「三河国」を含むwiki一覧 - 2ページ

石川義忠 - 日本通信百科事典

り、もともとは下野国の国人であったが、駿河国富士郡重須郷(現在の静岡県富士宮市北山大字)の地頭となり、松平親氏・泰親兄弟[3]の従者として、三河国加茂郡松元郷(現在の愛知県豊田市)の松元信重を頼った。脚注[]↑ 義昌・義輔の父。↑ 通称は新兵衛、法号は道念入道。↑新田氏(上野源氏

矢田義清 - 日本通信百科事典

戸賀崎義宗の父。↑ 頼長の父。↑ 義縁とも、頼実の父。↑ 簗田御厨とも呼ばれる。↑ 隣接する同郡山名郷とともに八幡荘に属する。↑ 異説では、三河国幡豆郡八田郷(現在の愛知県西尾市上矢田町)とされるが、これは後世の地名で該当しないとされる(『木曾義仲の挙兵と市原・横田河原の合戦』(

永見貞愛 - 日本通信百科事典

み さだちか、天正2年4月8日(1574年5月1日) - 慶長9年11月16日(1605年1月5日))は、安土桃山時代~江戸時代初期の神官。三河国の知立神社(池鯉鮒神社)の神官である永見貞英の孫、貞親[1]の子、生母は徳川家康の従姉妹(松平信家の娘?)[2]、貞武・吉行[3]の兄

榊原氏 - 日本通信百科事典

げ、後継ぎがなかったために、下記にある義理の叔父(叔母の夫)の賀茂和徳の子で、外従兄弟である清政(康政の兄)が榊原氏の後を継いだ。榊原氏 (三河国) : 三河榊原氏とも呼ばれる。上記の伊勢榊原氏の当主である榊原勝長の娘[4]が三河賀茂氏の一門である賀茂和徳に嫁いで、和徳が勝長の婿

美濃源氏 - 日本通信百科事典

』(1883年(明治16年)の内務省地誌課所蔵本)が引用する『土岐系図』(『子爵家本』・『徳山本』・『阿子田家蔵』)より。↑ 成頼の生母は、三河国守護の足利氏(下野源氏)一門の一色義遠(義政/義枚(よしひら)/饗庭元明)の娘である。↑ 『美濃明細記』『土岐累代記』より。↑ 饗庭氏

松平忠重 - 日本通信百科事典

本の久米左平次に刺殺されると、家督の相続を許されずに改易にされた。後に桜井松平家の第7代目の当主になることを許された。脚注[]↑ 常陸国から三河国に逃れた桓武平氏繁盛流大掾氏(常陸平氏)一門の常陸小栗氏の当主で外祖父の小栗正繁(又市)の後を継いで、三河小栗氏(小栗松平家)の祖とな

松平清成 - 日本通信百科事典

年)3月6日に夫が26歳の若さで(『三州八代記古伝集』)家臣の岩松八弥に暗殺されると、間もなく亡夫の名をちなんで建立したばかりの化粧田である三河国額田郡桑谷村(現在の愛知県岡崎市近郊)の瑞雲山広忠寺(こうちゅうじ)へと移り、出家し尼となり「妙琳院」あるいは、「妙淋院」と称した。清

松平正忠 - 日本通信百科事典

親良(ちかなが、兵庫介)の父、康直・直隆・直宗・直之の祖父。惣領家の徳川家康の族兄で、松平広忠(家康の父)の妹を正室としている。脚注[]↑ 三河国額田郡麻生郷(現在の愛知県岡崎市桜形町額田地区麻生大字)を拠点とした。↑ 乗遠(親正の兄)の玄孫、乗高の曾孫、乗次の孫、正定の子。この

松平親正 - 日本通信百科事典

永の祖父、親次の曾祖父、親興の高祖父、親善(ちかただ)の6世の祖。↑ 乗高の父、乗次の祖父、正定の曾祖父、正勝の高祖父、重信の6世の祖。↑ 三河国額田郡麻生郷(現在の愛知県岡崎市桜形町額田地区麻生大字)を拠点とした。↑ 乗正の弟、乗次(宮石松平家の祖)の兄。この記事は 『松平親正

松平親長 - 日本通信百科事典

のぶとみ、隼人佐)の次子、勝吉(かつとみ、伝十郎)の弟、重正・親信の兄、重長・吉重(とみしげ)の父。惣領家である族孫の徳川家康が誕生すると、三河国賀茂郡松平郷[4]から産湯の水を竹筒に詰めて運ばせたといわれる。父と兄が1542年の『小豆坂の戦い』で戦死を遂げると、長兄の勝吉に嗣子

