屋に入るであろう者は、単独者だけである。(P237)

★[4節]日々にある高齢の老人は、生後七日目の小さな子供に命の場所について尋ねることを躊躇しない
であろう。 そうすれば彼は生きるであろう。 なぜなら、多くの先の者は後の者となるであろうから。
そして、彼らは単独者になるであろうから。(P126)
★[49節]単独なる者、選ばれた者は幸いである。なぜなら、あなたがたは 御国を見出すであろうから。
なぜなら、あなたがたがそこから来ているのなら、再びそこに行くであろうから。(P201)

★[19節]成った前に在った者は幸いである。 あなたがたが私の弟子になり、私の言葉を聞くならば、
それらの石があなたがたに仕えるであろう。 というのは、あなたがたは パラダイスに五つの木 を持って
おり、それらは夏冬揺れず、それらの葉が落ちないからである。
それらを知る者は死を味わうことがないであろう。(P151)

★[56節]この世を知った者は、屍を見出した。 そして、屍を見出した者に、この世はふさわしくない。
(P208)(※注釈:「この世の本質を知った者は、それが屍であることを見出した。―― 」)

★「迷い出た一匹の羊」 正典、マタイ福音書(18章 10~14節)
これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。 言っておくが、彼らの天使たちは
天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。 人の子は、失われたものを救うために来た。

※「人の子」は、救い主としてのイエスのこと。

あなたがたはどう思うか。 ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、
九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。 はっきり言っておくが、

もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。
そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。

※後半は、「トマス福音書」にほぼ同じ意味の文あり。


使用した本の紹介

★【 グノーシスの神話 】
[翻訳・著]大貫 隆、[出版]:講談社

★【 トマスによる福音書 】
[著]荒井 献、[出版]:講談社

★【 グノーシスと古代宇宙論 】
[著]柴田 有、[出版]:勁草書房

※「ポイマンドレース」の解説が、とくに興味深い。


ジャイナ教関連

ジャイナ教は古代インドで仏教の釈迦と同時代に(← 専門家の説)、マハーヴィーラが創始した宗教。
当時のインドでバラモン教と異なる新しい思想運動、いわゆる沙門宗教を仏教とともに形成したため形式上の
類似点がたくさんあり、仏教と姉妹宗教ともいわれる。 彼はバラモン教の形式主義、神秘主義的要素などを
否定し、またカースト制度に反対的だった(※これらは釈迦と共通する)。

簡単にいうと、バラモン教では神々を賛美して祭式を行うけど、ジャイナ教や仏教は、
基本的にグノーシス(反宇宙論)的な観点で、神々も幻想の一部とみてその幻想からの解脱を説く宗教。

国外にはほとんど伝わらなかったが、インド国内で長きにわたり諸方面に影響を与え、現在でも400万人強の
信徒が存在。 徹底したアヒンサー(不害・不殺生)と苦行・禁欲主義を主軸とする独特な教義で知られる。

マハーヴィーラは BC549年頃(BC444年、諸説あり)、マガダ国にクシャトリヤ階級(王族)として生まれ、
30歳で出家してニガンタ派の行者となり、12年間の苦行ののち真理を悟って「ジナ(勝利者)」となった。
釈迦と同時代にほぼ同地域で活動したようだが、教祖同士の交流の記録はない。 しかし、道端ですれ違って
た可能性はあるかも。 王族出身で青年期に世俗を捨てて修行に入った点など、共通点が多い(※運命的?)。

伝統的に、仏教徒とジャイナ教徒は仲がよくない?というか、議論の記録がけっこう残っている。
その論点の多くは、「アートマン(霊魂)」に関係するものである。

仏教では「諸法無我・五蘊無我」が説かれるが、この「無我」がひとり歩きしてしまった、ともいわれる。
一方、ジャイナ教では霊魂に付着する業物質(カルマ)の除去と防止を非常に重視する(※解脱の方法)。
こういった議論がこじれる原因は、教義(観点・見解・表現・強調点)が異なることにある、といえよう。

マハーヴィーラは言語による真理の表現の可能性を深く模索し、真理は多様に言い表せる と説き、
一方的判断(単独観点)をさけて相対的に考察することを教えた(※相対主義)。
具体的には、「これである」「これではない」という断定的表現をさけ、つねに「ある点からすると」
という限定を付けるべきだとする「スヤード・バーダ理論」を説いた。

