「同社」を含むwiki一覧 - 19ページ

ユニバーサル・ピクチャーズ - Movies Wiki

月、カール・レムリとエイブ・スターン、ジュリアス・スターンはヤンキー・フィルム・カンパニー(Yankee Film Company)を設立、同社は急速に拡大しインディペンデント・ムービング・ピクチャー・カンパニー(Independent Moving Picture Compan

ライオンズゲート - Movies Wiki

チャーズやビデオ会社トライマーク・ピクチャーズ等を買収。これを契機にアメリカ市場進出への足がかりにした。2005年に配給した『クラッシュ』が同社初のアカデミー賞作品賞に輝く。また、製作費1億円足らずの低予算ホラー映画『ソウ』が世界市場で数百億円の大ヒットを飛ばし、2008年には第

常盤商会 - Movies Wiki

川吉太郎が日活を辞め、「東洋商会」を設立すると、小林は山川に、休眠中の「常盤商会日暮里撮影所」を貸し出し、「東洋商会日暮里撮影所」となった。同社は同年10月には、設立第一作を公開、年内に16本[2]、翌1914年1月には3本の作品をリリースした[3]。いっぽう小林も再度日活を退社

日本映画_(映画会社) - Movies Wiki

摩川6-1-1、角川大映撮影所)に白羽の矢を立てた[1]が、まもなく「東活」は解散、京都の撮影所は競売に付された。解散した「東活」を母体に、同社の社長中山貞雄が京王電気軌道(現在の京王電鉄)と提携し、1933年(昭和8年)に設立されたのがこの日本映画株式会社である[2]。ひきつづ

極東映画 - Movies Wiki

]1935年(昭和10年)2月に設立された。「エトナ映画社」が稼動していた京都の「御室撮影所」を仮撮影所として製作を開始した。設立第1作は、同社の監督部長に就任した仁科熊彦が監督、直木三十五の原作を西条栄こと西條照太郎が脚色、撮影部長に就任した小柳京之介がカメラを回した羅門光三郎

東活映画社 - Movies Wiki

21年(大正10年)に京都・等持院境内に建設した「等持院撮影所」をその後経営していた東亜キネマが業績不振に陥った1931年(昭和6年)9月、同社の代行をする会社として設立されたのが「東活映画社」である。等持院撮影所は「東活映画等持院撮影所」となり、東亜時代の撮影所長の高村正次は辞

東洋商会 - Movies Wiki

正義郎を技術部長とした[4]。こうして、19本の白黒無声映画を世に出した「東洋商会」は役割を終えた。「山崎長之輔一座」を率いた山崎長之輔も、同社で『阿波の鳴門』や『明烏夢泡雪』、『百年目長兵衛』(いずれも1913年)に出演、のちに歌舞伎の世界で赤垣源蔵(忠臣蔵)を当たり役とした松

松竹 - Movies Wiki

松竹座が基幹劇場となっていた。1924年(大正13年)、関西松竹合名社は国産映画の量産に力を入れることになり、洋画の輸入買付を手控える。以降同社は外国映画社から提供を受けた作品を配給する事に専念した(フリー・ブッキング制)。松竹座チェーン[]1924年(大正13年)6月、松竹キネ

東映 - Movies Wiki

昭和39年)9月30日には資本面で東急から分離独立する。この背景には嫌々ながら東映の社長に派遣され、多重債務を抱え自転車操業で倒産寸前だった同社の再建を成功させた大川博と、東急本体を引き継ぎ東急グループの基本を沿線開発に据えた五島昇との間に確執があったと言われている。東映フライヤ

松竹キネマ - Movies Wiki

た映画会社である。新聞紙上に広告を打ち、映画の製作・配給を発表するとともに、「2-3万坪の撮影所用地」と「人材」を公募した[1]。同年3月、同社内に「松竹キネマ俳優学校」を設立、小山内薫を校長に招聘、公募により36名の研究生を養成した。同年6月、東京府荏原郡蒲田村[2](現在の東

