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更新日:2024/02/09 Fri 10:46:27NEW!
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0系新幹線電車とは、旧日本国有鉄道が開発・製造し運用した新幹線電車である。
ある一定以降の世代の方、もしくはそれ以外の方でも「新幹線」と聞いたら500系、100系と並び最初に思い浮かぶ車両かも知れない。
何しろ海外でも「Shinkansen」といえばこの車両が上がるくらいである。
概要
旧国鉄が東海道新幹線用に開発・製造した新幹線電車。
量産型としては史上初の高速鉄道専用車両として1964年より製造が開始され、1986年までに述べ3216両が製造された。
但し後年では「新しい0系で古い0系を置き換える」ということが行われていたため、全ての編成が顔を合わせたということはない。
航空機に似ていると言われる、丸みのある前面は「世界初の200km/h超の営業運転」と合わせて新幹線のイメージを形作った。
まあ似ているも何も、前面のデザインは旧日本海軍の爆撃機「銀河」などが参考になっているわけだが。
今でこそ0系と呼ばれているが、開業当初はそういった呼び名が無く(そもそも新幹線自体東海道・山陽しかないため区別も必要なかった)、『新幹線電車』と呼ばれるのが一般的だった。
0系の名称が一般化するのは200系が登場して以降である。
仕様
基本仕様
編成 4/6/8/12/16両(全電動車方式)
車体 普通鋼製
電気方式 AC25000V 60Hz
制御方式 低圧タップ制御
主電動機 MT200型 直流直巻電動機 定格出力185kW / MT200B 直流直巻電動機 定格出力225kW
制動装置 発電ブレーキ併用電磁直通ブレーキ
保安装置 ATC-1
駆動方式 WN駆動
歯車比 1:2.17
起動加速度 1.0km/h/s→1.2km/h/s
最高運転速度 210km/h→220km/h
定格速度 167km/h
平坦線均衡速度 約235km/h
速度種別 A96(10パーミル上り勾配における均衡速度196km/h)
減速度 2.84km/h/s(常用) / 3.9km/h/s(非常)
「世界初の200km/h超で営業運転を行う鉄道及び列車」として内外に衝撃を与えた0系だが、
実は未経験の技術は一切使われていない。
設計にあたっては、「未経験の新技術は使わず、実証済みのもののみを組み合わせる」「将来に改良の余地を残す」という2つのコンセプトで設計が行われている。
例えば動力系に関しては、実は(旧)営団地下鉄丸ノ内線で使用された500形のものを拡大発展させたものとも言え(高速直流電動機とWN駆動の組み合わせ)、
電気系統に関しても交流電気機関車のノウハウが用いられている。
車体すら(さすがに軽量化は行われているとはいえ)普通鋼製である。
冒険など全くせずに「当時手元にある技術」だけを組み合わせ、世界最速の電車を作ってしまったのだ。
もっと言ってしまえば「200km/h超」という数字も、実は当時の国鉄からすればそこまで無茶な数値ではなかった。
新幹線のためのデータ取りで行われた高速試験では、東海道線上で小田急3000形ロマンスカーが145km/hを叩き出し、
その後に「こだま形」こと151系特急形電車が163km/hを記録。そしてその後に旧型国電界の最終兵器・クモヤ93形が175km/hを記録している。
え、全然200km/hに到達していない?
…いや、これは1067mm軌間の「東海道本線」での記録。
これを1435mm軌間に"拡大"すれば、200~250km/hの「営業運転」は余裕を持って可能な数値であったのだ。
さて、ここからが本題、つまり仕様に関して。
車体は全長25m級・幅3380mmとかなりの大型車体である。
客室の床面高さも1300mmと高めになっているが、これは見晴らしなどを狙ったわけではなく、高速安定性のある大型の台車を採用したことや、
直径910mmという大型の車輪を採用(一般的な在来線電車の車輪は860mm)したことに起因している。
車体のデザインは空力性能を重視して設計されており、先述の通り爆撃機「銀河」やDC-8旅客機などが参考とされている。
運転台は高い位置に設けられており、高速走行時の視界確保を行っている。また窓は防弾ガラスを使用し、バードストライク対策も行われている。
「鼻先」には救援用の連結器が収められているが、当初はこの中に蛍光灯も仕込まれており暗闇で発光するようになっていた。
このため「光前頭部」の呼び名で呼ばれている。
先頭車の床下には障害物をはねのけるためのスカートが装着されている。6枚の鋼板で構成されており、ちょっとした岩くらいならこれで弾き飛ばせる。
