集中(フォーカス)

ページ名:集中

20名無しヒーリング2018/04/21(土) 03:53:12.55ID:CnvG8F+f

「集中」というのはみんな勘違いしてるけど、実は「放下」によって起こるんだよね 
道元禅師流にいえば、「心身脱落」ということ。 

人は意思の力で一つのものに意識を向け続けることを「集中」と思ってる 
だが実は違う。 
勉強しているときに、いつの間にか集中が起こるのは、それは勉強に自力で 
意識を集中させたわけじゃない 
今やってることに意識を向け続けることによって、今に入ることによって我が薄らいでいき、 
我(意思の力で何かをやろうという思い)が全面降伏することによって、 
今しかなくなった状態・・・ それが集中した状態であり、三昧だ。 

ところがスポーツや仕事、芸術などでは、自分が力を入れて集中しようとしている状態と、 
我の活動が弱まって降伏することが、入り混じったり、境界線がはっきり見えないことによって 
自己の意思で集中していると錯覚する。 
しかし、ハッキリ言って、自己の意思が強力であるうちは、 
集中は起こることはない 
我の降伏が起こることが「集中」であり、全面降伏が「三昧」だ 

勉強でも、集中しようと思うと逆に出来なかったり、集中しようと思わなくても、 
勉強している内にいつの間にか集中していたということが起こるだろう。 

今に意識を向けるということは、ある程度意思の力を要する。 
しかし、それが集中を起こすんじゃない。 
意思の力が集中を起こすんじゃなくて、今に意識が向けられ続けた結果、 
(時間の幅が狭められた結果)、我が活動出来なくなった状態が 
集中と同意義ということ。

21名無しヒーリング2018/04/21(土) 04:01:29.10ID:CnvG8F+f

集中が極まって三昧に近づくと、人は何かを考えようとしても出来なくなる 
ということを経験するだろう。 
意思の力を働かせようとしても出来ない。 
その時雑念が一切停止するんじゃなくて、雑念をコントロール出来なくなるようになる。 
雑念に一切タッチ出来ない状態・・・完全なありのままということ。 

そうして今に完全一致すると、記憶すら残らない。 
その時、スポーツや仕事、日常生活、芸術などでは、 
奇跡的なことを成し遂げているだろう。 
道元禅師の「覚知にまじわるは証則にあらず」というのは 
ちょうどこういうこと。

115名無しヒーリング2018/06/27(水) 04:13:18.78ID:4NxAf0vj

今を意識していくということは、我が働けなくなっていく、 
ということなんだよな 
今に意識をフォーカスするということは、我を殺していくということ 
今に意識がピッタリ一致していれば、無我の境地と同じことだ 


たとえば美味しいものに舌鼓を打っている時に、一噛み一噛み噛むことを意識する.... 
お皿の上げ下げの一つ一つに意識を置く、ということをやっていると 
とてもじゃないけど味覚は楽しめない 
味を楽しむことを優先するか、今に意識を置くことを優先するか、 
どちらか一つしか選べない 
ネットに思考が埋没している時も同じで、意識が今から遠ざかってる 

普通の人は、今に意識を置く、ということは耐えられない 
仕事で強制的に、あるいは、スポーツや修行などで自分を追い込んで、 
ということはあるかもしれない 
だけどその反動で、癒しの時間も必要になってくる 
今に意識を向けることで、我欲を満たすことを中断されるのが、 
ストレスになっているからだ 

たとえば、我がストレスを受けて圧迫されていると、そういう状態が継続していると 
それを上回るような、我に埋没する手段をとろうとする 
たとえば、ネット中毒とか、ヘビースモーカー、アルコール中毒、薬物中毒、などは 
より今から意識を外して、思考を埋没させる行為だ 
つまり、我を温存するための行為だと言っていい

116名無しヒーリング2018/06/27(水) 04:36:07.72ID:4NxAf0vj

今に意識を置きつづけるということは、我を殺していく、ということだけど 
そうすると、抵抗というか、反動を受けることになる 
たとえば力づくで今に意識を集中していこうと、修行のようなことをやったりすると、 
その反動は大きくなる 
それは我に対して、剣で挑むような形になるからだ 
我を殺そうとする行為 

今を意識するか、思考に溺れるか、の二択しか考えないと、 
二元性の中を行ったり来たりすることになる 
いわゆる、上手くいった、いかなかった、の世界になっちゃう 

二元性の世界とはどういうことかいうと、それは、良し悪し、善悪、快不快、など 
二元相対の対立を起こしている世界ということ 
これは仏教では「分別」という言い方をし、つまりはこれが「思考」ということだ 
仏教では悟りは二元性「分別」を越えることであり、それは「中道」と呼ばれている 

二元性を越える心境というのは、どちらでもいいという状態 
快でも不快でも構わない、病気でも健康でも構わない、道元禅師は「生死を越えて仏となる」と言っているが、 
究極的には、死んでも生きても構わない、ってことになる 
生死に拘る我を越えて、仏(今に意識が完全に一致した状態)になるということだ 

 

117名無しヒーリング2018/06/27(水) 05:16:28.23ID:4NxAf0vj

今に意識を置くということは、この二元性(我)を殺す行為だから、その行為が、二元性そのものであっては 
ならないんじゃないかと、最近思う 
今に意識を置けた、置けなかった、成功した、失敗した、ということをやっていると、 
今に意識を置く行為と、我(思考分別) が対立的になって、いつまでもこの二つを 
行ったり来たりすることになる 
そうすると、中途挫折する可能性が高くなるわけだ 
なので、この二つが対立的にならない方法を見つけないといけない 

道元禅師の永平寺では、一つ一つの日常の動作に、作法が定められてる 
葉の磨き方、顔の洗い方、トイレの入り方.... 
こういう風に、動きに細かい規則が設けられることによって、意識が今の動作から離れられなくなる 
自然に今に意識が統一するようになる、という手法 
こういうやり方は二元性の対立を起こしにくいだろう 

ところが独力でやる場合は、二元性の対立を起こしやすくなる 
強制されるメニューが無ければ、意識が外れやすいし、また外れまいとしたら、 
力んで集中しようとして、思考分別・我欲と対立的になる 
これでは二元性を越えようとしているものが、二元性に陥ってることになる 

効果的には、短時間に深く、今ある動作とかに意識を置いた方が、 
心がスッキリして成功が出るかもしれない 
だけど、マインドフルネスは少なくとも24時間中、今にある意識と、 
我の思考の時間を逆転させないといけない 
だから禅では行住坐臥の行というわけだ 

ちょっと修行をやりました、スッキリしました、では、最終的な目標は達成できない 
かといって、独力で修行をしようとした場合、日常の我欲を捨てて、今に意識を向け続けるというのは 
不可能に近い 

そこで、二元性を対立させないためには、ある程度、我を許容しなければ 
ならないんじゃないかと思う 
手法としては、気付いた時に、今目の前にあることに意識を置く.... 
気付かないことへ対抗的になるのではなく、そのスキを狙って 
徐々に気付く時間を作っていく... 
たとえばどうしてもテレビを見たければ見て、その合間に飲み物を飲むときに 
コップの上げ下げをしっかり意識する 
ネットをやってるときに、気付いたらクリックをしっかり意識する 
スマホだったら気付いた時に、時折指の動きを丁寧にやってみる 
そうして今の意識を置く回数を増やしていく 
逆転すれば、今に意識を置くことを優先するようになってくるんじゃないだろうか

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