劉理_(安平王)

ページ名:劉理_(安平王)
曖昧さ回避この項目では、蜀漢の諸侯王について記述しています。後漢の甘陵威王については「劉理」をご覧ください。

早世した“劉備の孫”と思われる劉理

劉理(りゅうり、215年? - 244年)は、『三国志』に登場する蜀漢)の皇族。字は奉孝。諡号は安平悼王。生母は未詳(後述)。子は劉胤(哀王)・劉輯(武邑侯)、孫は劉承(殤王)、妻は馬超の娘。

烈祖穆帝(繆帝)劉備の末子あるいは孫、異母兄あるいは伯父は劉封[1]、同じくあるいは叔父は後主懐帝劉禅と魯王・劉永、甥もしくは従兄弟は甘陵王・劉琳劉林[2]、同じくもしくは従弟は太子兼梁王・劉璿と北地王・劉㻣ら(後述)。

一説では「劉禅の同母兄の劉公仲[3]の遺腹の子が正しいという(後述)。

目次

概要[]

221年夏6月、父あるいは祖父・劉備が漢の皇帝として即位すると、司徒の許靖を派遣し、安平王に封じられた。

勅命書に言う「少孫理よ、汝を東方の安平の王とする。当方は(太子を意味する)梁王の地に近く、儒教の聖地に接しており、民は馴染み易いであろう」というものであった。

230年、子の劉胤を安平王の太子とすることを認め、臨邑侯に封じられた。次男の劉輯を武邑侯に封じられた。

244年、劉理は若くして逝去した。悼王と謚され、劉禅は異母弟もしくは甥の劉理の訃報に心を悼んだという。長男の劉胤が後を継いだ。

256年、劉胤が亡父同様に早世した。哀王と謚され、その子の劉承が幼くして後を継いだが、翌257年に夭折した。殤王と謚された。

261年、後主・劉禅は「安平王は先帝の遺命による諸侯王だったが、3代が相次いで若死にし、嫡流は断絶した。朕は(甥の)安平王家の断絶に忍びないので、幼王(劉承)の叔父である武邑侯・劉輯を王に昇格させる」との詔を出した。

263年、蜀漢が滅亡すると、劉輯は叔父もしくは大叔父の劉禅一家に同伴し、洛陽に赴いた。そこで騎都尉に任命され、某郷侯に封じられた[4]

劉理に関する隠された事項[]

『東観漢記』・『元本[5]・林国賛の『三国志裴注述』などを総合した本田透『ろくでなし三国志』)によると、以下になる。

  • 蜀書』劉理伝では「劉理は先主(劉備)の末子で、後主(劉禅)および劉永の異母弟で、生母は未詳で、221年に梁王に封じられ、230年に安平王に改封された」と述べている
  • しかし劉理の字である「奉孝」や、劉備の孫の世代である「王偏」の諱である「理」を連想すると、劉備の孫で、劉封・劉禅・劉永の甥の可能性が高い[6][7]
  • 『蜀書』劉永伝では「劉永は230年に甘陵王に改封され、264年に奉車都尉に任命され、郷侯に封じられた」とあるが、同じく『蜀書』劉理伝でも「劉輯は奉車都尉に任命され、郷侯に封じられた」とあるので、ここでは取り上げない
  • 実際の劉輯は騎都尉に任命され、某郷侯に封じられたのが真相と思われる[8]

結論

劉理は劉備の孫で、劉封の異母弟の子あるいは劉禅の同母兄の子とする可能性が高い。叔父とされる劉禅からも可愛がられたことを見ると、皇族としての地位は高かったと推測される。

脚注[]

  1. 実際は真偽のほどは不詳である。
  2. 実際は従弟とする説が正しいという。
  3. 生没年は197年?~214年?といい、諱は不詳という(『元本』(『元大徳九路本十七史』))。
  4. しかし、『永嘉の乱』(307年~312年)で劉輯の子や孫は、侵入したトルコ系遊牧民族の匈奴や鮮卑などに皆殺しされたという。
  5. 正式には『元大徳九路本十七史』と呼ばれ、元の大徳10年に池州路儒学によって刊行された『三国志』関連文献書。
  6. 前述のように劉禅の同母兄・劉公仲の子とする説もある。
  7. 同時に劉理自身が祖父・劉備の養子になった可能性もある。
  8. この曖昧さは諸葛亮崇拝者の陳寿の誤植か意図的な改竄と思われる。

関連項目[]



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