またこのスカートは障害物対策以外にも、ダウンフォースにより高速走行時に車体を路面に押し付ける作用もある。
運転台の上にあるL字型のアンテナは「静電アンテナ」という、架線に電気が流れているかどうかを検知するためのセンサーである。現代の新幹線車両にも静電アンテナは受け継がれている。
座席は普通車は当初は(乗車時間が少ないだろうと割り切ったため)2列+3列の転換式クロスシートを採用していたが、
アコモデーションの向上に伴い2列+3列のリクライニングシートに変更された。座席間隔の関係で、3列シートの方は回転しない。
ちなみに座席交換による発生品の転換式シートは国鉄末期にキハ58系の座席改良車や新造された一般形気動車の座席に転用された。またリクライニングシートは駅の待合室に転用された例もある。
一方のグリーン車は当初から回転式リクライニングシート。
制御装置は「低圧タップ方式」という、あまり聞き慣れないかも知れないシステムを採用している。
これは要するに、トランスの出力側の巻線を切り替えることで必要な電圧を得るというシステムである。
抵抗制御のように余分な電気エネルギーを「削り取る」のではなく、いわば「最初から必要なエネルギーしか取り入れない」というシステムなので省エネルギーであり、
なおかつトランスの巻線を切り替えるだけというシンプルな動作で信頼性も高い。但しその性格上、交流電化でしか使えない制御方式だが。
主電動機はMT200形。定格出力185kWの直流直巻電動機。
実はこのモーターも丸ノ内線の500形のそれの拡大発展版とも言われており(設計はどちらも三菱電機)、
こちらも未経験の技術は使われていない。このモーターでWN継手を介し、車輪を駆動する。
台車はミンデンドイツ式*1を元としたIS式。
この構造も東武鉄道などの私鉄系で(原型のミンデンドイツ式が)実証済みである。
ブレーキ装置は、200km/hから機械ブレーキだけで止まってたんじゃブレーキの消耗が残念なことになるってなわけで、
高速域では発電ブレーキで減速・50km/hを切ったら機械ブレーキに切り替えという二段構え。これも既に国鉄私鉄問わず多数採用されていたシステムである。
走行に必要な電気機器類は2両に分散して設置するユニット方式を採用。これも在来線では当たり前に使われている技術。理論上の最短編成両数は2両だが、営業運転では4両編成が最短であった。
パンタグラフは小型の下枠交差形であるPS200形を使用。
ちなみに歴代新幹線電車で最もパンタグラフの使用数が多い車両(16両編成において8台)…だが、
このパンタの多さ故風切り音やスパークなどで騒音もなかなかのものであり、訴訟沙汰になったほどである。
このため後の新幹線電車ではパンタの使用数を減らす方向になっている。これが出来るようになったのは特高圧引通線という、乱暴に言えば延長コードのようなものでパンタグラフのないモーター車へ電気を送れるようになったから。
風切り音がするってことはそれだけ空気抵抗も発生しているってことでエネルギー消費も多くなっているってことだしね。
では0系はというと……後述の特徴的な編成・車両で。
マイナーチェンジ
0系は製造期間が23年間にも及ぶため、大小マイナーチェンジが度々行われていた。
大きな変化と言えば窓のサイズであり、ファンの間でも大窓・小窓・中窓で区別している。
まず大窓車は1964年から1975年までに製造されたモデルで、座席2列で1枚の窓としている。この代の中には山陽新幹線岡山以西への乗り入れができない車両があった。
続いて小窓車は1976年から1980年まで製造されたモデルで、座席1列につき1枚の窓としている。この代から普通車の座席もリクライニングシートになった。
中窓車は1981年から1986年まで製造されたモデルで、小窓車よりも窓のサイズがほんの少し大きくなっている。車内では座席の間隔が小窓車よりも4cm広くなっている。
基幹形式
パンタグラフは形式が偶数の車両に搭載。
- 21
- 22
先頭車。21は博多向きでトイレ付き、22は東京向きでトイレなし。
- 25
- 26
ごく一般的な中間普通車。
- 27
車いす対応設備を備える中間普通車。ペアを組むのは原則食堂車の36形とだけだが、36形から改造された26形とペアを組む車両もいた。
- 35
- 37
ビュッフェと普通席を備える中間車。
35はビュッフェのテーブルに回転椅子があるが、37は回転椅子がない。
- 36
本格的な食堂車。床下レイアウトの制約から本来搭載するべき機器の一部が27に分散搭載されている関係上、27以外とペアを組むことが出来ない。
- 15
- 16
中間グリーン車。15はドアが片側1箇所、16はドアが片側2箇所という違いがある。
以上の形式が用意され、更に後年の後天的な改造で多くの番台が生まれることとなった。
改造によって生まれた車両
- 21-3901・22-3901
