登録日:2010/06/17(木) 22:25:46
更新日:2023/10/26 Thu 11:24:07NEW!
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アニヲタ野球選手名鑑 プロ野球選手 野球 プロ野球 投手 広島東洋カープ 島根県 出雲市 七色の変化球 サウスポー 投手コーチ←しかしクラッシャー 大野豊
広島東洋カープの元投手。
持ち味の多種多様な変化球は『七色の変化球』とも形容され、投手王国として名を馳せた広島東洋カープの黄金期を支えた。
島根県出雲市出身。
出雲商業高校時代、地元でもそこそこ注目されおり強豪社会人チームから入団の誘いがあったり、プロのスカウトも目を付ける存在だった。
しかし、体力に不安があり両親を安心させるために出雲信用金庫に就職。職場では軟式野球部に所属し野球を続けていた。
就職して三年後、運命的な出会いが訪れる。
秋に行われた広島東洋カープの野球教室に参加。そこで山本一義打撃コーチと池谷公二郎投手に出会い、天啓を受けたかのような感覚を覚える。そしてプロ入りを決意。
木庭教スカウト、山本一義コーチの立ち会いのもと一人だけのプロテストを受け特例で広島にドラフト外で入団する。
受け取ったのは契約金及び年俸ゼロ、月給12万5千円という当時に考えられる最低の金額であった。
そうして迎えた一軍初登板となる1977年9月4日の阪神戦、地元出雲から来た同僚や家族が横断幕を掲げ応援する中、満塁ホームランを打たれるなど5失点を喫する。結局この試合でアウト一つしか取ることができず降板。
そのシーズンを防御率135.00という成績で終える。
翌年、移籍してきた"優勝請負人"江夏豊と共に二人三脚でフォーム改造や変化球習得に取り組む。
江夏の指導は投球フォームや配球だけでなくロジンバッグの置き方にまで至り、時には殴られるほど激しいものだったと言われている。
そうして大野は入団二年目にヤクルトの全試合得点を防ぐ初完封勝利を達成、その後は中継ぎ、江夏が日ハムに移籍すると抑えを任されるようになる。
1984年には再び先発に転向。防御率1.70という驚異的な数字を叩き出し同年のセ・リーグ優勝、日本シリーズ制覇に貢献。
1991年には津田恒実とのダブルストッパー構想のもと再度リリーフ転向。
が、開幕前から津田は激しい頭痛と体調不良を訴え始める。
そして4月、津田に脳腫瘍が発覚する。
「津田を優勝旅行に連れて行ってやろう」とチームは奮起し広島は五年ぶりの優勝を果たす。
最多セーブの大野をはじめとする投手陣はタイトルを総ナメにする活躍を見せた(最優秀救援投手:大野、最多勝利・最優秀防御率・沢村賞:佐々岡真司、最高勝率:北別府学、最多奪三振:川口和久)。
その後再び先発に転向。41歳となる1997年に防御率2.81で最優秀防御率のタイトル、42歳まで開幕投手を勤め上げた。しかし同年に持病の血行障害が悪化、高橋由伸にホームランを打たれたことを機に引退を決意する。
引退試合では既に消化試合にもかかわらず球場は超満員。
初球のストレートは146km/hを記録。この試合で引退する選手とは思えないボールを投じた。最後も142km/hのストレートで三振にしとめた。
引退セレモニーには広島の選手だけでなく横浜の選手も参加。そして…
『わが選んだ道に悔いは無し。 背番号24番、そしてファンの皆さま、ありがとうございました。』
という言葉を残して大野はグラウンドを去っていった。
引退してからはアテネオリンピック、北京オリンピックの野球日本代表のコーチを歴任。2010年からは野村謙二郎監督の元、広島のヘッド兼投手コーチに就任している。
現役時代はMAX150km/hの直球に加え、スラーブ、パーム、シュート、ドロップなど多彩な変化球を駆使する様子から『七色の変化球』と称され、
精密機械・北別府学、巨人キラー・川口和久、炎のストッパー・津田恒実などと共に投手王国としての広島の全盛期を築き上げた。
1993年にはアナハイム・エンゼルスから破格の条件で大野を獲得したいとのオファーがくる。しかし高齢を理由に固辞している。
(まだ野茂英雄がメジャーで活躍前にもかかわらずメジャーから38歳の投手にオファーがくるのは異例中の異例である)
またマスターズリーグに参加した際は50歳を過ぎても140km/hを超える直球を投げるなど現役時代を彷彿とさせる姿を見せている。
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