全話リスト2 - 大N市wiki
)/蘇我文彦(ハーゴンニンジャ)/三井只人(缶詰)/影山夏月(サムトー) セッションログ122.『ダブルフェイズ・クロスワイヤーズ』(GM:嗣子)PL:薬師院小夜子(ハシブトガラス)/喜多川未知留(粘土)/御門優一(缶詰)セッションログ123.『リメンバー・ユー、リメンバー・ミー
)/蘇我文彦(ハーゴンニンジャ)/三井只人(缶詰)/影山夏月(サムトー) セッションログ122.『ダブルフェイズ・クロスワイヤーズ』(GM:嗣子)PL:薬師院小夜子(ハシブトガラス)/喜多川未知留(粘土)/御門優一(缶詰)セッションログ123.『リメンバー・ユー、リメンバー・ミー
イドシナリオ含む企画内全セッションのリストです。時系列順となっています。>>01.『お前の刃で懸糸を断て』(GM:森田)PL:佐倉井ほたる(嗣子)/人道章太郎(すらい)/キース・ヴァレンタイン(猫口)セッションログ02.『その炎の色を見よ』(GM:森田)PL:道成寺安奈(紅井寿甘
ーハン)影山夏月(サムトー)九良賀野華香(ハシブトガラス)セッションログ410.『prune』(GM:立川)PL:小泉善征(粘土)梔子衣緒(嗣子)涼暮御幸(DT)セッションログ411.『大いなる作業は完遂され、世界は産声を上げる』(GM:Hyoga)PL:ネッド・ケリー(海野しぃ
プスブルク朝」が由来になった説が有力と考えられている。実質的には、グントラムの孫のルドルフ1世(ヴェルンツェル)が住み着いたといわれている。嗣子がないまま逝去したルドルフ1世(ヴェルンツェル)の弟のクレットガウ伯のラートボートの末裔が城を受け継いで、1090年に「ハプスブルク伯」
・ヒッカを娶り、フランケン公・エーベルハルト3世(885年 - 939年、コンラート1世若王の弟、妻はヴァラホ家のヴィルトルート[3]))が嗣子がないまま没すると、コンラート1世若王の姪婿の身分で、広大なフランケン地方[4]を支配するフランケン公となり勢力を拡大し、前名の「ザーリ
(缶詰)/砂岡美薗(森田)本編ログ205.『N市の甘~い一日──任海悠生と御門優一の場合』(GM:MAO)PL:御門優一(缶詰)/任海悠生(嗣子)セッションログ206.『N市のいちばん長い日 File.10』(GM:DTほか)PL:旭野・A・小花(粘土)/斎藤龍矢(馴染)/汐留遥
士騎朝輝(白金)セッションログ527.『タテを、掲げよ』(GM:優水)PL:君臣ユウ(缶詰) 鷲尾瞳(ぺんさん)鞘町こはな(DT)久喜春斗(嗣子)セッションログ528『燈明のプリマテリア』(GM:そごう).PL:ニーンテ・シュバルツ(里村)氷見須晴(ミハエル) 逆瀬川苗(すらい)
陸奥晴明(サムトー)セッションログ323.『リトルシニア・ラストゲーム』(GM:里村)PL:天城康介(しんごろ)/興津和紗(中村)/氷室錬(嗣子)セッションログ324.『Saint Keen』(GM:立川)PL:東雲銀(メガ大仏)/風岡俊(紅井寿甘)/愛染一(海野しぃる)/End
: 曹操の孫、沛穆(繆)王の曹林(曹豹)の子、殤王の曹緯の弟、済陽悼王の曹壱(曹壹)の兄。はじめは西郷侯に封じられる。叔父の済陽懐王の曹玹に嗣子がないために、その後を継いだ。彼も嗣子がないまま早世したため、弟の曹壱がその後を継いだ。「哀王」と諡された。曹賛 (北海王) : 曹操の
