イザベル・デ・ポルトゥガル

ページ名:イザベル デ ポルトゥガル


イザベル・デ・ポルトゥガルはブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公)の3度目の妃。芸術家や詩人と交流するのが好きで、結婚手配などの交渉が上手く、外交面においては夫に最も影響を与えた女性であった。


1397年 ポルトガル王国のエヴォラでジョアン1世と王妃フィリパとの間に生まれる。彼女の姉妹たちは1歳未満で早世したため、実質的には唯一の王女であった。リスボンの宮廷で、ドゥアルテ1世エンリケ航海王子、フェルナンド王子ら優秀な兄弟たちとともに育てられた。両親は、子供たちに外国語、数学、科学を身につけさせた。特にイザベルは政治に関心があり、勉強しているうちにラテン語、フランス語、英語、イタリア語が堪能になった。また、幼い頃は兄弟たちと乗馬するのが好きだった。 イングランド王女である母の影響から、彼らはイングランドびいきに育った。
1415年[18歳] 従兄のイングランド王ヘンリー5世との縁談が持ち込まれた。ポルトガルを味方に引き入れ、フランスに対抗するためである。イザベルは18歳の結婚適齢期だったが、この婚約は成立せず、以後13年間イザベルは縁談を承諾しなかった。同年、母フィリパがペストで急死した。母親と仲が良かったイザベルは母の死を悲しんだ。


1428年[31歳] 当時、ブルゴーニュ公フィリップ善良公は2度の結婚を経験していた。最初の妻ミシェル・ド・フランスは遺伝性の精神病を患っており、2度目の妻ボンヌ・ダルトワも死別し嫡子が得られなかった。3度目はイングランドから迎えたいと善良公は考えた(ミシェルとボンヌはフランス王族だったが、3度目の妻を得ることでイングランドとの同盟関係を強固にしたい思惑があった)。 善良公が注目したのは、ポルトガル王女イザベルだった。当時の結婚適齢期を過ぎた31歳ではあったが、非常に知的かつ健康で多産系の家柄であることが目を引いたのである。
12月、ブルゴーニュ公国はポルトガル王国のリスボンに代表団を派遣、結婚を取り決める協議を請求した。ジョアン1世と兄弟たちは話し合ってこの結婚を合意した。ポルトガルは、イングランドの同盟以外にもフランドル商人と同盟することになり、この縁談を喜んだ。


1429年[32歳] イザベルは結婚式を挙げるため船でブルゴーニュへ旅立った。
1430年[33歳] 1月にスロイスに到着し、ブルッヘで善良公と結婚式を挙げた(同時に金羊毛騎士団が設立)。ディジョンに入ると、夫は彼女を連れて領内のヘント、リール、ブリュッセル、アラス、ペロンヌら諸都市を巡った。なお道中にイザベルの妊娠が判明した。6月にノワイヨンで監禁中のジャンヌ・ダルクに夫と共に面会。
ブルゴーニュ公国の王宮に入った際は、夫の行動に動揺していた。夫はイザベルに多くの贈り物を与える反面、忠誠や純潔さを一切感じさせなかった。さらに、王宮とは離れたところで多くの女性と恋人関係になり、その間に生まれた非合法の子供は50人以上いた。
12月、クーデンブールで第1子アントワーヌを出産したが、ひ弱な赤ん坊で早世した。


1431年[34歳] 秋に再度の妊娠がわかった頃、フランス王シャルル7世がディジョンを攻撃していたため、善良公はクーデンブールから離れていた。この時、夫の不在時に代理として守備を固め、王軍の攻撃を乗り切ったとされる。
1432年[35歳] 次男ジョゼフを生む。
1433年[36歳] 三男シャルルを生む。シャルルは真面目だったが、人間不信で粗暴な面もあった。
善良公とイザベルの結婚はイングランドとの関係強化にならなかった。イザベルの従兄に当たるベッドフォード公ジョン(ヘンリー5世の弟)は善良公の妹アンヌと結婚していたが、善良公の結婚に出席せずブルゴーニュとイングランドの関係は徐々に冷え込んでいったのである。去年にアンヌと死別したベッドフォード公はこの年でジャケット・ド・リュクサンブールと再婚、そのことで善良公と一層疎遠になった。


1435年[38歳] アラスでイングランド・フランス・ブルゴーニュ講和会議が開かれると夫と共に出席、イングランドが退去しフランス・ブルゴーニュ間でアラスの和約が成立すると、イザベルはシャルル7世から両国の和平に尽力したとして4000ポンドの恩給を送られた。
1439年[42歳] 調停に出て休戦協定締結(イングランド・ブルゴーニュ間)に一役買った。
1440年[43歳] 夫の政敵でイングランドに捕らえられていたオルレアン公シャルルの釈放にも尽力。釈放されたオルレアン公は善良公と和睦して彼の姪マリー・ド・クレーヴと結婚した。
1441年[44歳] 1443年まで不在だった夫に代わって摂政を務めた。
1444年[47歳] 反乱状態だったオランダとの交渉を務めた。


1457年[60歳] 息子と一緒に穏やかな生活をしたいと思い、この頃から夫と距離を置く。意見が割れたためイザベルはラ・モットー・オ・ボイ(La Motte-au Boi)の城に身を移し、夫の政治による犠牲者を保護する王宮を設立した。実際に、夫の軍事作戦によって被害を受けたフランダース軍を支援していた。また、彼女の甥であるポルトガル王国のフェルナンドにジョッセ・ファン・フエルターを進めた。
1468年[71歳] 夫の死後シャルルが公位を継ぐと、フランスへの対抗でイングランド・ブルゴーニュ間を結ぶため、シャルルの3番目の結婚相手にイングランド王エドワード4世の妹マーガレット・オブ・ヨークを選び、この年に挙行された結婚式に出席した。ポルトガル・イングランド・ブルゴーニュを繋ぐことが狙いだったとされる。
1471年[74歳] ブルゴーニュ公国のディジョンで亡くなった。


ポルトガルとブルゴーニュの縁組は両国に利益をもたらす結果になった。当時のポルトガルはエンリケ航海王子の許で航海事業が発達していたため、ブルゴーニュは国の主要産業である毛織物の市場が拡大したばかりではなく、国内に東方(オリエント)の産物がもたらされた。逆に、ポルトガルにはフランドルの洗練された文化がもたらされた。


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