張嶷_(蜀漢)

ページ名:張嶷_(蜀漢)
曖昧さ回避この項目では、蜀漢の部将の張嶷について記述しています。西魏の河陽郡太守については「張嶷」をご覧ください。

南中(西南夷)の異民族に慕われた張嶷の石像

張嶷(ちょうぎ/ちょうぎょく、193年? - 254年)は、『三国志』に登場する蜀漢)の部将。字は伯岐。または張擬/張疑とも呼ばれる。子は西郷侯の張瑛・張護雄[1]、孫は梁州刺史の張奕(張瑛の子)[2]

概要[]

巴郡南充県[3]の人。寒門の出身で天涯孤児だったという。しかし、少年時代から大望を強く持ち、勉学に励んでいたようである。

20歳の時に南充県の功曹となった。翌年、劉備が劉璋を降して蜀を占領した時に、山賊が南充県に襲撃し、県長は家族を置き去りにして逃亡した。張嶷は同僚を率いて団結し、剣を差して県長夫人を護衛して山賊らを振り払って、(県長夫人を)安全な所まで連れて行った。

これが評判となり、劉備は若き張嶷を従事に抜擢した。同郷の龔禄[4](195年~226年)と姚伷は巴郡の名士だったが、進んで張嶷と親交を持った。

226年頃、親友の龔禄は越嶲郡太守だったが、越嶲郡の奥地である斯都県のタイ系濮族の酋長・李求承[5]が叟族の鄂煥[6]と呼応した降将である興古郡太守[7]朱褒[8]らと共に郡都の邛都県を襲撃して、龔禄を殺害した[9]

さらに、南下して雲南郡太守・呂凱も殺害した。近隣の永昌郡太守・王伉は建寧郡太守を兼ねた庲降都督・李恢を頼って逃亡した。さらに勢いを乗じた李求承・鄂煥の部族連合軍は建寧郡太守[10]・馬忠を撃退したため[11]、そこで、諸葛亮は焦璜を殺害された龔禄の後任者として、越嶲郡太守に赴任させた[12]

翌227年春、諸葛亮が北伐を興し漢中郡に駐屯した。張嶷は都尉として従軍し、広漢郡綿竹県の山賊の首領・張慕らが反乱を起こし、軍資金を略奪し、官軍を吸収した。

そこで張嶷は諸葛亮の命で討伐したが、張慕の配下らは剽悍で神出鬼没のように動き出すため、張嶷を悩ませた。張嶷は一計を提案し、張慕と和睦して会見を設けた。会見に張慕らが顔を出した。そこで、張嶷は腹心と共に油断した張慕ら五十人の配下を捕らえて、斬首とした。残った張慕の軍勢を壊滅させ、わずか十日間で鎮圧した。その功績で、牙門将に昇進した。

だが、度重なる過労で張嶷は病に倒れた。広漢郡太守・何祗は旧知だったが、長年の間に疎遠だった。貧家出身の張嶷は財宝がなく病を押して馬車に乗って、何祗と再会した。事情を聞いた何祗は、旧友のために財宝を投じて名医を紹介し、張嶷の治療に当たらせた。こうして張嶷の病は快方に向かった。そのため、張嶷は死ぬまで何祗の恩義を忘れなかった。

230年、の泰・雍州刺史の郭淮の後盾で、広漢属国汶山県[13]他里にいたチベット系の一派の青羌[14]族の酋長・徹里吉(テリチ)は部将の雅丹(ヤタイ)・越吉(ベッチ)と共に精鋭の「鉄車兵」を率いて、反乱を起こした。

この報を聞いた諸葛亮は、牂牁郡太守・馬忠を中央に召還して、丞相参軍・治中従事を兼務させ、同時に副将の張嶷を牙門将軍に昇進させて、羌族討伐を命じた。張嶷は主将の馬忠に志願して別動隊の精鋭三百騎を率いて、汶山県他里にある羌族の要害を目指した。堅固な城塞と判断した張嶷は、羌語に巧みな人物を派遣して、「君たちはわが国に謀反を起こし、庶民に害を与えている。主上(陛下)はわれらに勅命を下し、こうして討伐しているのだ。もし君たちが今までの過ちを反省して、われらに恭順し兵糧を提供するならば、赦してやろう。但し、恭順せずに抵抗や妨害をするならば、君たちの一族は皆殺しに遭うぞ!」と伝言させた。それを聞いた他里の部族長は戦慄し、張嶷に降伏し兵糧を提供した。