グリーン車の15-84、16-133に運転台ユニットを取り付けて先頭車化したもの。
窓割りはグリーン車時代から変わっていないため、目の前が柱というハズレ席もあった。
- 21-7951・22-7951
普通車の25-2038、26-2245に運転台ユニットを取り付けて先頭車化したもの。
最後まで残った0系に含まれていた。
- 25-1900
グリーン車の15形1000番台(小窓車)を普通車に格下げしたもの。格下げに際しデッキを増設している。
なお25-1904に関しては別形式からの改造。
- 25-1904
ビュフェ車の37-1057の客室を拡大し、ビュフェスペースを売店と車内販売準備室に改造したもの。
身体障害者用の大型トイレを持つ。
- 25-2900
ビュフェ車の37-2500の客室を拡大し、ビュフェスペースを売店に改造したもの。
- 25-3301
普通車の25-763の客室の一部を車内販売準備室としたもの。
- 25-3900
普通車の27形に映画を上映可能なシネマルームとビジネスルームを設置したもの。改造落成から半年も経たないうちにウエストひかりに組み込まれ、座席を2+2の回転リクライニングシートに交換した。
- 25-4900
普通車の27形にあった食堂車従業員用トイレを一般用に改造したもの。
- 26-1900
食堂車の36形を普通車に改造したもの。大窓車だけどシートピッチは中窓車準拠の980mm。ペアを組む相手は食堂車時代と同じ27形。
- 26-3000
普通車の26形700番台の客室スペースの一部を乗務員室に改造したもの。
- 37-5300・7300
ビュフェスペースを立席タイプから座席タイプに改造したもの。
- 37-7530
37形2500番台の客席を改良し、3列シートも回転可能なリクライニングシートに交換したもの。
- 37-7700・7730
ビュフェスペースを「こどもサロン」へ改造したもの。多客期の臨時列車「ファミリーひかり」に優先的に投入された。
1998年から99年にかけて「バンジョーとカズーイの大冒険」とタイアップし、0系にラッピングを施して運転されたが、その対象編成もこのこどもサロン改造編成だった。
編成
東海道新幹線開通当初はひかりもこだまも12両編成で、製造を担当した車両メーカーごとに編成記号を分けていた。
N:日本車輌
K:汽車製造
R:川崎車輌*2
S:近畿車輛*3
H:日立製作所
T:東急車輛
程なくしてひかり用とこだま用で編成が分けられ、増結や組み換えで編成単位でのメーカーの統一も崩れていったため、編成記号を整理。
ひかり用16両編成はH、こだま用16両編成はK、こだま用12両編成はSへ統一された。
1976年にマイナーチェンジ型の小窓車が登場。小窓車で統一されたひかり用16両編成はN編成が付与された。なお編成組み換えで先頭車を小窓車に置き換えたひかり編成はNH編成となる。
1980年代に入るとこだま号の利用率の低さからこだま編成の12両化が行われ、SK編成とS編成が登場する。SK編成は先頭車が小窓車または中窓車の編成で、S編成は先頭車が大窓車の編成。
1985年には山陽新幹線でも特に通勤需要の多い博多-小倉間の区間運転こだま用として6両編成のR編成が登場した。当初は1編成のみだったが、6両こだまの運転区間拡大で20編成が追加されている。
JR発足時、JR東海へはひかり用16両編成のN・NH・H編成、こだま用12両編成のSK・S編成、JR西日本へはひかり用16両編成のN・NH・H編成、ひかり用で12両編成のSK・S編成、こだま用6両編成のR編成が引き継がれた。
JR東海のSK・S編成は新幹線通勤客の増加に伴う利用者増加で16両化されYK・Y編成となる。
1997年、小倉-博多間を走るこだまの輸送力適正化のため、0系史上最短となる4両編成を組んだQ編成が誕生した。Q編成は比較的古い車両で構成されていたためにJR西日本の0系としては早期の2001年に姿を消している。
去就
初代新幹線車両として初期車の置き換え分まで含めて延べ3200両以上が製造され、全盛期には2300両以上が在籍した0系だが、
100系以降の加速力・最高速度に優れた新型車が登場すると、特に過密ダイヤの東海道新幹線においてはダイヤ上の足かせとなっていった。
東海道新幹線においては1995年度の300系の5、6次車の登場により、まず「ひかり」専用編成であるNH編成が全編成引退。
その後は「こだま」用のY・YK編成が数を減らしていき、浜松工場では1997年9月をもって0系の定期検査を終了。検査期限が切れた編成から順に姿を消していった。
0系が経験した最後のダイヤ改正となった、1999年3月の改正ではついに6編成のみが残存となる。
同年の夏休み期間にはリバイバル運転として0系による「ひかり」が復活。
1999年9月18日の名古屋行「こだま473号」(Yk8編成使用)をもって、東海道新幹線から0系が引退することとなった。
