ディオゴ・ゴメス

ページ名:ディオゴ ゴメス


ディオゴ・ゴメスはポルトガルの航海家・探検家・著述家。エンリケ航海王子に仕えていた。西アフリカのガンビア川を航行し、カーボベルデ諸島の一部を発見したとされる。彼の回想録は歴史家にとって重要な文書であり、マルティン・ベハイムにも影響を与えたと思われる。


1420年 ポルトガルのラゴスで生まれる。
1440年[20歳] この年までに、騎士(cavaleiro)に昇進する。
1445年[25歳] ランサロテ・デ・フレイタス率いる2回目の奴隷襲撃遠征に参加し、22人のベルベル人を単独で捕らえたと報告している。
1451年[31歳] 6月12日に王室の書記(escrivão da carreagem real)に任命される。


1456年[36歳] エンリケ航海王子により西アフリカ沿岸遠征のため派遣され、3隻の船を率いた。彼は「インド人」通訳者ヤコブを伴ったとしており、初期の歴史家はエンリケがこの段階でインドに到達することを想定していた珍しい兆候として考えていた。しかし、現代の歴史家は、当時の「インド人」はエチオピア人の名称として一般的に使用され、エンリケの希望はプレスター・ジョンの土地に到達することだったと指摘している。ゴメスはリオグランデ(現在のゲバ川)まで達したと言われ、ポルトガル人が最後に到達した地点を超えて、大きな飛躍を遂げた。しかし、強い海流により進行が阻まれ、乗組員が海の末端に近づいていることを恐れたので引き返した。帰国する際、ゴメスはガンビア川に入って50リーグ(250マイル)ほど昇り、マリの金貿易の集散地であるカンターに到達した。彼は、この地域の原住民と平和的に交流した最初のポルトガル人だと思っている(しかし同年にアルヴィーゼ・カダモストも成功している)。カンターでは、金鉱山と貿易ルートに関する多くの情報を収集した。
この地域は主にイスラム教だったが、ゴメスはニウミナンサという少なくとも1人の重要な首長に勝利している。テイシェイラ・ダ・モタは「ニウミナンサ」をノミ・バトの首長と特定し、1447年のヌーノ・トリスタンと1448年のバジャルテを倒した人物と同じだったかもしれない。ノミ・バトはおそらくサローム川デルタに住む現在のニオミンカ人の祖先であり、現在はセレラ族に分類されるが、当時はマンディンカ人扱いだった。


1459年[39歳] シントラの町の王室関税受取人(almoxarife)に任命され、1480年までその地位にとどまった。
1462年[42歳]*1再び西アフリカへの遠征を行った。セネガルのサローム川デルタ(Rio dos Barbacins)に向かって航海し、セイラの人々と貿易するため内地に入った。そこで彼はジェノヴァの船長アントニオ・デ・ノリのキャラベル船に出会い、一緒に帰還する計画を立てた。帰国の際、彼らはカーボベルデ諸島に行き着き、サンティアゴ島に最初に上陸し、島に名前を付けたと主張している(これはカダモストによって争われている)。ゴメスは、アントニオ・デ・ノリが彼の前にリスボンに到達し、王からサンティアゴ島の総督枠を確保した方法について、怒りを持って話している。帰国後、エンリケ航海王子が亡くなっていたため、積極的な探検から引退し、エンリケの甥フェルディナンドの王室のキャリアを追求し始める。
1463年[43歳] アフォンソ5世から王室の従者(escudeiro)に任命される。
1466年[46歳] シントラの治安判事の義務として4,800レアルの王室扶助料を確保した。また、近くのコラレスの治安判事にも任命された。
1499年[79歳]*2ポルトガルで亡くなった。


