「従弟」を含むwiki一覧 - 2ページ

坂東八氏 - 日本通信百科事典

嶋茂雄(長島茂雄)はその末裔という。↑ 古代の上海上国造(上菟上国造)の末裔説もある。↑ 義実の生母が里見基義の娘で、家兼の外甥で、家氏の外従弟にあたるため、源姓里見氏の後継者と称した説もある。↑ 1193年9月(建久4年8月)に里見氏の祖である里見義俊が、安房国守護となり、以降

土岐光行 - 日本通信百科事典

の高祖父、頼秀の6世の祖、康秀・明智光秀兄弟の7世の祖。父より先立って早世して、子の光房が幼少であったために、(光房の)族祖父の頼重(頼兼の従弟)が明智氏の家督を継いだ[5]。生母は豊後大神氏の娘で、惟任氏(惟住氏)の祖となった。 脚注[]↑国長・光経の弟、上記の光基の養子。↑

太仲 - 日本通信百科事典

太仲(たいちゅう)とは、古代中国の都市国家の諸侯の称号。太仲 (泰) : 姓は姫、諱は不詳。太伯の子。嗣子がなかったために従子の伯邑(従弟の周(岐)の文王の長子)を養子に迎えた。その伯邑も早世し、その子が叔父の武王によって「泰」を封じられると、養曾祖父を「泰太伯」、養祖父を「泰太

呂布_(奉先) - 日本通信百科事典

「陥陣営」1700騎率いる高順と張遼らに命じて、これを大破し、再び劉備の妻子を捕虜とした[14]。引き続き曹操が派遣した夏侯惇(曹操の母方の従弟)の軍勢も撃退したのである。ところが、すでに曹操は呂布討伐に動き出し、劉備と夏侯惇は梁で合流し、下邳郡の城を包囲した。同時に陳父子も呂布

呂布_(蜀漢) - 日本通信百科事典

1]の著作で「聊齋において怪異譚を記す」と謳う伝奇的な短編小説集である。「周倉」は呂布の字とも言われている[22]。 脚注[]↑曹操の母方の従弟。↑ 襄県とも呼ばれる。↑ 曹操の族弟。↑ 『魏書』夏侯惇伝↑ 盧弼の『三国志集解』より。また、清の趙翼・潘眉・陳景雲らは「呂布」は「関

土岐光房 - 日本通信百科事典

祖父、光頼の曾祖父、頼秀の高祖父、康秀・明智光秀兄弟の6世の祖。父が祖父より先立って早世して、光房が幼少であったために、族祖父の頼重(頼兼の従弟)が明智氏の家督を継いだ[5]。脚注[]↑国長の弟、光衡の兄。↑ 秀頼(高山太郎/伊賀守)の父。↑ 光助の娘は越中国婦負郡長沢郷(現在の

夏侯献 - 日本通信百科事典

燕王の曹宇(曹叡の叔父)・曹肇(族父の曹休の子)・曹爽(族父の曹真の子)・秦朗(祖父の曹操の側室の杜夫人の連れ子)らとともに、皇太子の曹芳(従弟の曹楷の子)を補佐すべく遺命を受けた。だが、劉放[4]・孫資[5]は曹宇に代えて曹爽を後見役として、さらに司馬懿に協力させるよう求めた。

太公 - 日本通信百科事典

叔・胙叔・祭季の兄、考公酋の父。魯の実質的な祖。太公 (宋) : 姓は好、諱は稽(微子稽)。殷(商)の皇族の微子衍(仲衍)の子、丁公申の父。従弟の微子郊こと微子洪(紂王の次子、微子啓の養子)に嗣子がなく、その後を継いで、宋の祖となった。太公 (魏) : 姓は好、諱は堅(微子堅)。

平盛時 - 日本通信百科事典

。平盛時 (民部丞) : おなじく平正度の曾孫、おなじく維盛の孫、盛基の子、国盛・貞基・貞時の兄、正時・叙時(敍時)・保盛の父、上記の盛時の従弟である。源頼朝(源家)に仕えて、鎌倉幕府の政所知家事を務めた。神戸盛時 : 伊勢関の当主の関盛澄の孫、神戸隆盛[1]の子、盛氏[2]・盛

崇侯虎 - 日本通信百科事典

て、紂王の母方の叔父である上大夫の梅伯(梅武・梅徳兄弟の父)・父方の叔父である太宰の微子比干を火刑や腰斬に処してこれを葬り、紂王の従父(父の従弟)である箕子[18]を幽閉するなど跋扈し放題であった。また、崇侯虎は子の応を紂王の近侍として侍らせて、思うままに権力を振るい、自邸を豪華