東横映画 - Movies Wiki

務が兼務で社長に就任。同年内に五反田東横映画劇場を再建、新宿に映画館を開き、「多摩川園」を吸収合併し、資本金を300万円に増資。同年11月、同社の定款に映画の製作・配給を加え、大映との提携を進めた。1947年(昭和22年)、大映との協定を結び、「大映第二撮影所」を借りて製作する準

東宝東和 - Movies Wiki

's』洋泉社を参照)。2000年代に入ると年間配給作品の数が減少傾向にあったが、2007年後期からユニバーサル映画作品を配給開始し、その後は同社の作品を中心に再び配給作品が増加している。過去に配給したおもな作品[]カプリコン・1(創立50周年記念作品・1977年)極底探険船ポーラ

日活 - Movies Wiki

が行われる事となる。1978年(昭和53年)7月、資本金を上回る累積赤字のため、日活株は東京証券取引所の一部上場廃止の危機に直面した。そこで同社は、当時安売り紳士服チェーンとして宮尾すすむのCMで世間に知られ、一世を風靡していた「流通卸センター」(ROC)と提携。同社の系列会社や

東北新社 - Movies Wiki

月、ニッテンアルティ(旧日本天然色映画)とサーマルが合併)、ティーエフシープラス等の関連会社もCM制作を手がける。受賞作多数。その他、英勉も同社に所属しており、CMディレクターをつとめる一方で、近年では同社が製作に参加した映画「ハンサム★スーツ」で監督業に進出してもいる。放送事業

東亜キネマ - Movies Wiki

「活動写真資料研究会」の「吾嬬撮影所」の所長兼監督だった山根幹人は、この設立と同時に入社し、「東亜キネマ甲陽撮影所」の監督となり[1]、また同社で活躍した、岩岡商会を率いる撮影技師の岩岡巽が「甲陽撮影所」の所長に就任した。マキノ前、マキノ後[]設立の半年後の1924年(大正13年

東宝映画 - Movies Wiki

、このとき「東宝映画京都撮影所」は閉鎖・売却された。1942年(昭和17年)2月1日、映画産業の戦時統制により社団法人映画配給社が設立され、同社団社長に植村が就任したため、東宝映画社長を退任し、その席を副社長の大橋武雄に譲った[1]。1943年(昭和18年)12月10日[3]、同

東宝映画配給 - Movies Wiki

成した。東宝への大合併[]翌1937年(昭和12年)9月10日、「写真化学研究所」と「ピー・シー・エル映画製作所」、「ゼーオー・スタヂオ」と同社の4社が合併し、「東宝映画株式会社」の設立となった。旧ゼーオー・スタヂオを「東宝映画京都撮影所」(現存せず)、旧ピー・シー・エル映画製作

ミカド商会 - Movies Wiki

活躍していた牧野省三が、日活からの独立を望み、「教育映画に限る」という約束で日活在籍のまま、1919年(大正8年)7月10日に設立したのが、同社である。顧問に文部省通俗教育調査員の星野辰男を迎えた[1]。星野とは、文部省勤務ながら、この前年モーリス・ルブランの『怪盗紳士ルパン』を

エッガーランド - ゲーム情報ウィキ

らWindows版が発売された。特にWindows版では、自分でオリジナル面を作成して、そのデータをテキストファイルに出力できる機能があり、同社ではこの機能を使ってユーザから自作面を募集して、自社のWebサイトに掲載するというサービスを行っていた。2002年、ハル・コーポレーショ

エスプガルーダ - ゲーム情報ウィキ

『エスプガルーダ』は、ケイブが製作した業務用縦スクロールシューティングゲームのシリーズ、またはその第1作目のタイトルで、同社のエスプレイドの姉妹作に当たる。ラインナップは以下の通り。エスプガルーダエスプガルーダII目次1 エスプガルーダ1.1 解説1.2 ストーリー1.3 システ