松平親貞 - 日本通信百科事典

/三河源氏)一門の人物。約4名ほど存在する。松平親貞 (大草松平家) : 大草松平家の祖の松平光重の子、信貞(正安)[1]・貞光の兄。生母は三河国の山中城主の碓井姓鎌倉氏流相模長江氏の系統の美濃長屋氏の庶家の三河西郷氏一門の西郷稠頼(つぐより/ちかより/しげより、清海入道)[2]

松平親氏 - 日本通信百科事典

・宗親(信親の父)兄弟とその配下・石川孫三郎[9]らは族父であり、政季の弟の蔵人・政満(政義の次子、幼名は万徳丸)とともに下伊那郡浪合村から三河国碧海郡酒井郷あるいは幡豆郡坂井郷を経て、命からがらに奥三河の賀茂郡松元郷こと松平郷(現在の愛知県豊田市)へ逃亡した。松元郷(松平郷)に

穴山信君 - 日本通信百科事典

釣閑斎)[6]の配下による暗殺未遂事変に遭遇した。天正3年(1575年)の『長篠の戦い』の際には、勝頼の代理として奥平貞昌(信昌)が籠城する三河国長篠城を包囲して、貞昌が岳父の徳川家康に援軍を要請するために、配下の鳥井強右衛門(勝商/勝高)を浜松城に赴かせた。強右衛門が長篠城に帰

藤原兼家 - 日本通信百科事典

)流斯波氏(奥州源氏)の系統である奥州大崎氏一門の最上直家に嫁いで、天童頼直(後天童氏の祖)を産んだという(『奥羽永慶軍記』)。↑戦国時代の三河国の本多氏(三河賀茂氏)は、この系統と仮冒した(真年翁編『華族諸家伝』本多条)。関連項目[]二条家この記事は 『藤原兼家』 のための曖昧

松平忠吉 - 日本通信百科事典

で、約4名ほど存在する。小栗忠吉 : 岩津松平家の当主の松平親長の孫、忠勝の子、親足(ちかたり)の弟、吉忠(とみただ)・忠重の父。常陸国から三河国に逃れた桓武平氏繁盛流大掾氏(常陸源氏)一門の小栗氏(常陸小栗氏)の当主で外祖父の小栗正繁(又市)の後を継いで、三河小栗氏(小栗松平家

次郎長三国志 - 映画ペディア

同作を原作とするマキノ雅弘監督の映画シリーズのタイトル。なお本作における「三国」とは駿河国(現在の静岡県中部)、遠江国(現在の静岡県西部)、三河国(現在の愛知県東部)のこと。目次1 概要2 小説3 映画3.1 東宝版(1950年代)3.1.1 シリーズ3.1.2 主なキャスト3.

三谷温泉 - Gravity Wiki

シウス度|テンプレート:℃宿泊施設数9軒外部リンク蒲郡三谷温泉旅館組合 表・話・編・歴 三谷温泉(みやおんせん)は、愛知県蒲郡市三谷町(旧国三河国)にある温泉である。目次1 概要2 アクセス3 泉質4 温泉街5 歴史6 関連項目7 外部リンク概要[]三河湾の湾奥に位置し、行楽、歓

岡崎城 - 御城プロジェクト:RE Wiki

や、謝るな。寧ろ、その方が育てがいがあるというものだしな。では、改めて自己紹介をさせてもらおうじゃないか。私の名は岡崎城。龍神の加護を受けし三河国の城であり、竹千代が生まれた城でもある。……む?その様子では、竹千代の名は知っているが誰かまでは思い出せぬようだな。そうさなぁ……。確

地震の年表 - Gravity Wiki

ばほぼ同時期に東南海・東海地震も発生。8世紀701年5月12日 丹波で地震、若狭湾の冠島と沓島が海没したと伝えられる。715年7月4・5日 三河国・ 遠江国(静岡・愛知)で地震 - M 6.5~7.5、正倉47棟が倒壊。天竜川が塞き止められ、数十日後に決壊して洪水。734年5月1

家永カノ - ゴールデンカムイ Wiki

は書きかけです。是非とも、この記事に加筆してみてください。家永カノ名前読みいえなが かの基本データ誕生日5月16日[1]人種和人性別男性出身三河国職業女将(過去)医者(過去)好物肉料理苦手海老生死生死死亡関連人物所属土方一派(過去)刺青の囚人親族母メタデータ初登場漫画:第50話

