バルバリア海賊

ページ名:バルバリア海賊

バルバリア海賊(バルバリア・コルセア[Barbary corsairs]またはオスマン海賊[Ottoman corsairs])は北アフリカのおもにアルジェ、チュニス、トリポリを基地として活動した海賊と私掠船乗員である。

概要

北アフリカの地中海沿岸地域はベルベル人が住んでいるので、ヨーロッパではバーバリ(バルバリア)海岸と呼ばれていた。それを根拠地とした海賊が、バルバリア海賊である。 その略奪行為は地中海全体に及び、西アフリカの大西洋岸や南アメリカ、さらには北大西洋のアイスランドまで広がっていたが、主な活動領域は西地中海だった。船舶を捕獲することに加え、主にイタリア、フランス、スペイン、ポルトガル、さらにはブリテン諸島、オランダ、アイスランドまでの海岸にある町や村を襲うラジアと呼ばれた略奪を行った。その攻撃の主目的は北アフリカや中東でのイスラム市場に送るキリスト教徒奴隷を捕まえることだった。 このような襲撃は、イスラム教徒がこの地域を征服してから間もなく始まったが、バルバリア海賊という言葉は通常16世紀以降の襲撃者について使われるようになった。この時期から襲撃の頻度が上がり、範囲が広がったものであり、アルジェ、チュニス、トリポリはオスマン帝国の支配下に入り、バーバリ諸国と呼ばれる直接管理地域あるいは自律的独立地域になっていた。類似した襲撃はサレなどモロッコの港からも出て行われていたが、厳密にはモロッコはオスマン帝国の支配下になっておらず、バーバリ諸国に数えられていない。


海賊は数多くの船舶を捕獲した。スペインやイタリアの海岸線はほとんど全て住民が放棄することになり、19世紀まで定住が進まなかった。16世紀から19世紀、バルバリア海賊は80万人ないし125万人の人々を捕まえて奴隷にしたと推計されている。海賊の中にはジョン・ウォード(イギリス人)やジーメン・ダンスカー(オランダ人)の様にヨーロッパのはぐれ者や改宗者がいた。バルバロッサ兄弟のバルバロス・ハイレッディンとバルバロス・オルチは16世紀初期にオスマン帝国のためにアルジェを支配しており、海賊としても有名である。1600年頃、ヨーロッパの海賊がバーバリ海岸に最新式の航海術と造船術をもたらし、そのことで海賊行為は大西洋にまで広がり、17世紀初期から半ばが最盛期になった。
17世紀後半にはヨーロッパ諸国の強力な海軍がバーバリ諸国と競って、和平を結びその船舶に対する攻撃を止めさせるようなったので、海賊行為の範囲は小さくなり始めた。しかし、そのように有効な保護が無いキリスト教国の船舶や海岸は19世紀まで被害を受け続けた。ナポレオン戦争の後の1814年から1815年のウィーン会議で、ヨーロッパ列強がバルバリア海賊を完全に抑圧する必要性に合意し、その脅威はほとんど消えたものの、時として海賊行為は発生し続けており、完全に無くなったのはフランスが1830年にアルジェを征服した時だった。

歴史

バルバリア海賊の歴史」を参照。

バルバリアの奴隷

バルバリア海賊が捕獲した船舶の貨物を略奪したのは当然として、その主目的は陸上あるいは海上で人々を捕まえ奴隷化することだった。奴隷は北アフリカで売られるか様々な方法で働かされることが多かった。
歴史家のロバート・C・デイビスは、1530年から1780年の間に100万ないし125万人のヨーロッパ人が、北アフリカの主にアルジェ、チュニス、トリポリ、さらにはイスタンブールやサレで捕虜にされ、奴隷として使われたと推計した。
捕獲されることは、奴隷の悪夢の旅の最初の部分に過ぎなかった。多くの奴隷は北アフリカに戻る長い航海の間に、病気や、食料・水の不足のために船中で死んだ。この旅を生き残った者達は、奴隷競売に向かう道で街中を歩かされ見世物になった。その後は朝の8時から昼の2時まで立ちっぱなしとなり、その間に買い手が横を通って吟味した。次が競売であり、町民が買いたいと思う奴隷を競ることになった。それが一巡するとアルジェのデイが競り落とされた価格で欲しいと思う奴隷を購入するチャンスがあった。この競売の間、奴隷たちは走ったり飛んだりしてその強さとスタミナを示す必要があった。奴隷は激しい肉体労働から家事(多くの女性に割り付けられた)まで様々な仕事に使われた。夜には「バグニオ」と呼ばれた監獄に押し込められ、その中は暑く過密だった。しかしこのバグニオは18世紀までに改善が進み、礼拝堂、病院、店、奴隷が運営するバーまであるものもあったが、通常にあるものでもなかった。


ガレー船の奴隷
バグニオの条件は厳しかったが、ガレー船の奴隷が耐えなければならなかった条件よりはましなものだった。バルバリアのガレー船の大半は年間80日間から100日間は海上にあり、奴隷が常にその船に乗っていたわけではなかったが、オールを漕いでいないときは陸上で厳しい肉体労働をさせられた。例外もあった。イスタンブールにあるオスマン・スルターンのガレー船奴隷は永久にそのガレー船内に拘束され、かなり長期間使われることも多く、17世紀後半から18世紀初期には平均して19年間働いたとされている。これら奴隷は滅多にガレー船を離れることがなく、何年もそこで生活した。この時期、漕ぎ手は座っている時に足枷と鎖を付けられ、動くことが許されなかった。睡眠、食事、大小の排便は座ったまま行った。1本のオールに5人ないし6人が掛かるのが通常だった。監督者が間を行き来し、一生懸命に働いていないと思われる奴隷を笞で叩いた。


