「三河国」を含むwiki一覧 - 3ページ

加茂重長 - 日本通信百科事典

為朝の娘との間に儲けた嫡子・重秀のほかに鎌倉幕府の第2代目将軍・源頼家の室となった娘を儲けており、彼女は公暁を儲けている[3][4]。なお、三河国の足助氏は重長の後裔と自称(仮冒)した[5]。脚注[]↑ 現在の岐阜県美濃加茂市↑ 『尊卑分脈』など。↑ 『吾妻鏡』建保7年(1219

久松氏 - 日本通信百科事典

原家とも呼ばれる。土師姓菅原氏流高辻家の一門。菅原道真の後裔の久松道定[1]を祖とする。同族に西高辻家・唐橋家[2]・五条家[3]があった。三河国知多郡阿古屋郷(阿久比郷)久松村[4]を拠点とした。玄孫の氏定に嗣子がなく、一色満貞[5]の子の詮貞を婿養子に迎えて、菅姓久松氏の男系

大舘氏 - 日本通信百科事典

18]・藤安の兄。大舘晴忠大舘信氏 : 大草公正[5]室の弟。大舘信政 : 断絶。脚注[]↑ 現在の群馬県太田市大舘町↑ 後に成長した氏親は三河国を拠点として、1385年1月に同族の世良田政義・世良田有親とともに信濃国伊那郡浪合村(現在の長野県下伊那郡阿智村浪合大字)で、北朝方の

小笠原長政 - 日本通信百科事典

笠原氏惣領家の深志小笠原家(府中小笠原家)の当主の小笠原長忠の子、長氏の父、宗長の祖父、貞宗・貞長の祖父。小笠原長政 (幡豆小笠原家) : 三河国の幡豆小笠原家の当主の小笠原定政の子、広政の弟、信綱の父。小笠原長政 (阿波小笠原氏) : 阿波小笠原氏の当主の小笠原長行の子、長定の

松平康定 - 日本通信百科事典

鵜殿松平家の祖の松平康孝(徳川家康の大叔父)の子、清吉(きよとみ)の兄。松平康定 (大弐松平家) : 丸根松平家の祖の松平家勝の後裔とされ、三河国の伊保城主の松平康元(乗信)の子、康浄(やすきよ)の父。大弐松平家の祖となり、その後裔は加賀国の金沢藩の前田氏の家老となったという。松

松平宗勝 - 日本通信百科事典

する。松平宗勝 (丸根松平家) : 丸根松平家の祖の松平家勝の後裔で、家定[1]の父、康元(乗信) の祖父、康定(大弐松平家の祖)の曾祖父。三河国の伊保城主であった。徳川宗勝 : 初名は友相/友淳/義淳。名古屋徳川家一門の川田久保松平家の当主の松平友著(ともあき)の子、万弥松・宗

松平家勝 - 日本通信百科事典

3]・光英(光央入道)・元芳[4](忠景/正則)・光親[5]の弟、親則[6]・信重・戸田宗光室らの兄、忠次の父、忠勝の祖父。概要[]父より、三河国賀茂郡丸根郷[7]を与えられて、丸根松平家の祖となった。後に同国賀茂郡伊保郷[8]にある伊保城と、三河平野に進出した父から与えられた同

松平家久_(牧内松平家) - 日本通信百科事典

・超誉存牛(僧侶)・長親(忠次/長忠)・親房(宗安入道)の弟、親光・長家・乗清[1]らの兄、康忠(甚六郎)の父、忠高の祖父。概要[]父より、三河国碧海郡牧内郷[2]を与えられて、牧内松平家の祖となった。彼の動向は不詳であるが、晩年に出家して「張忠入道」と称して、兄の超誉存牛の懇意

松平家次 - 日本通信百科事典

井松平家の祖である松平信定の孫、清定の子、忠正・忠吉(ただとみ)の父。祖父と父と異なり、族子でもある惣領家の徳川家康に従ったが、1563年の三河国の一向一揆の際には、家康に叛いた。脚注[]↑ 忠吉(甚次郎)の弟。この記事は 『松平家次』 のための曖昧さ回避ページです。下記は同じタ

松平元芳 - 日本通信百科事典

勝・親則[4]・信重・戸田宗光室らの兄、元心(もとむね/もときよ/もとさね/もとなか)・忠定(深溝松平家の祖)・宮重十左衛門室の父。概要[]三河国宝飯郡御油郷[5]を拠点として、御油松平家の祖となった。彼の後裔は、代々が松平氏惣領家(安祥松平家)に忠節を尽くした。脚注[]↑ 守親

