続英雄百人一首 - いにしえwiki
の 水がくれて 下やすからぬ 思ひなりけり (佐渡判官道誉)018.わきてたが 頼む心の 深き江に ひける菖蒲ぞ ねとはしらなん (北畠准后親房)019.初秋は まだ長からぬ 夜半なれば 明くるやをしき 星合のそら (高階師冬)020.梓弓 もとのすがたは 引きかへぬ 入るべき山
の 水がくれて 下やすからぬ 思ひなりけり (佐渡判官道誉)018.わきてたが 頼む心の 深き江に ひける菖蒲ぞ ねとはしらなん (北畠准后親房)019.初秋は まだ長からぬ 夜半なれば 明くるやをしき 星合のそら (高階師冬)020.梓弓 もとのすがたは 引きかへぬ 入るべき山
仲基を祖とする。同族に慈光寺家[2]・西五辻家・三木家があった。春日家 (村上源氏) : 久我家流中院家一門の北畠家(伊勢源氏)の庶家。北畠親房の次子の春日顕信、あるいは冷泉持房(親房の弟)の孫、顕統(顕雄)[3]の子の春日顕時[4]を祖とする。脚注[]↑ 現在の京都府京都市上京
、義銀の孫の親光(親元)は、下記にある津川氏(尾張津川氏)と称して、遠縁筋の肥後国熊本藩の細川氏(長岡細川家/内膳細川家)に仕えて、その子の親房(辰房)以降は、代々が家老職を世襲した。庶家に越前大野氏・高水寺氏[2]・末野氏・今立氏・越前五条氏(越前五條氏)・千福氏・越前奥田氏・
一門の北畠家(伊勢源氏)の庶家の春日家一門の武将。約2名ほど存在する。春日顕国 : 別称は顕時。北畠顕行の子。南朝方の武将として、一族の北畠親房・顕家父子のもとで転戦した。春日顕時 (冷泉顕統の子) : 冷泉持房[1]の孫、顕統(顕雄)[2]の子、雅持の弟。脚注[]↑ 北畠師重の
類従巻15顕註密勘(藤原定家)古今秘註抄僻案抄(藤原定家)古今和歌集聞書(藤原為家)群書類従七為家抄古今和歌灌頂部(津守国夏)古今集序註(源親房)続群書類従巻452, 続群書類従巻462古今抄(北畠親房)古今集為明抄古今集註(了誉)毘舎門堂本古今註古今集童蒙抄(一条兼良)群書類従
樹を白して小詩を書す056.名和長年後醍醐帝を舟上山に奉迎す057.菊池武時躯を王事に殉ふ058.万里小路藤房帝を諫めて世を遁る059.北畠親房神皇正統紀を著はす060.足利高氏反を謀る061.楠正行四条畷に戦死す062.足利義満国体を汚辱す063.細川勝元山名宗全と対陣す(応仁
入りにし山を 立ち出でて 迷ふうき世も ただ君の為 (藤原師賢)050.をやま田の 苗代水の ひきひきに 人の心の にごる世ぞ憂き (北畠親房)051.とりのねに おどらかされて 暁の 寝ざめしづかに 世を思ふかな (後村上天皇)052.わが庵は 松原つづき 海近く 富士の高嶺
やいまの ねさめまて いく暁の へたてきぬらん (結城忠顕)011.身のうさは さもあらはあれ 治まれる 世をみるまての 命ともかな (北畠親房)012.此儘に しつみはてなは みなせ川 ありてかひなき 名をや流さむ (右兵衛督)013.日に三たひ 愚なる身を 顧みて つかふる道
や遺ると 山ふかみ 松の戸ざしも なほぞ尋ねむ (後村上天皇)070.片絲の 乱れたる世を 手にかけて 苦しきものは わが身なりけり (北畠親房)071.思ひきや 手もふれざりし 梓弓 おきふし我が身 なれむものとは (宗良親王)072.峰の松 さわぐと見れば 夕あらし 麓の竹の
ねて思へば 梓弓 なき数に入る 名をぞとどむる (楠木正行)034.かた絲の 乱れたる世を 手にかけて 苦しきものは 吾が身なりけり (北畠親房)035.みちのくの 安達の真弓 とりそめし その世に継がぬ 名を嘆きつつ (北畠守親)036.君がため わが執り来つる 梓弓 もとの都
ねて思へば 梓弓 なき数に入る 名をぞとどむる (楠木正行)046.鶏の音に なほぞおどろく つかふとて 心のたゆむ ひまはなけれど (北畠親房)047.いのちより 名こそ惜しけれ もののふの 道にかふべき 道しなければ (森迫親正)048.あふぎ来て もろこし人も 住みつくや