一方の山陽新幹線では(運営会社たるJR西日本の財政難などもあって)12両編成がグレードアップ改装を受けてひかり運用に入るなど準主役的ポジションに暫く残っていたが、連日の高速運転などで車体の老朽化は進行していた。
当初JR西日本は「N700系の実戦投入開始まで0系を使う」と発表していたが、
2007年9月にN700系の増備により「のぞみ」運用を退いた500系を「こだま」に回し、0系に関しては2008年11月いっぱいをもって運用終了し全廃すると発表した。
同年2月27日には、当時使用されていた三井住友カラー緑基調のカラーリングから、往年の白と青に戻された。
但し塗料が当時と異なるものを使用していたので、色合いはほんの少し異なっていたが。
車内放送用のチャイムも、「いい日旅立ち」からかつての東海道新幹線のチャイムに戻された。
2008年12月14日の「ひかり347号」をもって、0系新幹線電車は遂に営業運転を退いた。
また引退前にJR西日本は特設サイトを開設し、馬場俊英の歌うテーマソング「君がくれた未来」を使用したビデオクリップが期間限定公開されていた。
0系が与えた影響
最初に書いたとおり、「新幹線」と聞いて真っ先に上がる車両の一つはこの0系だろう。
世界初の200km/h超の営業運転で世界に日本の復興と技術力を示し、
さらに海外の鉄道関係者には「鉄道はもっと速くできる」「速くできれば自動車や飛行機にも対抗できる」と希望を与えた。
「これからの時代は飛行機が主流で鉄道はオワコン」と世界的に思われていた矢先に登場したこの0系はまさしく鉄道界におけるニューヒーローであり救世主でもあったのだ。
実際、フランスは鉄道先進国の威信をかけ、0系ひいては日本の新幹線を超えるために超特急TGVを作り上げているし、
アメリカも日本の新幹線に刺激されて東海岸を200km/hで爆走する超特急「メトロライナー」を作り上げた。
ドイツも「電車方式の超特急」に触発され、403系特急電車を作り上げ、
さらに0系の直系の子孫たる100系の二階建て車両を参考に超特急ICEの車体寸法を決めたとも言われている。
イタリアでも振り子特急ペンドリーノ「ETR450形」のデザインが、0系に影響されていると言われている。
そして鉄道発祥の地であるイギリスでは、ヨーク鉄道博物館のコレクションに0系の22-141号車が加わっている。
鉄道発祥国の博物館の展示物にも加わったのだ。
1975年にエリザベス女王が来日した際には乗車される名古屋駅を悪天候やらで3分遅れで出発するも、
運転士の「210㎞/hに達するとATCによって急ブレーキがかかるので209㎞/hで走り続ける」という職人技を遥かにすっ飛んだ運転技術により、
品川信号所(当時、現在の品川駅)を定刻に回復、「新幹線は時計よりも正確」という女王陛下の御言葉を違える事無く東京駅に入線した。
日本の国土は80%が山のために勾配が多く、空気抵抗やもろもろの摩擦係数、乗客による加速やブレーキの良し悪しも日によって全く異なる。
こんな状況で1㎞/h下の速度を維持し続けるのがいかに困難なことかは容易にお分かりだろう。
そうでなくとも、海外でも「Shinkansen」やら「Bullet Train」と言えば、まず最初に上がる車両の一つでもあろう。
チャド共和国に至っては自国の切手のデザインに、富士山をバックに疾走する0系を採用したことがある。
海外だけでなく我々日本人にも大きな影響を与えている。
駅のピクトグラムで「新幹線乗り場」を表すサインといえば0系という時代は長かったし、
漫画で、アニメで、映画で、「新幹線」と言えば0系という時代も長く、同じく昭和のシンボル的にも扱われる東京タワーと並んで破壊されがちな建造物でもあった存在でもあり、中でも1975年に公開された映画『新幹線大爆破』では0系新幹線に爆弾を仕掛けられるというサスペンスの舞台ともなった。
子供文化においては絵本で出てくる「新幹線」といえばまず真っ先に0系が上がるし、
お子様ランチの皿のモチーフとしてはジャンボジェットやスペースシャトルと並ぶ人気の題材。
屋上遊園地のコインライドや豆汽車のモチーフとしても大人気の形式。
ある世代のwiki籠りにはおなじみの「超特急ヒカリアン」「電光超特急ヒカリアン」やサンリオの「しんかんせん」シリーズにももちろん登場している。
更には日本手話で新幹線を意味する単語に0系の光前頭をイメージしたものが使われている。
ここまで人気の理由は単に「製造・運用の期間が長かったから」だけでは説明できないものもあるだろう。
今となっては愛嬌の感じられる丸みのある車体、そこから繰り出される当時世界最速の210km/hというインパクト。
車両そのものだけでなく「生活」から見れば、わずか4時間半で東京と大阪を結ぶことにより、
