リヒャルト・ヴァーグナー

ページ名:リヒャルト・ヴァーグナー

音楽界の風雲児・ヴァーグナー

ヴィルヘルム・リヒャルト・ヴァーグナー(独語:Wilhelm Richard Wagner、1813年5月22日 - 1883年2月13日)は、ドイツの代表的なロマン派の作曲家・楽劇(総合芸術)家で、観劇の改革者・楽劇の創始者であった。

目次

概要[]

彼は18世紀後半音楽家であり、イタリアのジウセッペ・ベルディ(Giuseppe Verdi)と比較される人物である。

彼は自ら執筆した台本で近代ドイツの文学史に登場する重鎮で、彼の作品は従来のオペラとは明確に区別された。

「ヴィルヘルム・リヒャルト・ヴァーグナー」は舞台ドイツ語表記であり、現在の標準ドイツ語では、「ヴィルヘルム・リヒャウト・ヴァーグナー」と発音されるのが正確である(後述)。

稀に「ワグネル」あるいは「バグネル」と表記されることもあるが、これは正確ではない(後述)。

生涯[]

東部ドイツのザクセン州ライプツィヒに裁判官を補佐する書記官カール・ヴァーグナー(Carl Wagner)の9人目の子として誕生した。

父はザクセン公のヴェッツィン家(ヴェッティン家)の官吏であったが、疫病のために亡くなった。職人の娘だった母は、亡きカールの親友だった演劇の脚本家のルートヴィヒ・ガイヤー(Ludwig Geier、アシュケナジム・ユダヤ人?)と再婚し、この継父は芝居を総指揮した舞台俳優のパトロンで、彼の生家は多くの俳優たちが出入りしていた。

実父を早く亡くした彼は複雑な心を持ちながらも、継父の影響を受けて、文学と音楽に親しみを持ち、14歳のときにベートヴェン(Ludwig van Beethoven)の交響曲を聴いて、音楽家になることを決意した。

ライプツィヒ大学で音楽理論(作曲・演奏)を学び、20歳すぎからドイツ各地の劇場指揮者となり、1832年に、尊敬するベートヴェンを模範とした唯一の交響曲を作曲し発表した。

1836年、24歳のヴァーグナーはドイツの女優のミンナ・プラーナー(Minna Planer)と結婚するも、数年後に愛妻のミンナが急逝した。以降からのミンナの面影を追悼しながらヴァーグナーは、革新的で優秀であるのと同時に放漫かつ驕慢、自己中心で偽善的な性格が災いし、浪費による借金・派手な女性関係に生涯を通じて苦しんだ。

同時に彼は当時のドイツ・オペラに疑問を持ち、「オペラは舞台で綺麗な声で歌手が旋律に合わせて、歌えばよいのだろうか?音楽は奥深くその中にある劇的なものを表現することが必要だ。また、音楽と文学を融合して、新たな音楽を創り出し、芸術性を高めよう!」と叫んだようである。

そのため、1839年にフランスのパリに留学した。パリ滞在中にオペラの『リエンチ』(1840年)『さまよえるオランダ人』(Flying Dutchman、1841年)や、小説の『ベートヴェン参り』(1840年)などを発表した。

1842年にドイツに帰国し、ザクセン公の依頼もあり、ドレスデンの宮廷劇場(現・ドレスデン国立劇場)の指揮者となる。ここで、『タンホイザー』(1844年)『ローエングリン』(1847年)などを発表した。

しかし、運悪く『ドイツ革命』(三月革命)の余波として1849年に『ドレスデン蜂起』が起こったが、ヴァーグナー自身も参加したため、激怒したザクセン公は彼に逮捕状を発した。弾圧をおそれたヴァーグナーはさっさとスイスのチューリヒに逃れた。

ここで、同年にヴァーグナーは芸術論『芸術と革命』『未来の芸術作品』などを発表し、従来の旧然としたオペラを猛然と批判し、音楽・文学・絵画などの様々な芸術を融合した“総合芸術”としての音楽劇の想像を提案した。

1858年に“総合芸術”としての新分野である楽劇の『トリスタンとイゾルデ』をスイスで発表した。

1862年、ザクセン公の恩赦のために、1864年にドレスデンに戻ったが、以前のように優遇されず冷遇された。そのため、ヴァーグナーはヨーロッパ各地を旅行し、傷心を癒した。

1866年、バイエルン王のヴィッテルスバハ家のルートヴィヒ2世がヴァーグナーに心酔し傾倒したので、丁重に招聘を受けた。これを聞いたヴァーグナーは狂喜し、バイエルンのミュンヒェンに移り、ルートヴィヒ2世の援助を受けながら、音楽活動をした。