・義康父子の代で没落した。義康の甥で、義銀の孫の親光(親元)[1]は遠縁筋の肥後国熊本藩の細川氏(長岡細川家/内膳細川家)に仕えて、その子の親房(辰房)以降は、代々が家老職を世襲した。庶家に尾張津川氏・越前大野氏・高水寺氏[2]・末野氏・今立氏・越前五条氏(越前五條氏)・千福氏・
和田の円石・下和田の方石・和田の立石) 大槻三賢人(大槻玄沢・大槻磐渓・大槻文彦) 前の三房(藤原伊房・大江匡房・藤原為房) 後の三房(北畠親房・万里小路宣房・吉田定房) 三木一草(結城親光・名和長年・楠木正成・千種忠顕) 三振の太刀(石川兵助・伊木半七・桜井左吉)四 四天王 道
A. 後の三房とは、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、後宇多天皇や後醍醐天皇の側近として仕えた、北畠親房・万里小路宣房・吉田定房の3人を指す。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E3%81%AE%E4%B8%89%E6%8
から戦国時代初期の武将。通称は助十郎、別名は張忠(ひらただ)、官職は右京亮。松平親忠の子、乗元・親長・超誉存牛(僧侶)・長親(忠次/長忠)・親房(宗安入道)の弟、親光・長家・乗清[1]らの兄、康忠(甚六郎)の父、忠高の祖父。概要[]父より、三河国碧海郡牧内郷[2]を与えられて、牧
。約2名ほど存在する。松平親光 (西福釜松平家) : 通称は鴛鴨七郎[1]。松平親忠の子、乗元・親長・超誉存牛(僧侶)・長親(忠次/長忠)・親房(宗安入道)・家久(張忠)[2]の弟、長家・乗清[3]らの兄、親康の父、親久の祖父、忠久の曾祖父。西福釜松平家の祖となった。松平正久 :
松平長親 : 別名は忠次/長忠、法名は道閲入道。三河松平氏(三河源氏/徳川氏)の当主の松平親忠の第4子、乗元・親長・超誉存牛(僧侶)・の弟、親房(宗安入道)・家久(張忠)[2]・親光・長家・乗清[3]らの兄、信忠・親盛[4]・信定・義春・利長[5]の父。玄孫の徳川家康が3歳になる
央入道)・元芳[3](忠景/正則)・光親[4]・家勝・親則[5]・信重・戸田宗光室らの兄、乗元・親長・超誉存牛(僧侶)・長親(忠次/長忠)・親房(宗安入道)・家久(張忠)[6]・親光・長家・乗清[7]らの父。生母は源姓一色氏(三河源氏)の娘で、その嫡子である。1501年9月21日
) : 松平長親(忠次/長忠)の子、信忠・親盛の弟、義春・利長[1]の兄、清定の父、家次の祖父。父に溺愛され、長兄の信忠の後釜を狙うも叔父の親房(宗安入道)の婿養子となり、桜井松平家の祖となった。甥の清康に対して反逆的な態度を持ち、『宇利城の戦い』で次兄の親盛・親次父子を見殺しす
に迎えたが、義勝に嗣子がなく断絶した。↑ 義忠の子。↑ 「武衛系図」(続群書類従巻百十三 系図部八)↑親光(親元)・親義(親良)・親昌の父、親房(辰房)(親光の子)・義堅(親義の子)の祖父、親之(辰之)・親則(辰則/辰氏)兄弟と義富(義堅の子)の曾祖父、親貞(辰貞、親之の子)・親
物で、約3名ほど存在する。松平親長 (岩津松平家) : 松平氏惣領家の当主の松平親忠の次子、乗元の弟、超誉存牛(僧侶)・長親(忠次/長忠)・親房(宗安入道)・家久(張忠)[1]・親光・長家・乗清[2]らの兄、忠勝[3]の父、親足(ちかたり)・小栗忠吉(ただとみ、三河小栗氏(小栗松
久 (牧内松平家) : 通称は助十郎、別称は張忠(ひらただ)、官職は右京亮。松平親忠の子、乗元・親長・超誉存牛(僧侶)・長親(忠次/長忠)・親房(宗安入道)の弟、親光・長家・乗清[3]らの兄、康忠(甚六郎)の父、忠高の祖父。牧内松平家の祖となった。脚注[]↑ 勝親の父。↑正久の父
静岡県伊豆の国市↑ 現在の長野県木曽郡木曽町↑ 現在の栃木県足利市↑ 現在の神奈川県鎌倉市周辺↑ 『吾妻鏡』↑北畠家(伊勢源氏)の当主の北畠親房著の『神皇正統記』より。↑ 『増鏡』↑糸井義世の子、大島義政の従弟。↑世良田義政の弟、義時の父。↑ 江戸時代の新井白石(君義)の遠祖にあ
