「定頼」を含むwiki一覧 - 1ページ

小倉百人一首 - いにしえwiki

りを ひとづてならで いふよしもがな(左京大夫道雅)064.あさぼらけ うぢのかはぎり たえだえに あらはれわたる せぜのあじろぎ(権中納言定頼)065.うらみわび ほさぬそでだに あるものを こひにくちなむ なこそをしけれ(相模)066.もろともに あはれとおもへ やまざくら

六角義頼 - 日本通信百科事典

政と長政父子・三田村・和邇・堅田・朽木・高嶋ら要請して2万3千余の軍勢を集めて、6月18日出陣させて、織田信長を討伐させた。六角義頼 (六角定頼の子) : 六角定頼の子、義賢(承禎入道)の弟。脚注[]↑ 生母は朝倉孝景の娘の高徳院(広徳院)(佐々木哲が引用する富山県立図書館所蔵『

武備百人一首 - いにしえwiki

なく 誠の中に あるならは 神と人との へたてあらしな (畠山義忠)004.天地人 三の次第を 知ならは 上をうやまひ 下をあはれめ (箕作定頼)005.善をすすめ 悪をこらしむ 国はたた 民も豊に 世をや保たむ (細川晴元)006.政要は 時の一字に しくはなし 時をしらぬは

新撰百人一首(明治) - いにしえwiki

の なかなれば いづくもあかず すみよしの里 (清少納言)056.朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに あらはれわたる 瀬々の網代木 (権中納言定頼)057.ことのはに つけてもなどか とはざらむ 蓬のやども わかぬあらしを (相模)058.もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほか

土岐光慶 - 日本通信百科事典

主である惟任頼秀(惟住頼季)[8]の孫、明智光秀[9]の子。生母は明智氏一門の妻木広忠の娘の照子、於珠の方(細川ガラシャ[10])の同母弟、定頼(自然丸)・光泰(十次郎)の同母兄、保光(安古丸)・光之(乙寿丸)の異母兄[11]。一色光慶 : 一色土岐家の祖の一色頼栄(頼秀)の子、

土岐政房 - 日本通信百科事典

源氏(摂津源氏)流土岐氏(美濃源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。土岐政房 (惣領家) : 初名は頼継。土岐成頼の子、六角頼真[1]・大桑定頼(貞頼)・佐良木尚頼[2]・景頼(上坂五郎)・長山元頼(小里基頼)・万喜頼房(萱津六郎)の兄、頼武(政頼/頼建)[3]・頼芸[4]・江戸

土岐定親 - 日本通信百科事典

木頼重(頼直/頼真)の兄、定経(貞経)[2]・原師親[3]の父。同族の蜂屋頼親の婿養子となった。大桑定親 : 別名は貞親。土岐成頼の孫、大桑定頼(貞頼)の子、定雄(貞雄)[4]の弟、大畑貞近[5][6]室の兄、政親・長親・政秀の父、和慶(かずのり)[7]と頼入(よりなり)[8]の

土岐頼房 - 日本通信百科事典

/久作)の祖父。子の長頼とともに織田信長に仕えた。万喜頼房 : 称号は萱津六郎。美濃国守護の土岐成頼の子、政房(頼継)・六角頼真[1]・大桑定頼(貞頼)・佐良木尚頼・景頼(上坂五郎)・長山元頼(小里基頼)の弟。頼定の父、為頼の祖父、頼春(頼成)・為実(頼実)の曾祖父。同族の上総土

土岐頼久 - 日本通信百科事典

田中次郎/善康入道)[4]の弟。土岐頼久 (明智土岐家) : 江戸時代前期の摂津国高槻藩の初代藩主で、明智土岐家の当主の土岐定慶(さだのり、定頼)の子、頼行・滝川利定(秀頼)・頼豊・頼親の弟。妻木頼久 : 妻木氏一門の武将。約2名ほど存在する。脚注[]↑長山頼基の子。↑ 鈴木眞年

六角高頼 - 日本通信百科事典

たかより)とは、宇多源氏流佐々木氏(近江源氏)一門の六角氏の武将。約2名ほど存在する。六角行高 : 別名は高頼。六角久頼(政頼)の子、氏綱・定頼・大原高保・田光高盛・梅戸高実・真玄(僧侶)の父。六角義実 : 別名は高頼/隆頼/義久、法名は宗能入道。上記の行高(高頼)の孫、おなじく

歌人 ふ - いにしえwiki

藤原定家母(ふじわらのさだいえのはは)→ 美福門院加賀藤原定方(ふじわら の さだかた)藤原定成(ふじわら の さだなり)→ 世尊寺定成藤原定頼(ふじわら の さだより)藤原実家(ふじわら の さねいえ)藤原実方(ふじわら の さねかた)藤原実国(ふじわら の さねくに)藤原実定

