左メニュー
左メニューサンプル左メニューはヘッダーメニューの【編集】>【左メニューを編集する】をクリックすると編集できます。ご自由に編集してください。掲示板雑談・質問・相談掲示板更新履歴最近のコメントカウン...
対立するドイツ諸侯を討伐するために部下を率いて険しい山麓を越えるハインリヒ4世
ハインリヒ4世(独語:Heinrich IV、1050年11月11日 - 1106年8月7日)は、中世ドイツのザーリアー朝(フランケン朝)の3代目の神聖ローマ皇帝(在位:1056年 - 1105年)。同時にフランケン公(在位:1056年 - 1076年)、バイエルン公(在位:1077年 - 1096年)でもあった。はじめはコンラートだったが、後にハインリヒに改名した。
ハインリヒ3世黒王の子。弟にバイエルン公のコンラート5世(幼童公・小児公)がいる。
北ドイツのゴスラーに生まれた。1056年に父が40歳で急逝し、わずか7歳で父の後を継いだ。しかし、幼いために生母のアークネス[1]の摂政を受けて、ハインリヒが幼いと侮るドイツ諸侯から受けた屈辱に耐えた。1062年夏、ハインリヒが13歳のときに、母のアークネスがケルン大司教のアンノに帝国統治を共同するために、アンノはハインリヒをケルンに呼び寄せた。しかし、たくらみを知ったハインリヒは激しい濁流であるライン川に飛び込んで逃げようとしたが、溺れかけたのでアンノの配下に救助されて、結局はケルンに幽閉された。
その後、アンノが失脚して、「髭の殿様」ことイタリア貴族のゴッドフレードとブレーメン司教のアダルベルトの摂政を受け、国政から身を引いた母のアークネスとともに各地を転々としながら成長した。後にゴッドフレードが逝去し、アダルベルトを失脚させてようやくハインリヒは1065年から親政した。
ハインリヒは亡父の念願だったローマ教皇が統治するイタリアの征服を帝国強化のための政策を実施したため、ローマ教皇のイルデブランド[2]ことグレゴリウス7世と対立した。
しかし、従祖父でもあり後見役だったローマ教皇のヴィクトーア2世[3]が逝去すると、ザーリアー朝を目の敵とするグレゴリウス7世としてローマ教皇になったグレゴリウスは彼のイタリア支配を阻み、1076年にハインリヒを破門した。そのため、ハインリヒはフランケン地方の南西部にあるシュパイアーガウ(現在のシュパイアー)の居城で数ヶ月間、ワインを痛飲しながら逼塞生活を続けた。
さらにドイツ国内でもハインリヒの義兄(姉婿)のラインフェルト家であるシュヴァーベン公のルドルフとルクセンブルク家のヘルマン対立王とザクセン貴族たちがグレゴリウス7世(イルデブランド)と結託するなどの不穏の動きが出たため、1077年1月、窮地に陥った28歳のハインリヒ4世は妻のベルタ(サヴォイア伯・オッドーネの娘)と4歳になる次男のコンラート6世(長男のハインリヒ5世は夭折)を連れて、自ら北イタリアのカノッサに赴いた。当地で、トスカーナ女伯のマチルデの仲介を経て、グレゴリウス7世に跪き、破門を解かれた。解かれるまで1月25日から3日間もかかったという。これが有名な『カノッサの屈辱』である。
やがて、窮地を脱し勢力を盛り返したハインリヒは、1083年に準備を整えて反撃に出た。まずは義兄(姉婿)のシュヴァーベン公のルドルフ(ラインフェルト家)とヘルマン(ルクセンブルク家)ら対立王とザクセン貴族たちの軍勢を蹴散らし、これに驚愕したグレゴリウス7世は間もなく、ハインリヒによってローマを包囲されたが、辛うじてイタリア南部のサレルノに逃亡しするも、当地でさみしく客死した。この結果として、ハインリヒ自身は父・ハインリヒ3世黒王、遠祖のカール1世大帝に劣らない、神聖ローマ帝国の「覇王」であった。