ン公のオットー4世よりも先立ったヴィルヘルム1世であったが、ハインリヒ5世は「プファルツ系ヴェルフェン家」の祖となるも、子のハインリヒ6世は嗣子がなく断絶した。また、オットー4世も子のコンラート3世が夭折したため、ついにヴェルフェン=エステ家の男系は完全に途絶えた。そこで、ハイン
た。武衛氏[1] : 氏の由来は山城国武衛陣町(現在の京都府京都市上京区)である。斯波高経を祖とする斯波氏嫡流である。高経の玄孫の義建の代で嗣子がなく、義建の族弟で斯波氏一門の越前大野氏の嗣子の義敏を養子に迎え、以降は血筋的には大野斯波家となった。越前国・遠江国守護も兼ねた義敏の
ュタウフェン朝のフリートリヒ1世赤髭王のために、教皇派のハインリヒ3世獅子公と激突して戦った強硬派であった。1178年に近隣のエルツェン家が嗣子がないために断絶すると、強大なホーエンシュタウフェン朝の後盾を持ったアルプレヒト3世は強引にエルツェン(Ärzen)を併合し、アルプレヒ
: 長沙定王の劉発の子の安衆康侯の劉丹の後裔で、世祖光武帝(劉秀)の同族で、安衆侯の劉崇の一族である劉礼の孫、慎靖侯(竟陵侯)の劉隆の子。嗣子がなく断絶したという。劉安 (任城王) : 光武帝の子・東平憲王の劉蒼(顕宗明帝(劉荘/劉陽)の同母弟)の子である任城孝王の劉尚の子、劉
、曾祖父・賀茂在盛の菩提所寂静寺(現在の高月院)を縁戚の足助氏(三河平氏)[7]の援助で、寛立を開山に開基した。従弟の在近および、子の信武が嗣子がなく、父よりも先立ち、ついに松元氏の血筋は途絶えたため、信重は婿養子の親氏・泰親兄弟に松元郷を譲って、逝去した。松元氏と松平氏の関連性
授かり、共に暮らしたい」という願いだけは叶えるべく行動を起こした。このアシズとティスの子供が「壮挙」で誕生させようとした、新たな生物「両界の嗣子」である。だが、その生成のためには莫大な「存在の力」が必要だった。アシズはこれを手に入れる為に都喰らいと言う術式を開発、オストローデでそ
約3名ほど存在する。大井政信 : 法名は清林入道。甲斐大井氏一門。同族の小笠原氏一門の大井(岩村田)玄慶(はるのり)[1]の婿養子となった。嗣子がなく、岳父の玄慶の族孫の長窪康光(岩村田忠孝)を婿養子に迎えた。山県政信 : 若狭武田氏の第6代目当主の武田元光の子、信豊・信実の弟、
)の名跡を継いだ。父の関東移封にともなって1590年に下総国小金城3万石に封じられた。1603年秋9月11日に、湿瘡[2]が要因で、22歳で嗣子がなく没した。信吉の死後に、その遺臣は武田氏の発祥地でもある常陸国の水戸徳川家[3]の藩祖となった末弟の頼房の家臣団に加えられた。松平信
て繁栄し、嫡流の竹内信治(左近将監)・氏治(竹内大夫、経基の子・経忠(経義/経明)の末裔)父子は竹内家の祖となった。しかし、維庸の子の維康は嗣子がなかったために、藤原北家流冷泉家一門の藤谷為茂の次子である維永を維庸の婿養子に迎え、男系は断絶した。庶家に垪和(はが)家・杉山家などが
として、北条得宗家と対決して『承久の乱』で奮戦するも大敗して、浅野判官と称して、美濃国土岐郡浅野郷[2]で隠居して、長男の光清(浅野太郎)は嗣子がないままに早世したために、次男の光房(浅野次郎)と三男の光忠(浅野三郎)の系統に受け継がれた。光房の系統は子の光保(浅野孫次郎/三郎)
