夏侯献

ページ名:夏侯献

夏侯献の肖像

夏侯献(かこうけん、生没年不詳)は、の外戚・部将。夏侯淵の孫、夏侯覇の子、夏侯夫人(羊祜の正室)の兄、生母は劉夫人(蜀漢)の劉備の娘という)[1][2]

概要[]

族兄筋にあたる烈宗明帝(曹叡)の代に、遼東郡太守の公孫淵が孫権の調略を受けて、繰り返し不穏な動きを続けていたとき、中領軍であった夏侯献は、公孫淵の父の公孫康が服従したときの先例に倣い、使者を遣わして利害を説いた上で、公孫淵の謀反を押さえるべきである、と奏上した[3]。その後、領軍将軍を拝命した。

239年に、曹叡が危篤状態となった際に、燕王の曹宇(曹叡の叔父)・曹肇(族父の曹休の子)・曹爽(族父の曹真の子)・秦朗(祖父の曹操の側室の杜夫人の連れ子)らとともに、皇太子の曹芳(従弟の曹楷の子)を補佐すべく遺命を受けた。だが、劉放[4]・孫資[5]は曹宇に代えて曹爽を後見役として、さらに司馬懿に協力させるよう求めた。そのために、夏侯献は曹宇らとともに要職から更迭されてしまい、互いに涙を流したという[6]

これより以前に夏侯献は曹肇とともに、劉放・孫資が政治の中枢にあることを不満であるかのような発言をしたことがあった。このため劉放・孫資は身の危険を感じ、臨終間近の曹叡を唆して、遼東征伐から帰還の途にあった司馬懿を招聘するように薦めたという。夏侯献が先手を打つため、曹宇を通じ司馬懿に長安へ赴くよう命令を出したが、劉放らからの命令もまもなく司馬懿の元に到来したため、司馬懿は都で変事が起きたのではないか、と判断して、急いで都に帰還したという[7]

以降は、曹芳の代に実力者の司馬懿に冷遇されて、辛うじて親戚の曹爽の仲介で保ったが、族兄の夏侯玄[8]とともに激しく司馬氏一門を忌み嫌っており、249年に曹爽が司馬懿のクーデターで失脚して、処刑されると父は司馬懿によって、征西将軍・都督雍涼州諸軍事を解任されて、夏侯覇の政敵であった司馬懿の腹心の雍州刺史の郭淮を後任にした。

この人事に大いに不満を持った父の夏侯覇は義弟(夏侯献の母方の叔父)にあたる蜀漢の後主懐帝劉禅)と内通して、反乱を起こした。この報を聞いた司馬懿は郭淮に命じて、夏侯覇・夏侯献父子を撃退した[2]。司馬懿は魏に残った夏侯覇の息子たち(夏侯献の兄弟)を楽浪郡に流罪とした。

大敗した夏侯父子は、漢中郡にいた姜維を通じて、義弟の劉禅を頼った。劉禅に謁見した夏侯覇は、車騎将軍に任じられた。257年前後に父が没すると後を継いだが、263年に蜀漢が魏の部将の鍾会・鄧艾によって滅ぼされて、母方の叔父の劉禅一門が降伏すると、実力者の晋公の司馬昭(司馬懿の次子)を忌み嫌った夏侯献は、配下を率いて西方にいるチベット系の羌氐を頼って、落ち延びたという[2]。以降の夏侯献の動向は不詳である[9]

脚注[]

  1. 208年秋に曹純(曹操の族弟)が、劉備の2人の娘を捕らえた記述がある(『魏書』曹純伝)。
  2. 2.02.12.2元本』(『元大徳九路本十七史』)
  3. 『魏書』公孫淵伝が引く『魏名臣奏』
  4. 前漢の世宗武帝(劉徹)の後裔。
  5. 孫盛孫登の祖。
  6. 『魏書』明帝紀注が引く『漢晋春秋』・劉放伝
  7. 『魏書』劉放伝が引く『世語』
  8. 夏侯尚(夏侯淵の甥、夏侯覇の従兄)の子。
  9. 一説に、280年に天下統一した晋の世祖武帝の司馬炎(司馬昭の嫡子)は、羌氐にいた夏侯献の後裔や、楽浪郡にいる夏侯覇の後裔らを探し出して、列侯に封じたという。


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