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陳寿(ちんじゅ、232年/233年 - 297年)は、古代中国の蜀漢(蜀)と晋(西晋)にかけての『三国志』の著者である史家・官僚。字は承祚、蜀漢の将・陳式の孫[1]で、子は陳階(字は達芝)、甥は陳苻(字は長信)・陳莅(字は叔度)兄弟[2][3]。
巴西郡安漢県[4]の人で、父の陳某は228年晩春から初夏にかけての『街亭の戦い』で、馬謖の参軍だったが、敗戦の逆鱗に触れた諸葛亮によって、連座による髠刑[5]を受けて、官職剥奪の上に、庶人に落とされて謹慎させられた[6]。
後に陳寿が生まれて、若くして譙周の門下生となった。同門には李驤(李福の子)と寿良がいて、仲が良かったという。しかし、陳寿は偏屈な性格を持っていたといわれ、後主・劉禅から信頼された宦官の黄皓の意向に逆らったため、閑職に追いやられたという。逆に友人の李驤が広漢郡太守に昇進するなど目覚ましかった。これを見た陳寿は李驤を妬み、相互に罵り合ったという[7]。
24歳のころに父が亡くなると喪中に服した際に病気に罹り、下女に丸薬を処方させた。後にこれが発覚すると、「父の喪中にわが身を労わる親不孝者!」として糾弾された。そのために黄皓の讒言で官職を免職されて、庶人に落とされた[8]。
263年、蜀漢が滅ぶと、師の譙周と同伴したが、李驤は理由をつけて同伴しなかった。間もなく友人の羅憲の推挙で、晋(西晋)の官吏となり、山東地方の長広郡太守を務めたことがあった。友人の李驤も郷里で隠棲したが、やはり羅憲の推挙を受け、仕官の予定だった。しかし、やや偏屈な陳寿は李驤の仕官を妨害したため、李驤は諦めて野に下って二度と姿を現さなかったという[9][10]。同時に寿良とも諍いを起こして、禍根を残したという。
陳寿は史官として、晋の世祖武帝・司馬炎の勅命を受けて、『三国志』の編集に取り掛かった。そのときに陳寿はある事に気付いたのである。母国の蜀の史料が非常に少ないことだった。逆に魏と呉の史料は多かった[11]。
頭を抱えた陳寿は悩んだ挙句に「よし!わたしの母国(蜀漢)の史料が少ないから、この際は魏呉の歴史を簡潔にしてしまおう」と思いついて、簡潔な史書として『三国志』を完結させたという[12]。
このことを、清の陳澧(ちんれい、字は蘭甫)が自著『東塾読書記』内の「論三国」にて「陳寿は蜀漢贔屓だ。だからこそ魏呉の伝記も簡潔にしたのだ」と手痛く述べている。あまりにも簡潔で史料が少ないので、宋漢(劉宋)の裴松之が、注釈を引く多大な史料を紹介している[13]。
他に陳寿は、諸葛亮を称える『諸葛亮集』と『古国志』[14]などを著している。その一方、陳寿は西晋の平陽侯に封じられている[15]。297年に太子中庶子に任命されるも、拝命できずに66歳で逝去し、息子が後を継いだ。
陳寿が若いころに、恩師の譙周は「君は必ず学問の才能によって名を挙げるだろう。それまで様々な苦難や挫折を味わうだろうが、それも人生の大事な要素だ。全く気にすることはないぞ」と述べた[16]。
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