1103年に絶頂だったハインリヒは、ドイツ初の『帝国平和令』(ラント平和令)を発布させた。
しかし、1098年に次男のドイツ王・コンラート6世(共治王)が1095年に子を産まない理由で一方的に離縁されて恨みを抱いた父の後妻&継母でもあるキエフ公国の公女・プラセーデ[4]はローマ教皇の後盾を得て、かつてバイエルンを与えたザーリアーの与党だったヴェルフェン=エステ家のバイエルン公のヴェルフ2世肥満公・ハインリヒ1世黒公[5]兄弟と手を組んで、反乱を起こし父・ハインリヒ4世の退位を迫って攻撃した。そのため、このため皇帝派=ギベリン(Gibellin)と教皇派=ゲルフ(Gelf)の対立とも呼ばれた。
この報に激怒したハインリヒは軍勢を率いて、これを壊滅してわが子・コンラート6世を廃嫡し、幽閉した[6]。また、プラセーデを生家のキエフ公国に強制帰還させ、三男で末子のハインリヒ5世(ハインリヒ6世)をドイツ王とした。だが、1105年、このハインリヒ5世も廃嫡された兄と同様に、再びヴェルフェン=エステ家のヴェルフ2世肥満公・ハインリヒ1世黒公兄弟と組んで反乱を起こして、父のハインリヒを捕らえて、これを幽閉した。
次男と三男の相次ぐ親不孝ぶりにショック&大打撃を受けて憔悴したハインリヒ4世は1106年8月7日に57歳で逝去した。
北イタリアのカノッサで屈辱を受けるハインリヒ4世
サヴォイア伯であるオッドーネの娘・ベルタ(1051年 - 1087年、モーリッツのベルタとも)との間に3男2女を儲けた。
先代:ハインリヒ3世(黒王) | ドイツ王(ローマ王)1056年 - 1105年 | 次代:ハインリヒ5世 |
先代:ヴェルフ1世 | バイエルン公1077年 - 1096年 | 次代:ヴェルフ1世 |
シェアボタン: このページをSNSに投稿するのに便利です。
左メニューサンプル左メニューはヘッダーメニューの【編集】>【左メニューを編集する】をクリックすると編集できます。ご自由に編集してください。掲示板雑談・質問・相談掲示板更新履歴最近のコメントカウン...
曖昧さ回避この項目では、1999年設立2ちゃんねる(2ch.net)について記述しています。2014年4月にひろゆきが開設したもうひとつの2ちゃんねるについては「2ちゃんねる (2ch.sc)」をご覧...
2ちゃんねる(に - )とは、日本最大の大手掲示板。約2つほど存在する。2ちゃんねる (2ch.net) : 1999年5月30日に、あめぞう型掲示板を乗っ取ったひろゆきによって、設立された掲示板。現...
黄皓(こうこう)とは、中国の人物。約2名ほど存在する。黄皓 (宦官) : 蜀漢(蜀)の宦官。後主(懐帝)の劉禅に信頼されて、中常侍に任命された。この権力を利用して、皇弟の魯王の劉永と上将軍の姜維と対立...
“矍鑠なるかなこの翁は”と謳われた黄忠黄忠(こうちゅう、? - 220年)は、『三国志』に登場する蜀漢(蜀)の部将で、字は漢升。子は黄叙(黄敍)、他に孫娘[1](後述)がいたという。『三国志演義』では...
黄奎像黄奎(こうけい、170年/171年? - 212年5月)は、『三国志』に登場する後漢末の人物。字は宗文。黄香の玄孫、黄瓊の曾孫、黄琼の孫、黄琬の子、黄某の父、荊州牧の劉表配下の江夏郡太守の黄祖の...