これを聞いた雅丹は畏れ慄いてしまい、自ら酋長の徹里吉を説き伏せて、徹里吉は雅丹とともに張嶷の陣営に赴き降伏した。だが、徹里吉の部将・越吉は抵抗した。張嶷は躊躇わずに進撃して、激戦の末に撃破し、越吉を捕えた。間もなく越吉は、斬首されて晒し首となったという。

233年、李恢(231年没)の後任者の綏南中郎将・張翼の業績が芳しくなく、今度は馬忠が替わって庲降都督に任命され、同郷(巴郡)の張嶷を従えて南中[15]に赴任した。張嶷は殺害された焦璜の後任として越嶲郡太守に任命された。

前任者の張翼が更迭されたのは、タイ系の南中の酋長・劉胄が敗れていったん赦されながら、張翼が厳格な法の統治でタイ系民族などに威圧的な態度で行なったので、憤慨した劉胄らが再び反乱を起こし、散々に手こずったからであった。だが、張翼は任務を全うさせてから、後任の馬忠に委任して成都に帰還した。

馬忠は張翼の方針を受け継いで、張嶷に指示し、劉胄の軍勢と激戦の末に劉胄を捕虜にさせ、統治の見せしめのために止むなく、劉胄らを処刑したのである。馬忠はその功績で監軍・奮威将軍・博陽亭侯に封じられた[16]

今度は、興古郡宛温県[17]のタイ系獠族の酋長・楊鋒と董荼[18]がいったん帰順しながら精鋭の「藤甲兵」を率いて再び謀反を起こした。馬忠は張嶷に命じて獠族を討伐させた。激戦の末に張嶷は楊鋒・董荼を捕らえて、これを処刑した。主を失った獠族の二千人の部族は無抵抗に降服したのでこれを赦して、馬忠は諸葛亮が駐屯している漢中郡南鄭県[19]に送り届けた。

242年、張嶷は馬忠の後任者として庲降都督となった。張嶷は以前から諸葛亮の西南夷[20]討伐以来、越嶲郡の郡都の邛都県はタイ系の民族が多く、北部の安上県に漢族が多く民族問題の衝突が多いことを案じて、“荒療治”と称して、安上県にいる漢族を強引に邛都県に移住させ、民族緩和に尽力した。

張嶷の度重なる尽力で、タイ系諸族は張嶷を敬慕したという[21]

数年後、越嶲郡北部のチベット系青羌の一派の提馬[22]族の酋長・魏狼が反乱を起こした。張嶷は討伐して魏狼を生け捕り諭して帰順させ、上奏して邑侯に封じた。

さらに数年後に今度は同じ越嶲郡北部でチベット系青羌の一派の蘇祁族の酋長・冬逢と隗渠の兄弟がいったん赦された張嶷に対して謀反を起こした。張嶷は討伐に向かい、冬逢を捕らえて、これを処刑した。冬逢の妻は隣接する蜀郡属国(漢嘉郡)のチベット系青羌の一派で「烏戈軍」を率いる旄牛族の酋長・兀突骨(ウトク)の娘で、利害上としてこれを助命した。

冬逢の弟・隗渠は西北部の羌族の土地に逃亡した。剽悍で剛猛な隗渠は二人の腹心を張嶷の幕僚内に間者として潜伏させ、張嶷に関する情報を齎(もたら)せた。

だが、厳重に警戒した張嶷は隗渠の間者を捕らえて、恩賞を弾んで、「隗渠に関する情報をわしに提供したら、要職を約束するぞ」と囁いた。莫大な褒賞に隗渠の間者は変心し、軍勢を率いて隗渠の下に戻り、隗渠を殺害しその首を張嶷に届けた。こうなると蘇祁族の大部分は張嶷に降伏した[23]

