あくまでも個人的な意見であるが、
私は浮気をしないし、してはいけない。
少々荒っぽい表現であるがあえてこのように書いた。
世間では浮気をしないという男は大体浮気をすると言われるようである。
意味がわからない。
違うんだよなぁ、と思う。
正直人がなぜ浮気をしてしまうのか私には到底理解できない。
浮気をしてしまう人としない人には絶対に差があるからだ。
なぜ私が浮気をしないのか書こうと思う。
そもそも浮気という行為の定義の問題はあるが、定義についてあれこれ言いだしたところで単なる言葉遊びに過ぎなくなってしまうので、ここでは
①付き合っている、または結婚している二人の人間A、Bについて
②どちらかがA、B以外の第三者Cを
③人間的にあるいは恋愛的に好きになってしまう、あるいは肉体関係を持つことによって
④A、Bが精神的ショックを受ける
ことを浮気ということにする。したがって結婚した男女についても浮気という言葉を使うことにする。
「寝取られ」みたいなプレイを好む人も、別に私の元に戻ってくればいいという人も、ほかの人を好きになってもいいという人も精神的ショックを受けているわけではないので浮気とは言わないことにする。
というかこんなことをいちいち書かなくてもいいのだが、「私は浮気をされてもなんとも思わないからしてもいい」「浮気をされるほうが悪い」なんて的外れな意見がありそうだからだ。
この後を聞けば何故こういう例が的外れなのかわかるはずだが、簡単に言えばそもそも本質的な「浮気」と言うのは「浮気されると精神的ショックを受ける」社会に生きている人だけにしか論じる資格がないからである。
さっき言ったような人達がいう「浮気」は形式的なものなのでこういうのが単なる言葉遊びというのである。形式を見るのではなく本質を考えるために予めこのような例は排除しておく。
さて、世間では実に多くの人が浮気をする。
男は浮気の生き物だとか、浮気をしない人はいないなどという話はよく耳にするだろう。どこからが浮気?などと聞く人もいる。
ほとんどすべての場合において浮気に対して肯定的な意見を持つ人はいない。
浮気をした過去があったり、現在浮気をしている人というのは多くの場合嫌われるだろう。
恋愛において、一人の人を愛すべきで、浮気をしたものは「信用のできない人」として排除される。というのが現代の社会である。実際不貞行為は離婚事由になるしね。
さて、少し遠回りをしたが、ここで「付き合う」とは何か考えてみよう。
小学生同士で付き合ったりしているのを見て「付き合ってるっていって何するんだろう」と思うことはないだろうか。
でもこれは実際その通りなのだ。付き合うことの本質を考えるために最も純粋で考えやすい例だと思う。
実際付き合うって何だろうか。付き合ってるなんてお互いに確認しあわなくても、「付き合ってください」なんて言わなくても、お互いに愛し合っていればいいのではないだろうか。
付き合ったところで「お互いに好き」という気持ちがどう変わるわけでもない。
つまり、「あなたのことが好きです」「私も」。
これで本質的には十分じゃないか?
よく考えてみれば、法的拘束力があるわけでもあるまいし、わざわざ「付き合う」なんて形式をとっても取らなくても何も変わらないじゃないか!!
でも多くの人は付き合うという形式をとることを選択する。私だってそうだ。
じゃあなぜ、別に何も変わるわけでもないのに「付き合う」ことを選択するのか。
答えは単純である。相手を独占したいから、ただそれだけである。それ以外の意味はない。
しかし待ってくれ、なぜ「付き合う」ことで独占することになるのか。
別に付き合っていて浮気をしたところで、何か罰が与えられるわけではないよ?付き合うことで永遠に愛するようになるわけじゃないじゃん!
という疑問がわく。
付き合うことが独占を意味するのであれば、付き合った相手が自分のものであることを何かが保証してくれなければならない。いったい何が保証してくれるのか。
答えは「コミュニティ」である。
つまり、「周りにいるみんな」がそれを保証してくれているのだ。
私たちは恋人を独り占めにしたい。あなたがそう思ってもそう思わなくてもさっき”浮気している人は嫌われる”と書いたように愛する人がほかの人にも恋愛的な要素を見せるのはいやだ、と思う人が圧倒的多数なのだ。
つまり「付き合う」とは、自分の恋人が浮気をしないようにみんなが監視しあう、そういう社会に自ら入ることなのだ。
私たちは人間である。恋人以外を好きになってしまうことはあるかもしれない。
でも、この社会のメンバーである間はそれは許されない。
例えば「人を殺したい」と「思ってしまう」ことは規制できない。どうしようもないのだ。
だけど、実際に人を殺したら刑務所に入れられ、自由が奪われる。
だからしないのだ。
こういう社会にいるから、自分の身は安全だけど、人は殺せない。
でも、人は殺せないというデメリットよりも圧倒的に自分の身が安全なメリットのほうが上だから、みんながこういうルールのもとに暮らしているのだ。
付き合うというのはこれと同じ構図だ。
つまり、恋人を独り占めにするメリットが、ほかの人を愛せないデメリットよりも圧倒的に大きいから、だから付き合うことを選択し、みんなに監視してもらうのだ。
だから浮気をするとこの社会システムの中にいるみんなから徹底的に排除される。嫌われる。そうすることでこの社会システムが維持されている。
みんなが小さなデメリットを出し合うことで、みんなが大きなメリットを得られるようにしている。
浮気をすると批判されるのはこういうことである。
こうなると話は単純である。
ほかの人も愛したいのであればそもそも付き合うという相互監視社会に入らなければいいのだ。
というか、付き合うという形式を”わざわざ”選択するということは、浮気ができないという約束を絶対にしなければならない。
ものすごく簡単な理屈である。
この社会に自ら入った以上、「恋人を独り占めできる」というメリットだけもらって自分は浮気をするというのは許されないのだ。
ほかの人を愛するためには、付き合っているという状態を解消してからでないといけない。
これは自ら選択したことだ。
つまり、複数の人を愛すのがいけないわけではない。人それぞれ恋愛の形はあってもいい。だけど「付き合っているなら」それはいけない。
付き合わないと愛し合ってはいけないなんて誰も決めていない。付き合っていないと出来ないことなんてものもない。
ほかの人が気になりそうなら別れなければならない。
こういうことで私は浮気をしないし、したこともない。
付き合うことを自ら選択したのだから浮気をしないなんて当たり前の話である。
付き合っているくせに浮気をする人は自分で選んだ服なのに誰がこの服を買わせたと言っているのと同じだ。
これが「付き合う」ということである。
浮気をする人は、付き合う重みを理解していない。
どう考えているのかわからないが、恐らく付き合うとは何か考えたこともないのだろう。付き合っても付き合わなくてもお互い好きという気持ちは変わらないのに、なぜわざわざ「付き合う」なんて形式をとるのか。
もし本当に付き合うことに何の意味もなければなぜ付き合うのか。
浮気をしない人は絶対にしない。そもそも付き合うことがどういうことか分かっているからだ。
これでもまだ浮気は仕方がないとか、人それぞれだという人に問う。
じゃあなぜ、あなたはわざわざ「付き合う」のか。
浮気をする人にはぜひ考えてもらいたい。
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