、近江国永原[2]で処刑した。このとき季治は、享年55であった[3]。季治の玄孫である維庸は冷泉派の歌人で歌道の名人である。維庸の子の維康は嗣子がなかったために、藤原北家流冷泉家一門の藤谷為茂の次子である維永を維庸の婿養子に迎えた。以降の竹内家は実質的に藤原北家流冷泉家一門の藤谷
ど、庶家に美濃小島氏[30]・彦坂氏[31]・美濃福島氏[32]などがある。さらに、上記の蜂屋氏はもともとは山県氏の庶家だったが、頼親の代に嗣子がないために同族の土岐光定(光貞)の次子の定親(貞親)を婿養子を迎えて、土岐氏一門となった(上記の美濃原氏も美濃不破氏も同様である)。飛
)の婿養子として、相続した。庶家に醍醐家があった。鷹司家 : 東山源氏とも呼ばれる。上記の藤姓近衛家の庶家で、藤姓鷹司家の当主の鷹司基輝には嗣子がなく、彼の代で断絶した。そこで、姻戚関係にある鷹司輔平(東山天皇の孫、直仁親王の子)が鷹司家の後継者となって、相続した。庶家に葦園家・
右衛門)が出て、その子の家正・至鎮(よししげ)[1]父子は『関ヶ原の戦い』で徳川家康について、阿波国徳島藩の藩主となった。しかし、宗英の代に嗣子がなく、断絶した。庶家に尾張橋本氏があった。蜂須賀松平家 : 上記の宗英に嗣子がないために、大膳松平家(水戸徳川家一門の高松松平家の庶家
。目的『壮挙』とは、平たく言えば“紅世の王”であるアシズと、「この世」の人間であるティスの子、つまりは二つの世界の存在の融合態である「両界の嗣子」を生み出す為の儀式。アシズは己の全てをこの願いの実現のために費やしており、付き従った九垓天秤くがいてんびんらがこれに賛同し、助力するよ
して大いに不満をもった。後に良正が亡くなると子の国兼が継ぎ、国兼の子の高兼(隆兼)・良泰、高兼の子の俊兼、俊兼の子の兼房と続いたが、兼房には嗣子がなかった。良泰の子の忠盛も嗣子がなく、国兼の系統は断絶した。さらに、国兼の弟の貞時の子・兼頼(宗俊)、兼頼の子・宗時(宗行)、宗時の子
代に三河国の松平氏(徳川氏)の庶家である。すなわち松平広忠の庶子で、徳川家康の異母弟・内藤信成を祖とする家系のこと。幕末の信親(信思)の代に嗣子の信任(信佐)が早世したため、養子を迎えたのでここで信成の系統は断絶した。この家系は準々親藩あるいは譜代に属する。しかし、『寛永諸家系図
索で、政満は捕らわれて、京都に連行されて出家することで許されて、晩年に四国にわたって、1466年10月に老齢のために逝去したという。政季には嗣子がなく、ついに義季流世良田氏は断絶した[8]。その一方、親氏らは巧みに逃れて、土豪の葛城姓賀茂氏流松元氏(三河賀茂氏)の当主の松元太左衛
頼継)の子、頼武(政頼/頼建)[2]・頼芸[3]・江戸崎治頼[4]・光高・揖斐光親[5]・鷲巣光敦(光蓮入道)の弟、頼香・光武(光建)の兄。嗣子がなかった族父の島田満基[6]の婿養子となった。後に重臣の斎藤秀龍(後の斎藤道三)の手によって、毒殺された。嗣子がなかったので、美濃島田
、ヴェルナー3世の子のヴェルナー4世はフランスのロベール家のロベール3世の娘のオーダを娶り、娘のヴィルトルート(Wiltrud)を儲けたが、嗣子がないまま891年に逝去した。このためにヴァラホ家は断絶して、ヴォルムスガウ(ヴォームスガウ)伯およびシュパイアーガウ伯は、10年間も空
北朝時代に光経の末裔である詮持(石川師宜の子、福原義光の女婿)の代になると、福原氏の最後の当主で、詮持の妻の兄弟である福原義基(義光の子)に嗣子がなく福原氏は断絶したので、縁戚関係がある詮持が石川郷を相続して正式の当主となった。後に奥州石川氏は上記の頼親流[6]の大和源氏の後裔と