平盛康 - 日本通信百科事典

氏の一門の人物。約2名ほど存在する。平盛康 (修理判官) : 別称は六波羅盛康。平正盛の孫、時盛[1](左大臣)の子、能盛の父。同時に清盛の従弟でもある。1185年の『壇ノ浦の戦い』の際に豊前国企救郡(規矩郡)長野郷[2]を割拠したが、子の能盛とともに吉見範頼(鎌倉頼朝の異母弟)

山木氏_(平氏) - 日本通信百科事典

兼国の婿養子の勝道(紀姓)が「八巻氏(八牧氏)」と称して、その後を継いで、その子の勝能・勝重兄弟が後を継いで、勝能の子の勝寛・勝久兄弟とその従弟で、勝重の子の勝次・政次兄弟と世襲した。この八巻氏はそれぞれ、出羽国の藤姓佐竹氏(常陸藤原氏)・上杉長尾家・伊達氏に仕えた。『八巻一族の

島田満基 - 日本通信百科事典

)の兄、政康の父。↑ 頼雄の玄孫、揖斐詮頼の曾孫、友雄(行久(益頼の父)の孫、基春(基雄)の子、明智頼尚室の兄、光親の族父で岳父。↑ 持益の従弟の佐良木光俊の孫。↑ 三河国設楽郡島田(嶋田)郷(現在の愛知県新城市愛郷大字島田(嶋田)地区)の矢作城主の島田利秀(嶋田利秀)は、碓井姓

屠各部 - 日本通信百科事典

を見た、劉粲の族父である劉曜(劉淵の族子)は、おなじ匈奴羌渠部羯族の酋長である石勒(石趙の高祖明帝)とともに、靳準を攻撃した。その前に靳準は従弟である衛将軍の靳康に殺害されたが、劉曜は石勒と洛陽を陥落させて、靳氏一族を皆殺しした。やがて、劉曜が世祖昭烈帝として即位した。しかし、こ

孫乾 - 日本通信百科事典

正』『三国志注証遺』『五代史纂誤補編』などより。↑ 『曹瞞伝』(著者は呉人)と『世語』(郭頒の著作)より。おそらく、魏の夏侯惇(曹操の母方の従弟)は、前述の夏侯嬰の従兄弟=族兄弟の末裔と推測され、孫乾の遠い親戚とも考えられる。↑ 北海郡高密県の人、孫堅の庶末子の「孫仁」とは別人で

孫策 - 日本通信百科事典

。このとき周瑜は皖県の豪族・喬公のふたりの娘を捕虜にして、姉の大喬を孫策の側室に、妹の小喬を自分の側室とした[14]。劉勲は妻子を奪われて、従弟の劉偕とともに、荊州牧・劉表配下の江夏郡太守・黄祖に援軍を要請した。黄祖は息子の黄射を派遣して、劉勲を救援した。そこで孫策は汝南郡の人で

小山田信有 - 日本通信百科事典

記の信有(越中守)の子、信親(虎親)の弟、信能の兄、信有(弥三郎)・信茂(のぶもち)の父。生母は甲斐国守護の武田信縄の娘で、信虎(信直)の外従弟、晴信(信玄)の外従父にあたる[2]。小山田信有 (弥三郎) : 通称は弥三郎。上記の信有(出羽守)の子、信茂の同母兄。脚注[]↑ 永昌

曹喬 - 日本通信百科事典

ったが、早世したため異母弟の曹操[7]が庶子の身でありながら、実質的に長男となり字を吉利から「孟徳」に改称したという。子の曹安民は197年に従弟[8]の曹昻[9]とともに、南陽郡宛県[10]に駐在した張繍討伐に従軍したが、張繍の参謀・賈詡の謀略によってともに戦死を遂げた。220年

曹紹 - 日本通信百科事典

曹紹(そうしょう)とは、古代中国の人物。約2名ほど存在する。曹邵 : 別称は「曹紹」。字は伯南。沛郡譙県[1]の人。魏の曹操の従弟、曹忠の子、曹真・曹彬・徳陽郷主の父。孝廉に推挙されて、郎中となった。初平年間に没した[2]。曹紹 (東郡太守) : 原籍は魏郡[3]、南陽郡鄧県[4

古墳人 - 日本通信百科事典

る大王(おおきみ)の安康天皇[29]は年代が近い叔父の大草香皇子(大日下王・波多毘能王)を誅殺して、その妻である異母妹の草香幡梭姫を奪うも、従弟である大草香皇子の子の眉輪王に暗殺された。安康天皇の同母弟・雄略天皇[30]が後を継いで、眉輪王も含む皇位継承権がある多くの親族を皆殺し