回想録
すでに高齢のディオゴ・ゴメスは、ポルトガルで滞在中のドイツの地図製作者マルティン・ベハイムに回想録を口述で伝えた。その時の日付は不確実であり、1484年(ベハイムの到着)から1502年(ゴメスの死の確認)の間である可能性が高い(歴史家ピーター・ラッセルは1499年頃だと考える)。ベハイムは、通訳を通じてポルトガル語からラテン語*3に翻訳してそれを書き留めたと思われる。結果として得られた回顧録「De prima inuentione Guineae(ギニアの最初の発見)」は、ゴメス・イーネス・デ・ズララの年代記を除けば、唯一現存するエンリケ遠征に関する原稿である。原稿は、De insulis primo inventis in mare Occidenti(カナリア諸島とマデイラ諸島に関する文書)とDe inventione insularum de Acores(アゾレス諸島の発見記録)の2つの文章から成る。
歴史家はディオゴ・ゴメスの回想録をかなり慎重に扱っている。というのも、自己宣伝のための偏愛、高齢で過去20年以上の出来事を思い出そうとする試み、ベハイムの通訳による誤解、転写の急ぎ(ラテン語はかなり貧弱で、急いで書かれていた)、編集者ヴァレンティム・フェルナンデスによる資料の誤りと矛盾などの不確定要素が多いからである。それにもかかわらず、他の場所では見つからない詳細を含む非常に貴重な文書でもある。
彼の回想録で他に特筆すべき点は、最も初期のポルトガル探検、1415年にジョアン・デ・トラストによるグラン・カナリアへの遠征が記録されていることである(しかし、1424年のフェルナンド・デ・カストロの遠征の誤った文書だと考えられる)。また、アゾレス諸島の再発見時の詳細な説明も書かれている。
回顧録は、エンリケ航海王子の性格や(科学的かつ商業的な)目的を明らかにするうえでも、注目に値する。ゴメスは「エンリケ王子が西海のより遠い部分を知りたいという願いから新しい土地(ad quaerendas terras)を探すためにキャラベル船を送り出し、プトレマイオス(ultra descriptionem Tolomei)によって制限された限界を超えて島や大地の発見を期待している」と指摘した。一方、原住民の貿易に関する情報は、エンリケが西アフリカ沿岸の永続的な探査を刺激するのに役立ち、航海図と四分儀は王子の船に使用された。エンリケは、ゴメスの最初の航海の時に、ガンビア内陸部の出来事をも知らせ続けたオラン商人と連絡を取っていた。そして、1445年にセネガルとカーボベルデが発見される前に、ゴメスは王子がすでに信頼できるトンブクトゥへのルート情報を得ていたと主張している。最後に彼はエンリケの病気や死を感動的に説明をしている。


*1 1460年説もある
*2 1485,1482年説もあり不確定
*3 またはドイツ語で、後にラテン語に書き起こされた

シェアボタン: このページをSNSに投稿するのに便利です。


最近更新されたページ

タンジール戦

タンジール戦(タンジール包囲戦とも)は1437年(9月13日ー10月19日)にポルトガル遠征軍がモロッコのタンジールを占領するためにマリーン・スルタン軍と争った一連の戦い。ポルトガルは15世紀にタンジ...

ジョアン・ゴンサルヴェス・ザルコ

ジョアン・ゴンサルヴェス・ザルコはポルトガルの航海者・探検家。アルバロ・フェルナンデスの叔父かつエンリケ航海王子に仕える貴族であり、船団を率いて探検行を行った。マデイラ諸島を「発見」した人物の一人であ...

キャラック船

キャラック船(Carrack,カラック船とも)は15世紀に地中海で開発された帆船。大航海時代を代表する船種のひとつ。 この型の船を、スペインではナオ(Nao)あるいはカラーカ(Carraca)、ポルト...

キャラベル船

キャラベル船(Caravel,カラベル船とも)は、およそ3本のマストを持つ小型の帆船。高い操舵性を有したことなどから探検活動が盛んとなった15世紀に主にポルトガル人とスペイン人の探検家たちに愛用された...

アルバロ・ヴァズ・デ・アルマダ

アルバロ・ヴァズ・デ・アルマダは外国イングランドでの職歴があるポルトガルの騎士。ヘンリー6世によってアブランシュの初代伯爵(Conde de Abranches)に任命され、ガーターの騎士を創設した。...