1867年、『ニュルンベルクの名歌手』(ニュルンベルクのマイスタージンガー)を完成し、翌1868年に自らも演出した。

1870年、著名な音楽家のフランツ・リスト(Flanz Listh)の娘・コジマ(Cosima Francesca Gaetana 、1837年 - 1930年)と正式に結婚(再婚)した。ふたりの間には長女・イゾルデ、次女・エーファー、長男ジークフリート・ハインリヒ・リヒャルト(Siegfried Herferich Richard Wagner、1869年6月6日 - 1930年8月4日)らを儲けた(ただし、コジマはヴァーグナーの同郷で後輩でもあったハンス・フォン・ビューロー(Hans Guido Freiherr von Bülow)の前妻だったが、離婚したためビューローとの間に儲けたふたりの子を残してヴァーグナーと再婚したため、ヴァーグナーとビューローの仲は決裂した)。

同時にヴァーグナーは哲学者のニーチェ(ポーランド系ドイツ人)が、ヴァーグナーに傾倒していたので、これと交際した(後に仲違いし、ニーチェは「彼は欺瞞者で自己の塊だ!」と叫んで訣別した)。

1872年に東フランケン地方のバイロイトに家族と移住し、バイロイト祝祭劇場を創設し、1876年に『ニーベルンゲンの指環』を公演し、人気を博した。

その他に『ヴェーゼンドンクの5つの詩』(ヴェーゼンドンク歌曲集)『ジークフリートの牧歌』なども発表している。

1882年、最後の作品である『パルチファル』(Parzival)を公演したが、以降は経済困難に陥り、過酷な労務のために苦しんだ。

さらに彼を後援したバイエルン王のルートヴィヒ2世が、1886年6月13日バイエルン・シュヴァーベン地方のシュタルンベルク湖の湖畔にある寒村のベルク(Berg)で、ミュンヒェン大学の教授の精神専門教授で、ルートヴィヒ2世の典医フォン・グッデン博士とともに奇っ怪な変死を遂げ、ともに溺死体として発見された(なぜか、アレの壮絶なパターンと酷似している…)。42歳だった。後援者のルートヴィヒ2世を喪ったヴァーグナーは、衝撃を受けたが、バイエルンの貴族たちに弾劾され、間もなく家族とともに、バイエルンを立ち去った。

その後は、ヨーロッパ各地を転々して、様々な女性の援助を求めて、不遇な晩年を過ごした。1893年にイタリアのヴェネツィア(ヴェネッツィヤ)で、『人間における女性的なるものについて』を執筆中に持病の心臓発作が再発し、家族に看取られながら、71歳で客死した。

彼の遺志は妻のコジマと息子のジークフリートに引き継がれ、特に“バイロイト音楽祭”には尽力し、現在でも世界中の人気の行事である。

評価[]

  • 彼の作品は中世ゲルマン伝説・神話に基づいた壮大な作品が多い
  • 「楽劇」という音楽・文学・演劇・美術を融合した新分野を創始した
  • 楽劇の諸様式、半音階和音などは、後世の音楽家に壮大な影響を与えた
  • しかし、前述のように放漫かつ驕慢な性格を持ったため、かつては親交があった後輩のビューローやニーチェなどから嫌われて、訣別された
  • はるか後の文豪者のトーマス・マンも「彼は自己中心で偽善の塊で生粋のゲルマン主義者で、まるで独裁者のような男でまったく親しみを感じない」と酷評している
  • じつはヴァーグナー自身が筋金入りの「反ユダヤ主義」で、ゲルマン国粋の「ナチ」を盛んに擁護したことが、リベラルなマンらから嫌悪されたのである

様々な表記[]

  • 標準ドイツ語(中部フランケン語など):「ヴィルヘルム・リヒャート・ヴァーグナー」(舞台ドイツ語は「ヴィルヘルム・リヒャルト・ヴァーグナー」)
  • 南ドイツ語(上部フランケン語など):「ヴィルヘルム・リキャートゥ・ヴァークナー」
  • アレマン語(スイス、リヒテンシュタインなど):「ヴィルヘルム・リキャーツ・ヴァークナー」
  • バイエルン語(オーストリアなど):「ヴィルヘルム・リキョゥトゥ・ヴォークナー」(Wilhelm Richård Wågner)
  • 低地ドイツ語:「ヴィルヘルム・リハート・ヴァーグナー」
  • オランダ語:「ウィレム・リファート・ウァーフナー」(Willem Richard Wagner)
  • 英語:「ウェィリュム・レィチャード・ワーグナー」または「ウェィリュム・レィチャード・ワグナー」(William Richard Wagner)
  • フランス語:「ギョーム・リシャーウ・ワグネー」(Guillaume Richard Wagnér)
  • 日本語:「ウィルヘルム・リヒャルト・ワーグナー」または「ウィルヘルム・リヒャルト・ワグナー」あるいは「ウィルヘルム・リヒャルト・ワグネル(バグネル)」

関連項目[]



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