松平康元 - 日本通信百科事典

する。松平康元 (丸根松平家) : 別名は乗信。丸根松平家の祖の松平家勝の後裔とされ、宗勝の孫、家定[1]の子、康定(大弐松平家の祖)の父。三河国の伊保城主であった。松平康元 (松平久松家) : 初名は久松勝元、別名は家元[2]。源姓久松氏の当主の久松俊勝(定俊/長家)の子、久松

松平広親 - 日本通信百科事典

み)の曾祖父。生母は土師姓大江氏流海東氏の当主の海東忠則[4]の娘で、妻は海東忠広こと酒井親清(忠則の弟)の娘である[1]。概要[]父より、三河国賀茂郡挙母郷[5]を分家する形で継承し、挙母松平家の祖となった[6]。父の後を継いだ弟の信光は三河松平氏の勢力を拡大するために、三河平

松平吉忠 - 日本通信百科事典

)の養子となった。後に松平氏一門の列することを許されて、越智松平家(甲斐源氏)の祖となった。脚注[]↑ 親足(ちかたり)の弟。↑ 常陸国から三河国に逃れた桓武平氏繁盛流大掾氏(常陸平氏)一門の常陸小栗氏の当主で外祖父の小栗正繁(又市)の後を継いで、三河小栗氏(小栗松平家)の祖とな

本多利綱 - 日本通信百科事典

姓今出川氏の祖の今出川義純の娘である。目次1 概要2 脚注3 関連項目4 関連リンク概要[]詳しい事項は不詳であるが、父祖も不詳で、若くして三河国から尾張国横根郷[1]に移住して、水野本多家(尾張本多氏)の祖となったという。岳父の義純同様に長命し、元亀元年(1570年)に大往生し

小笠原長晁 - 日本通信百科事典

系統の小笠原氏(信濃源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。小笠原長晁 (幡豆小笠原家) : 通称は五郎三郎/源次郎/七右衛門、法号は日原斎。三河国の幡豆小笠原家の当主の小笠原定政の8世の孫、広政[1]の7世の孫、広重の6世の孫、広忠[2]の玄孫、信重の曾孫、信政[3]の孫、信直[

山名義範 - 日本通信百科事典

『尊卑分脈』にある足利氏の系譜より。↑ 簗田御厨とも呼ばれる。↑ 5.05.1 矢田郷・山名郷は多胡郡内にある八幡荘に属する。↑ 異説では、三河国幡豆郡八田郷(現在の愛知県西尾市上矢田町)とされるが、これは後世の地名で該当しないとされる(『木曾義仲の挙兵と市原・横田河原の合戦』(

島田満基 - 日本通信百科事典

の玄孫、揖斐詮頼の曾孫、友雄(行久(益頼の父)の孫、基春(基雄)の子、明智頼尚室の兄、光親の族父で岳父。↑ 持益の従弟の佐良木光俊の孫。↑ 三河国設楽郡島田(嶋田)郷(現在の愛知県新城市愛郷大字島田(嶋田)地区)の矢作城主の島田利秀(嶋田利秀)は、碓井姓鎌倉氏流相模長江氏一門の美

岡田氏_(美濃国) - 日本通信百科事典

子)で、織田信秀(敏信の甥)に仕えて、天文11年(1542年)の8月に、信秀が足利氏一門の三河吉良氏(三河源氏)系統である今川義元と激突した三河国の『小豆坂の戦い』で奮戦して、「小豆坂七本槍」のひとりに挙げられている。信秀が没するとその子の信長・信雄(信意/常真斎)父子に仕え、尾

戸賀崎氏 - 日本通信百科事典

む)については「栂崎氏」をご覧ください。戸賀崎氏の家紋(足利二つ引)戸賀崎氏(とがさきし)は、陽成源氏(河内源氏)流足利氏(下野源氏)一門。三河国幡豆郡戸賀崎郷[1]を拠点とした(三河源氏)。庶家に三河荒川氏(義清流)があった。戸ヶ崎氏とも呼ばれる。目次1 概要2 歴代当主3 脚

新田義貞_(左近衛中将) - 日本通信百科事典

めて、これを滅ぼした(『東勝寺の戦い』)。今まで北条得宗家から冷遇された義貞は感無量になった。だが、千寿王丸を奉じた岩松政経・経家父子らが、三河国~遠江国から鎌倉にやって来た足利氏一門の細川和氏・頼春・師氏兄弟[37]らとともに「これにより、鎌倉を統治する名義は千寿王丸さまである

新田清房 - 日本通信百科事典

父。松平清房 : 松平長親(忠次/長忠)の曾孫、滝脇松平家(三河源氏)の祖の乗清の孫、麻生松平家[1]の祖の親正の子、正忠の父。脚注[]↑ 三河国額田郡麻生郷(現在の愛知県岡崎市桜形町額田地区麻生大字)を拠点とした。関連項目[]源清房この記事は 『新田清房』 のための曖昧さ回避ペ

