973名無しヒーリング2019/03/26(火) 01:56:11.09ID:QB+crMfj>>981
しかし >>957-964 あたりは、結構いいこと言ってるんだよな。
初期のレスより良くなってきてる。
ただ、ハート云々ってのは気に入らんな。
しらべてみると、ハートから愛が、エネルギーが。。。と言ってるやつが
意外といるね。
そういうところからの受け売りをつぎはぎしてるのか、
もし実体験が少しでも入ってんのなら、スレから排除しようというのは
良くないんだけどな。
よく、そういうスピリチュアル的なことって、一度神秘的体験をしてから、
また元に戻っちゃうってこともある。
元に戻った場合は、その時の素晴らしい体験を語りたくなっちゃうんだよな。
体験はしてるんだけど、元に戻ってるから執着は強い、みたいな。。
現時点だはまだどっちか不明だな。
974名無しヒーリング2019/03/26(火) 02:02:03.99ID:DlWMMIk7
過去ログざっと読んでみた
「ここはマインドフルネスのスレだから、ヨガの話をしたい人はヨガのスレに行ってください」と言う人がいて苦笑いした
ヨガだって一つのマインドフルネスなんだけどね
表面しか見てない人がマインドフルネスを長文で語ってほしくないね
975名無しヒーリング2019/03/26(火) 02:10:21.65ID:DlWMMIk7>>978
>>957-964だって観念ばかりじゃないかなぁ
なにも捨てる必要ないよ
気付いて、見守ってりゃ十分だよ
消えるものは勝手に消えるから、「捨てろ」と説教したって意味がない
かえって囚われてしまう
長文君は全ての信念を捨てろと言ってるけど、「捨てる」という判断の中にもうジャッジが入ってる
「信念は幻想に過ぎない」という"信念"に引っかかってるから、ああいう矛盾を作っちゃうんだよね
976名無しヒーリング2019/03/26(火) 10:54:43.42ID:TpEzfAaE>>977
正しくは、ヨガで終わるならマインドフルネスではない
かな
それは訂正するよ
977名無しヒーリング2019/03/26(火) 11:28:07.84ID:DlWMMIk7
>>976
> ヨガで終わるならマインドフルネスではない
あなたはヨガをよく知った方がいいよ
ヨガはあなたが考えてるほど底が浅くない。
マインドフルネスという用語はアメリカの研究者がパーリ語のサティを翻訳したものだけど、まじで上辺だけの浅い訳語だと思う。
新語みたいなもんだな。
だから後の研究者や指導者の解釈もあり、今ではマインドフルネスの解釈にも幅があるけど、経験や感覚に注意を向ける点で概ね共通している
978名無しヒーリング2019/03/26(火) 11:31:00.26ID:QB+crMfj
>>975
なるほど、確かに放棄しろというのは違和感があるな。
結果的にそうなるんであって、出来ないうちに自分からやるもんじゃないからな。
マインドフルネスが進んで行くうちに自然にそうなるというんならわかるんだけど。
979名無しヒーリング2019/03/26(火) 11:33:13.94ID:DlWMMIk7
ヨガにとって「経験と感覚に注意を向ける-観照」は全ての出発点。
初歩中の初歩だ
>>976さんはラージャヨーガとジュニャーナ・ヨーガとタントラヨーガをよく研究したらいい。
タントラのアンタルマウナ行なんか、もろにマインドフルネスだ。
しかもヨーガにとって、それは初歩レベル。
ヨガの呼吸もポーズも瞑想も、思考・感覚・経験に意識を向ける観察が無かったら成功しない
ヨガで終わるなら?
あんまし無知を晒すと、スレ住民に笑われるよ
マインドフルネスで終わるなら・・・が正解だ
980名無しヒーリング2019/03/26(火) 11:39:50.91ID:TpEzfAaE>>983
サティは瞑想による観察ではないんだが?
