アントレアス・ホーファー

ページ名:アントレアス・ホーファー

『ツィロル独立戦争』の英傑・アントレアス・ホーファー

アントレアス・ホーファー(独語:Andreas Hofer、1767年11月22日 - 1810年2月20日)は、オーストリアの革命家で、フランスのナポレオンのオーストリア侵攻時に活躍し、今日にいたる『ツィロル独立戦争』の英雄と慕われている。

または、「アンドレアス・ホーファー」とも呼ばれる。

概要[]

1767年11月22日に南ツィロル(現在のイタリア北部のトレンツィーノ=アルト・アヅィジェ州の(南ツィロル自治州)ボルツァーノ自治県)地方・メラン(Meran)の近郊の東方にあるパッサイアー谷地方(Passeiertal)にあるザンクト・レオンハート(St. Leonhard)[1]に、宿屋の子として生まれる。

彼は若いころから勇猛果敢であり、1790年に神聖ローマ帝国のハプスブルク=ロートリンゲン朝ロートリンゲン家)が統治するオーストリアのツィロル州議会の議員に24歳の若さで当選された。

1796年に30歳で募兵に応じて、射撃部隊の伍長に任命された。1797年の31歳にパッサイアーの射撃部隊隊長として、ナポレオンのフランス軍と戦う。1805年に39歳で再びパッサイアーの射撃部隊隊長として、フランス軍と戦った。

しかし同年にオーストリアの『アウステルリッツの戦い』でナポレオンに破れた神聖ローマ皇帝のフランツ1世は、屈辱的に『プレスブルクの講和』(1805年)によって、オーストリア西部のツィロルとフォアアールベルクとイタリアのヴェネツィア(ヴェネツィヤ)をフランスに譲渡してしまい、自らはオーストリア皇帝と称したのである。

ナポレオンはフランツ1世から奪ったツィロルをと同盟したバイエルン王国の選帝侯かつ王であるマクシミリアン1世(ヴィッテルスバハ家)に与えたのである。これに不満を持ったホーファーは、前年に除隊して家業の宿屋に専念したが、密かにハプスブルク=ロートリンゲン朝の一族であるツィロル公・ヨーハンと反バイエルンの秘密協定を結び、義勇軍を結成した。

1809年にナポレオンの跋扈・専横に不満を持ったオーストリア貴族とフランスとの間に戦争が勃発した。スローガンである「ドイツ民族」のフランスの圧制者に対する戦いの檄が発せられ、「ドイツ民族」としてツィロルはこれに呼応して、ホーファーらは4月に挙兵した。

同年5月に『クーフシュタインの戦い』(Kufstein)でホーファーらはバイエルン王国とフランスの軍隊と激戦の末にこれをツィロルから撃退し、8月17日にホーファーはツィロル初の元首の地位に着き、インスブルックの王宮で2ヶ月ほども過した。

しかし、10月に勢いを取り戻したバイエルン王国のマクシミリアン1世とナポレオン軍の反撃に遭ってしまい敗北した。ホーファーらは10月21日にはインスブルックを撤退せざるを得なかった。

翌11月1日の『ベルク=イーゼル=シュラハトの戦い』(Berg-Isel-Schlacht)で再びホーファーらツィロル軍は大敗を喫し、降伏したツィロル公・ヨーハンの命でホーファーらは降伏文書に署名しなければならなかった。

しかし、その対応に不満を持ったホーファーはナポレオンとマクシミリアン1世らを裏切って逃亡したため、これを聞いて激怒したマクシミリアン1世とナポレオンはホーファーの首に1500グルデンの懸賞金を懸けた。

ホーファーは家族ととも郷里のパッサイアーで2ヶカ月ほども隠れるように暮らしたが、隣人である盟友のフランツ・ラッフール(Franz Raffl)の密告による裏切りのために(ラッフール自身は20年後にバイエルンで貧困のために死亡した)、まもなく逮捕された。

翌1810年にホーファーとその家族の身柄は北イタリアのマントヴァに送られ、ナポレオンらフランス軍の軍法会議により、ホーファーは家族とともに2月20日にマントヴァにて銃殺刑に処された。享年43だった(1823年にホーファーは遺体は『ナポレオン戦争』後、マントヴァからインスブルックの宮廷教会に移され、「聖人」として丁重に埋葬された)。

ホーファーの死後、ツィロルは3つに分割され、東部・北部はバイエルン王国領に、南部はイタリア領に、西部はフランス領となった。

ホーファーの活躍にまつわるイエスのハートの炎の休日(Herz Jesu Sonntag)[]

  • 1796年6月、フランスのナポレオン軍のツィロルへの1回目の侵略に対して、つねに危険にさらされたツィロル地方の人たちは、英傑のアントレアス・ホーファーとともに戦った。
  • 彼らは、『ベルク=イーゼル=シュラハトの戦い』の前夜に、『聖なるイエスのハート』の誓約をして、ホーファーの軍隊は驚くほど強靭でありバイエルン・フランス連合軍を撃破して、ツィロル地方の山で高々と火を燃やした。
  • 現在のオーストリア・ツィロル地方はホーファーらが十分な休日となった日を記念して、聖体節の後の日曜日を『聖なるイエスのハートの休日』と決めた。
  • 21世紀にいたるその伝統を維持するために、南ツィロル地方の19の山には『聖なるイエスのハートの炎』の篝火が燃えて、祀っているのである。
  • 2004年6月20日の日曜日に南ツィロル地方のカステルルース(Kastelrus)で「山の炎」の篝火が燃えていた。

脚注[]

  1. 現在のイタリア北部のサン・レオナルド・イン・パッシーリーヤ周辺


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