ジャイナ教説によれば、、解脱後も霊魂の個別性が存続し、永遠・無限の至福の中に成就者が無数に存在す。


★仏教徒とジャイナ教徒の議論の例(↓)
http://nbra.jp/publications/71/pdf/71_28.pdf

★ジャイナ教の伝統的な解脱観(※「ジーヴァ = 霊魂」)
世界はジーヴァ(精神)とアジーヴァ(非精神)に分けられる。 アジーヴァとは、プドガラ(物質)、
ダルマ、アダルマ、虚空である。 プドガラは全て、業(カルマ)になる可能性を持っており、その業が
ジーヴァに漏入することによってジーヴァは上昇性を損なわれ、輪廻の世界に束縛される。 しかし、

身体・言葉・心 を統御することによって新たな業の漏入を遮断し、苦行の力によって過去の全ての業を
止滅することが出来れば、ジーヴァは束縛を離れ上昇性を取り戻して世界の究極点に到達し、解脱する。

★完全に平静を保ってカルマに耐えるマハーヴィーラ(by アーチャーランガ・スートラ)
彼は棒、拳、槍で打たれ、果物、土くれ、陶片をぶつけられた。彼を何度も打ちのめして大勢の人が罵声
を上げた。 彼が一たび腰を下ろして動かなくなると、大勢の人たちが彼の体を切りつけ、痛々しく髪を
引き裂き、ごみをかけた。 彼が宗教的な思索にふけっているときに彼を持ち上げては落とし、あるいは
振り回した。 尊者は体の世話をすることをやめ、心を謙虚にして痛みに耐え、欲望から解放される。

戦闘の先頭で英雄が周囲を囲まれるのと同じように、マハーヴィーラも囲まれている。
あらゆる苦難を被っても尊者は心をかき乱されることなく、ニルヴァーナへの道を突き進む。

★(※前略)いわゆる永遠なるものを提示する者があっても、神の欺瞞を信じてはならない。
信のある者はこれを認識し、一切の幻を振り払え。 何物によっても眩惑されず、
彼は生涯の終わりに達する。 あくまでも持続が主要事であると認識する時、何ぴとであれ解脱に適する。
これが我が主張である。《「アーヤーラ・ダサーオー 経典」より》

★勝利しがたい戦闘において百万の敵に打ち勝つ者にとっても、

一つの自己を克服することが最高の勝利である。《「ウッタラッジャーヤー 経典」より》


仏教関連(原始仏典から抜粋)

※TOPページ「仏教とハイリアリティ」 に、関連事項があります。

◆仏教の根本理念(四法印)

※この順番に、意味があると思われます。

【諸行無常】 (縁起している)この世のものごとは絶えず変化する 。

【一切皆苦】 現れた世界のすべては不完全。(※苦・ドゥッカ = 無常であるゆえの苦)

★【諸法無我】 現れた仮相の世界に、永遠不変の本性であるアートマン(真我・自己)は存在しない 。

【涅槃寂静】 涅槃は静寂の安らぎの境地である。

※「苦(ドゥッカ)」: 原義は、「無価値で空(カラ)、つまるところ価値ない」 のような意味もあるぽい。
★「ドゥッカ」の意味について(by 日本テーラワーダ仏教協会)

◆ダンマパダ、ウダーナヴァルガ(原始仏典)

「ブッダの真理のことば、感興のことば」([訳]中村 元、[出]岩波書店)

※「スッタニパータ(後記)」とならび、最古層とされる経典。

実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。
怨みをすててこそ息む。 これは永遠の真理である。(P10)

他人の過失を見るなかれ。 他人のしたこととしなかったことを見るな。
ただ自分のしたこととしなかったことだけを見よ。(P17)

「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな知慧をもって観るときに、
ひとは苦しみから遠ざかり離れる。 これこそ人が清らかになる道である。
「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)と明らかな知慧をもって観るときに、
ひとは苦しみから遠ざかり離れる。 これこそ人が清らかになる道である。

★「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな知慧をもって観るときに、
ひとは苦しみから遠ざかり離れる。 これこそ人が清らかになる道である。(P49)