源頼員 - 日本通信百科事典

木秀光)[1]は、その後裔にあたる。『正中の変』で、後醍醐天皇と日野資朝・俊基を中心とした倒幕に加わったが、妻に漏らしたために、露見されて、従弟の土岐頼兼(伯父の頼定(頼貞)の末子)と一族の多治見国長と、おなじ美濃源氏の加茂氏の当主の加茂貞重(重成)は奮戦して、戦死したり自刃を遂

源頼重 - 日本通信百科事典

(相模源氏)の当主で、従兄弟の鎌倉頼朝が派遣した小山朝政(藤原北家秀郷流武蔵太田氏一門)と激戦して、大敗した。まもなく父と兄弟とともに同じく従弟の木曾義仲の傘下に入って従軍した。後に義仲が頼朝の異母弟である範頼・義経兄弟と戦って壮絶な戦死を遂げると(『粟津の戦い』)、伊勢国羽取山

源義春 - 日本通信百科事典

波多野盛通・大井実春・山内経俊(藤原北家秀郷流首藤氏一門)の軍勢によって祖父と父および、伯父の義延と叔父の頼重兄弟と従兄の義安(義延の子)と従弟の重賢(頼重の子)とともに捕らわれて、処刑された。小瀬義春 : 源姓佐竹氏(常陸源氏)の当主の佐竹貞義の子、月山周枢(僧侶)・佐竹義篤の

源義邦 - 日本通信百科事典

)の子である淡路冠者・源義久(頼定)の子、頼秀の兄、妻は谷川四郎左衛門の娘、義継・義信・義景の父、源実春(大宮蔵人)の甥、義直(実春の子)の従弟。1183年に父が伊勢平氏の平教経(国盛)に捕虜にされて自害した(『六ヶ度の戦い』)。義邦は、大叔父の源行家(新宮十郎義盛)を頼った。新

源義国 - 日本通信百科事典

(相模源氏)の当主で、従兄弟の鎌倉頼朝が派遣した小山朝政(藤原北家秀郷流武蔵太田氏一門)と激戦して、大敗した。まもなく父と兄弟とともに同じく従弟の木曾義仲の傘下に入って従軍した。後に義仲が頼朝の異母弟である範頼・義経兄弟と戦って壮絶な戦死を遂げると(『粟津の戦い』)、伊勢国羽取山

王宏 - 日本通信百科事典

郡太守の王叡(王玄謨の族子)は7世の孫、宋漢末~南斉~梁の王深・王天生・王茂・王貞秀も、その後裔といわれる。叔父たちが李傕らに惨殺されると、従弟の王晨・王凌と族弟の王昶とともに郷里に逃れた。後に魏の曹操に仕えて、新興郡・雁門郡太守を歴任し、やがて河東郡太守に任命されて、緜竹侯に封

源兼忠 - 日本通信百科事典

・成員の高祖父、盛孝(成綱の子)・成貞(成季の子)の6世の祖、清孝(盛孝の子)・成実(成貞の子)の7世の祖。同時に陽成天皇の甥で、元平親王の従弟でもある。源兼忠 (壬生中納言) : 村上源氏一門の源雅頼の子、兼定の弟、頼房・範雅・明昌・任雅・定真・聖雅(たかまさ)の兄、雅具・師憲

源忠頼 - 日本通信百科事典

)の曾祖父、頼行の高祖父、宗信の6世の祖。後に頼朝に警戒されて、頼朝の命を受けた天野遠景によって暗殺された。子の行忠は後を継ぐことができず、従弟の信長[6]が、伯父の忠頼の養子となってその後を継いだ。松平忠頼 : 三河松平氏(徳川氏/三河源氏)一門の桜井松平家の当主の松平忠吉の子

源義仲 - 日本通信百科事典

先生)の次子、仲家(仲光・仲賢の父、仲長の祖父[1])の弟、義隆(義高/義重/義基)・義宗(義茂/経義/義佐(義任)/義光)の父、鎌倉頼朝の従弟。木曾冠者・旭将軍(朝日将軍)とも呼ばれ、源姓木曾氏の祖である。後に平維盛を撃破して、叔父の行家(新宮義盛)とともに入京し、朝廷によって

漢 - 日本通信百科事典

。↑ 劉裕は、楚の覇王の項羽(項籍)の従父である射陽侯の項纏=項伯・項睢=項猷(妻は劉邦の長女(斉悼恵王の劉肥の同母妹)である)父子あるいは従弟の項明こと劉明(項梁の子)、はじめから劉邦に従った項它(項佗)・項襄らの末裔説もあるため、この王朝は単に「宋」あるいは「項宋」と呼ばれる