湯谷温泉_(愛知県) - Gravity Wiki

飯田線湯谷温泉駅下車泉質塩化物泉外部リンク湯谷温泉旅館組合 表・話・編・歴 湯谷温泉(ゆやおんせん)は、愛知県新城市(旧南設楽郡鳳来町・旧国三河国)にある温泉。目次1 アクセス2 泉質2.1 効能3 温泉街3.1 温泉地周辺4 歴史5 関連項目6 外部リンクアクセス[]鉄道 :

添沢温泉 - Gravity Wiki

かけ北設下津具行もしくは稲武行に乗り換えて添沢バス停で下車。田口バス停と旅館との送迎便もある。泉質[]重曹泉源泉温度 15℃温泉地[]天竜奥三河国定公園に含まれ、鬱蒼とした木立に囲まれた丘陵地帯の一軒宿。しかし、宿の規模は大きく、敷地は1,500坪にも及び、収容人数は100人を超

牛山辰馬 - ゴールデンカムイ Wiki

筆してみてください。牛山辰馬名前読みうしやま たつうま別名不敗の牛山チンポ先生オベンチョ基本データ誕生日3月10日[1]人種和人性別男性出身三河国好物桃ビール苦手なし生死生死死亡関連人物所属土方一派刺青の囚人杉元一行(過去)メタデータ初登場漫画:第12話 カムイモシㇼアニメ:第3

麻生氏 - 日本通信百科事典

光氏・宇奈井氏・新木氏・長門高山氏・田耕氏は同族にあたる。麻生松平家 : 三河松平氏(三河源氏)一門の滝脇松平家の庶家。松平親正を祖とする。三河国額田郡麻生郷[3]を拠点とした。孫の正忠の代で嗣子がなく、宗家から族孫の正勝[4]を婿養子に迎え、その子の重信が後を継いで、宗家の滝脇

藤原頼房 - 日本通信百科事典

小野宮頼房 : 小野宮流の藤原敦敏の孫、大宰大弐の佐理(すけみち)[1]の子、綱条(綱條)[2]の父。彼の代から藤原姓から小野宮家と称して、三河国の大草家をはじめ、黒谷家・波野家の祖となったという[3]。堀河頼房 : 花山院家一門の大炊御門家の当主の大炊御門頼定の子、資頼[4]の

足利直明 - 日本通信百科事典

家(関東公方)で、族兄の持氏方である直兼の甥の持家(時家)と家督争いをして、直明はおなじく伯父である足利将軍家の義教(義宣)方として、持家を三河国に撃退したという。脚注[]↑ 義政(義時(義種)の父)・経家(本空入道)・頼宥(頼円(頼圓)入道)の弟。↑ 尊満(青蓮院友山清師)・宝

足利義正 - 日本通信百科事典

の二本松氏の当主の二本松義継の孫、義孝[2]の子、義長の弟。伯父の義綱が蘆名盛重(佐竹義広/義勝)[3]に暗殺されると、父と兄とともに逃れて三河国岡崎藩主の水野忠善の家老として余生を送ったという。渋川義正 : 上野渋川氏(上野源氏)の当主の渋川満行の6世の孫、満直の玄孫、教直の曾

足利義利 - 日本通信百科事典

川氏(駿河源氏)の流れを汲む遠江堀越氏の庶家の瀬名氏一門の末裔。陸軍大将をつとめた。脚注[]↑ 家貞・宗氏・義真(又四郎)・得寿丸の父。↑ 三河国の国人である葛城姓賀茂氏流三河本多氏(三河賀茂氏)一門の水野本多家(尾張本多氏)の祖。利元の父、利久(利忠)の祖父、俊政(利正/利朝)

足利義氏 - 日本通信百科事典

足利 義氏(あしかが よしうじ)とは、陽成源氏(河内源氏)流足利氏(下野源氏)一門。約6名ほど存在する。足利義氏 (三河国守護) : 法名は正義入道。足利氏の3代目の当主。2代目の当主の足利義兼の子、畠山義純・桃井義助の弟、石塔相義(すけよし)[1]・吉良長氏[2]・泰氏(4代目

鳥山氏 - 日本通信百科事典

ともに、近江国北部で、北朝方に備えた惣領家の義貞の執事の船田義昌(藤原北家秀郷流)[3]麾下で、殿軍をつとめた。弟の義盛の後裔は、江戸時代に三河国加茂郡松平郷挙母村[4]にて代官を4代もつとめた。漫画家の鳥山明はその末裔といわれる。歴代当主[]鳥山時成 : 義基・大島義継の弟、豊