エニックス - ゲーム情報ウィキ

ウェア・エニックス モバイルスタジオを北海道札幌市に設立。2008年8月28日 - テクモ株式会社に対して、友好的な株式公開買い付けを提案。同社が拒否し、株式会社コーエーとの経営統合協議に入ったため、9月5日に提案撤回。2008年10月1日 - 商号を株式会社スクウェア・エニック

ウイニングイレブン - ゲーム情報ウィキ

種に対応している。なお、ウイニングイレブンではスポーツメーカーアディダスがサプライヤー参加し、使用するボールや選手エディット時のスパイク等は同社の製品だが、Pro Evolution Soccerでは国によってサプライヤーが異なっている物がある(欧米発売版ではプーマの製品がセレク

クライマックス_(ゲーム会社) - ゲーム情報ウィキ

ラゴンクエストシリーズの開発スタッフだった内藤寛が高橋宏之と共に設立。しかし、1991年に起こった内藤と高橋との間の軋轢がきっかけで、高橋は同社を去ることになる。1992年8月には、後に小学館のゲーム雑誌ゲーム・オン!も提供することになる初の自社プロデュースのラジオ番組「TV G

ウルフチーム - ゲーム情報ウィキ

立した子会社(親会社はナムコ)「ナムコ・テイルズスタジオ」に吸収され、ウルフチームは事実上解散となった。ゲームミュージック作曲家の桜庭統は、同社の専属コンポーザーだった。発売ソフト[]YAKSA : PC-8801(1987年11月)、FM-77AV(パッケージ表記がFM-77/

イースIII - ゲーム情報ウィキ

れるため、剣と盾の持ち手が固定されない。基本的に本体性能を十二分に発揮しているとは言いがたく、本作が賛否両論な事もあわせ、売り上げは伸びず、同社最初で最後の対応作品となった。スーパーファミコンほぼ忠実にX68000版が移植されている。グラフィック等に変更はあり。難易度設定なし。オ

ゲームで発見!!たまごっち - ゲーム情報ウィキ

たまごっち』(ゲームではっけん たまごっち)は1997年6月27日にバンダイがゲームボーイ用ソフトとして発売した育成シミュレーションゲーム。同社の電子キーチェーンゲームたまごっちをゲームボーイ上で再現した。同年10月17日には森と海のたまごっちを育成する『ゲームで発見!!たまごっ

くにおくんシリーズ - ゲーム情報ウィキ

スの能力値になっている。なぜかりゅういちは犬を、りゅうじは猫を恐れている。顔グラフィックは取扱説明書に載っているイラストとは似ていない別物(同社のゲーム『ダブルドラゴン』の主人公・ジミー&ビリーと同じ)だったが、『熱血べーすぼーる物語』でイラストと同様の物に変更される。ごうだフル

Wii - ゲーム情報ウィキ

る心理的な距離に格差が生じ、ゲームに対するスタートラインが、人によって全く違う状況になってきているのではないかと考えた[3][4]。そこで、同社はゲーム人口の拡大(ゲームから離れてしまった人を呼び戻す。女性や高齢者といった非ゲーマー層を取り込む)ゲーム定義の拡大(従来は存在しなか

ぷよぷよ - ゲーム情報ウィキ

る。その後マイコンBASICマガジンでは、ぷよぷよに関するさまざまな記事が書かれ、それをまとめたムックも発売された。『ぷよぷよ』はもともと、同社のRPG『魔導物語』の派生作品として製作された。操作ブロックとなるモンスター「ぷよぷよ(ぷよ)」を始め、主人公「アルル・ナジャ」や敵キャ

アクタス - ゲーム情報ウィキ

心だったが、2000年に制作した『エクスドライバー』より元請制作を開始した。関連会社にはカラクがあり、カラク名義での制作も行っている。また、同社には編集室があったが、2009年、田熊編集室として独立した。『真・女神転生Dチルドレン ライト&ダーク』での放送途中での制作スタジオ変更