雄によって、同僚の岡田重孝(重景/直重/秀重/重冬)[1]・浅井長時(政尚/長安)[2]とともに「上意討ち」と称して、手討ちにされた。義冬は嗣子がなく[3]、甥の親忠[4]が、嗣養子となって後を継いだ。津川親行 : 別名は親治[5]。上記の斯波義銀の子、義康(大蔵入道)・津川親利
、『比叡山坂本の戦い』で、名和長年の軍勢と奮戦して、壮絶な戦死を遂げた。しかし、貞光には子がなく義光の子である義基を婿養子としたが、義基には嗣子がなく、ついに福原氏は断絶した。その後、義基の義兄弟(姉妹の夫)である藤原北家秀郷流奥州藤原氏の庶宗家である前述の奥州石川氏の当主の石川
プレヒト3世はマクヌス2世の子のフリートリヒ1世・ベルンハルト1世兄弟と和睦して、ようやく終戦を迎えた。その後1385年にアルプレヒト3世は嗣子がないまま逝去して、叔父のヴェンツェルが引き継いだが、例の和睦で女婿となったベルンハルト1世が反乱を起こしたので、激怒したヴェンツェルは
]を祖とする。上総国夷隅郡万喜郷[5]を拠点とした。光頼(時政の子)、頼銀(光頼の子)、頼為(頼銀の子)、頼元(頼為の子)と続いたが、頼元に嗣子がなく、同族の原頼元によって、土岐惣領家から頼房が後継者として迎えられた。曾孫の頼春(頼成)・頼実兄弟の代に嗣子がなく、断絶した。庶家に
の家老となった。晴泰の子の泰秀(細萱太郎)は遠縁筋の徳川家康に仕えて、高家旗本となり、鷲宮神社を建立した。泰秀は1602年に52歳で逝去し、嗣子がなかったために、大内足利家は断絶した。このために泰秀の母方の武蔵大内氏一門が泰秀の娘を娶って、その祭祀を受け継いで、鷲宮神社の神官とな
ると、浪人生活を過ごした。天正18年(1590年)に旧信長の武将の山内一豊のもとに仕官して、子の信智とともにその家老となった。しかし信智には嗣子がなく、姉妹の婿である乾正行[4]がその名跡を継いだ。なお、板垣退助(乾正躬/正形/猪之助)は正行の8世の孫である。さらに政信の甥の政善
外従弟の家康の家臣となり、武蔵国男衾郡男衾郷[4]の800石を与えられた[3]。慶長14年(1609年)11月3日に、79歳で没した[3]。嗣子がなく、従子の水野忠貞(松平忠貞)[5]を婿養子に迎えた。脚注[]↑ 父の広親は通常では酒井親清の娘を娶り、酒井広親と改称して、三河酒井
も呼ばれる。↑ 『与吾(与五)将軍系図』(東昌寺所蔵)・『古河市史資料中世編』・『簗田家文書』による。↑ 晩年の織田信雄に仕えるが、政勝には嗣子がなく、婿養子の直次(古屋平右衛門の子)が後を継ぎ、その子の直秀(政勝の外孫)が継ぐが、彼は嗣子がなくついに尾張梁田氏は断絶した。関連項
]が、美濃国大野郡福島郷[9]を拠点としたことからはじまる。国時の曾孫の国氏[10]が、美濃福島氏の実質的な祖となった。戦国時代の基綱の代で嗣子がなく、遠縁筋の小笠原氏(信濃源氏)の当主の小笠原春義(春儀入道/長氏/春茂)の次子の綱氏[11]を婿養子に迎えたために、美濃福島氏の男
蔵)[4]・成利(長貞/長康/蘭丸)父子などが出た。江戸時代初期に最後の当主の忠政(長重/一重/忠重、可成の子)の子の重政・虎松・忠広兄弟に嗣子がなく、外甥の関家継[5]を養子に迎えて、森長継[5]として、美濃関氏の庶家の美濃森氏(源姓)の祖となった(下記参照)。後世に若槻定氏(