一般家集の一覧 - いにしえwiki

親卿集(大中臣輔親)源賢法眼家集道命阿闍梨集参議為頼集(藤原為頼)源重之女集清少納言集馬内侍集前大納言公任卿集(藤原公任)藤原惟規集権中納言定頼集(藤原定頼)和泉式部集和泉式部続集赤染衛門集藤原道雅集藤原家経朝臣集伊勢大輔集弁乳母集入道右府頼宗公集(藤原頼宗)玉藻集(相模)藤三位

群書類従(和歌部) - いにしえwiki

てるきょうしゅう 藤原朝光 236 前大納言公任卿集 さきのだいなごんきんとうきょうしゅう 藤原公任 237 権中納言定頼卿集 ごんちゅうなごんさだよりきょうしゅう 藤原定頼 238 権中納言俊忠卿集 ごんちゅうなごんとしただきょうしゅう

修正小倉百首 - いにしえwiki

かな ふるにかひなき 身とは知らずや*34 (左京大夫道雅)064.朝ぼらけ 宇治の川霧 たえ/\に あらはれ渡る 瀬々の網代木 (権中納言定頼)065.あはれにも 暮ゆく年の 日数かな かへらんことは 夜のまと思ふに*35 (相模)066.諸ともに あはれと思へ 山桜 花より外

神社仏閣江戸名所百人一首 - いにしえwiki

夜をこめて とりのそらねは あかすとも 世にあふきやくの つとめゆるさじ (清少なごん)063. (左京の太夫道まさ)064. (権中なごん定頼)065. (さがみ)066.もろともに あはれと思へ むめ若の はかよりほかに しる人もなし (前大僧正行尊)067. (すわうの内侍

今様職人尽百人一首 - いにしえwiki

『どうけ百人一首』・『神社仏閣 江戸名所百人一首』と並ぶ、近藤清春の「百人一首」シリーズのひとつ。今様職人尽百人一首の全首一覧001.のきのけた かりほぞあなの のみをゑらみ はかてしどもの せいをだしつつ*1 (てんちてんわう)002.かるすぎて のふじよのげいを うらやむも

多田国頼 - 日本通信百科事典

存在する。馬場国頼 : 法号は柳願入道、幼名は藤寿丸。馬場仲政の6世の孫、頼政の玄孫、頼兼の曾孫、頼茂[1]の孫、頼氏の子、頼明・輔頼の弟、定頼・教来石広政(教来石氏の祖)の父、氏頼の祖父、明頼の曾祖父、為頼の高祖父、清頼の6世の祖、政頼の7世の祖、盛頼の8世の祖、時頼の9世の祖

続群書類従(和歌部) - いにしえwiki

后御集和歌部 428 後福照院殿御詠草和歌部 428 後妙華寺殿御詠草和歌部 429 中園相国御集(洞院公賢公家集)和歌部 430 権中納言定頼卿集和歌部 431 権中納言為相卿集(藤谷和歌集)和歌部 432 入道大納言為兼卿集和歌部 433 前大納言為広卿集(清玉集 上冷泉為広

土岐頼行 - 日本通信百科事典

。土岐頼行 (明智土岐家) : 明智頼明の玄孫、定明[5]の曾孫、土岐定政[6]の孫、江戸時代前期の摂津国高槻藩の初代藩主の定慶(さだのり、定頼)[7]の子、滝川利定(秀頼)・頼豊・頼親・頼久の兄、頼長・頼殷(よりたか)・頼賢の父、頼稔(よりとし)・頼郷兄弟(頼殷の子)の祖父、頼

多田頼忠 - 日本通信百科事典

。馬場頼忠 : 馬場仲政の21世の孫、頼政の20世の孫、頼兼の19世の孫、頼茂[3]の18世の孫、頼氏の17世の孫、国頼[4]の16世の孫、定頼の15世の孫、氏頼の14世の孫、明頼の13世の孫、為頼の12世の孫、清頼の11世の孫、政頼の10世の孫、盛頼の9世の孫、時頼の8世の孫、

足利義輝 - アニヲタWiki(仮) 非公式避難所wiki

都落ち》将軍に就任した義輝は、操り人形であることに満足せず、自ら政治を行おうとしたことから三好長慶に謀反を起こされ、近江半国の守護である六角定頼を頼り近江の坂本に逃れた。以後たびたび京都を追われる生活を強いられる。因みにこの時期に京都奪還の足掛かりとして義輝が築城したのが中尾山城

明智光秀(戦国武将) - アニヲタWiki(仮) 非公式避難所wiki

にかかり、顔に痕が残ったために父が替え玉を用意したにも関わらず、光秀は煕子を嫁とすると言った話は有名。明智光慶長男。山崎の戦い後に自刃。筒井定頼二男。筒井順慶の養子になったと言われている。山崎の戦い後に実父に殉じる。明智乙寿丸三男。山崎の戦いの直後に父に殉じた。明智倫子(大河ドラ

信長の野望 烈風伝 - アニヲタWiki(仮) 非公式避難所wiki

名声などと名前や細部の仕様を変えつつ、後の作品でも引き続き採用された。◆武将武将の数は前作から150名増えて850人。増加分は織田信秀や六角定頼といった後述する信長元服シナリオに登場する武将や鬼小島弥太郎、佐伯惟教と言った天翔記以前の作品からの再登板組が中心だが、シリーズ初登場の