奴隷にとっての自由
バーバリの奴隷は身代金の支払いで解放されることを期待できた。仲介者や慈善事業で身代金を調達する動きがあったが、それでも自由を得るのは大変難しかった。奴隷を身請けする資金集めが増えると、北アフリカ諸国は身代金を釣り上げた。身代金の不足だけが問題ではなかった。奴隷はその家族に捕まったことを報せ、身代金の額を伝える必要があったが、べらぼうに高い郵便料金を負担し(奴隷は払えないことが多かった)、それが配達されるまで数か月も待つ必要があった。 身代金が払われると、奴隷は港で身請けが完了するのを待った。17世紀や18世紀のある場合は、疫病の恐れがあったので、検疫のためにこの港に留められることがあった。
バーバリの奴隷の多くは身請けに依存できなかった。身請けにはそれだけの価値があると見なされる必要があった。多くの貧しい人々は母国に戻されることが無かった。奴隷の身請け金は通常船における有益性に基づいて変化した。船長は通常の船員よりも高かった。脱走がもう1つの可能性だったが滅多に成功することは無かった。『ドン・キホーテ』の作者ミゲル・デ・セルバンテスが捕虜になって奴隷とされ、4度脱走を試みたが成功せず、結局はその家族に身請けされた。最も有名な逃亡奴隷がトマス・ペローであり、その物語が1740年に出版された。何度か逃亡を試みては失敗し、危うく殺されそうにもなった。最後は1738年7月にジブラルタルまで逃亡することができた。

悪名高いバルバリア海賊

歴史家のアドリアン・ティニスウッドに拠れば、最も悪名高い海賊はイングランドとヨーロッパの反逆者であり、その仕事を私掠船で覚え、平時にその業を追求するためにバーバリ海岸に移動した者達である。これらはぐれ者は最新式の航海術と造船術を海賊業にもたらし、海賊たちはアイスランドやニューファンドランド島など遠くまで奴隷捕獲のための長駆襲撃を行えるようになった。イングランド人海賊のヘンリー・メインウォーリングは後に王室からの恩赦を得てイングランドに戻り、ナイトの爵位に叙され、議会の議員となり、さらにイギリス海軍の中将に指名された。
特に著名な海賊

  • バルバロス・オルチ (1474年 - 1518年)
  • バルバロス・ハイレッディン (1475年 - 1546年)
  • ジャック・ウォード船長 (1553年 - 1622年)

その他の海賊

  • ケマル・レイース(1451年頃 - 1511年)
  • ゲディク・アーメド・パシャ
  • シナン・レイース(? - 1546年)
  • ピーリー・レイース(1465年? - 1554年あるいは1555年)
  • チュルガット・レイース(1485年 - 1565年)
  • シナン・パシャ(? - 1553年)
  • クルトグル・ムスリヒッディン・レイース(1487年 - 1535年)
  • クルトグル・フジール・レイース
  • サリー・レイース(1488年頃 - 1568年)
  • セイディ・アリ・レイース(1498年 - 1563年)
  • ピヤレ・パシャ(1515年 - 1578年)
  • レイース・ハミドウ(1773年 - 1815年)
  • オルチ・アリ・レイース(1519年 - 1587年)
  • ムラト・レイース兄(1534年 - 1638年)
  • アリ・ビッチン(1560年頃 - 1645年)
  • サイモン・デ・ダンサーあるいはサイモン・レイース(1579年頃 - 1611年)
  • アロモ・デ・ビーンボアあるいはスレイマン・レイース(? - 1620年)
  • ジャン・ジャンスゾーンあるいはムラト・レイース弟(1570年 - 1641年?)

大衆文化の中で

バルバリア海賊はエミリオ・サルガーリ作『Le pantere di Algeri』の主人公である。他にもダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』、大デュマの『モンテ・クリスト伯』、ケネス・グレアムの『たのしい川べ』、ラファエル・サバチニの『海の鷹』や『イスラムの剣』、ロイヤル・タイラーの『アルジェの虜囚』、パトリック・オブライアンのオーブリー&マチュリンシリーズ『新鋭艦長、戦乱の海へ』、ニール・スティーヴンスンの『The Baroque Cycle』、ルイ・ラムールの『歩く太鼓』、クライブ・カッスラーの『エルサレムの秘宝を発見せよ!』、アン・ゴロンの『Angélique in Barbary』など多くの有名な小説に登場している。スペインの作家ミゲル・デ・セルバンテスは、奴隷としてアルジェのバグニオで5年間を過ごし、その経験を『ドン・キホーテ』の中の捕虜の話や、アルジェを舞台にした『アルジェの条約』と『アルジェの風呂」という2つの戯曲、さらには他の多くの作品でエピソードに描いている。
バルバリア海賊は多くのポルノ小説にも登場する。例えば、1828年に出た『The Lustful Turk』では、白人女性を誘拐し性の奴隷にすることが不変の興味となっている。
大衆文化の中で海賊を描く典型的な例の1つが、眼帯であり、アラブの海賊ラマー・イブン・ジャビル・アル・ジャラヒマーまでさかのぼることができる。アル・ジャヒマーは18世紀の戦闘で片目を失った後に眼帯を着用していた。
リトル・ジョニー・イングランドの歌『バルバリアの百合』は、バルバリア海賊に奴隷にされてアルジェで売られたが、その主人が死んだときに解放されたイギリス人の話である。その後は商人となり、別のイギリス人少女を奴隷の身分から買い戻した。

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