15代目で最後の当主。福原氏一門の福原義光の子、光春・光俊・光時・光定(光幹)・光久・光輝(光照)らの兄。第14代目の当主である従父の貞光が嗣子がなかったために婿養子となり、その後を継いで当主となるも、義基自身をはじめ弟たちにも嗣子がなくついに福原氏は断絶した。福原氏は『前九年の
嫡母の呂雉(恵帝の生母)によって毒殺された。享年16。生母の戚夫人も呂雉によって身体を切り刻まれて「人豚」扱いにされて、無残な最期を遂げた。嗣子がなく、「隠王」と諡された。劉如意 (広宗王) : 代孝王の劉参(文帝の庶子)の6世の孫、共王の劉登の玄孫、清河綱王の劉義の曾孫、頃王の
2名ほど存在する。松平清正 (竹谷松平家) : 竹谷松平家の当主の松平家清の子、忠清の弟、清雄・清勝・清直・清吉(きよとみ)・浅野長賢の父。嗣子がなかった異母兄の忠清の後を継いだ。惣領家の徳川家康の族子でもあった。松平清正 (鵜殿松平家) : 通称は与左衛門。鵜殿松平家の祖の松平
易されて、甥の氏盛(弟の盛良(正盛)の子)が近江国蒲生郡において五千石を与えられて寄合に列し、直参旗本として家名を伝えた。 氏盛の子の長盛に嗣子がなく、従弟の治盛(叔父の盛直の子)が後を継いだ。その後は治盛の子の盛貞・貞辰兄弟が世襲したが、盛定・貞辰とともに嗣子がなく、ついに名門
都市上京区紫竹西南町(現・京都市北区紫竹西南町)に林誠次郎・ムメ夫妻の四男として生まれる[4]。翌1921年7月12日、大叔父・林寛次郎の養嗣子となる[4]。1927年4月、京都市待鳳尋常高等小学校に入学し、1933年3月、同校を卒業[4]。同年4月京都府立京都第一中学校(現・京
) : 宇多源氏雅信流。鷹司流と称した。同族に一条家があった。鷹司家 (東山源氏) : 東山源氏とも呼ばれる。藤姓鷹司家の当主の鷹司基輝には嗣子がなく、彼の代で断絶した。そこで、姻戚関係にある鷹司輔平(東山天皇の孫、直仁親王の子)が鷹司家の後継者となって、「皇別摂家」として相続し
徳3年(1713年)1万2,000石に加増となり諸侯に列する石河家美濃加々島4,520石万治2年(1659年)寄合一色家武蔵幸手3,500石嗣子なく断絶し子孫は寄合三河国内3,500石打越家常陸新宮3,000石出自は由利十二頭 嗣子なく断絶し子孫は旗本500石大嶋家美濃2,000
ンシュタウフェン家のライン宮中伯・コンラート4世(フリートリヒ1世赤髭王の弟、ハインリヒ6世・フィーリプ兄弟の叔父)の子・フリートリヒ6世が嗣子がないまま、1186年に父より先立って逝去したので、1195年にコンラート4世の死により娘婿としてライン宮中伯を相続した。1198年に神
アー(アスカン)家のオットー4世の子、ヴェルフェン=エステ=ビュッテル家のツェレ公・ヴィルヘルム2世の外孫(娘のエリザーベトの子)にあたり、嗣子がない外祖父の後を継いだ。しかし、外祖父同様に嗣子がなくアスカニアー(アスカン)系のリューネブルク公のツェレ家は断絶した(以降はヴォルフ
とする氏族。近江国浅井郡山本郷[9]を拠点とした。子の義経を経て、孫の義高(錦部冠者)・義弘(義広)・義明(箕浦冠者)・義成兄弟に、それぞれ嗣子がなく断絶した。下記の同族である松山佐竹家が、その名跡を継いだ。松山佐竹家 : 上記と同じく、源姓佐竹氏一門。常陸国多賀郡松山郷[10]