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劉封に援軍を要請した廖化
廖化(りょうか、? - 264年春)は、『三国志』に登場する蜀漢(蜀)の部将。字は元倹。元の名は廖惇[1]である。子と孫の名は未詳である。
『蜀書』宗預伝付に彼個人の伝記がある。廖氏は先祖代々、中盧県[2]の有力豪族であった[3]。
南郡中盧県[4]の人[5]で、はじめは前将軍・関羽の主簿であった。
219年秋7月に襄陽郡および樊城にいる曹仁[6]を包囲した関羽から、荊州西北部にある房陵と上庸[7]にいる劉封(劉備の子)と孟達に、補強による援軍要請を命じられ、彼は幾度も上庸に使者として赴いた。
しかし、劉封は気が乗らずに副将の孟達と建議した結果として「房陵および上庸を占領したばかりで、山中の土豪を懐柔するために動揺を与えられない、また軍勢の編成中なので援軍は出せない」と一点張りに述べて、援軍を拒んだ。廖化は執拗に援軍を嘆願したが、孟達は強引に廖化を追い払ったのである。激怒した廖化はこのことを関羽に報告し、以来から関羽は劉封と孟達を恨むようになった。
しかし、翌秋8月~9月にかけて、摩陂に駐屯した曹操が、歴戦の猛者である徐晃と趙儼に10万の軍勢を授けて派遣したので、樊城にいた曹仁もこの報を聞いて勢いづいて、副将の満寵と牛金を率いて討って出たので、関羽は挟撃されて大敗した。その挙句に南郡当陽県の麦城に逃亡したが、今度は呉の孫権が呂蒙を派遣し、関羽を包囲させた。もはやこれまでと感じた関羽は長男の関平と羲弟の胡班[8]をはじめ都督の趙累、部将の呂布[9]、廖化らを率いて討って出た。しかし南郡当陽県漳郷[10]で、呉将の潘璋の司馬・馬忠の手勢によって捕虜にされた。
このとき、廖化のみは降伏の意思を示したので、許されたがその他の将は呉に降伏を拒んだので、哀れな関羽一味は当陽県臨沮で処刑された。219年(建安24年)冬10月14日のことだった。
翌220年に、廖化は「自分は病死した!」という偽りの情報を流して、部下を率いて郷里に帰ってひっそりと老母とともに身を隠した。翌221年、呉を遠征した劉備率いる10万の軍勢と姊帰県で遭遇して、配下と老母を伴って拝謁した。廖化と語り合った劉備は彼を有能だと判断して、宜都郡太守に任命して、そのまま従軍させ、『夷陵の戦い』に参戦した。彼は大都督・馮習の配下の別働隊の部隊長となった[11]。
223年、呉の陸遜に敗れ、魚復県の永安(白帝城)[12]で劉備が62歳で逝去し、太子の劉禅が即位すると、廖化は丞相・諸葛亮を補佐する丞相参軍に任命され、廖化は有能だったため諸葛亮に評価され広武督に昇進した。後に、右車騎将軍・仮節に累進した。さらに并州刺史を兼ねて、中郷侯に封じられた。官位は同世代の張翼と同格であり、宗預より上位であった。
彼は魏を討伐する幾度かの北伐で、勇猛果敢の将として戦果を残し、後に陰平郡太守となり、238年秋9月、魏の守善羌侯・宕蕈の陣営を攻撃した。これを聞いた雍州刺史・郭淮は配下の広魏郡太守の王贇・南安郡太守の游奕に軍勢を与え、山の東西から廖化を挟み撃ちさせた。さらに都の洛陽で軍勢の分散を懸念した烈宗明帝(曹叡)は「別働隊のうち不必要な軍隊は引き揚げさせ要地を守らせよ」と勅命を下すが、詔勅が届かないまま、廖化は游奕軍を撃破し、王贇は流れ矢に当たり戦死した[13]。
248年、衛将軍・姜維は北伐を繰り返したが、西方へ向かって、魏に反乱を起こしたチベット系羌族の酋長・治無戴(蛾遮塞)を出迎えた。廖化は成重山に留まり築城し、いつ寝返るかわからない有力羌族の各族長たちの家族を人質とした。これを聞いた郭淮は諸将の反対を押し切り、軍勢を二手に分けて、右将軍・夏侯覇[14]には沓中へ姜維を追撃させ、自らは諸軍を率いて廖化を攻撃した。これを聞いて驚愕した姜維は引き返して廖化を救援し、北征は失敗に終わった[15]。ただし、廖化らは羌族の酋長・治無戴らを迎え入れ、蜀漢に移住させ、羌族を蜀漢の精鋭として編成させた。
翌249年秋、姜維は再び北伐するも、またもや郭淮に阻まれて撤退した。郭淮が勝利に乗じて羌族を攻撃するため西方へ出かけた隙を衝いた。3日後、廖化が軍を返して白水の南岸に布陣して鄧艾と対峙した。これは廖化が提案したもので、鄧艾を釘付けにして姜維が東進して洮城を奪取する計画であったが、鄧艾さえも見抜かれ、姜維が洮城に着いたころにはすでに鄧艾が引き返して立て籠っていた[16]。
261年、行都護衛将軍・諸葛瞻(諸葛亮の子)が行政・軍勢を統括することになり、年老いた廖化は諸葛瞻に挨拶するために親友の宗預の屋敷を訪ねて誘った。しかし、宗預は「貴公とわたくしはもう70余歳で、できれば1日でも死を遅らせることを望む。なぜ尻の青い若造(諸葛瞻)に対してわざわざ訪問して挨拶をせねばならんのか?」と不快感を示して、これを断固と拒否している[17]。
262年に老将の廖化は、隴西郡狄道県に進出した姜維に「『春秋左氏伝』に「キリがない戦いをやめないと自らの身を焼き払われる」と申します。これは将軍にも該当し、(魏の将は)将軍よりも知謀が上回り、その軍勢も精鋭が多くわが軍は魏よりも武力も劣っております。そのままでは何の利益もありません。『詩経』では「我よりも先駆けせず、我よりも後れず」と申します。どうかお考え直してくださいませ!」と諌めたが、姜維はこれを聞き容れなかった[18]。
263年に廖化は左車騎将軍の張翼と輔国大将軍の董厥とともに沓中で、魏軍を迎え撃った。しかし同年末の冬季に蜀漢は、魏の鍾会・鄧艾の軍勢によって滅亡し、ついに高祖・劉邦以来400年余続いた漢は滅亡した。
翌264年春に廖化は宗預とともに、晋公・司馬昭の命で洛陽に移住させられたが、廖化は途中で病死した。80余歳だったという。廖化が亡くなると洛陽で、その息子[19]が後を継いで、爵位を賜ったという。
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