新田光重 - 日本通信百科事典

親則[4]・信重・戸田宗光室らの兄、親貞・信貞(正安)・貞光の父、正久(親光)[5]の祖父、正光の曾祖父、正親の高祖父、康安の6世の祖。妻は三河国の山中城主の碓井姓鎌倉氏流相模長江氏の系統の美濃長屋氏の庶家の三河西郷氏一門の西郷稠頼(つぐより/ちかより、清海入道)[6]の娘。大草

稲武夏焼温泉 - Gravity Wiki

スで約95分泉質重曹泉泉温13 セルシウス度|テンプレート:℃ 表・話・編・歴 稲武夏焼温泉(いなぶなつやけおんせん)は、愛知県豊田市(旧国三河国)にある温泉。奥三河の秘湯として知られる。目次1 アクセス2 泉質3 温泉街4 歴史5 関連項目6 外部リンクアクセス[]鉄道 : 名

岸田吟香 - なんでもある Wiki

、久米北条郡の安藤善一(簡斎)に入門。嘉永6年(1853年)20歳、昌谷精渓に入門、その紹介で林図書頭に入門。安政2年(1855年)22歳、三河国挙母藩の中小姓となり、大郎と改名(大郎左衛門とも)。年末、脚気悪化のため帰国療養。安政3年(1855年)23歳、藤沢東畡に入門。安政4

岩松八弥とはなんですか? - クイズwiki

A. 岩松八弥は、戦国時代に三河国の岡崎城城主松平広忠を脇差で刺突または刺殺したとの伝説がある人物です。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E6%9D%BE%E5%85%AB%E5%BC%A5

三河国とはなんですか? - クイズwiki

A. 愛知県、静岡県、長野県、岐阜県、三重県の5県で構成される令制国参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B2%B3%E5%9B%BD

野田城の戦いとはなんですか? - クイズwiki

A. 野田城の戦いは、元亀4年(1573年)1月から2月にかけて、三河国野田城をめぐり、武田信玄率いる武田軍と徳川家の間で行われた戦い参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E7%94%B0%E5%9F%8E%E3%81%AE%

善明堤の戦いとはなんですか? - クイズwiki

A. 善明堤の戦いは、永禄4年(1561年)4月15日に三河国(現・愛知県)で松平元康(後の徳川家康)と吉良義昭との間で起った戦いを指します。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%84%E6%98%8E%E5%A0%A4%E3%81

形原藩とはなんですか? - クイズwiki

A. 形原藩は、江戸時代初期に三河国の形原を領地として存在していた藩です。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%A2%E5%8E%9F%E8%97%A9

作手藩とはなんですか? - クイズwiki

A. 作手藩は、三河国(現在の愛知県新城市作手地区)に存在した藩です。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%9C%E6%89%8B%E8%97%A9

伊保藩とはなんですか? - クイズwiki

A. 伊保藩は、三河国加茂郡上伊保村(現在の愛知県豊田市)に存在した藩です。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E4%BF%9D%E8%97%A9

松平信孝とはなんですか? - クイズwiki

A. 松平信孝とは、戦国時代の三河国(現在の愛知県)に存在した松平氏の一門で、松平信忠の子である松平信孝が三木松平家の祖となった人物です。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E4%BF%A1%E5%AD%9

奥殿藩とはなんですか? - クイズwiki

A. 奥殿藩は、三河国額田郡に陣屋を置いた藩で、藩主は譜代大名でした。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E6%AE%BF%E8%97%A9

森山崩れとはなんですか? - クイズwiki

A. 森山崩れとは、天文4年12月5日(1535年12月29日)早朝に、三河国岡崎城主・松平清康が、尾張国春日井郡森山(現・愛知県名古屋市守山区)の陣中において、家臣の阿部正豊に暗殺された事件です。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A

吉良義堯とはなんですか? - クイズwiki

A. 戦国時代の武将で、吉良義安の子。三河国の吉良氏の当主で、三河吉良氏の初代当主である。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E8%89%AF%E7%BE%A9%E5%A0%AF

慎機論とはなんですか? - クイズwiki

A. 慎機論とは、江戸時代後期の三河国田原藩家老・渡辺崋山が、幕府の対外政策を批判して書いた私文書です。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%8E%E6%A9%9F%E8%AB%96

三河真木氏とはなんですか? - クイズwiki

A. 三河真木氏は、三河国(現・愛知県)に居住する氏族であり、真木姓を称する。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B2%B3%E7%9C%9F%E6%9C%A8%E6%B0%8F