995年とはなんですか? - クイズwiki

A. 995年とは、平安時代の公卿、歌人、中古三十六歌仙の一人である藤原定頼が亡くなった年です。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/995%E5%B9%B4

Parody03 - Dosuko Wiki

番歌 朝日もか 民主の息の たえだえに あらはれわたる 売国の絵図 朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに あらはれわたる 瀬々の網代木 権中納言定頼 Part2382-702 可愛い奥様 sage 2012/07/02(月) 13:36:56.46 ID:v9onIeev0OWD百人

六角定頼とはなんですか? - クイズwiki

A. 六角定頼は、戦国時代の武将・守護大名であり、六角氏の第12代当主です。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E8%A7%92%E5%AE%9A%E9%A0%BC

織田信長(戦国武将) - アニヲタWiki(仮) 非公式避難所wiki

る特徴的な撰銭令、日本中央政権初の金銀への貨幣価値の付加など進歩的な政策を多く行っている。現在で言う自由貿易論者。因みに楽市楽座*19は六角定頼と今川氏真という先人がいるので先駆者というわけではない。そしてマイナーどころでは、百姓貴族に係わらず国民全員を安土城に招待して拝観料(現

源成頼 - 日本通信百科事典

した。土岐成頼 : 法号は宗安入道。土岐氏(美濃源氏)一門の佐良木光俊の子、佐良木兼頼(兼慶)[2]の兄、政房(頼継)・六角頼真[3]・大桑定頼(貞頼)・佐良木尚頼[4]・景頼(上坂五郎)・長山元頼(小里基頼)・万喜頼房(萱津六郎)の父。生母は、三河国守護の足利氏(下野源氏)一門

源義基 - 日本通信百科事典

一門の武将。約3名ほど存在する。長山義基 : 佐竹義基とも呼ばれる。源姓佐竹氏(常陸源氏)一門の北酒出季義の玄孫、袋田定義[8]の曾孫、長山定頼[9]の孫、度義の子、義尚・詮秀・尊慶・源常(僧侶)・英文(僧侶)の父。脚注[]↑ 『尊卑分脈』↑ 『高遠記集成』(『木曽福島町史』)・

美濃源氏 - 日本通信百科事典

。おなじく河内源氏の義隆流(信濃森氏を参照)。美濃佐竹氏(美濃長山氏) : 源姓佐竹氏(常陸源氏)の当主の佐竹秀義の子の北酒出季義の孫の長山定頼[34]を祖とする。『承久の乱』で北条得宗家に従って、戦功を挙げたために美濃国を賜った。室町時代に室町幕府奉公衆をつとめた義尚、戦国時代

源義賢 - 日本通信百科事典

ず、堺公方および、阿波国の平島公方となり、平島氏の実質的な祖である。六角義賢 : 近江源氏の佐々木氏一門の六角氏の当主。法号は承禎入道。六角定頼の子、義頼の兄、義治(義弼)・義定(賢永/高定/高盛)の父。脚注[]↑義嗣(頼次)・頼秀の父。↑義久(頼定)・実春(大宮蔵人)の父。 ↑

馬場政頼 - 日本通信百科事典

(馬場清頼の子) : 馬場仲政の12世の孫、頼政の11世の孫、頼兼の10世の孫、頼茂[1]の9世の孫、頼氏の8世の孫、国頼[2]の7世の孫、定頼の6世の孫、氏頼の玄孫、明頼の曾孫、為頼の孫、清頼の子、盛頼の父、時頼の祖父、常頼[3]の曾祖父、行頼の高祖父、晴頼の6世の祖、房頼の7

観音寺城 - 御城プロジェクト:RE Wiki

ましたが、同族の京極氏とは敵対関係にあり、長い間抗争を続けていました。応仁の乱でも、東軍と西軍に分かれて戦ったのです。戦国時代になると、六角定頼が台頭してきます。江北の京極氏が浅井氏によって衰退していくのを尻目に、室町幕府の管領代として、六角氏の最盛期を築き上げました。長年にわた

馬場頼重 - 日本通信百科事典

子) : 馬場仲政の19世の孫、頼政[2]の18世の孫、頼兼の17世の孫、頼茂[3]の16世の孫、頼氏の15世の孫、国頼[4]の14世の孫、定頼の13世の孫、氏頼の12世の孫、明頼の11世の孫、為頼の10世の孫、清頼の9世の孫、政頼の8世の孫、盛頼の7世の孫、時頼の6世の孫、常頼

狂歌百人一首(蜀山人) - いにしえwiki

てゐる (清少納言)063.今はたゞ 思ひ絶えなん とばかりを 人傳ならで どうぞいひたい (左京大夫道雅)064.朝ぼらけ 宇治の川邊に 定頼が めをこすりつゝ 瀬々のあじろ木 (權中納言定頼)065.うらみ侘び ほさぬ袖だに あるものを 此四五日は 雨の日ぐらし (伊勢)06

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