王甫 - 日本通信百科事典

王甫は逮捕投獄され養子の王萌・王吉兄弟とともに誅殺された[3]。王甫 (蜀漢) : 字は国山。蜀漢(蜀)の部将。広漢郡郪県[4]の人。王士の従弟、王祐の父。凛々しい風貌を持ち、行政手腕に巧みだった。はじめは劉焉・劉璋父子に仕え、書佐となる。後に劉備に仕えて、緜竹県の令を経て、荊州

永見貞愛 - 日本通信百科事典

徳川家康の従姉妹(松平信家の娘?)[2]、貞武・吉行[3]の兄、貞安の父、妻は三河松平氏(三河源氏)一門の娘で、松平秀康(結城秀朝)は母方の従弟にあたり、同時に姉妹の婿でもある[2]。嫡母は山田信吉の娘である。概要[]父の後を継いで、知立神社の第32代目の神官となったが、病弱であ

竹中重長 - 日本通信百科事典

しげなが)とは、美濃木田氏流竹中氏一門の武将。約2名ほど存在する。竹中重長 (竹中重貞の子) : 竹中重光(重広)の孫、重定(半兵衛重治の従弟)の子、重房の弟。竹中重長 (惣領家) : 竹中半兵衛(重治/重虎)の曾孫、重門の曾孫、重常の孫、重高の子。嗣子がなく、従弟の重栄(重元

竹中重隆 - 日本通信百科事典

存在する。竹中重矩 : 別名は重隆、通称は久作(彦作)。竹中重元の子、重行・重治(半兵衛/重虎)の弟。竹中重利 : 別名は重隆。上記の重治の従弟、重光の子、重定[1]の兄、重義(重興/重次)の父、重就の祖父。脚注[]↑ 重房・重長の父。この記事は 『竹中重隆』 のための曖昧さ回避

穴山信君 - 日本通信百科事典

武田氏が駿河国へ再侵攻する足掛かりとなった。 のちに山県昌景(飯富三郎兵衛)[4]の後任として、同国江尻城の城主となる[5]。信玄の死後に、従弟で義弟でもある勝頼とは対立が深刻化した。そのため、勝頼側近の跡部勝資・長坂光堅(釣閑斎)[6]の配下による暗殺未遂事変に遭遇した。天正3

竹中重利 - 日本通信百科事典

重門の子) : 竹中重元の曾孫、重治(半兵衛/重虎)の孫、重門の子、重常・重次の弟。竹中重利 (竹中重光の子) : 別名は重隆。上記の重治の従弟、重光の子、重定[1]の兄、重義(重興/重次)の父、重就の祖父。脚注[]↑ 重房・重長の父。この記事は 『竹中重利』 のための曖昧さ回避

石橋氏 - 日本通信百科事典

点とした。しかし、久勝の子の繁昌(弾正)は1537年に、従兄でもある惣領家の奥平貞勝(道文入道)に対して反旗を翻し、激怒した貞勝は従父(父の従弟)の土佐貞雄(貞次/貞勝/定雄入道)に討伐を命じて、繁昌は戦死を遂げて、その子の太郎次郎は鳳来寺に逃げ延びたが、土佐貞雄が追撃を命じた黒

王音 - 日本通信百科事典

。王音 (魏郡王氏) : 前漢の外戚・政治家。魏郡元城県委粟里[1]の人。王賀の孫、王弘の子、王禁の甥、高宗元帝(劉奭)の皇后である王政君の従弟、新の王莽の従父、王舜の父、王延・王匡の祖父。従姉の王政君の威光で、中郎将・侍中・太僕を歴任した。従兄である大司馬・大将軍・領尚書事の王

田タン - 日本通信百科事典

嬀=媯、氏は陳で、「陳儋」とも呼ばれ、斉の宗族出身で、安平君・田単[1]の孫である。秦楚漢時代の群雄のひとりでもある。子は田巿(でんふつ)、従弟[2]に田栄・田横、従子[3]に田広(田栄の子)ら。概要[]斉郡北狄県あるいは狄県[4]の人。若くして志を持っていた。209年に漁陽郡[

矢田義清 - 日本通信百科事典

かし、頼政が敗死した後に族子の木曾義仲を頼って、その武将となった。1183年(寿永2年)に平宗盛(清盛の第3子)率いる一行の都落ちの際に、又従弟の源行家(新宮十郎義盛)と、族兄弟の摂津源氏流多田氏一門の多田行綱[9]とともに京を包囲して、丹波国にある丹波路から大江山に布陣して都の

