タンジール戦
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1415年 ポルトガル王国のポルトで生まれる。生い立ちについては未知な部分が多い。ポルトガルでは珍しい姓名から、家族は他国出身なのではと推測されている。エンリケ航海王子に酌取り (copeiro) として仕えていたことが知られている。
1435年[20歳] ジル・エアネスと共にボハドル岬を越えて海岸を探索するよう命令される。なお、エアネスがボハドル岬を越えるのはこれが二回目である。バルダイアはこれまで航海の経験がなかったが、バリネル号*1を率いた。ボハドル岬の南をおよそ30リーグ(144 km)、あるいは50リーグ (240 km)も進んだ先のアフリカ沿岸に到達した。 ただちに住民を発見することはできなかったが、航海を終えるまでに人が暮らしている痕跡を認めるなどすぐれた結果を残した。彼らは自分たちが停泊したその小湾に「Angra dos Ruivos」(赤い入り江)と名づけている。
1436年[21歳] アフリカ西海岸の住民を奴隷として連れてくるよう指示される。今回はエアネスがいないものの、再びバリネル号に乗り出港した。その際、船には奴隷を追いかけるための馬も2頭乗せていた。
アングラ・ドス・カヴァロス(Angra dos Cavallos)*2に停泊したバルダイアの遠征隊は、遠く離れた場所で原住民の一行を見つける。打ち負かして捕縛したが、負傷した彼らは役に立たなかった。そのまま南に進むとリオ・ド・ウロ(Rio do Ouro)*3と名付けた沿岸に入り江を発見。実際とは異なるが、サハラを横断する商人によって語られている伝説的な「金の川(現在のセネガル川?)」の河口であると考えた。船をその入り江に停泊している間、乗組員たちは海岸に多くいるアザラシの狩りを引き受けて、アザラシの皮と油を船に積み込んでいた。遠征隊はさらに南下し、北回帰線を通過(ヨーロッパ人が初めて通ったとされる)。バルバ岬沖の岩の島ペドラ・ダ・ガレ(Pedra da Galé)に到達したが、捨てられた漁網以外に何も見当たらなかったため引き返した。遠征はここで終了し、去年の航海と比較して約125マイル南下したこととなる。
バルダイアの報告を受けたエンリケ航海王子は海岸の不利益な状態に失望して、今後数年間(1441年に2隻のみ出している)は海岸への遠征隊を出さなくなってしまった。
1442年[27歳] 数年前に、エンリケ航海王子の要請を受けたドゥアルテ1世は彼をポルトの税関士(almoxarife)に任命しており、この年まで務めていたことが分かっている。しかし、この後の彼の生活については分かっていないことが多く、仮にアゾレス諸島の入植者アフォンソ・ゴンサルヴェス・デ・アントナ・バルダイアと同一人物であるなら以下のような流れになる。
1450年[35歳] 妻と死別してテルセイラ島に入植する。アングラ(Angra do Heroísmo)*4に住居と礼拝堂を建設。
1474年[56歳] 退職してヴィラ・ダ・プライア(Villa da Praia)*5に引っ越し、アングラの土地をフランシスコ会に寄付。住居は文化会館として地方支部に、礼拝堂は拡張され大きな教会(Nossa Senhora da Guia)となった。
1481年[63歳] ヴィラ・ダ・プライアで死去。
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