一方、かつて親友の越嶲郡太守・龔禄を初めとして、雲南郡太守・呂凱と建寧郡太守・王士[24]ら、さらに龔禄の後任の焦璜をも殺害した同郡斯都県のタイ系濮族の酋長・李求承の懸賞金を、永昌郡太守・王伉と共に執拗に捜索した末に、越嶲郡の奥地に潜伏した李求承一派らを捕獲し、これを処刑して晒し首とした。こうして張嶷は長年の執念によって、亡き親友の龔禄らの仇を討ったのである。

さらに、越嶲の郡都・邛都県から離れた定筰・台登・卑水の三郡は塩鉄漆の産地で、タイ系の賨族の酋長・狼岑は同系統の槃木族の酋長・朶思喃の岳父で現地の有力支配者だった。彼は、張嶷が自分の国を“漢化”するためにやって来たと思い、不快感を示してこれを攻撃した。しかし蕃族の統治の達人・張嶷は巧みに鎮圧して、狼岑を捕らえて処刑した。

張嶷は賨族・槃木族らを懐柔するため、狼岑の婿・槃木族の酋長・朶思喃を初め、忙牙長ら代表者を呼び「君たちの統治者だった狼岑は今まで好き放題にやっており、定筰・台登・卑水の三郡は無法地帯として貪っていた。これは許されることではない。だからこそ万民の害としてこれを誅殺したのだ」と張嶷は叫んだ。さらに「これから狼岑の屍体に鞭を打って、狼岑の跋扈を見過ごした自分たちの過ちを認めなさい。もし、逃げる者がいればここで即刻、叩き斬る!」と叫んだ。朶思喃・忙牙長らは戦慄し、止むなく狼岑の屍体に鞭を打って、恭順を示した。張嶷は牛料理を出して彼らを饗遇し、賨族と槃木族の連中に漢民族の道徳を説いて、朶思喃・忙牙長らを官職に就けた。こうして、張嶷は塩鉄漆の利益の独占に成功した。

数年後、蜀郡属国(漢嘉郡)のチベット系青羌の一派の旄牛族の酋長・狼路は祖父・兀突骨(烏戈)の後を継いでいた[25]。彼は蘇祁族の冬逢の妻の甥であった。彼は叔父の阿離(アリ)に命じて、故冬逢の旧配下を率いさせて張嶷に面会させてその様子を探った。張嶷は酒や牛料理を出して振る舞って阿離を饗遇して、姉に当たる冬逢未亡人とその子の帯來(狼路の従弟)を返して、恩賞を差し出して道徳を説いた。阿離は姉と甥を連れ戻すと、甥を諭して説いた。さらに張嶷自ら狼路の下に赴き、恩賞を差し出した。こうして、狼路の態度が軟化して張嶷に降った。張嶷は上奏して、狼路を㽛毗王に封じた。

以降は、蜀漢が滅亡するまで南中付近の蕃族の反乱は発生することはなくなったという。張嶷は度重なる功績で、撫戎将軍に昇進し、関内侯に封じられた。

251年、武都郡陰平県のチベット系氐族の酋長・蒲建が蜀漢の大将軍・費禕に帰順する旨の使者を出した[26]

そこで、費禕は将軍の張尉を派遣し降伏の手続きを確認させた。だが、張尉がなかなか戻って来なかった。心配した費禕は張嶷に訊いた。張嶷は「蒲建の帰順は嘘偽りありませぬ。多分、蒲建の弟が狡賢い人物であり、また蒲建に同調できない部族長たちと共謀して、内紛が起こっているために張尉は戻れないのでしょう」と述べた。

念のために張嶷は軍勢を率いて陰平県に向かった。果して張嶷の予想通りであった。そこで張嶷は蒲建と張尉を救助し、蒲建の弟の軍勢と戦いこれを撃退した。蒲建の弟は四百戸の部族を率いて、魏の雍・泰州刺史・陳泰[27]に帰順した。

翌252年頃に、費禕が帰順者に寛大すぎることを案じた張嶷は「後漢の岑彭は蜀の公孫述が派遣した降将に暗殺されました。来歙[28]も同様です。閣下は厳重に対応すべきと存じます」と諌言した。だが費禕は軽く頷いただけであった。果して張嶷の予見通りに、253年正月の宴会席で費禕はの降将・郭脩[29]に暗殺された。