斯波氏(奥州源氏)の嫡流の尾張武衛氏(尾張源氏)の当主の斯波義銀(津川義親)の孫、親利(休閑入道)[3]の子、親義(親良)[4]・親昌の兄、親房の父。脚注[]↑頼氏(頼成)・弘国・俊光・頼実(頼房)・高山頼重・頼継・成国・国平(勾当冠者)・知光(国光)の兄。↑森義広の弟、茂理定隆
397 大友記 398 難太平記 398 上月記 398 荒木略記 399 親房卿被贈結城状 399 吉野御事書案 399 阿蘇大宮司惟澄申状 399 菊池武朝申状
伊勢国を統治したために、公家としてさかえて伊勢源氏とも呼ばれた。北畠家 (雅家流) : 中院雅家を家祖とする。南北朝時代には南朝に仕えた北畠親房・顕家父子はこの系統である。戦国時代の具教の代に織田信長に滅ぼされた。一部は高家旗本として存続した。庶家に春日家・木造氏・星合氏・伊勢大
子女王(きしじょおう)儀子内親王(ぎしないしんのう)宜秋門院丹後(ぎしゅうもんいんのたんご)喜撰(きせん)北畠親子(きたばたけ しんし)北畠親房(きたばたけ ちかふさ)北畠具行(きたばたけ ともゆき)吉田宜(きちた の よろし)儀同三司母(ぎどうさんしのはは)→高階貴子木梨軽皇子
介に任じられた。1336年正月に病床にあった義貞の代理として、族父の江田行義(行家)とともに北畠顕家(村上源氏北畠家(伊勢源氏)の当主の北畠親房の子)に従って、弟の幸氏・宗兼・氏兼・時氏らを率いて奮戦し、義貞の族弟である源姓足利氏の惣領家の足利尊氏(高氏)についた佐々木氏頼(宇多
の水戸徳川家に仕えて、その家老となった。最上義親 : 最上氏一門の武将。約2名ほど存在する。脚注[]↑親光(親元)・親義(親良)・親昌の父、親房(辰房)(親光の子)・義堅(親義の子)の祖父、親之(辰之/辰氏)・親則(辰則)兄弟(親房の子)と義富(義堅の子)の曾祖父、親貞(辰貞、親
親辰(辰珍)[3]・津川親治(親行)の兄。脚注[]↑ 津川義冬(親治/雄光)・義忠(親忠の父)の兄。↑親光(親元)・親義(親良)・親昌の父、親房(辰房)(親光の子)・義堅(親義の子)の祖父、親之(辰之/辰氏)・親則(辰則)兄弟(親房の子)と義富(義堅の子)の曾祖父、親貞(辰貞、親
近/晴親)の弟、信藤の兄。春日信親 : 北畠家一門の春日家の当主の春日顕信[2]の子、浪岡守親[3]・親統の兄。脚注[]↑ 昭治の父。↑北畠親房の子、顕家の弟。↑ 親能の父。関連項目[]宇野氏義光流世良田氏武田氏この記事は 『源信親』 のための曖昧さ回避ページです。下記は同じタイ
政候(まさとき)の父。↑ 織田信長の4男。↑ 義銀の子、義康の弟、津川親行(辰珍)・親治(親行)の兄、親光(親元)・親義(親良)・親昌の父、親房(辰房)(親光の子)・義堅(親義の子)の祖父、親之(辰之/辰氏)・親則(辰則)兄弟(親房の子)と義富(義堅の子)の曾祖父、親貞(辰貞、親
A. 神皇正統記とは、南朝公卿の北畠親房が著した歴史書です。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%9A%87%E6%AD%A3%E7%B5%B1%E8%A8%98
。歴代領主[編集]本堂家8500石→8000石→1万110石本堂茂親本堂栄親 - 弟・親澄に500石分与本堂玄親本堂伊親本堂苗親本堂豊親本堂親房 - 板倉勝清の子。大番頭となる。本堂親庸本堂親道本堂親久 - 石直しで新田2110石分が認められ、都合1万0110石の諸侯に列す幕末の
、最強の公家。戦う公家が増えた南北朝時代で武士を超える武力を持つ唯一無二の公家であり化物。彼と彼の配下については個別項目を参照北畠きたばたけ親房ちかふさ顕家の父。頭に華やかな布をターバンのように巻き付けたイケオジ。顕家同様南朝に属し、後醍醐天皇に付き従い献策を行っている。北朝側光
あきむね/あきやす。↑ 北畠家の宗家である中院定平(義定/良定(ながさだ))の子、定清・雅平の弟、木造顕俊・顕泰・大河内顕相の父。族父の北畠親房の婿養子となった。↑ 氏親の父。↑ 氏信(満信(氏冬)・満冬の父)・義信・忠則(貞忠の父)の父。↑ 族父の金谷経氏(重氏の子)の後を継ぎ