河内氏_(武蔵国) - 日本通信百科事典

盛家)は、寿永2年(1183年)11月の備中国水島で、族父の矢田義清・梁田義長(簗田義良)兄弟に従軍して、平知盛(維盛の叔父)・教経(知盛の従弟)と戦った(『水島の戦い』)。盛国の子の盛義は、遠縁筋の畠山泰国に仕えて、代々が畠山氏(足利氏一門)に仕えて、本拠地を父祖の地である河内

武田宗信 - 日本通信百科事典

庁南武田家) : 上総武田氏(上総源氏)の当主の武田信高の孫、道信(庁南武田家の祖)の子、慶信・白井信方の父、清信[4](慶信の子)の祖父。従弟の真里谷氏の当主の真里谷信勝とともに下総三上氏・下総原氏と抗争した。生母は長南常秀の娘という。脚注[]↑ 上条頼安の兄。↑甘利信宗の子、

曹邵 - 日本通信百科事典

曹邵曹邵(そうしょう、? - 190年)は、『三国志』に登場する後漢末の人物で、魏の皇族。字は伯南[1]。別名は「曹紹」[2]という。曹操の従弟であり、曹忠の子、曹慮[2]の兄、曹遵(曹慮の子)の伯父。妻は秦琪[3]の娘[2]で、その間に曹真・曹彬・徳陽郷主[4]らを儲けた。概要

松平家正 - 日本通信百科事典

: 官職は左近。形原松平家の祖の松平與嗣(与嗣)の玄孫、貞嗣の曾孫、親忠[1]の孫、家広の子、家忠の弟。徳川家康の年少の族父で、同時に母方の従弟でもある。松平残九郎 : 諱は家正、通称は斬九郎。柴田錬三郎著『御家人斬九郎』の架空の主人公。直参旗本の9男で、もともとは部屋住みの居候

松平康忠 - 日本通信百科事典

七郎、法号は源斎入道。長沢松平家の当主の松平正忠の子、親良(ちかなが、兵庫介)の兄、康直・直隆・直宗・直之の父。惣領家の徳川家康の族子で、、従弟(松平広忠(家康の父)の妹を生母としている)でもある。脚注[]↑ 読みは「ひらただ」。この記事は 『松平康忠』 のための曖昧さ回避ページ

松平家広 - 日本通信百科事典

家) : 形原松平家の当主の松平親忠の子、家忠・家正(左近)の父。松平家広 (桜井松平家) : 桜井松平家の当主の松平忠正の子。嗣子がなく、従弟で異父弟でもある忠頼(叔父の忠吉(ただとみ)の子)が後を継いだ。この記事は 『松平家広』 のための曖昧さ回避ページです。下記は同じタイト

松平家次 - 日本通信百科事典

松平家忠 (東条松平家) : 別名は家次。東条松平家(東條松平家)の祖である松平義春の孫、忠茂(甚太郎)[1]の子。松平広忠(家康の父)の又従弟でもある。嗣子がなく、族子でもある惣領家の家康の子で族孫の忠吉(ただとみ)を婿養子に迎えた。松平家次 (桜井松平家) : 桜井松平家の祖

松元信重 - 日本通信百科事典

2]・海東忠広こと酒井親清[2]室・松平親氏(親季/家氏/信氏)室ら。曾祖父は賀茂在盛、祖父は在信[3]、父は信盛[4]で、また叔父は在久、従弟は在近[5]。妻は山窩出身といわれる。目次1 概要2 松元氏と松平氏の関連性3 脚注4 関連項目概要[]松元氏は『松平村誌』にある『松平

松平親良 - 日本通信百科事典

名ほど存在する。松平親良 (長沢松平家) : 官職は兵庫介。長沢松平家の当主の松平正忠[1]の子、康忠[2]の弟。惣領家の徳川家康の族子で、従弟(松平広忠(家康の父)の妹を生母としている)でもある。松平親良 (大給松平家) : 大給松平家一門の親清[3]の6世の孫、親正の玄孫、和

最上満兼 - 日本通信百科事典

州源氏)流奥州大崎氏の系統の最上氏一門の武将。約2名ほど存在する。中野満兼 : 出羽中野氏の当主の中野義清の孫、義政[1]の子。嗣子がなく、従弟の義時[2]を養子に迎えた。上山満兼 : 初名は武衛(武永)満兼。天童氏(後天童氏)流出羽上山氏一門の出羽武衛氏(武永氏)の当主の武衛(