曖昧さ回避この項目では、豊前国の氏族について記述しています。その他の氏族については「麻生氏」をご覧ください。麻生氏(あそうし)とは、筑前国・豊前国の氏族。約2系名ほど存在する。筑前国遠賀郡麻生郷[1]...
麻生氏(あそうし)とは、日本の氏族。約幾多かの系統が存在する。麻生氏 (常陸国) : 常陸麻生氏とも呼ばれる。桓武平氏繁盛流大掾氏(常陸平氏)一門の常陸行方氏の庶家で、行方宗幹の3男・家幹(景幹)を祖...
鹿島氏(かしまし)とは、日本における常陸国鹿島郡鹿島郷[1]の氏族。約3系統が存在する。鹿嶋氏とも呼ばれる。鹿島家 : 崇光源氏流伏見家一門の山階家[2]の庶家。山階菊麿の子の鹿島萩麿[3]が設立した...
曖昧さ回避この項目では、藤原北家について記述しています。その他の氏族については「鷹司家 (源氏)」をご覧ください。鷹司家(たかつかさけ)とは、藤原北家一門で、約2系統が存在する。山城国葛野郡鷹司庄[1...
曖昧さ回避この項目では、源姓一門について記述しています。その他の氏族については「鷹司家 (藤原氏)」をご覧ください。鷹司家(たかつかさけ)とは、源氏一門。約2系統が存在する。山城国葛野郡鷹司庄[1]を...
曖昧さ回避この項目では、公家の家系について記述しています。その他の氏族については「鷹司氏」をご覧ください。鷹司家(たかつかさけ)とは、日本の氏族。約2系統ほど存在する。山城国葛野郡鷹司庄[1]を拠点と...
鷲尾氏(わしおし)とは、日本の氏族。約3系統がある。鷲尾家 : 藤原北家魚名流四条家の庶家。同族に山科家[1]・西大路家[2]・櫛笥家[3]があった。鷲尾氏 (備後国) : 備後鷲尾氏とも呼ばれる。源...
ドイツ南西部のシュヴァルツヴァルトにある鳩時計専門店鳩時計(はとどけい、独語:Kuckucksuhr、英語:Cuckoo clock)とは、ドイツの壁掛け時計の一種で「ハト時計」・「カッコウ時計」・「...
鳥山氏の家紋①(大中黒一つ引き)大井田氏の家紋②(二つ引き両)鳥山氏(とりやまし)は、新田氏(上野源氏)流源姓里見氏一門。上野国新田郡鳥山郷[1]を拠点とした。目次1 概要2 歴代当主2.1 親成系2...
魏書(ぎしょ)とは、中国の史書。幾多かある。『三国志』の魏(曹魏)の曹操を中心とした史書。『三国志』時代以前の後漢末の王沈の著書(現存せず、『三国志』の注釈の中に断片的に残されているのみである)。『北...
甘粛省隴南市礼県祁山鎮に存在する魏延像魏延(ぎえん、? - 234年)は、『三国志』登場する蜀漢(蜀)の部将。字は文長。目次1 概要2 その他のエピソード3 魏延の隠された事項4 脚注5 関連項目概要...
魏延の遠祖の魏勃指揮を執る魏勃魏勃(ぎぼつ、生没年不詳)は、前漢初期の部将。蜀漢(蜀)の部将の魏延の遠祖と伝わる[1]。 概要[]彼の出身地は不詳であるが、父が鼓琴の名手で、彼は秦の咸陽に赴いて、始皇...
魏(ぎ)とは、元来は都市国家に属し、現在の今日の山西省運城市芮城県に該当される。戦国時代に領域国家に変貌した。幾多の国家(王朝)が存在する。魏 (春秋) : 別称は「微」。姓は好。殷(商)の微子堅(微...
高間 慎一(たかま しんいち、1978年9月19日 - )は、日本の実業家。大学1年の18歳で会社の起業をしたメンバーシップ系のワイン&ダイニング レストラン「Wabi-Sabi」の創業者であり、マー...