草野谷了

ページ名:草野谷了
曖昧さ回避この項目では、草野谷氏(近江草野氏)一門について記述しています。その遠祖については「渡辺了」をご覧ください。

草野谷了の肖像

草野谷 了(くさのたに さとる、永禄4年(1561年) - 寛永17年7月24日(1640年9月9日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。草野了とも呼ばれる。通称は勘兵衛、法名は吉光斎/睡庵(水庵/推庵)。「槍の勘兵衛」と称される槍の名手であった。

嵯峨源氏流渡辺氏の流れを汲む越後国の赤田氏の庶家である近江国の近江源氏草野谷氏(近江草野氏)一門の草野谷高(右京亮)の子、恵(しげる、三十郎)の弟、守(長兵衛)[1]・甚(三郎兵衛)の父、胤・藤堂守胤[2]室兄妹(守の子)の祖父。族父の草野谷任(周防守)の婿養子となった。養母(草野谷任の正室)は近江国の国人の阿閉貞征の娘。

生涯[]

養父の任が主の浅井久政・長政父子に殉じて戦死を遂げると、義理の外祖父の阿閉貞征に養われた。

16歳で元服を迎えると、織田信長に仕えて、1578年の17歳で初陣を飾った。後に摂津国吹田城攻めで一番首を挙げ、信長から直接称賛されたほどで、母衣衆のひとりに抜擢された。

天正10年(1582年)前後より、信長配下の羽柴秀吉に仕えて、2,000石の扶持をもって、秀吉の養子・秀勝の付家老となった。『山崎の戦い』では、遠縁筋の明智光秀配下となった義理の外祖父の阿閉貞征と敵対して、『賤ヶ岳の戦い』でも柴田勝家の軍勢と奮戦して、戦功を挙げた。天正13年(1585年)に秀勝が逝去すると、それに伴い浪人した。

次に秀吉の外甥の豊臣秀次の家老の中村一氏に3,000石で仕えた。天正18年(1590年)に、秀吉の『小田原征伐』において中村勢の先鋒として戦功を挙げて、伊豆国山中城攻めにおいては、秀次軍の先鋒が中村勢であり、その先頭切って一番乗りを果たした[3]。秀吉からは「捨てても一万石は取るべき」と賞賛されたが、一氏からの恩賞は、もとの知行の倍の6,000石に過ぎず、これに不満を持って出奔して再び浪人した。

その後、秀吉の直臣の増田長盛に客将として招かれ、次いで4,000石で仕えた。慶長5年(1600年)に、『関ヶ原の戦い』で西軍の石田三成についた長盛の出陣中に、居城の大和国郡山城の城代を任された。戦後に、既に長盛が所領を没収されて高野山に蟄居していたにも関わらず、「主君長盛からの命で城を守っている。それ以外の命によって開城はできない」と、城接収役の藤堂高虎(たかまさ)・本多正純らにあくまで抵抗した。その後、おなじく遠縁筋の徳川家康らによって長盛に書状を書かせるまで城を守り通し、無事に開城も済ませた。

その忠義と力量に仕官の誘いが相次いだが、同郷の藤堂高虎に2万石の破格の待遇で仕えた。新たに高虎の居城となった伊予国今治城の普請奉行を務めるなど、槍働き以外の才能を見せた。その後、高虎氏が伊勢国に移封となると、上野城の城代に委ねた。『大坂の陣』では藤堂勢の先鋒を務めるが、『冬の陣』にて戦い方をめぐり主君・高虎と衝突した。谷町口の攻防戦において、長宗我部盛親の部隊に蹴散らされて、落馬して負傷するなど大敗してしまう。『夏の陣』の『八尾の戦い』においては名誉挽回とばかりに長宗我部盛親・増田盛次の部隊に襲いかかり、300余人を討ち取る活躍をした。しかし、この活躍も独断専行甚だしく、7回にも及ぶ撤退命令を無視して追撃して得たもので、戦いには勝ったものの損害もまた大きく、以降から高虎や他の重臣たちから疎まれる原因となった。そのため、戦後に再出奔して再び浪人となった。

再び仕官の道を探すものの、高虎から奉公構(仕官を他の家にさせないようにする願い)の触れが出ており、徳川将軍家の当主の徳川秀忠(家康の三男)などからも誘われるものの、叶うことはなかった。元和4年(1618年)に土井利勝(家康の外従弟)を通じて、高虎に奉公構を解除するように願い出たが、了に不快感を持った高虎は「奉公したければ(姻戚関係のある)会津の蒲生氏[4]か讃岐国の生駒氏に仕えよ」と命じて、これを彼は承知しなかった。

寛永5年(1628年)には、江戸幕府の中枢であるおなじく遠縁筋の天海僧正を仲裁役にして奉公構の解除を願ったが、藤堂氏から出された一方的な和解の条件に承知せず、逆に高虎への不平不満を申し立てたために、交渉は決裂した。高虎の死後も、その子の高次が引き続き奉公構の方針を維持したため仕官は叶わず、その才を惜しんだおなじく遠縁筋の細川忠興[5]徳川義直(家康の九男)らの捨扶持を細々と受けながら、出家して睡庵(水庵/推庵)、あるいは吉光斎と号し、近江国の福圓寺に在住した。京にて80歳で逝去した。

脚注[]

  1. 正室は藤堂高虎の異母妹。
  2. 藤堂盛秀(高虎の族子)孫、信光の子。
  3. 後にこの体験談を書き記した『渡辺水庵覚書』を残している。
  4. 藤原北家秀郷流で、近江長野氏近江多賀氏)・近江佐々氏の同族。
  5. 矢田義清の後裔。


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