「日帰り出張」「日帰り旅行」すら当たり前としたことで、生活様式やビジネスのスタイルすら根本から変えた。
世界では鉄道斜陽論を吹き飛ばし、日本人の生活様式すら変革し、
さらに我が国に於いては単なる「電車」を超え「文化」に入り込んだ0系という車両には、「伝説」の称号が相応しいだろう。
現存する0系
「最初の新幹線」という性質上、保存車は多い。
例えば国内の鉄道関係施設であれば極力開業当時の姿を再現してある鉄道博物館の21-2、正真正銘の「新幹線0系第一号」21-1、22-1、16-1を保有する京都鉄道博物館(この3両にビュフェ車第一号の35-1を加えた4両編成で展示)、東海道新幹線を管轄するJR東海肝いりのリニア・鉄道館ほか、ある程度の規模がある施設であればまず何らかの形で静態保存車が置いてある。
他の保存先としてはJR東海・西日本関係の車両基地や工場なども多い(浜松工場や博多総合車両所など)。「車輛製造メーカーであった縁で」として日本車輛や川崎重工業*4、総合車両製作所にも展示車が存在する(大抵はイベントで工場内を一般公開する時だけだが)。
また一部は公園のモニュメントとして設置されているケースもある…が、この手の静態保存車にはつきものの問題である「経年劣化や心無い者の手による荒廃」に悩むケースも多いようだ。
もちろんこのケースでも「国鉄新幹線部門のOBに依頼して整備の助言を受ける(東京・昭島市つつじが丘公園)」「歩いて行ける距離に新幹線の車輛基地があるため、いつでも助言を受けられる(大阪・新幹線公園。目と鼻の先に鳥飼車輛基地がある)」など手を打っている事例も多い。
保存中の0系
形式 | 保存場所 | 解説 |
21-1 | 京都鉄道博物館 | 正真正銘の0系新幹線第1号車の両側先頭車とグリーン車に加えてビュフェ車の第1号。 国鉄時代に廃車後、弁天町にあった交通科学博物館に収蔵され、京都鉄道博物館開館に際して京都へ移設。同館のプロムナードでC62形蒸気機関車や80系湘南電車と並んで展示されている。 |
22-1 | ||
16-1 | ||
35-1 | ||
21-2 | 鉄道博物館 | 0系新幹線の量産第1号車。国鉄時代に廃車後、吹田の関西鉄道学園へ運ばれて実習教材として使われ、JR西日本発足後もJRの研修所となった同学園で引き続き教材として使用されていた。 2008年にJR西日本からJR東日本に譲渡され、住み慣れた研修センターを後にして神戸から船で東京港まで運ばれ、大宮総合車両センターに搬入。修復と復元を行って2009年10月より鉄道博物館で展示。 |
21-25 | 運転台部分のカットモデル。廃車後に浜松工場で運転台部分のみをカットして東京の万世橋まで運び、同地にあった交通博物館でD51形蒸気機関車のカットモデルと並んで長年展示されていた。交通博物館閉館後は大宮の鉄道博物館へ移設され、展示されている。 アニメ「こちら葛飾区亀有公園前派出所 爆走列車!網走発東京行き!両津VS拳法バァさん!」では交通博物館に展示されていた頃の当車がストーリーの重要な役割を果たしている。 | |
21-86 | リニア・鉄道館 | 21-86はJR東海に引き継がれた初期の大窓車の1両で、廃車後も浜松工場で保管されていた。 36-84はJR西日本に引き継がれた食堂車の1両で、引退後JR東海へ譲渡。大阪の車両基地でJR東海のYK29編成へ27-3032と36-84のユニットを連結し、浜松工場へ回送。工場到着後、36-84だけが保存された。 37-2523と16-2034はJR東海最後の0系となったYK8編成に組み込まれていたもの。 21-86と36-84は連結されて車内も自由に見学できるが、37-2523と16-2034は普段車内の公開をしておらず、時々企画展の一環として公開している。 なお21-86以外、浜松保管時代は在来線の台車を履いて工場に隣接する在来線浜松運輸区の建屋内に秘匿されていた。 |
36-84 | ||
37-2523 | ||
16-2034 | ||
21-2023 | 総合車両製作所 横浜事業所 | 0系最終増備グループの1両で、JR東海発足後はYK22編成に組み込まれていた。廃車後、運転台部分のみをカットして飯田線中部天竜駅隣接の佐久間レールパークへ搬入し、同所で展示されていた。2009年のレールパーク閉園後も園内に残され、リニア・鉄道館への移転リストにも載らなかったためにこのまま解体されてしまうかに思われたが、製造元への里帰りが決定。中部天竜から横浜まで運ばれた。残念ながら一般公開はされていない。 |
22-2029 | 日本車輌製造 豊川製作所 | JR東海で最後まで残ったYK8編成に組み込まれていた車両で、廃車後製造元の日本車輌豊川製作所正門付近に保存された。一般公開はされていないが、公道から見える場所に保存されている。 |
