瞑想に向かう理屈

ページ名:瞑想に向かう理屈

14名無しヒーリング2019/03/30(土) 06:40:18.98ID:tWIEoSrr>>20

ふと思ったんだ。 
神は人に不必要なものは与えないはず。 
人間の脳の思考や雑念や感情は、瞑想やマインドフルネスでは厄介者で敵かのようにする。 
真我探求も、自我の思考を消して大いなる意識に目覚めるというけど。 
神は必要と思って人間に思考や感情を与えたんじゃないか? 
神が人に手足を与えたように、見るために目を、食べるために口を与えたように、 
考えるために思考を与えて、感じるために感情を与えたんじゃないか? 
じゃあなんで神が与えてくれたものを消す必要がある? 
なんで神を発見するために神が与えてくれたものを消す必要がある? 
神はそんないじわるで自我と思考と感情を与えたのか? 
なんで神が人間に与えてくれたものを嫌悪してマインドフルネスで消していく必要がある? 
神はウサギに耳と跳躍力を与えただろう。 
ほかの生き物にも生きる上で大切な特徴を与えてくれただろう。 
人間の自我や思考や感情も、それと同じことなんじゃないか? 
神の大切なプレゼントなんじゃないか?それをなんで瞑想やマインドフルネスで消していくのがいいのか? 
それらを消すことが悟りか?じゃあなんでそもそも神は自我や感情などを人間に与えた? 
そんなにいじわるなのか神は? 
ウサギや他の生き物がその神の与えてくれた特徴でありのまま自然体に生きてるのに、 
自我や思考や感情を与えてくれたのにそれらをマインドフルネス瞑想で消しながら日々を送ることは不自然な行為じゃないか? 
自我や感情のままに生きることこそ神が望む生き方なんじゃないか? 
とふと思った。 
だれか適切な回答ください

 

20名無しヒーリング2019/03/30(土) 22:39:23.84ID:JlDy9C1h

>>14 
思考の始まりというのは、仏教でいえば「無明」が起こったとき。 
キリスト教で言えば、アダムとイヴが「善悪を知る木の実」を食べたとき。 
「善悪を知る」というのは、「分別」のことだよね。 
つまり思考のこと。 

それで、なんでも一段優れたものになるためには、一旦下降するんだよね 
そうしてらせん状に上昇していく。 

たとえば、棒を自由自在に振り回して、戦うのが 
上手い人がいるとする。 
そういう人に剣道を教えると、今度は途端に型に捉われて、 
急に弱くなってしまう。 
今までの自由自在性が無くなって、型に束縛されてしまう。 
ところが、その型を完全にマスターすると、今度は型を自由自在に扱えるようになる。 
そうすると、前のただ棒を振りましていた頃より、はるかに強くなれるわけだ。 

サッカーでも同じだろ。 
チームプレーも考えないで好き勝手にやってる人たちは自由性があるが、ある意味原始的といえる。 
そこにチームプレーの型などが持ち込まれると、最初のうちは自由性を失って弱くなるかもしれない。 
ところが身についていくうちに、今度はその型を自由自在に使えるようになる。 

もともと、人間の世界は神の世だったんだよね。 
人は神人だった。 
ところが、分別を覚えてから下降が始まった。 
ところが、スピリチュアル的にはまた神の世に戻ると言われている。 
昔と同じ神の世ではなくて、一等優れた神の世ということ。 
日月神示でも、「今の科学は無くせんぞ」と言っている。 
科学を手に入れながらも、人が神同然になって発展していく世界。 

ワンネスでも、ただ最初から「一」だったら、ずーっと「一」で終わりだろう。 
そこで分裂していって、分別も当然起こるわけだけど、そこからまた再統合に向かう。 
今度は分裂した一つ一つが「一」として、点を中心に回るわけだから 
一層優れた状態になれる 

なので、我々が個々に分裂するのは神の意思で、そこで発生した「思考」は、 
克服すべきものということになる。 

武道で「守破離」という言葉があるだろう。 
それも似たような考え。

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