長田氏 - 日本通信百科事典

次1 概要2 長田氏歴代当主2.1 親致系(永井氏)3 脚注4 関連項目概要[]長田氏の実質的な祖は、致兼の子の長田致頼であり、尾張国および三河国に多くの庶家を輩出した(三河平氏)。致頼は長徳4年(998年)に、義理の又従兄弟[6]の平維衡と伊勢国神郡[7]において、戦いを繰り広

足利義長 - 日本通信百科事典

の二本松氏の当主の二本松義継の孫、義孝[1]の子、義正の兄。伯父の義綱が蘆名盛重(佐竹義広/義勝)[2]に暗殺されると、父と弟とともに逃れて三河国岡崎藩主の水野忠善の家老として、余生を送ったという。最上義長 : 斯波氏(奥州源氏)流奥州大崎氏一門の最上氏の当主の最上義俊の子、義智

松平忠次 - 日本通信百科事典

(徳川氏/三河源氏)一門および、松平姓を与えられた人物。約5名ほど存在する。松平忠次 (丸根松平家) : 松平信光の孫、家勝の子、忠勝の父。三河国賀茂郡丸根郷[1]の丸根松平家の当主で、大学頭と称した。松平長親 : 別名は忠次/長忠、法名は道閲入道。三河松平氏(三河源氏/徳川氏)

松平忠勝 - 日本通信百科事典

ただかつ)とは、松平氏(徳川氏/三河源氏)一門の人物。約5名ほど存在する。松平忠勝 (丸根松平家) : 松平信光の曾孫、家勝の孫、忠次の子。三河国賀茂郡丸根郷[1]の丸根松平家の当主で、父同様に大学頭と称した。後裔に康元(乗信)・康定[2]父子がいるという。松平忠勝 (岩津松平家

三根山藩 - なんでもある Wiki

が人材育成を優先したことが、後に戯曲化されて「米百俵」の美談として世に知られるようになった。三根山藩の機構[編集]三根山藩主牧野家の門閥は、三河国牛久保以来の譜代家臣である神戸家、倉地家、山本(岡本)家の3家が家老連綿の家柄であり、この3家の家禄は、いずれも200石台前半であった

大友氏 - 日本通信百科事典

います。その他の氏族については「大伴氏」をご覧ください。大友氏(おおともし)とは、日本の氏族。約2系統ほど存在する。越後国・上野国・下総国・三河国などの異流もある。大友氏 (古代)[1] : 近江大友氏とも呼ばれる。大友村主(於保止毛村主)を祖とする渡来系。近江国滋賀郡大友郷[2

大岡氏_(越後国) - 日本通信百科事典

越前国藤島の灯明寺畷で戦死を遂げると、同族の足利尊氏(高氏)の軍勢の圧迫されて、惣領家の大井田氏とともに落ちぶれて、小豪族として存続し、後に三河国に移住した。戦国時代に経重の9世の孫の清勝は遠縁筋の徳川家康に仕えて、元亀3年(1573年)の『三方ヶ原の戦い』で本多忠勝の与力として

大岡忠賀 - 日本通信百科事典

善[2]/伝蔵)の甥といわれる。生涯[]徳川信康(家康の嫡長子)に仕えて、中間をつとめた。計算が得意なことから、会計租税の職に試用された後、三河国奥郡20余郷の代官に抜擢され、徳川父子から信頼を得た[3]。しかし、政敵で遠縁筋の藤原北家利仁流の近藤利用(壱岐守/登之助)[4]が領

大島氏_(上野国) - 日本通信百科事典

義貞が戦死を遂げると、義政はその訃報に悲嘆しつつ、そのまま尊氏に仕えて1344年に40歳で逝去した。義政の子の義高が後を継いで、1360年に三河国守護代となり、足利義満(尊氏の孫)の命を受けて、足利氏一門の畠山国清を救援して、おなじ足利氏一門の吉良満貞を撃破して、これを降した。1

土岐持益 - 日本通信百科事典

1883年(明治16年)の内務省地誌課所蔵本)が引用する『土岐系図』(『子爵家本』・『徳山本』・『阿子田家蔵』)とする。同時に成頼の生母は、三河国守護の一色義貫(義範)(足利氏(下野源氏)一門の源姓一色氏の当主)の孫娘である。関連項目[]源氏摂津源氏多田氏美濃源氏土岐氏この記事は