22-75 | 青梅鉄道公園 | 大阪万博輸送に備えて増備された1両で、廃車後に青梅鉄道公園へと搬入された。1988年の再塗装で窓まわりとスカートが緑色に塗られ、0系なのに200系みたいなカラーリングになってしまった。 1997年に施設管理がJR東日本から交通文化振興財団へ移管され、元のアイボリーとブルーの塗装に戻された。しかし塗り分けは緑色時代のまま。 |
21-59 | 新通町公園 | 1968年に増備された1両で、廃車後に富士市の新通町公園へ搬入された。園内の案内板曰く「日本で最初に新幹線を展示した公園」とのこと。 |
21-73 | 新幹線公園 | 大阪万博輸送に備えて増備された1両で、青梅鉄道公園保存の22-75とは製造時期が近い。廃車後、新幹線鳥飼車両基地の目と鼻の先で保存された。 なお反対側の先頭車の22-73は沖縄県に保存されていた。 |
22-77 | さつき幼稚園 | 21-73、22-75と同じく万博輸送用に増備された1両で、晩年は6両編成のR編成に連結されていた。1990年の廃車後、福岡県のさつき幼稚園が購入し、内部を職員室と図書室に改装した。 2006年に園が移転した時には車体を4分割して運搬し、移転先で再接合するという器用なことをやってのけた。 |
21-100 | 昭島市民図書館つつじが丘分室 | 廃車後に昭島市へ運ばれ、1992年から市民図書館として活用されていた。かつて新幹線に携わっていた住民によってヘッドライトの点灯や警笛の動作、行先表示器も動くよう整備された。 2020年3月に分室が閉館となったが、0系の処遇は未定。 |
21-141 | 四国鉄道文化館 | 大窓車の最終製造グループに属する1両で、2000年にJR西日本で廃車後、車体を半分にカットしてJR四国多度津工場に搬入。2007年にオープンした四国鉄道文化館で展示されている。これは文化館のある西条市のお隣、新居浜市が新幹線建設に尽力した国鉄総裁十河信二氏の出身地で、初期型の0系を展示したいという意向をJR西日本に伝えていたことから実現したもの。 |
22-141 | ヨーク鉄道博物館 | 21-141の反対側の先頭車。JR西日本で廃車後、イギリスまで海上輸送されヨーク鉄道博物館で保存。 |
22-1003 | 並河駅鉄道歴史公園 | JR東海で廃車後、山陰本線並河駅隣接の鉄道歴史公園で保存された。スペースの関係からか運転台部分のカットモデルとなっている。 |
22-1047 | JR西日本博多総合車両所 | 晩年は4両編成のQ3編成の先頭に立っていた中期型の小窓車。2000年に廃車となったが、解体されずに新下関の訓練センターへ運ばれて実習教材として使用されていた。 教材としての使用も終わった後の2009年1月に博多総合車両所へ回送され、22-1047を残して解体。残った本車両は再塗装・整備を行い、基地内で保存されている。 |
21-5035 | 台湾高速鉄道台南駅前 | 2004年にJR西日本で廃車後、開通を控えていた台湾高速鉄道へ譲渡。譲渡後に架線柱やプラットホームなどの建築物が規定の間隔を保っているかレーザー光線を使用して測定する光学式建築限界測定車に改造され、開業前の建築限界測定に使用された。 使用終了後は車両基地で保管されていたが、修復の上で保存が決定した。 |
22-7007 | 吹田市立健都ライブラリー | JR西日本に最後まで残った0系であるR68編成の先頭車。廃車後に吹田市が譲り受け、市内の操車場跡地に整備を計画していた鉄道博物館の展示物となる予定だった。しかし市長の交代で整備計画が変更されて用途がなかなか決まらず、岸辺駅前に新設された健都ライブラリーへの保存が2016年に決定した。 |
21-7008 | 川崎重工兵庫工場 | JR西日本に最後まで残り、さよなら運転にも使用されたR61編成の先頭車。廃車後に製造元の川崎重工が引き取り、兵庫工場の社屋前に0系の原型とも言える特急「こだま」に使用されたクハ26001と並んで保存。 |
21-7038 | 神戸海洋博物館カワサキワールド | デビュー当初は12両編成で投入されたが、翌年に6両編成へ組み換えられ2006年に廃車となるまでを6両編成で過ごしたという経歴を持つ。廃車直前には山陽新幹線博多開業30周年を記念して臨時ひかり運用にも使用された。 2006年の廃車後に川崎重工が引き取り、神戸海洋博物館に収蔵された。スペースの関係から運転台と客室の半分を残してカットした状態で保存。 |
保存後解体
22-2 | JR西日本社員研修センター | 21-2とペアになる先頭車。21-2同様廃車後に吹田の関西鉄道学園に搬入されて実習教材として使われ、JR西日本発足後も実習教材として使用されていた。 時期不明だが解体されてしまったらしく、交通科学博物館の特設展に22-2の部品が展示されていた。 |