981名無しヒーリング2019/03/26(火) 11:48:09.16ID:DlWMMIk7
>>973
私もハートを強調する必要性は感じない。
現世を豊かに心安らかに生きようという目的の中ではハートも大切だけど、マインドフルネスは全部を俯瞰してる状態だからね
気付いてる状態
ハートが無くても、愛が小さくても、心が穢れていても、全てに気付いてるのが観照だから。
まあ「結果的」にハートが満たされた状態は起こり得るけどね
982名無しヒーリング2019/03/26(火) 12:01:05.07ID:TpEzfAaE>>984
観察はヴィパッサナー、サティは気づきなどと訳されてるんですが
サティはヨガではないよね
マインドフルネスとはサマタ、ヴィパッサナーといったヨガ的な瞑想に始まるが
釈迦の悟りがヨガを超えてる以上、マインドフルネスはヨガに終わらないもの
少なくとも仏教、マインドフルネスの立場からはそうだけどな
どうもヨガ優位的な考えの方は我々が捉えてるようなサティの実態を
ご存知ないのではないかと思う
だから「真我」を念じることはいずれ邪魔になるから捨てたほうが良いですよと言ってるんだ
「真我」を観察対象にして、見ていれば消えていく、でもいい
執着しないことを捨てると言ってるだけだから
983名無しヒーリング2019/03/26(火) 12:01:06.62ID:DlWMMIk7
>>980
あなたは「観」と「止」を知識だけで捉えてるでしょ?
テーラワーダ仏教のヴィパッサナー実践者がよく勘違いする、盲点なんだよね
禅がヒントになるかも
座禅する瞑想的な行と日常生活での動禅は本来同じ。
サティは「気付いてる状態」。
日常生活でも瞑想中でも、ただ気付いてる状態。
でもあなたは「観」の概念に引っかかってるから、生活と瞑想を別々のように考えてる
「観」を深めるには「止」を深める必要があり、「止」を深めるには「観」を深める必要がある。
ヨーガはその全ての階梯を有している。
あなたのヨガに対する見解は断片的すぎる
984名無しヒーリング2019/03/26(火) 12:11:23.05ID:DlWMMIk7
>>982
> 釈迦の悟りがヨガを超えてる以上、マインドフルネスはヨガに終わらないもの
あなたがヒンシュクを買った理由がよく分かるよ
マインドフルネスという概念は、仏教を断片的に切り取ったもの
ヨガを断片的に切り取ったもの
マインドフルネスというレベルで終わる限り、仏教の悟りに近付けないし、ヨガの悟りにも近づけない
そろそろ気付こうね
私はヨガ優位主義者じゃないよ
仏教が優位でもいいし、ヨガが優位でもいい。つーか「どうでもい話」だよ。
あなたこそ「どちらの方が優れているのか?」というつまらない欲念に執着してる
だからしつこく「ヨガで終わるなら」というフレーズを繰り返すわけだよ
985名無しヒーリング2019/03/26(火) 12:13:29.62ID:sBw9zsAS>>990
瞑想の方法が被ってるのはわかった。
詳しい人、自分が気になるのは
ヨガで到達できる最高地点がお釈迦様にとっては
悟りとは思えなかったって点なんだけど、
その到達点の違いをわかりやすく
教えてもらうことってできる?
986名無しヒーリング2019/03/26(火) 12:16:05.58ID:TpEzfAaE>>989
真我など仮定せずにも観察(ヴィパッサナー)は出来る
観察をしていけばサティが現れる
そこに意識を向けることは観察と同じ働きをするよ
しかし、そこで「わたし」などと念ずると瞑想マスターが言うようなことは起きる
全的な気付きからは遠ざかるが、やはりそれも消えてなくなる
よって真我にしがみつくのはマインドフルネスではないとわたしは言ってる
知識ではなく、やってみればわかることなんだがなぁ
989名無しヒーリング2019/03/26(火) 12:38:59.64ID:DlWMMIk7>>992
>>986
ヨーガで説いている真我とは「観察者」のこと。
だから真我は求めるものではない
結果的に真我がただ現れる、というだった
時代背景も考えた方がいい
当時はバラモン信仰が根付いてたんで、真我や神々への信仰に囚われる行者が多かった
本来の真我は「しがみつくもの」「もとめるもの」ではない
単なる現れだし、全体的な統合
990名無しヒーリング2019/03/26(火) 12:40:58.79ID:DlWMMIk7>>996
>>985
仏典だって釈迦が書いたものじゃないから、その判断は難しいなぁ。
釈迦牟尼の教えが後世で宗教化されると、「優位性」という我欲に引っかかる人が現れるし、「仏陀の悟りはヨーガを超えていた」という神話を創作する
個人的には、どうでも話だけどね。
ひとつのヒントになりえるのはラマナ・マハルシという覚者。
ジュニャーナ・ヨーガの成就者だけど、「彼の悟りはレベルが低い」と批判する人はそんなにいないでしょ?