大嶋光俊 - 日本通信百科事典

紀姓大嶋氏(美濃大島氏)[2]一門の武将。約2名ほど存在する。大嶋光春 : 別称は光俊。光泰の父、光宗(光時)の祖父、光義(光吉)の曾祖父。三河国守護代である源姓大島氏の最後の当主の大島義量の婿養子となり、その後を継いだ。大嶋光定 : 別称は光俊。上記の大嶋光義の子、光成・光政(

大島義政 - 日本通信百科事典

畷で戦死を遂げると、義政は義貞の訃報に悲嘆しつつ、そのまま尊氏に仕えて、1344年に40歳で逝去した。子の義高が後を継いで、彼は1360年に三河国守護代となり、1373年ごろにも、その職務にいたことがみられるなど、足利義満(尊氏の孫)に厚遇された。脚注[]↑ 経継の父。↑ 重兼の

土岐秀光 - 日本通信百科事典

秀三宅秀満(弥平次/秀俊) : 光秀の女婿、南北朝時代の備前国児島郡常山郷の国人で悪党出身で南朝方の児島高徳(小島法師/志純入道)の後裔で、三河国広瀬城主・三宅高貞の孫、徳置(秀朝/長閑斎/出雲守、遠山景行室の弟)の子という。彼の庶子の太郎五郎(重利(重元・重信・重豊・重行の父)

土岐定政 - 日本通信百科事典

3歳であった定明の遺児である幼い愛菊丸(定政)は一族とともに家臣に護衛されて、外祖父の菅沼定広を頼って落ち延びた。まもなく、生母が近隣にある三河国鳳来郡作手郷の豪族の奥平貞勝(道文入道)[4]の側室として嫁いだために、幼くして生き別れて、母方の叔父・菅沼定仙の養嗣子となり、元服し

宇津氏 - 日本通信百科事典

の朝比奈氏の庶家。はじめは駿河国有渡郡(うどぐん)宇津谷郷[1]を本貫として、同郡富士郡[2]を拠点としたが、宇津昌平[3]の子の昌忠の代に三河国碧海郡上和田郷大窪村[4]に移住し、三河大久保氏と改称した。通字は「忠」。同族に駿河岡部氏・駿河大森氏[5]・富士氏などがあった。子の

上野源氏 - 日本通信百科事典

矢田義清の次子の広沢義実が、同国山田郡広沢郷(現在の群馬県桐生市広沢町)を拠点としたが、長子の仁木実国と次子の細川義季と末子の戸賀崎義宗は、三河国に拠点を置いたため、広沢氏は義実1代限りである。庶家に三河源氏の仁木氏・細川氏・戸賀崎氏などがあった。また、斯波氏(奥州源氏)一門で、

世良田義政 - 日本通信百科事典

)の曾孫、長氏の孫、重氏の子、経広の父[1]、有親の祖父。下記の族弟である義季流・義政と異なり、最後まで惣領家の新田義貞を支えた。その末裔は三河国の被官・三河松平氏(徳川氏/三河源氏)となった。世良田義政 (伊予守)(義季流世良田氏) : 「義正」とも呼ばれる。世良田義有(有氏)

世良田氏_(義季流) - 日本通信百科事典

義・政季父子をはじめ有親と大舘氏親らは戦死を遂げた(『浪合の戦い』)。政義の次子の政満は辛うじて南下して、従者の石川孫三郎[3]に伴われて、三河国加茂郡松平郷[4]に有親の子の親氏・泰親・宗親兄弟とともに潜伏したが、義満の厳命を受けた幕府方の捜索で、政満は捕らわれて、京都に連行さ

世良田重氏 - 日本通信百科事典

。世良田重氏 (義光流) : 義光流世良田氏の当主の義有(光氏)の孫、長氏の子、義政(忠氏)の父、経広の祖父、有親の曾祖父。玄孫の松平親氏は三河国の松平氏(徳川氏)の祖となる(三河源氏)。江田重氏 : 義季流世良田氏一門の江田満氏(光氏)の曾孫、氏義の孫、経氏[1]の子。脚注[]

北条氏 - 日本通信百科事典

「きたじょうし」と呼ばれ、土師姓大江氏の系統。越後国刈羽郡北条郷(現在の新潟県柏崎市北条大字)を拠点とした。同国の長井氏と出羽国の寒河江氏と三河国の海東氏・三河酒井氏と安芸国の毛利氏とは同族にあたる。北条氏 (常陸国) : 「常陸北条氏」とも呼ばれる。物部姓十市氏流中原氏一門の宇