ケロロ軍曹_(アニメ) - ゲーム情報ウィキ

場版3弾の短編から続く形で全6話にわたり不定期で展開された。DVD発売元であるバンダイビジュアルが製作協力に参加。これに伴い、著作権表記にも同社が追加されている。同年3月31日で『しましまとらのしまじろう』が終了したため、本作は5年目以降からテレビ東京系の長寿アニメとなった。20

ゲームボーイアドバンス - ゲーム情報ウィキ

(GB)シリーズの後継機種。専用ソフトウェアの他にゲームボーイやゲームボーイカラー用ソフトウェアを使用することもできる。ハードウェアの能力は同社のスーパーファミコン(SFC)を若干上回るもので、2.5D(疑似3D)表現までこなせる。そのため、スーパーファミコン用として発売されてい

THE_大美人 - ゲーム情報ウィキ

THE 大美人(ざ・だいびじん)は、2004年5月20日にD3パブリッシャーが発売したアクションゲーム。同社のSIMPLE2000シリーズ第50作目で、同シリーズで初のCEROレーティングによる対象年齢が設定されたソフトである(12歳以上対象)。画面構成は3Dシューティングゲーム

チート - ゲーム情報ウィキ

レート:Rellinkときめきメモリアルメモリーカード事件[]テンプレート:Rellinkデッドオアアライブ事件[]2002年にはテクモが、同社が発売していた家庭用ゲーム機用対戦型格闘ゲーム『デッドオアアライブ2』のデータを改変し、特定の女性プレーヤーキャラクターをヌードでプレイ

ダブルドラゴンシリーズ - ゲーム情報ウィキ

agon)『ダブルドラゴン アドバンス』(Double Dragon Advance)ダブルドラゴン[]アーケード版は1987年発売。前年の同社ヒット作『熱血硬派くにおくん』の正統後継作として誕生し、ビデオゲームにおいてベルトスクロールアクションゲームというジャンルを確立させた本

テイルズ_オブ_エターニア - ゲーム情報ウィキ

g等)。メルディ、もしくは称号「ドクターミンツ」を付けたキールを操作キャラにすると、町などにあるメルニクス語表記されたものが読める様になる。同社製他作品である『New Space Order』に登場する神聖宗教国の公用語でもあり、フラッシュノベルである NEW SPACE ORD

スペースインベーダー - ゲーム情報ウィキ

インベーダー (Space Invaders) とは、株式会社タイトーが1978年(昭和53年)に発売したアーケードゲーム。これを初めとする同社の後継製品、他社製の類似商品・模倣品を総称してインベーダーゲームと呼ぶ。開発者は当時タイトーの子会社、パシフィック工業の社員だった西角友

テイルズ_オブ_コモンズ - ゲーム情報ウィキ

用語3 主題歌4 登場人物4.1 パーティーキャラクター4.2 サブキャラクター5 スタッフ6 関連書籍7 外部リンク8 関連項目概要[]同社の人気ゲーム・『テイルズ オブ』シリーズの携帯電話用アプリゲーム第3弾(ミニゲームアプリは除外)。完全オリジナル作としては第2弾となる。

ゾーク - ゲーム情報ウィキ

驚かされた元作者らは、より完全な移植のためにソースを提供した。『ダンジョン』がインフォコムの商業作品である『ゾーク』になると、インフォコムは同社の版権表示を追加することを条件に、Fortran版『ダンジョン』の無償配布を許可した。このFortran版『ダンジョン』とC言語に移植さ

スターオーシャンシリーズ - ゲーム情報ウィキ

イエース五反田義治 - トライエース代表取締役兼、R&Dプログラマー。スターオーシャンシリーズの世界観とゲームシステムを構築した最重要人物。同社研究開発部をまとめている。則本真樹 - ゲームデザイナー。武器や敵のパラメータなど、難易度の設定を行っている。小川浩 - プランナー。世

