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美髭公・関羽の崇拝者とされる呂布(周倉)像
呂布(りょふ、? - 219年10月14日?)は、『三国志』に登場する蜀漢(蜀)の部将で、関羽の腹心で同郷とされ、字は未詳(後述)。
あの呂奉先と混同されがちだが、同姓同名の別人である(後述)。彼に関することは中華民国の盧弼の『三国志集解』が引用する清の学者である謝鍾英の『三国彊域志補注』でわずかに述べられている。
また、陳寿の正史『三国志』にある原文箇所の「太祖軍撃破呂布軍於摩陂」が記されてあり、これがわざわざ夏侯惇[1]の本伝に記載されている。それによると魏の曹操が親族の夏侯惇とともに潁川郡郟県[2]の摩陂付近で駐屯し、樊城で関羽の包囲を受け窮地に陥った曹仁[3]が満寵・牛金の助言を受け、援軍を要請した[4]。
そこで曹操は徐晃・趙儼に命じて数万人を率いて、関羽の討伐を命じた。そのため関羽は、呉の孫権が派遣した呂蒙によって本拠地を失った衝撃で、徐晃・趙儼の軍勢と樊城から討って出た曹仁・満寵・牛金らの挟撃を受けて、大敗して敗走した。曹操自身も郟県の摩陂を攻撃中の別動隊の将・呂布の軍勢を撃破した。
しかし、後世の史家は「太祖(曹操)が、呂布を撃破して滅ぼしたのは198年冬12月であり、後の219年秋8月には太祖は摩陂にて親族の曹仁救援の態勢を見せたが、自らは親征せず戦いはしなかった。従って原文は「太祖軍于摩陂」が正しく、他を衍字とみなす」と述べている[5]。
それでも、この「太祖軍撃破呂布軍於摩陂」の原文箇所と関連がある文章は『蜀書』関羽伝と『魏書』夏侯惇伝[6]・徐晃伝・満寵伝にその一部が記載されているのである。
219年秋7月に、樊城で曹仁を包囲した関羽は部将の呂布に別動隊の将として郟県の摩陂に派遣した[7]。摩陂付近に駐屯した曹操は曹仁の援軍要請で徐晃・趙儼を派遣して、曹仁とともに関羽を挟撃して、これを撃ち破った[8]。一方、曹操は郟県に親征して、当地にいた呂布軍を撃破した[9]。
その事項以外の詳しくは未詳だが、最後は関羽父子とともに、南郡当陽県漳郷[10]で呉の潘璋配下の司馬の馬忠によって捕らわれて、当陽県臨沮で関羽父子をはじめ胡班[11]・都督の趙累らととも斬られたと思われる。
その一方、「周倉」と記され、河東郡大陽県あるいは河北県[12]の人。はじめは黄巾党の地公将軍・張宝[13]の部将で、184年に黄巾党が衰退すると臥牛山[14]に身を伏せた[15]。
200年のはじめに同郷の関羽が劉備が敗れたため曹操の降将となるも同年の『官渡の戦い』で、袁紹の部将の顔良を討ち取り間もなく袁紹の陣営にいる劉備のもとに帰参する報を得ると、配下の裴元紹・郭常らとともに数百人の手勢を率いて臥牛山から下山して、崇拝する関羽のもとに馳せ参じて、その配下になったと伝わる。
219年秋8月に樊城で、魏の部将の龐悳[16]を捕らえる功績を残した。後に劉備の援軍を要請するために討って出た関羽の留守として、麦城の城将となり守備した。しかし関羽の斬死を知ると、これを嘆き悲しんで、裴元紹・郭常とともに自決して果てたと述べている[17]。
別の説では、呂布(周倉)は関羽に殉ずることなく、生き延びて諸葛亮の「北伐」に従軍して、木牛流馬を管理する長官となる。魏の司馬懿は呂布(周倉)を買収して、裏切るように催促し、蜀漢の木牛流馬の秘密を探ろうとした。結果的には諸葛亮の策略に嵌ってしまい、呂布(周倉)は魏に投降することはなかった、と記されている[18]。
『東観漢記』、『元本』[19]、林国賛の『三国志裴注述』を総合した本田透『ろくでなし三国志』をもとにして下記のように推測検証をしてみる。
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