孫乾

ページ名:孫乾

優秀な外交官の孫乾

孫乾(そんかん、またはそんけん、? - 215年?)は、『三国志』に登場する(蜀漢)の部将・外交官。字は公祐、孫某の父。旧姓は「夏侯氏」(後述)。

目次

概要[]

北海郡の人[1]。孫乾は豪族の子として生まれ(後述)、高名な儒学者だった鄭玄の門下生となった[2]。また陳珪陳登父子、孔融ら名士と交流があったという。

194年、徐州刺史の陶謙が亡くなり、その遺言で劉備が後任者となると、彼は師の鄭玄の推挙を受けて、劉備に仕官して従事となり[3]、麋竺・麋芳兄弟[4]簡雍(耿雍)とともに各地を転々とした。

200年、劉備が徐州刺史代理の車胄を惨殺して、曹操に反旗を翻すと、孫乾は劉備の命で袁紹のもとに派遣され、盟約を結ばせることに成功した。

204年、汝南郡で曹操の部将の于禁と李典に敗れた劉備は、麋竺と孫乾を、荊州牧の劉表のもとに派遣した。両人は劉備を受け入れるように手続きをまとめた。その功績で従事中郎となった。

のちに青州刺史・袁譚[5]が異母弟の袁尚と家督争いして、曹操に滅ぼされる前に、劉表に援軍を要請したが、孫乾は劉備に援軍を見送るように進言した。それを採り上げた劉備が劉表と検討して、結果として劉表は袁譚宛に「このたび、劉豫州と孫公祐と援軍を建議した結果、見送ることになり申した。貴殿の兄弟争いは骨の髄にしみるほど痛みを感じ、こんな悲しいことはありません。しかし、兄弟仲良くやってゆけるようにお祈りする所存であります。できればわたしが調停役として仲介したいのですが…」という兄弟争いの身を案じた内容の返事の書簡を送った。このように孫乾は劉表に一目置かれ、尊重された存在だった。

214年夏5月、劉備が蜀(益州)を平定すると、孫乾は秉忠将軍に任命され、麋竺、簡雍に次ぐ厚遇を受けた。

数ヵ月後に、孫乾は病で逝去した。子の孫某が家督を継いだという。

孫乾に関する隠された事項[]

『東観漢記』・『元本[6]・林国賛の『三国志裴注述』を総合した本田透『ろくでなし三国志』をもとに検証する。

  • 前漢の汝陰文侯・夏侯嬰(滕公/昭平侯)の末裔という[7]
  • 夏侯嬰の子・夏侯竈(夷侯)、孫の夏侯賜(共侯)が世襲し、夏侯賜の子・夏侯頗は平陽公主[8]を妻としたが、亡父の側室と密通した廉で、爵位を奪われ自決を命じられた。
  • 中宗宣帝の代に夏侯信[9]が再興を許され、従父・夏侯頗の妻の平陽公主が「孫公主」と称されたことから、夏侯家の子孫は「孫氏」と改姓するようになったという。
  • そのため、孫乾は夏侯頗または夏侯信の系統と言う[10]
  • ただし、後世の史家は「夏侯嬰の末裔が、すべて孫氏になったとは限らない。『漢書』の功臣表を見ても、孫氏を名乗っていない夏侯嬰の末裔がおり、夏侯氏のままである」と述べている[11]
  • さらに後漢末の沛郡譙県の夏侯氏は、夏侯嬰の家系とは別系統の氏族であると考えられる[12]
  • 威宗桓帝の代に司空を務めた孫朗[13]という人物がいた。この孫朗の従子とされるのが後述の孫嵩という。
  • の丞相の孫邵[14]、劉表の客将で安丘県の人・孫賓碩[15]はともに北海郡の人で、孫乾の同族だという[16]
  • 『魏書』王修伝によれば、「北海高密の孫氏は旧来の豪族で、多くの食客がおり、彼らは奔放にやり放題だった。また無頼の徒を匿ったため、新たに王修が高密県の長となると「荒治療」と称して、これを厳格に取り締まった。王修の「酷吏」ぶりに恐れた孫一族は匿っていたあぶれ者を差し出し、以来から食客も大人しくなった」とある。これが孫朗および孫嵩の生家だとされる。
  • また、孫嵩は孫乾の師の鄭玄が党錮の禁のときに共に免職されている。後に孫嵩は郷里が大飢饉に襲われると荊州へ疎開し荊州牧・劉表に身を寄せた。
  • 孫嵩の親友の趙岐は劉表に対して、「孫嵩は賢人ですので、要職に就けますように…」と述べた。このため、孫嵩は劉表によって礼遇された。間もなく孫嵩は逝去し、その訃報に趙岐は追悼し喪に服したという。おそらく親族とされる孫乾も黙祷したと思われる。


結論

孫乾は、劉備の手足のごとく下僕のように活躍し、劉備の信頼が篤かったことから、かつての高祖(劉邦)と御者あがりの夏侯嬰を彷彿させる関係だったと思われる。

脚注[]

  1. 現在の山東省濰坊市昌楽県
  2. 蜀書』孫乾伝が引く『鄭玄伝』より。
  3. 陶謙の推挙で劉備が豫州刺史に任じられたときとする(『後漢書』鄭玄伝)
  4. 劉備の外戚筋にあたる。
  5. 袁紹の庶長子。
  6. 正式には『元大徳九路本十七史』と呼ばれ、元の大徳10年に池州路儒学によって刊行された『三国志』関連文献書。
  7. 裴駰(裴松之の子)の『史記集解』による。
  8. 前漢の成祖景帝の娘。
  9. 夏侯嬰の玄孫にあたる。
  10. ただし、爵位は「汝陰侯」ではない。おそらく「高密侯」か「安丘侯」という。
  11. 清代の周寿昌著『漢書注校補』『後漢書注補正』『三国志注証遺』『五代史纂誤補編』などより。
  12. 『曹瞞伝』(著者は呉人)と『世語』(郭頒の著作)より。おそらく、の夏侯惇(曹操の母方の従弟)は、前述の夏侯嬰の従兄弟=族兄弟の末裔と推測され、孫乾の遠い親戚とも考えられる。
  13. 北海郡高密県の人、孫堅の庶末子の「孫仁」とは別人である。
  14. 字は長緒。
  15. 「賓碩」は字で、諱は「孫嵩」(『後漢書』趙岐伝)、または「孫崧」(『魏書』邴原伝に注を引く『邴原別伝』)。
  16. あるいは孫乾が孫嵩の族子で、孫邵の族兄弟ともいわれる。

関連項目[]



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