A. 鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿で、歴史家としても知られる人物です。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%95%A0%E8%A6%AA%E6%88%BF
「土産」を貰った時は悪い笑みを浮かべていた。にもかかわらず、あまり良い口利きはしてくれなかったらしい。子孫に戦闘力のおかしい南朝の公家・北畠親房、北畠顕家の親子が居る。・一条高能いちじょうたかよし(演・木戸邑弥)藤原北家中御門流、一条家の公家。頼朝の妹・坊門姫の子息。つまり頼朝の
の兄。鳥山義顕(親文) : 義久(親氏)[8]の弟、鳥山義親(親高)の兄。鳥山親義(真氏) : 義房(親安)[9]の兄。鳥山家親鳥山家貞鳥山親房鳥山家直義俊系[]鳥山義俊 : 家成の子、義盛・亮氏(すけうじ/あきうじ)の兄。鳥山氏頼鳥山経盛(修理亮)[10]鳥山時盛[10]鳥山時
、頼成の兄。↑ 家次・親政(能祐入道。政家の父)の兄。↑義顕(親文)(親義(真氏)・義房(親安)の父、家親(親義の子)の祖父、家貞の曾祖父、親房の高祖父)・義親(親高)の兄。関連項目[]新田家氏海保常実この記事は 『里見家氏』 のための曖昧さ回避ページです。下記は同じタイトルを共
源 親房(みなもと の ちかふさ)とは、源氏(村上源氏・陽成源氏(河内源氏))流の人物。約3名ほど存在する。北畠親房 : 法名は宗玄入道/覚空入道。久我家流中院家一門の北畠家(伊勢源氏)の当主。北畠師重の子、実助(僧侶)・冷泉持房・通房の兄、顕家・春日顕信(春日家の祖)の父。松平
親義 : 別称は真氏。新田氏(上野源氏)流里見氏の庶家の鳥山氏一門の鳥山親家の孫、親文(義顕)の子、親安(義房)の兄、家親の父、家貞の祖父、親房の曾祖父、家直の高祖父。足利親義 : 足利氏(下野源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。関連項目[]源姓佐竹氏甲斐源氏信濃源氏この記事は
。松平長親 : 別名は忠次/長忠、法名は道閲入道。三河松平氏(三河源氏/徳川氏)の当主の松平親忠の第4子、乗元・親長・超誉存牛(僧侶)の弟、親房(宗安入道)・家久(張忠)[1]・親光・長家・乗清[2]らの兄、信忠・親盛[3]・信定・義春・利長[4]の父。玄孫の徳川家康が3歳になる
。松平長親 : 別名は忠次/長忠、法名は道閲入道。三河松平氏(三河源氏/徳川氏)の当主の松平親忠の第4子、乗元・親長・超誉存牛(僧侶)の弟、親房(宗安入道)・家久(張忠)[1]・親光・長家・乗清[2]らの兄、信忠・親盛[3]・信定・義春・利長[4]の父。玄孫の徳川家康が3歳になる
国に下向した。南北朝時代に清綱の曾孫の基綱・顕綱父子は北朝方の足利直義(高国/忠義)に従って、南朝方の北畠家(伊勢源氏)(の当主の北畠顕家(親房の子)を撃破した。その戦功で足利将軍家から、奉公衆に加えられた。同族に畿内の凡河内氏と播磨国の広峯氏と三河大河内氏があった。田代氏 (大
宇野頼俊宇野頼風 : 頼俊の子、頼治の弟。越智頼安越智頼実(信実/全蓮入道) : 頼安の子、頼兼・義忠の兄。越智仲房越智親家 : 仲房の子、親房の弟。越智家房越智家度越智家胤越智家邦越智家永越智家弘越智家通越智家国越智家澄(源太郎)越智頼澄 : 家澄の子、家武の弟。越智家高 :
いことを理由に後醍醐天皇を中心とする新政府に冷遇されて、かえって厚遇された、おなじく遠縁筋の村上源氏流の北畠家(伊勢源氏)の当主の北畠顕家(親房の子)を派遣させて、姻戚関係にある福原氏の代官である奥州石川氏が統治する石川郷に進出させて、奥州石川氏と対決した結城氏と和地氏に石川郷を
巻 資料 読み 時代 人物 070 官職秘抄 かんしょくひしょう 平基親 071 職原鈔 しょくげんしょう 北畠親房 072 百寮訓要抄 ひゃくりょうくんようしょう 二条良基 072 詠百寮和歌 えいひゃくりょうわか 高大夫実無