ゲームボーイカラー - ゲーム情報ウィキ

ゲームボーイカラー(GAMEBOY COLOR)とは、1998年10月21日に任天堂が発売した携帯型ゲーム機である。同社のゲームボーイの上位互換機。目次1 概要1.1 カラー選択機能2 基本仕様3 カラーバリエーション4 その他5 周辺機器6 関連項目7 外部リンク概要[]ゲーム

ジーベック_(アニメ制作会社) - ゲーム情報ウィキ

アニメと3DCGの融合というエポックメイキングも成し遂げた。現在では日本と韓国に専用スタジオを設けることでCGの内製化を実現。2006年には同社初の全編3DCG作品『サルゲッチュ~オンエアー~』を制作する。サンライズとの関係も深く、設立当初は同社作品の制作をサポートしていた。サン

サガシリーズ - ゲーム情報ウィキ

ある。『魔界塔士 Sa・Ga』はコンピュータRPGに新境地を開き、ゲームボーイ初期のキラーソフトの一つとなった。スーパーファミコン時代には、同社の看板ゲームであるファイナルファンタジーシリーズ(以下、FFシリーズ)と肩を並べるほどの人気を誇ったシリーズであった。FFシリーズとは同

スクウェア・エニックス - ゲーム情報ウィキ

ウェア・エニックス モバイルスタジオを北海道札幌市に設立。2008年8月28日 - テクモ株式会社に対して、友好的な株式公開買い付けを提案。同社が拒否し、株式会社コーエーとの経営統合協議に入ったため、9月5日に提案撤回。2008年10月1日 - 商号を株式会社スクウェア・エニック

スタジオジブリ - ゲーム情報ウィキ

[]映画[]スタジオジブリ1985年の株式会社スタジオジブリの設立とともに発足したレーベル。自社で制作した長編アニメーションを手がけており、同社を代表するレーベルの一つである。『天空の城ラピュタ』(宮崎駿原作・脚本・監督)、『となりのトトロ』(宮崎駿原作・脚本・監督)、『火垂るの

THE_鑑識官 - ゲーム情報ウィキ

ん)は、トムキャットシステムが開発し、D3パブリッシャーより発売された、SIMPLE 2000シリーズ第70作目の推理アドベンチャーゲーム。同社より発売の『THE 推理』、『THE 裁判』と世界観を共有している。その後、ニンテンドーDS用ソフトとして2本の続編が発売されている。目

Side-BN - ゲーム情報ウィキ

)とは、バンダイナムコゲームス(NBGI)が月刊で発行しているフリーペーパー(フリーマガジン)。前身であるSide-Bは2005年7月創刊。同社の新作ゲームの紹介記事を主に掲載している。発行はバンダイナムコゲームス、制作はアスキー・メディアワークス。目次1 変遷2 連載2.1 漫

ストライカーパック - アニメwiki

低く、完全な形で組み上げられたものは極めて少なく、その個体総数は二桁に満たないと言われている。開発・製造を担当したアクタイオン社への発注は、同社大株主のロゴス幹部を介し、極秘裏に行われるという特別な措置が採られた。このノワールストライカーを装備したスウェン・カル・バヤン中尉搭乗の

オールレンジ攻撃 - アニメwiki

先端のシステムを活かし多大な戦果を挙げている。また、インコムは地球連邦からの技術流出によってアナハイム・エレクトロニクスにも伝えられており、同社製のSガンダムにもその応用技術が採用されている。ニューディサイズ討伐隊の中核となったα任務部隊に配備されたSガンダムは月面都市エアーズの

ストライクガンダム - アニメwiki

力の増大を抑える事には難航し、PMP社は開発を断念。モルゲンレーテに引き継がれる事となる。結果としてパワーパックの小型・高性能化に秀でていた同社の改良により試作三号機が運用可能なレベルにまで到達した。ストライクガンダムI.W.S.P.は劇中に登場していないが、I.W.S.P.を装