同年、呉の大傅・諸葛恪は蜀漢の侍中・諸葛瞻[30]の族兄で、魏討伐で勢いを持ち、族弟の諸葛瞻を招いた。すると張嶷は諸葛瞻に使者を出し、呼応を拒否する書簡を渡した。書簡を見た諸葛瞻は張嶷の忠告を聞いて、族兄の諸葛恪に婉曲的に断る使者を出した。果して、諸葛恪は呉の皇族の大将軍・孫峻によって一族皆殺しとなったのである。

張嶷は十余年も庲降都督を兼務して、越嶲郡太守を勤めた。張嶷は自分が年老いたので都に帰還したいと上奏を重ねた。後主懐帝劉禅は張嶷に憐れみを感じ、これを許可し、盪寇将軍に任命されて成都県に戻った。南中のタイ系とチベット系の民族は張嶷との訣別を惜しんで、蜀郡属国[31]の旄牛族の部落を通過した時に、各部族長たちは蜀郡の境目まで随行して送り出した。さらに張嶷は勇猛な南中の百余人の各族長を引き連れて、朝貢・参内をさせた。

成都県に着いた張嶷は長年も瘴癘の地で統治したので、麻痺症の一種の持病を患って寝込んでいた。立ち上がる時は杖が必要だったという。ある時、魏の皇室の外戚関係でもある降将で車騎将軍・夏侯覇[32]が息子[33]と共に張嶷を見舞った。夏侯覇は「あなたはわたしに本当の気持ちを明かしてはくれません。これは、どういうことでしょうか」と訊いた。張嶷は「あなたは魏の皇室の外戚であるご身分ながら、実力者の司馬懿に追われ、止むなくわが国に亡命した人物であり、まだ数年しか経っておりません。そんなあなたが、どうしてわたしのことを理解できるでしょうか?わたしもまだあなたのことを知りません。わたしの友人になりたいのならば、あと三年は必要です。そのときに、改めてわたしにお伺いください」と述べた。夏侯覇は返す言葉がなく退出した。この逸話を聞いた蜀漢のある教養人は「彼は見識のある人物だ」と張嶷を評価した。

翌254年、魏の泰州の隴西郡狄道の県長・李簡[34]が使者を出して、蜀漢に帰順する旨を伝えた。その時、張嶷は重病だったが、巷では李簡の帰順を疑う人が多かった。しかし、張嶷は「李簡は前漢の李広の末裔であり[35]、その人物は実直だから問題はないはず…」といった。

それで、劉禅は衛将軍・姜維と張嶷に命じて隴西郡狄道県に向かわせた。姜維が隴西郡狄道県まで来ると、果して張嶷の言葉通りに李簡は城門を開いて、蜀漢に帰順したのである。張嶷は都に戻って一年足らずで、片足は跛(びっこ)になっている状態で、年老いていることを配慮されて、彼の従軍は見送ることになった。だが、張嶷は「臣は老骨に鞭を打って、前線で戦って戦死するのは本望である」と上奏して、従軍することになった。

出陣前夜に張嶷は劉禅に謁見し「臣張嶷が申し上げます。守成たる主上(劉禅)の臣下として、過剰な恩顧を賜っております。この通り重病の身ではありますが、病床で他界することは、主上の礼に背くと畏れておりました。しかし、天は臣に機会を与えて、従軍することに相成りました。臣は辺境地で敵軍と戦い、勝利を得ることができない時は、この身を捧げて主上にお詫びする所存であります」と述べた。劉禅は涙を流して「老将軍よ、無理をせずに生還して参れよ」といった。

姜維は李簡からの軍資金を頼って、狄道県に進撃した。県長の李簡は配下を引き連れて出迎えた。数日後、姜維らは北上した。魏の泰・雍州刺史の陳泰は部将の護軍将軍の徐質に命じて、狄道県を攻撃させた。だが、魏軍は多勢で、姜維は大敗した。この時、張嶷は自ら殿軍を引き受けて姜維らを退却させる時間稼ぎをした。姜維らは無事に狄道県に逃げたが、張嶷を初めとする殿軍は壮絶に討死した。齢61か62だったという。この戦いで張嶷は死んだが、徐質の軍勢も多くの戦死者を出した[36]

