張裕_(蜀漢)

ページ名:張裕_(蜀漢)
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劉備の逆鱗に触れた張裕像

張裕(ちょうゆう、? - 219年/220年)は、『三国志』に登場する蜀漢)の後部司馬・予言者。字は南和。彼の伝記は『蜀書』周羣伝付の張裕伝に記述されている。

概要[]

蜀郡の人[1]。211年、劉備が涪県で劉璋と面談した時に劉備は当時、劉璋の従事だった張裕の髭が豊かなのを見て「わしの郷里の涿郡涿県付近には、何故か「毛姓」が多かった。それゆえ、(数が多い)毛氏が涿の県令になるという伝承がある」と張裕をからかうように自慢気に言った。

これを聞いた張裕は「その昔、趙の上党郡の潞の県長から燕の涿郡の涿の県令に昇進した人物がおりました。後にその人物は職を辞して郷里に帰りました。後に涿県のある住人が彼に手紙を出しました。宛先名は「涿県令」とも「潞県長」ともいわれてます。その宛先名をどちらも否定すると、その人の存在自体が無視されることになります。それゆえ“涿潞君”とまとめればよろしいかと…」と反論するかのように述べた。

すると、これを聞いた劉備は急に怪訝な顔をして不快感になり、以降から張裕を怨ましく根に持った。というのはその“涿潞君”が「みすぼらしい髭の持の主・劉備」といった婉曲的な意味の言葉であったという[2]。要するに、張裕は劉備の話題を聞き、劉備の“髭相”を見て、自分の意見を正直に述べたが、劉備はそのように受け取らず、一方的に自分を貶(けな)したと解釈したのである。

214年夏5月に劉備が益州を乗っ取り平定すると、そのまま張裕は劉備に仕えた。劉備に随行した鄧芝の将来を占ったことがあった[3]

219年に、漢中討伐の時に張裕は「寅(222年)から卯(223年)の干支にかけて、君(劉備)は喪失(崩御)するであろう…さらに漢王室も後年に滅亡するであろう…」と述べた。これを聞いた張裕の政敵がこのことを劉備に秘かに上奏した。これを聞いた劉備は激怒し、張裕に対する過去の怨みの憤懣を爆発してしまった。

怒りに満ちた劉備は頑固になり、諸葛亮らの諫言を聞かず、顔を強張らせながらついに「門に咲いた香ばしい“蘭”といえども、いずれは摘み取らねばならん![4]」と喩えて、即刻に自分を誹謗した主簿の雍茂[5]とともに張裕を逮捕投獄した。覚悟を決めた張裕は以前から、鏡を見る度に自分の面相に“刑死の相”と出ていたので、血が昇って、鏡を叩き割ったという。即日に張裕は雍茂とともに処刑されて、晒し首となった。

脚注[]

  1. 現在の四川省成都市双流区付近
  2. 実際は“啄露毛”という言葉が正しいという。ここでいう「毛」というのは髭のことで、「口髭(啄)を露わす」という意味である。
  3. 鄧芝の項目を参照。
  4. 意味は「たとえ類い稀なる才能があっても、禍となればこれを処分せねばならない」ということ。
  5. 梓潼郡(現在の四川省綿陽市梓潼県)の人で、前漢の什仿(什邡)侯・雍歯の末裔で、益州属国(建寧郡)を支配した雍闓の族兄弟という(『元本』(『元大徳九路本十七史』))。

関連項目[]



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