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あっけなく殺害された劉璿
劉璿(りゅうせん、223年/224年 - 264年)は、『三国志』に登場する蜀漢(蜀)の皇太子。字は文衡。諱は生母の姓にちなんだ「王太子」。「劉濬」とも表記される。
烈祖穆帝・劉備の孫にあたり、後主懐帝・劉禅の長男で、生母は側室の王貴人[1]で、妻は費禕の長女である。異母弟に劉瑶(劉揺)・劉琮(劉綜)・劉瓚(劉瓉/劉讃)・劉㻣(劉諶)・劉珣(劉恂)・劉璩(劉琥/劉虔)ら。叔父もしくは従兄は安平悼王・劉理[2]、おなじく従兄は甘陵王・劉琳[3]ら。
238年春正月に16歳で皇太子となり、梁王に封じられた。
勅命書に言う。「古来より400年在続した漢の皇統を継いだ場合は、嗣子を儲けて王室を在続させるのが常道である。行丞相事・左将軍の向朗に命じて、これより長子の璿を太子に定める。汝は責任をもって太子の役目を果たさねばならぬ。民に慕われるように道義にもとづいた行動を果たし、学識をもって師傅を敬い修業を重ねよ」というものであった。
しかし、劉璿は遊び好きで騎馬・射撃に金をかけて遊び尽くし、宮中では太子らしからぬ問題行動を起こすことが多かった。劉璿の近侍である太子中庶子の霍弋(霍峻の子)はこれを見て、「古来より天子の嗣子たる太子が、道義をはずした行為をおこすと国が滅ぶと聞きまする。どうか目をお覚ましになり、民に尊敬されるように心がけてくださいませ!」と直言した。以降から、劉璿は霍弋の直言を聴いて、人格を磨くようになったという[4]。
さらに、大司農である老臣の孟光は新世代の郤正に太子(劉璿)の人物評を問うた。郤正は「父祖に孝を尽くし、臣下には仁愛をもって接しておられまするが…」と述べた。すると、激昂した孟光は郤正に「太子は世間だけはなく、将来の君主として多くのことを学ぶ必要があろうが!」と郤正の未熟さに苦言を呈した[5]。
263年冬に、魏の鍾会・鄧艾の遠征軍によって、蜀漢は滅亡した。その後、劉璿は鄧艾によって、魏の都尉に任命された。
翌264年春正月に、巴蜀で自立を目論んだ鍾会は降将の姜維、張翼らに「わしが漢を再興させよう」ともちかけて、亡国の太子だった劉璿を「皇帝」として擁立し、晋公の司馬昭に対して反乱を起こした。
激怒した司馬昭は監軍の衛瓘に厳命して、これを鎮圧させた。衛瓘はすでに政敵の鄧艾・鄧忠父子を恨みを持つ田続(田疇の従孫)を唆して、これを誅殺させたあとだったので、兵を増員して漢の「皇帝」である劉璿をはじめ、老将の姜維と張翼、彼らを唆した鍾会らを皆殺しした。このときの劉璿は享年42だった。
ついでに、衛瓘は劉璿の妻の費妃人と、その息子たちをはじめ、姜維・張翼の一族を皆殺しに処した[6]。
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