21-3 | 中央鉄道学園 | 1965年に増備された10編成の中の4両。廃車後に国分寺の中央鉄道学園へ搬入されて実習教材として使われていたが、国鉄の民営化に伴って学園が閉鎖。閉鎖後しばらく放置された後に解体。 ニュース番組のイメージショットに使われていたのはこの中央鉄道学園跡地で撮影された0系である。 |
22-37 | ||
35-73 | ||
26-73 | ||
22-56 | 民宿ワインの国 | 1982年に廃車後、浜松工場から遠路はるばる北海道まで運ばれ、帯広市緑ヶ丘公園で開催された北方圏農林博覧会の展示物として使用。閉幕後は緑ヶ丘公園、旧広尾線大正駅跡へ展示され、池田町のワインの国へ移設された。ワインの国移設時に前側半分のみのカットモデルとなったが、2015年に解体撤去。 |
22-86 | JR東海浜松工場 | リニア・鉄道館に保存されている21-86とペアになる先頭車。廃車後も浜松工場で保管され、毎年夏の新幹線なるほど発見デーで展示されていたがいつ頃からか展示されなくなり、人知れず解体された。 |
22-73 | 沖縄コンベンションセンター | 新幹線公園に保存されている21-73とペアになる先頭車。廃車後に沖縄県まで運ばれたが、塩分を多量に含む潮風を浴び続けた事で車体が急速な腐食に蝕まれ、1998年に解体された。 |
特徴的な編成・車両
- YK8編成
東海道新幹線に於ける最後の0系による列車「こだま473号」を務めた編成。東京方先頭車の22-2029は日本車輌製造豊川製作所の正門付近に保存されており、公道からフェンス越しに見ることが出来る。ビュッフェ車の37-2523とグリーン車の16-2034はリニア・鉄道館で保存・展示されている。
- R61編成・R67編成・R68編成
山陽新幹線に於ける最後の0系。グレーに緑ラインの「フレッシュグリーン」からオリジナルのクリーム10号・青20号のカラーリングに戻されていた。
最終運用ではR61,68の二本がさよなら運転を分担し、故障時に備えてR67が待機していた。R61が最終営業列車となる「ひかり347号」を担当し、さよなら運転がつつがなく終了したのちに博多へ回送されたR67が、本線を自力で走行した最後の0系となった。
なお、この(W)R編成の3号車はかつて売店車(ビュッフェ車からの改造)だった車両で、キッチンやコーヒーメーカーが残っているのを拝むことができた(営業はしていなかったが)。
しかも公衆電話があってテレカも売っており、コレクターもいたとか。
ついでに、R67編成には上で述べた21/22-7951が使用されており、他の先頭車と少々外観が異なる。
- Q3編成
0系、ひいては山陽新幹線最短の編成であったQ編成のうちの一本。2000年に廃車となったが、3号車を差し替えたうえで新下関の訓練センターへ運ばれて、走行可能な実習教材として使用されていた。訓練線は新下関駅構内まで伸びており、運が良ければ駅に来ているところを拝めたらしい。
教材としての使用も終わった後の2009年1月に、100系の牽引で博多総合車両所へ回送され、22-1047を残して解体された。自力走行ではないものの、本線上を走行した最後の0系である。
なお、廃車された100系が新たな教材として配備されたが、こちらも解体されて2022年現在はシミュレーターを使用して教育を行っている模様。
- H2編成
何やら過去にやらかしたようで「出る」と評判だったらしい編成。何が出るって?お察しください。
- H70編成
1974年10月6日に一度だけ走った16両中12両がグリーン車というスペシャル編成。この日に開催される国際会議の参加者のための列車であった。
- R51・R23編成
山陽新幹線用の6両編成で、R23編成は特に客室設備に手を加えていないこだま編成。R51編成は座席を2+3から2+2の回転リクライニングシートに交換し、グレードアップ改造を施したウエストひかり編成で、夏と冬の超多客時にR23編成を連結して12両編成を組成した。
新幹線における複数編成を併結しての営業運転はこれが初めての事例。
- NH82編成
前述した通り、0系のパンタグラフは非常に多かった。これは当時の東海道新幹線の地上設備に問題があり、特高圧引通線にはパンタグラフを並列接続する特性があるのだが、当時の東海道新幹線の地上設備はパンタグラフを並列接続すると、電気配線などを短絡してしまう構造になっていた。
そのため、0系ではやむを得ず電動車ユニット全てにパンタグラフを搭載していたのだが、時代が進み、東海道新幹線の地上設備の改良が進められて、JR化後の1991年に東海道新幹線も特高圧引通線が使えるようになった。これに着目したのがJR西日本だった。
中国山地に赤字ローカル線を大量に抱え、当時はまだ私鉄王国の牙城を崩すまでには至っていなかった近畿圏など、苦しい状態で新型車両の積極的な投入など夢のまた夢だったJR西日本は、やむを得ず0系を東海道直通「ひかり」に2000年頃まで使用する予定を立てていた。そのため、0系に3人掛けシートの回転可能化改造を施したりしていたが、その一環として計画されたのが「0系への特高圧引通線搭載によるパンタグラフ数の削減」で、その対象に選ばれたのがこのNH82編成だった。