張嶷の訃報を聞いた劉禅はその死を悼んだ。また、越嶲郡の各諸民族も張嶷の死を悲しみ、張嶷の廟を建てて、四季ごとの豪雨と洪水の氾濫があるとこれを祈願した。

長男の張瑛が後を継ぎ、次男の張護雄も関内侯に封じられた。孫の張奕は西晋の梁州刺史となった。以降の張嶷の末裔たちは蜀漢末期を経て、西晋~東晋時代に引き続いた後も、張嶷の威光で大いに繁栄したという。

脚注[]

  1. 諱は未詳。
  2. 東晋孫盛著『蜀世譜』
  3. 西晋以降は巴西郡南充県(現在の四川省南充市)
  4. 字は徳緒、巴西郡安漢県の人。
  5. 高定元の都督・李承之と同人物という。
  6. または「顎煥」とも。高定元の旧部将。
  7. または胖阿郡太守。
  8. 諸葛亮が命じた先鋒隊の将・馬忠が牂牁郡を攻略し西南夷が平定されると、朱褒は許されて太守となった、と記されている(『華陽国志』南中志)。
  9. 龔禄は巴郡従事・牙門将を歴任し、225年に諸葛亮の南中討伐に越嶲郡太守として随行した。現地で蕃族に殺害され、齢31と記されている(『蜀書』「楊戯伝」)。
  10. 牂牁郡太守・朱提郡(犍為属国)太守をも兼務した。
  11. 李恢の項を参照。
  12. 焦璜は223年または224年に高定元が率いる濮・叟の連合部族が派遣した都督・李承之(李求承)によって殺害されたと記されている(『華陽国志』)。
  13. 西晋以降は汶山郡となる。
  14. または西羌。
  15. または西南夷。
  16. 後に馬忠は鎮南(安南)将軍・彭郷亭侯に封じられた。
  17. 旧称は牂牁郡興古県
  18. または董荼那とも。
  19. 西晋以降は南鄭郡、五斗米道の張魯は“漢寧郡”と自称した。
  20. または南中と呼ばれた。
  21. 245年頃、馬忠は再び西南夷に戻り、張嶷を補佐して249年に逝去した。
  22. または捉馬と呼ばれた。
  23. 蘇祁族の中には旄牛族の下に逃亡する連中も多少いた。
  24. 王甫の従弟。
  25. 狼路の父の木鹿奴は夭折した。
  26. 別の伝では大将軍・蒋琬と記されている(『蜀書』「張嶷伝」)。しかし、同書「蒋琬伝」では蒋琬は246年に没しているので、後任者の費禕の誤りであろう。また、氐族の酋長(王)は“苻健”と記されているが、“蒲建”とも呼ばれる(『後漢書』)。“蒲姓”が“苻姓”に改姓するのは、蒲建の子・蒲洪(苻洪…前秦の苻健の父)の代から。さらに、236年に蜀漢の後主(懐帝)からの勅令で、蒲建は陰平県から広漢郡広都(新都)県に部族四百戸余を率いて移住したと記されている(『蜀書』後主伝)。後に蒲建は狡猾な弟(諱は未詳)に唆されて、反乱を起こしたという。
  27. 郭淮の後任者。
  28. 来敏の祖。
  29. または郭循とも。
  30. 諸葛亮の子。
  31. 後に漢嘉郡となる。
  32. 曹操の母方の族子で、夏侯淵の次男。劉備の女婿ともいう(『元本』(『元大徳九路本十七史』、元の大徳10年に池州路儒学によって刊行された『三国志』関連文献書))。
  33. 夏侯献のことを指すという。
  34. 前漢の李広の末裔、北涼の武昭王・李暠の祖。また李暠の別称は“敦煌郡太守・李浩”とも記述されている(の三蔵法師玄奘もしくは求法僧法顕の『大唐西域記』による)。
  35. 上記の『元本』(『元大徳九路本十七史』)より。
  36. 間もなく、徐質は「張嶷の弔い合戦」に臨んだ姜維と戦って、戦死を遂げた。

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