◆ウダーナヴァルガ(原始仏典)

「ウダーナヴァルガのギルギット写本」より

※「ダンマパダ」「スッタニパータ(後記)」とならび、最古層とされるサンスクリット経典。

★比丘たちよ、もし生じたのではないもの、現れたのではないもの、作られたのではないもの、
形成されたのではないもの、生起したのではないものがないならば、
「生じたもの、現れたもの、作られたもの、形成されたもの、起こったもの、
縁起したものを離れることがある」 と私は説かないであろう。

ところが比丘たちよ、生じたのではないもの、現れたのではないもの、作られたのではないもの、
形成されたのではないもの、生起したのではないものがあるから、だから

「生じたもの、現れたもの、作られたもの、形成されたもの、起こったもの、
縁起したものを離れることがある」 と私は説く。

◆スッタニパータ(原始仏典)

「スッタニパータ・釈尊のことば」([訳]荒牧典敏・本庄良文・榎本文雄、[出]講談社)

《訳者あとがき》「『スッタニパータ』の第四章、第五章には釈尊自身の話した古い東方方言のマガダ語と

みられる要素が含まれており、その点からも、より釈尊の時代に近い最古層経典と位置づけられる。
釈尊の生の声、本来のおしえ を現在に伝える貴重な経典がスッタニパータであると言ってもいいだろう。」

※以下は上から、第三章、第五章(最後の2つは第四章)、のものです。

楽であろうと、苦であろうと、楽でもなく苦でもないものであろうと、内面的なものであろうと、
外面的なものであろうと、感受されるものはなんであれ、すべて消滅し、虚ろなものとなるものであり、

したがって、苦しみ以外の何ものでもないと知り、何かを体験するたびに、それは消滅するものだと
見極め、こうしてそれから心が離れる。 かくて、感受を消滅させることによって、比丘は、欲望なく、
完全な安らぎにはいっている。(P190) (※この潔い論法が、釈迦の特徴)

すべて放捨してしまい、いつまでも「●世間的存在」でありつづけようとする深層の欲望を完全に知って、
無限の過去以来漏水してきた輪廻的存在の潜勢力のなくなった人々があるならば、そのような人々は、
生死の洪水を渡りきっているとわたくしは説くのである。(P289)

比丘たるものは、さとりの智慧によってさとって、★あるがままに「いまここの存在」を自覚しつつ、
いかなる世間においても、★いかなる「世間的存在」をも所有しないようにするがよい。
世間的存在を所有しつづける執着があるかぎり、ここなる諸生物は死神の跳梁する領域につなぎとめ
られる、というように観察して思惟することによってである。(P296)

つねに瞬時をおかず、★あるがままに「いまここの存在」を自覚しつつ、自我的存在を思考するドグマを
引き抜くように、★ここなる「世間的存在」は空である、そこに自我は存在しない、と観察しつつ
思惟するがよい。 そのようであるならば、死神の跳梁する領域を超越するであろう。
そのように世間的存在を観察しつつ思惟するならば、その人を死神の大王が見つけることはない。(P300)

《第四章》 「いまここに実在する根本真理」とまったく一つになっていてゆるぎなく、

★あらゆる「●身体存在や対象存在」をあらゆるところにおいて放捨しきっているならば、

そのような沈黙の聖者にして真のバラモンたる人こそ、大地にしっかりと安住している。(P255)

《第四章》 ★「世間的存在」であるかぎり、さまざまな基本条件に、束縛されているのではあるが、
いつまでもそのような基本条件に安住しつづけることをやめよ。 あらゆる欲望の対象を完全に厭い捨てて、

★自己自身の精神の「アートマン」に帰入する 静寂の涅槃を学道修行するようにせよ。(P254)

◆仏陀、最期のことば(原始仏典)

「ブッダ最後の旅・大パリニッバーナ経」([訳]中村 元、[出]岩波書店)

―― そこで尊師は修行僧たちに告げた。
「さあ、修行僧たちよ。 お前たちに告げよう。
もろもろの事象は過ぎ去るものである。 怠ることなく修行を完成なさい。」 と。

これが修行をつづけて来た者の最後のことばであった。(P168)



★Silence(Gold Remix): Delirium
★My Heart: Different Heaven & EH!DE

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