セウタ攻略戦

セウタ攻略戦は、ポルトガル王国が後のアフリカ進出に関わる重要な戦い。1415年8月にセウタで起き、結果的にセウタがポルトガル王国領になる。もともとセウタはマリーン朝とグラナダ王国の利害下で、過去数十年...

バルバリア海賊

バルバリア海賊(バルバリア・コルセア[Barbary corsairs]またはオスマン海賊[Ottoman corsairs])は北アフリカのおもにアルジェ、チュニス、トリポリを基地として活動した海賊...

バルバリア海賊の歴史

※概要等は「バルバリア海賊」の頁を参照。イスラム教徒による海賊行為は、地中海では少なくとも9世紀の短命に終わったクレタ島のムスリム政権(824年 - 961年)の時代から知られていた。イタリア、フラン...

プレスター・ジョン

プレスター・ジョン(プレステ・ジョアン)は、アジアあるいはアフリカに存在すると考えられていた伝説上のキリスト教国の国王。プレスター・ジョン伝説では、ネストリウス派キリスト教の司祭が東方に王国を建国し、...

ジル・エアネス

ジル・エアネスはポルトガルの航海士・探検家。ボハドル岬を初めて越えた人物。私生活についてはほとんど知られておらず、エンリケ航海王子の使用人(盾持ち)であったのではないかと考えられている。1395年 ポ...

アントン・ゴンサウヴェス

アントン・ゴンサウヴェスはポルトガルの探検家、奴隷商人。黒人奴隷商人から奴隷としてアフリカ人を購入した最初のヨーロッパ人である。なお、16世紀の初めにマダガスカル島の沿岸を航行したアントン・ゴンサウヴ...

ディニス・ディアス

ディニス・ディアスはポルトガルの探検家。エンリケ航海王子に仕えており、父ジョアン・ディアスや息子バルトロメウ・ディアスも同様に探検家である。1445年 ディアスは既に老齢だったが「井戸の中で平穏に生き...

ヌーノ・トリスタン

ヌーノ・トリスタンはポルトガルの探検家、奴隷商人。1440年代初頭に活動し、ギニア周辺地域に到達した最初のヨーロッパ人であると考えられている(ガンビア川を越えてギニアビサウまで行った説もあるが、有力で...

フェルナンド聖王子

フェルナンド聖王子はポルトガル王国アヴィス王朝の王族。カトリック教会の福者で、祖国のために犠牲となったことから聖王子の名で親しまれている。 1402年 ポルトガル王国のサンタレンでジョアン1世とフィリ...

フェルナンド1世 (ブラガンサ公)

フェルナンド1世はポルトガルの貴族。第2代ブラガンサ公爵・第3代アライオロス伯。アヴィス王朝の開祖ジョアン1世の庶系の孫である。 1403年 初代ブラガンサ公アフォンソ1世と、ベアトリス・ペレイラ・ア...

フェルナンド・デ・カストロ

フェルナンド・デ・カストロはポルトガルの貴族、外交官、軍人。パウル・デ・ボキロボの初代領主。ジョアン1世の王室評議会のメンバーであり、エンリケ航海王子の王室の総督を務めた。同じ時期にフェルナンド聖王子...

ゴメス・エアネス・デ・ズララ

ゴメス・エアネス・デ・ズララはフェルナン・ロペスの後を継ぐポルトガルの編年史家。1410年 ポルトガルで生まれる。1433~1438年[22~27歳] 著述家を生涯の半ばで始める。ドゥアルテ1世の治世...

ルイ・デ・ピナ

ルイ・デ・ピナはポルトガルの編年史家。1440年 グアルダで生まれる。1482年[42歳] 春にポルトガルのジョン2世からカスティーリャに派遣され、大使館の秘書を務める。9月に唯一の使節としてそこに戻...

フレイ・ジョアン・アルバレス

フレイ・ジョアン・アルバレスはポルトガルの騎士修道士・編年史家・作家。王室に仕え、フェルナンド聖王子の秘書を務めた。1400年 トレス・ノヴァスで生まれる。1437年[37歳] フェルナンド聖王子と共...