つーか究極の覚者という呼び名も高い
けれど仏教とヨガは、真我の定義づけが異なるよね
仏教には縁起思想があるから、真我を認めない
でも不二一元論やラーマナ・マハルシが説いた真我は、個という枠じゃないんだ。
全体性を意味してるんだ
なので仏教のニルヴァーナと本質的に同じじゃないかと思う。私見だけどね。
992名無しヒーリング2019/03/26(火) 12:48:51.15ID:TpEzfAaE>>993
>>989
そこは瞑想マスターの言っていたことへのわたしの意見ですから
瞑想マスターの説いてたこととずらして反論されても議論にはなりません
993名無しヒーリング2019/03/26(火) 12:56:38.44ID:DlWMMIk7
>>992
それを言い訳と言うんだよね
あなたの話は、瞑想マスター話の枠に収まりきってなかったからね
「釈迦の悟りはヨガを超えている」
「マインドフルネスはヨガに終わらないもの」
「ヨガで終わるならマインドフルネスではない」
これが間違いだと言ってる。
あなたが本当に注意深くあるなら、「瞑想マスターさんの話で終わるならマインドフルネスではない」と書くだろう
994名無しヒーリング2019/03/26(火) 13:02:44.67ID:DlWMMIk7
瞑想マスターの話は断片的だが、ID:TpEzfAaEさんの話も断片的だね
マインドフルネス=仏教の悟り
という定義もおかしい
サティは仏教の教えの断片だし、研究者が英語に訳したとき深い意味が失われた
995名無しヒーリング2019/03/26(火) 13:03:53.21ID:DlWMMIk7>>997
>>990の続きだけど、ニルヴァーナの意味も変化していった。
本来は生命欲に象徴されるような「煩悩」の焔が消えた境地
ラマナ・マハルシが語った真我にすごい似ている
マハルシは「生命の営みは心の働き」「その心を真我に統合し、心の欲がすべて消えて、輪廻が無くなる」という道を説いた
なので本質は仏教と一緒だと思うね
でも>>989の説明のように、真我を我執の対象にするヨガ信者が多かったんだよ
だから仏教側も、そういった囚われを批判し、「釈迦の方が優れてる」というストーリーを創作したんじゃないかなぁ・・
996名無しヒーリング2019/03/26(火) 13:05:43.08ID:TpEzfAaE>>998
>>990
それなら良いでしょう
「真我」がマハルシの言う「that」であるとするなら
あるいはあなたの言ってる
> 結果的に真我がただ現れる、というだった
それは涅槃ではないですよ
997名無しヒーリング2019/03/26(火) 13:08:43.21ID:TpEzfAaE>>999
>>995
それなら、瞑想マスターはマハルシを正しく理解していなかった
という事でいいのかな?
998名無しヒーリング2019/03/26(火) 13:15:36.79ID:DlWMMIk7
>>996
あなたは本当に断片に囚われるね
何に執着してるのか知らないけど
真我がただ現れるとは、「生命の営みが出来ない全体性」ということ
全体性においては、陰陽という命の活動原理がないから、煩悩も現れない
本来の涅槃の定義だ
大乗仏教では涅槃の定義が壮大になったけど、本当は「ただ煩悩が消えた境地」。
999名無しヒーリング2019/03/26(火) 13:17:10.28ID:DlWMMIk7
>>997
私は正直、瞑想マスターには興味がない
あなたが好きなように決めたらいい
私は単にヨーガの定義のズレを指摘したかった。それだけですよ
以上です
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