施工後は外観が変化し、奇数号車の東京方にはパンタグラフの遮音板と似たようなデザインで長さが短い碍子用の遮音板が立てられ、偶数号車の東京方と奇数号車の博多方が隣接する部分には、200系のものとよく似たデザインの碍子カバーが取り付けられた。これによって0系も特高圧引通線を装備し、パンタグラフの数を削減――
出来たら良かったのだが。
実際には「やろうと思って準備工事をしたが、結局ダメだった」編成。そのため前述した外観上の装備は全てハリボテ。
出来なかった理由は0系の屋根の構造にあり、一見屋根のように見える銀色の部分は本当の屋根と空調装置を覆うためのカバーで、強度が不足しており300系以降の車両のように車外に引き通すことが出来ず、かといって本当の屋根の部分には空調装置が分散して配置されており、そこに引き通すと空調装置との絶縁距離が確保できず、ショートする可能性があり極めて危険だったため。結局、1998年に廃車となるまで特高圧引通線は装備されずに終わった。
- 21-2003
昭和57年にデビューしたものの、平成元年12月に車両基地の車止めに激突する事故に遭遇し、同月に廃車となった。0系で唯一の事故廃車車両であり、車齢10年未満で廃車となった車両でもある。
- 21-5035
台湾新幹線の開業前に、建築限界測定のためにレーザー測定器を積み込み検測車として台湾に渡った。
- 22-141
イギリス・ヨーク鉄道博物館に収蔵された車両。JR西日本からの寄贈品である。ちなみに編成の相方であった21-141は前半部のみながら四国に現存する。
- キハ32 3(JR四国)
…ディーゼルエンジンの音が聞こえるし最高速度も85キロだけど0系だ、いいね?アッハイ。
保存施設の引き込み線を使用することで本物の0系、上で述べた21-141と並ぶこともある。
余談
国鉄末期、0系の廃車部品が家具として販売されたことがある。
大窓車の窓ガラスに脚を取り付けてガラステーブル化、グリーン車の座席をソファーとした応接セットと、先頭部の連結器カバーを花壇の鉢としたもの。現行車両の廃車部品だとソファーはなんとかなってもガラステーブルは無理だろう。
国鉄時代に誕生した自由席を設定し、キリのいい時間に高頻度で発車するエル特急は、ロゴマークに0系の先頭部をモチーフとしたものが使われた。
形状が航空機に似ていると解説したが、これは0系設計者である三木忠直が銀河や特攻機「桜花」を設計していたため。*5
なぜ航空機設計をしていた技術者が鉄道に関わっていたかというと、終戦後国鉄は陸海軍の技術者が散り散りになることを危惧、技術者たちを積極的に受け入れたため。
三木も「戦争はこりごりだが自動車関連に行けば戦車、船舶関係に行けば軍艦を作るかもしれず、一番軍事転用が少ない鉄道が良かった。」と語っている。
210km/hの衝撃を体験した人はぜひとも追記修正をお願いします。
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▷ コメント欄
- 速度種別A96だったのか。電車でGO山陽新幹線をやってると、0系の加速力の貧弱さがよく分かる。どうりでフルノッチでも上り勾配で減速するわけだ… -- 名無しさん (2017-08-25 22:09:16)
- 昔は沖縄県にも保存車両があったんだよね あと2両1ユニットで編成の組み換えがしやすいと言うのもN700Sの先取りっぽい感じがする -- 名無しさん (2017-08-26 16:16:52)
- 0系はころんと丸いデザインとアイボリーベースのカラーリングがずば抜けて可愛い。一時代を築いた偉大な工業製品なのに巨大なおもちゃみたいなデザインなんだよな。 -- 名無しさん (2017-08-28 17:50:27)
- 航空会社「お前のせいで、お前のせいで」 -- 名無しさん (2019-07-28 08:42:29)
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*2 Kにならなかったのは汽車製造と重複するため。川→RiverからR
*3 こちらも汽車製造と重複するため。近畿→近い→ShortからS
*4 カワサキワールドの21-7038とは別
*5 三木は設計を行っただけで彼は若者を死なせたことを悔いクリスチャンになった、桜花の発案者は大田正一という人物で彼は発案者として世間の注目を浴びるも同時に人命軽視な発言もしており戦後自決を図るも失敗、軍は死亡扱いし以後無戸籍のまま1994年に没している
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